こんにちは。斎藤一人です。
今日はね、ちょっと不思議なお話をします。
でもね、不思議って言っても、怖い話じゃないよ。
「人が一番つらい時に、どんな言葉が心を救うか」
その話です。
聖書に出てくる人たちって、
みんな立派で、信仰が強くて、最初からブレない人たちだと思ってない?
でもね、違うんだよ。
牢屋に入れられた人もいる。
逃げて、隠れて、心が折れそうになった人もいる。
自分を責めて、泣いて、
「もうダメだ」って思った人もいる。
つまりね、
聖書の人物たちも、あなたと同じ「人間」だったってこと。
でね、もしその人たちが、
人生で一番つらい瞬間に、
誰か一人、ただ話を聞いてくれる人がいたら——
どんな言葉をかけたら、心が少し軽くなると思う?
このシリーズはね、
「正しいこと」を教える話じゃない。
「信仰とはこうあるべき」って説教する話でもない。
ただ、
心が折れそうな人に、そっと手を差し出す言葉
その言葉を、一緒に聞く時間です。
もし今、あなたが
・疲れている
・自分を責めている
・立ち止まっている
そんな状態だったらね、
この話は、
昔の偉人の話じゃなくて、あなた自身の話になる。
それじゃあ、ゆっくり聞いていこう。
答えを出そうとしなくていい。
ただ、心が少し楽になるところだけ、受け取ってください。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
1. ヨセフ — エジプトの牢獄の夜

石の壁は湿っていて、触れると冷たかった。
牢の床には薄い藁が散らばり、どこかで水が滴る音がする。
鉄の扉の向こうからは看守の足音が遠ざかり、夜が“閉じた”感じがした。
ヨセフは壁にもたれて座り、息を静かに整えようとしていた。
しかし胸の奥が、ずっと騒がしい。
「兄たちに売られた。信じていた人に裏切られた。
それでも真面目に生きてきたのに、今は牢屋だ。
神がいるなら、どうして…」
声にならない声が喉まで来て、飲み込む。
悔しさより、むしろ“虚しさ”が辛かった。
頑張っても何も変わらないなら、頑張る意味がどこにあるのか。
そのとき、牢の隅の暗がりが、少しだけ明るくなった気がした。
まるで、灯りが増えたというより、「空気が柔らかくなった」みたいに。
「よっ。」
軽い声がした。
ヨセフが顔を上げると、見慣れない男がそこに座っている。
囚人の格好でもなく、看守でもない。
なのに、不思議と怖くない。むしろ、心が少し緩む。
「誰ですか…?」
男は、にこっと笑って言った。
「斎藤一人っていうんだ。今日はね、ちょっと顔出しに来たの。」
ヨセフは思わず眉を寄せた。牢に“顔出し”なんて。
だが、相手の雰囲気があまりに自然で、突っ込む気が起きない。
一人さんは、床の藁を指でちょんちょんとつつきながら言った。
「ここ、辛いよなぁ。理不尽だもんなぁ。
でもね、まず言っていい? いま一番損してるのは、何だと思う?」
ヨセフは疲れた目で見た。
「…自由を奪われてることです。」
「うん、当たり。だけどね、もう一個あるんだよ。
“心まで奪われる”と、二重に取られるんだ。」
その言葉が、ヨセフの胸に小さく刺さった。
一人さんは続ける。
「牢屋ってさ、体は閉じ込められるけど、心は閉じ込められないんだよ。
なのに、多くの人はね、悔しさで心を檻に入れちゃうの。」
ヨセフは反射的に言った。
「でも…悔しいものは悔しい。
裏切られて、落とされて、意味が分からない。」
一人さんはうなずいた。ふざけない。逃げもしない。
「悔しさは出る。出ていい。
ただね、“悔しさの使い方”を間違えると、運が止まるんだよ。」
ヨセフは聞き返した。
「運…?」
「そう。運ってのはね、神様がくれるご褒美じゃない。
心の向きで流れが変わる、空気みたいなもんなんだ。」
一人さんは、牢の湿った空気を手で払うみたいにして言った。
「ここでね、ヨセフがやることは、
“自分を貧乏な心にしない”って決めること。」
ヨセフは苦笑した。
「こんな場所で…?」
「そう、こんな場所で。だから強いんだよ。」
一人さんは、指を一本立てた。
「まず、今日から言葉を変える。
『なんで俺だけ』じゃなくて、こう言うの。
『ここで俺、何を学べばいい?』って。」
ヨセフは黙る。
それは、希望というより、視点の切り替えだった。
だけど視点は、心の痛みに直接触れる。
一人さんは、さらに言った。
「それからね、もう一個。
『俺は終わった』って思うのは、やめる。
終わってない。今は“仕込み”なんだ。」
「仕込み…?」
「うん。未来で必要になる器を、ここで作ってる。
君はね、ただ優しいだけじゃない。賢い。
人の心が読める。空気が読める。
それ、将来、めちゃくちゃ役に立つ。」
ヨセフの目が少し動く。
“将来”という言葉が、牢の中では不自然なほど眩しい。
ヨセフはつぶやいた。
「でも、誰も分かってくれない。
信じた人に裏切られた。
もう、人を信じるのが…怖い。」
一人さんは、少しだけ声を落とした。
「それな。
でもね、裏切った人が悪いの。
君が人を信じたことは、悪くない。」
その一言で、ヨセフの胸の奥がふっとほどけた。
“自分が悪い”と思い込む癖が、ほんの少し緩む。
一人さんは続ける。
「信じたことは美徳だよ。
ただ、次は“信じ方”を賢くする。
全部を預けるんじゃなくて、少しずつ信じる。
それでいい。」
ヨセフは、初めて、ちゃんと呼吸が入った気がした。
「…でも、僕はここから出られるんですか?」
一人さんは笑った。
「出られるよ。
でもね、出る前に“心”が先に出るんだ。
心が先に自由になると、現実は後からついてくる。」
「どうすれば…?」
一人さんは、簡単な宿題を出した。
「今夜から、これだけやって。
寝る前に、たった一言。
『俺はツイてる』って言って寝るの。」
ヨセフは戸惑った顔をした。
「この状況で…?」
「そう。この状況で言える人が、本物なんだよ。
ツイてるってのはね、今の評価じゃない。
“未来の予約”なんだ。」
牢の外で、また水滴の音がした。
同じ音なのに、さっきより怖くない。
一人さんは立ち上がって、ヨセフの方を見た。
「最後にもう一個。
君は、ここで性格が曲がる必要ないよ。
性格を守れた人は、後で強いから。」
ヨセフは小さくうなずいた。
「…分かりました。やってみます。」
一人さんは満足そうに笑う。
「いいね。君、素直だ。だから大丈夫。
じゃ、またね。」
次の瞬間、牢の隅の空気が元に戻ったように感じた。
彼が消えたのか、最初から幻だったのか、分からない。
でも、ヨセフの胸には“残り方”があった。
ヨセフは壁にもたれ、目を閉じる。
そして、まだ慣れない声で、小さく言った。
「…俺はツイてる。」
言った直後、少しだけ涙が出た。
悔しさの涙ではなく、
“まだ終わってない”と身体が思い出した涙だった。
2. モーセ — 荒野の焚き火の夜

荒野の夜は、昼とは別の顔を持っていた。
昼の焼けつく光は消え、空は深く澄み、星が近い。
風が砂を撫でる音だけが、延々と続いている。
焚き火は小さく、赤い火の舌がぱちぱちと乾いた枝を噛む。
モーセはその火を見つめながら、肩を落として座っていた。
羊飼いとしての暮らしは、静かで、平和だった。
けれど心は、静かにならない。
「自分は、やってしまった。」
胸の奥で何度も繰り返す。
あの日、怒りに任せて、命を奪った。
正義のつもりだった。助けたかった。
でも結果は、罪と逃亡だ。
“王子”だった自分は消えた。
民を導く夢も消えた。
今あるのは、羊の群れと、この荒野だけ。
「神に使われる人間じゃない。
俺は…失格だ。」
そう思った瞬間が、一番苦しい。
失敗が痛いのではなく、失敗によって“自分の価値”がゼロになった気がするのが辛い。
焚き火の向こう、暗闇の輪郭が少しだけ柔らかくなった。
誰かが近づく気配がする。足音はないのに。
「おーい。」
軽い声。
モーセが顔を上げると、焚き火の反対側に男が座っている。
不思議と、この荒野に似合いすぎるくらい自然だ。
「…誰だ?」
男は、にこっと笑った。
「斎藤一人だよ。ちょっとね、君の火に当たりに来たの。」
モーセは眉を寄せる。
だが、その声には、責める匂いがない。
裁く匂いもない。
ただ、人を軽くする匂いがした。
一人さんは焚き火を見て言う。
「いやぁ、荒野ってさ、余計なものがなくていいね。
でもね、余計なものがない分、過去の声が大きくなるんだよ。」
モーセは思わず吐き出した。
「過去の声?
俺は罪人だ。逃げた。
俺みたいな人間に、何ができる。」
一人さんはうなずいた。
「うん。君、真面目だ。
真面目な人ってさ、過去を“判決”にしちゃうんだよ。
『俺はこういう人間だ』って。」
モーセは火を見たまま、低く言った。
「違うのか?」
一人さんは、少し笑って言った。
「違うよ。
過去ってのはね、判決じゃなくて“素材”なんだ。」
「素材…?」
「そう。君が持ってる罪悪感も、恥も、怒りも、全部素材。
素材はさ、料理の仕方で味が変わるんだよ。」
モーセは黙る。
“料理”という言葉が、荒野の深刻さに似合わないのに、なぜか入ってくる。
一人さんは続けた。
「君が今やってるのは、
素材を見て『これは腐ってる』って決めつけて捨てようとしてること。
でもね、神様ってのは、捨てないの。
“変える”の。」
モーセは、かすかに苦笑した。
「そんな都合のいい話があるか。
命を奪ったことは消えない。」
一人さんは、真っすぐ見た。
「消えない。
だからね、消そうとしなくていい。
ただ、“償い方”を間違えるなって話。」
モーセの目が動いた。
「償い方…?」
一人さんは指を一本立てる。
「真面目な人は、償いを“自分いじめ”でやろうとする。
『俺は幸せになっちゃいけない』
『俺は表に出ちゃいけない』
ってやるんだ。」
モーセは、胸を押さえるようにして黙った。
それは図星だった。
一人さんはやさしく言う。
「自分いじめはね、反省じゃない。
ただの延滞だよ。未来を遅らせるだけ。」
焚き火がぱちっと鳴る。
モーセは小さく息を吐いた。
「じゃあ…俺はどうすればいい。
このまま羊を追って、静かに終わるのが…妥当だろう。」
一人さんは首を横に振る。
「妥当って言葉、便利だよな。
でもね、妥当ってのは、“怖さ”の別名のときがある。」
モーセが顔を上げる。
一人さんは、焚き火の赤い光に照らされながら言った。
「君は怖いんだよ。
また失敗するのが。
また人を傷つけるのが。
だから、何もしない場所に避難してる。」
モーセは反発しかけたが、言い返せなかった。
その通りだったから。
一人さんは少し間を置いて、低く言った。
「でもね、君の“怖さ”は悪いもんじゃない。
怖いってことは、慎重になれるってこと。
慎重な人は、大きいことができる。」
モーセは笑えなかった。
だが、胸の底に少しだけ温かいものが落ちた。
「…俺には、言葉がない。
人の前で話すと、口が重い。
それも、俺が選ばれない理由だ。」
一人さんは、ふっと笑う。
「口が重い人、最高だよ。
口が軽い人ってさ、話してるうちに自分に酔うから。
口が重い人は、神様の言葉を大事に扱える。」
モーセは、目を丸くした。
一人さんは、手のひらを上に向けて言う。
「それにね、
人を導くってのは、喋りが上手いことじゃない。
“心を折らない”ことなんだよ。」
「心を…折らない?」
「うん。君、荒野で折れそうになったろ?
その経験がある人は、他人の折れそうな心が分かる。
分かる人は、折らない。
だから、向いてる。」
モーセの喉が詰まった。
荒野の孤独が、少しだけ意味を持ちはじめる。
一人さんは、宿題を出すように言った。
「今夜から、君はね、これをやって。
焚き火を見ながら、こう言うんだよ。
『俺はまだ途中だ』って。」
モーセは小さく繰り返す。
「まだ…途中…」
「そう。失格じゃない。途中。
途中って言える人は、立ち上がれる。」
一人さんは、焚き火の火を見て、優しく言った。
「それとね、もう一個。
君の罪は、君を終わらせるためじゃなくて、
君を“人の痛みが分かる人”にするために、素材として残ってるんだ。」
モーセは、静かに言った。
「…俺に、本当に役目があるのか?」
一人さんは即答した。
「あるよ。
ただ、役目ってのはね、
“偉い人がやる仕事”じゃない。
“逃げたくなる人がやる仕事”なんだ。」
モーセは、焚き火の火が少し大きくなった気がした。
風が向きを変えたのかもしれない。
一人さんは立ち上がって、砂を払う。
「君はね、もう十分苦しんだ。
苦しみは“支払い”だから、払い終わったら受け取っていいんだよ。
次は、受け取る番。」
「受け取る…?」
「うん。
怖くてもいい。震えててもいい。
進む人は、震えながら進むんだ。」
そう言うと、一人さんは焚き火の向こう側へふっと溶けるように消えた。
気配だけが、ほんの少し残る。
モーセは、火を見つめたまま、ゆっくり息を吸う。
そして、小さく言った。
「俺は…まだ途中だ。」
荒野は相変わらず静かだった。
でも、その静けさが、さっきより味方に感じられた。
3. ヨブ — 灰の上で、全てを失った日

風が吹くたび、灰が舞い上がる。
焦げた匂いと、乾いた土の匂いが混じって、喉の奥に張りつく。
家だった場所は崩れ、柱だったものは折れ、
昨日まで“日常”だった景色が、今日はただの瓦礫になっていた。
ヨブは灰の上に座っていた。
衣は裂け、肌には痛みがあり、心にはもっと深い痛みがあった。
財産が奪われたのではない。
名誉が傷ついたのでもない。
一番辛いのは、愛するものが消えたことだ。
「どうして…」
声が漏れる。
問いは空に吸われ、答えは返ってこない。
友が来た。
最初は沈黙で寄り添ってくれた。
それが救いだった。
けれどやがて友は言葉を持ち出す。
「お前の中に、何か原因があるはずだ。」
「神は正しい。だから、お前が間違っている。」
「悔い改めろ。」
その言葉が、ヨブの胸をさらに締めつける。
“痛み”だけならまだ耐えられた。
でも、痛みに“罪”まで貼られると、呼吸ができない。
ヨブは歯を食いしばった。
「俺は…何をした?
神に正しく生きろと言われて、そうしてきた。
なのに、なぜ…なぜ、こんな仕打ちなんだ。」
声が震える。怒りと悲しみが同じ喉から出てくる。
涙はもう出ない。出尽くしたのか、乾いてしまったのか。
そのときだった。
灰の匂いの中に、ふっと別の匂いが混じった。
線香でも香水でもない。
どこか、日だまりのような…人間の生活の匂い。
「いやぁ…つらいな。」
誰かが、ヨブの隣に腰を下ろした。
ヨブが顔を向けると、見慣れない男がいた。
派手でもなく、偉そうでもない。
ただ、妙に“人間の味方”みたいな目をしている。
「誰だ…?」
男は、軽く会釈して言った。
「斎藤一人っていうんだ。
今日はね、君の“心”の様子を見に来た。」
ヨブは苦笑した。
「心? もう粉々だ。
見ても仕方ない。」
一人さんは、灰を手で少しつまみ、さらさらと落としながら言った。
「粉々になったときってさ、
“本当に大事なもの”だけ残るんだよ。」
ヨブは目を細めた。
「大事なもの?
全部奪われたのに?」
一人さんは首を振る。
「奪われたのは、外側のものが多い。
でもね、君の中に“残ってるもの”がある。
それが、君を生かしてる。」
ヨブは声を荒らげた。
「残ってない!
信じてきたものが、全部崩れたんだ!
神は正しいって?
なら俺は何なんだ。
罰なのか? 見せしめなのか?」
友人たちが少し身を引いた。
空気が張り詰める。
一人さんは、そこで怒らない。
ただ、静かに言った。
「うん。怒っていい。
怒りってのは、心がまだ生きてる証拠だから。」
ヨブは言葉を失った。
“怒っていい”と言われたのは、初めてだった。
一人さんは続ける。
「でもね、ここで一番危ないのは、怒りじゃない。
“自分を呪うこと”なんだよ。」
ヨブの手が震えた。
「…自分を呪う?」
「そう。
『俺が悪いんだ』って、自分の心に判決を下すこと。
君の友達がやってるのも、それなんだ。
苦しみの理由を作って、君に貼ろうとしてる。」
一人さんは、友人たちを責めるようには言わない。
ただ、現象として説明する。
「人はね、分からないものが怖い。
だから、“理由”を作りたがる。
『こうすれば避けられる』って思いたいんだよ。
でも、理由がない痛みもある。
説明できない痛みもある。」
ヨブは、喉の奥が熱くなった。
涙が戻ってきそうになる。
「じゃあ…俺はどうすればいいんだ。
理由がないなら…耐えるしかないのか。」
一人さんは、少し笑った。
「耐えるだけじゃないよ。
君には“やっていいこと”がある。」
ヨブは顔を上げる。
一人さんは、指を一本立てた。
「まず、これ。
『俺は悪くない』って言うこと。」
ヨブは息を呑んだ。
「そんなことを言ったら、神に逆らうことになるんじゃ…」
一人さんは即答する。
「ならない。
神様はね、君が自分をいじめるの、望んでない。
自分いじめは“信仰”じゃない。
ただの心の暴力だよ。」
その言葉が、ヨブの胸に落ちた。
重い石が一つ、外れた気がした。
一人さんは続ける。
「次に、これ。
君の苦しみは、君の価値を下げるためじゃない。
“君の心の品格”を証明するために来てる。」
ヨブは、かすれた声で言う。
「品格…?
俺は今、みっともない。
灰の上で、叫んで、泣いて…」
一人さんは首を振る。
「みっともなくていいんだよ。
品格ってのは、格好よさじゃない。
“自分を呪わない”ことだよ。」
ヨブの目から、ついに涙が落ちた。
灰に落ちて、小さく染みた。
一人さんは、優しい声で言った。
「君はね、今、世界で一番きつい勉強してる。
『何もないときに、心を守る』って勉強。」
ヨブは、しばらく泣いた。
泣きながら、言った。
「…俺は、何を信じればいい?
正しさも、報いも、もう分からない。」
一人さんは、焚き火のない場所で、焚き火みたいな声を出した。
「“答え”を信じなくていい。
今はね、“自分の心”を信じな。」
「心を…?」
「うん。
君の心は、まだ神様を求めてるだろ?
それが残ってる。
それが、君の本物だ。」
ヨブは震えながらうなずいた。
一人さんは宿題を出す。
「今夜、寝る前に、たった一言でいい。
『俺は俺を呪わない』って言って寝て。」
ヨブは、涙を拭いながら言った。
「…俺は俺を呪わない。」
一人さんは、満足そうに笑った。
「それでいい。
それができたらね、回復は始まってる。」
風がまた吹き、灰が舞った。
でもさっきより、その灰は“終わり”じゃなく、
“通過点”みたいに見えた。
一人さんは立ち上がり、肩の埃を払う。
「君は、正しいとか間違いとかより、まず“生きろ”。
生きてるだけで、君は偉い。」
そう言って、ふっと姿が薄くなった。
ヨブは、灰の上で空を見上げる。
星が一つ、雲の切れ間から見えた。
小さく、つぶやく。
「俺は…俺を呪わない。」
その言葉は、まだ弱い。
でも弱い言葉こそ、最初の灯りになる。
4. ダビデ — 洞窟で追われる夜

洞窟の奥は、冷たく湿っていた。
外では風が草を鳴らし、遠くで犬の吠える声がする。
入口の方からは、兵の足音が“あるかもしれない”という恐怖が、ずっと背中を叩いていた。
ダビデは岩にもたれて座り、膝を抱えていた。
仲間たちは眠っている者もいれば、起きて武器を握っている者もいる。
息づかいだけが、洞窟の中を満たしている。
かつて自分は、称賛された。
一つの勝利で名が上がり、歌まで作られた。
それが今は、追われる身だ。
「神に選ばれた?
なら、なぜ俺は洞窟なんだ。」
口に出せば弱くなる気がして、言えない。
でも心の中では何度も叫んでいる。
一番辛いのは、敵に追われることではない。
“自分の中の矛盾”だ。
選ばれたと言われたのに、逃げている。
勇者だと言われたのに、隠れている。
王になるはずなのに、泥と闇の中にいる。
ダビデは拳を握った。
「俺は…何をしてるんだ。
このまま終わるのか。
俺の人生、全部…勘違いだったのか。」
そのとき、洞窟の奥の暗がりが、少しだけ明るくなった気がした。
火を起こしたわけでもない。
ただ、“空気の緊張”が和らいだ。
「いやぁ、いい洞窟だねぇ。」
軽い声がした。
ダビデは反射的に短剣に手を伸ばした。
だが、声の主が近づいてくる気配がない。
洞窟の中に、いつの間にか男が座っている。
妙に落ち着いた顔。
そして、こっちを怖がらせない目。
「誰だ?」
男は、にこっと笑った。
「斎藤一人だよ。
君、今ちょっと“心が固まってる”からさ。ほぐしに来た。」
ダビデは警戒したまま言った。
「ほぐす?
俺は今、命が狙われてる。」
一人さんはうなずく。
「うん、命も狙われてる。
でもね、もっと狙われてるのは“心”だよ。」
「心…?」
「そう。怖さで心が縮むと、運も縮む。
運が縮むと、行く道まで細くなる。」
ダビデは鼻で笑った。
「運なんて、今は関係ない。
俺は追われてる。いつ殺されるか分からない。」
一人さんは、洞窟の天井を見上げながら言う。
「君はさ、
『逃げてる自分は情けない』って思ってるだろ?」
ダビデは言葉を飲み込んだ。
図星だった。
一人さんは続ける。
「でもね、逃げてるんじゃないんだよ。
“整えてる”んだ。」
ダビデは顔を上げた。
「整えてる?」
「そう。
未来の王様ってのはね、戦って勝つだけじゃダメなんだ。
“自分の心を統治できる人”じゃないと、国は持てない。」
洞窟の冷えた空気の中で、その言葉が熱を持った。
ダビデは小さく言った。
「俺は…統治できてない。
怖いし、腹も立つ。
サウルを恨みたくなる。」
一人さんは、そこで否定しない。
「恨みたくなるの、普通。
でもね、王になる人は“恨みの使い方”を間違えない。」
「恨みの…使い方?」
「そう。
恨みを『あいつを倒す』に使うと、心が汚れる。
恨みを『俺はこんな王にならない』に使うと、心が磨かれる。」
ダビデの目が動いた。
敵への怒りを、未来の自分の誓いに変える。
それは、洞窟でできる“仕事”だった。
一人さんは指を一本立てた。
「君の今の修行は三つ。
まず一つ目。
“焦って王にならない”ってこと。」
ダビデは苦い顔をする。
「焦ってるのが分かるのか。」
「分かるよ。
焦りはね、『早く証明したい』って気持ちだから。
でもね、証明ってのは、自分で急ぐほど安っぽくなる。」
ダビデは唇を噛んだ。
確かに、称賛の歌が消えていくのが怖い。
自分が選ばれたという物語が崩れるのが怖い。
一人さんは二つ目を言う。
「二つ目。
“洞窟を恥ずかしい場所にしない”ってこと。」
ダビデは眉を寄せる。
「ここは…恥だ。
俺は本来、もっと堂々としてるべきだ。」
一人さんは、洞窟の壁を軽く叩く。
「違う。
洞窟は“王の学校”だよ。
ここで学んだ人は、後で折れない。」
「何を学ぶ?」
「孤独、忍耐、待つ力。
そして、人の弱さ。
君の仲間、ここに来てるのは強い奴だけじゃないだろ?
傷ついた奴、借金のある奴、居場所のない奴。
そういう人を見捨てない心が、王様には必要なんだ。」
ダビデは、眠っている仲間の顔を見た。
確かに、皆、人生の端に追いやられた者たちだ。
その者たちと同じ場所にいる自分を、恥だと思っていた。
一人さんは三つ目を言う。
「三つ目。
“心の王様”になれ。」
ダビデは聞き返す。
「心の王様…?」
「うん。
サウルに追われてるのに、心までサウルに支配されたら負けだよ。
『あいつのせいで』って言い出した瞬間、心の王座を渡すんだ。」
ダビデの背筋が伸びた。
一人さんは、少し声を落とす。
「君はね、王になる前に、
“王になってはいけないタイプ”の見本を目の前で見てる。
嫉妬、恐れ、疑い。
だから君は、反対を選べる。」
ダビデの目に、熱が宿った。
「…俺は、ああはならない。」
一人さんは満足そうに笑う。
「それだよ。
『俺はああならない』って誓いは、最高の武器だ。」
洞窟の外で、何かの鳴き声がした。
でも今夜は、少しだけ恐怖が薄い。
一人さんは、ダビデに宿題を出した。
「寝る前に、これだけ言って。
『俺は今、準備中』って。」
ダビデは小さく言い返した。
「準備中…」
「そう。
逃げてるんじゃない。準備中。
これ、言葉を変えるだけで、心の姿勢が変わる。」
ダビデは、深く息を吸った。
洞窟の湿った匂いが、さっきより“守ってくれる匂い”に感じられた。
一人さんは立ち上がり、軽く手を振る。
「王様ってさ、派手な日だけが王様の日じゃないんだよ。
洞窟の日こそ、王様の日。」
そう言って、一人さんは闇に溶けるように消えた。
ダビデは岩にもたれ、目を閉じる。
そして、胸の中で繰り返した。
「俺は今、準備中。」
洞窟の闇は消えない。
でも、闇の中で自分が崩れないなら、
それはもう“負け”ではない。
5. エリヤ — 荒野の木陰、燃え尽きた午後

空は白く、陽射しは容赦がなかった。
荒野の熱は皮膚だけでなく、心まで乾かしていく。
風は吹くが、冷たさはなく、砂が目に刺さる。
エリヤは、低い木の影に倒れ込んでいた。
息は浅く、喉は乾き、腕は鉛のように重い。
祈る気力も、立ち上がる気力もない。
少し前まで、彼は“強い人”だった。
言葉に力があり、信念があり、恐れない人だった。
人々の前で立ち、火が降りるような出来事さえ起きた。
なのに今は、たった一つの脅しの言葉で逃げている。
「もう十分だ…」
口から出た言葉は、情けないというより、正直だった。
頑張りきった人だけが言える言葉だった。
「神よ、もう俺を取ってくれ。
これ以上、無理だ。」
燃え尽きた心は、黒い灰みたいに冷たい。
どんなに正しいことをしても、
どんなに使命を果たしても、
最後に残るのが“疲労”だけだとしたら、何のためだったのか。
木の影は小さく、エリヤの身体を全部は隠せない。
それがまた、心の不安を煽る。
そのとき、影の中の空気がふっと変わった。
熱がほんの少しやわらぎ、
誰かがそばに来たような、人の気配がした。
「いやぁ…やり切った顔してるねぇ。」
軽い声。
エリヤは起き上がることもできず、目だけ動かした。
そこに、誰かがしゃがんでいる。
「…誰だ。」
男はにこっと笑った。
「斎藤一人っていうんだ。
君、今ね、“頑張り方”を間違えそうだから来た。」
エリヤは喉の奥で笑った。
「間違える?
もう終わりたいんだ。
俺は…負けた。」
一人さんは首を振る。
「負けてないよ。
君はね、ただ“電池切れ”なんだ。」
エリヤは眉を寄せる。
「電池切れ…?」
「うん。
使命の人ってさ、心の電池を使い切るまで頑張っちゃうの。
それで電池がゼロになると、
『自分はダメだ』って思い始める。」
一人さんは、木の根元の乾いた土を指でなぞりながら言った。
「でもね、電池切れは“人格”の問題じゃない。
ただの“充電”の問題。」
エリヤの目が、少しだけ開いた。
「…充電なんて、してる暇がない。
敵は追ってくる。
人々は変わらない。
祈っても、裏切られる。」
一人さんはうなずく。
「うん。そう見えるよね。
でもね、今の君に必要なのは、答えじゃない。
休みだよ。」
エリヤは反射的に言った。
「休むのは…逃げだ。」
一人さんは即答する。
「違う。
休むのは“仕事”だよ。」
その言葉が、エリヤの胸に落ちた。
休むことを肯定されたことがない人の胸に、
その言葉は深く刺さる。
一人さんは、少し笑って言った。
「君さ、強い人だろ?
強い人ってね、休むの下手なんだよ。
だって休むと『価値がなくなる』気がするから。」
エリヤは、言い返せない。
その通りだった。
一人さんは、声を低くして続ける。
「でもね、神様の仕事って、
“君を壊すこと”じゃないんだよ。
君を生かすことなんだ。」
エリヤの喉が詰まった。
熱い日差しの中で、胸だけが冷たい。
その冷たさが、少しだけ溶けた気がした。
「…じゃあ、俺はどうすればいい。」
一人さんは指を一本立てる。
「今の君の順番はね、これ。
①食べる
②寝る
③落ち着く
それだけ。」
エリヤは思わず言った。
「それだけでいいのか…?」
「いいんだよ。
燃え尽きてる時に“高い精神論”やると、逆に壊れる。」
一人さんは、エリヤの顔を覗き込むようにして言った。
「君の使命はさ、君が元気な時に果たせばいい。
元気じゃない時に使命をやろうとするのは、
ボロボロの馬で旅に出るのと同じ。
まず馬を休ませな。」
エリヤは、涙が出そうになった。
悔し涙ではなく、
“許された”という涙だ。
一人さんは続ける。
「それとね、もう一個。
君が今、思ってる最大の勘違い。」
エリヤはかすれた声で聞く。
「…何だ。」
一人さんは、さらっと言った。
「君は“ひとり”じゃない。」
エリヤは笑いそうになった。
「ひとりだ。
皆、裏切る。
王も、人々も、怖がって逃げる。
俺だけが…」
一人さんは首を振る。
「君だけじゃない。
君が見えてないだけで、同じ方向を向いてる人はいる。
ただね、君が燃え尽きてると、
味方の存在が見えなくなるんだよ。」
エリヤは黙った。
確かに、疲労は視野を狭くする。
一人さんは、宿題を出す。
「今日、君がやる言葉はこれ。
『今の俺は休んでいい』
寝る前に、3回言って寝て。」
エリヤは小さく繰り返した。
「今の俺は休んでいい…」
一人さんは、満足そうに笑う。
「そう。
休める人は、また立てる。
立てる人は、また導ける。」
熱風が吹き、木の葉がかすかに揺れた。
影は少しだけ広がり、
エリヤの肩をやさしく覆う。
一人さんは、立ち上がって言った。
「燃え尽きたってのはね、
君が本気で生きた証拠だよ。
恥じゃない。勲章だ。」
そう言うと、日差しの中に溶けるように姿が薄くなった。
エリヤは、目を閉じる。
まだ状況は変わらない。
でも、心の中の“自分責め”が少し弱くなった。
小さく、言う。
「今の俺は…休んでいい。」
荒野はまだ熱い。
だけど、その熱の中に、
ほんの少し“回復”の気配が混じった。
6. エレミヤ — 泥の井戸、拒絶された夜

上から落ちてくる光は、細かった。
井戸の口は丸く切り取られた空みたいで、そこから見える夜は遠い。
壁は冷たい石で、ところどころ濡れている。
底には泥が溜まり、足を動かすたびに、ぐちゅ…と音がした。
エレミヤは腰まで泥に沈み、背中を壁に押しつけていた。
身体も冷える。けれど、それ以上に冷えるのは心だった。
「神の言葉を伝えろと言われた。
だから伝えた。
なのに…誰も聞かない。
それどころか、俺を黙らせようとする。」
怒りというより、虚しさ。
自分の声が、この世界にとって“不要”だと言われたような痛み。
上の方から、人の声が聞こえる。
笑い声もある。
自分がここで泥に沈んでいるのに、世界は平気で回っている。
エレミヤは目を閉じた。
「もう、やめたい。
口を開けば憎まれるなら、沈黙したい。
…神様、なぜ俺を選んだ。」
その瞬間、井戸の底の空気が少し変わった。
冷たさが消えるわけではない。
でも、心の中の凍り方が、ほんの少し緩んだ。
「いやぁ…ここ、きっついなぁ。」
軽い声。
エレミヤが目を開けると、井戸の底に男がいる。
泥の中にいるのに、汚れた感じがしない。
不思議と、存在が“明るい”。
「誰だ…?」
男は、にこっと笑った。
「斎藤一人だよ。
君の心、いま“折れかけ”だから来た。」
エレミヤは乾いた声で言った。
「折れて当然だ。
正しいことを言っても、人は変わらない。
それどころか、俺を憎む。」
一人さんはうなずく。
「うん。君、ほんとに真面目だね。
真面目な人ほど、ここで一番痛いところを突かれるんだよ。」
「痛いところ…?」
「そう。
“役に立てなかった”って思っちゃうところ。」
エレミヤは唇を噛んだ。
それは核心だった。
拒絶された痛みの正体は、“無力感”だった。
一人さんは、井戸の壁を軽く叩く。
「君さ、こう思ってるだろ。
『伝えたのに届かないなら、意味がない』って。」
エレミヤは、ゆっくりうなずいた。
一人さんは首を振る。
「違うよ。
意味がないんじゃない。
“届く形”が違うんだ。」
エレミヤは眉を寄せる。
「届く形…?」
「うん。
君は今、目の前で変わるのを期待してる。
でもね、本当の言葉ってのは、
すぐに芽が出ない種なんだよ。」
一人さんは、指で泥を少しすくって落とす。
「泥ってさ、汚いけど、種を育てるのに必要だろ?
君の言葉もね、今は泥の中に入ってる。
だから見えない。
でも、入ったからこそ育つ。」
エレミヤは、目を細めた。
「…育つとしても、俺はここで泥に沈む。
それが正しいのか?
俺の人生は、何なんだ。」
一人さんは、少し声を落とした。
「君の人生が“正しいかどうか”を決めるのは、
君を投げた連中じゃない。」
エレミヤの胸が小さく跳ねた。
一人さんは続ける。
「それにね、君は今、二つの痛みを同時に持ってる。
一つは、拒絶。
もう一つは、自分責め。」
エレミヤは小さく言う。
「…自分責め?」
「そう。
『俺がもっと上手く言えば』
『俺の力が足りないから』
って思ってるだろ?」
エレミヤは言葉を失った。
その通りだった。
預言者の苦しみは、外からの攻撃より、内側の“責任感”が作る。
一人さんは、そこで優しく言った。
「君ね、責任感が強いのは美徳。
でも、責任感が強い人は、
“相手の自由”まで背負っちゃうんだ。」
エレミヤは聞き返す。
「相手の自由…?」
「うん。
人が聞くか聞かないかは、その人の自由。
君の仕事は“言うこと”。
聞かせることじゃない。」
その言葉が、井戸の底に小さく響いた。
エレミヤの心に、久しぶりに“境界線”が引かれる。
一人さんは指を一本立てる。
「今日の一番大事なこと。
君はね、結果で自分の価値を決めない。」
エレミヤは苦笑した。
「結果しか見えない。」
「見えるよね。
でもね、結果は“今の一部”なんだ。
君は、まだ途中のページを見て、
本の結末を決めようとしてる。」
エレミヤの目が揺れた。
一人さんは、さらに言う。
「君が言葉を止めたら、
君の言葉を必要としてる未来の誰かが、迷子になる。」
エレミヤは喉が詰まる。
「…未来の誰か?」
「うん。
今の人たちが聞かなくても、
君の言葉は、必ず“誰かの生き方”になる。
だから君は、今、守るべきものがある。」
エレミヤは泥の冷たさを感じながら、静かに言った。
「守るべきもの…」
一人さんはうなずく。
「君の心だよ。
君はね、言葉の人だから、心が折れると全部が止まる。
だから今は、心を折らないコツを覚える時。」
そして、宿題を出す。
「寝る前に、これだけ言って。
『俺は言う。あとは神様に任せる』」
エレミヤは小さく繰り返す。
「俺は言う…あとは神様に任せる…」
一人さんは笑った。
「それでいい。
君は“背負いすぎ”を下ろすと、逆に強くなるから。」
井戸の口から、かすかな風が落ちてきた。
冷たいけれど、さっきより“生きてる風”だ。
一人さんは立ち上がり、井戸の上を見上げる。
「君の言葉は、いま笑われても、
後で“救い”になる。
だから、君は君をやめるな。」
そう言って、一人さんはふっと姿を薄くした。
残ったのは、不思議と“背中を押された感じ”だけ。
エレミヤは壁に手を当て、泥の中で深く息を吸う。
そして、呟いた。
「俺は言う。あとは神様に任せる。」
井戸の底はまだ冷たい。
でも、心は少しだけ温かい。
その温かさが、次の一歩のための灯りになる。
7. ペテロ — 中庭の焚き火、三度否認の直後

夜の空気は冷たく、吐く息が白い。
石の床は湿っていて、足元から寒さが上ってくる。
中庭の中央には小さな焚き火があり、火の匂いと煙が漂っていた。
ペテロは焚き火の端に立ち尽くしていた。
手をかざしても、指先の冷えは取れない。
寒さよりも、胸の奥の震えが止まらない。
さっき、言ってしまった。
「知らない。」
「そんな人は知らない。」
「誓ってもいい。知らない。」
言った瞬間は、ただ“生き延びたい”が勝った。
でも、言い終えた直後から、言葉が自分を殴り始めた。
遠くで鶏が鳴いた。
その音が、夜を切り裂く刃みたいに刺さった。
――あの人は、言っていた。
「あなたは今夜、わたしを三度知らないと言う。」
そして今、現実になった。
ペテロは顔を覆った。
涙が出るのが嫌だった。
弱さではなく、恥が嫌だった。
「俺は何なんだ…」
あんなに誓ったのに。
あんなに一緒に歩いたのに。
最後の最後で、守れなかった。
炎が揺れ、煙が目にしみる。
目がしみるのか、心がしみるのか分からない。
そのとき、焚き火の煙の向こう側、
誰かが同じように火に手をかざしているのが見えた。
いつからそこにいたのか分からない。
でも、不思議と“騒がしくない存在”だった。
「いやぁ…やっちまったなぁ。」
軽い声。
ペテロは反射的に顔を上げた。
「誰だ…?」
男は、にこっと笑った。
「斎藤一人っていうんだ。
君の顔、いま“自己嫌悪の沼”に入りかけてるからさ。止めに来た。」
ペテロは苦い顔をした。
「止める?
俺は裏切ったんだ。
あの人を、言葉で切ったんだ。」
一人さんはうなずく。
でも責めない。
「うん。辛いよな。
でもね、ここで君が一番やっちゃいけないことがある。」
ペテロは息を呑む。
「…何だ。」
一人さんは静かに言った。
「自分を終わらせること。」
ペテロは怒りが混じった声で言う。
「終わらせる?
俺は終わってるだろ。
弟子だとか、信仰だとか、口だけだった。
俺は弱い人間だ。」
一人さんは焚き火を見ながら言う。
「弱いよ。人間だから。
でもね、“弱いこと”と“価値がないこと”は違う。」
ペテロは言葉を失う。
一人さんは続けた。
「君は今、失敗した。
それは事実。
でもね、失敗した人にしかできない役目があるんだよ。」
ペテロは目を細める。
「失敗した人の役目?」
「そう。
これから君の周りには、失敗した人が山ほど来る。
自分を責めて、立ち上がれない人が来る。
その時、成功しか知らない人は、寄り添えない。
でも君は寄り添える。」
ペテロの喉が詰まる。
「…でも俺は、あの人を傷つけた。」
一人さんは即答する。
「傷つけたね。
だから、やり直すんだよ。」
ペテロは顔をしかめた。
「やり直す?
そんなの、虫がいい。」
一人さんは穏やかに笑う。
「虫がいいって思えるのは、君に良心があるから。
良心がない人は、やり直そうとも思わない。」
ペテロの胸が、少しだけほどけた。
恥が、ほんの少し“生きてる証拠”に変わる。
一人さんは、指を一本立てた。
「君が今やることは三つ。
一つ目。
“言い訳しない”。
失敗を正当化すると、心が固まる。」
ペテロはうなずいた。
それはできそうだった。できる気がした。
「二つ目。
“自分を叩かない”。
叩くとね、反省じゃなくて自虐になる。
自虐は、前に進めなくなる。」
ペテロの肩が震えた。
まさに今、自分を叩いていた。
「三つ目。
“次の一歩を決める”。
次の一歩ってのは、偉いことじゃなくていい。
小さい一歩でいい。」
ペテロは小さく聞いた。
「小さい一歩…?」
一人さんは、焚き火の火を見つめながら言った。
「今夜はね、こう決めるの。
『俺は逃げないで、泣く』って。」
ペテロは目を見開いた。
「泣く…?」
「そう。
泣くってのは、心の毒を出すこと。
泣かないで強がると、毒が残る。
毒が残ると、次の場面でまた同じことをする。」
ペテロは唇を噛んだ。
そして、堰を切ったように涙が出た。
焚き火の煙と一緒に、胸の奥の黒いものが少しずつ出ていく。
一人さんは、声を低くして言った。
「君はね、怖かったんだよ。
怖かったこと自体は罪じゃない。
ただ、怖い時に“誰を守るか”を決めてなかった。」
ペテロは泣きながら言った。
「俺は…自分を守った。」
一人さんはうなずく。
「うん。
だからね、次からは“守る順番”を決めるんだ。」
「守る順番…?」
「そう。
自分を守るのも大事。
でも、君が本当に守りたいものがあるなら、
その順番を心の中で決めておく。
その順番が、君の“信仰”になる。」
ペテロは、胸の奥で何かが固まっていくのを感じた。
固まると言っても、硬直じゃない。
芯ができる感じだ。
一人さんは、宿題を出す。
「今夜、寝る前に、たった一言。
『俺はやり直せる』って言って寝て。」
ペテロは涙を拭いながら、かすかに言った。
「俺は…やり直せる。」
一人さんは笑った。
「そう。
君が立ち上がる時、君は強くなるんじゃない。
優しくなるんだ。
優しい人は、人を救える。」
焚き火がぱちっと鳴った。
遠くの音が少しだけ遠のいたように感じる。
一人さんは立ち上がり、火から離れる。
「裏切ったってね、人生終わりじゃない。
終わりにするのは“自分責め”だよ。
君は終わらせるな。」
そう言って、一人さんは夜の影に溶けるように消えた。
ペテロは焚き火の前にしゃがみ込み、
涙のあとで少し軽くなった胸で、もう一度呟いた。
「俺はやり直せる。」
夜はまだ冷たい。
でも、冷たさの中に、
“もう一回始められる”という熱が、確かに残っていた。
8. マグダラのマリア — 喪失の朝、墓へ向かう道

夜明け前の空は、まだ青く暗い。
街は静まり返り、石畳の上を歩く足音だけが響く。
冷たい空気が肺に入り、胸の奥がさらに冷える。
マグダラのマリアは、布に包んだ香油を胸に抱えて歩いていた。
手は冷たく、指は少し震えている。
震えているのは寒さだけじゃない。
世界の“意味”が抜け落ちた震えだ。
あの人がいない。
それが、現実になった。
まだ信じたくないのに、
身体だけが先に理解してしまう。
「あの人なら、こう言ってくれた。
あの人なら、私の目を見て…」
思い出はやさしい。
でも、やさしいほど残酷だった。
やさしいほど、戻らないことを突きつける。
彼女は歩きながら、何度も心の中でつぶやく。
「もう、何もない…」
希望が消えたというより、
希望の置き場所がなくなった感じ。
生きる理由が、宙に浮いた感じ。
墓が近づくにつれ、足が重くなる。
会いに行くのに、会えない場所へ行く。
その矛盾が、胸を締めつける。
そのとき、後ろから軽い足音がした。
振り返ると、誰かが同じ方向へ歩いている。
夜明けの薄い光の中で、その人は妙に落ち着いて見えた。
「いやぁ…こういう朝って、心が重いよね。」
軽い声。
マリアは警戒するより先に、涙がこぼれた。
“分かってくれる声”に、身体が反応してしまった。
「…あなたは誰ですか。」
男は、にこっと笑った。
「斎藤一人っていうんだ。
今日はね、君の“悲しみ”がちゃんと流れるように、ついてきた。」
マリアは香油を抱きしめる。
「悲しみは…流れません。
重すぎて…動けない。」
一人さんはうなずく。
「うん。
悲しみってね、重い。
でもね、重いからって“悪いもの”じゃないんだよ。」
マリアは小さく首を振る。
「悲しみがあると、何もできない。
祈っても、心が空っぽです。」
一人さんは、朝の冷たい空気を吸い込むみたいに言う。
「空っぽでいいよ。
空っぽの時に、無理に満たそうとすると、変なもので埋めちゃう。」
マリアは目を伏せた。
それは、どこか身に覚えがある。
寂しさの穴を、焦りや人の目や、無理な明るさで埋めた過去。
一人さんは静かに言った。
「君の悲しみはね、
愛した証拠だよ。」
マリアの涙が増えた。
「愛したから、苦しいんです。
愛さなければ…こんなに…」
一人さんは首を振る。
「愛さない人生は、痛くないかもしれない。
でもね、温かくもない。
君は温かい人生を選んだんだよ。」
マリアは歩みを止め、肩を震わせた。
朝の薄い光の中で、悲しみが“恥”ではなくなる。
一人さんは、少し声を落として続ける。
「君が今、一番怖いのは何?」
マリアは、しばらく黙ってから言った。
「…この先、ずっと暗いままだと思うこと。
笑えないまま、心が戻らないまま、生きること。」
一人さんはうなずいた。
「うん、それが怖いよね。
でもね、暗いままかどうかは、“今日”だけで決めなくていい。」
マリアは顔を上げた。
一人さんは指を一本立てる。
「悲しみには“順番”があるんだ。
①泣く
②思い出す
③受け入れる
④役目が見えてくる
いきなり④をやろうとすると、心が壊れる。」
マリアは、かすれた声で言う。
「役目…?」
「うん。
君はね、失った人のことを、ただ“失う”だけじゃ終わらない。
君の愛が深いから、君には“伝える役目”が来る。」
マリアは首を振る。
「私には、何もできない。
ただの女です。
ただ…ついて行っていただけ…」
一人さんは笑った。
「それがね、すごいんだよ。
ついて行った人しか見てないものがある。
近くにいた人しか感じてない温度がある。」
マリアは香油を見た。
手の中の小さな瓶が、妙に重く感じる。
一人さんはその瓶を指さして言った。
「君が持ってる香油ってさ、
“最後まで大切にする心”の象徴だよ。」
マリアの胸がきゅっとなる。
「最後まで…大切に…」
「そう。
人はね、失った瞬間に投げ出したくなる。
でも君は投げ出さない。
会えない場所へでも、愛を持って行く。
それ、神様は見てるよ。」
マリアの涙が、今度は少し温かくなった。
一人さんは宿題を出すように言う。
「今日、君がやる言葉はこれ。
『私は愛した。だから大丈夫』
心が震えたら、それを言うの。」
マリアは小さく繰り返した。
「私は愛した…だから大丈夫…」
一人さんはうなずく。
「うん。
“愛したこと”は、奪えない。
奪われるのは形だけ。
君の中の愛は残る。
残ったものが、次の道を作る。」
墓が見えてきた。
石の影が長く伸び、朝の光が少しずつ強くなる。
マリアは、まだ苦しい。
でも、さっきより息が入る。
一人さんは最後に、少しだけ笑って言った。
「君はね、これから“悲しみの人”じゃなくて、
“愛を伝える人”になる。」
マリアは、涙を拭いながらうなずいた。
「…分かりません。でも…歩けます。」
一人さんは、満足そうに言った。
「歩ければ十分。
今日の勝ちは、“一歩”だから。」
そう言うと、一人さんは朝の光の中に溶けるように消えた。
マリアは香油を胸に抱え、墓へ向かって歩き出す。
石畳の冷たさは変わらない。
でも、胸の中に小さな温かさが残った。
「私は愛した。だから大丈夫。」
その言葉が、悲しみの中の灯りになった。
9. パウロ — 獄中、鎖の音が響く夜

鉄の鎖が、少し動くたびに鳴った。
じゃら…という音が、部屋の静けさを切る。
石の壁は冷たく、湿った空気が肌にまとわりつく。
遠くで看守の足音が時々響き、夜は長い。
パウロは灯りのそばで、羊皮紙のようなものを膝に置いていた。
書こうとして、手が止まる。
書けないのではない。
心が、止まってしまいそうなのだ。
「俺は、ここで何をしている。」
外に出て、語りたい。
歩きたい。
会いたい人がいる。
伝えたい言葉がある。
使命がある。
なのに、鎖がある。
壁がある。
扉がある。
「神が導くなら、なぜ止める。
神が望むなら、なぜ閉じ込める。」
理屈は分かる。
試練だ、とか。
忍耐だ、とか。
でも、現実の“動けなさ”は容赦がない。
使命の人間にとって、動けないことは、息ができないのと同じだ。
パウロは目を閉じ、胸の奥で燃えるものを抑える。
怒りと焦りが混じって、心が荒れる。
そのとき、鎖の音とは違う、軽い気配がした。
石の床を踏む音が、ほとんどしない。
でも、誰かが近くに“いる”。
「いやぁ…動けないって、きついよなぁ。」
軽い声。
パウロが目を開けると、部屋の隅に男が座っていた。
看守ではない。囚人でもない。
なのに、ここにいるのが不自然じゃない。
「誰だ。」
男はにこっと笑う。
「斎藤一人っていうんだ。
君の焦りが、ちょっと危ないから来た。」
パウロは苦々しく言う。
「焦り?
これは焦りじゃない。正当な怒りだ。
俺にはやるべきことがある。
なのに、鎖で止められている。」
一人さんはうなずいた。
「うん、正当だよ。
でもね、正当な怒りってのは、
自分を燃やし尽くすときがあるんだ。」
パウロは鼻で笑った。
「俺は燃え尽きない。
燃え尽きるほど、まだやっていない。」
一人さんは、静かに言った。
「君はね、燃え尽きるタイプじゃない。
でも、“自分で自分を追い込む”タイプだ。」
その言葉が、パウロの胸に当たった。
確かに彼は、止まることを許せない。
使命の名のもとに、自分に鞭を打つ。
一人さんは、鎖をちらっと見て言った。
「鎖ってさ、嫌だよな。
でもね、今日は鎖の見方を変える。」
パウロは眉を寄せる。
「見方を変えたところで、鎖は鎖だ。」
一人さんは笑った。
「そう。鎖は鎖。
でもね、鎖が“牢屋”になるか、“仕事場”になるかは、心が決めるんだよ。」
パウロは言い返す。
「仕事場? こんな場所が?」
一人さんは指を一本立てた。
「君の使命は、歩いて語るだけじゃない。
“残る言葉”を作ることだよ。」
パウロの目が少し動いた。
一人さんは続ける。
「歩いて語る言葉は、届く人が限られる。
でも書いた言葉は、時代を越える。
君は今、神様に“言葉を残す時間”をもらってるんだ。」
パウロは沈黙した。
確かに、心のどこかで分かっている。
止められたからこそ、言葉が凝縮される。
しかし、焦りがそれを見えなくしていた。
一人さんは、少し声を落として言う。
「君が今、一番苦しいのは、
『俺は止められた』って思ってることだろ?」
パウロは低く言った。
「そうだ。
止められた。妨害された。
俺の自由は奪われた。」
一人さんは首を振る。
「自由、全部は奪われてないよ。
君にはまだ、選べるものがある。」
パウロは見つめ返す。
「何を?」
一人さんは、さらっと言った。
「心の向き。」
パウロは黙る。
一人さんは続けた。
「君が鎖を見て『奪われた』って思えば、心が狭くなる。
『与えられた時間だ』って思えば、心が広くなる。
広い心は、いい言葉を生む。」
パウロは羊皮紙を見た。
書ける。
書けるのに、苛立ちで書けなくなっていた。
一人さんは言う。
「君さ、使命の人にありがちな勘違いがある。」
「勘違い?」
「うん。
使命ってのは、“動いてる時だけ”果たしてると思うだろ?」
パウロは黙った。
確かに、止まることを敗北と感じていた。
一人さんはやさしく言った。
「止まってる時にも、使命は進んでる。
目に見えない形でね。」
パウロの胸が少しだけ緩む。
一人さんは、宿題を出す。
「今夜、寝る前に、これを言って。
『今は仕込み。ここで言葉が育つ』」
パウロは小さく繰り返す。
「今は仕込み…ここで言葉が育つ…」
一人さんはうなずく。
「そう。
仕込みってのは地味だけど、結果は派手になる。」
パウロはふっと笑った。
ほんの少しだけ。
久しぶりに“軽さ”が戻る笑いだった。
「…もし、外に出られなかったら?」
一人さんは即答する。
「出られるよ。
でもね、もし出られなくても、君は負けない。
だって君の言葉が出ていくから。」
パウロは羊皮紙に手を置く。
鎖の音が鳴る。
さっきと同じ音なのに、少し違って聞こえる。
“邪魔”じゃなく、“今ここにいる証拠”みたいに。
一人さんは立ち上がり、軽く手を振る。
「君はね、止められたんじゃない。
ルートが変わっただけ。
歩くルートから、届くルートへ。」
そう言って、一人さんは石壁の影に溶けるように消えた。
パウロは息を吸い、ペンを取る。
そして小さく言った。
「今は仕込み。ここで言葉が育つ。」
牢はまだ冷たい。
鎖もまだある。
でも、心の中に、火が戻ってきた。
10. イエス — ゲッセマネの園、孤独と重圧の夜

夜露が草に光っていた。
オリーブの葉が、かすかな風で擦れ合い、しゃら…と小さな音を立てる。
空は暗いのに、星の光がやけに鋭く、静けさが痛い。
少し離れたところで弟子たちは横たわっている。
「起きていてほしい」と願ったのに、眠りが勝ってしまった。
寝息が聞こえるたび、静けさの中で孤独がくっきりする。
イエスは少し先へ歩き、膝をついた。
土は冷たく、掌に湿り気が残る。
胸の奥が重い。
重さは恐れだけではない。
愛する者たちを思う重さ、背負うべきものの重さ。
「父よ…」
言葉にしようとすると、喉が詰まる。
“分かっている”のに、身体が震える。
避けたい気持ちがある。
逃げたい気持ちがある。
それを否定できないほど、人間の部分が生々しい。
「もし可能なら…この杯を…」
祈りは祈りなのに、叫びに近い。
汗が額を流れる。夜なのに熱い。
心が燃えているからだ。
そのとき、園の暗がりがふっと柔らかくなった。
誰かが近づく気配がある。
でも、脅しでも敵意でもない。
「いやぁ…ここ、世界で一番重い夜だね。」
軽い声。
イエスは顔を上げる。
そこに、見慣れない男が立っている。
武器を持たず、偉そうでもなく、
ただ“人の心の側”に立っている目をしている。
「…あなたは誰ですか。」
男はにこっと笑った。
「斎藤一人っていうんだ。
今日はね、君が“自分を責めないように”来たんだよ。」
イエスは少し驚いたように目を細めた。
自分を責める?
使命を果たす者が、自分を責めるとは。
一人さんは、園の空気を吸い込みながら言った。
「君さ、今、二つのものを同時に抱えてる。
“愛”と“恐れ”。」
イエスは静かに答える。
「そうです。
恐れがあることが…恥ずかしい。」
一人さんは即答する。
「恥ずかしくないよ。
恐れがあるのは、君が人間として本物だからだよ。」
その言葉が、夜露みたいに静かに落ちた。
恐れを否定しない言葉。
恐れを“汚れ”にしない言葉。
一人さんは続ける。
「ここで一番危ないのはね、恐れじゃない。
“恐れを持つ自分を責めること”なんだ。」
イエスは息を吸う。
責めることで、心を無理に硬くしていた自分に気づく。
「でも…弱さを見せれば、人はつまずくでしょう。」
一人さんは首を振る。
「違うよ。
弱さを隠して立派に見せると、人は真似できない。
弱さがあるのに、それでも愛を選ぶ姿が、人を救うんだ。」
イエスの胸の奥が、少しだけ緩む。
遠くで弟子の寝返りの音がした。
それがまた、孤独を呼び戻す。
イエスは小さく言う。
「彼らは…眠ってしまった。
ひとりです。」
一人さんは、すぐに言った。
「ひとりに見えるよね。
でもね、君が今ひとりに見えるのは、
“君の役目が大きい”からだよ。」
イエスは、目を伏せる。
一人さんは、声を落として続ける。
「役目が大きい人ってね、
誰かに全部理解されるのが難しい。
だから、孤独になる。
でも孤独は、罰じゃない。
“深さ”の代償なんだ。」
イエスは、静かに涙を飲み込むように息を吐く。
一人さんは指を一本立てた。
「君が今夜やることは、これだけでいい。
“恐れを持ったまま、愛を選ぶ”って決めること。」
イエスは小さく言う。
「恐れを持ったまま…」
「そう。
恐れを消そうとしなくていい。
恐れがあっても、選べる。
それが本当の強さ。」
イエスは、夜露で湿った土を見つめた。
土は冷たい。
でも、冷たい土の上に膝をついても、膝をついたこと自体が弱さではない。
それは、真剣さだ。
一人さんはさらに言う。
「君はね、“全部を背負う”って思ってるだろ?」
イエスは答える。
「背負うべきものがあります。」
一人さんは優しく言った。
「背負うのはいい。
でもね、背負い方がある。
背負う時にね、心の中でこう言うんだよ。
『これは私の力だけじゃない』って。」
イエスは少し目を上げる。
一人さんはうなずく。
「君は愛の人だから、
自分の力で全部やろうとする。
でもね、愛ってのは“受け取る”のも含むんだよ。
助けを受け取る。支えを受け取る。
それも愛だ。」
イエスは静かに頷いた。
一人さんは宿題を出す。
「今夜、最後にこの一言を言ってから進んで。
『私は恐れても、愛を選ぶ』」
イエスは、ゆっくりその言葉を口にした。
「私は恐れても、愛を選ぶ。」
その瞬間、園の空気が少し変わった。
劇的な奇跡ではない。
ただ、心の中の“固さ”がほどけ、
決意が“静かなもの”に変わった。
一人さんは最後に言った。
「君はね、強いから愛を選ぶんじゃない。
愛を選ぶから強く見えるんだよ。」
そして、軽く手を振るようにして、闇に溶けて消えた。
イエスは立ち上がり、弟子たちの方へ戻っていく。
彼らはまだ眠っている。
それでも、怒りは湧かなかった。
責める気持ちも、少し薄れた。
夜露が足元で光る。
葉が擦れる音が、さっきよりやさしく聞こえる。
イエスは胸の中で、もう一度だけ言った。
「私は恐れても、愛を選ぶ。」
夜はまだ終わらない。
でも、その夜の中に、静かな光が宿った。
おわりに(斎藤一人さん)

ここまで、ありがとう。
10人の話を聞いて、
「みんな強かったな」って思った人もいるかもしれない。
でもね、私が伝えたかったのは、そこじゃない。
この人たちが本当にすごいのはね、
弱いまま、人生をやめなかったことなんだ。
怖かった。
逃げたかった。
失敗もした。
裏切ったこともある。
神様に文句を言いたくなった夜もある。
それでもね、
「もう一回、生きてみよう」って選んだ。
人ってね、
完璧だから立ち上がれるんじゃない。
ボロボロでも、立ち上がっていいって自分に許せた時に、
次の道が見えるんだよ。
もし今、あなたが
「自分はダメだ」
「もう遅い」
「こんな自分じゃ意味がない」
って思ってたらね、
それはね、
人生が終わったサインじゃない。
次のステージに入るサインなんだ。
覚えておいてほしいことは、これだけ。
・休んでいい
・泣いていい
・失敗してもいい
・やり直していい
そしてね、
あなたは、ひとりじゃない。
この話が、
あなたの人生を変えなくてもいい。
でも、今日の夜、
ほんの少し自分に優しくなれたなら——
それだけで、大成功です。
また、どこかで会いましょう。
人生はね、まだまだ続くから。
ありがとう。

Short Bios:
斎藤一人
日本を代表する実業家・精神的指導者。「人は幸せになるために生まれてきた」という信念のもと、やさしさ・自己肯定・心の在り方を説く。本シリーズでは、苦しみの只中にいる人に寄り添う語り手として登場する。
ヨセフ
兄たちに裏切られ、奴隷・牢獄へと落とされた人物。不条理な苦しみの中でも希望を失わず、後に多くの人を救う立場へと導かれる。
モーセ
かつて王宮で育ちながらも逃亡者として荒野に生きた預言者。長い沈黙と孤独の時を経て、民を導く使命へと呼び戻された。
ヨブ
理由のわからない苦難によって、財産・家族・健康を失った人物。「なぜ」という問いを抱えながらも、人間の尊厳を失わなかった象徴的存在。
ダビデ
将来王となると約束されながら、命を狙われ洞窟に身を潜めた青年。逃亡の日々の中で、権力ではなく心を治める力を学んだ。
エリヤ
偉大な奇跡を経験した後、燃え尽きて荒野で倒れた預言者。使命感の裏側にある「疲れきった人間性」を象徴する存在。
エレミヤ
誰にも受け入れられない真実を語り続け、拒絶と迫害を受けた預言者。理解されなくても語ることをやめなかった「孤独な声」。
ペテロ
イエスの最も近くにいながら、恐れの中で否認してしまった弟子。失敗と悔いを経て、人に寄り添う器へと変えられていく。
マグダラのマリア
深い喪失と悲しみを抱えながらも、最後まで愛を手放さなかった女性。悲しみの中で「最初に希望を見た人」とされる。
パウロ
自由を奪われ獄中にありながら、言葉によって世界を変え続けた使徒。制限の中でこそ使命が深まることを体現した人物。
イエス
愛と赦しを説きながらも、恐れと孤独を抱えて最後の夜を迎えた人物。神的存在としてではなく、「苦しみの中で愛を選んだ人間」として描かれる。

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