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		<title>日常が静かに壊れていく現代日本ホラー5選｜伊藤潤二作品から学ぶ恐怖の構造</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Nick Sasaki]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 09 Sep 2026 01:55:29 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[はじめに怖いものは、必ずしも暗い山奥や廃墟に現れるわけではありません。&#160;宅配便が届く。&#160;スマートフォンに通知が来る。&#160;昔の家族写真を見る。&#160;眠る。&#160;朝、スマートフォンを開く。&#160;どれも、私たちが毎日のように繰り返していることです。&#160;しかし、その中に一つだけ説明できないことが混ざったらどうなるでしょうか。&#160;空室へ届き続ける荷物。&#160;自分との距離を縮めてくる誰か。&#160;自分だけが覚えていない家族。&#160;一晩の眠りの中で何十年も過ぎてしまう時間。&#160;眠っている自分を、誰かが毎晩撮影している写真。&#160;最初は小さな異常です。&#160;偶然。&#160;故障。&#160;記憶違い。&#160;いたずら。&#160;そう考えることができます。&#160;けれど異常は少しずつ広がっていきます。&#160;そして最後には、「何が起きているのか」よりも、もっと怖い問いが残ります。&#160;自分が信じている現実は、本当に現実なのか。&#160;この5つの物語は、現代日本のごく普通の生活から始まります。&#160;恐怖が遠くからやって来るのではありません。&#160;いつの間にか、&#160;部屋の中にいる。&#160;スマートフォンの中にいる。&#160;記憶の中にいる。&#160;眠りの中にいる。&#160;そして最後には、&#160;自分自身の中にいる。&#160;そんな静かな恐怖を描いた5つの物語です。&#160;(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。） Insert Video Table of Contents はじめにStory 1: 空室304号の宅配便Story 2: 0メートルStory 3: 知らない子供Story 4: 睡眠銀行Story 5: 午前3時33分の写真最後に Story 1: 空室304号の宅配便佐伯正志が管理人をしているマンションには、全部で四十八の部屋があった。&#160;東京の西側、駅から歩いて十二分。&#160;築二十六年。&#160;新しくもないが、古いとも言い切れない。&#160;夕方になれば、学校帰りの子供たちがエントランスを走り抜け、会社員たちがコンビニ袋を提げて帰ってくる。&#160;佐伯は毎朝六時半に管理人室へ入り、ゴミ置き場を確認し、廊下の電球を見て回り、宅配業者にオートロックを開ける。&#160;それが彼の一日だった。&#160;妻の美智子が亡くなってから三年。&#160;息子は仙台。&#160;娘は結婚して名古屋。&#160;一人になった佐伯には、このマンションの生活音がちょうどよかった。&#160;上の階から掃除機の音がする。&#160;どこかの部屋で赤ん坊が泣く。&#160;夕方にはカレーの匂いが漂う。&#160;誰かと暮らしているわけではない。&#160;それでも完全に一人ではない。&#160;佐伯は、この程度の距離で人間が近くにいるのが好きだった。&#160;ただ、三〇四号室だけは半年間空いたままだった。&#160;以前住んでいた老夫婦が娘夫婦の家へ移り、それ以来入居者が決まらない。&#160;部屋は掃除され、カーテンも家具もない。&#160;白い壁と床だけ。&#160;佐伯は月に一度、水道の確認のため中へ入った。&#160;それ以外は、誰も三〇四号室のドアを開けなかった。&#160;六月の雨の日だった。&#160;午後二時過ぎ、宅配業者の若い男が管理人室へ顔を出した。&#160;「三〇四号室なんですけど」&#160;佐伯は書類から顔を上げた。&#160;「そこ、空室ですよ」&#160;「でも荷物が来てまして」&#160;小さな段ボールだった。&#160;送り状には確かに、&#160;三〇四号室　入居者様&#160;と書かれていた。&#160;送り主は、聞いたことのない会社だった。&#160;「前の住人じゃないですかね」&#160;配達員が言った。&#160;佐伯は首を振った。&#160;「前の方の名字とも違うな」&#160;結局、荷物は管理人室で預かることになった。&#160;一週間たっても連絡はなかった。&#160;送り主の電話番号へかけると、&#160;「現在使われておりません」&#160;という音声が流れた。&#160;佐伯は少し気味が悪いと思ったが、それだけだった。&#160;住所の入力間違いなど珍しくない。&#160;ところが三日後、二つ目の荷物が届いた。&#160;同じ宛先。&#160;三〇四号室　入居者様。&#160;送り主は前回とは違っていた。&#160;その会社名も佐伯は知らなかった。&#160;さらに二日後。&#160;三つ目。&#160;その翌週には四つ目。&#160;段ボールは管理人室の奥に積まれていった。&#160;大小さまざま。&#160;どれもそれほど重くはない。&#160;佐伯は管理会社へ電話した。&#160;担当者は笑った。&#160;「通販会社のデータがおかしくなってるんじゃないですか」&#160;佐伯も笑った。&#160;「そんなもんですかね」&#160;「しばらく置いといてください。受取人が現れなければ処分の手続きをします」&#160;それで話は終わった。&#160;五つ目の荷物が届いた翌朝、佐伯は段ボールの下が濡れていることに気づいた。&#160;前夜の雨で管理人室の窓から水が入ったらしい。&#160;箱の底が柔らかくなり、持ち上げた瞬間、&#160;底が抜けた。&#160;何かが床へ落ちた。&#160;金属音。&#160;古い腕時計だった。&#160;茶色い革のベルト。&#160;小さな丸い文字盤。&#160;佐伯は時計を拾った。&#160;指が止まった。&#160;裏返した。&#160;裏蓋には、&#160;M.S.&#160;と彫られていた。&#160;佐伯は椅子に座った。&#160;それは、小学五年生の夏に父親から買ってもらった時計だった。&#160;多摩川へ友達と遊びに行き、川の中で失くした。&#160;父親にひどく叱られた。&#160;母親が、&#160;「物はなくなっても、正志が無事ならいいじゃない」&#160;と言ってくれた。&#160;五十年近く前のことだ。&#160;佐伯は時計を机に置いた。&#160;似ているだけだ。&#160;そう思った。&#160;こんな時計はいくらでもある。&#160;イニシャルだって珍しくない。&#160;ところが、その夜、自宅へ戻ってから佐伯は眠れなかった。&#160;翌朝、管理人室へ入ると、最初に時計を見た。&#160;まだそこにあった。&#160;昼休み。&#160;佐伯は箱の送り主を調べた。&#160;住所は埼玉県になっていた。&#160;地図で検索すると、&#160;空き地だった。&#160;午後四時、佐伯は残りの箱を見た。&#160;開けてはいけない。&#160;人の荷物だ。&#160;そう思った。&#160;それでも一つだけ、端が破れている箱があった。&#160;指を入れれば開く。&#160;佐伯は十分ほど椅子に座っていた。&#160;やがて立ち上がった。&#160;箱を開けた。&#160;中には小さな指輪が入っていた。&#160;佐伯は息を止めた。&#160;結婚して二年目。&#160;夫婦喧嘩をした夜、美智子が指輪を外し、台所の流し台へ置いた。&#160;翌朝なくなっていた。&#160;排水口へ落ちたと思い、二人で配管まで外して探した。&#160;結局見つからなかった。&#160;美智子は、&#160;「もういいよ。新しいの買って」&#160;と笑った。&#160;佐伯はその指輪を手のひらに置いた。&#160;内側に小さな傷がある。&#160;覚えていた。&#160;間違いなかった。&#160;佐伯は残りの箱を全部開けた。&#160;高校時代に失くした万年筆。&#160;二十代のころ盗まれた財布。&#160;娘が幼稚園のころ、旅行先でなくした小さな髪留め。&#160;美智子が亡くなる一週間前まで使っていた銀色のヘアピン。&#160;そのヘアピンを見た瞬間、佐伯は泣いた。&#160;管理人室の小さな椅子に座り、&#160;声を出さずに泣いた。&#160;三年間、一度も夢に出てこなかった妻が、&#160;そこに触れていた。&#160;佐伯はヘアピンを指でなぞった。&#160;妻の髪が一本でも残っていないかと思った。&#160;それから佐伯は、宅配便を待つようになった。&#160;午前便が来る時間。&#160;午後便が来る時間。&#160;車の音がすると窓を見る。&#160;荷物が来ない日は、少し落ち込んだ。&#160;来る日は嬉しかった。&#160;怖いと思わなくなっていた。&#160;次に届いた箱には、&#160;美智子が若いころ使っていた香水が入っていた。&#160;蓋を開けると、懐かしい匂いがした。&#160;その次は、二人で北海道へ旅行したときの写真。&#160;失くした記憶すらなかった写真だった。&#160;若い美智子が湖の前で笑っている。&#160;裏には、&#160;「正志へ。今日は本当に楽しかった」&#160;と書いてあった。&#160;佐伯は何度も読んだ。&#160;その夜、写真を枕元に置いて眠った。&#160;翌朝。&#160;新しい箱が届いた。&#160;佐伯は笑いながら受け取った。&#160;だが中を見た瞬間、表情が消えた。&#160;黒い折り畳み傘。&#160;自分の傘だった。&#160;昨日まで管理人室の傘立てに置いてあった。&#160;佐伯は傘立てを見た。&#160;ない。&#160;いつ失くした？&#160;思い出せなかった。&#160;次の日。&#160;青いボールペン。&#160;朝まで使っていたものだった。&#160;机の上から消えている。&#160;その翌日。&#160;自宅の鍵。&#160;佐伯は自分のポケットに手を入れた。&#160;鍵はなかった。&#160;箱の中にある。&#160;佐伯は初めて、荷物が過去からではなく、&#160;現在へ近づいてきていることに気づいた。&#160;三日間、荷物は来なかった。&#160;佐伯は少し安心した。&#160;同時に、&#160;少し寂しかった。&#160;四日目。&#160;大きな箱が届いた。&#160;これまでで一番大きい。&#160;人間が一人入れそうなサイズだった。&#160;配達員が二人がかりで運んできた。&#160;「重くないですね」&#160;若い配達員が言った。&#160;「空っぽみたいです」&#160;佐伯は送り状を見た。&#160;宛先。&#160;三〇四号室　入居者様。&#160;品名。&#160;佐伯正志。&#160;佐伯の喉が動いた。&#160;その下に、&#160;配達指定時刻。&#160;本日二十三時五十八分。&#160;今は午後二時だった。&#160;佐伯は管理会社へ電話しようとした。&#160;受話器を持った。&#160;置いた。&#160;警察。&#160;そう思った。&#160;だが何と説明する？&#160;昔失くした物が荷物で届いた。&#160;今度は自分の名前が書かれた箱が届いた。&#160;笑われるだろう。&#160;佐伯は箱を三〇四号室へ運んだ。&#160;一人では運べなかったので、台車を使った。&#160;部屋の中央へ置いた。&#160;何もない白い部屋。&#160;その真ん中に大きな段ボール。&#160;佐伯はしばらく立っていた。&#160;箱を開けなかった。&#160;夕方六時。&#160;管理人業務を終えた。&#160;自宅へ戻った。&#160;テレビをつけた。&#160;ニュース。&#160;野球。&#160;天気予報。&#160;何を見ても頭に入らない。&#160;十時四十分。&#160;佐伯は布団に入った。&#160;十一時十五分。&#160;起きた。&#160;十一時四十分。&#160;玄関を出た。&#160;気がつくとマンションへ向かって歩いていた。&#160;雨が降っていた。&#160;十一時五十三分。&#160;佐伯はエントランスへ入った。&#160;誰もいない。&#160;エレベーターを使わず、階段で三階へ上がった。&#160;十一時五十七分。&#160;三〇四号室の前。&#160;ドアの向こうから、&#160;音がした。&#160;ガムテープを剥がす音。&#160;びりっ。&#160;びりっ。&#160;佐伯は動けなかった。&#160;部屋には誰もいないはずだった。&#160;もう一度。&#160;びりっ。&#160;そして、&#160;段ボールの蓋が開く音。&#160;佐伯は鍵を差し込もうとした。&#160;そのとき部屋の中から、&#160;女性の声がした。&#160;小さな声だった。&#160;「正志」&#160;佐伯の手が止まった。&#160;美智子。&#160;三年間、一度も聞けなかった声。&#160;間違えるはずがない。&#160;「正志」&#160;佐伯は泣きそうになった。&#160;ドアノブを握った。&#160;「美智子？」&#160;返事はなかった。&#160;時計を見る。&#160;二十三時五十八分。&#160;佐伯はドアを開けた。&#160;翌朝六時半。&#160;一階の住人が管理人室のシャッターが閉まったままなのを不思議に思った。&#160;七時になっても佐伯は来なかった。&#160;管理会社へ連絡が入り、担当者が到着した。&#160;管理人室に異常はなかった。&#160;財布も携帯電話も置かれていた。&#160;机には古い腕時計と結婚指輪。&#160;銀色のヘアピン。&#160;そして若い女性が湖の前で笑っている写真。&#160;警察がマンション内を調べた。&#160;三〇四号室のドアが、&#160;十センチほど開いていた。&#160;室内には大きな段ボールが一つ。&#160;蓋は開いていた。&#160;中は空だった。&#160;箱の横には、&#160;佐伯がいつも腰につけていた管理人室の鍵束が置かれていた。&#160;警察は箱を調べた。&#160;指紋は佐伯のものしか出なかった。&#160;血痕もない。&#160;争った跡もない。&#160;防犯カメラには、&#160;昨夜十一時四十三分、&#160;佐伯が一人でマンションへ入る姿が映っていた。&#160;出ていく姿は、&#160;どこにも映っていなかった。&#160;三〇四号室は、その後も空室のままになった。&#160;一か月後。&#160;新しい管理人が採用された。&#160;四十二歳の男性だった。&#160;初日の午後。&#160;宅配業者が管理人室へやって来た。&#160;「すみません」&#160;小さな箱を抱えていた。&#160;「三〇四号室なんですけど」&#160;新しい管理人は笑った。&#160;「そこ、空室ですよ」&#160;配達員は送り状を見直した。&#160;「おかしいな」&#160;箱には、&#160;三〇四号室　入居者様。&#160;そう書かれていた。&#160;新しい管理人は仕方なく荷物を預かった。&#160;夕方。&#160;箱の角が少し破れていることに気づいた。&#160;穴から、&#160;何か金属のようなものが見えた。&#160;指で少し広げた。&#160;中にあったのは、&#160;古びた鍵束だった。&#160;小さなプレートが付いていた。&#160;そこには、&#160;管理人室&#160;と刻まれていた。Story 2: 0メートル高橋蓮がそのアプリを入れたのは、金曜日の夜だった。&#160;大阪市内の大学に通う二十歳。&#160;一人暮らし。&#160;友人はいる。&#160;講義が終われば一緒に飯を食う相手もいる。&#160;LINEのグループもいくつかある。&#160;けれど、本当に自分のことを知っている人間がいるかと聞かれると、蓮には分からなかった。&#160;その夜も大学の友人三人と居酒屋にいた。&#160;「これ入れてみ」&#160;向かいに座っていた拓海がスマートフォンを見せた。&#160;近くにいる人と簡単につながれるアプリだった。&#160;プロフィールを作り、位置情報を許可すると、&#160;「あなたから○km」&#160;という距離が表示される。&#160;「結構会えるで」&#160;拓海が笑った。&#160;蓮は、&#160;「めんどくさそう」&#160;と言った。&#160;けれど帰宅してから、アプリを入れた。&#160;ワンルーム。&#160;小さな冷蔵庫。&#160;大学の教科書。&#160;脱ぎっぱなしのパーカー。&#160;電子レンジの時計は、&#160;23:48。&#160;簡単なプロフィールを作った。&#160;写真は大学祭で撮ったもの。&#160;自己紹介には、&#160;「映画とラーメン好き」&#160;とだけ書いた。&#160;数人のプロフィールを見る。&#160;1.2km。&#160;3.7km。&#160;5.4km。&#160;普通だった。&#160;十五分ほどして通知が来た。&#160;女性のアカウント。&#160;プロフィール写真はない。&#160;名前は、&#160;M。&#160;距離、&#160;7.8km。&#160;メッセージは一言。&#160;見つけた。&#160;蓮は少し笑った。&#160;変な人だと思った。&#160;返事をせず、そのまま寝た。&#160;翌朝。&#160;Mはいなくなっていた。&#160;アカウントを消したのだろうと思った。&#160;土曜日。&#160;蓮は昼から梅田のカフェでアルバイト。&#160;午後九時半に終わった。&#160;帰宅。&#160;シャワー。&#160;夜食。&#160;0時ちょうど。&#160;スマートフォンが震えた。&#160;新しいアカウント。&#160;M_2。&#160;距離、&#160;4.3km。&#160;メッセージ。&#160;昨日より近くなった。&#160;蓮の指が止まった。&#160;同じ人だ。&#160;「誰？」&#160;と返信した。&#160;すぐ既読。&#160;蓮くんを探してる。&#160;下の名前はプロフィールにある。&#160;そこまでは不思議ではない。&#160;「知り合い？」&#160;返事なし。&#160;蓮はブロックした。&#160;日曜日。&#160;何も起きなかった。&#160;月曜日。&#160;講義。&#160;学食。&#160;友人とラーメンを食べた。&#160;いつもならスープまで飲むのに、その日は少し気分が悪くて半分残した。&#160;午後。&#160;スマートフォンが震えた。&#160;M_3。&#160;距離、&#160;2.1km。&#160;メッセージ。&#160;今日は残したね。&#160;蓮は画面を見た。&#160;何のことか分からなかった。&#160;数秒後、&#160;もう一つ。&#160;ラーメン。&#160;蓮は学食を見回した。&#160;学生。&#160;教授。&#160;店員。&#160;誰もこちらを見ていない。&#160;「どこにいる？」&#160;送信。&#160;既読。&#160;返事。&#160;近く。&#160;蓮は立ち上がった。&#160;食堂を一周した。&#160;知っている顔ばかり。&#160;Mらしき人物はいない。&#160;その夜、&#160;距離、&#160;800m。&#160;メッセージ。&#160;今日は帰るの遅かったね。&#160;蓮は窓から外を見た。&#160;住宅街。&#160;自転車。&#160;コンビニ。&#160;誰もいない。&#160;翌日。&#160;214m。&#160;講義中。&#160;通知。&#160;眠そう。&#160;蓮はスマートフォンを伏せた。&#160;すぐ震えた。&#160;伏せても分かるよ。&#160;蓮は息を止めた。&#160;後ろを振り返った。&#160;五十人ほどの学生。&#160;誰もスマートフォンを見ていない。&#160;Mをブロック。&#160;次の日。&#160;別のアカウント。&#160;M_5。&#160;距離、&#160;183m。&#160;ブロックしても意味ないよ。&#160;蓮は拓海に相談した。&#160;「乗っ取りちゃう？」&#160;拓海は最初、笑っていた。&#160;「位置情報切ればええやん」&#160;蓮は設定を開いた。&#160;位置情報をオフ。&#160;Bluetoothもオフ。&#160;Wi-Fiも切った。&#160;アプリを閉じた。&#160;再び開く。&#160;M_5。&#160;183m。&#160;変わらない。&#160;拓海が言った。&#160;「スマホ初期化したほうがええんちゃう」&#160;その夜。&#160;蓮はアプリを削除した。&#160;通知は来なかった。&#160;安心した。&#160;翌朝。&#160;ホーム画面を見る。&#160;アプリが戻っていた。&#160;自分で入れ直した記憶はない。&#160;蓮はスマートフォンの電源を切った。&#160;大学へ行った。&#160;昼。&#160;図書館。&#160;レポート用の本を読んでいた。&#160;スマートフォンは電源を切ったまま鞄の中。&#160;蓮は少し安心していた。&#160;そのとき、&#160;鞄の中から振動音。&#160;蓮は動けなかった。&#160;スマートフォンを取り出す。&#160;画面が点いている。&#160;M_6。&#160;距離、&#160;91m。&#160;メッセージ。&#160;その本、面白くないでしょ。&#160;蓮は本を閉じた。&#160;震えた。&#160;閉じなくていいよ。&#160;蓮は立ち上がった。&#160;本棚の間を歩く。&#160;誰もいない。&#160;閲覧席。&#160;数人。&#160;階段。&#160;誰もこちらを見ていない。&#160;蓮は図書館を出た。&#160;通知。&#160;急がなくていいよ。&#160;走った。&#160;大学を出る。&#160;通知。&#160;赤信号。&#160;蓮は止まった。&#160;本当に赤信号だった。&#160;周囲を見る。&#160;会社員。&#160;高校生。&#160;自転車。&#160;バス停。&#160;どこにもMはいない。&#160;青信号。&#160;蓮は渡る。&#160;通知。&#160;右に曲がるんだね。&#160;蓮は右へ曲がるのをやめた。&#160;左へ行った。&#160;すぐ通知。&#160;そっちでもいいよ。&#160;蓮の喉が乾いた。&#160;その夜。&#160;37m。&#160;メッセージ。&#160;カーテン閉めたね。&#160;蓮は窓から離れた。&#160;次。&#160;玄関の鍵、二回確認した。&#160;蓮はスマートフォンを落としそうになった。&#160;誰かが部屋の中を見ている。&#160;しかしカメラはない。&#160;窓の外にも誰もいない。&#160;次の日。&#160;12m。&#160;蓮は大学へ行かなかった。&#160;ずっと部屋にいた。&#160;玄関。&#160;窓。&#160;浴室。&#160;ベッドの下。&#160;クローゼット。&#160;何度も確認した。&#160;0時。&#160;M_10。&#160;距離、&#160;8m。&#160;今日はずっといたね。&#160;蓮は返信した。&#160;「何がしたい」&#160;既読。&#160;会いたい。&#160;「俺は会いたくない」&#160;しばらく返事なし。&#160;やがて、&#160;でも少し嬉しかったでしょ。&#160;蓮は画面を閉じた。&#160;その言葉が一番嫌だった。&#160;完全には否定できなかったからだ。&#160;蓮は子供のころから、&#160;手のかからない子&#160;と言われていた。&#160;兄は何でもできた。&#160;妹は愛想がよかった。&#160;蓮は静かだった。&#160;進路も自分で決めた。&#160;一人暮らしも困らない。&#160;親から電話が来なくても、&#160;友人から誘われなくても、&#160;平気なふりをしていた。&#160;Mだけは毎日、&#160;自分を探している。&#160;自分が何を食べたか知っている。&#160;どこにいるか知っている。&#160;何を見ているか知っている。&#160;気味が悪い。&#160;逃げたい。&#160;それでも、&#160;通知が来ない時間は、&#160;少しだけ落ち着かなかった。&#160;翌日。&#160;4m。&#160;メッセージ。&#160;今日は髪切ったね。&#160;蓮は鏡を見る。&#160;その日の午後、本当に髪を切った。&#160;誰にも話していない。&#160;次。&#160;似合ってる。&#160;蓮は返信した。&#160;「どこにいる」&#160;近いよ。&#160;「見えるの？」&#160;返事。&#160;ずっと。&#160;蓮は窓を閉めた。&#160;カーテン。&#160;鍵。&#160;玄関。&#160;チェーン。&#160;その夜は部屋中の照明をつけた。&#160;23:58。&#160;距離、&#160;1m。&#160;蓮は部屋の中央に立っていた。&#160;一メートル。&#160;それなら部屋の中だ。&#160;ベッド。&#160;机。&#160;キッチン。&#160;浴室。&#160;玄関。&#160;誰もいない。&#160;23:59。&#160;スマートフォンが震えた。&#160;後ろを振り向かなくていいよ。&#160;蓮の身体が固まった。&#160;背中。&#160;何も感じない。&#160;でも振り向けない。&#160;一分が異様に長い。&#160;0時。&#160;通知。&#160;M。&#160;距離、&#160;0m&#160;蓮は息を止めた。&#160;何も起きない。&#160;音もない。&#160;誰もいない。&#160;蓮はゆっくり振り向いた。&#160;空の部屋。&#160;思わず笑った。&#160;「なんやねん」&#160;声が震えた。&#160;「バグやん」&#160;その瞬間。&#160;通知。&#160;見つけた。&#160;蓮はスマートフォンを投げた。&#160;部屋を飛び出した。&#160;朝までコンビニにいた。&#160;翌朝。&#160;Mはいなかった。&#160;アカウントも消えていた。&#160;距離表示もない。&#160;三日間、&#160;何も起きなかった。&#160;蓮は大学へ戻った。&#160;拓海と学食。&#160;「もう大丈夫そうやん」&#160;「たぶん」&#160;蓮は笑った。&#160;夜も眠れた。&#160;翌朝。&#160;スマートフォン。&#160;アプリから通知。&#160;蓮は固まった。&#160;Mではない。&#160;知らないアカウントでもない。&#160;自分自身のプロフィールだった。&#160;高橋蓮。&#160;年齢。&#160;大学。&#160;自己紹介。&#160;その下。&#160;距離。&#160;あなたから −1m&#160;蓮は何度も見た。&#160;意味が分からない。&#160;翌日。&#160;−2m。&#160;次の日。&#160;−4m。&#160;さらに、&#160;−7m。&#160;−11m。&#160;蓮はサポートへ問い合わせた。&#160;返事。&#160;《当サービスにマイナス距離表示の機能はありません》&#160;拓海に画面を見せた。&#160;「これ見える？」&#160;拓海は首をかしげた。&#160;「3.2kmって出てるで」&#160;「違う」&#160;「何が？」&#160;蓮には、&#160;−18m。&#160;拓海には、&#160;3.2km。&#160;同じ画面なのに数字が違う。&#160;そのころから、&#160;蓮の身体に小さな変化が起きた。&#160;右目の下にほくろ。&#160;次の日。&#160;頬にもう一つ。&#160;その次は顎。&#160;皮膚科。&#160;「普通のほくろですね」&#160;医師はそう言った。&#160;夜。&#160;アプリを見る。&#160;自分のプロフィール名が、&#160;高橋蓮&#160;から、&#160;M&#160;へ変わっていた。&#160;蓮はすぐ編集した。&#160;翌朝。&#160;またM。&#160;プロフィール欄。&#160;自己紹介。&#160;空白。&#160;そして一行だけ。&#160;探しています。&#160;蓮は削除した。&#160;次の日。&#160;戻っている。&#160;距離、&#160;−43m。&#160;髪が少し長くなった気がした。&#160;切ったばかりなのに。&#160;翌朝はさらに長い。&#160;顔の輪郭も細くなった。&#160;友人たちは何も言わない。&#160;母親と電話しても、&#160;「ちゃんと食べてる？」&#160;だけ。&#160;誰も変化に気づかない。&#160;−72m。&#160;−110m。&#160;蓮にはもう、&#160;この数字が距離なのか分からなかった。&#160;ある夜。&#160;洗面所で顔を洗う。&#160;鏡を見る。&#160;蓮は動けなくなった。&#160;自分が瞬きをした。&#160;鏡の中の自分は、&#160;瞬きをしなかった。&#160;蓮は後ろへ下がる。&#160;鏡の自分が笑った。&#160;現実の蓮は笑っていない。&#160;スマートフォンが鳴る。&#160;距離、&#160;−214m。&#160;メッセージ。&#160;久しぶりにMからだった。&#160;やっと中まで来られた。&#160;蓮は鏡を見る。&#160;鏡の中の自分の顔が、&#160;少しずつ変わっている。&#160;目。&#160;頬。&#160;口元。&#160;知らない女性の顔。&#160;長い黒髪。&#160;右目の下のほくろ。&#160;女性は鏡の向こうから蓮を見ている。&#160;口が動く。&#160;音はしない。&#160;しかし意味だけが分かった。&#160;次はあなたが探す番。&#160;翌朝。&#160;拓海のスマートフォンに通知が来た。&#160;蓮からだった。&#160;《これ入れてみ。結構おもろいで》&#160;近くの人とつながれるアプリ。&#160;拓海は何も疑わなかった。&#160;インストール。&#160;夜0時。&#160;通知。&#160;プロフィール写真なし。&#160;名前、&#160;M。&#160;距離、&#160;8.2km。&#160;メッセージは一言。&#160;見つけた。Story 3: 知らない子供美紀が昔の写真を整理し始めたのは、日曜日の午後だった。&#160;横浜の住宅街。&#160;四十四歳。&#160;夫の直人、高校二年生の娘の菜月、中学二年生の息子の悠斗。&#160;四人家族。&#160;特別なことのない、普通の休日だった。&#160;直人はリビングで野球中継を見ていた。&#160;菜月は二階。&#160;悠斗は友達の家。&#160;美紀はダイニングテーブルにノートパソコンを置き、クラウドに溜まった写真を整理していた。&#160;スマートフォンが自動的に保存し続けた写真は、いつの間にか三万枚を超えていた。&#160;旅行。&#160;誕生日。&#160;運動会。&#160;夕食。&#160;犬。&#160;桜。&#160;どうでもいいスクリーンショット。&#160;見ているうちに、美紀は時間を忘れた。&#160;ある写真で手が止まった。&#160;2009年8月。&#160;箱根。&#160;まだ菜月が幼稚園に入る前だった。&#160;若い直人。&#160;若い美紀。&#160;小さな菜月。&#160;三人で芦ノ湖の前に立っている。&#160;美紀は笑った。&#160;「若いなあ」&#160;そのときだった。&#160;写真の右端に、&#160;知らない男の子が立っていた。&#160;七歳くらい。&#160;白いTシャツ。&#160;紺色の短パン。&#160;黒い髪。&#160;こちらを見ている。&#160;美紀は拡大した。&#160;親戚の子だろうか。&#160;少し考えた。&#160;思い出せない。&#160;直人に聞こうかと思ったが、野球に夢中だったのでやめた。&#160;写真を閉じた。&#160;次。&#160;2010年。&#160;菜月の誕生日。&#160;ケーキ。&#160;ろうそく。&#160;家族。&#160;また男の子がいた。&#160;今度はテーブルの奥。&#160;少し背が伸びている。&#160;美紀は眉を寄せた。&#160;次。&#160;2011年。&#160;動物園。&#160;いた。&#160;2012年。&#160;七五三。&#160;いた。&#160;2013年。&#160;海水浴。&#160;いた。&#160;写真の中心に近づいていた。&#160;最初は端。&#160;次は後ろ。&#160;その次は、美紀たちのすぐ隣。&#160;そして奇妙なことに、&#160;男の子は年々成長していた。&#160;美紀は野球中継を見ている直人に声をかけた。&#160;「ねえ」&#160;「ん？」&#160;「この子、誰？」&#160;ノートパソコンを向けた。&#160;直人は画面を見た。&#160;数秒。&#160;それから美紀を見る。&#160;「何言ってんの」&#160;「この男の子」&#160;美紀は指をさした。&#160;直人は少し笑った。&#160;「翔太だろ」&#160;美紀も笑った。&#160;「誰よ、翔太って」&#160;直人の表情が変わった。&#160;「は？」&#160;「この子知らない」&#160;「冗談？」&#160;「冗談じゃないって」&#160;直人はリモコンを置いた。&#160;写真を拡大した。&#160;「翔太だよ」&#160;「だから誰？」&#160;直人はしばらく美紀の顔を見ていた。&#160;「俺たちの長男」&#160;美紀は笑おうとした。&#160;でも笑えなかった。&#160;「何言ってるの」&#160;「美紀」&#160;「うち、子供二人でしょ」&#160;直人は何も言わなかった。&#160;その沈黙が怖かった。&#160;「菜月と悠斗」&#160;美紀は言った。&#160;「二人」&#160;直人はゆっくり立ち上がった。&#160;「ちょっと待って」&#160;「何？」&#160;「本気で言ってる？」&#160;「そっちこそ」&#160;二人はしばらく向かい合った。&#160;直人は二階へ上がった。&#160;数分後、菜月を連れて戻ってきた。&#160;「菜月」&#160;直人が言った。&#160;「この写真見て」&#160;菜月は画面を見た。&#160;「何？」&#160;「この男の子誰？」&#160;菜月は怪訝そうな顔をした。&#160;「お兄ちゃん」&#160;美紀の胸が冷たくなった。&#160;「誰のお兄ちゃん？」&#160;菜月は笑った。&#160;しかし母親が笑っていないことに気づいた。&#160;「私のお兄ちゃん」&#160;「名前は？」&#160;「翔太」&#160;「翔太って誰？」&#160;菜月の顔から笑顔が消えた。&#160;「お母さん、どうしたの？」&#160;美紀は何も答えられなかった。&#160;夜。&#160;悠斗が帰ってきた。&#160;同じ質問をした。&#160;答えは同じだった。&#160;「翔太兄ちゃん」&#160;美紀は椅子に座った。&#160;直人が水を持ってきた。&#160;「病院行ったほうがいいかもしれない」&#160;「私がおかしいって言うの？」&#160;「そうじゃない」&#160;「じゃあ何？」&#160;「最近眠れてる？」&#160;美紀は立ち上がった。&#160;「私たちに長男なんていない」&#160;誰も返事をしなかった。&#160;菜月は泣きそうな顔をしていた。&#160;悠斗は母親を怖がっているように見えた。&#160;その顔を見て、美紀はそれ以上言えなくなった。&#160;夜中。&#160;家族が寝たあと、美紀は写真を見続けた。&#160;2009年。&#160;2010年。&#160;2011年。&#160;翔太。&#160;翔太。&#160;翔太。&#160;どの写真にもいる。&#160;美紀は自分の記憶を探した。&#160;妊娠。&#160;出産。&#160;赤ん坊。&#160;幼稚園。&#160;入学式。&#160;何もない。&#160;長男を産んだ記憶など、一つもない。&#160;念のため昔の日記を探した。&#160;クローゼットの奥。&#160;子育て中につけていた手帳。&#160;2008年。&#160;2009年。&#160;ページをめくる。&#160;2月14日。&#160;《翔太、熱。39.1度》&#160;美紀は手を止めた。&#160;自分の字だった。&#160;3月3日。&#160;《翔太、卒園式の練習》&#160;4月8日。&#160;《翔太、小学校入学》&#160;美紀は手帳を落とした。&#160;心臓が速くなる。&#160;次に母子手帳を探した。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;そして、&#160;もう一冊。&#160;青いカバー。&#160;名前。&#160;高橋翔太。&#160;生年月日。&#160;2002年11月17日。&#160;母親。&#160;高橋美紀。&#160;間違いなく自分の名前だった。&#160;美紀は吐きそうになった。&#160;翌朝。&#160;洗面所。&#160;歯ブラシが五本あった。&#160;昨日まで四本だった。&#160;直人。&#160;美紀。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;そして青い歯ブラシ。&#160;誰のものか聞かなくても分かった。&#160;玄関。&#160;靴。&#160;男物のスニーカー。&#160;サイズ27。&#160;廊下。&#160;写真立て。&#160;家族五人。&#160;美紀は一枚ずつ手に取った。&#160;自分。&#160;直人。&#160;翔太。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;みんな笑っている。&#160;自分まで笑っている。&#160;美紀は鏡を見た。&#160;「私は覚えてない」&#160;声に出した。&#160;鏡の中の自分が震えていた。&#160;その日の午後。&#160;美紀は病院へ行った。&#160;直人が付き添った。&#160;脳の検査。&#160;記憶検査。&#160;簡単な質問。&#160;今日の日付。&#160;首相の名前。&#160;住所。&#160;家族。&#160;医師は言った。&#160;「現時点では大きな異常は見つかりません」&#160;美紀は聞いた。&#160;「特定の人だけ忘れることってありますか？」&#160;医師は慎重な顔をした。&#160;「可能性としてはあります」&#160;「自分の子供を？」&#160;「非常に限定された記憶の欠落は、ケースによっては」&#160;美紀はもう聞いていなかった。&#160;帰りの車。&#160;直人が言った。&#160;「焦らなくていい」&#160;「私は翔太を知らない」&#160;「うん」&#160;「でもあなたたちは知ってる」&#160;「うん」&#160;「写真にもいる」&#160;「いる」&#160;「私の日記にもいる」&#160;直人は黙った。&#160;美紀は窓の外を見た。&#160;赤信号。&#160;歩道を親子が歩いていた。&#160;母親が男の子の手を握っている。&#160;その手を見た瞬間、&#160;美紀の胸が痛んだ。&#160;何かを思い出しそうになった。&#160;小さな手。&#160;雨の日。&#160;赤い傘。&#160;誰かが言っている。&#160;「お母さん、待って」&#160;美紀は目を閉じた。&#160;消えた。&#160;家へ帰ると、リビングに段ボールが置いてあった。&#160;「何これ？」&#160;「翔太の荷物」&#160;菜月が言った。&#160;「今度戻ってくるから」&#160;美紀は固まった。&#160;「戻ってくる？」&#160;菜月は母親の顔を見た。&#160;「来週だよ」&#160;「どこから？」&#160;「福岡」&#160;「なんで福岡？」&#160;「仕事」&#160;美紀は直人を見た。&#160;直人もこちらを見ている。&#160;「翔太は今、福岡で働いてる」&#160;直人が言った。&#160;「二十二歳だ」&#160;美紀は声が出なかった。&#160;一週間。&#160;それしかない。&#160;美紀はその間ずっと翔太を調べた。&#160;SNS。&#160;写真。&#160;家族LINE。&#160;名前はあった。&#160;グループの履歴にも普通に参加している。&#160;《母さん、誕生日おめでとう》&#160;《今度帰る》&#160;《悠斗、勉強しろよ》&#160;美紀自身も返信していた。&#160;《ありがとう》&#160;《気をつけて帰ってきてね》&#160;《翔太も体壊さないように》&#160;自分が書いた文章。&#160;なのに書いた記憶がない。&#160;一番怖かったのは、&#160;どの文章も自分らしかったことだった。&#160;絵文字の使い方。&#160;句読点。&#160;言い回し。&#160;全部、自分。&#160;美紀は家族LINEを閉じた。&#160;翔太の個人アカウントを開いた。&#160;プロフィール写真。&#160;二十二歳の青年。&#160;優しい顔。&#160;どこか直人に似ている。&#160;どこか自分にも似ている。&#160;写真を見ていると、&#160;胸が痛んだ。&#160;愛情なのか。&#160;恐怖なのか。&#160;自分でも分からなかった。&#160;土曜日。&#160;午後六時。&#160;玄関の鍵が開く音がした。&#160;「ただいま」&#160;男の声。&#160;菜月が走っていった。&#160;「お兄ちゃん！」&#160;悠斗も笑った。&#160;直人も玄関へ行った。&#160;美紀だけ動けなかった。&#160;足音が近づく。&#160;青年がリビングへ入ってきた。&#160;写真の男だった。&#160;身長百七十八くらい。&#160;黒い髪。&#160;白いシャツ。&#160;右手にキャリーケース。&#160;青年は美紀を見ると笑った。&#160;「母さん」&#160;美紀は椅子の背を握った。&#160;青年の笑顔が止まった。&#160;「母さん？」&#160;美紀は何も言えない。&#160;「翔太」&#160;直人が静かに言った。&#160;「ちょっと座れ」&#160;翔太は父親を見た。&#160;それから母親を見る。&#160;「どうした？」&#160;美紀の唇が震えた。&#160;「ごめんなさい」&#160;翔太の顔が強張った。&#160;「何が？」&#160;「あなたのこと」&#160;美紀は涙が出てきた。&#160;「覚えてないの」&#160;翔太は動かなかった。&#160;菜月が下を向いた。&#160;悠斗も黙った。&#160;「何それ」&#160;翔太が小さく笑った。&#160;冗談だと思いたかったのだろう。&#160;美紀は首を振った。&#160;「本当にごめんなさい」&#160;翔太の目に涙が浮かんだ。&#160;「俺だけ？」&#160;その一言が美紀の胸に刺さった。&#160;「俺だけ忘れたの？」&#160;「分からない」&#160;「俺が何かした？」&#160;「違う」&#160;「嫌いだった？」&#160;「違う」&#160;「じゃあなんで？」&#160;美紀は答えられなかった。&#160;翔太は顔を伏せた。&#160;美紀は目の前の青年を見た。&#160;知らない。&#160;本当に知らない。&#160;なのに泣いている姿を見ると、&#160;抱きしめたいという感情が湧いてくる。&#160;その感情さえ信用できない。&#160;美紀は手を伸ばした。&#160;翔太が一瞬後ろへ下がった。&#160;その動きが、&#160;なぜか美紀には懐かしかった。&#160;小さな男の子。&#160;スーパー。&#160;叱られて後ろへ下がる。&#160;泣きながら、&#160;「もうしない」&#160;と言っている。&#160;美紀は息を呑んだ。&#160;「翔太」&#160;青年が顔を上げた。&#160;美紀は泣いた。&#160;でも記憶は戻らなかった。&#160;翌日。&#160;家族五人で朝食を食べた。&#160;奇妙だった。&#160;翔太は菜月をからかう。&#160;悠斗とゲームの話をする。&#160;直人と仕事の話をする。&#160;自然だった。&#160;自然すぎた。&#160;美紀だけが客のようだった。&#160;その午後、&#160;翔太が古いアルバムを持ってきた。&#160;「これ覚えてない？」&#160;小学校の運動会。&#160;「これも？」&#160;誕生日。&#160;「これは？」&#160;京都旅行。&#160;美紀はすべて首を振った。&#160;翔太はもう泣かなかった。&#160;ただ静かに写真を閉じた。&#160;「そっか」&#160;その声が一番つらかった。&#160;夜。&#160;美紀は一人でリビングにいた。&#160;写真を見ていた。&#160;翔太。&#160;翔太。&#160;翔太。&#160;写真の中では、&#160;確かに自分は彼を愛していた。&#160;肩を抱いている。&#160;頭を撫でている。&#160;誕生日ケーキを一緒に作っている。&#160;美紀は初めて思った。&#160;もしかすると、&#160;自分が間違っている。&#160;病気なのかもしれない。&#160;それなら治療すればいい。&#160;翔太を思い出せるかもしれない。&#160;そう考えると少し安心した。&#160;写真を年代順に並べた。&#160;2008。&#160;2010。&#160;2012。&#160;2014。&#160;美紀の指が止まった。&#160;2014年の写真。&#160;直人。&#160;翔太。&#160;菜月。&#160;幼い悠斗。&#160;四人。&#160;美紀がいない。&#160;撮影したのだろう。&#160;そう思った。&#160;次の写真。&#160;2015年。&#160;四人。&#160;美紀はいない。&#160;2016年。&#160;四人。&#160;2017年。&#160;四人。&#160;美紀は呼吸が浅くなった。&#160;家族旅行。&#160;誕生日。&#160;正月。&#160;入学式。&#160;どの写真にも、&#160;自分がいない。&#160;2013年まではいる。&#160;2014年から、&#160;急に消えている。&#160;美紀はクラウド検索を使った。&#160;人物。&#160;自分の顔。&#160;結果。&#160;2013年以前の写真ばかり。&#160;最近の写真がほとんどない。&#160;「そんなはずない」&#160;美紀は呟いた。&#160;スマートフォンを開いた。&#160;先月の写真。&#160;直人の誕生日。&#160;記憶がある。&#160;自分がケーキを買った。&#160;自分が写真も撮った。&#160;画像には、&#160;直人。&#160;翔太。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;四人。&#160;そのとき、&#160;美紀は初めて気づいた。&#160;翔太は福岡にいたはずだった。&#160;先月の誕生日には帰ってきていない。&#160;なのに写真にはいる。&#160;美紀は写真を拡大した。&#160;四人とも笑っている。&#160;テーブルには五人分の皿。&#160;しかし自分はいない。&#160;次の写真。&#160;三か月前。&#160;四人。&#160;半年前。&#160;四人。&#160;一年前。&#160;四人。&#160;美紀は震える手で直人を呼んだ。&#160;「ねえ」&#160;返事がない。&#160;「直人」&#160;二階から声。&#160;「何？」&#160;「ちょっと来て」&#160;足音。&#160;直人が下りてくる。&#160;美紀はスマートフォンを見せた。&#160;「私、いない」&#160;直人は画面を見た。&#160;「何が？」&#160;「写真」&#160;「だから？」&#160;「最近の写真に、私が全然写ってない」&#160;直人は長く美紀を見た。&#160;その顔が、&#160;昨日までとは少し違って見えた。&#160;「美紀」&#160;「何？」&#160;直人がゆっくり言った。&#160;「誰のこと言ってる？」&#160;美紀は動かなかった。&#160;「何？」&#160;直人は困った顔をした。&#160;「あなた、どちら様ですか？」&#160;美紀は笑った。&#160;反射的に。&#160;冗談だと思った。&#160;「何言ってるの」&#160;直人は後ろへ下がった。&#160;「ちょっと待ってください」&#160;「直人？」&#160;「翔太！」&#160;直人が大声で呼んだ。&#160;二階から翔太が下りてきた。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;三人とも来た。&#160;美紀は笑おうとした。&#160;「何よ、みんな」&#160;誰も笑っていない。&#160;翔太が父親の前に立った。&#160;美紀を見た。&#160;知らない人を見る目。&#160;「誰ですか？」&#160;美紀の身体から力が抜けた。&#160;「翔太」&#160;青年は眉を寄せた。&#160;「なんで俺の名前知ってるんですか」&#160;「菜月」&#160;菜月は父親の後ろへ隠れた。&#160;「悠斗」&#160;悠斗も顔をこわばらせた。&#160;美紀は後ろへ下がった。&#160;「私よ」&#160;誰も答えない。&#160;「お母さんよ」&#160;翔太が言った。&#160;「母さんは」&#160;少し間があった。&#160;「十年前に亡くなってます」&#160;美紀は息を止めた。&#160;「何言ってるの」&#160;直人がスマートフォンを取り出した。&#160;画面を見せた。&#160;家族写真。&#160;四人。&#160;その横に、&#160;小さな仏壇。&#160;遺影。&#160;美紀だった。&#160;十年前の自分。&#160;美紀は画面から目を離せなかった。&#160;「違う」&#160;誰も動かない。&#160;「私はここにいる」&#160;直人は泣きそうな顔をしていた。&#160;「警察呼びます」&#160;「待って」&#160;美紀は後ろへ下がった。&#160;「お願い」&#160;そのとき、&#160;リビングのテレビが突然点いた。&#160;写真共有サービスのスクリーンセーバー。&#160;昔の家族写真が流れ始めた。&#160;2009年。&#160;幼い翔太。&#160;美紀。&#160;直人。&#160;2010年。&#160;2011年。&#160;2012年。&#160;美紀は画面を見た。&#160;2013年。&#160;家族五人。&#160;次。&#160;2014年。&#160;家族四人。&#160;美紀はいない。&#160;次。&#160;2015年。&#160;四人。&#160;次。&#160;2020年。&#160;四人。&#160;そして、&#160;昨日の写真。&#160;直人。&#160;翔太。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;四人。&#160;その後ろ。&#160;リビングの窓。&#160;ガラスに、&#160;誰かが映っていた。&#160;美紀。&#160;家族の後ろに立っている。&#160;誰にも見られず、&#160;こちらを見ている。&#160;美紀は自分の腕を見た。&#160;そこにある。&#160;触れる。&#160;温かい。&#160;呼吸もしている。&#160;それなのに、&#160;家族の誰も自分を知らない。&#160;テレビに次の写真。&#160;今。&#160;たった今のリビング。&#160;直人。&#160;翔太。&#160;菜月。&#160;悠斗。&#160;四人が立っている。&#160;美紀も同じ部屋にいる。&#160;しかし写真には、&#160;四人しかいない。&#160;右下に自動生成されたタイトルが表示された。&#160;家族4人の10年間&#160;美紀は画面を見たまま、&#160;小さく言った。&#160;「じゃあ私は」&#160;誰も返事をしなかった。&#160;テレビの画面が切り替わった。&#160;真っ黒な画面。&#160;そこに一瞬だけ、&#160;美紀の顔が映った。&#160;その後ろには、&#160;知らない女性が立っていた。&#160;四十四歳くらい。&#160;美紀とよく似た顔。&#160;けれど少し違う。&#160;その女性は美紀の肩に手を置き、&#160;耳元で何かを囁いた。&#160;音は聞こえなかった。&#160;美紀には意味だけが分かった。&#160;次は、あなたが忘れる番。&#160;翌朝。&#160;直人がリビングへ降りてきた。&#160;誰もいなかった。&#160;窓が少し開いている。&#160;テーブルの上にノートパソコン。&#160;画面には古い写真が表示されていた。&#160;2009年。&#160;芦ノ湖。&#160;若い直人。&#160;小さな翔太。&#160;そして、&#160;知らない女性。&#160;直人は写真を拡大した。&#160;「誰だ、これ」&#160;その女性は、&#160;直人のすぐ隣で、&#160;親しそうに笑っていた。Story 4: 睡眠銀行村上浩一がそのサービスを知ったのは、会社の昼休みだった。&#160;四十七歳。&#160;東京の広告会社に勤めて二十三年。&#160;妻の由美は四十五歳。&#160;娘の杏奈は五歳。&#160;仕事は忙しかった。&#160;朝七時前に家を出て、帰宅は九時を過ぎる。&#160;娘が起きている時間に帰れる日は少ない。&#160;休日もメールが来る。&#160;会議。&#160;資料。&#160;修正。&#160;出張。&#160;浩一は、いつも同じことを考えていた。&#160;時間がない。&#160;もっと時間があれば。&#160;本を読みたい。&#160;旅行したい。&#160;英語を勉強したい。&#160;昔やめたピアノも再開したい。&#160;娘とも遊びたい。&#160;しかし一日は二十四時間しかない。&#160;そんなとき、同僚がスマートフォンを見せた。&#160;「これ知ってます？」&#160;画面には、&#160;SLEEP BANK&#160;と書かれていた。&#160;睡眠銀行。&#160;新しい睡眠支援サービスだった。&#160;寝ている時間を利用して、夢の中で長い主観時間を体験できる。&#160;説明にはこうあった。&#160;八時間の睡眠。&#160;主観時間、最大一年。&#160;浩一は笑った。&#160;「一年？」&#160;「夢の中で、ですよ」&#160;「そんなの無理だろ」&#160;「でも体験者、結構いるみたいですよ」&#160;同僚が口コミを見せた。&#160;《三か月かけてフランス語を勉強しました》&#160;《夢の中で一年間ヨーロッパを旅しました》&#160;《現実では一晩しか経っていません》&#160;浩一は半分だけ信じた。&#160;半分は広告だと思った。&#160;けれど、その夜。&#160;娘が寝たあと、&#160;浩一はサイトを開いた。&#160;初回体験。&#160;睡眠八時間。&#160;主観時間、三か月。&#160;金額は思ったより安かった。&#160;専用の小型端末が翌日届いた。&#160;枕元に置くだけ。&#160;脳波を測りながら、睡眠中の夢を誘導する。&#160;薬は使わない。&#160;説明書には、&#160;《夢の内容には個人差があります》&#160;と書かれていた。&#160;金曜日の夜。&#160;浩一は初めて使った。&#160;端末を枕元に置く。&#160;由美が笑った。&#160;「本当にやるの？」&#160;「話のネタにはなるだろ」&#160;「夢の中で浮気しないでよ」&#160;「しないよ」&#160;二人で笑った。&#160;浩一は目を閉じた。&#160;目を開けると、&#160;海が見えた。&#160;イタリアだった。&#160;自分でも、なぜイタリアだと分かるのか分からない。&#160;しかし分かった。&#160;夢の中で、浩一は三か月を過ごした。&#160;ローマ。&#160;フィレンツェ。&#160;ヴェネツィア。&#160;小さな町。&#160;見知らぬ人と話した。&#160;列車に乗った。&#160;雨の日もあった。&#160;風邪もひいた。&#160;退屈な午後もあった。&#160;最初は夢だと分かっていた。&#160;しかし一週間。&#160;一か月。&#160;二か月。&#160;時間が経つにつれ、&#160;現実のほうが夢のように感じ始めた。&#160;そして三か月目の最後の夜。&#160;ホテルの窓から街を見ていた。&#160;「もう戻るのか」&#160;浩一は本気で寂しくなった。&#160;次の瞬間。&#160;目を開けた。&#160;自宅の寝室。&#160;朝七時十二分。&#160;由美が隣で眠っている。&#160;浩一は天井を見た。&#160;八時間。&#160;現実では八時間しか経っていない。&#160;でも彼にとっては、&#160;三か月ぶりの自宅だった。&#160;起きてきた杏奈が、&#160;「パパ」&#160;と言って抱きついた。&#160;浩一は娘を抱きしめた。&#160;少し泣いた。&#160;「どうしたの？」&#160;由美が聞いた。&#160;「なんでもない」&#160;浩一は笑った。&#160;その日は、とても幸せだった。&#160;一日が長く感じた。&#160;家族との時間が貴重に思えた。&#160;一週間後。&#160;浩一は二回目を利用した。&#160;今度は主観時間、半年。&#160;夢の中で海辺の町に住んだ。&#160;毎朝散歩。&#160;昼は読書。&#160;午後はピアノ。&#160;夜は料理。&#160;理想の生活だった。&#160;現実に戻った朝。&#160;浩一は思った。&#160;これはすごい。&#160;人生を増やせる。&#160;その後、毎週末使うようになった。&#160;半年。&#160;八か月。&#160;一年。&#160;夢の中で過ごす時間が少しずつ長くなる。&#160;浩一は英語を学んだ。&#160;ピアノを弾けるようになった。&#160;世界中を旅した。&#160;夢の中では年齢を取らなかった。&#160;身体は四十七歳のまま。&#160;しかし記憶だけが積み重なっていく。&#160;最初の違和感は、&#160;月曜日の朝だった。&#160;由美が言った。&#160;「昨日の夜、何食べたいって聞いたじゃない」&#160;浩一は思い出せなかった。&#160;「昨日？」&#160;「うん」&#160;浩一にとっては、&#160;昨日ではなかった。&#160;週末に睡眠銀行を使った。&#160;夢の中で一年過ごした。&#160;由美と夕食を食べたのは、&#160;感覚では一年前だった。&#160;「ごめん」&#160;浩一は笑った。&#160;「最近ちょっと疲れてる」&#160;それで済ませた。&#160;次の週。&#160;杏奈が絵を持ってきた。&#160;「パパ、これ昨日描いたやつ」&#160;浩一は絵を見た。&#160;知らない絵だった。&#160;「いつ描いたの？」&#160;「昨日だよ」&#160;杏奈は笑った。&#160;浩一は笑い返した。&#160;でも胸の奥が少し冷たくなった。&#160;それから、日常の記憶が遠くなっていった。&#160;一週間前。&#160;主観時間では七年ほど前。&#160;一か月前。&#160;何十年も前。&#160;由美と結婚した日の記憶より、&#160;夢の中で一人で過ごした時間のほうが長くなった。&#160;浩一は数えるのをやめた。&#160;現実では三か月。&#160;夢の中では、&#160;百年以上。&#160;それでも身体は四十七歳。&#160;由美は何も知らない。&#160;杏奈も知らない。&#160;ある晩。&#160;食卓で杏奈が言った。&#160;「パパ、日曜日に公園行こう」&#160;浩一は娘を見た。&#160;五歳。&#160;丸い頬。&#160;短い髪。&#160;ピンク色のパジャマ。&#160;その瞬間、&#160;別の杏奈の記憶が頭に浮かんだ。&#160;十三歳。&#160;二十二歳。&#160;三十五歳。&#160;結婚式。&#160;五十代。&#160;白髪。&#160;病院。&#160;八十三歳。&#160;細い手。&#160;夢の中で、杏奈は老人になっていた。&#160;そして死んだ。&#160;浩一はその葬儀にも出た。&#160;夢の中で。&#160;棺に花を入れた。&#160;額に触れた。&#160;何十年も泣いた。&#160;目の前の杏奈が言う。&#160;「パパ？」&#160;浩一は立ち上がった。&#160;トイレへ行った。&#160;鍵を閉めた。&#160;泣いた。&#160;声を出さないように口を押さえた。&#160;五歳の娘が、&#160;死んだ娘に見える。&#160;それが一番怖かった。&#160;その夜。&#160;由美が聞いた。&#160;「最近、何か変じゃない？」&#160;浩一は黙った。&#160;「私のこと、ぼーっと見てることあるよね」&#160;「疲れてるだけ」&#160;「杏奈のこと見て泣いたり」&#160;「ごめん」&#160;由美はしばらく黙った。&#160;「睡眠銀行、やめたら？」&#160;浩一は返事をしなかった。&#160;やめるべきだと思った。&#160;本当に思った。&#160;しかし、その夜。&#160;端末を捨てられなかった。&#160;翌週。&#160;浩一はまた使った。&#160;夢の中で二十年を過ごした。&#160;今回は家族を作った。&#160;由美ではない女性。&#160;名前は沙織。&#160;夢の中で出会い、&#160;結婚し、&#160;二人の子供を育てた。&#160;その人生は本物だった。&#160;少なくとも浩一にとっては。&#160;喧嘩もした。&#160;仲直りもした。&#160;旅行もした。&#160;子供が病気になった夜もあった。&#160;二十年。&#160;そして朝。&#160;目を開ける。&#160;自宅。&#160;隣に由美。&#160;浩一は混乱した。&#160;数秒間、&#160;この女性が誰なのか分からなかった。&#160;「浩一？」&#160;由美が目を覚ました。&#160;浩一は顔を見た。&#160;思い出すまで時間がかかった。&#160;妻。&#160;現実の妻。&#160;由美。&#160;「大丈夫？」&#160;「うん」&#160;浩一は言った。&#160;しかし声が震えていた。&#160;その日の夜。&#160;浩一は睡眠銀行を解約した。&#160;端末も箱に入れた。&#160;もう使わない。&#160;そう決めた。&#160;三日間は普通だった。&#160;四日目。&#160;電車の中。&#160;座っていた浩一は、&#160;ほんの数分うとうとした。&#160;目を開ける。&#160;新宿。&#160;乗り過ごしていない。&#160;五分程度だった。&#160;しかし浩一は立ち上がれなかった。&#160;夢の中で、&#160;三年間過ごしていた。&#160;知らない町。&#160;知らない仕事。&#160;知らない人々。&#160;三年。&#160;現実では五分。&#160;浩一は震えた。&#160;その夜、&#160;眠るのが怖くなった。&#160;睡眠銀行の端末は使っていない。&#160;それでも夢が長くなる。&#160;十分の昼寝。&#160;五年。&#160;一時間。&#160;十二年。&#160;八時間眠ったら、&#160;何年になるのか。&#160;浩一は怖くて考えられなかった。&#160;由美は病院へ連れていった。&#160;睡眠障害。&#160;ストレス。&#160;脳波。&#160;MRI。&#160;異常なし。&#160;医師は言った。&#160;「しばらくゆっくり休んでください」&#160;浩一は笑いそうになった。&#160;休むことが一番怖い。&#160;夜。&#160;浩一はソファに座った。&#160;コーヒー。&#160;照明。&#160;テレビ。&#160;眠らない。&#160;杏奈が起きてきた。&#160;「パパ」&#160;「どうした？」&#160;「お水」&#160;浩一は水を入れた。&#160;杏奈は飲んだ。&#160;そして眠そうな顔で言った。&#160;「パパ、寝ないの？」&#160;「もう少し起きてる」&#160;「一緒に寝ようよ」&#160;浩一は娘を見た。&#160;夢の中で八十三歳になった杏奈。&#160;現実では五歳。&#160;どちらが本物なのか。&#160;もう分からなかった。&#160;「杏奈」&#160;「なに？」&#160;「パパのこと好き？」&#160;杏奈は笑った。&#160;「好きだよ」&#160;浩一は抱きしめた。&#160;杏奈は嫌がった。&#160;「苦しい」&#160;浩一はすぐ離した。&#160;「ごめん」&#160;その夜。&#160;由美と杏奈が寝たあと、&#160;浩一は一人でリビングにいた。&#160;午前三時。&#160;三時半。&#160;四時。&#160;目が痛い。&#160;身体が重い。&#160;四時二十三分。&#160;浩一は一瞬だけ目を閉じた。&#160;目を開けた。&#160;部屋は同じ。&#160;時計。&#160;四時二十四分。&#160;たった一分。&#160;しかし、&#160;浩一は泣いていた。&#160;夢の中では、&#160;四十七年間が過ぎていた。&#160;そして夢の最後の日、&#160;浩一は九十四歳だった。&#160;一人暮らし。&#160;家族は全員死んでいた。&#160;由美。&#160;杏奈。&#160;友人。&#160;同僚。&#160;誰もいない。&#160;窓の外を見ながら、&#160;死ぬのを待っていた。&#160;その孤独が、&#160;まだ身体に残っている。&#160;浩一は立ち上がった。&#160;寝室へ行った。&#160;由美が眠っている。&#160;隣には杏奈。&#160;二人の寝顔を見た。&#160;浩一は床に座った。&#160;手を伸ばした。&#160;由美の手に触れた。&#160;温かい。&#160;杏奈の髪を撫でた。&#160;本物だ。&#160;今はまだ、&#160;本物だ。&#160;それから浩一は三日間ほとんど眠らなかった。&#160;会社を休んだ。&#160;食事も取れなくなった。&#160;由美は心配した。&#160;「もう一回病院行こう」&#160;浩一は首を振った。&#160;「眠らされたら困る」&#160;「浩一」&#160;「眠ったら何十年になるか分からない」&#160;由美は泣いた。&#160;「そんなのおかしいよ」&#160;「分かってる」&#160;「じゃあ」&#160;「分かってるんだよ」&#160;浩一は大きな声を出した。&#160;杏奈が泣いた。&#160;浩一はすぐ後悔した。&#160;「ごめん」&#160;誰に言ったのか分からなかった。&#160;その夜。&#160;限界が来た。&#160;午前二時。&#160;浩一はベッドに横になった。&#160;由美が隣にいる。&#160;「寝ていいよ」&#160;由美が言った。&#160;浩一は首を振った。&#160;「怖い」&#160;「私、ここにいるから」&#160;「起きたとき」&#160;「うん」&#160;「君のこと分からなくなってたらどうしよう」&#160;由美は浩一の手を握った。&#160;「そのときは、また教える」&#160;浩一は泣いた。&#160;「何回でも？」&#160;「何回でも」&#160;浩一は目を閉じた。&#160;由美の手を握ったまま。&#160;その夜、&#160;浩一は夢を見た。&#160;長い夢。&#160;何年だったのか分からない。&#160;百年。&#160;千年。&#160;もっと長かったかもしれない。&#160;最初のうちは、&#160;由美を覚えていた。&#160;杏奈も覚えていた。&#160;東京も。&#160;自分の会社も。&#160;自分の名前も。&#160;しかし時間が過ぎた。&#160;百年。&#160;二百年。&#160;五百年。&#160;記憶は薄くなった。&#160;由美の顔。&#160;杏奈の声。&#160;自宅の住所。&#160;日本語。&#160;そして最後には、&#160;村上浩一という名前さえ、&#160;意味のない音になった。&#160;夢の中で、&#160;何千年も一人で歩いた。&#160;どこへ向かっているのか分からなかった。&#160;ある日。&#160;遠くから女性が歩いてきた。&#160;浩一は立ち止まった。&#160;どこかで見た顔。&#160;女性は泣いていた。&#160;「浩一」&#160;浩一は首をかしげた。&#160;「誰ですか」&#160;女性は泣きながら笑った。&#160;「由美」&#160;名前を聞いても何も浮かばなかった。&#160;「ごめんなさい」&#160;浩一は言った。&#160;女性は近づいた。&#160;「帰ろう」&#160;「どこへ？」&#160;「家」&#160;家。&#160;その言葉だけが、&#160;少し温かく感じた。&#160;浩一は女性の手を握った。&#160;そして目を開けた。&#160;朝だった。&#160;カーテンから光が入っている。&#160;隣に女性がいる。&#160;目を赤くしている。&#160;手を握っている。&#160;浩一は長い間、&#160;その顔を見た。&#160;女性が言った。&#160;「おはよう」&#160;浩一は口を開いた。&#160;声が出ない。&#160;女性は待った。&#160;浩一はゆっくり身体を起こした。&#160;部屋を見回した。&#160;知らない部屋。&#160;知らない家具。&#160;写真。&#160;知らない家族。&#160;小さな女の子が写っている。&#160;女性が不安そうに言った。&#160;「浩一？」&#160;浩一はその名前にも反応できなかった。&#160;しばらくして、&#160;丁寧に頭を下げた。&#160;「すみません」&#160;女性の顔が強張った。&#160;浩一は続けた。&#160;「あなたは」&#160;少し考えた。&#160;「私の何という方ですか」&#160;女性は何も言わなかった。&#160;寝室の外から、&#160;小さな足音がした。&#160;ドアが開く。&#160;五歳くらいの女の子。&#160;「パパ」&#160;浩一は振り向いた。&#160;少女は笑っていた。&#160;浩一は、その顔を見て泣き始めた。&#160;理由は分からなかった。&#160;名前も知らない。&#160;誰なのかも分からない。&#160;それでも、&#160;胸のどこかが、&#160;何千年も前から、&#160;その子を知っていた。Story 5: 午前3時33分の写真森川真奈が最初の写真を見たのは、午前六時十四分だった。&#160;三十二歳。&#160;出版社勤務。&#160;東京の築四十二年のマンションで、一人暮らしをしていた。&#160;七階建て。&#160;真奈の部屋は五〇六号室。&#160;駅から近く、家賃も安い。&#160;外観は古かったが、室内は数年前にリフォームされていた。&#160;真奈は特に気に入っていたわけではない。&#160;ただ、&#160;職場に近い。&#160;広さも十分。&#160;それだけだった。&#160;その朝。&#160;目覚ましを止めようとしてスマートフォンを手に取った。&#160;画面に写真が一枚表示されていた。&#160;真奈は数秒、意味が分からなかった。&#160;写真には、&#160;自分が写っていた。&#160;ベッドで眠っている。&#160;布団を胸までかけている。&#160;右側を向いている。&#160;昨夜着ていた白いTシャツ。&#160;間違いなく自分だった。&#160;撮影位置は、&#160;天井。&#160;真上から。&#160;真奈はゆっくり天井を見た。&#160;白い天井。&#160;照明。&#160;火災報知器。&#160;それだけ。&#160;カメラはない。&#160;写真の情報を確認した。&#160;撮影時刻。&#160;3:33。&#160;位置情報。&#160;なし。&#160;撮影機種。&#160;表示なし。&#160;ファイル名もなかった。&#160;真奈は写真を保存しようとした。&#160;できない。&#160;共有。&#160;できない。&#160;スクリーンショットを撮った。&#160;画面が真っ黒になった。&#160;アプリを閉じる。&#160;もう一度開く。&#160;写真は消えていた。&#160;真奈はしばらくベッドに座っていた。&#160;「寝ぼけてたのかな」&#160;声に出した。&#160;仕事へ行った。&#160;会社では校正。&#160;打ち合わせ。&#160;原稿。&#160;締切。&#160;昼頃には写真のことをほとんど忘れていた。&#160;夜。&#160;コンビニで夕食を買い、十一時過ぎに帰宅。&#160;部屋を見回した。&#160;天井。&#160;クローゼット。&#160;換気口。&#160;念のため椅子に乗って火災報知器まで確認した。&#160;何もない。&#160;それでもカーテンを閉め、&#160;玄関のチェーンをかけた。&#160;眠った。&#160;翌朝。&#160;スマートフォンを開いた。&#160;写真。&#160;真奈は動かなかった。&#160;また自分が眠っている。&#160;撮影時刻。&#160;3:33。&#160;ただし今回は、&#160;昨日より低い位置から撮られていた。&#160;天井からではない。&#160;ベッドの二メートルほど上。&#160;真奈の顔が昨日より大きく写っている。&#160;真奈は写真を閉じなかった。&#160;じっと見た。&#160;自分の左手が布団の外に出ている。&#160;現実を見る。&#160;同じ。&#160;枕の位置。&#160;同じ。&#160;ベッド脇の水。&#160;同じ。&#160;昨夜読みかけた本。&#160;同じ。&#160;写真の奥に、&#160;部屋のドアが写っている。&#160;閉まっている。&#160;真奈はドアを見る。&#160;閉まっている。&#160;写真をもう一度確認した。&#160;消えていた。&#160;その日、真奈は管理会社へ電話した。&#160;「部屋にカメラが設置されている可能性ってありますか？」&#160;担当者は驚いた。&#160;「カメラですか？」&#160;「前の入居者とか」&#160;「室内ですか？」&#160;「はい」&#160;「それはないと思いますが」&#160;午後、設備会社の男性が来た。&#160;天井。&#160;照明。&#160;火災報知器。&#160;エアコン。&#160;換気口。&#160;全部確認した。&#160;「何もないですね」&#160;「盗撮カメラって、分からないようにつけられることありますよね」&#160;「ありますけど、この部屋には見当たりません」&#160;真奈は写真のことを説明しなかった。&#160;スマートフォンの故障だと思うことにした。&#160;三日目。&#160;3:33。&#160;写真。&#160;さらに近い。&#160;四日目。&#160;3:33。&#160;一メートル。&#160;五日目。&#160;50センチ。&#160;写真の中の真奈の顔が、&#160;画面いっぱいになってきた。&#160;真奈は毎朝、その写真が出る前に目を覚まそうとした。&#160;目覚ましを3時20分にセットした。&#160;しかし起きられない。&#160;目覚ましは鳴った記録がある。&#160;止めた記録もある。&#160;それなのに、&#160;真奈には記憶がない。&#160;六日目。&#160;真奈は眠らないことにした。&#160;コーヒー。&#160;映画。&#160;仕事。&#160;部屋の明かりを全部つけた。&#160;時計。&#160;2:58。&#160;3:12。&#160;3:27。&#160;真奈はソファに座り、&#160;スマートフォンを握っていた。&#160;3:31。&#160;3:32。&#160;そして、&#160;3:33。&#160;何も起きない。&#160;真奈は画面を見た。&#160;通知なし。&#160;写真なし。&#160;「やっぱり」&#160;真奈は笑った。&#160;「寝てるときだけなんだ」&#160;その瞬間、&#160;スマートフォンが震えた。&#160;画面に写真。&#160;真奈の呼吸が止まった。&#160;写真の中では、&#160;真奈がベッドで眠っていた。&#160;白いTシャツ。&#160;布団。&#160;枕。&#160;けれど現実の真奈は、&#160;ソファに座っている。&#160;真奈は立ち上がった。&#160;ベッドを見る。&#160;空。&#160;写真を見る。&#160;眠っている自分。&#160;真奈はスマートフォンを落とした。&#160;画面は床に落ちても消えなかった。&#160;写真の中の真奈が、&#160;ゆっくり目を開けた。&#160;現実の真奈は叫んだ。&#160;部屋から飛び出した。&#160;廊下。&#160;エレベーター。&#160;一階。&#160;外。&#160;コンビニまで走った。&#160;朝まで店内にいた。&#160;六時。&#160;マンションへ戻った。&#160;部屋の鍵は閉まっていた。&#160;中に誰もいない。&#160;スマートフォンは床に落ちたまま。&#160;画面は消えていた。&#160;その日の午後、&#160;真奈は隣の五〇五号室へ行った。&#160;六十代くらいの女性、一ノ瀬が住んでいた。&#160;「すみません」&#160;真奈は迷った。&#160;「変なこと聞いていいですか」&#160;一ノ瀬は笑った。&#160;「何？」&#160;「夜中に、スマホに写真が出たりしません？」&#160;笑顔が消えた。&#160;「何時？」&#160;真奈は答えた。&#160;「三時三十三分」&#160;一ノ瀬はドアを少し閉めた。&#160;「あなたも？」&#160;真奈の背中が冷たくなった。&#160;その夜。&#160;一ノ瀬の部屋。&#160;五〇四号室の若い夫婦。&#160;六〇二号室の男性。&#160;四〇一号室の大学生。&#160;全部で七人が集まった。&#160;全員、&#160;同じだった。&#160;午前3時33分。&#160;自分が眠っている写真。&#160;毎晩。&#160;そして撮影位置が、&#160;少しずつ近づいている。&#160;「いつからですか」&#160;真奈が聞いた。&#160;一ノ瀬は言った。&#160;「私は二週間くらい前」&#160;大学生は、&#160;「一週間」&#160;五〇四号室の妻は、&#160;「三日前」&#160;始まった日はバラバラだった。&#160;一ノ瀬が言った。&#160;「管理会社には？」&#160;「言いました」&#160;「私も」&#160;「どうだった？」&#160;「何もないって」&#160;全員同じだった。&#160;その夜、&#160;住人たちは一つの実験をすることにした。&#160;六〇二号室の男性、木村が言った。&#160;「俺、今日は寝ない」&#160;全員が木村の部屋へ集まる。&#160;3時33分まで起きている。&#160;複数のスマートフォンで撮影。&#160;部屋にもカメラ。&#160;真奈は嫌な予感がした。&#160;しかし木村は笑った。&#160;「こんなの機械のバグですよ」&#160;午前3時。&#160;七人。&#160;リビング。&#160;テレビ。&#160;コーヒー。&#160;誰も眠らない。&#160;3:20。&#160;3:29。&#160;3:32。&#160;木村が言った。&#160;「あと一分」&#160;真奈は時計を見た。&#160;3:33。&#160;全員のスマートフォンが、&#160;同時に震えた。&#160;七台。&#160;誰も動かなかった。&#160;真奈が画面を見る。&#160;自分の写真。&#160;五〇六号室のベッド。&#160;眠っている自分。&#160;今は六〇二号室にいる。&#160;なのに写真の中では、&#160;自分の部屋で眠っている。&#160;隣で一ノ瀬が声を上げた。&#160;「私も」&#160;五〇四号室の夫婦。&#160;大学生。&#160;全員、&#160;自分の部屋で眠っている写真だった。&#160;木村だけ、&#160;何も言わなかった。&#160;真奈が見る。&#160;「木村さん？」&#160;木村は画面を見ていた。&#160;真奈が近づく。&#160;写真。&#160;木村のベッド。&#160;空だった。&#160;誰も寝ていない。&#160;木村は笑った。&#160;「ほら」&#160;震えた声。&#160;「俺だけ正常じゃないですか」&#160;その瞬間。&#160;部屋の照明が消えた。&#160;真っ暗。&#160;誰かが叫んだ。&#160;数秒後。&#160;明かりが戻った。&#160;木村がいなかった。&#160;椅子だけ。&#160;スマートフォンが床に落ちている。&#160;玄関は内側から鍵がかかっていた。&#160;窓も閉まっている。&#160;全員で部屋を探した。&#160;浴室。&#160;クローゼット。&#160;ベッドの下。&#160;木村はいない。&#160;警察を呼んだ。&#160;行方不明。&#160;防犯カメラには、&#160;木村が部屋から出た映像はなかった。&#160;翌朝。&#160;木村のスマートフォンに、&#160;新しい写真が表示された。&#160;空のベッド。&#160;撮影時刻。&#160;3:34。&#160;真奈は会社を休んだ。&#160;その日から、&#160;マンションでは誰も3時33分の話をしなくなった。&#160;一ノ瀬もドアを開けなくなった。&#160;五〇四号室の夫婦は数日後に引っ越した。&#160;大学生も実家へ戻った。&#160;真奈も引っ越そうとした。&#160;しかし不思議なことが起きた。&#160;不動産会社へ行き、&#160;契約書を書こうとすると、&#160;自分の住所が思い出せない。&#160;「現在のお住まいは？」&#160;担当者が聞く。&#160;真奈は答えられない。&#160;五〇六。&#160;マンション名。&#160;頭の中にはある。&#160;しかし声に出せない。&#160;文字にも書けない。&#160;スマートフォンの住所登録を見る。&#160;空欄になっている。&#160;免許証。&#160;住所部分だけ文字が薄れている。&#160;真奈は怖くなった。&#160;会社の同僚に聞いた。&#160;「私の家って、どこだっけ」&#160;同僚は笑った。&#160;「知らないよ」&#160;「前に来たことあるじゃん」&#160;「ないよ」&#160;誰も真奈のマンションを知らなかった。&#160;まるで、&#160;そこに住んでいること自体が、&#160;真奈だけの記憶になっていた。&#160;それでも毎晩、&#160;写真は来た。&#160;撮影位置はもう、&#160;顔のすぐ上。&#160;鼻。&#160;口。&#160;閉じた目。&#160;画面いっぱいに自分の寝顔。&#160;ある朝、&#160;真奈は写真の隅に何かを見つけた。&#160;髪。&#160;自分のものではない。&#160;誰かが、&#160;真奈の顔の真上から覗き込んでいる。&#160;翌朝。&#160;髪が増えた。&#160;次の日。&#160;額。&#160;次の日。&#160;片方の目。&#160;写真の上端。&#160;誰かの顔が、&#160;少しずつ入ってくる。&#160;真奈は拡大した。&#160;その目を見た。&#160;自分の目だった。&#160;真奈はスマートフォンを投げた。&#160;鏡へ走る。&#160;同じ目。&#160;同じ眉。&#160;同じ小さな傷。&#160;写真の上から覗き込んでいる人物は、&#160;真奈自身だった。&#160;しかし写真の中には、&#160;眠っている真奈もいる。&#160;一人が寝ている。&#160;もう一人が、&#160;その真上から見ている。&#160;その夜、&#160;真奈は部屋中の鏡を布で覆った。&#160;カメラを三台設置した。&#160;ベッド。&#160;玄関。&#160;部屋全体。&#160;自分は眠らない。&#160;3時33分まで待つ。&#160;2:40。&#160;3:05。&#160;3:21。&#160;眠気が来た。&#160;真奈は立って歩いた。&#160;顔を洗った。&#160;3:30。&#160;スマートフォンを握る。&#160;3:32。&#160;真奈はベッドの横に立った。&#160;3:33。&#160;画面が点いた。&#160;写真。&#160;真奈は見た。&#160;ベッドの上。&#160;眠っている自分。&#160;その横に、&#160;もう一人の真奈が座っている。&#160;真奈は現実のベッドを見る。&#160;空。&#160;写真へ戻る。&#160;二人。&#160;眠っている真奈。&#160;座っている真奈。&#160;座っているほうが、&#160;こちらを見ている。&#160;その表情は、&#160;笑っていなかった。&#160;怒ってもいない。&#160;ただ、&#160;待っている。&#160;写真が消えた。&#160;部屋の照明が一瞬暗くなった。&#160;ベッドが、&#160;きしんだ。&#160;真奈は振り向かなかった。&#160;背後に誰かがいる。&#160;分かった。&#160;呼吸は聞こえない。&#160;足音もない。&#160;けれど、&#160;誰かがいる。&#160;真奈は玄関まで走った。&#160;ドアを開ける。&#160;廊下。&#160;誰もいない。&#160;真奈は外へ飛び出した。&#160;エレベーターを待たず階段を走る。&#160;五階。&#160;四階。&#160;三階。&#160;二階。&#160;一階。&#160;エントランス。&#160;外へ出た。&#160;雨。&#160;真奈は振り返った。&#160;マンション。&#160;五〇六号室の窓。&#160;灯りがついている。&#160;真奈は止まった。&#160;カーテンの隙間。&#160;誰かが立っている。&#160;真奈。&#160;自分だった。&#160;窓から、&#160;自分がこちらを見ている。&#160;真奈は走った。&#160;その晩はホテルに泊まった。&#160;翌朝。&#160;写真は来なかった。&#160;真奈は安心した。&#160;二日目。&#160;来ない。&#160;三日目。&#160;来ない。&#160;会社にも戻った。&#160;新しい部屋も探し始めた。&#160;マンションの名前はまだ言えなかった。&#160;それでも構わないと思った。&#160;もう戻らなければいい。&#160;一週間後。&#160;真奈は新しいワンルームを契約した。&#160;八階。&#160;新築。&#160;オートロック。&#160;防犯カメラ。&#160;スマートホーム。&#160;全部確認した。&#160;引っ越し初日。&#160;真奈は久しぶりに安心して眠った。&#160;朝。&#160;スマートフォン。&#160;写真。&#160;真奈は息を止めた。&#160;新しいベッド。&#160;新しい部屋。&#160;眠っている自分。&#160;撮影時刻。&#160;3:33。&#160;写真の中の真奈の横に、&#160;もう一人の真奈が眠っていた。&#160;真奈は震えた。&#160;次の朝。&#160;写真。&#160;三人。&#160;次。&#160;四人。&#160;毎晩、&#160;一人ずつ増えた。&#160;全員、&#160;同じ顔。&#160;同じ身体。&#160;同じ服。&#160;同じ寝姿。&#160;ベッドの上に収まらなくなった。&#160;床。&#160;ソファ。&#160;壁際。&#160;部屋いっぱいに、&#160;眠る真奈が増えていった。&#160;十六日目。&#160;真奈は会社を休んだ。&#160;誰にも電話しなかった。&#160;スマートフォンを壊した。&#160;金槌で叩いた。&#160;画面が割れた。&#160;電源も入らない。&#160;その夜。&#160;3時33分。&#160;割れた画面が光った。&#160;写真。&#160;部屋いっぱいの真奈。&#160;数えることができない。&#160;何十人。&#160;その中で、&#160;一人だけ、&#160;目を開けていた。&#160;真奈は写真を見た。&#160;目を開けている真奈は、&#160;他の真奈を見ていなかった。&#160;カメラを見ていた。&#160;真奈はスマートフォンを落とした。&#160;写真の中のその一人が、&#160;ゆっくり口を開いた。&#160;音はない。&#160;しかし真奈には、&#160;何を言っているのか分かった。&#160;もう寝ていいよ。&#160;翌朝。&#160;出版社から真奈へ電話が入った。&#160;出ない。&#160;昼。&#160;出ない。&#160;夜。&#160;出ない。&#160;翌日、&#160;同僚が警察へ連絡した。&#160;新しいマンションの管理人と警察が部屋を開けた。&#160;室内は静かだった。&#160;争った跡はない。&#160;荷物。&#160;服。&#160;財布。&#160;鍵。&#160;すべてある。&#160;真奈だけがいない。&#160;ベッドも空だった。&#160;床に、&#160;画面の割れたスマートフォン。&#160;電源は入らない。&#160;警察は端末を回収した。&#160;数日後。&#160;データを確認したが、&#160;写真は一枚も残っていなかった。&#160;事件性なし。&#160;行方不明。&#160;それで終わった。&#160;二か月後。&#160;五〇六号室に新しい住人が入った。&#160;二十六歳の女性。&#160;会社員。&#160;引っ越し初日。&#160;荷物を整理し、&#160;シャワーを浴び、&#160;午前一時ごろ眠った。&#160;翌朝。&#160;目を覚ます。&#160;スマートフォン。&#160;写真が一枚表示されていた。&#160;知らない部屋。&#160;知らないベッド。&#160;知らない女性たち。&#160;同じ顔をした女が、&#160;何十人も折り重なるように眠っている。&#160;その中の一人だけが、&#160;目を開けていた。&#160;新しい住人は画面に顔を近づけた。&#160;目を開けている女が、&#160;少し笑った。&#160;そして写真の一番奥。&#160;暗い部屋の隅に、&#160;もう一人、&#160;誰かが立っていた。&#160;新しい住人自身だった。&#160;撮影時刻。&#160;午前3時33分。最後に5つの物語に登場した人々は、最初から危険な場所へ向かったわけではありません。&#160;佐伯は、いつも通りマンションを管理していただけでした。&#160;蓮は、新しいアプリを一つ入れただけでした。&#160;美紀は、昔の家族写真を整理していただけでした。&#160;浩一は、人生の時間を少し増やしたいと思っただけでした。&#160;真奈は、自分の部屋で眠っていただけでした。&#160;しかし、どの物語にも共通していることがあります。&#160;怪異が彼らの一番弱い場所へ入り込んだことです。&#160;佐伯にとって、それは亡くした妻への思いでした。&#160;蓮にとって、それは誰かに必要とされたいという孤独でした。&#160;美紀にとって、それは家族と記憶でした。&#160;浩一にとって、それは時間への不足感でした。&#160;真奈にとって、それは「自分は一人の人間である」という感覚でした。&#160;だから恐怖は、単なる外敵ではありません。&#160;人間の願いと結びついた瞬間に、逃げにくくなります。&#160;帰ってきてほしい。&#160;誰かに見つけてほしい。&#160;家族を失いたくない。&#160;もっと長く生きたい。&#160;自分だけは自分でありたい。&#160;どれも、ごく自然な願いです。&#160;しかし、この5つの物語では、その願いが少しだけ違う方向へ進みます。&#160;失くしたものが本当に戻ってきたら。&#160;誰かが本当に自分だけを探し続けたら。&#160;家族の記憶のほうが自分より正しかったら。&#160;時間を無限に増やせたら。&#160;自分がもう一人存在していたら。&#160;願いと恐怖は、意外と近い場所にあるのかもしれません。&#160;そして一番不気味なのは、5つの怪異の正体が完全には分からないことです。&#160;304号室は何だったのか。&#160;Mは誰だったのか。&#160;翔太は本当に存在していたのか。&#160;睡眠銀行は浩一の脳に何をしたのか。&#160;午前3時33分に写真を撮っていたのは誰なのか。&#160;答えは残されません。&#160;けれど、答えがないからこそ、物語は読み終えた後にも続きます。&#160;今夜届く宅配便。&#160;スマートフォンの距離表示。&#160;家族アルバムの端。&#160;眠る直前の数秒間。&#160;午前3時33分。&#160;いつもの日常が、昨日までとまったく同じに見えるとは限りません。Short Bios:&#160;佐伯正志&#160;58歳。東京郊外のマンション管理人。&#160;妻の美智子を三年前に亡くし、一人で静かな生活を送っている。過去に失くした物が空室304号へ届き始めたことで、恐怖よりも「妻につながる何かが戻ってくるかもしれない」という思いに惹かれていく。&#160;物語：『空室304号の宅配便』&#160;美智子&#160;佐伯正志の亡き妻。&#160;物語開始時にはすでに亡くなっているが、彼女が残した指輪、ヘアピン、香水、写真が佐伯を304号室へ引き寄せていく。怪異が本当に美智子と関係していたのかは分からない。&#160;高橋蓮&#160;20歳。大阪の大学生。&#160;友人はいるものの、人との深いつながりを作ることが苦手。近くの人と出会えるアプリを入れ、「M」という存在から追跡され始める。恐怖を感じながらも、自分だけを探してくれる存在に少しずつ惹かれてしまう。&#160;物語：『0メートル』&#160;M&#160;正体不明のアカウント。&#160;最初は蓮から7.8km離れていたが、毎晩距離を縮めていく。外から蓮へ近づいていたように見えた存在は、やがて「中へ入った」と告げる。&#160;高橋美紀&#160;44歳。横浜に暮らす母親。&#160;夫、娘、息子との四人家族だと思っていたが、古い写真の中に知らない長男「翔太」を発見する。家族全員が翔太を覚えている一方、美紀だけには彼の記憶がない。やがて美紀自身の存在まで、家族の記憶から消え始める。&#160;物語：『知らない子供』&#160;高橋翔太&#160;22歳。&#160;美紀以外の家族にとっては、ごく普通の長男。幼いころからの写真、母子手帳、家族LINEにも存在している。美紀に忘れられたことを知り、「俺だけ忘れたの？」と問いかける。&#160;村上浩一&#160;47歳。東京の会社員。&#160;仕事に追われ、「もっと時間があれば」と願っていた。睡眠中に長い主観時間を体験できる睡眠銀行を利用し、現実では数か月しか経っていない間に、意識の中では百年以上の人生を経験していく。&#160;物語：『睡眠銀行』&#160;村上由美&#160;45歳。浩一の妻。&#160;浩一が現実から遠ざかっていく様子を見守り続ける。最後の夜、妻である自分を忘れてしまうことを恐れる浩一へ、「そのときは、また教える」と答える。&#160;村上杏奈&#160;5歳。浩一と由美の娘。&#160;現実ではまだ幼いが、浩一は夢の中で彼女の成長、結婚、老い、死まで経験してしまう。浩一にとって「今ここにいる5歳の娘」と「何十年も前に亡くした娘」が重なっていく。&#160;森川真奈&#160;32歳。出版社勤務。&#160;東京の古いマンションで一人暮らしをしている。午前3時33分になると、自分が眠っている写真がスマートフォンに表示されるようになる。写真の中の「もう一人の自分」が増え続け、自分という存在そのものが揺らぎ始める。&#160;物語：『午前3時33分の写真』&#160;一ノ瀬&#160;真奈の隣室に住む60代の女性。&#160;真奈と同じ午前3時33分の写真を受け取っていた住人の一人。真奈が初めて「自分だけではなかった」と知るきっかけになる。&#160;木村&#160;マンション六〇二号室の住人。&#160;3時33分まで眠らずにいれば怪異の正体を確認できると考え、住民たちと実験を行う。しかし彼の写真だけには誰も眠っておらず、その直後、密室状態の部屋から姿を消す。]]></description>
		
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