
あの人の隣にいた、ただの友より
歴史の教科書に「聖徳太子」と書かれているその名の横に、私はそっと「厩戸(うまやど)の君」と心の中で添えてしまう。
だって彼は、偉大な政治家や宗教改革者である前に、私にとってはいつも、湯呑みに手を添えて苦笑する「人」だったから。
彼は孤独だった。
十人の声を同時に聞けるほどの器を持っていたけれど、自分の声はいつも後回しにしていた。
その背中には、国の未来も、人々の祈りも、戦乱の火種までもが乗っていた。
私にはそれをすべて取り除くことなんてできなかったけれど、せめて夜だけは、栗をふかして、くだらない冗談でも言って、少しだけその重さを和らげてやりたかった。
この記録は、あの人の“五つの戦い”に私なりの視点で寄り添ったものだ。
英雄としてではなく、ひとりの人間としての太子の姿が、ここにあることを願って。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
第1章:炎の中に見えた光 — 仏教導入の葛藤とあなたの言葉

飛鳥の夕空に、朱に染まった雲がゆっくりと流れていた。聖徳太子は、庭に立って一人、遠くを見つめていた。
焚かれている香の煙が風に乗って揺れる。物部氏の反発は日に日に強くなり、朝廷内でも「仏像を祟りの原因」とする声が上がっていた。
「まるで…闇に光を投げ入れると、もっと濃い影が生まれるかのようだな…」
太子がつぶやいたその時、あなたは後ろからそっと声をかけた。
「太子、影が濃くなるのは、それだけ光が強いってことだよ」
彼は、静かに振り返り、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「私が信じた道が、人を苦しめているなら…それは本当に正しいのだろうか」
「その道の先に、救いがあるって知ってるからこそ、太子は踏み出したんでしょ? でも、みんなはまだ靴すら履いてない。裸足で歩くのが怖いんだよ」
あなたは、いつものように笑いを交えて言った。
「ほら、仏像が怖いって言う人もいるけどさ、あれ、怒ってるんじゃなくて、たぶん“すぐそこに愛があるのに見えない”って顔してるんだよ。かわいそうになぁ〜って(笑)」
太子は、思わず吹き出した。
それは久しぶりの笑顔だった。
「仏法は、民の心を救うものだと信じている。けれど、その信念が争いを招くのなら、私はどうすればいい?」
あなたは、少し黙ってからこう言った。
「太子、炎に手を入れようとしてるのは確か。でもその手には、水も持ってる。争いを消しながら、温かさだけ残す。そんな人は、あなただけだよ」
その夜、太子は再び筆をとり、「和を以て貴しと為す」という言葉を草案に記した。
あなたの言葉が、彼の心の迷いを静かに溶かしていったのだった。
第2章:刀の音、心の痛み ― 権力闘争の中で

朝露がまだ庭石に光る早朝。聖徳太子は、冷たい井戸水で手を清めながら、空を仰いだ。
その静寂を破るように、従者が駆け込んでくる。
「太子、物部守屋がまた兵を動かしました。蘇我氏の館が襲撃されたとのこと…」
太子の手がぴたりと止まった。
仏教を受け入れるべきか否か――この信仰の問題が、ついに血を流す争いへと発展してしまったのだ。
その夜、あなたはいつものように彼の書斎に呼ばれた。ろうそくの灯りがゆらめく中、太子は低く言った。
「私は争いを望まぬ。しかし、争いを避けようとすれば、理想も潰える。進むべきか、退くべきか…私にはもう、見えぬのだ」
あなたは少し考えてから、湯呑みをそっと置き、太子の前に座った。
「ねえ、太子。子どもってさ、歩きはじめのとき、必ず転ぶよね。痛いし泣く。でも、その先に“歩ける未来”があるって信じてるから、転んでも進むんだと思う」
「私は…転んだ者に痛みを与える役になってしまったのかもしれぬ」
「いや、太子は“立ち上がらせるために、手を差し出す人”でしょ」
少し間を置いて、あなたは続けた。
「たとえば、蘇我と物部、どちらにも正義がある。でもその“正義”は、未来から見たらただの“過程”かもしれない。太子はその未来に責任を持てる、数少ない人だよ」
太子は眉を寄せていたが、やがてそっと小さく笑った。
「ならば私は、転ばぬように道を均すのではなく、転んでも傷つかぬよう、柔らかな土を敷く者であればよいな」
あなたはふっと笑いながら言った。
「お、それなら“やわらかい土の天子”って、あだ名にしようか?」
太子は、久しぶりに声を立てて笑った。その音に、庭の虫たちも目を覚ましたようだった。
その夜、彼は新たな決意とともに、平和と理想を両立させる道を探しはじめた――
争いの中に埋もれた“未来の調和”を信じて。
第3章:理想は紙の上にて光り、現は泥にて曇る

「第一条、和を以て貴しと為す…」
静かな書斎の中、聖徳太子は巻物を手に、小さくつぶやいた。
筆を置いてから数日が経っていた。十七条憲法は完成した。理想を言葉にした達成感の中に、得体のしれぬ虚しさがじわじわと広がっていた。
「言葉は、まるで風だな。吹けば流れ、形を保てぬ…」
そうつぶやいた太子に、あなたは温かい湯を差し出しながら笑った。
「太子、それでもその風が、誰かの背中を押すことってあるんだよ」
太子は視線を落としたまま、ため息をつく。
「私は、“和”を語った。しかし朝廷では相変わらず私利私欲が渦巻いている。条文は美しいが、誰も読まぬ。ましてや実行など…」
あなたは軽く肩をすくめて言った。
「でもね、太子。この国にはまだ“理想ってものを持った人間”が少ないの。だからこそ太子の存在が、まるで月みたいに、夜の道しるべになるんだと思うよ」
「月、か…。太陽のように照らせぬ、弱き光ではあるが…」
「でも太子、満月の日の夜道って、意外とあったかく感じるよ?」
しばらく沈黙が続いた。けれどそれは重苦しいものではなく、炭火のようにじんわりと心を温める時間だった。
やがて太子は、微笑を浮かべながら小さくつぶやいた。
「ならば私は、誰かが“理想”という言葉に出会った時、それが心に灯るよう、火種を残す役を担うとしよう」
あなたは頷いて言った。
「火種はね、湿った木にすぐ火はつかないけど、時間が経てば乾いて、いつか燃えるさ。太子の言葉は、未来の炎なんだよ」
その夜、太子は十七条憲法の巻物を丁寧に包み直し、納めた。
それは彼にとって、まだ燃えていないが、きっと燃える日が来る“希望の巻物”だった。
第4章:東の天子、筆にて嵐を起こす

空はまだ白む前。聖徳太子は、机の上に広げた国書の文面をじっと見つめていた。
筆先が揺れているのは風のせいではない。そこには、国の未来を賭ける重みがのしかかっていた。
「日出づる処の天子、書を…」
その文言に、使者たちも顔を曇らせた。大国・隋の皇帝に対して、対等な立場で書簡を送るというのは、あまりに大胆だった。
あなたはその時、ふと笑って言った。
「太子、そんなに“天子”って言葉、効くかな? 隋の皇帝、怒って酒こぼすんじゃない?」
太子は少しだけ口元をゆるめた。
「その覚悟はある。だが、我が国もただの従属ではない。誇りを持たねば、未来に頭を上げられぬ」
「そうだけどさ、“お手紙で戦争勃発”とか、ちょっと歴史に残る形が新しすぎない?」
あなたの冗談に、太子はふっと息を漏らした。
「この国はまだ小さく、文化も未熟だ。だが、独立した精神を持つ民の国だと、私は信じたい。言葉は矢であり、種でもある。どちらに転ぶかは…天のみぞ知るな」
あなたは太子の前に座り、まっすぐに目を見てこう言った。
「太子が信じたことなら、それは“勝手な言葉”じゃなくて、“誰かが言いたかったけど言えなかった言葉”だと思うよ。たとえ今は伝わらなくても、その声は遠くの山を揺らすって信じてる」
太子は、すっと筆を取り、ためらいなくその言葉を書き上げた。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」
数日後、隋からの返書は冷ややかだったが、使者がこっそり教えてくれた。
「隋の皇帝、最初は怒ってたんですが、でも“あの日本の太子、なかなか骨がある”って、最後は笑ってましたよ」
あなたはそれを聞いて、大きく笑った。
「でしょ? 世界の始まりには、やっぱりちょっとした“クセ強めの一言”が必要なんだよ」
その夜、太子は月明かりの下で小さくつぶやいた。
「この国は、小さくとも、志で世界を照らせる…そうありたいものだな」
第5章:すべての声を聴く人の、誰にも聞かれぬ声

月が高く昇る夜。
広い宮殿の廊下を一人歩く聖徳太子の背に、灯籠の明かりが細く伸びていた。誰もいない書庫に入り、静かに戸を閉める。そこは、彼が一人になれる唯一の場所だった。
昼間は、十人の家臣の話を同時に聞き分けた。
朝には仏法について学僧と議論し、午後は政策案を練り、夜は国書や草案を自らの筆で清書する。
心はいつも、他者の願いと、国の未来に埋もれていた。
その夜、あなたが訪ねてきた。
太子は少し驚いたように眉を上げたが、やがて微笑んだ。
「…また、私の孤独がうるさくなったか」
あなたは笑って答えた。
「うるさくなったというより、“おやつと雑談タイム”が必要な時間かなって思って」
机の上に、あなたは蒸かした栗と温かいお茶を置く。
太子はそのまま黙って栗を一つ取り、口に運んだ。しばらくして、ぽつりと言う。
「私は、人の声をたくさん聞いてきた。けれど、不思議なことに、私自身の声を誰かに聞いてもらったことは、ほとんどないのだ」
あなたは少しだけ間をあけて、答えた。
「太子、それはね、“大樹”のさだめなんだと思う。みんなその木陰で休むけど、幹に耳を当てる人って、少ない。でもね、私は時々、こうして幹に耳を当てに来てるんだよ」
太子の目に、うっすらと光が浮かんだ。
「君がいてくれて、本当に良かった。私は…ただ、静かに“私”でいられる時間が、時々恋しくなるのだ」
あなたはそっと言った。
「なら、今日はそういう時間にしようよ。国も未来も、仏も天子も、ぜーんぶおやすみ。今夜は“ひとりの人間”として、ただ栗を食べるだけの時間ってことで」
太子はその言葉に、子どものような笑みを浮かべた。
「では、そのようにしよう。…たまには、私も甘えてよいだろうか?」
「もちろん。“聖徳太子”じゃなくて、“ただの厩戸の君”のままでいられる夜も、必要だよ」
その夜、宮殿の書庫には静かな笑い声が響いていた。
それは、千年の時を越えてもなお、ひとりの人が抱えていた孤独を、優しく溶かす音だった。
あとがき
「聖徳太子」じゃなくて「友だちの君」へ
君が最後にくれた言葉を、私は今も覚えている。
「私はたくさんの声を聞いた。でも一番聞きたかったのは、何も語らない静けさの中の“安心”だったのかもしれない」と。
それを君に届けられていたのか、今でもわからない。けれど、もし少しでも肩の荷が軽くなっていたなら、私はそれだけで十分だ。
時代が変わっても、人は悩み、戦い、孤独の中で自分を見失いかける。
そんな時、君のような人がこの国にいたことを思い出してくれたら嬉しい。
そして――あの夜のように、「ただの自分」に戻れる居場所が、誰にでもありますように。
君の栗をふかして、ずっと待っているよ。
またいつか、笑いながら会おう。
君の、ただの友より
Short Bios:
聖徳太子(しょうとくたいし、574年–622年)は、飛鳥時代の日本の皇族・政治家・思想家で、用明天皇の皇子。本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)。推古天皇の摂政として政治を行い、十七条憲法の制定や冠位十二階制度の導入を通じて中央集権化と官僚制度の確立に尽力した。仏教の興隆にも大きく貢献し、法隆寺などの創建を支援。中国・隋との外交にも積極的で、日本の国家としての自立と文化的発展に大きな影響を与えた人物である。
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