
Jane Doe 歌詞 意味を考えたとき、多くの人は“失恋”を思い浮かべます。
でも本当に残るのは、終わった恋ではなく「存在していた証拠の感覚」です。
名前を呼べなかった人。
未来を約束しなかった関係。
それでも確かに温度だけは残っている記憶。
この短編集は、物語としてその感情を触れる形にしたものです。
説明では届かない余韻を、体験として読むために。
終わらない夜の泳ぎ方

薄い青い照明が、水面に細い線を描いている。閉館後の屋内プールは、世界から切り離されたみたいに静かだった。消毒の匂いが鼻の奥に残り、濡れたタイルはひんやり冷たい。遠くで換気扇が回る低い音だけが、時間がまだ動いている証拠みたいに響く。
デンジ「ほんとに誰もいねえんだな。こういうとこ、勝手に入るのって悪いことなんだろ」
レゼ「悪いことだよ。だから楽しいんじゃない」
レゼは笑う。笑い方が軽いのに、目だけは水面みたいに落ち着いている。デンジはその落ち着きが、時々怖い。自分の心が勝手に引っ張られる。
デンジ「前にさ。泳ぎ方、教えるって言ったじゃん」
レゼ「言った。覚えてるよ」
レゼはプールサイドに座り、足を水につける。水が小さく揺れて、青い光がレゼの足首に割れて映る。デンジも同じように座るが、身体がぎこちない。水の冷たさに少し息を吸う。
デンジ「オレ、今までさ。こういうの、ちゃんとしたことないんだよな。プールも。デートも」
レゼ「じゃあ今、初めてだ」
デンジ「初めてって、いいのか悪いのかわかんねえ」
レゼ「どっちでもいい。初めては初めて」
レゼは手で水をすくって、指の間から落とす。ぽたぽたと落ちる音が、やけに大きい。デンジはその音を聞きながら、自分の中の焦りを誤魔化す。
デンジ「なあ、レゼ。お前さ。オレのこと、なんで優しくすんの」
レゼは一瞬だけ止まる。止まったのは手の動きだけで、表情は変わらない。
レゼ「優しいかな」
デンジ「優しいだろ。普通の女の子みてえに笑うし。普通の話するし。たまに、変なこと言うけど」
レゼ「普通って、何」
デンジ「わかんねえ。けど、こういうの」
デンジは水面を指さす。何も起こらない時間。誰にも追われてない気がする時間。レゼといると、その時間が手に入る。だから余計に不安になる。
レゼ「じゃあ、普通をあげてるんだね。少しだけ」
デンジ「少しだけって言い方、やめろよ。終わるみてえじゃん」
レゼの視線が、天井の照明の方へ流れる。そこに何か答えがあるみたいに。でも、答えは降りてこない。
レゼ「終わるものは、終わるよ」
デンジ「ふざけんな。そんなの、当たり前に言うな」
デンジは声が少しだけ強くなる。すぐ後悔する。大きい音が、静い空間で痛いくらい響いたから。
レゼ「ごめん。怒らせたいわけじゃない」
デンジ「怒ってねえ。怖いだけだ」
レゼ「何が」
デンジは口を開きかけて、閉じる。言ったら壊れる気がした。言わなければ、今は続く気がした。デンジは続いてほしかった。
デンジ「オレさ、ずっと思ってた。オレみたいなやつが、誰かに好きって思われるの、変じゃねえかって」
レゼ「変じゃないよ」
デンジ「でも、変だろ。オレ、汚いし。金もねえし。頭もよくねえし」
レゼ「それ、誰かに言われたの」
デンジ「言われたっていうか。そういうもんだと思ってた」
レゼは水から足を上げ、タオルで拭く。丁寧すぎる動作が、逆に胸を締めつける。丁寧な人ほど、急にいなくなる気がする。
レゼ「デンジ。もし、明日が来ないって分かってても、今日を生きるでしょ」
デンジ「それは…生きるしかねえから」
レゼ「じゃあ同じ。今日、ここにいるのは、ここにいるしかないから」
デンジ「それ、逃げじゃねえの」
レゼ「逃げだよ。私は逃げたい」
レゼは正直すぎる声で言う。その言い方が、嘘みたいに真っ直ぐで、デンジは喉が詰まる。
デンジ「どこから」
レゼ「名前とか。役割とか。そういうの」
デンジは、胸の奥がざわつく。名前。役割。自分も同じだ。チェンソーだとか、犬だとか。そういう呼ばれ方ばかりが頭をよぎる。
デンジ「じゃあさ。お前の本当の名前、教えろよ」
レゼは少しだけ笑う。でも、すぐ笑えなくなる。
レゼ「教えたら、あなたは私を覚えられる」
デンジ「覚えるに決まってんだろ」
レゼ「覚えられるのって、時々、罰だよ」
デンジは返事ができない。自分は覚えたい。忘れたくない。なのに、レゼは覚えられたくないみたいに見える。そこに、壁がある。
デンジ「じゃあ、俺が勝手に呼ぶ。好きな名前つける。どうだ」
レゼ「それ、優しいね」
デンジ「優しいとかじゃねえ。ほしいんだよ。お前がここにいた証拠が」
レゼはプールを見つめる。水面が静かすぎて、空が閉じ込められているみたいだ。
レゼ「証拠って、残ると痛いよ。残らないともっと痛いけど」
デンジ「どっちにしろ痛いじゃねえか」
レゼ「だから、今は痛くないことをしよう」
レゼは立ち上がり、デンジに手を差し出す。手のひらは温かそうで、デンジの指先は冷たい。触れた瞬間、温度が混ざる。
レゼ「泳ぎ方、教える。ちゃんと」
デンジ「今さらかよ」
レゼ「今だから」
二人はそっと水に入る。足首、膝、腰へと冷たさが上がってくる。デンジは思わず息を止める。
レゼ「息、止めない。力を抜いて。水は敵じゃない」
デンジ「敵のほうが分かりやすいんだよ」
レゼ「じゃあ、今日は水を味方にする日」
レゼはデンジの背中に手を当て、ゆっくり浮かせる。水がデンジを受け止める。怖いのに、少し気持ちいい。
デンジ「なあ、レゼ」
レゼ「うん」
デンジ「明日さ…」
言葉が喉で止まる。明日のことを言うと、明日が現実になってしまう。現実になると、終わりが近づく気がする。デンジは水面を見て、そこに映る自分の顔が、いつもより子どもっぽく見えるのに気づく。
レゼ「明日、どうしたい」
レゼは答えを急がない。プールの青い光が二人の間にゆっくり揺れる。デンジは浮いたまま、少しだけ笑う。
デンジ「明日も、こういうのがいい」
レゼ「じゃあ、明日もこういうのを探そう」
デンジ「探すって…あるのかよ」
レゼ「あるよ。たぶん。小さいのは」
デンジは水に身を任せる。レゼの手が離れても、沈まない。浮いていられる。ほんの数秒だけ、世界が優しい気がした。
デンジ「お前さ、たまにすげえ真面目だよな」
レゼ「真面目じゃない。必死なだけ」
レゼは少し笑って、デンジの額にかかった水を指で払う。触れた指先が短くて、短いのに焼きつく。
レゼ「必死な人は、普通を大事にするの」
デンジ「じゃあ、オレも必死だ」
レゼ「知ってる」
レゼはそこで言葉を止める。止めた理由は、デンジにも分かる気がした。言いすぎたら壊れる。だから、壊れないギリギリの場所で止める。二人は水の上で、まだ続きそうな沈黙を抱えたまま、ゆっくり呼吸を合わせていく。
名もなきタグに、ひかりを

蛍光灯が一つだけ点いている。病院の地下は、昼と夜の区別がない。空気は冷たく、金属と消毒液の匂いが混ざって、喉の奥に残る。壁の向こうからは、遠くでエレベーターが動く低い振動が伝わってきた。
搬入口の扉が静かに開く。小さなストレッチャーが押されて入ってくる。白いシーツの端から、濡れた髪が少しだけ覗いていた。手首には、紙のタグが結ばれている。
「Jane Doe」
名前の欄は、まるで最初から空白として用意されていたみたいに、きれいに空いていた。
当直の職員である中年の男は、ストレッチャーを定位置に寄せてから、いつもの手順で記録用紙を確認する。けれどペン先は止まった。どこまで見ても、埋めるべき情報がない。年齢も、住所も、連絡先も。
扉の外から足音がした。かすれた息が混じる、急いだ足音。階段を駆け下りてきた誰かが、地下の空気に飲まれて立ち止まる。
若い女が一人、そこにいた。制服の上から薄いコートを羽織り、髪は乱れ、頬が赤い。目は泣いていないのに、まぶたの縁が熱を持っている。
「すみません」
声が震えるのを、女は無理に抑えた。
「ここに…運ばれてきた人、いますよね。プールで」
当直の男は、答える前に一呼吸置いた。言葉を選ぶというより、沈黙が必要な場所だった。
「確認したいんです」
女は言った。
「その人が…その人かどうか」
当直の男は、ストレッチャーの横に立ったまま、女を見た。経験上、こういう人は何人もいた。見つからない誰かを探して、現実が追いつく直前まで希望を握っている顔。
「身元確認は、手続きが必要になります」
男が言うと、女は小さく頷いた。分かっている、という頷きだった。
「でも」
女は続ける。
「お願いです。少しだけでいいんです。顔を…見せてください」
当直の男は、シーツの端を指でつまんだ。引く手がほんの少し重い。重いのは布のせいではなく、これから起こることの重さだった。
シーツが静かにめくられ、顔が見える。
女は息を止めた。ほんの一秒。次の瞬間、胸の奥が沈むように息が漏れた。
「…やっぱり」
それだけ言って、女は目を閉じた。泣かない。泣くと崩れるから。崩れたら、最後の形さえ失う気がした。
当直の男はシーツを戻す。丁寧に。余計な音を立てないように。世界が静かすぎるせいで、小さな布擦れさえ、叫びみたいに響くからだ。
女はタグを見た。
「Jane Doe…」
言葉にした瞬間、その名前が誰でもない人のものになってしまう気がして、女は唇を噛んだ。
「あなたは…その人を知ってるんですか」
男が尋ねると、女は首を横に振った。違う、と言いながら、違わない目をしていた。
「知らないんです。ちゃんとは」
女はゆっくり言った。
「でも…昨日、会ったんです。たぶん。たぶん、っていうのも変だけど」
当直の男は黙って聞いた。地下では、急かすことが残酷になる。
女は手を握りしめる。
「昨日、プールの前で。雨が降ってて。傘を持ってなくて、私は濡れてた。そしたら、その人が…タオルを貸してくれたんです」
女は笑おうとする。笑えない。口角だけが動いて、目が動かない。
「すごく普通に、『寒いでしょ』って」
当直の男はタグを見た。名前がない。その代わりに、細い文字で番号が書いてある。番号は、彼女を彼女として扱うための最低限のものだ。けれどそれは、彼女の人生ではない。
「その人、笑ってました」
女は続ける。
「悪いことしてるみたいに笑って。だけど、目は…すごく静かで。私はそれが、なんか、忘れられなくて」
当直の男は、職務としては聞かなくてもいい話を聞いていた。けれど人としては、聞かなければならない気がした。
「それで、名前を聞いたんですか」
女は首を振る。
「聞けなかった。聞いたら、終わる気がして」
当直の男は、その言葉に軽く目を伏せた。終わる気がして聞けなかった。終わったから、今ここにいる。二つの点が一本の線で繋がってしまうと、人は息ができなくなる。
女はストレッチャーの端にそっと触れた。シーツの上から。触れてはいけないものを触れるみたいに。
「名前がなくても…この人、ちゃんといたんですよね」
当直の男は答えた。
「ええ。いました」
「じゃあ」
女は小さく頷く。
「せめて、ここでは。ここだけでは、ちゃんと人にしてあげたい」
当直の男はペンを持ち上げた。記録用紙の余白に、規定外のことを書くのは本当は良くない。けれど規定が救えないものもある。
「特徴を書きましょう」
男は言った。
「髪の色、指の傷、爪の形。身元が分からなくても、誰かの記憶に繋がることがある」
女は少しだけ息を吸い直した。涙が出そうで、出ない。涙の代わりに、声が静かになった。
「あと、ひとつだけ」
女は言った。
「その人、タオルを貸してくれたんです。白い、古いタオル。端が少しほつれてて」
当直の男は頷いた。
「それも書きます」
女は目を閉じる。そして、口の中だけで何かを言った。祈りみたいに、でも祈りより具体的に。
「ありがとう」
当直の男は記録用紙に書く。名前の欄は空白のままでも、紙の上に少しずつ輪郭が生まれていく。
その輪郭は、世界に対する反抗みたいに小さい。だけど地下の蛍光灯の下では、確かに光っていた。
女は最後にもう一度タグを見て、そっと言った。
「Jane Doe。あなたは、誰でもない人じゃない」
当直の男はペンを置き、低い声で言った。
「ここでは、あなたの言葉が名前になります」
地下の静けさの中で、その一言は長く残った。記録には残らないかもしれない。けれど誰かの胸の中には、ちゃんと残る。名前がないままでも、存在は消えない。少なくとも、今この場所では。
夜明けのホームで、嘘をひとつだけ

駅のアナウンスが、まだ眠っている街にだけ届くような小さな声で流れていた。始発前のホームは薄暗く、蛍光灯の白さが寒さを強調する。自動販売機の光だけがやけに明るく、缶コーヒーの湯気が一瞬だけ生き物みたいに揺れて消えた。
改札の向こうから人影が来る。足音は急いでいるのに、迷いが混ざっている。息が乱れて、肩が小さく上下する。
スパイは、柱の影でその姿を見つけた。会いたくて来た。会ってはいけないのに来た。胸の奥の何かが、任務の言葉より強くなってしまった。
相手は、いつものように薄いコートを着ていた。眠そうに目を擦り、髪をまとめきれていない。たぶん急いで家を出てきたのだろう。そういう無防備さが、スパイには眩しすぎた。
ターゲット「来たんだ」
スパイ「来た」
短い返事。短いのに、喉が熱い。言葉が喉の壁に引っかかる。ここで長く話せば話すほど、戻れなくなる。
ターゲットは近づいて、スパイの顔を覗く。目の下の疲れに気づいたみたいに、少し眉が動く。
ターゲット「顔色悪い。寝てないでしょ」
スパイ「…仕事が」
ターゲットは笑いかけて、途中でやめた。笑い方を止めた瞬間が、妙に痛い。
ターゲット「仕事って、いつも曖昧だよね。何の仕事なのって聞くと、急に遠くを見る」
スパイは視線を逸らす。返せる言葉がない。返すべき言葉がある。言えば終わる言葉がある。
始発の到着まで、あと十五分。掲示板の時間は正確で、心は正確じゃない。
スパイはポケットから二つの紙コップを出した。自販機で買った。苦い方と、甘い方。いつもターゲットが「今日は甘いのがいい」と言う日があるから、両方買ってしまう癖がついた。
スパイ「これ。どっちがいい」
ターゲットは驚いた顔をして、少しだけ笑った。
ターゲット「…覚えてたんだ」
スパイ「覚えるよ」
言った瞬間、自分の言葉が怖くなる。覚える。覚えてしまう。記憶は、任務より重くなることがある。
ターゲットは甘い方を受け取る。両手で包むように持つ。白い息がコップの縁に触れて消える。
ターゲット「ねえ。私、あなたのこと、ほんとは何も知らないよね」
スパイは答えない。答えないことが答えになってしまうのが怖い。
ターゲットは続ける。
ターゲット「でもさ、知ってる気がするんだよ。あなたって、嘘つくの下手」
スパイの肩がほんの少しだけ固くなる。ターゲットはその反応を見逃さない。
ターゲット「当たってる?」
スパイ「…当たってる」
ターゲットはうなずく。笑わない。責めない。そこがいちばん残酷だった。
ターゲット「じゃあ、ひとつだけ教えて」
スパイは言葉を飲む。ひとつだけ。ひとつだけなら。ひとつだけでも。
ターゲットはまっすぐ目を見た。
ターゲット「あなた、私を傷つけるために近づいたの?」
スパイの体の中で、冷たいものと熱いものが同時に流れる。任務の答えは「はい」だ。心の答えは「いいえ」だ。どちらも真実で、どちらも嘘みたいだった。
スパイはゆっくり息を吐いて、言った。
スパイ「最初は…そうだった」
ターゲットの瞳が揺れる。揺れたのに、壊れない。壊れない努力をしている。
ターゲット「じゃあ今は」
スパイは答えられない。答えたら、後戻りできない。だから、半分だけ言う。
スパイ「今は…それだけじゃない」
ターゲットは甘いコーヒーを一口飲む。飲んでから、目を閉じる。喉の奥で何かが詰まったみたいに、一瞬言葉が出ない。
ターゲット「…それ、ずるい」
スパイ「ごめん」
ターゲット「謝るのもずるい。あなたが謝ると、私が許さなきゃいけない気になる」
スパイは手を握りしめる。指先が白くなる。次の言葉は刃になる。刃だと分かっていても、言わなければならない。
スパイ「今日で、最後にする」
ターゲットの顔から、血の気がすっと引く。
ターゲット「最後って、何」
スパイ「会うの。全部」
ターゲット「なんで」
スパイは本当の理由を言わない。本当の理由を言えば、ターゲットを危険に巻き込む。だからスパイは、嘘を選ぶ。優しい嘘。薄い嘘。ほんの一枚の紙みたいな嘘。
スパイ「…私、遠くに行く」
ターゲットは笑いそうになって、やめる。
ターゲット「遠くって、どこ」
スパイ「名前のないとこ」
ターゲットはその言葉を聞いて、少しだけ息を吸う。名前のないところ。そこには帰る場所がない。そこには連絡先もない。そこには、二人の続きもない。
ターゲット「ねえ」
ターゲットは小さく言う。
ターゲット「もし、全部が違ったら。あなたが普通の人で、私も普通で…ただ駅で会って、コーヒー買って…そういう世界だったら、どうしてた」
スパイは胸が痛い。痛すぎて、逆に表情が動かない。
スパイ「…その世界なら、嘘つかなかった」
ターゲットは目を伏せる。ホームの端にある線路を見つめ、そこに落ちた小さな紙くずを見ている。見ているふりをして、涙を隠している。
ターゲット「じゃあさ」
ターゲットは声を整える。
ターゲット「最後に、普通の朝をやって。任務も、理由も、全部置いて。十五分だけ」
スパイは頷きそうになる。頷いたら、世界が壊れる。壊れたら、ターゲットが傷つく。傷つくのは嫌だ。でも、今すでに傷つけている。
スパイは頷いた。
スパイ「十五分だけ」
ターゲットは少し笑う。笑いが、涙の代わりみたいに揺れる。
二人はベンチに座る。肩が触れそうで、触れない距離。触れたら、もっと欲しくなる。欲しくなったら、終わるのが無理になる。
アナウンスが流れる。始発が近づく音。風がホームを抜ける。コーヒーの湯気が細くなる。
ターゲット「ねえ。名前、教えて」
スパイは一瞬、世界が止まる気がした。名前は、相手を現実にする。現実にすると、別れが確定する。確定すると、今が壊れる。
スパイは、最後の嘘をひとつだけ足す。
スパイ「…ジェーン」
ターゲットは驚いた顔をして、すぐに分かった顔になる。
ターゲット「それ、嘘だ」
スパイ「うん」
ターゲット「でも、ありがとう」
ありがとう。嘘に対してありがとうと言われると、心が裂ける。スパイは笑えない。代わりに、目だけを閉じる。
電車のライトがトンネルの向こうに見える。光が近づくほど、時間が減っていく。
ターゲットは立ち上がり、スパイの前に立つ。
ターゲット「行くんだね」
スパイ「行く」
ターゲット「…行かないでって言ったら」
スパイは喉が震えた。答えは簡単だ。行かない。そう言えばいい。そう言って、二人で走ればいい。でも走っても、世界は追ってくる。追ってくる世界の方が、速い。
スパイは小さく首を振る。
スパイ「言わないで。お願い」
ターゲットは頷く。頷くしかない。頷きたくないのに。
電車が止まり、扉が開く。暖かい空気が一瞬だけ流れ出す。スパイは一歩だけ近づき、ターゲットの手首にそっと触れた。握らない。握ったら離せなくなるから。触れるだけ。触れた証拠だけ。
スパイ「忘れていいよ」
ターゲットは首を振る。
ターゲット「忘れない。でも、あなたが望むなら、名前だけは忘れる」
その言葉が、いちばん優しい。だからいちばん痛い。
スパイは電車に乗り込む。扉が閉まる直前、ターゲットは口を動かす。声は聞こえない。けれど唇の形で分かる。
「行って」
電車が動き出す。ホームの景色が流れる。ターゲットは小さくなっていく。やがて点になり、点は消える。
スパイは座席に座り、紙コップの蓋を指でなぞった。甘い方の匂いがまだ残っている。
名前のない朝だけが、胸の中に残った。
嘘をひとつだけ残して。
影のない海で、やっと本当の顔に会えた

波の音がするのに、水は濡れていなかった。砂浜は白く、足跡は残るのに、次の瞬間にはふっと薄れる。空は朝でも夕方でもなく、ずっと「一番やさしい光」のまま止まっている。眩しいのに目が痛くならない場所だった。
そこには影がない。人にも、木にも、石にも。
だから、嘘も影も置いていける。
彼が先に立っていた。服装はどこか曖昧で、何かの制服にも、ただのシャツにも見える。肩の力が抜けているのに、ずっと緊張していた人特有の硬さが、まだ残っていた。
海の方から、彼女が歩いてくる。足音は聞こえないのに、近づくほど胸がざわつく。髪が風に揺れて、笑いそうで笑わない表情。懐かしいのに、初めて会うみたいだった。
二人は、数歩の距離で止まった。
彼「…来たんだ」
彼女「来たよ。来られた」
彼女は声を出して笑う。笑いが軽いのに、涙の匂いがする。彼はそれを見て、息を吸い直した。生きていた頃みたいに、何か言葉を選ぼうとする癖が出る。
でも、ここでは選ばなくていい。
彼女「ねえ。ここ、変だね」
彼「影がない」
彼女「そう。影がないと、安心する。隠れなくていいから」
彼は頷く。頷きながら、喉の奥が痛くなる。隠れなくていい。つまり、生きていた時はずっと隠れていた。二人とも。
彼女は彼の手を見た。彼の指先。生前はいつも、緊張で少し白かった指。今は、温かい色をしている。
彼女「あなた、手が怖くない顔してる」
彼「怖い顔って何だよ」
彼女「責任の顔。仕事の顔。言えないことを抱えた顔」
彼は目を伏せる。言われて嬉しいわけじゃないのに、言い当てられると救われる。相手が見ていたということだから。
彼「お前もだ」
彼女「うん。私も」
二人の間に沈黙が落ちる。沈黙が痛くない。沈黙が「言葉を待ってる」感じもしない。ただ、波の音と同じようにそこにある。
彼女が、ぽつりと言う。
彼女「名前、覚えてる?」
彼は胸がきゅっと縮む。生前、最後まで言えなかったこと。言えば壊れると思っていたこと。
彼「…覚えてる。でも、言っていいのか分からない」
彼女は笑う。
彼女「ここでは、言っていいよ。言っても壊れない。壊すものがない」
その言い方が優しすぎて、彼は目を閉じた。壊すものがない。つまり、生前は壊れるものだらけだった。命、任務、正体、誰かの未来。
彼は目を開け、ゆっくり言った。
彼「俺の本当の名前は…」
口にした瞬間、胸の中に溜まっていた固い塊が、音もなく崩れる。名前が言葉になって外に出るだけで、こんなに軽くなるのかと驚いた。
彼女は静かに頷いた。
彼女「きれいな名前だね」
彼「お前は」
彼女は少しだけ息を吸う。胸が動く。ここでは呼吸も必要ないのに、呼吸が癖として残っている。それが妙に愛しかった。
彼女「私の名前は…」
彼女も名前を言う。短い音。柔らかい響き。彼はその音を胸の奥で何度も繰り返す。覚えるためじゃない。味わうために。
彼「なんで、あの時言わなかったんだろうな」
彼女は海の方を見る。海は広いのに、怖くない。落ちても沈まない海。
彼女「言ったら、現実になっちゃう気がした。現実になったら…戻れない」
彼「戻りたかったのか」
彼女「戻りたかった。普通の世界に戻りたかった。あなたと、普通の人として」
彼は頷く。自分も同じだ。普通の人として朝を迎えたかった。コーヒーを買って、駅で笑って、明日を約束したかった。
彼は砂を握る。握っても手に残らない。砂はすぐ光になって消える。握っても残らない。それが、ここでのルールだ。
彼「なあ。生きてる時、俺たち、何回『逃げよう』って思った」
彼女「いっぱい」
彼「実際は逃げなかった」
彼女「逃げられなかった。逃げるには、世界が大きすぎた」
彼女は彼の顔を見て言う。
彼女「でもね。逃げようって思ったこと自体は、本当だったよ。嘘じゃなかった」
その言葉で、彼は救われる。逃げたかった気持ちが、罪じゃなくなる。
彼女は少しだけ笑って続ける。
彼女「あなた、最後に『忘れていい』って言ったでしょ」
彼「言った」
彼女「あれ、優しさだった。でも…私には無理だった」
彼「覚えてたのか」
彼女「覚えてた。名前は知らなくても。顔は、時間が経つほど曖昧になるのに、感情だけ残った」
影がない場所で、彼女の瞳だけが少し揺れる。揺れは涙に近い。でも涙は落ちない。落ちても消えるだけだから。
彼は一歩だけ近づく。彼女も一歩だけ近づく。触れたいのに、触れたら終わる癖が残っている。
彼「ここでは、触れても終わらない?」
彼女「終わらないよ。終わるものがないから」
二人はそっと手を取る。手の温度がある。温度があるだけで、世界が「生きていた」ことになる。生前は触れるだけで失うものが増えた。今は触れるだけで取り戻すものが増える。
彼女は手を握りながら言う。
彼女「ねえ。あの時の私たちってさ…お互いを救えたのかな」
彼は考える。ここでは考える時間が無限にある。でも答えはすぐ出た。答えは、ずっと胸の奥にあった。
彼「救えたと思う。でも、救うって何だろうな」
彼女「生き残ること?」
彼「違う。生き残っても、心が死ぬなら救いじゃない」
彼女は頷く。
彼女「じゃあ、心が生きること」
彼「そう。俺はお前といた時、心が生きてた」
彼女は息を吸って、吐いて、笑う。笑いがやっと「普通」になる。
彼女「私も。短かったけど、ちゃんと生きてた」
二人は波打ち際を歩く。波は足に触れないのに、冷たさだけが少し伝わる。生きていた頃の記憶が、優しく模様みたいに戻ってくる。
彼が言う。
彼「もし、もう一回やり直せたら」
彼女はすぐ答える。
彼女「同じ場所で会う。今度は最初に名前を言う」
彼「俺も。最初に言う。嘘つかない」
彼女は笑って言う。
彼女「でも、やり直せないからこそ、ここがあるのかもね」
彼は頷く。やり直せない。だからこそ、今ここで言えることがある。生前、言えなかったことがある。
彼は立ち止まり、彼女の手を握り直す。
彼「…好きだった」
彼女は一瞬だけ目を見開き、すぐに目を細める。怒らない。驚かない。待っていたみたいに受け取る。
彼女「知ってた」
彼「なんで」
彼女「触れたときの手が、そう言ってた」
二人は少し笑う。笑いが波に混じって広がる。影のない海で、嘘がほどけていく。
彼女が最後に言う。
彼女「ねえ。もうJane Doeじゃないよね」
彼は頷く。
彼「もう、誰でもない人じゃない」
彼女はその言葉を胸に入れるみたいに目を閉じる。
この場所では、名前は消えない。正体も消えない。愛も消えない。消えるのは、恐れだけだ。
二人は、影のない光の中を、ゆっくり歩いていった。まだ話すことがある顔で。まだ終わらない声で。
その夜の台所で、未来のあなたが座った

台所の電気は一つだけ点いていた。夜の家は、昼よりずっと広く感じる。冷蔵庫のモーター音が途切れ途切れに鳴って、時計の針の音がやけに大きい。窓の外は真っ暗で、街灯の光がカーテンの端に薄く滲んでいた。
テーブルの上には、途中までの宿題。鉛筆。消しゴムのカス。折り目がついたプリント。小さなコップに残った水。今日の生活が、まだここにある証拠が散らばっていた。
母親の美咲は、椅子に座ったまま動けずにいた。寝ればいいのに寝られない。片付ければいいのに手が動かない。怒ってしまった自分の声が、耳の奥で何度も再生されている。
「早くしなさい」
「何回言わせるの」
「そんなことも分からないの」
言った直後は正しいと思った。言わなければ、この子はダメになると思った。そう思わないと、あの苛立ちを説明できないから。
でも今は、あの声が自分を責めている。
玄関の鍵が鳴った。
美咲は息を止めた。夫は出張中。子どもは寝ているはず。鍵の音は、外の世界が間違って侵入してきた音に聞こえた。
扉が開く。足音が入ってくる。ゆっくり、迷いながら。
美咲は立ち上がろうとして、足が動かない。台所の入り口に人影が立った。背は高い。コートを着ている。髪が少し長い。顔が見えない角度。
影が一歩入って、光の中に顔が出た。
美咲は椅子の背に手をついた。息が漏れた。
その顔は、息子の顔だった。けれど大人になっている。目元は同じなのに、目の中が違う。子どもの目ではなく、時間を知っている目だった。
未来の息子「驚かせてごめん」
声も似ている。低くなっただけで、音の輪郭はあの子のままだ。
美咲の喉が震える。
美咲「…誰…」
未来の息子は首を傾げた。
未来の息子「名前は言えるけど、言わないほうがいいと思う。言ったら、今のあなたが余計に怖くなる」
美咲は混乱しているのに、その言葉の優しさが胸を刺す。怖くなる。確かに、怖い。
未来の息子は椅子を引いた。勝手に座らない。許可を待つみたいに立っている。美咲はそれが逆に苦しい。息子は、いつからこんなに丁寧になったのだろう。
美咲「…座って」
未来の息子は頷いて座る。背筋をまっすぐにする。テーブルの上の宿題を見て、視線が少しだけ揺れる。
未来の息子「これ、覚えてる」
美咲は机の上を見て、急に恥ずかしくなる。散らかった紙が、母としての未完成みたいに見える。
美咲「こんなの、いつもよ」
未来の息子は小さく笑う。でも笑いはすぐ消える。
未来の息子「今日、怒ったんだよね」
美咲は言い訳を探す。探している時点で、図星だ。
美咲「怒ったっていうか…ちゃんとしてほしかったの。あなたが困らないように」
未来の息子は頷く。否定しない。否定しないことが、いちばん痛い。
未来の息子「分かってる。あなたは私を守ろうとした」
美咲は息を吸う。守ろうとした。その言葉だけで、少し救われる。
未来の息子は、テーブルの端にある消しゴムのカスを指で拭う。指の動きが、昔の子どもの癖と同じで、美咲の目が熱くなる。
未来の息子「でもね。ひとつだけ、お願いがある」
美咲は唾を飲み込む。
美咲「なに」
未来の息子は、少しだけ間を置いた。言う準備をしている顔。準備が必要な言葉は、だいたい重い。
未来の息子「あの夜のことを、少しだけ変えてほしい」
美咲の心臓が跳ねる。
美咲「変えるって…」
未来の息子は静かに言った。
未来の息子「あなたは今夜、私にこう言った。『どうしてこんなに遅いの』って。『みんなできてるのに』って」
美咲は目を閉じる。言った。確かに言った。頭が真っ白になるくらい、言った。
未来の息子は続ける。
未来の息子「あの言葉は、私の中で長く残った。宿題の話じゃなくて…私が“遅い人間”だっていう感じが、体に染みた」
美咲の胸が痛む。痛みが、ゆっくり形になる。
美咲「そんなつもりじゃ…」
未来の息子「分かってる。だから責めに来たんじゃない」
未来の息子は手を広げる。争う姿勢じゃない。対話の姿勢。美咲はそれが信じられない。自分が育てた子が、こんなふうに優しく話すなんて。
未来の息子「私はね、あなたのことが好きだよ。今でも」
美咲は喉の奥が震え、声が出ない。
未来の息子は言う。
未来の息子「だから、あなたを助けに来た。あなたが自分を嫌いにならないように」
美咲は小さく首を振る。
美咲「でも私は…あんな言い方をした。私はダメな母親だ」
未来の息子は首を横に振った。
未来の息子「ダメじゃない。疲れてるだけ。孤独なだけ。あなたには支えが足りなかった」
美咲は涙が出そうになる。支えが足りなかった。その一言で、今日まで黙っていた苦しさが少しだけ言葉になる。
未来の息子は、机の上のプリントを一枚手に取り、裏返した。裏は白い。
未来の息子「これ、白いよね」
美咲「うん」
未来の息子「私の心も、あの夜は白かった。まだ何も決まってなかった。遅い人間になるかどうかも」
美咲は胸が締まる。
未来の息子「でも、あなたの声が文字みたいに残った。白い紙に、黒いインクが落ちるみたいに」
美咲は目を閉じる。想像できてしまう。子どもの心に染み込む言葉の黒さ。
未来の息子は、プリントを元の場所に戻す。
未来の息子「だから、お願い。あなたが今夜言う言葉を、少しだけ変えて」
美咲は震える声で言う。
美咲「じゃあ…何を言えばよかったの」
未来の息子は少し笑う。嬉しそうじゃない。悲しそうでもない。ただ、ずっと待っていた人の顔。
未来の息子「これ」
未来の息子は、ゆっくり言った。
未来の息子「『分からないところ、一緒に見よう』って」
美咲は息を吸って、止める。そんな簡単な言葉だったのか。自分はなぜ言えなかったのか。
未来の息子「そしてもうひとつ」
美咲は顔を上げる。
未来の息子「『あなたは遅くないよ。丁寧なだけ』って」
美咲の頬に涙が落ちる。落ちた涙は熱い。何年分もの涙みたいに熱い。
美咲「…今からでも、間に合うの」
未来の息子は頷く。
未来の息子「間に合う。だって、私がこうして来られたから」
美咲は立ち上がる。足がちゃんと床につく。息がちゃんと入る。台所の空気が少しだけ軽くなる。
美咲は寝室の方向を見る。子どもが眠っている。あの小さな体。あの小さな心。
未来の息子は言う。
未来の息子「起こさなくていい。顔を見るだけでいい。あなたが“敵じゃない”って空気を持っていけば、伝わる」
美咲は頷き、そっと寝室へ行きかけて、立ち止まった。
美咲「あなたは…この先、幸せになるの」
未来の息子は少し考える。
未来の息子「幸せって、ずっと続くものじゃない。でも私は、あなたのせいで不幸になったわけじゃない。あなたの愛が、私を守った部分も大きい」
美咲は泣きながら笑う。
美咲「ありがとう」
未来の息子も笑う。笑顔が、少年の頃の面影に戻る。
未来の息子「ありがとうは、私が言う」
未来の息子は立ち上がり、玄関の方へ向かう。来たときより足取りが軽い。美咲は呼び止めたくなる。名前を聞きたくなる。未来を知りたくなる。
でも、未来の息子は振り返って言う。
未来の息子「ひとつだけ覚えておいて。あなたが今日、言い直す言葉は、私の未来の骨格になる」
美咲は頷いた。
未来の息子は、玄関の光の外へ消えていく。扉が閉まる音はしない。気配だけが薄れていく。
美咲は寝室へ行き、そっと布団の中の息子の顔を見る。まぶたが小さく動く。夢を見ている。美咲は息子の髪をなでる。起こさないように、でも確かに伝えるように。
小さな声で、美咲は言う。
「分からないところ、一緒に見よう」
息子の眉が少しだけほどけた気がした。
そして美咲は、今度は自分にも言った。
私は遅くない。丁寧なだけ。
母親だって、やり直せる。
台所に戻ると、宿題の紙がまだ散らばっている。けれどもう、さっきほど責めてこない。紙は白い。白いものは、何度でも書き直せる。
美咲は椅子に座り、鉛筆を一本手に取った。夜の家は静かだ。でも静けさが怖くない。
その夜の台所には、未来が一度だけ座った。
そして、未来は確かに変わり始めた。
終わりに
私たちは恋を失うのではありません。
世界の記録から消えるだけです。
だから人は、忘れないために物語を作る。
名前が残らない関係ほど、心に長く残るのはそのためです。
もし読み終えたあと、
誰かを思い出したなら
その人は、あなたの中ではもう Jane Doe ではありません。
人物紹介:
デンジ
極度の貧困の中で育ち、チェンソーの悪魔と契約してデビルハンターとなった少年。単純でまっすぐな願いしか持たなかったが、レゼとの出会いで「普通の幸せ」を初めて意識し始める。
レゼ
穏やかな笑顔の裏に任務と過去を隠した少女。誰にも知られない役割を背負いながらも、デンジと過ごす時間の中で本当の感情に触れていく。“名前を持てない存在”として、残らない愛を象徴する人物。

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