はじめに
『沈黙のパレード』は、復讐を描いたミステリーであると同時に、悲しみ、怒り、沈黙、司法、責任、そして喪失後の人生を問い続ける作品です。
この仮想対談では、河合隼雄、中野信子、國分功一郎、Martha Nussbaum、Robert Sapolsky、Pauline Bossが、物語の人物たちを外側から見つめます。
彼らが考えるのは、「誰が正しいか」だけではありません。
なぜ人は復讐したくなるのか。
なぜ悲しみは怒りへ変わるのか。
法律が正しく機能していても、被害者が救われないことはあるのか。
家族や共同体を守るための沈黙は、どこから罪になるのか。
そして、加害者を許さなくても、自分の人生へ戻ることはできるのか。
Project 1では登場人物たち自身が感情を語りました。
Project 2では、その感情を心理学、哲学、行動科学、悲嘆研究の視点から読み直していきます。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1 — 法律が裁けないなら、それでも正義は存在するのか

部屋には、少し重たい空気が流れていた。
誰かが怒鳴ったわけではない。
まだ誰も感情をむき出しにしていない。
ただ、最初の問いがあまりにも簡単で、あまりにも答えにくかった。
「無罪と、何もしていないことは同じなのか。」
中野信子が先に口を開いた。
中野信子:
「人はね、かなり強く“結論”を欲しがるんです。」
Nussbaumが中野を見る。
中野信子:
「白なのか黒なのか。善なのか悪なのか。犯人なのか無実なのか。」
「そういうふうに分けた方が、脳としては処理しやすい。」
國分功一郎が少し身を乗り出した。
國分功一郎:
「でも司法が出している結論は、本来そこまで単純ではないですよね。」
中野信子:
「そうです。」
國分功一郎:
「有罪と証明できなかったことと、その人が何もしていないことを証明したことは、同じではない。」
Nussbaumが頷いた。
Martha Nussbaum:
「その区別はとても大切です。」
「法は、人間の内面や宇宙のすべての事実を直接見ることはできません。」
「扱えるのは、証拠と手続きによって確認できる範囲です。」
中野が言う。
中野信子:
「でも被害者家族にとっては、そこがものすごく苦しいんですよ。」
Bossが静かに中野を見る。
中野信子:
「自分たちの中では、もう結論が出ている。」
「この男だと思っている。」
「警察も疑っている。」
「周囲の人も疑っている。」
「それなのに、制度だけが“そこまでは言えません”と止まる。」
Pauline Bossが口を開いた。
Pauline Boss:
「それは、悲嘆を終わらせにくくします。」
國分がBossを見る。
Pauline Boss:
「人を失っただけでも苦しい。」
「そこに、“何が本当に起きたのか分からない”“誰が責任を取るのか分からない”という状態が加わる。」
「家族の心の中では、事件が終わらないのです。」
河合隼雄が、しばらく黙ってから言った。
河合隼雄:
「心というのはね、裁判所の判決に合わせて動いてくれるわけではないんです。」
部屋が静かになる。
河合隼雄:
「“証拠が足りませんでした”と言われて、“そうですか、ではこれで終わりです”とはならない。」
「頭では分かる。」
「しかし心は納得しない。」
「その二つが、ずっと一人の人間の中に残るわけです。」
Sapolskyが頷いた。
Robert Sapolsky:
「そして、その状態が長く続くと、人間の行動も変わります。」
中野がSapolskyを見る。
Robert Sapolsky:
「人間は、不確実な状態を非常に嫌います。」
「何が起きたのか分からない。」
「誰が悪いのか分からない。」
「次に何をすればいいのか分からない。」
「そういう状態に置かれると、脳は強いストレスを受け続ける。」
中野信子:
「だからこそ、“犯人はこいつだ”という確信が強くなる場合もある。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「確信は、苦しみを減らすことがある。」
國分が少し眉を寄せる。
國分功一郎:
「でも、それは危険でもありますよね。」
Robert Sapolsky:
「もちろん。」
國分功一郎:
「人間が苦しみに耐えられないから確信を作るのだとしたら、その確信を社会がそのまま刑罰に変えることはできない。」
Nussbaumがすぐに入る。
Martha Nussbaum:
「そこが法の役割です。」
「怒りに従わない。」
「確信だけで罰しない。」
「証明されていないことを、証明されたこととして扱わない。」
中野が少し笑う。
中野信子:
「でも、ここで被害者側から見ると、“じゃあ私たちはどうなるんですか”って話になるんですよね。」
Nussbaumは黙る。
中野信子:
「制度は、疑わしい人を守る。」
「それは必要。」
「でも、その結果、娘を失った親は守られない。」
Pauline Bossが静かに言う。
Pauline Boss:
「そこを忘れてはいけません。」
「制度上の公正さと、悲嘆している人間が感じる公正さは、同じではありません。」
國分がBossを見る。
國分功一郎:
「つまり、法律が正しく機能しているのに、不正義のように感じられることがある。」
Pauline Boss:
「あります。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「むしろ、人間の世界ではそういうことは珍しくないと思います。」
中野が聞く。
中野信子:
「先生、それってどういうことですか。」
河合隼雄:
「正しいことと、救われることは違うんですよ。」
誰も口を挟まなかった。
河合隼雄:
「たとえば医者が正しい診断をしても、その診断で患者が幸せになるとは限らない。」
「裁判所が正しい手続きをしても、遺族が救われるとは限らない。」
「正しさというものには、そういう冷たいところがあります。」
Nussbaumが少し考える。
Martha Nussbaum:
「ただ、その冷たさを完全になくしてしまうと、今度は別の危険が生まれます。」
河合隼雄:
「ええ。」
Martha Nussbaum:
「人間は怒っているとき、“自分は絶対に正しい”と感じやすい。」
「そして相手が苦しめば、何かが回復すると感じる。」
「でも法は、その感覚に距離を置かなければならない。」
中野が返す。
中野信子:
「でも、被害者家族からすれば、その距離が“冷たさ”になる。」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
「だから私は、法が被害者に“あなたの怒りは間違っている”と言うべきだとは思いません。」
「怒りには理由があります。」
「問題は、その怒りを刑罰そのものの基準にしてよいかです。」
國分が口を開く。
國分功一郎:
「ここで面白いのは、“法は誰を守るのか”という問いですね。」
Sapolskyが見る。
國分功一郎:
「多くの人は、法は被害者を守るためにあると思う。」
「でも実際には、容疑者も守る。」
「証拠が足りなければ処罰しない。」
「手続きに従う。」
「これは、社会が自分自身の暴力を制限しているということでもある。」
Nussbaumが頷く。
Martha Nussbaum:
「その通りです。」
國分功一郎:
「つまり法は、“悪人を罰する装置”だけではない。」
「“私たちが間違って誰かを罰することを防ぐ装置”でもある。」
中野がすぐに返す。
中野信子:
「でも、それを並木祐太郎に言って納得すると思います?」
國分は少し黙った。
中野信子:
「娘を失って。」
「目の前には、自分が犯人だと思っている男がいる。」
「その人に“社会全体のために我慢してください”って言う。」
「かなり残酷ですよ。」
國分は頷いた。
國分功一郎:
「残酷です。」
その返事があまりに早かったので、中野が少し驚いた。
國分功一郎:
「制度的に必要であることと、個人にとって残酷であることは両立します。」
河合が微笑む。
河合隼雄:
「そこをどちらか一方にしてしまうから、人は苦しくなるんでしょうね。」
中野信子:
「どちらか一方?」
河合隼雄:
「法律が正しいなら、遺族も納得すべきだ。」
「あるいは、遺族が苦しんでいるなら、法律が間違っている。」
「そういう二者択一にしてしまう。」
河合は少し間を置いた。
河合隼雄:
「でも本当は、“法律は必要だ。そして遺族は救われていない”という二つを同時に抱えなければならない。」
Pauline Bossが強く頷いた。
Pauline Boss:
「私はその考えに近いです。」
「人は、曖昧さを早く閉じようとします。」
「しかし悲嘆の中には、閉じられないものがあります。」
「真実が完全に分からない。」
「責任が完全に決まらない。」
「愛していた人は戻らない。」
「それでも生活を続けなければならない。」
Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「そして、その曖昧さに耐える能力には個人差があります。」
「過去の経験。」
「家族関係。」
「性格。」
「ストレス。」
「周囲の反応。」
「それら全部が影響します。」
中野が聞く。
中野信子:
「じゃあ、もし祐太郎が復讐を考えたとして、それを単純に“本人の道徳性が弱かった”とは言えない?」
Robert Sapolsky:
「私はそう考えます。」
「人間の行動を一瞬だけ切り取って、“この人はここで悪を選んだ”と見るのは簡単です。」
「でも、その一瞬の前には長い時間があります。」
「娘を失った。」
「答えが得られない。」
「疑っている男が自由になる。」
「周囲も怒っている。」
「睡眠が乱れる。」
「何度も同じことを考える。」
「怒りが強化される。」
「そういう連鎖があります。」
Nussbaumがすぐに入る。
Martha Nussbaum:
「でも、その説明によって責任を消してしまうことはできません。」
SapolskyがNussbaumを見る。
Robert Sapolsky:
「ええ、そこは私たちがよく意見を違えるところでしょうね。」
國分が興味深そうに二人を見る。
Martha Nussbaum:
「なぜ行動したかを説明することは必要です。」
「しかし、被害を受ける人の側から見れば、“彼にはそうする理由があった”だけでは足りません。」
Robert Sapolsky:
「私は、“理由があったから許される”とは言っていません。」
Martha Nussbaum:
「分かっています。」
Robert Sapolsky:
「私は、罰する前に、人間がどうやってその行動へ到達したかを見るべきだと言っています。」
國分が言う。
國分功一郎:
「ここで“責任”という言葉が少しややこしくなるんですよ。」
中野が見る。
國分功一郎:
「責任というのは、“完全に自由だった人間だけが負うもの”なのか。」
「それとも、いろいろな影響を受けていても、その行為を自分のものとして引き受けることなのか。」
河合が少し笑う。
河合隼雄:
「人間というのは、そう簡単に一枚では切れませんからね。」
中野が河合を見る。
河合隼雄:
「被害者でもあり、加害者にもなる。」
「愛していて、憎んでもいる。」
「正義を求めながら、自分を救いたいと思っている。」
「人間は矛盾したまま動く。」
Bossが静かに言った。
Pauline Boss:
「だからこそ、被害者家族に“正しい反応”を求めすぎないことも大切です。」
NussbaumがBossを見る。
Pauline Boss:
「怒ってもいい。」
「混乱してもいい。」
「復讐したいと思うことがあってもいい。」
「その感情を持った瞬間に、“あなたも悪人です”とは言わない。」
中野が頷く。
中野信子:
「そこはすごく大事ですね。」
Pauline Boss:
「感情と行動を分ける。」
「その人が何を感じたかを受け止めることと、その人が何をしても許すことは違います。」
Nussbaumが少し微笑む。
Martha Nussbaum:
「そこは私も同意します。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「では、制度はその“感情”をどこで受け止めるんでしょう。」
誰もすぐには答えなかった。
國分は続ける。
國分功一郎:
「裁判所は証拠を見る。」
「警察は捜査する。」
「弁護士は手続きを守る。」
「では、“私は納得できない”“私は怒っている”“私は壊れそうだ”という部分は、誰が引き受けるのか。」
Bossが息を吐く。
Pauline Boss:
「そこが空白になることがあります。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「そして、その空白に復讐が入ってくることがある。」
部屋の空気が少し変わった。
中野が河合を見る。
中野信子:
「先生、それ、かなり核心じゃないですか。」
河合隼雄:
「そうでしょうか。」
中野信子:
「制度が感情を受け止めない。」
「家族は“自分で何とかするしかない”と思う。」
「そこで復讐が、正義の代用品になる。」
Nussbaumが静かに言う。
Martha Nussbaum:
「そして復讐は、“失ったものを取り戻す”という約束をする。」
國分が見る。
Martha Nussbaum:
「でも、その約束は実現しません。」
「相手が苦しんでも、娘は戻らない。」
「相手が死んでも、過去は変わらない。」
「だから私は、復讐を正義と同一視することに強く反対します。」
中野が聞く。
中野信子:
「でも、その人の心が一瞬でも楽になるなら?」
Nussbaumは少し考えた。
Martha Nussbaum:
「一瞬の安堵と、正義は同じではありません。」
Sapolskyが入る。
Robert Sapolsky:
「しかも、その安堵が長く続く保証もない。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「悲嘆の原因は、加害者が生きていることだけではないからです。」
「愛する人がいない。」
「それは変わらない。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「相手を消したら、自分の悲しみも消えると思う。」
「でも、相手がいなくなったあと、悲しみだけが残ることもあるでしょう。」
誰も言葉を挟まなかった。
國分がゆっくり言った。
國分功一郎:
「だとすると、法の役割は少し見えてきますね。」
Nussbaumが見る。
國分功一郎:
「法は、完全な正義を実現する装置ではない。」
「真実を全部知る装置でもない。」
「悲しみを消す装置でもない。」
中野が聞く。
中野信子:
「じゃあ何なんです?」
國分は少し考えた。
國分功一郎:
「少なくとも、人間が怒りのまま互いを裁き始めることを止めるための仕組みの一つでしょう。」
Nussbaumが頷いた。
Martha Nussbaum:
「同意します。」
國分功一郎:
「でも、それだけでは足りない。」
Bossが國分を見る。
國分功一郎:
「法が“あなたは自分で復讐してはいけない”と言うなら。」
少し間を置く。
國分功一郎:
「社会は、“ではその怒りをどこへ持っていけばいいのか”にも答えなければならない。」
中野が深く頷いた。
中野信子:
「それですよね。」
Pauline Boss:
「その人が怒りを持ったまま孤立しない場所が必要です。」
河合隼雄:
「話せる場所ですね。」
Pauline Boss:
「はい。」
河合隼雄:
「“そんなことを考えてはいけない”と言われない場所。」
「“許しなさい”とも言われない場所。」
「ただ、“そこまで怒っているんですね”と受け止めてもらえる場所。」
Nussbaumが静かに言う。
Martha Nussbaum:
「そして、その感情を認めたあとで、“では何をするか”を考える。」
Sapolskyが頷く。
Robert Sapolsky:
「その順番は大事です。」
「感情を否定してから行動を変えようとすると、うまくいかないことがある。」
中野が笑う。
中野信子:
「人間って、“怒るな”って言われると余計怒りますからね。」
少しだけ空気が緩んだ。
河合がその小さな笑いのあとに言った。
河合隼雄:
「でも、ここで一つ残りますね。」
全員が河合を見る。
河合隼雄:
「法律が間違っていない。」
「容疑者を証拠なしで罰しない。」
「それは必要です。」
「しかし、その結果として、ある家族は壊れていく。」
河合は少し視線を落とした。
河合隼雄:
「そういうとき、“法律は正しかった”だけで話を終わらせていいのか。」
Nussbaumはすぐには答えなかった。
Bossも黙っていた。
國分がゆっくり口を開く。
國分功一郎:
「終わらせてはいけないと思います。」
中野が見る。
國分功一郎:
「法的な結論が出たあとに、人間の問題が残る。」
「むしろ、そこから始まる問題がある。」
Bossが頷いた。
Pauline Boss:
「悲嘆には、判決日がありません。」
部屋が静かになった。
その言葉を受けて、Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「そして怒りにも、明確な終了日はない。」
中野が続ける。
中野信子:
「だから、処理されなかった怒りが次の行動を作る。」
Nussbaumが低い声で言った。
Martha Nussbaum:
「そこで私たちは、次の問いに進まざるを得ないのでしょうね。」
河合がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「なぜ人間は、復讐したくなるのか。」
誰もすぐには答えなかった。
ただ、その問いにはもう、最初ほど単純な響きはなかった。
復讐したい人間が悪い。
そう言って終わることはできない。
復讐は正義だ。
そう言って終わることもできない。
法律が必要だ。
それも本当だった。
法律だけでは人を救えない。
それもまた本当だった。
そして、その二つの間に置かれた人間が、
次に何をするのか。
そこから、もっと危険な話が始まろうとしていた。
Topic 2 — なぜ人間は復讐したくなるのか

「なぜ人間は、復讐したくなるのか。」
Nussbaumの問いが残った。
中野信子が、少し考えてから口を開いた。
中野信子:
「まず、復讐したいと思っただけで、その人を異常だと考えるのは違うと思います。」
Nussbaumが頷く。
中野信子:
「むしろ逆です。」
「自分が傷つけられた。」
「家族が傷つけられた。」
「それなのに相手が何の代償も払っていない。」
「そこで怒りが生まれるのは、かなり自然な反応です。」
Sapolskyが入る。
Robert Sapolsky:
「しかも、その怒りは個人の感情だけではありません。」
中野が見る。
Robert Sapolsky:
「人間は集団で生きてきました。」
「誰かが規則を破る。」
「他人を傷つける。」
「それなのに何も起こらない。」
「それを放置すると、集団全体の協力関係が崩れる。」
中野信子:
「だから“罰したい”という感情そのものには、社会的な機能もある。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
Nussbaumが少し身を乗り出した。
Martha Nussbaum:
「そこには同意します。」
中野が少し意外そうに見る。
中野信子:
「復讐にかなり批判的なのに?」
Martha Nussbaum:
「私は怒りそのものを否定しているわけではありません。」
「怒りは、“何か大切なものが傷つけられた”という信号になることがあります。」
「問題は、その次です。」
中野信子:
「相手を苦しめたいと思うこと?」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
Nussbaumは少し間を置いた。
Martha Nussbaum:
「私の娘が殺されたとします。」
部屋が静かになった。
Martha Nussbaum:
「私は怒るでしょう。」
「激しく怒ると思います。」
「犯人に責任を取ってほしいと思う。」
「社会から隔離する必要があるなら、そうしてほしいと思うでしょう。」
「しかし、そこから一つ危険な考えが生まれます。」
國分功一郎が聞く。
國分功一郎:
「どんな考えですか。」
Martha Nussbaum:
「“相手が苦しめば、失ったものとの釣り合いが取れる”という考えです。」
誰も口を挟まない。
Martha Nussbaum:
「娘は死んだ。」
「だから相手も苦しむべきだ。」
「相手も死ぬべきだ。」
「そうすれば世界の秩序が少し戻る。」
Nussbaumは首を振った。
Martha Nussbaum:
「でも戻りません。」
「娘は戻らない。」
中野が静かに返す。
中野信子:
「理屈ではそうなんですよ。」
Nussbaumが中野を見る。
中野信子:
「でも、人間ってそんなふうに割り切れない。」
Martha Nussbaum:
「もちろんです。」
中野信子:
「“娘が戻らないんだから復讐しても意味がないでしょう”って、実際に親へ言ったら。」
中野は首を振った。
中野信子:
「かなりひどい言葉になると思う。」
Bossがすぐに頷いた。
Pauline Boss:
「私もそう思います。」
Nussbaumは反論しなかった。
Pauline Boss:
「悲嘆している人にとって、怒りは単なる哲学的誤謬ではありません。」
「生き延びるための感情になっていることがあります。」
國分がBossを見る。
國分功一郎:
「生き延びるため?」
Pauline Boss:
「はい。」
「深い喪失の直後、人は圧倒されます。」
「何もできない。」
「元に戻せない。」
「愛していた人を救えなかった。」
「その無力感は非常に苦しい。」
Bossは少し間を置いた。
Pauline Boss:
「怒りには、方向があります。」
Sapolskyが頷く。
Pauline Boss:
「誰かを責められる。」
「何かを要求できる。」
「行動できる。」
「悲しみだけなら、ただ泣くしかないと感じる人もいる。」
河合隼雄が静かに言った。
河合隼雄:
「悲しむより、怒る方が楽なことがありますね。」
中野が河合を見る。
中野信子:
「楽?」
河合隼雄:
「楽という言い方は少し違うかもしれません。」
「耐えやすい、と言った方がいいでしょうか。」
河合はゆっくり続けた。
河合隼雄:
「悲しみというのは、自分の無力さを認めなければならないでしょう。」
「もう戻ってこない。」
「何もできない。」
「どれだけ泣いても変わらない。」
「それを受け入れるのは、ものすごくつらい。」
Pauline Boss:
「そうですね。」
河合隼雄:
「でも怒っている間は、まだ何かできる気がする。」
「犯人を探す。」
「責める。」
「罰する。」
「戦う。」
河合は少し目を伏せた。
河合隼雄:
「だから怒りが、悲しみを支えていることがある。」
Nussbaumが聞く。
Martha Nussbaum:
「では、その怒りを取り除いてしまうことが、かえって危険な場合もあると?」
河合隼雄:
「あると思います。」
Bossが続ける。
Pauline Boss:
「だから私は、“怒りを手放しましょう”という言葉を急いで使いたくありません。」
中野が頷く。
Pauline Boss:
「その怒りを取ったら、その下から何が出てくるのか。」
「絶望かもしれない。」
「罪悪感かもしれない。」
「自分を責める気持ちかもしれない。」
「生きる意味を失った感覚かもしれない。」
Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「ここで祐太郎のような人物を考えると、復讐心を単純に“蓮沼への憎しみ”だけで説明するのは足りないでしょう。」
國分が見る。
Robert Sapolsky:
「娘を守れなかったという感覚がある。」
「もっと早く何かできたのではないか。」
「自分があの日そこにいれば。」
「何か違う選択をしていれば。」
「そういう反実仮想を繰り返す。」
中野が言う。
中野信子:
「“もしあの時”ですね。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「人間は過去を何度も再構成します。」
「しかも結果を知ったあとで。」
「今なら危険だったと分かる。」
「だから、“なぜ当時の自分は気づかなかったんだ”と責める。」
Bossが静かに言う。
Pauline Boss:
「遺族には非常によく起きることです。」
Robert Sapolsky:
「そうすると、怒りの対象が二つになる。」
國分が少し眉を上げる。
國分功一郎:
「二つ?」
Robert Sapolsky:
「加害者と、自分です。」
河合が小さく頷いた。
河合隼雄:
「そこは大事ですね。」
Robert Sapolsky:
「表面では“あいつを許せない”と言っている。」
「でもその下には、“自分も許せない”があるかもしれない。」
部屋が静かになった。
中野がゆっくり言う。
中野信子:
「だとすると、復讐って。」
少し考える。
中野信子:
「相手を罰するだけじゃなくて、自分を救おうとしてる場合もある?」
Robert Sapolsky:
「十分あり得ます。」
河合が続けた。
河合隼雄:
「あるいは、自分が無力ではなかったことを証明したい。」
Bossが河合を見る。
河合隼雄:
「娘を守れなかった。」
「その事実は変えられない。」
「でも犯人を罰することはできる。」
「そうすると、“私は何もできなかった父親ではない”と思えるかもしれない。」
中野が息を吐いた。
中野信子:
「それ、かなり苦しいですね。」
河合隼雄:
「ええ。」
中野信子:
「だって本人は“娘のためにやってる”と思ってる。」
河合隼雄:
「それも本当でしょう。」
中野が少し驚く。
河合隼雄:
「娘のためでもある。」
「自分のためでもある。」
「相手への憎しみでもある。」
「自分への怒りでもある。」
「一つに決める必要はないんです。」
國分が口を開く。
國分功一郎:
「人間は、自分の行為の理由を一つにまとめたがりますよね。」
河合隼雄:
「そうですね。」
國分功一郎:
「“家族のためにやった”。」
「“正義のためにやった”。」
「そう言うと、自分の行為が分かりやすくなる。」
Nussbaumが入る。
Martha Nussbaum:
「そして道徳的にも正当化しやすくなる。」
國分功一郎:
「そうなんです。」
「“私は自分が楽になりたかったからやった”より、“娘のためにやった”の方が正しく聞こえる。」
河合が静かに言った。
河合隼雄:
「でも、その二つが一緒にあってもいいんですよ。」
Nussbaumが河合を見る。
河合隼雄:
「問題は、自分の中の一方を見ないことです。」
「愛だけを見る。」
「自分の怒りは見ない。」
「正義だけを見る。」
「自分の復讐心は見ない。」
「そうすると、だんだん危なくなる。」
中野が頷いた。
中野信子:
「自分は正義だと思ってる人の方が、一線を越えやすい場合がありますからね。」
國分が中野を見る。
中野信子:
「“自分は悪いことをしている”と思っている人は、まだブレーキがある。」
「でも“これは正義だ”となると、ブレーキを外しやすい。」
Nussbaumが強く頷いた。
Martha Nussbaum:
「そこが、復讐と正義を分けなければならない理由の一つです。」
「人間は自分の怒りに、“正義”という名前を与えることができる。」
「すると相手の苦痛が目的になっていることを、自分でも見なくなる。」
Sapolskyが少し前へ出る。
Robert Sapolsky:
「そして、ここでもう一つ重要なのが集団です。」
中野が見る。
Robert Sapolsky:
「一人ならしなかったことを、集団ならする。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「責任の分散ですか?」
Robert Sapolsky:
「それもあります。」
「でも、それだけではない。」
「周囲が同じ感情を持っていると、自分の感情が正しいという確信が強くなる。」
中野が頷く。
中野信子:
「社会的証明に近いですね。」
Robert Sapolsky:
「“自分だけが怒っているわけではない”。」
「“みんなもあいつを許せないと思っている”。」
「それが非常に大きい。」
國分が言う。
國分功一郎:
「『沈黙のパレード』では、そこが怖い。」
全員が國分を見る。
國分功一郎:
「一人の怪物と、一人の被害者という話ではなくなっていく。」
「町の人たちがいる。」
「みんなが佐織を知っている。」
「みんなが悲しんでいる。」
「みんなが蓮沼に怒っている。」
「つまり、復讐が個人の感情ではなく、共同体の感情になっていく。」
中野が言う。
中野信子:
「共同体の中では、“何もしない人”の方が裏切り者みたいに感じることもあります。」
Bossが少し表情を変える。
Pauline Boss:
「それは危険ですね。」
中野信子:
「危険です。」
「最初は“佐織ちゃんがかわいそう”だった。」
「次に“蓮沼を許せない”になる。」
「その次に“何かしなければ”になる。」
「そして最後には、“何もしないのは佐織ちゃんを裏切ることだ”になる可能性がある。」
河合が低い声で言う。
河合隼雄:
「愛が義務になるんですね。」
中野が河合を見る。
河合隼雄:
「佐織を愛しているなら怒れ。」
「佐織を愛しているなら蓮沼を許すな。」
「佐織を愛しているなら何かしろ。」
少し間を置く。
河合隼雄:
「そうなると、誰も自分の気持ちが分からなくなる。」
Bossが頷いた。
Pauline Boss:
「そして悲嘆が集団化すると、一人だけ回復することに罪悪感を持つこともあります。」
國分がBossを見る。
國分功一郎:
「回復することに?」
Pauline Boss:
「はい。」
「自分だけ笑っていいのか。」
「自分だけ事件から離れていいのか。」
「みんなが怒っているのに、自分だけ怒らなくなっていいのか。」
中野が静かに言う。
中野信子:
「なるほど。」
Pauline Boss:
「だから共同体は支えにもなりますが、悲嘆を固定することもある。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「そこに復讐が加わると、さらに危険です。」
「共同体の連帯が、“誰かを一緒に憎むことで成立する連帯”へ変わる可能性がある。」
國分が頷く。
國分功一郎:
「共通の敵ですね。」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
「敵がいる間、私たちは一つになれる。」
「それは非常に強い結びつきです。」
Sapolskyが少し笑う。
Robert Sapolsky:
「人類はそれを何度もやってきました。」
NussbaumがSapolskyを見る。
Robert Sapolsky:
「“私たち”を作る最も簡単な方法の一つは、“彼ら”を作ることです。」
部屋が静かになる。
中野が言った。
中野信子:
「そう考えると、蓮沼って町の人たちにとって、単なる一人の容疑者じゃなくなってるんですね。」
國分功一郎:
「悪そのもののようになっていく。」
河合隼雄:
「そうなると、その人を消せば問題が解決するように感じる。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「そこが幻想です。」
中野がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「一人の人間を悪のすべてにすると、その人を罰することで世界が元に戻るように思える。」
「でも佐織は戻らない。」
「家族の傷も消えない。」
「共同体が経験したことも消えない。」
河合が静かに続ける。
河合隼雄:
「だから復讐が終わったあと、もっと大きな空白が来ることもあるでしょうね。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「それまで人生を支えていた怒りがなくなるからです。」
中野がBossを見る。
中野信子:
「復讐が生きる目的になっていたら?」
Pauline Boss:
「そうです。」
「“あの人を罰するまでは死ねない”。」
「その思いで毎朝起きていた人が、目的を達成する。」
「その翌朝、何のために起きるのでしょう。」
誰も答えなかった。
河合が小さく言う。
河合隼雄:
「そこが一番怖いのかもしれませんね。」
Nussbaumが河合を見る。
河合隼雄:
「復讐することより。」
「復讐したあとに、自分の悲しみと二人きりになること。」
長い沈黙が流れた。
國分がゆっくり口を開く。
國分功一郎:
「でも、ここで困った問題があります。」
中野が見る。
國分功一郎:
「私たちは今、復讐する人間をかなり理解してきた。」
「なぜ怒るのか。」
「なぜ相手を罰したくなるのか。」
「なぜ集団になると一線を越えやすくなるのか。」
Nussbaumが頷く。
國分功一郎:
「理解すればするほど。」
少し間を置く。
國分功一郎:
「責めにくくなりませんか?」
Nussbaumの表情が少し変わった。
Sapolskyが國分を見る。
國分功一郎:
「娘を失った。」
「制度に救われなかった。」
「自分を責めた。」
「周囲も怒っていた。」
「悲しみを怒りに変えなければ耐えられなかった。」
「そこまで分かってしまったら。」
國分は全員を見る。
國分功一郎:
「その人が一線を越えたとき、私たちは本当に“あなたが悪い”と言えるんでしょうか。」
Sapolskyがすぐに答えた。
Robert Sapolsky:
「そこが、私がずっと問題にしてきたところです。」
NussbaumがSapolskyを見る。
Robert Sapolsky:
「人間の行動には、その直前があります。」
「その前の日があります。」
「その前の一年があります。」
「子ども時代があります。」
「脳があります。」
「遺伝があります。」
「社会があります。」
「偶然があります。」
Nussbaumが静かに聞く。
Martha Nussbaum:
「では責任は?」
Sapolskyは少し考えた。
Robert Sapolsky:
「私たちは、責任という考え方そのものをもっと慎重に扱うべきだと思っています。」
中野が聞く。
中野信子:
「もし全部に原因があるなら、“本人が選んだ”って何なんでしょうね。」
國分がすぐに入った。
國分功一郎:
「そこです。」
河合が二人を見る。
國分功一郎:
「人は自由だから責任を負うのか。」
「それとも、完全には自由ではなくても責任を引き受ける必要があるのか。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「私は後者を捨てることはできません。」
Sapolskyを見る。
Martha Nussbaum:
「人間を理解することは必要です。」
「しかし、理解が責任をすべて溶かしてしまえば、被害を受けた人間を再び見失う。」
Sapolskyは反論しようとした。
その前に河合が静かに言った。
河合隼雄:
「もしかすると。」
全員が河合を見る。
河合隼雄:
「“理解する”ことと、“許す”ことを、私たちは一緒にしすぎているのかもしれませんね。」
Nussbaumの目が動いた。
河合隼雄:
「どうしてその人がそこまで行ったのか。」
「それはできるだけ深く理解する。」
「でも、だからその行為がなくなるわけではない。」
「傷ついた人がいなくなるわけでもない。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「悲嘆でも同じです。」
「理解できたから、痛くなくなるわけではありません。」
河合は少し笑った。
河合隼雄:
「人間には、そういうものが多いんですよ。」
「分かっても、消えない。」
部屋が静かになった。
その言葉のあと、中野が小さく呟いた。
中野信子:
「悲しみも?」
河合隼雄:
「ええ。」
中野は少し考えた。
中野信子:
「怒りも?」
河合隼雄:
「そうでしょうね。」
Bossが静かに続けた。
Pauline Boss:
「そして、ときには怒りを消そうとするより、その下にある悲しみを見る方が先なのかもしれません。」
誰も返さなかった。
祐太郎のような父親が、毎朝目を覚ます。
娘はいない。
犯人だと信じる男は生きている。
昨日と何も変わっていない。
怒る。
また怒る。
その怒りが一日を支える。
そして、その怒りを手放した瞬間に待っているものが、
ただ娘のいない世界だったとしたら。
「復讐するな。」
その一言だけで、本当に彼を止められるのだろうか。
河合が最後に、ぽつりと言った。
河合隼雄:
「復讐したい人に、“憎むな”と言う前に。」
少し間を置いた。
河合隼雄:
「その人が、何を失って泣いているのかを見た方がいいのかもしれません。」
Bossは静かに頷いた。
そしてNussbaumが、その先にある問いを口にした。
Martha Nussbaum:
「では、その悲しみが何年経っても終わらなかったら?」
誰もすぐには答えなかった。
Martha Nussbaum:
「悲しみは、いつ怒りになるのでしょう。」
今度はBossが顔を上げた。
Topic 3 — 悲しみは、いつ怒りへ変わるのか

Nussbaumの問いが、静かに部屋へ落ちた。
「悲しみは、いつ怒りになるのでしょう。」
Pauline Bossはすぐには答えなかった。
テーブルの上に置かれた手を見つめ、それからゆっくり顔を上げた。
Pauline Boss:
「悲しみが怒りに“変わる”というより、最初から両方が一緒にあることも多いと思います。」
中野信子が少し頷く。
中野信子:
「悲しいから怒る?」
Pauline Boss:
「ええ。」
「大切な人を失った。」
「なぜ?」
「どうして私たちだったの?」
「誰がこんなことをしたの?」
「どうして止められなかったの?」
Bossは一度言葉を切った。
Pauline Boss:
「悲嘆の中には、最初から問いがあります。」
「そして、その問いに答えがない状態が続くと、怒りは行き場を探し始めます。」
河合隼雄が静かに言った。
河合隼雄:
「人間は、意味のない苦しみに耐えるのが難しいですからね。」
Nussbaumが河合を見る。
河合隼雄:
「誰かが亡くなった。」
「それだけでもつらい。」
「しかし、“なぜ亡くなったのか”が分からない。」
「“誰が責任を取るのか”も分からない。」
「その状態が続くと、心の中でずっと話が終わらない。」
國分功一郎が入る。
國分功一郎:
「終わらない、というのは大事ですね。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「私はそこをとても重要だと思っています。」
「人はよく“区切りをつける”という言葉を使います。」
「真実が分かった。」
「裁判が終わった。」
「犯人が罰せられた。」
「だから遺族も前へ進めるだろう、と。」
中野が少し眉を寄せる。
中野信子:
「でも、そんなに簡単じゃない。」
Pauline Boss:
「そうです。」
「区切りが来ない場合もある。」
「そして区切りが来ても、悲しみが終わるとは限らない。」
Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「人間の脳は、未解決の問題を何度も反芻します。」
「特に強い感情を伴う出来事は。」
「何が起きた?」
「なぜ?」
「自分に何ができた?」
「違う選択をしていれば?」
「同じ場面を何度も再生する。」
中野が頷く。
中野信子:
「そして再生するたびに感情も強化されることがある。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「記憶は固定された映像ではありません。」
「思い出すたびに、その時の感情や現在の状況の影響を受ける。」
國分が少し考える。
國分功一郎:
「ということは、何年も“なぜ裁かれない”と考え続ければ、喪失そのものと司法への怒りが、だんだん一つになっていく可能性がある。」
Robert Sapolsky:
「十分あり得ます。」
Nussbaumが聞く。
Martha Nussbaum:
「では怒りは、悲しみを守っているのでしょうか。」
河合が少し笑った。
河合隼雄:
「守っていることもあるでしょうね。」
中野が河合を見る。
中野信子:
「どういうふうに?」
河合は少し考えた。
河合隼雄:
「悲しむということは、ある意味で負けることでもあるんです。」
中野が驚いたように見る。
中野信子:
「負ける?」
河合隼雄:
「もう戻らないという事実に。」
部屋が静かになる。
河合隼雄:
「“私は何もできません”と認める。」
「“この人は帰ってきません”と認める。」
「それは非常につらい。」
「怒っている間は、まだ戦える。」
「何かを変えられる気がする。」
Bossが深く頷いた。
Pauline Boss:
「そこは本当にそうだと思います。」
河合隼雄:
「怒りは、人を立たせるんですよ。」
「悲しみだけなら座り込んでしまうところを。」
中野が小さく言う。
中野信子:
「だから復讐心が生きる支えになることもある。」
河合隼雄:
「あるでしょうね。」
Nussbaumが口を開く。
Martha Nussbaum:
「でも、その支えが長く続くと?」
Bossが答える。
Pauline Boss:
「今度は、その怒りを失うこと自体が怖くなります。」
國分が見る。
Pauline Boss:
「怒りを手放したら、亡くなった人まで手放すように感じる。」
「憎しみをやめたら、その人への愛まで薄くなるように感じる。」
中野が静かに言った。
中野信子:
「“忘れたくないから怒り続ける”ということですね。」
Pauline Boss:
「そうです。」
河合が続けた。
河合隼雄:
「これは日本人にも分かりやすい感覚ではないでしょうか。」
國分が河合を見る。
河合隼雄:
「亡くなった人を忘れない。」
「命日を覚えている。」
「写真を置く。」
「話しかける。」
「今も家族の一員として心の中にいる。」
「それ自体は、とても自然なことです。」
少し間を置く。
河合隼雄:
「でも、“忘れない”と“その日のまま止まる”は違う。」
Bossが微笑む。
Pauline Boss:
「私はそこに強く同意します。」
「亡くなった人との関係は、終わらなくていい。」
「形が変わればいい。」
中野が聞く。
中野信子:
「形が変わる?」
Pauline Boss:
「生きているときの関係から、記憶の中の関係へ。」
「毎日会える人から、心の中で会う人へ。」
「話を聞いてもらう人から、“あの人なら何と言うだろう”と考える存在へ。」
國分が頷く。
國分功一郎:
「関係を切るのではなく、関係のあり方を変える。」
Pauline Boss:
「そうです。」
中野が少し考える。
中野信子:
「でも、祐太郎みたいな父親には、それが難しい。」
Pauline Boss:
「とても難しいと思います。」
中野信子:
「佐織を忘れないために、蓮沼を憎み続けているとしたら。」
Bossは黙って頷く。
中野は続ける。
中野信子:
「皮肉ですよね。」
「最初は佐織のためだった。」
「でも毎日考えているのは、だんだん佐織より蓮沼になっていく。」
部屋の空気が変わった。
國分がゆっくり言う。
國分功一郎:
「それはかなり残酷ですね。」
中野信子:
「そうなんです。」
「娘を忘れたくない。」
「だから犯人を忘れない。」
「でもその結果、犯人が娘より大きな存在になってしまう。」
Nussbaumが静かに言った。
Martha Nussbaum:
「そこに、復讐的怒りの一番大きな罠の一つがあります。」
河合がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「相手を憎むことで、その相手を自分の人生の中心に置いてしまう。」
「朝、目を覚まして相手を考える。」
「夜、眠る前にも相手を考える。」
「自分が何をするかまで、その人によって決まる。」
少し間を置く。
Martha Nussbaum:
「それは、ある意味で相手に自分の人生を渡してしまうことです。」
中野が頷く。
中野信子:
「しかも本人は、“自分は戦っている”と思っている。」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
Sapolskyが口を開く。
Robert Sapolsky:
「脳の観点でも、繰り返し注意を向ける対象は非常に大きくなります。」
「何度も考える。」
「何度も怒る。」
「何度も同じ人物を脅威として思い出す。」
「そうすると、その人物を中心にした反応が強化されていく。」
河合がSapolskyを見る。
河合隼雄:
「心の中に、その人の部屋を作ってしまうようなものですね。」
Sapolskyが少し笑う。
Robert Sapolsky:
「いい表現ですね。」
中野が続ける。
中野信子:
「しかも家賃を取れない。」
少しだけ笑いが起きた。
河合も笑った。
だがBossは、その笑いが消えるのを待ってから言った。
Pauline Boss:
「私は、そこですぐ“追い出しましょう”とは言いたくないんです。」
NussbaumがBossを見る。
Pauline Boss:
「憎しみを手放す準備ができていない人に、“もう前を向きなさい”と言うと。」
「その人は二重に苦しみます。」
中野が頷く。
Pauline Boss:
「一つは喪失。」
「もう一つは、“まだ立ち直れない自分は間違っている”という苦しみ。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「人間には、その人の時間がありますからね。」
Pauline Boss:
「そうです。」
「悲嘆に正しい期限はありません。」
「一年経ったから。」
「裁判が終わったから。」
「犯人が捕まったから。」
「それで心も同じ日に終わるわけではない。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「では、“前へ進む”という言葉自体が少し問題なのでは?」
Bossが國分を見る。
國分功一郎:
「前へ進むと言うと、過去を後ろに置く感じがあります。」
「でも実際には、佐織を置いていく必要はない。」
Bossの表情が明るくなる。
Pauline Boss:
「そうです。」
國分功一郎:
「なら、“一緒に生き方を変える”に近いのかもしれない。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「日本語なら、“抱えて生きる”という言い方もありますね。」
中野が河合を見る。
河合隼雄:
「悲しみを消す。」
「乗り越える。」
「克服する。」
「そういう言葉は強すぎる場合があります。」
「消えないものもある。」
「でも、抱え方は変わる。」
Bossが小さく言った。
Pauline Boss:
「Exactly。」
それから日本語で続ける。
Pauline Boss:
「悲しみが小さくなるというより、自分の人生の方が大きくなっていく。」
全員がBossを見る。
Pauline Boss:
「最初は悲しみが人生のほとんどを占める。」
「何を見ても、その人を思い出す。」
「何をしても苦しい。」
「でも少しずつ、新しい出来事が増える。」
「人と話す。」
「笑う。」
「旅行する。」
「仕事をする。」
「誰かをまた好きになる。」
「悲しみは残っている。」
「でも人生全体の中で、その悲しみが占める場所が変わっていく。」
河合が静かに笑った。
河合隼雄:
「それは、とてもいいですね。」
NussbaumがBossを見る。
Martha Nussbaum:
「では、怒りも同じでしょうか。」
Bossは少し考えた。
Pauline Boss:
「ある程度は。」
「怒りを完全に消さなくてもいい。」
「ただ、怒りだけが人生を占めている状態から、別の感情も一緒に存在できる状態へ移る。」
中野が言う。
中野信子:
「“許した”わけじゃない。」
Pauline Boss:
「そうです。」
「許さなくていい場合もあります。」
Nussbaumが少し身を乗り出す。
Martha Nussbaum:
「そこは大切ですね。」
「復讐を手放すことと、加害者を許すことは同じではない。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「許さないまま自由になることはできますか。」
Nussbaumは少し考えた。
Martha Nussbaum:
「できると思います。」
「“あなたのしたことを私は間違っていると思う。”」
「“私はあなたを許していない。”」
「それでも。」
Nussbaumは言葉を選んだ。
Martha Nussbaum:
「“私はもう、あなたの苦痛を自分の人生の目的にはしない。”」
部屋が静かになった。
中野がぽつりと言う。
中野信子:
「それはかなり違いますね。」
Martha Nussbaum:
「ええ。」
中野信子:
「“許す”だと、相手に何かを与える感じがする。」
「でも、“もうあなたに時間を渡さない”なら、自分のためにできる。」
河合が頷いた。
河合隼雄:
「その方が、日本人にも受け入れやすいかもしれません。」
國分が河合を見る。
河合隼雄:
「許しというのは、大きな言葉です。」
「そんなに簡単にできない。」
「無理にやる必要もない。」
「でも、自分の人生を少しずつ相手から取り戻すことなら。」
少し間を置く。
河合隼雄:
「できる日が来るかもしれない。」
Sapolskyが腕を組みながら言う。
Robert Sapolsky:
「ただ、そのためには環境も必要です。」
Bossが見る。
Robert Sapolsky:
「本人の意志だけに任せるべきではない。」
「毎日事件のことを思い出させる環境。」
「周囲がずっと怒っている環境。」
「“忘れるな”という圧力。」
「そういうものがあれば、脳は同じ反応を続けやすい。」
中野が頷く。
中野信子:
「共同体が悲しみを支える場合もあれば、固定する場合もある。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「では、共同体は何をすべきなんでしょう。」
Bossが答える。
Pauline Boss:
「悲しみを共有する。」
「でも、悲しみ方まで統一しない。」
河合が小さく頷いた。
Pauline Boss:
「怒りたい人は怒る。」
「少し笑える人は笑う。」
「事件について話したい人は話す。」
「今日は話したくない人は話さない。」
「回復の速度を合わせない。」
中野が言う。
中野信子:
「“みんな同じように悲しむべき”にしない。」
Pauline Boss:
「そうです。」
河合隼雄:
「家族でも、悲しみ方は違いますからね。」
中野が河合を見る。
河合隼雄:
「父親は怒る。」
「母親は黙る。」
「兄弟は家を離れる。」
「誰かは仕事に没頭する。」
「誰かは何もできない。」
「その違いを、“愛が足りない”と解釈すると、家族の中でまた傷つけ合ってしまう。」
Bossが深く頷く。
Pauline Boss:
「とても大切な点です。」
「悲嘆は同じ家族の中でも同じ形にはなりません。」
國分が静かに言う。
國分功一郎:
「そうすると、『沈黙のパレード』の“沈黙”にも少し近づいてきますね。」
中野が國分を見る。
國分功一郎:
「悲しみ方が違う。」
「言いたいことも違う。」
「でも家族だから。」
「町だから。」
「佐織を大切にしていた仲間だから。」
「互いを守ろうとして、言わなくなる。」
Nussbaumの目が動く。
國分功一郎:
「その沈黙は、愛かもしれない。」
「怖さかもしれない。」
「罪悪感かもしれない。」
「共同体への忠誠かもしれない。」
河合が言う。
河合隼雄:
「一つの沈黙の中に、いろいろ入っているでしょうね。」
中野が少し考える。
中野信子:
「でも、それって危険でもありますよね。」
國分功一郎:
「ええ。」
中野信子:
「みんなが黙ることで、誰も本当の気持ちを言えなくなる。」
Bossが言う。
Pauline Boss:
「そして、一人ずつ孤独になる。」
河合は長く黙った。
やがて静かに口を開いた。
河合隼雄:
「悲しみというのは、一緒にいる人がいても、一人なんですよ。」
誰も動かなかった。
河合隼雄:
「同じ人を失っても。」
「父親の悲しみと母親の悲しみは違う。」
「友人の悲しみとも違う。」
「それを完全に分かり合うことはできない。」
少し間を置く。
河合隼雄:
「でも、分かり合えないから黙るしかない、ということでもない。」
Bossが河合を見る。
河合隼雄:
「“私には全部は分からないけど、ここにいます”と言うことはできる。」
Nussbaumが小さく頷いた。
中野はしばらく黙っていた。
それから言った。
中野信子:
「今まで私は、怒りがどう生まれるかを考えてたんですけど。」
全員が中野を見る。
中野信子:
「怒りを止める方法より、怒っている人を一人にしない方が先なのかもしれないですね。」
Bossが微笑む。
Pauline Boss:
「私はそう思います。」
中野が続ける。
中野信子:
「“そんなに怒らなくていい”じゃなくて。」
「“そこまで怒るくらい、つらいんだね”って。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「そうですね。」
中野は少し息を吐いた。
中野信子:
「そのあとで初めて、“じゃあ、この怒りをどうする?”になる。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「感情を認めることと、感情に命令されることは違います。」
國分が見る。
Martha Nussbaum:
「“私は怒っている”と言えること。」
「そして、“だから私は何をするのか”を別に考えること。」
「そこにわずかな距離が生まれます。」
Sapolskyが少し笑う。
Robert Sapolsky:
「そのわずかな距離を作るには、本人一人の脳だけでは難しい場合がある。」
Martha Nussbaum:
「だから人が必要?」
Robert Sapolsky:
「人も。時間も。環境も。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「そして、答えの出ないままでも生きていいという許可。」
國分が静かに聞く。
國分功一郎:
「答えが出ないまま?」
Pauline Boss:
「はい。」
「誰が悪かったのか。」
「なぜ起きたのか。」
「自分に何ができたのか。」
「完全な答えが出ないことはあります。」
「それでも朝は来る。」
「食事をする。」
「仕事へ行く。」
「誰かと話す。」
「少し笑う。」
Bossは少し間を置いた。
Pauline Boss:
「その生活が、答えの代わりになる日もあります。」
河合がゆっくり頷いた。
河合隼雄:
「人間は、答えが出てから生きるわけではないですからね。」
部屋に長い沈黙が流れた。
その沈黙は、誰かが言葉を失ったからではなかった。
むしろ、全員が同じことを別々に考えているようだった。
愛する人を失う。
理由を探す。
答えが見つからない。
怒る。
誰かを責める。
その怒りで何年も生きる。
やがて、その怒りを手放すことが、亡くなった人を裏切るように感じ始める。
そしていつの間にか、
亡くなった人を愛しているから生きているのか。
亡くなった人を失った日に留まり続けるために生きているのか。
その境界が分からなくなる。
河合が最後に口を開いた。
河合隼雄:
「亡くなった人を忘れないことと、亡くなった日に住み続けることは、違うんでしょうね。」
Bossが静かに頷いた。
Pauline Boss:
「ええ。」
河合隼雄:
「いつか、その人を連れて別の日へ行けるようになる。」
中野が河合を見る。
中野信子:
「連れていく?」
河合は少し笑った。
河合隼雄:
「心の中でね。」
誰もすぐには話さなかった。
そして國分が、次の問題へ視線を向けた。
國分功一郎:
「でも、そのために本当のことを話せない場合もありますよね。」
Bossが國分を見る。
國分功一郎:
「家族を守るため。」
「町を守るため。」
「誰かを傷つけないため。」
「そして日本では、“言わないこと”自体が一つの関係の作り方になることもある。」
河合の表情が少し変わった。
中野が言った。
中野信子:
「いよいよ“沈黙”ですね。」
國分が頷く。
誰かを守るために黙る。
自分を守るために黙る。
罪を隠すために黙る。
関係を壊さないために黙る。
その違いは、本当に見分けられるのか。
Topic 4 — 日本の「沈黙」は、何を守っているのか

中野信子が、少し身を乗り出した。
中野信子:
「日本って、言わないことに意味がある場面が多いですよね。」
國分功一郎が頷く。
國分功一郎:
「ありますね。」
中野信子:
「全部言わない。」
「察する。」
「場を壊さない。」
「相手に恥をかかせない。」
「家族のことを外で話さない。」
河合隼雄が静かに言った。
河合隼雄:
「沈黙そのものが、関係を維持する方法になることがありますね。」
Pauline Bossが河合を見る。
Pauline Boss:
「それは日本に限らないでしょうが、日本ではかなり細やかに使われている?」
河合隼雄:
「そう思います。」
「言葉にすると壊れるものがある。」
「言葉にしないことで、なんとか一緒にいられる。」
「そういう場面は確かにあります。」
Nussbaumが少し考える。
Martha Nussbaum:
「でも、それは道徳的に危険でもありますね。」
國分がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「関係を守るために真実を言わない。」
「その沈黙が誰かを守っているなら、理解できます。」
「しかし、その結果として別の人が傷つき続けるなら?」
中野がすぐに返す。
中野信子:
「そこが『沈黙のパレード』ですよね。」
「黙る理由が一つじゃない。」
「自分を守るため。」
「家族を守るため。」
「町を守るため。」
「誰かをかばうため。」
「怖いから。」
「罪悪感があるから。」
Sapolskyが口を開く。
Robert Sapolsky:
「人間は、自分の沈黙をかなりうまく正当化できます。」
中野が見る。
Robert Sapolsky:
「“今は言わない方がいい。”」
「“言えばもっと傷つく。”」
「“家族のためだ。”」
「そう考えることで、自分自身の恐怖を見ないこともできる。」
河合がゆっくり頷いた。
河合隼雄:
「そうですね。」
「愛情と恐怖が一緒にあることもありますから。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「では、誰かを守る沈黙と、自分を守る沈黙をどう区別すればいいんでしょう。」
河合は少し笑った。
河合隼雄:
「そんなにきれいには分けられないと思いますよ。」
國分も笑う。
國分功一郎:
「やっぱりそうですか。」
河合隼雄:
「誰かを守りたい。」
「でも自分も傷つきたくない。」
「両方ある。」
「人間はそういうものです。」
Nussbaumが入る。
Martha Nussbaum:
「そこは私も認めます。」
「ただ、動機が混ざっているとしても、行為の責任は残ります。」
中野がNussbaumを見る。
中野信子:
「つまり、“愛だったから仕方ない”では終われない。」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
「愛は説明になります。」
「免罪符ではありません。」
國分が小さく頷く。
國分功一郎:
「これはかなり大事ですね。」
「理由が分かることと、責任が消えることは違う。」
Bossが静かに言う。
Pauline Boss:
「しかも、沈黙で守られていると思った人が、実際には孤立することがあります。」
河合がBossを見る。
Pauline Boss:
「家族が“あの人を傷つけないために黙ろう”とする。」
「でも、その人は何かがおかしいと感じている。」
「誰も話してくれない。」
「すると、自分だけ現実から外されているように感じる。」
中野が言う。
中野信子:
「守ってるつもりが、かえって一人にする。」
Pauline Boss:
「そうです。」
河合が静かに続ける。
河合隼雄:
「沈黙は、優しいこともあるんです。」
「何も聞かずにそばにいる。」
「無理に話させない。」
「そういう沈黙は人を支えます。」
少し間を置く。
河合隼雄:
「でも、“あなたには言わない”という沈黙は、人を外へ出すこともある。」
國分が言う。
國分功一郎:
「同じ沈黙でも、関係の方向が違う。」
河合隼雄:
「そうですね。」
Nussbaumが聞く。
Martha Nussbaum:
「では、沈黙が道徳的に許されるかどうかを見るとき、何を考えるべきでしょう。」
國分が少し考えた。
國分功一郎:
「私は、“誰のための沈黙か”だけでは足りないと思います。」
中野が見る。
國分功一郎:
「“誰が、その沈黙の代償を払っているのか”も見なければならない。」
部屋が静かになった。
Bossが深く頷く。
Pauline Boss:
「それはとても大切です。」
國分は続ける。
國分功一郎:
「家族を守るために黙る。」
「では、その秘密を一人で抱える人はどうなるのか。」
「町を守るために黙る。」
「では、真実を知らされない人はどうなるのか。」
「愛する人を守るために黙る。」
「では、別の誰かが疑われたらどうなるのか。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「そこに正義の問題が入ってきます。」
中野が少し息を吐いた。
中野信子:
「日本って、“迷惑をかけない”がすごく強いでしょう。」
河合が頷く。
中野信子:
「だから、“本当のことを言ったらみんなに迷惑がかかる”と思うと、黙る方向に動きやすい。」
國分功一郎:
「“世間”も大きいですね。」
Bossが聞く。
Pauline Boss:
「世間?」
國分が説明する。
國分功一郎:
「法律や明文化されたルールとは別に、“周囲がどう見るか”という感覚です。」
「家族。」
「近所。」
「職場。」
「地域。」
「誰かの行動が、その人一人だけの問題ではなく、周囲の関係全体に影響する。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「すると、真実を語ることが“正しい行為”であると同時に、“関係を壊す行為”にもなる。」
國分功一郎:
「そうです。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「日本人は、正しさより関係を選ぶことがあります。」
Nussbaumが河合を見る。
河合隼雄:
「ただ、それをすぐ悪いと決めるのも違うんです。」
「関係の中で生きるということには、それなりの知恵がありますから。」
Martha Nussbaum:
「でも、その知恵が不正を維持する場合もある。」
河合は頷く。
河合隼雄:
「あります。」
「だから難しいんです。」
中野が言う。
中野信子:
「たとえば家族の中で誰かが何か悪いことをした。」
「外に言えば家族全体が壊れる。」
「だから黙る。」
「本人は“家族を守ってる”と思ってる。」
「でもその結果、被害を受けた人がずっと黙らされることもある。」
Nussbaumが強く頷いた。
Martha Nussbaum:
「まさにそこです。」
「沈黙には権力があります。」
全員がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「誰が黙るかだけではありません。」
「誰に黙ることを求めるか。」
「誰の声が聞かれないか。」
「そこを見なければならない。」
Bossが静かに続ける。
Pauline Boss:
「沈黙を共有している共同体は、外から見ると一つに見えるかもしれません。」
「でも内部では、全員が同じ気持ちとは限らない。」
中野が頷く。
Pauline Boss:
「一人は罪悪感を持っている。」
「一人は怖い。」
「一人は本当は話したい。」
「一人は怒っている。」
「一人は何も知らない。」
「でも“みんなで黙る”という形になると、それぞれの違いが見えなくなる。」
河合が小さく言う。
河合隼雄:
「集団の沈黙ですね。」
Sapolskyが入る。
Robert Sapolsky:
「そして集団の沈黙には、自己強化があります。」
國分が見る。
Robert Sapolsky:
「みんなが黙っている。」
「だから自分も黙る。」
「自分が黙るから、他の人も“これは話してはいけないことなんだ”と感じる。」
中野が言う。
中野信子:
「最初に誰も命令してなくても、規範になる。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「一度できた規範は、かなり強い。」
國分が少し考えた。
國分功一郎:
「『沈黙のパレード』というタイトルが、急に社会的に見えてきますね。」
河合が國分を見る。
國分功一郎:
「一人の沈黙じゃない。」
「町全体が、それぞれ違う理由で黙っている。」
中野が続ける。
中野信子:
「しかも、みんな同じものを守ってるわけじゃない。」
「自分を守る人もいる。」
「家族を守る人もいる。」
「秘密を守る人もいる。」
「誰かを守る人もいる。」
「自分の正義を守る人もいる。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「だから私は、“愛の沈黙”という美しい表現だけで終わりたくありません。」
河合がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「誰かを愛している。」
「それは本当。」
「でも、その愛ゆえの沈黙が、他者への不正義になることもある。」
河合は静かに頷いた。
河合隼雄:
「その通りだと思います。」
少し間を置いて続ける。
河合隼雄:
「ただ、人間の心は、“愛か罪か”ときれいに分けられない。」
「愛しながら間違う。」
「守ろうとして傷つける。」
「黙ることで助ける。」
「黙ることで苦しませる。」
「全部あります。」
Bossが微笑む。
Pauline Boss:
「その曖昧さを認めることが必要なのかもしれません。」
中野がBossを見る。
中野信子:
「でも、曖昧さを認めるって、“何でもあり”になりません?」
Bossは首を振る。
Pauline Boss:
「いいえ。」
「曖昧さを認めることは、判断を放棄することではありません。」
「まず、“人間は矛盾している”と認める。」
「そのうえで、誰が傷ついているかを見る。」
國分が頷く。
國分功一郎:
「そこは責任につながりますね。」
Pauline Boss:
「そう思います。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「では、こう言えるかもしれません。」
「良い意図は大切です。」
「しかし、良い意図だけで行動は正当化できない。」
「結果だけで判断するのも足りない。」
「その両方を見る。」
Sapolskyが少し笑う。
Robert Sapolsky:
「人間が好きな簡単な答えから、どんどん遠ざかっていますね。」
中野が笑う。
中野信子:
「東野圭吾の話に合ってますね。」
河合も少し笑った。
しかし國分は、すぐに真顔に戻った。
國分功一郎:
「私はもう一つ、“本当のことを言うのが常に正しいのか”も気になります。」
Nussbaumが國分を見る。
Martha Nussbaum:
「それは難しいですね。」
國分功一郎:
「真実を言えば、誰かが壊れる。」
「言わなければ、別の誰かが傷つく。」
「どちらもある。」
河合が言う。
河合隼雄:
「臨床でも、全部を一度に言えばいいというものではありませんからね。」
中野が聞く。
中野信子:
「タイミング?」
河合隼雄:
「タイミングもあります。」
「相手が今それを受け止められるか。」
「誰が言うのか。」
「どう言うのか。」
「真実というのは、内容だけではなく、関係の中で届きます。」
Nussbaumが少し考える。
Martha Nussbaum:
「それは“真実を隠してよい”という意味ではない?」
河合隼雄:
「違います。」
「真実を言うことと、真実をぶつけることは違うということです。」
Bossが深く頷いた。
Pauline Boss:
「悲嘆している人には特にそうです。」
「事実が必要なこともある。」
「でも、“はい、これが真実です。受け入れてください”では、人はついていけない。」
國分が言う。
國分功一郎:
「つまり、真実にも倫理がある。」
河合が少し笑う。
河合隼雄:
「そう言ってもいいかもしれませんね。」
Sapolskyが口を開く。
Robert Sapolsky:
「ただし、ここでも本人が“今は言わない方がいい”と判断している理由を、自分で完全に把握しているとは限らない。」
中野が笑う。
中野信子:
「またそこに戻る。」
Robert Sapolsky:
「戻ります。」
「人は、自分の恐怖を“相手のため”と説明することがあります。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「だから自分の心を見る必要がある。」
國分功一郎:
「“私は誰を守ろうとしているのか。”」
Pauline Boss:
「“誰がこの沈黙で孤独になるのか。”」
Martha Nussbaum:
「“誰が代償を払っているのか。”」
中野信子:
「“もしみんなが黙っていなかったら、自分は本当は何を言いたいのか。”」
Sapolskyが続ける。
Robert Sapolsky:
「“この沈黙は、自分で選んだものなのか。それとも環境に選ばされているのか。”」
河合が全員を見て、ゆっくり言った。
河合隼雄:
「それでも、最後まで言えないことはあるでしょうね。」
Nussbaumが見る。
河合隼雄:
「人間は、全部を言葉にできるわけではありません。」
「悲しみも。」
「罪悪感も。」
「愛情も。」
「本当に深いところは、沈黙として残ることがある。」
Bossが静かに微笑んだ。
Pauline Boss:
「では、その沈黙は悪くない?」
河合も少し笑う。
河合隼雄:
「悪くないですよ。」
「問題は、沈黙で相手を閉じ込めることです。」
部屋が静かになった。
中野がゆっくり繰り返した。
中野信子:
「沈黙で相手を閉じ込める。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「自分が黙ることと、相手にも黙らせることは違いますからね。」
Nussbaumの表情が少し変わった。
Martha Nussbaum:
「それは非常に重要な区別です。」
國分が言う。
國分功一郎:
「つまり、沈黙にも自由が必要なんですね。」
河合が國分を見る。
國分功一郎:
「話さない自由。」
「話す自由。」
「どちらもある。」
Bossが頷く。
Pauline Boss:
「その人が話したいときに話せる場所があること。」
「そして話したくないときに、無理に話さなくていいこと。」
中野が言った。
中野信子:
「そう考えると、“みんなで黙る”って、やっぱりかなり危ういですね。」
國分が頷く。
國分功一郎:
「個人の沈黙が、共同体の命令に変わる瞬間がありますから。」
Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「その瞬間、沈黙は行動になります。」
全員がSapolskyを見る。
Robert Sapolsky:
「何もしていないように見えて、実際には情報を止める。」
「他者の行動を制限する。」
「責任の所在を曖昧にする。」
「沈黙にも結果があります。」
Nussbaumが頷いた。
Martha Nussbaum:
「だから、“何も言わなかっただけ”では済まないことがある。」
河合が少し目を伏せた。
河合隼雄:
「でもね。」
全員が河合を見る。
河合隼雄:
「全部話したあとでも、人は救われないことがあります。」
長い沈黙が来た。
Bossがゆっくり口を開く。
Pauline Boss:
「そうですね。」
河合は続ける。
河合隼雄:
「秘密を明かした。」
「真実を言った。」
「責任も明らかになった。」
「それでも亡くなった人は戻らない。」
「家族の時間も戻らない。」
「だから、真実を言うか黙るかだけで人間の問題は終わらないんです。」
國分が静かに言う。
國分功一郎:
「最後は、真実を知ったあとにどう生きるかになる。」
Nussbaumが頷く。
Martha Nussbaum:
「そして、許すのか。」
中野がすぐに首を振った。
中野信子:
「私はそこ、ちょっと待ちたいです。」
Nussbaumが中野を見る。
中野信子:
「なんで被害者が最後に“許す”ところまで要求されるんですか。」
Bossが中野を見る。
中野は続ける。
中野信子:
「傷つけられた。」
「娘を失った。」
「司法にも救われなかった。」
「それで最後は“許せばあなたも自由になれます”って。」
「それ、また被害者に仕事をさせてません?」
Nussbaumの表情が変わった。
國分も黙った。
河合が小さく頷く。
河合隼雄:
「非常にいい問いですね。」
Bossが静かに言った。
Pauline Boss:
「私も、許しを回復の条件にはしたくありません。」
中野がBossを見る。
Pauline Boss:
「許せなくても、生きることはできる。」
Nussbaumがゆっくり頷いた。
Martha Nussbaum:
「私も、その区別は必要だと思います。」
中野が聞く。
中野信子:
「じゃあ、次はそこですね。」
國分が静かに言った。
國分功一郎:
「許さなくても、人は自由になれるのか。」
誰もすぐには答えなかった。
『沈黙のパレード』の問いは、そこでまた少し形を変えた。
沈黙を破れば救われるのか。
真実を知れば救われるのか。
そして最後に、
許さなければ、人は前へ進めないのか。
最後の議論は、その一点へ向かっていた。
Topic 5 — 許さなくても、人は自由になれるのか

「許さなくても、人は自由になれるのか。」
國分功一郎の言葉が残った。
中野信子はすぐに口を開かなかった。
Nussbaumも黙っていた。
最初に話したのはPauline Bossだった。
Pauline Boss:
「私は、許しを回復の条件にはしたくありません。」
中野がBossを見る。
Pauline Boss:
「愛する人を失った。」
「加害者は謝らない。」
「責任も十分に取らない。」
「それなのに遺族へ、“許さなければ前へ進めません”と言う。」
Bossは首を振った。
Pauline Boss:
「それはとても重い要求です。」
中野が頷く。
中野信子:
「そうなんです。」
「被害者なのに、最後は許す責任まで背負わされる。」
Nussbaumが静かに言う。
Martha Nussbaum:
「私も、道徳的な赦しと、復讐から離れることは分けるべきだと思います。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「どう違いますか。」
Martha Nussbaum:
「たとえば、こう言うことはできます。」
「“あなたがしたことは間違っていた。”」
「“私はそれを忘れない。”」
「“私はあなたを許していない。”」
少し間を置く。
Martha Nussbaum:
「それでも。」
「“私はもう、あなたが苦しむことを自分の人生の目的にはしない。”」
中野が少し身を乗り出した。
中野信子:
「そこですね。」
Martha Nussbaum:
「ええ。」
中野信子:
「許すんじゃない。」
「でも、その人のために毎日を使うのをやめる。」
Martha Nussbaum:
「そうです。」
河合隼雄が静かに笑った。
河合隼雄:
「その方が、人間には現実的かもしれませんね。」
Bossが河合を見る。
河合隼雄:
「“完全に許しました”なんて、なかなか言えないでしょう。」
「言えたとしても、本当に心の奥までそうなっているとは限らない。」
中野が笑う。
中野信子:
「人間、そんなにきれいじゃないですからね。」
河合隼雄:
「そうですね。」
「でも、きれいじゃなくても生きられるんです。」
部屋が少し静かになった。
河合隼雄:
「憎しみが残っていてもいい。」
「悲しみが残っていてもいい。」
「ときどき思い出して腹が立ってもいい。」
「ただ、それだけで一日が終わらなくなる。」
Bossが深く頷いた。
Pauline Boss:
「私はそれを、喪失との関係が変わることとして考えます。」
國分が見る。
Pauline Boss:
「悲しみが消えるのではありません。」
「亡くなった人を忘れるわけでもない。」
「ただ、人生の中でその悲しみが占める位置が変わる。」
中野信子:
「悲しみが小さくなるというより?」
Pauline Boss:
「人生の方が大きくなる。」
中野がゆっくり頷いた。
Pauline Boss:
「最初は、一日全部が喪失です。」
「何を食べても思い出す。」
「何を見ても思い出す。」
「寝ても起きても、その人がいない。」
「でも時間が経つと、別のものが入ってくる。」
「仕事。」
「人との会話。」
「新しい場所。」
「笑い。」
「疲れ。」
「季節。」
「小さな楽しみ。」
Bossは少し微笑んだ。
Pauline Boss:
「悲しみは残る。」
「でも、その周りに人生が増えていく。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「日本語なら、“抱えたまま生きる”という感じでしょうか。」
Pauline Boss:
「とても近いです。」
中野が少し考える。
中野信子:
「じゃあ怒りも、消さなくていい?」
Pauline Boss:
「消えないこともあります。」
中野信子:
「でも、それを毎日育てなくてもいい。」
Pauline Boss:
「そうです。」
Sapolskyが口を開く。
Robert Sapolsky:
「ここで一つ、かなり実際的なことがあります。」
全員が見る。
Robert Sapolsky:
「人は、“もう考えないようにしよう”と決めただけでは、考えなくなりません。」
中野が笑う。
中野信子:
「むしろ考えますね。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「だから環境を変える必要があることもある。」
「毎日同じ場所で同じことを話す。」
「同じ人たちが集まって、同じ怒りを確認する。」
「同じニュースや記録を何度も見る。」
「そうすると反応が強化されやすい。」
國分が聞く。
國分功一郎:
「つまり、“前へ進む”ことを本人の意志だけにしない。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
「環境。」
「習慣。」
「人間関係。」
「体調。」
「睡眠。」
「それら全部が、次に何を考えやすいかを変える。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「それは哲学的にも面白いですね。」
Sapolskyを見る。
Martha Nussbaum:
「“自由になる”ことを、内面の決意だけで考えない。」
Robert Sapolsky:
「私はそう考えます。」
國分がそこへ入った。
國分功一郎:
「自由という言葉は、どうしても“何にも影響されず、自分だけで選ぶ”ように聞こえることがあります。」
河合が國分を見る。
國分功一郎:
「でも人間は、そんなふうには生きていない。」
「家族の影響を受ける。」
「過去の影響を受ける。」
「身体の影響を受ける。」
「社会の影響を受ける。」
「その中で選ぶ。」
中野が言う。
中野信子:
「完全に自由じゃない。」
國分功一郎:
「そうです。」
「でも、影響されているから何もできない、とも言いたくない。」
Nussbaumが頷く。
國分功一郎:
「私は、“自分に起きていることへどう応答するか”というところに、自由を見たい。」
Bossが静かに聞く。
Pauline Boss:
「祐太郎なら、どういう応答になるでしょう。」
國分は少し考えた。
國分功一郎:
「蓮沼を許さなくてもいい。」
「でも、明日店を開ける。」
河合が笑った。
河合隼雄:
「いいですね。」
國分も少し笑う。
國分功一郎:
「佐織を忘れない。」
「でも、妻とご飯を食べる。」
「蓮沼を思い出して腹が立つ。」
「でも、そのあと別の話をする。」
「そういう小さな応答です。」
Bossが頷いた。
Pauline Boss:
「回復は、そういうところに現れることがあります。」
中野が聞く。
中野信子:
「大きな“乗り越えました”じゃない。」
Pauline Boss:
「ええ。」
「今日、少し食べられた。」
「今日は一時間だけ事件のことを考えなかった。」
「友人と笑った。」
「来週の予定を入れた。」
「そういうことです。」
河合が言う。
河合隼雄:
「人間は、人生の大きな答えを毎朝出しているわけではありませんからね。」
少し笑いが起きた。
しかし中野はすぐ真顔に戻った。
中野信子:
「でも、もし本人が“怒りを手放したら佐織を裏切る”と思っていたら?」
Bossが答える。
Pauline Boss:
「そこは、とても大きな問題です。」
中野信子:
「愛してるから忘れない。」
「忘れないから怒り続ける。」
「怒り続けるから蓮沼を毎日考える。」
「そうなると、愛と怒りが結びついてしまう。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「だから、愛の形を変える必要があるのでしょうね。」
中野が見る。
中野信子:
「愛の形?」
河合隼雄:
「“佐織を忘れないために蓮沼を憎む”ではなく。」
「“佐織を忘れないために、佐織との思い出を生きる。”」
部屋が静かになった。
河合は続けた。
河合隼雄:
「好きだった料理を作る。」
「好きだった歌を聴く。」
「佐織なら笑っただろうと思うことをする。」
「亡くなった人との関係を、加害者を通さない形に変える。」
Bossの表情が明るくなる。
Pauline Boss:
「それはとても大切です。」
Martha Nussbaum:
「つまり、加害者を記憶の中心から外す。」
河合隼雄:
「そうですね。」
中野が静かに言う。
中野信子:
「それって、本当の意味で蓮沼から自由になることかもしれない。」
Sapolskyが頷いた。
Robert Sapolsky:
「注意をどこへ向けるかが変わる。」
「記憶は残る。」
「反応も完全には消えない。」
「でも、毎回同じ回路だけを強化しなくなる。」
國分がNussbaumを見る。
國分功一郎:
「では正義はどうなりますか。」
Nussbaumが少し考える。
Martha Nussbaum:
「正義を、復讐から未来へ向け直す必要があると思います。」
中野が見る。
Martha Nussbaum:
「相手を苦しませることではなく。」
「同じことが起きにくい社会を作る。」
「被害者が孤立しない仕組みを作る。」
「制度の穴を修正する。」
「次の人を守る。」
少し間を置く。
Martha Nussbaum:
「怒りが、“あいつを苦しませたい”から、“もう同じことを起こしたくない”へ変わる。」
國分が頷いた。
國分功一郎:
「復讐から応答へ。」
Martha Nussbaum:
「そう言ってもいいでしょう。」
中野が聞く。
中野信子:
「でも、それって被害者に社会活動までやれって話になりません?」
Nussbaumがすぐに首を振った。
Martha Nussbaum:
「いいえ。」
「何もしなくてもいい。」
中野が少し驚く。
Martha Nussbaum:
「被害者が社会を変える義務はありません。」
「生きるだけでもいい。」
Bossが頷いた。
Pauline Boss:
「そこは本当に大切です。」
Martha Nussbaum:
「悲劇から“意味を作らなければならない”という圧力も危険です。」
河合が微笑む。
河合隼雄:
「そうですね。」
「苦しんだ人が、立派な答えを出さなくてもいい。」
「ただ生きているだけでもいい。」
中野が静かに言う。
中野信子:
「これは結構救われますね。」
河合隼雄:
「救われなくてもいいんですよ。」
中野が河合を見る。
河合は少し笑った。
河合隼雄:
「“救われなければいけない”も、また苦しいでしょう。」
Bossが笑みを浮かべる。
Pauline Boss:
「その通りです。」
河合は続けた。
河合隼雄:
「今日はつらい。」
「明日もつらい。」
「でも店を開ける。」
「それでいい。」
部屋が静かになった。
Sapolskyが低い声で言う。
Robert Sapolsky:
「私はもう一つだけ、加害者についても考えたい。」
中野が見る。
中野信子:
「蓮沼?」
Robert Sapolsky:
「はい。」
「人間の自由や責任を考えるなら、彼だけを“純粋な悪”として外に置くことにも注意が必要です。」
Nussbaumが少し表情を硬くする。
Martha Nussbaum:
「理解することは必要です。」
「ただし、被害者の視点を失わないこと。」
Robert Sapolsky:
「同意します。」
「私は、彼を許せと言っているのではありません。」
「どういう人生、どういう環境、どういう行動の積み重ねが彼を作ったのかを見る。」
中野が聞く。
中野信子:
「でも、そこまで理解したら、また責任が薄くならない?」
國分が入る。
國分功一郎:
「理解と責任を分ける必要がありますね。」
Robert Sapolsky:
「そうです。」
河合が静かに言う。
河合隼雄:
「人を怪物にしてしまうと、少し楽なんです。」
中野が河合を見る。
河合隼雄:
「“自分とは違うものだ”と思えるから。」
「でも本当は、人間の中にあるものの延長に彼もいる。」
「そこを見るのは怖い。」
Nussbaumが言う。
Martha Nussbaum:
「それでも社会は線を引かなければならない。」
河合隼雄:
「もちろんです。」
「理解することと、境界をなくすことは違います。」
Bossが静かに言った。
Pauline Boss:
「そして遺族は、加害者を理解する必要すらないと思います。」
中野が強く頷いた。
Pauline Boss:
「それは社会や研究者が考えればいい。」
「遺族は、自分の生活を取り戻すことだけに力を使ってもいい。」
中野が言う。
中野信子:
「そうですよね。」
「“相手を理解しなさい”。」
「“許しなさい”。」
「“意味を見つけなさい”。」
「全部、被害者に宿題を出してる。」
河合が頷く。
河合隼雄:
「人は、宿題なしでも悲しんでいいんです。」
少し笑いが起きた。
國分が、その空気の中で静かに言った。
國分功一郎:
「じゃあ最後に、最初の問いへ戻ってみませんか。」
全員が見る。
國分功一郎:
「もし自分が祐太郎だったら。」
部屋が静かになる。
國分功一郎:
「本当に復讐しないと言い切れますか。」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのはNussbaumだった。
Martha Nussbaum:
「私は、怒らないとは言えません。」
中野がNussbaumを見る。
Martha Nussbaum:
「激しく怒るでしょう。」
「相手に罰を望むかもしれない。」
「自分がどこまで冷静でいられるか、断言はできません。」
中野が小さく頷いた。
中野信子:
「私も、言い切れないです。」
「頭ではいくら説明できても。」
「自分の娘だったら。」
少し黙る。
中野信子:
「何を考えるか分からない。」
Sapolskyが言う。
Robert Sapolsky:
「その状況になった自分が何をするかを、今の自分が完全に予測できるとは思いません。」
Bossが静かに続ける。
Pauline Boss:
「だからこそ、悲しんでいる人にすぐ道徳的な正解を要求してはいけないのでしょう。」
國分が頷く。
國分功一郎:
「でも、理解できることと、何をしてもいいことは同じではない。」
Pauline Boss:
「そうです。」
河合隼雄は、かなり長く黙っていた。
中野が河合を見る。
誰も急かさなかった。
やがて河合がゆっくり口を開いた。
河合隼雄:
「人間というのは、正しい答えを知っているから生きられるわけではないのかもしれませんね。」
誰も動かなかった。
河合隼雄:
「答えが出ない。」
「許せない。」
「忘れられない。」
「それでも朝が来る。」
「お腹が空く。」
「誰かが店に来る。」
「今日は何を作ろうかと思う。」
河合は少し笑った。
河合隼雄:
「そういうところから、また人生が始まることもある。」
Bossが微笑んだ。
河合は続けた。
河合隼雄:
「答えの出ないものを抱えながら。」
「自分の中に矛盾を残しながら。」
「それでも明日の朝を迎える。」
少し間を置いた。
河合隼雄:
「それも、生きるということなのでしょう。」
長い沈黙が来た。
でも今度の沈黙は、何かを隠すためではなかった。
誰かを守るためでもなかった。
答えを持っていないことを、全員がそのまま認めるための沈黙だった。
許せなくてもいい。
怒りが残っていてもいい。
悲しみが消えなくてもいい。
亡くなった人を忘れなくてもいい。
ただ、その人を愛した記憶まで、加害者の中に閉じ込めなくてもいい。
明日店を開けること。
誰かに「いらっしゃい」と言うこと。
夕食を作ること。
一度笑って、あとから泣くこと。
それらもまた、人生を取り戻す行為なのかもしれない。
『沈黙のパレード』が最後に突きつけるのは、
「許せるか」
という問いだけではない。
もっと静かな問いなのだろう。
許せないままでも、あなたは明日を生きられるか。
そして六人の誰も、その問いに完全な答えを出さなかった。
出さないまま、会話は終わった。
最後に

この議論で最も大きく残ったのは、「理解すること」と「許すこと」は同じではない、という点です。
復讐したい気持ちには理由があります。
その人が弱いからでも、悪いからでもない。
深い喪失、無力感、罪悪感、怒り、共同体からの影響が重なり、人は一線へ近づくことがあります。
けれど、理由が分かることと、行為の責任が消えることも同じではありません。
『沈黙のパレード』の苦しさは、この両方を同時に見なければならないところにあります。
司法には限界があります。
悲嘆にも終わりの日付はありません。
真実が分かっても、亡くなった人は戻りません。
そして許しも、回復の必須条件ではありません。
最後に残ったのは、とても小さな問いでした。
明日、店を開けられるか。
誰かと食事ができるか。
亡くなった人を忘れずに、新しい出来事を人生へ入れられるか。
悲しみを消すのではなく、悲しみを抱えたまま人生の方を広げていく。
それが、このScholar Discussionがたどり着いた一つの答えです。
Short Bios:
河合隼雄
日本を代表する臨床心理学者。ユング心理学を日本へ広く紹介し、家族、物語、心の矛盾、喪失などを深く考察しました。
中野信子
日本の脳科学者。人間の社会行動、感情、集団心理、制裁や承認に関わる心理を一般向けにも広く発信しています。
國分功一郎
日本の哲学者。自由、責任、行為、社会、倫理をめぐる問題を研究し、人間が影響を受けながらどう生きるかを考察しています。
Martha Nussbaum
アメリカの哲学者。感情、正義、怒り、復讐、倫理について長く研究し、復讐的な怒りと未来志向の正義を区別して論じています。
Robert Sapolsky
アメリカの神経内分泌学者・行動科学者。人間の行動を脳、環境、過去の経験、社会条件などの連鎖から分析しています。
Pauline Boss
アメリカの心理学者。「曖昧な喪失」の研究で知られ、明確な終わりを持たない悲嘆や、喪失を抱えながら生きる方法を研究してきました。

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