はじめに
『悪意』の恐ろしさは、殺人そのものだけにありません。
もっと深いところにあるのは、人が自分の憎しみを正当化するために、相手についての物語まで作ってしまうことです。
野々口は日高を殺した。
しかし、それだけでは終わらなかった。
日高を傲慢で冷酷な人間として描き、自分を長年苦しめられてきた側として語ることで、事件そのものの意味まで書き換えようとしました。
そこで加賀が追い始めたのは、「誰が殺したのか」ではありません。
なぜ野々口は、日高が憎まれるべき人間だったという物語を必要としたのか。
そして会話が進むにつれ、問いは野々口だけのものではなくなっていきます。
なぜ私たちは、詳しく語られた話を簡単に信じるのか。
なぜ傷ついた側の物語を聞くと、反対側を悪人にしたくなるのか。
そして、自分の中にある嫉妬や嫌悪を認めたくない時、私たち自身も誰かについて「嫌うための理由」を作ってはいないか。
『悪意』最大の謎は、殺人事件ではありません。
人間はなぜ、自分の悪意をそのまま見つめることがこれほど難しいのか。
この対話は、そこへ向かっていきました。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1 — 野々口は、日高の何を本当に憎んでいたのか

部屋は静かだった。
机の上には、野々口が書いた記録が置かれている。
日高はそのノートを閉じたまま、野々口を見ていた。
加賀はすぐには口を開かなかった。
沈黙のほうが、野々口に考えさせると思ったからだ。
加賀:
「野々口さん。最初に一つだけ確認したいんです。」
野々口:
「何ですか。」
加賀:
「あなたは日高さんの何が、そんなに嫌だったんですか。」
野々口は少し眉を寄せた。
野々口:
「それはもう話したでしょう。」
加賀:
「話したのは、日高さんが何をしたかです。」
野々口:
「同じことじゃないですか。」
加賀:
「違います。」
野々口の顔が固くなる。
加賀:
「あなたは、彼が人を見下していたと言った。自分勝手だったとも言った。作家として成功したあと、人が変わったとも。」
野々口:
「事実です。」
加賀:
「今聞いているのは、その話ではありません。」
野々口:
「じゃあ何です。」
加賀:
「それを見た時、あなたの中で何が起きていたのかです。」
野々口は答えなかった。
日高が椅子に深く座り直した。
日高:
「僕も聞きたいですね。」
野々口が日高を見る。
日高:
「あなたは僕のことをずいぶん詳しく書いた。」
野々口:
「知っていたからです。」
日高:
「じゃあ、あなた自身のことは?」
野々口:
「何が言いたい。」
日高:
「僕が本を出した時、あなたはどう感じていたんです。」
野々口は少し笑った。
乾いた笑いだった。
野々口:
「おめでとうと思いましたよ。」
日高:
「最初の一冊は?」
野々口:
「そうです。」
日高:
「二冊目は?」
野々口は黙った。
日高:
「三冊目は?」
野々口:
「何なんですか、この質問は。」
日高:
「あなたが僕を語る時、いつも僕が何をしたかだけなんです。」
日高は野々口から目を離さなかった。
日高:
「でも、あなたが何を感じたかは、ほとんど書いてない。」
野々口:
「感情なんて証拠にならない。」
加賀:
「だから書かなかったんですか。」
野々口:
「そういう意味じゃない。」
加賀:
「それとも、書きたくなかった?」
野々口は加賀を見る。
野々口:
「刑事さん。あなたは私が嫉妬していたと言わせたいんでしょう。」
加賀:
「いいえ。」
加賀は首を振った。
加賀:
「嫉妬という言葉を使った瞬間、分かったような気になってしまう。それは避けたいんです。」
野々口の表情がわずかに変わった。
加賀:
「羨ましい。悔しい。負けたくない。」
「そういう感情なら、多くの人にあります。」
「でも、あなたの中ではそこから別のところまで行った。」
野々口:
「……。」
加賀:
「だから、その途中を知りたい。」
日高が静かに言った。
日高:
「僕が売れたからですか。」
野々口は返事をしない。
日高:
「僕の本が売れた。」
「名前が新聞に出た。」
「賞の候補になった。」
「そういうことが、一つずつあなたを傷つけたんですか。」
野々口:
「ずいぶん自惚れた質問ですね。」
日高:
「そうかもしれない。」
日高はすぐ認めた。
「でも僕には分からないんです。」
「僕が成功することが、どうしてあなたへの攻撃になるんです。」
野々口の口元が動いた。
野々口:
「攻撃だったなんて言ってない。」
日高:
「じゃあ、なぜ僕が成功するたびに、あなたは僕の欠点を探したんです。」
その言葉で、野々口の目が鋭くなった。
野々口:
「あなたは自分をずいぶん立派な人間だと思ってるんですね。」
日高:
「思ってませんよ。」
野々口:
「人を馬鹿にするところがあった。」
日高:
「あったかもしれない。」
野々口:
「自分が才能ある人間だと思っていた。」
日高:
「思っていたでしょうね。」
野々口:
「人の気持ちなんか分からなかった。」
日高はしばらく黙った。
日高:
「それも、あったかもしれない。」
野々口は少し意外そうな顔をした。
日高:
「僕は自分が善人だったと言いたいわけじゃない。」
「嫌なところもあったでしょう。」
「あなたを傷つけたことだって、本当にあったかもしれない。」
一拍置く。
日高:
「でも、それだけですか。」
野々口が目を細める。
日高:
「僕の嫌なところだけが理由なら。」
「僕より嫌な人間なんて、あなたの人生にもたくさんいたでしょう。」
野々口は何も言わなかった。
日高:
「なぜ僕だったんです。」
部屋が静かになる。
加賀は野々口を見ていた。
今度は助け舟を出さなかった。
しばらくして、野々口が低い声で言った。
野々口:
「近かったからですよ。」
加賀:
「何が。」
野々口:
「日高が。」
「遠い人間ならどうでもよかった。」
「テレビに出ている作家が何冊売ろうが、関係ない。」
「でもこいつは違った。」
日高の顔が少し変わった。
野々口:
「同じところから始めた。」
「少なくとも、私はそう思っていた。」
「同じように書いていた。」
「同じように作家になりたかった。」
「それなのに。」
野々口はそこで言葉を切った。
加賀:
「それなのに?」
野々口:
「向こうだけが行ったんですよ。」
日高:
「どこへ。」
野々口が日高を見る。
野々口:
「私が行きたかったところへ。」
日高は何も言わなかった。
それまで野々口が語ってきたどの言葉よりも、その一言のほうが本音に近い気がした。
加賀:
「日高さんが成功すると、自分が失敗したように感じた。」
野々口:
「そう簡単にまとめないでください。」
加賀:
「では、違う言葉で。」
加賀は少し身を乗り出した。
加賀:
「日高さんがそこにいるだけで、自分がなれなかったものを見せられていた。」
野々口の目が加賀に向いた。
野々口:
「……。」
加賀:
「そういうことではありませんか。」
長い沈黙。
野々口は否定しなかった。
日高が小さく息を吐いた。
日高:
「それなら。」
野々口を見る。
日高:
「僕はあなたに何かを奪ったんじゃない。」
「僕が持っているものを見るたびに、あなたが自分にないものを見ていた。」
野々口の顔が険しくなる。
野々口:
「勝った人間には何とでも言える。」
日高:
「勝った?」
野々口:
「そうでしょう。」
「あなたは売れた。」
「私は売れなかった。」
「あなたは評価された。」
「私はされなかった。」
「あなたは欲しいものを全部持っていた。」
日高:
「全部?」
日高が少し笑った。
悲しそうな笑いだった。
日高:
「あなたは僕の人生を、ずいぶん簡単に見ていたんですね。」
野々口:
「成功した人間がそんなことを言っても、嫌味にしか聞こえませんよ。」
日高:
「そうかもしれない。」
日高はまた認めた。
「でも、僕の苦しみを知らないあなたが、“全部持っていた”と言う。」
「僕の欠点を探したあなたが、僕の幸せだけは疑わなかった。」
野々口が黙る。
日高:
「なぜです。」
答えは出ない。
加賀が口を開いた。
加賀:
「人は、自分が羨む相手の苦しみには興味を持たないことがあります。」
野々口が加賀を見る。
加賀:
「苦しんでいると知ってしまうと、その人を憎みにくくなるからです。」
野々口:
「私はそんな計算をしていたわけじゃない。」
加賀:
「計算とは言ってません。」
「感情はもっと速い。」
「羨ましい相手が失敗すると、少し安心する。」
「嫌いな相手が不幸になると、どこかで納得する。」
「そういう部分は、誰の中にもあり得る。」
野々口が薄く笑った。
野々口:
「ずいぶん人間を信用していないんですね。」
加賀:
「逆です。」
加賀は静かに答えた。
「そういう部分があることを認めないほうが危ないと思っています。」
野々口の笑みが消えた。
加賀:
「あなたに聞きます。」
「もし日高さんが作家として失敗していたら。」
野々口は目をそらした。
加賀:
「売れなかったら。」
沈黙。
加賀:
「あなたは、今ほど彼を嫌っていましたか。」
野々口:
「仮定の話でしょう。」
加賀:
「そうです。」
「だから正直に答えられる。」
野々口は机を見る。
その上に、自分が書いたノートがある。
野々口:
「……分かりません。」
加賀:
「では、もう少し具体的に。」
「日高さんが一冊出して失敗した。」
「二冊目も売れなかった。」
「やがて書くことを諦めた。」
「あなたのところへ来て、“野々口、お前のほうが才能があったな”と言った。」
日高が少し加賀を見る。
野々口は動かなかった。
加賀:
「その日高さんを見た時。」
「あなたは悲しかったでしょうか。」
野々口は答えない。
加賀:
「それとも。」
加賀の声は責める調子ではなかった。
「少し、ほっとしたでしょうか。」
野々口の指がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
日高はその動きを見ていた。
日高:
「そうだったんですね。」
野々口:
「何が。」
日高:
「あなたは僕になりたかったんじゃない。」
野々口が日高を見る。
日高:
「僕があなたより上にいるのが耐えられなかった。」
野々口:
「同じことだ。」
日高:
「違います。」
日高の声は静かだった。
「僕になりたいなら、僕がいることは希望にもなる。」
「でも、僕が落ちれば安心するなら。」
少し間を置いた。
「欲しかったのは僕の成功じゃない。」
「僕があなたより上にいない世界だったんでしょう。」
野々口の顔が赤くなった。
野々口:
「簡単に人の心を説明するな。」
日高:
「説明しているんじゃない。」
「聞いてるんです。」
日高は野々口を真っ直ぐ見た。
日高:
「僕が不幸だったら、あなたは僕を許せたんですか。」
野々口は答えなかった。
その沈黙は長かった。
やがて、野々口がぽつりと言った。
野々口:
「あなたを見ると。」
二人が彼を見る。
野々口:
「自分が何者にもなれなかった気がした。」
日高の表情が変わった。
野々口は日高を見なかった。
野々口:
「あなたが新しい本を出すたび。」
「新聞に名前が出るたび。」
「誰かがあなたを褒めるたび。」
「私の人生について何か言われている気がした。」
加賀:
「何と言われているように?」
野々口は苦笑する。
野々口:
「ほら、お前は駄目だった。」
沈黙。
野々口:
「そう言われている気がした。」
日高:
「僕はそんなこと言ってない。」
野々口:
「分かってますよ。」
初めて野々口が即答した。
その言葉に、日高も加賀も黙った。
野々口は続ける。
野々口:
「分かってた。」
「あなたが本を出すたびに、私を笑っていたわけじゃない。」
「私のことなんか考えていなかったかもしれない。」
「それでも、そう聞こえた。」
加賀が静かに聞いた。
加賀:
「つまり、日高さんの声ではなかった。」
野々口は答えない。
加賀:
「自分の声だった。」
野々口の目が揺れた。
日高がゆっくりノートへ視線を落とした。
日高:
「それなら。」
彼は表紙に手を置いた。
「この中で僕があなたを見下した言葉のいくつかは。」
野々口を見る。
日高:
「本当は、あなたが自分に言っていた言葉だったんですか。」
野々口は顔を上げた。
何か言おうとした。
しかし言葉は出なかった。
加賀はその沈黙を壊さなかった。
長い時間が過ぎた。
そして野々口が低く言った。
野々口:
「だったとしても。」
日高が待つ。
野々口:
「感情は消えない。」
加賀:
「そうですね。」
野々口:
「理由が間違っていたとしても、嫌いなものは嫌いなんです。」
加賀:
「その通りです。」
野々口は少し驚いて加賀を見る。
加賀は続けた。
加賀:
「だから次が重要なんです。」
「嫌悪そのものを、人は完全には選べないことがある。」
「でも。」
加賀は机の上のノートを見る。
「嫌悪をどう説明するかは別です。」
野々口の顔が再び固くなった。
加賀:
「日高さんが存在することで、自分の失敗を感じた。」
「もしそこまで自分で分かっていたなら。」
野々口を見る。
加賀:
「なぜ、そう書かなかったんです。」
野々口はノートを見る。
そこには、自分が作った日高の姿がある。
傲慢な男。
人を利用する男。
野々口を傷つけ続けた男。
日高が静かに聞いた。
日高:
「なぜ、“あなたが成功するのを見るのが苦しかった”では足りなかったんです。」
野々口はしばらく黙った。
そして、ほとんど聞こえない声で言った。
野々口:
「そんな人間だと思いたくなかったからですよ。」
誰も動かなかった。
野々口は自嘲するように笑った。
野々口:
「何もされていないのに。」
「友人が成功しただけなのに。」
「それが耐えられない人間だったなんて。」
日高の顔から怒りが少し消えた。
同情ではない。
何かもっと複雑な表情だった。
野々口は続けた。
野々口:
「そんな理由で人を憎んだなんて認めるくらいなら。」
彼はノートを見る。
「日高が悪かったことにしたほうが、まだ自分を見られた。」
加賀は静かに息を吐いた。
そして尋ねた。
加賀:
「つまり。」
「あなたには、憎しみだけでは足りなかった。」
野々口は答えない。
加賀:
「その憎しみが正しいと思える理由が必要だった。」
野々口はノートから目を離さなかった。
そこから先は、もう「なぜ日高を憎んだのか」という話だけではなかった。
もっと怖い問いが残っていた。
人は、自分の中にある醜い感情を認められない時、
その感情を変えるのではなく、
相手の物語を書き換えることで、自分を正しい側へ移そうとするのではないか。
日高がゆっくりノートを野々口の前へ押した。
日高:
「じゃあ次は、それを聞かせてください。」
野々口が顔を上げる。
日高:
「なぜあなたは、私を嫌うだけでは足りなかったんです。」
加賀も野々口を見る。
野々口の手が、ノートの端に触れた。
今度の問いは、日高についてではなかった。
自分の悪意を、なぜ正義の形にしなければならなかったのか。
その問いから、次の話が始まろうとしていた。
Topic 2 — なぜ悪意には「正しい理由」が必要なのか

野々口の指は、まだノートの端に触れていた。
日高が押し返したその一冊を、開こうとはしない。
加賀も急かさなかった。
しばらくして、野々口が言った。
野々口:
「正義なんて、大げさですよ。」
加賀:
「では、何です。」
野々口:
「ただ、事実を書いただけです。」
日高が小さく笑った。
日高:
「事実。」
野々口:
「何がおかしい。」
日高:
「あなたは本当に、“事実だけ”を書いたと思っているんですか。」
野々口:
「少なくとも、全部が嘘だったわけじゃない。」
加賀がそこで入った。
加賀:
「それが一番厄介なんです。」
野々口が見る。
加賀:
「完全な嘘なら、崩すのはまだ簡単です。」
「でも、一部の事実に意味をつけて並べる。」
「ある出来事だけを選ぶ。」
「別の出来事は書かない。」
「すると、全体としては別の人物ができあがる。」
野々口:
「文章なんて、全部そうでしょう。」
加賀:
「そうです。」
加賀はすぐ認めた。
「だから、語る側には責任がある。」
日高はノートを見ながら言った。
日高:
「例えば。」
「僕があなたに原稿について意見を言った。」
野々口:
「見下したようにね。」
日高:
「僕はそういうつもりじゃなかったかもしれない。」
野々口:
「受け取った側がそう感じたなら、それも事実でしょう。」
加賀:
「感情としては。」
野々口が加賀を見る。
加賀:
「でも、“自分は見下されたと感じた”と、“日高さんは人を見下す人間だった”は同じではありません。」
沈黙。
野々口:
「細かいですね。」
加賀:
「人一人の人生を決める話ですから。」
日高がゆっくり野々口を見る。
日高:
「あなたは、自分が傷ついたことを書いたんじゃない。」
「僕が“人を傷つける人間だった”と書いた。」
野々口の表情が硬くなる。
日高:
「そこには大きな違いがある。」
野々口:
「あなたにだって責任はあった。」
日高:
「何の。」
野々口:
「そうやって、いつも。」
日高:
「いつも何です。」
野々口:
「自分は悪くないという顔をする。」
日高は少し息を吐いた。
日高:
「じゃあ聞きます。」
「僕が悪かったとして。」
「僕に嫌なところがあったとして。」
「それで、あなたがしたことは何になるんです。」
野々口は答えない。
日高:
「僕が傲慢なら、あなたの殺人は少し軽くなるんですか。」
野々口:
「そういう話じゃない。」
日高:
「では、なぜ僕は悪人である必要があったんです。」
その問いが、部屋に残った。
加賀は野々口の顔を見た。
加賀:
「前の話で、あなたは一つ認めました。」
「日高さんの成功を見ることが苦しかった。」
野々口は黙っている。
加賀:
「それだけなら。」
「あなたは傷ついていた。」
「嫉妬もしていた。」
「劣等感もあった。」
「でも、それだけではあなたは被害者にはならない。」
野々口の目がわずかに動く。
加賀:
「だから必要だったんじゃありませんか。」
野々口:
「何が。」
加賀:
「“自分がこうなったのは、日高さんのせいだ”という物語が。」
野々口は椅子に背を預けた。
野々口:
「人間の人生なんて、誰かの影響を受けるでしょう。」
加賀:
「受けます。」
「でも影響と責任は違う。」
野々口:
「簡単に言いますね。」
加賀:
「簡単ではありません。」
加賀の声は静かだった。
「だからこそ、自分の人生がうまくいかない時、人は原因を外に置きたくなる。」
日高が言った。
日高:
「僕がいなければ、あなたは幸せだったんですか。」
野々口は顔を上げる。
日高:
「僕が作家にならなかったら。」
「僕が売れなかったら。」
「僕があなたより先に進まなかったら。」
「あなたは、自分の人生に満足していたんですか。」
野々口:
「そんなこと分かるわけないでしょう。」
日高:
「そうです。」
「分からない。」
「なのにあなたは、“僕のせいで自分はこうなった”という話だけは、ずいぶん確信を持って書いた。」
野々口は視線をそらした。
加賀がノートを開いた。
ページを何枚かめくる。
加賀:
「ここでは、日高さんの行為が続いています。」
「その次も。」
「その次も。」
「読む人は、少しずつこう思う。」
加賀は顔を上げる。
加賀:
「“野々口さんは長年苦しめられてきたんだ。”」
野々口は何も言わない。
加賀:
「そしてその時点で、殺人はまだ間違っているとしても。」
「読者の中で、あなたは少しずつ“理由のある犯人”になる。」
日高が低い声で言う。
日高:
「僕は、“殺される理由のある人間”になる。」
野々口の顔が一瞬歪んだ。
野々口:
「殺されて当然だなんて書いてない。」
日高:
「書いてなくても、そう感じるように作った。」
野々口:
「それは読んだ人の問題でしょう。」
加賀がすぐ返す。
加賀:
「では、なぜ文章を書いたんです。」
野々口が黙る。
加賀:
「読んだ人がどう感じるかに興味がないなら、残す必要がない。」
「あなたは作家です。」
「言葉が人をどこへ連れていくかを知らない人じゃない。」
その言葉に、野々口の顔が少し強張った。
野々口:
「自分のことを理解してほしかった。」
日高がゆっくり聞く。
日高:
「何を。」
野々口:
「なぜ私がああなったのか。」
日高:
「“なぜ殺したのか”を?」
野々口:
「そうです。」
日高:
「それとも、“なぜ自分は悪い人間ではないのか”を?」
野々口の目が日高へ向く。
怒りがある。
でもすぐには反論できない。
野々口:
「人は誰だって、自分を理解してほしいでしょう。」
日高:
「理解してほしいことと、正しく見せたいことは違う。」
野々口:
「あなたに何が分かる。」
日高:
「分かりませんよ。」
「だから聞いてる。」
日高は少し身を乗り出した。
日高:
「あなたは、“私は日高が羨ましくて、日高がいるだけで苦しくて、それで憎んだ”と書けましたか。」
野々口は何も言わない。
日高:
「書けなかったでしょう。」
加賀が続ける。
加賀:
「それでは、読む人はあなたに同情しにくい。」
野々口が加賀を睨む。
加賀:
「でも、“長年傷つけられてきた”なら違う。」
「人は事情を理解しようとする。」
「あなた自身も、自分を理解しやすくなる。」
野々口:
「自分を守るために全部作ったと?」
加賀:
「少なくとも、その要素はあったと思っています。」
野々口:
「人を殺しておいて、自分を守れるわけないでしょう。」
加賀:
「法的には。」
「でも心の中では別です。」
加賀は少し間を置いた。
加賀:
「“私は理由もなく人を壊した人間だ”と思うのと。」
「“私は長い間傷つけられ、追い詰められた末に壊れた人間だ”と思うのでは。」
「自分を見る時の痛みが違う。」
野々口は黙った。
その沈黙の中で、日高がぽつりと言った。
日高:
「僕を悪人にすれば。」
「あなたは被害者になれる。」
野々口がすぐ返す。
野々口:
「私は被害者だった。」
日高は野々口を見る。
日高:
「何の被害者です。」
野々口:
「……。」
日高:
「僕の成功の?」
野々口:
「違う。」
日高:
「僕の存在の?」
野々口:
「やめろ。」
日高:
「自分の劣等感の?」
野々口:
「黙れ。」
日高は黙らなかった。
日高:
「それなら僕は、何を謝ればよかったんです。」
野々口が日高を見る。
初めて、返す言葉がなかった。
日高の声が少し低くなる。
日高:
「僕が生きていた時に言ってくれればよかった。」
野々口:
「何を。」
日高:
「“お前を見るのが苦しい”って。」
野々口の目が揺れた。
日高:
「“お前が成功するたび、自分が駄目な人間に思える”って。」
「そんなことを言われても、僕には何もできなかったかもしれない。」
「あなたを理解できなかったかもしれない。」
「喧嘩したかもしれない。」
少し間。
日高:
「でも少なくとも。」
「僕が死んだ後に、僕の人生を作り直されるよりはよかった。」
野々口はノートに視線を落とした。
加賀も黙っていた。
野々口がようやく言う。
野々口:
「そんなこと言えるわけないでしょう。」
日高:
「なぜ。」
野々口:
「惨めだからですよ。」
その言葉は突然だった。
野々口自身も、言った後に少し驚いたようだった。
野々口:
「友人が成功している。」
「それを見て苦しい。」
「嫉妬している。」
「失敗すればいいと思っている。」
「そんなこと本人に言えると思いますか。」
日高:
「言えないでしょうね。」
野々口:
「でしょう。」
日高:
「でも、言えなかったことと、僕が悪かったことは同じじゃない。」
野々口は黙る。
加賀:
「そこです。」
二人が加賀を見る。
加賀:
「惨めさに耐えられない。」
「自分の中の嫉妬を見たくない。」
「その時、人は二つのことができます。」
「“自分は嫉妬している”と認めるか。」
「“相手には嫌われる理由がある”と考えるか。」
野々口がかすかに笑った。
野々口:
「ずいぶん簡単ですね。」
加賀:
「現実はもっと混ざっています。」
「本当に嫌なところもあったでしょう。」
「本当に傷ついたこともあったでしょう。」
「だから危ない。」
加賀はノートへ手を置いた。
加賀:
「少しの事実があれば、自分の感情を正当化する物語はいくらでも作れる。」
日高が続ける。
日高:
「一度、“こいつは嫌な人間だ”と決めたら。」
「何をされても、そう見える。」
野々口が言う。
野々口:
「実際そういう人間だったら?」
加賀:
「その可能性も疑えばいい。」
「でも逆も疑う。」
「“自分がこの人を嫌っているから、嫌な意味に見えているだけではないか”と。」
野々口は鼻で笑った。
野々口:
「そんなふうに毎回自分を疑っていたら、生きていけませんよ。」
加賀:
「毎回でなくてもいい。」
「ただ、人の人生を壊すほどの判断をする時くらいは。」
野々口の笑いが消えた。
沈黙が落ちた。
日高がノートを開いた。
一ページを見つめる。
日高:
「あなたは、この中で僕を随分はっきりした人間にした。」
「傲慢。」
「冷たい。」
「人を利用する。」
「他人の痛みに鈍感。」
ページを閉じる。
日高:
「その僕を作ってから殺したんですか。」
野々口が顔を上げる。
日高:
「それとも、殺してから、その僕を作ったんですか。」
野々口はしばらく考えていた。
やがて言う。
野々口:
「分からない。」
加賀も日高も何も言わなかった。
野々口:
「最初から嫌なところはあった。」
「それは本当です。」
「でも。」
野々口は言葉を探した。
「嫌いになると、昔のことまで変わって見えるんですよ。」
日高が静かに聞く。
日高:
「どう変わる。」
野々口:
「親切にされたことまで。」
「本当は優越感だったんじゃないかとか。」
「褒められても、馬鹿にされてるんじゃないかとか。」
「助けてもらっても、恩を着せたいだけなんじゃないかとか。」
野々口は苦笑する。
野々口:
「全部、説明がつく。」
加賀が言う。
加賀:
「嫌うための説明が。」
野々口は否定しなかった。
野々口:
「そうかもしれない。」
日高:
「そのうち、あなたの中の僕は。」
「現実の僕より、もっと嫌な人間になった。」
野々口が日高を見る。
野々口:
「そうでしょうね。」
初めて素直な返事だった。
日高:
「そして最後には、その人間なら殺しても理解されると思った。」
野々口:
「理解されたいとは思った。」
日高:
「許されたかった?」
野々口は考える。
野々口:
「そこまでは。」
加賀:
「では、“完全に悪い人間だと思われたくなかった”?」
野々口は目を閉じた。
長い沈黙の後、言った。
野々口:
「たぶん。」
日高はその答えを聞いて、怒るでもなく、ただ野々口を見た。
野々口:
「人を殺した。」
「それは分かってる。」
「でも、“ただ憎かったから”では。」
野々口は喉を詰まらせた。
「自分でも、自分を見られなかった。」
加賀:
「だから、日高さんに理由を背負わせた。」
野々口は答えない。
日高:
「僕が悪かったから、あなたはそうなった。」
野々口はノートを見る。
日高:
「そういう話なら、あなたはまだ自分を理解できる。」
野々口:
「……そうです。」
短い返事だった。
しかしその一言で、部屋の空気が変わった。
加賀が静かに言う。
加賀:
「それなら、あなたが書き換えたのは日高さんの人生だけではありませんね。」
野々口が顔を上げる。
加賀:
「自分自身についての物語も書き換えた。」
「殺した人間ではなく。」
「追い詰められた人間として。」
野々口は何も言わなかった。
日高はノートに触れた。
日高:
「でも、そのために。」
彼の声は静かだった。
「僕は死んだ後まで、あなたの事情を説明する役をさせられたんですね。」
野々口の顔が歪んだ。
日高:
「生きている時だけじゃない。」
「死んだ後まで。」
「あなたが自分を許すために。」
野々口は低い声で言った。
野々口:
「許してなんかいない。」
日高:
「じゃあ、何のためです。」
野々口は答えられなかった。
加賀はノートを閉じた。
加賀:
「ここまでで一つ見えてきました。」
野々口が加賀を見る。
加賀:
「人は、自分の悪意を消せない時。」
「相手を悪人にすることで、その悪意を正当化しようとすることがある。」
「その瞬間。」
加賀は日高を見る。
「傷つけられるのは、相手の身体だけではない。」
日高が静かに続けた。
日高:
「その人が、どんな人間だったかまで。」
野々口はノートを見た。
自分が書いた文章。
自分が選んだ出来事。
自分が与えた意味。
それらはもう、単なる言い訳には見えなくなっていた。
日高が低い声で言った。
日高:
「あなたは私を殺した。」
野々口が顔を上げる。
日高:
「それなのに、なぜ殺した後まで、私を悪い人間にしておく必要があったんです。」
今度は野々口は答えなかった。
その問いには、もう「嫉妬」という一言では足りない。
命を奪った後にも続いたもう一つの行為。
死んだ人間の記憶まで、自分の都合のいい形へ変えること。
三人の視線が、机の上のノートへ向かった。
次に問われるのは、その行為が何だったのかだった。
Topic 3 — 人を殺した後、その人の人生まで殺せるのか

三人の視線は、机の上のノートに集まっていた。
しばらく誰も触れなかった。
やがて日高が手を伸ばした。
ゆっくりと表紙を開く。
数ページ読む。
そして、あるところで止めた。
日高:
「ここ。」
野々口は顔を上げない。
日高:
「ここに書いてある私は、ずいぶん嫌な人間ですね。」
野々口:
「そういうところがあった。」
日高:
「さっきも言いましたが、それは否定しません。」
日高はページを指でなぞった。
日高:
「でも、これを読んだ人は。」
少し間。
日高:
「私が殺された時、少しだけこう思うんじゃないですか。」
野々口が日高を見る。
日高:
「“まあ、この人にも問題があったんだな”って。」
野々口の顔が固くなる。
野々口:
「そんなことを狙って書いたわけじゃない。」
加賀が静かに入る。
加賀:
「本当に?」
野々口:
「何ですか。」
加賀:
「もし読んだ人が日高さんに同情し続けたら、あなたの文章は失敗だったんじゃありませんか。」
野々口は答えない。
加賀:
「あなたの意図が、“自分を理解してもらうこと”だったなら。」
「相手が善良な人のままでは困る。」
「読む人に、“それなら野々口さんがここまで苦しんだのも分かる”と思わせる必要がある。」
野々口:
「理解してもらいたかっただけだと言ったでしょう。」
加賀:
「理解には方向があります。」
加賀はノートを見る。
加賀:
「“なぜこの人はこんなことをしたのか”という理解と。」
「“この人にも仕方のない事情があった”という理解は、同じではない。」
野々口の目が少し細くなる。
日高がページを閉じた。
日高:
「殺された後の私は、何も言えない。」
その言葉は静かだった。
だから余計に重かった。
日高:
「生きている時なら。」
「あなたが私について嘘を言えば、反論できた。」
「違うと言える。」
「その時はこうだった、と説明できた。」
野々口は何も言わない。
日高:
「でも死んだら。」
日高はノートを持ち上げる。
日高:
「残るのは、書いた人間の言葉だけになる。」
少し間を置いた。
日高:
「それを分かっていましたか。」
野々口:
「死者について語るなと言うんですか。」
日高:
「違う。」
日高は首を振る。
「死者について語るなとは言ってない。」
「死者は聖人じゃない。」
「悪かったところもあったでしょう。」
「人を傷つけたことだってある。」
野々口:
「じゃあ何が問題なんです。」
日高:
「反論できないことを利用するのが問題だと言ってるんです。」
野々口が眉を寄せる。
野々口:
「利用なんて。」
日高:
「じゃあ、なぜ私が生きている時に書かなかった。」
野々口の顔が止まる。
日高:
「あなたが思っていた私を。」
「なぜ私が生きている時に、世間へ出さなかったんです。」
沈黙。
日高:
「私に読ませればよかった。」
「“お前はこういう人間だ”って。」
「私は怒ったかもしれない。」
「否定したかもしれない。」
「あなたを訴えたかもしれない。」
野々口:
「だから何です。」
日高:
「でも少なくとも。」
日高は野々口を見る。
日高:
「そこには私の声もあった。」
部屋が静かになる。
加賀がゆっくり言った。
加賀:
「死んだ人についての話は、証言ではなくなりやすい。」
野々口が加賀を見る。
加賀:
「片方しか話せないからです。」
「その状態で、片方が意図的に意味を作れば。」
「読む人にとって、それがその人の人生そのものになることがある。」
野々口が小さく笑った。
野々口:
「大げさですね。」
加賀:
「そうですか。」
加賀は椅子に背を預けた。
「あなたが日高さんを殺した。」
「それだけなら、世間はこう覚える。」
“人気作家が殺された。”
「でも、あなたの物語が残れば。」
“実は裏では人を苦しめていた作家だった。”
野々口は黙った。
加賀:
「これだけで、死後の人物像は変わる。」
日高が続ける。
日高:
「妻が読む。」
「友人が読む。」
「読者が読む。」
「まだ会ったこともない人間が読む。」
日高の声が少し低くなる。
日高:
「その人たちの中に残る私は、私が生きた私じゃない。」
野々口が言う。
野々口:
「誰だって、人によって見え方は違うでしょう。」
日高:
「そうです。」
日高はすぐ認める。
「妻の中の私と、編集者の中の私は違う。」
「あなたの中の私も違う。」
「それでいい。」
「人間なんて、全員の中で少しずつ違う。」
日高はノートを指す。
日高:
「でも、違って見えることと。」
「違って見えるように作ることは。」
「同じですか。」
野々口は返せない。
加賀が低い声で言う。
加賀:
「そこが問題なんです。」
「記憶は自然に歪むことがあります。」
「でもあなたは、その歪みを利用した。」
野々口:
「証明できるんですか。」
加賀:
「証明の話はもう終わっています。」
加賀は野々口をまっすぐ見る。
加賀:
「今しているのは、あなたが何をしたかという話です。」
野々口は黙った。
日高が少し考えてから聞いた。
日高:
「一つだけ聞きたい。」
野々口:
「何です。」
日高:
「私を殺した時。」
野々口の顔がわずかに動く。
日高:
「それで終わったと思いましたか。」
野々口は答えない。
日高:
「死んだ。」
「もう会わない。」
「もう成功しない。」
「もう本も出さない。」
「もうあなたの前に立たない。」
日高は少し間を置いた。
日高:
「それで十分じゃなかったんですか。」
野々口の指が机の下で動いた。
日高:
「あなたが苦しかった原因が、私の存在だったなら。」
「私は消えた。」
「なのに、なぜ文章が必要だったんです。」
沈黙。
加賀も口を挟まない。
野々口がやがて言う。
野々口:
「死んだだけじゃ。」
言葉が止まる。
日高が待つ。
野々口:
「……死んだだけじゃ、あなたはまだ勝っていた。」
日高の表情が変わる。
加賀もわずかに身を動かした。
日高:
「どういう意味です。」
野々口は視線を落としたまま言う。
野々口:
「本は残る。」
「名前も残る。」
「読者もいる。」
「評価も。」
「死んだからって、全部消えるわけじゃない。」
日高は黙って聞いている。
野々口:
「むしろ。」
野々口は乾いた笑いを浮かべた。
「死んだ作家なんて、余計に美化されることだってある。」
日高の目が細くなる。
野々口:
「“惜しい人を亡くした”とか。」
「“もっと作品を読みたかった”とか。」
「そういうことを言われる。」
日高:
「それが嫌だった。」
野々口は答えない。
日高:
「私が死んでも評価されることが。」
野々口:
「……。」
日高:
「あなたの前から消えても。」
「人の中に私が残ることが。」
野々口がようやく顔を上げた。
野々口:
「そうです。」
短い言葉だった。
野々口:
「それが嫌だった。」
日高はしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言う。
日高:
「じゃあ、あなたが消したかったのは。」
「私の身体だけじゃない。」
野々口は目をそらさない。
野々口:
「そうかもしれない。」
日高:
「作品も。」
野々口:
「……。」
日高:
「評価も。」
野々口は黙っている。
日高:
「人が私をどう覚えるかも。」
野々口:
「そうです。」
それを聞いて、加賀がゆっくりノートを自分の方へ引き寄せた。
加賀:
「つまり。」
「これは単なる弁明じゃなかった。」
野々口が見る。
加賀:
「日高さんの死後を設計する文章だった。」
野々口の眉がわずかに動く。
加賀:
「どう記憶されるか。」
「誰が同情されるか。」
「誰が責められるか。」
「どんな人物像が残るか。」
加賀はノートを軽く叩いた。
加賀:
「そこまで含めて、あなたは事件を作った。」
野々口が低い声で言う。
野々口:
「そこまで計画的だったと思いますか。」
加賀:
「全部が計画だったとは言いません。」
「人は自分の動機を全部分かっているわけじゃない。」
「でも。」
加賀は野々口を見る。
加賀:
「少なくとも、殺した後で日高さんをどう見せるかを考えた。」
野々口は何も言えなかった。
日高はしばらくノートを見ていた。
そして突然、聞いた。
日高:
「私の妻のことは考えましたか。」
野々口の顔が止まる。
日高:
「彼女がこれを読んだ時。」
「自分が一緒に暮らしていた人間は、本当はこんな人だったのかと。」
「そう思うかもしれない。」
野々口は黙る。
日高:
「友人も。」
「編集者も。」
「読者も。」
「“知らなかっただけで、日高は本当はそういう人間だったんだ”って。」
日高の声は怒っていなかった。
そのほうが痛かった。
日高:
「私だけじゃない。」
「私を知っていた人の記憶まで、あなたは疑わせる。」
野々口の喉が動く。
日高:
「“自分が見ていた日高は偽物だったのかもしれない”って。」
加賀が静かに続ける。
加賀:
「虚偽は、一人の評判だけを壊すとは限りません。」
「その人と関係を持った人の記憶まで壊す。」
「自分が信じていた相手は誰だったのか。」
「自分の判断は間違っていたのか。」
「そこまで広がる。」
野々口は机の表面を見ていた。
野々口:
「そこまで考えていなかった。」
日高:
「でしょうね。」
野々口が顔を上げる。
日高は淡々としていた。
日高:
「私の人生を壊す時に。」
「私以外の人間の人生まで想像していたら。」
少し間。
日高:
「こんな文章は書けなかったかもしれない。」
野々口の顔に怒りが戻る。
野々口:
「あなたは被害者だから何でも言える。」
日高:
「そうです。」
日高は認めた。
「私は被害者です。」
その言葉に野々口が少し怯んだ。
日高:
「でも、あなたは私を被害者のままにしてくれなかった。」
野々口は動かない。
日高:
「殺した後で。」
「私を加害者にした。」
「あなたを苦しめた人間にした。」
「だから読んだ人は、私の死を見ながら。」
日高は静かに言った。
日高:
「同時に、私を裁ける。」
部屋に重い沈黙が落ちた。
加賀が目を伏せる。
野々口はしばらくして言った。
野々口:
「人は死んだら、急に善人になるんですか。」
日高:
「ならない。」
野々口:
「じゃあ、悪かったところを書くことの何が悪い。」
日高:
「悪かったところを書くことじゃない。」
日高の声ははっきりしていた。
日高:
「あなたの都合に合うように、“悪かった人間”を完成させることが問題なんです。」
野々口が黙る。
日高:
「人間は、矛盾してる。」
「親切な時もあれば、嫌な時もある。」
「臆病な時もある。」
「傲慢な時もある。」
「誰かには優しく、誰かには冷たい。」
日高は胸元を指す。
日高:
「私もそうだった。」
「でもあなたの文章の中では。」
「私の嫌なところだけが、一つの意味に向かって並んでいる。」
加賀がうなずく。
加賀:
「人間ではなく、役割になっている。」
野々口が加賀を見る。
加賀:
「あなたを苦しめた悪人という役割に。」
野々口は苦笑した。
野々口:
「物語には構造が必要でしょう。」
その言葉に日高の顔が変わった。
日高:
「それですよ。」
野々口が見る。
日高:
「あなたは私の人生を、物語として整えた。」
「無駄な部分を捨てて。」
「都合の悪い部分を薄くして。」
「必要な部分を強調した。」
日高はノートを見た。
日高:
「そして、あなたが殺したい人物を完成させた。」
野々口は何も言わない。
日高:
「私は二度殺されたんですね。」
野々口が顔を上げる。
日高:
「一度目は、身体を。」
「二度目は。」
日高はノートを閉じた。
日高:
「“私はどんな人間だったか”を。」
野々口の唇が少し震えた。
加賀はその言葉をすぐには続けなかった。
しばらくして、静かに聞いた。
加賀:
「野々口さん。」
「もし、このノートが完全に成功していたら。」
野々口は何も言わない。
加賀:
「百年後。」
「日高さんを直接知る人間が一人もいなくなった時。」
「誰かが事件について調べて、この文章だけを読んだら。」
加賀は一拍置いた。
加賀:
「その人は、どんな日高邦彦を知ると思いますか。」
野々口は答えられなかった。
加賀:
「あなたが書いた日高さんです。」
日高は静かに目を閉じた。
加賀:
「それは、かなり長い殺人です。」
野々口の視線が上がる。
野々口:
「殺人。」
加賀:
「比喩です。」
「でも、無関係ではない。」
「人は死後、自分についての証言を訂正できない。」
「だから、嘘が残れば。」
「その嘘の中で何十年も生き続ける。」
日高が目を開けた。
日高:
「私がもう何も言えないから。」
「あなたの言葉だけが残る。」
野々口がぼそりと言う。
野々口:
「でも、残らなかった。」
加賀を見る。
野々口:
「あなたが調べたから。」
加賀:
「はい。」
野々口:
「それで満足ですか。」
加賀はすぐには答えなかった。
加賀:
「満足という言葉ではないですね。」
野々口が待つ。
加賀:
「日高さんを善人に戻したわけじゃない。」
「完全な人物像を作れたわけでもない。」
「そんなことは誰にもできない。」
「ただ。」
加賀はノートを見る。
加賀:
「あなた一人の物語だけが、事実として残ることは防げた。」
日高が小さく息を吐いた。
日高:
「それで十分です。」
野々口が日高を見る。
日高:
「私は聖人として覚えてほしいわけじゃない。」
「欠点も残ればいい。」
「嫌われてもいい。」
「ただ。」
日高の声が少し震えた。
日高:
「私がしていないことまで、私の人生にしないでほしい。」
野々口は目をそらした。
日高は続ける。
日高:
「それくらいは、死んだ人間にも許されてもいいでしょう。」
長い沈黙。
野々口の手が、ゆっくりノートの上に置かれた。
しばらくして言った。
野々口:
「私が書いた日高は。」
「もう日高じゃなかったのかもしれない。」
加賀が聞く。
加賀:
「では誰です。」
野々口は少し考えた。
野々口:
「私が必要とした日高です。」
日高の表情が止まった。
野々口は続ける。
野々口:
「私が憎んでもいい日高。」
「私が壊しても、読んだ人に理解してもらえる日高。」
「私が悪くないと思える日高。」
日高は何も言わなかった。
野々口の声が小さくなる。
野々口:
「現実のあなたじゃなくて。」
その一言で、初めてノートの意味がはっきりした。
これは日高についての記録ではなかった。
野々口が自分の悪意に耐えるために作った、もう一人の日高だった。
加賀が静かに言う。
加賀:
「そして問題は。」
「その“作られた日高”を。」
野々口を見る。
加賀:
「読む人は、現実の日高さんだと思うということです。」
野々口はうなずかなかった。
否定もしなかった。
日高がノートを野々口の前へ戻した。
日高:
「私を殺したことは、もう戻せない。」
野々口は顔を上げる。
日高:
「でも。」
「一つだけまだ聞きたい。」
野々口が待つ。
日高:
「なぜ、あなたはこれでうまくいくと思ったんです。」
野々口:
「何が。」
日高:
「なぜ、読んだ人があなたを信じると思った。」
野々口の目が動く。
日高は続けた。
日高:
「文章がうまかったから?」
「事実を混ぜたから?」
「それとも。」
少し間を置く。
日高:
「人は最初から、こういう話を信じたがると思っていたからですか。」
加賀が日高を見る。
野々口は黙っている。
次に問われるのは、もう野々口だけの悪意ではなかった。
その物語を読み、
日高を嫌い、
野々口を理解し始めた側。
なぜ私たちは、あれほど簡単に野々口を信じたのか。
会話は、そこへ向かい始めていた。
Topic 4 — なぜ私たちは野々口を信じたのか

部屋の空気が少し変わった。
今までは、野々口の中にある悪意を見ていた。
しかし今度は、話を読んだ側へ視線が向こうとしていた。
日高はノートから手を離した。
日高:
「私はずっと気になっていたことがあります。」
加賀:
「何です。」
日高:
「野々口があの話を書いたとして。」
「なぜ、それで人が信じると思えたのか。」
野々口は黙っている。
日高は続けた。
日高:
「全部が嘘なら、たぶん無理だったでしょう。」
「でも少し事実を混ぜる。」
「具体的な場面を書く。」
「感情を書く。」
「すると、読む側は急に“本当らしい”と思う。」
加賀がうなずいた。
加賀:
「人は、細部がある話を信じやすいことがあります。」
野々口:
「だから何です。」
加賀:
「あなたはそれを知っていた。」
野々口:
「作家なら誰でも知ってますよ。」
加賀:
「そうでしょうね。」
「人は、抽象的な説明より。」
「誰が、いつ、どこで、何を言ったか。」
「そういう細部があるほうを現実らしいと感じる。」
野々口は少し笑った。
野々口:
「それは私のせいじゃないでしょう。」
加賀:
「あなたのせいだけではありません。」
その言葉に、日高が加賀を見る。
日高:
「だけでは?」
加賀:
「そうです。」
加賀は少し考えてから言った。
加賀:
「野々口さんが書いた。」
「でも、読む側にも理由がある。」
野々口が眉を上げる。
野々口:
「読む側の責任だと?」
加賀:
「責任という言葉はまだ早い。」
「ただ。」
「人は何を信じやすいか。」
「そこは考えたほうがいい。」
日高が野々口を見る。
日高:
「あなたは、私より自分のほうが信じてもらえると思っていたんですか。」
野々口:
「あなたは死んでいた。」
日高の表情が止まる。
野々口:
「あなたは何も言えない。」
「私は書ける。」
「説明できる。」
「自分が何を見たか、何を感じたかを。」
日高:
「だから勝てると思った。」
野々口は少し苛立った。
野々口:
「勝ち負けじゃない。」
日高:
「でも、語れる側が強い。」
野々口は否定しない。
加賀:
「語る人間が一人しかいない時、その力は特に強くなります。」
「しかも野々口さんは、自分を最初から“悪人”として書いていない。」
野々口が加賀を見る。
野々口:
「私は犯人だと認めている。」
加賀:
「そうです。」
「でも、“理解できる犯人”として書いている。」
少し間。
加賀:
「そこが違う。」
野々口の顔が硬くなる。
日高が静かに聞いた。
日高:
「人は、理解できる犯人を好きになるんですか。」
加賀:
「好きになるとは限りません。」
「でも、近く感じる。」
「理由がある人間に見える。」
「そして理由があると、行動まで少し理解できた気になる。」
野々口:
「理解することは悪いんですか。」
加賀:
「悪くありません。」
「問題は。」
加賀はノートを見る。
「理解したと思った瞬間に、事実確認をやめてしまうことです。」
日高が小さくうなずく。
日高:
「“なるほど。だから殺したのか。”」
加賀:
「そうです。」
日高:
「それだけで、人は安心する。」
加賀:
「理由があるから。」
野々口が言った。
野々口:
「人間は理由なしでは理解できない。」
加賀:
「そうかもしれません。」
「でも、理由を欲しがりすぎると。」
「誰かが作った理由でも受け取ってしまう。」
部屋が静かになった。
日高が椅子に背を預ける。
日高:
「私については。」
「野々口の話しかなかった。」
「だから読んだ人は、それを私だと思った。」
加賀:
「最初は。」
日高:
「そして、私を嫌い始める。」
野々口が口を挟む。
野々口:
「嫌われるようなところはあったでしょう。」
日高はすぐに野々口を見る。
日高:
「そこじゃない。」
野々口が黙る。
日高:
「問題は、読んだ人が私に会ったこともないのに。」
「私を知ったと思えることです。」
加賀は少し頷いた。
加賀:
「そこは重要ですね。」
「情報を持っていることと、人を知っていることは同じではない。」
「でも人はよく混同する。」
日高が言う。
日高:
「野々口については、文章がある。」
「苦しみがある。」
「失敗がある。」
「傷ついた感情がある。」
「私は?」
加賀は答える。
加賀:
「野々口さんの文章の中にいる。」
日高は苦笑した。
日高:
「ずいぶん不利ですね。」
野々口が言う。
野々口:
「死んだ人間はみんなそうでしょう。」
日高:
「そうですね。」
「だから、これは私だけの話ではない。」
その言葉に加賀が日高を見る。
日高:
「誰かがいなくなった後。」
「残った人が、その人について話す。」
「“本当はこういう人だった”」
「“私はこんなことをされた”」
「聞く側は、その人本人にはもう聞けない。」
日高は野々口を見る。
日高:
「その時、語り手を信じるしかないんですか。」
加賀が答える。
加賀:
「信じるしかない、ではない。」
「聞くことはできる。」
「共感することもできる。」
「でも、その話がその人の全部だと思わない。」
野々口が少し鼻で笑う。
野々口:
「そんな冷静な人間ばかりなら、物語なんか売れませんよ。」
加賀はその言葉を聞いて、少し笑った。
加賀:
「そうかもしれません。」
「人は物語が好きですから。」
野々口:
「善人と悪人。」
「被害者と加害者。」
「成功者と敗者。」
「そういう形にしたほうが分かりやすい。」
日高:
「あなたはそれを使った。」
野々口は日高を見る。
野々口:
「使った。」
今度は否定しなかった。
野々口:
「私は傷ついた側。」
「あなたは傷つけた側。」
「そのほうが読者には分かりやすい。」
日高:
「現実は違った。」
野々口:
「現実はいつだって分かりにくいんですよ。」
野々口は机を見る。
野々口:
「人間は矛盾している。」
「優しい人が冷たいこともする。」
「嫌な人が誰かを助けることもある。」
「そんなもの全部入れたら、誰が何なのか分からなくなる。」
加賀:
「だから削った。」
野々口:
「そうです。」
日高:
「私を分かりやすく悪人にした。」
野々口:
「そうです。」
その返事は、今までよりも静かだった。
加賀が少し身を乗り出す。
加賀:
「野々口さん。」
「あなたは、読者が分かりやすい話を欲しがると知っていた。」
野々口:
「ええ。」
加賀:
「では、読者が日高さんを嫌い始めた時。」
「どう感じたと思います。」
野々口は少し考える。
野々口:
「安心したでしょうね。」
日高の目が動く。
加賀:
「なぜ。」
野々口:
「自分だけじゃなかったから。」
その言葉に、部屋が静かになった。
野々口:
「私だけが日高を嫌っているんじゃない。」
「読んだ人も嫌う。」
「だったら。」
野々口は苦笑する。
「自分の感情も少し正しかった気がする。」
日高はゆっくり息を吐いた。
日高:
「つまり。」
「あなたは読者を証人にしたかった。」
野々口は顔を上げる。
日高:
「“ほら、私だけじゃないでしょう”って。」
野々口は何も言わない。
日高:
「“皆も日高を嫌っている”」
「“だから、私がおかしいわけじゃない”」
野々口:
「……そうかもしれない。」
加賀が言う。
加賀:
「これは、人間にはよくあることです。」
野々口が見る。
加賀:
「自分一人の嫌悪には不安がある。」
「でも同じ嫌悪を持つ人が増えると。」
「嫌悪が判断に変わる。」
「判断が事実のように見える。」
日高が少し考える。
日高:
「“みんなが言っているから、本当に悪い人なんだ”」
加賀:
「そうです。」
日高:
「でも最初の“みんな”は、野々口の話を読んだだけ。」
加賀:
「そこが循環する。」
「一人が物語を作る。」
「百人が信じる。」
「百人が信じていることが、新しい証拠のように見える。」
野々口が低い声で言う。
野々口:
「世間なんてそんなものでしょう。」
加賀:
「そういう面はあります。」
「だから、怖いんです。」
日高は何か考えている。
やがて言った。
日高:
「もしこの事件が今の時代だったら。」
「もっと早かったでしょうね。」
加賀が見る。
日高:
「一つの記事。」
「一つの投稿。」
「“実は日高邦彦はこういう人間だった”」
「それを誰かが共有する。」
「また別の人が、“前から嫌いだった”と言う。」
「会ったこともない人が、“やっぱりそうだったのか”と言う。」
野々口が少し笑う。
野々口:
「私が何もしなくても完成しそうですね。」
加賀:
「だからこそ。」
「今ならもっと重要でしょう。」
「誰かの話を知った瞬間に、その人を知ったと思わないことが。」
野々口が聞く。
野々口:
「じゃあ、何も信じるなと?」
加賀:
「違います。」
「一人の証言を聞く。」
「その痛みも大切にする。」
「でも。」
「その人の痛みが、相手についてのすべての事実を証明するわけではない。」
日高がうなずく。
日高:
「傷ついた人が嘘をつくこともある。」
加賀:
「あります。」
野々口:
「随分冷たいですね。」
加賀の表情は変わらない。
加賀:
「逆です。」
「傷ついた人を信じたいという気持ちと、事実を確認することは両立できます。」
「どちらか一つではない。」
野々口が黙る。
加賀は続けた。
加賀:
「人は時々、共感することを“全面的に信じること”だと思ってしまう。」
「でも違う。」
「苦しんでいることを信じてもいい。」
「その苦しみについて語るすべての解釈まで事実だと決める必要はない。」
日高が静かに言った。
日高:
「もし読者が最初からそう読んでいたら。」
「野々口の話は、もっと早く疑われたかもしれない。」
野々口:
「でも疑わなかった。」
日高が見る。
野々口:
「読者は私を信じた。」
その声には、少しだけ勝ち誇る響きがあった。
加賀はそこを逃さなかった。
加賀:
「嬉しかったですか。」
野々口の表情が止まる。
野々口:
「何が。」
加賀:
「読者が日高さんを嫌ってくれたことが。」
野々口は黙る。
加賀:
「自分が嫌っていた人を、他人も嫌う。」
「自分が悪いと思っていた人を、他人も悪いと言う。」
「その時。」
「少し救われませんでしたか。」
野々口は机を見た。
長い沈黙。
野々口:
「救われたという言葉は嫌ですね。」
加賀:
「では、安心した。」
野々口の口元が動く。
野々口:
「……そうですね。」
日高が目を閉じる。
野々口は続けた。
野々口:
「自分だけがおかしいわけじゃない。」
「日高を嫌う理由はあった。」
「他の人にも分かる。」
「そう思えた。」
日高が目を開けた。
日高:
「私を嫌う人間を増やすことで。」
「あなたは自分の悪意を薄めた。」
野々口は返さなかった。
日高:
「一人の憎しみなら、あなた自身の問題だった。」
「でも千人が私を嫌えば。」
「それは私の問題に見える。」
野々口の顔がわずかに歪む。
加賀が低く言った。
加賀:
「そこまでいくと、悪意は個人の感情ではなくなります。」
「共有された評価になる。」
日高が聞く。
日高:
「そして評価は、事実に見える。」
加賀:
「はい。」
しばらく三人とも黙った。
やがて日高がぽつりと言う。
日高:
「でも。」
「読者を責めるのも簡単ですね。」
加賀が見る。
日高:
「騙された。」
「信じた。」
「だから愚かだった。」
「それだけで終わったら、野々口と同じことをする。」
野々口が少し驚いて日高を見る。
日高:
「人を一つの役割にする。」
「“騙された読者”という役割に。」
加賀は静かにうなずいた。
加賀:
「そうですね。」
日高:
「読者が信じた理由にも、人間らしいところがある。」
「苦しんでいる人を理解したい。」
「弱い側に立ちたい。」
「成功している人間より、傷ついている人間へ気持ちが動く。」
加賀:
「それ自体は悪くない。」
日高:
「むしろ大切です。」
日高は野々口を見る。
日高:
「だからこそ、あなたはそこを使えた。」
野々口は何も言わない。
日高:
「優しさも利用できるんですね。」
その一言に、加賀が少し目を細めた。
加賀:
「できます。」
「“この人を信じてあげたい”という感情も。」
「“被害者を疑うのは残酷だ”という感情も。」
「どちらも、本当の痛みを守るためには必要なことがある。」
「でも、それを利用する人間もいる。」
野々口が言う。
野々口:
「だったら、どうすればいいんです。」
「疑えば冷たい。」
「信じれば騙される。」
「結局、何が正しいんです。」
加賀はすぐに答えなかった。
少しして言う。
加賀:
「たぶん。」
「人を信じることと。」
「その人が語る物語を全部信じることを。」
「分けることです。」
野々口は黙って聞いている。
加賀:
「痛みは受け取る。」
「でも判断は急がない。」
「相手を人間として見る。」
「反対側の人間も、人間として残しておく。」
日高が静かに言った。
日高:
「私を悪人にしなくても、野々口の苦しみは本物だったかもしれない。」
加賀:
「そうです。」
日高:
「野々口が苦しんでいたからといって、私が悪人だったとは限らない。」
加賀:
「そうです。」
野々口が低い声で聞く。
野々口:
「じゃあ、私の苦しみは何だったんです。」
加賀は野々口を見る。
加賀:
「それをこれから考えないといけない。」
野々口の表情が変わる。
加賀:
「日高さんを悪人にする説明を全部外した後でも。」
「あなたの中に残っているもの。」
「そこを見ないと。」
日高がノートを閉じる。
日高:
「つまり。」
「読者の判断を全部取り除いて。」
「私について作った話も取り除いて。」
「最後に残るのは。」
日高は野々口を見る。
日高:
「あなたの悪意だけですか。」
野々口は答えなかった。
加賀も急かさない。
やがて野々口が、少し疲れた声で言った。
野々口:
「でも人間は、悪意にも理由を求めるでしょう。」
加賀:
「求めます。」
野々口:
「私だけじゃない。」
加賀:
「そうです。」
野々口:
「理由がなければ。」
「ただ、人を憎んだことになる。」
日高が静かに聞いた。
日高:
「それでは困りますか。」
野々口は日高を見た。
今までとは違う目だった。
怒りより、恐れに近かった。
野々口:
「困るでしょう。」
「もし本当に。」
野々口は言葉を切った。
野々口:
「何の理由もなく人を憎めるなら。」
「それは。」
加賀が待つ。
野々口は小さな声で言った。
野々口:
「自分にも、何があるか分からないということでしょう。」
部屋が静かになった。
日高ももう何も言わなかった。
そこに残ったのは、もっと不快な問いだった。
野々口だけが特別な人間だったのか。
それとも人間には、自分で説明できる理由より先に、
嫉妬や嫌悪や敵意が生まれることがあるのか。
そして私たちは、それを認めるのが怖いから、
後からもっと立派な理由を作っているのではないか。
加賀が静かに口を開いた。
加賀:
「野々口さん。」
「次は、そこを考えましょう。」
野々口が顔を上げる。
加賀:
「日高さんが悪かったという話を全部取り除いた時。」
少し間を置く。
加賀:
「あなたの悪意には、本当に説明できる原因が残るのか。」
野々口は答えなかった。
今度の沈黙には、
これまでで一番深い恐怖があった。
Topic 5 — 悪意には、本当に理由が必要なのか

部屋の中に、これまでとは違う沈黙があった。
日高が悪かったという説明を外す。
成功への嫉妬も、劣等感も、傷つけられたという記憶も、一つずつ外していく。
その先に何が残るのか。
野々口は、机の上のノートを見たまま動かなかった。
加賀が先に口を開いた。
加賀:
「野々口さん。」
「もし、日高さんがあなたに何もしていなかったとしたら。」
野々口は顔を上げる。
加賀:
「それでも、あなたは彼を憎んでいたと思いますか。」
野々口はすぐには答えなかった。
野々口:
「“何もしていなかった”なんて、現実にはあり得ないでしょう。」
加賀:
「仮定の話です。」
野々口:
「人間同士が関われば、何かは起きる。」
加賀:
「そうですね。」
加賀はうなずく。
「だから、もう少し狭く聞きます。」
「あなたが日高さんについて書いた“被害”が全部なかったとして。」
「作品を奪われてもいない。」
「意図的に見下されてもいない。」
「人生を壊されてもいない。」
「それでも。」
加賀は野々口を見る。
加賀:
「嫌いだったと思いますか。」
長い沈黙。
日高は何も言わなかった。
野々口がやがて答える。
野々口:
「……嫌いだったでしょうね。」
日高の目が動いた。
加賀は静かに聞く。
加賀:
「なぜ。」
野々口が苦笑した。
野々口:
「だから、それをずっと話してきたでしょう。」
「成功していたから。」
「私がなれなかったものになったから。」
加賀:
「それは説明の一つです。」
「でも、さっきあなた自身が言いました。」
「日高さんが成功すると、自分の中の声が“お前は駄目だ”と言った。」
「日高さんの声ではなかった。」
野々口は黙る。
加賀:
「では、本当に憎んでいたのは誰だったんでしょう。」
野々口の表情が変わる。
野々口:
「どういう意味です。」
加賀:
「日高さんですか。」
「それとも。」
少し間。
加賀:
「日高さんを見た時に見えてしまう、自分自身ですか。」
野々口は椅子の背にもたれた。
野々口:
「心理学みたいな話ですね。」
加賀:
「心理学の話をしたいわけではありません。」
「ただ、あなたの憎しみの向きを考えている。」
日高が初めて口を開いた。
日高:
「もしそうなら。」
野々口が見る。
日高:
「私は鏡だったんですか。」
野々口:
「そんな綺麗な言葉にしないでください。」
日高:
「綺麗ではないですよ。」
日高の声は穏やかだった。
「私を見るたび、自分が嫌になった。」
「でも自分を壊すことはできない。」
「だから鏡を壊した。」
野々口が鋭く日高を見る。
野々口:
「分かったようなことを言うな。」
日高:
「分かってません。」
「私は今でも分からない。」
日高は少し間を置いた。
「なぜ、そこまでだったのか。」
野々口は目をそらした。
日高:
「私にも嫌いな人はいました。」
「羨ましい人も。」
「会うと惨めになる人も。」
「でも、殺したいとは思わなかった。」
野々口の顔がこわばる。
日高:
「だから聞いてる。」
「私とあなたの間に何があったかではなく。」
「あなたの中で、何がそこまで大きくなったんです。」
野々口は答えない。
加賀が続ける。
加賀:
「ここで私たちはよく、原因を探します。」
「幼い頃の経験。」
「性格。」
「失敗。」
「孤独。」
「劣等感。」
野々口が言う。
野々口:
「どれも関係あるでしょう。」
加賀:
「あると思います。」
「でも、それで全部説明できますか。」
野々口は黙る。
加賀:
「同じ劣等感を持っても、人を殺さない人はいる。」
「同じように失敗しても、友人を憎まない人もいる。」
「逆に、大きな被害を受けても復讐しない人もいる。」
野々口:
「じゃあ何が言いたいんです。」
加賀:
「人間の悪意は、原因を一つ見つければ終わるほど簡単ではないということです。」
野々口は少し苛立った。
野々口:
「それでは何も説明していない。」
加賀:
「そうです。」
加賀は静かに答えた。
「説明できない部分が残る。」
野々口が加賀を見た。
その顔には、怒りより不安があった。
野々口:
「刑事がそんなこと言っていいんですか。」
加賀:
「犯行の事実や経緯は説明できます。」
「でも、人間の心を最後の一滴まで説明できるとは思っていません。」
日高が言う。
日高:
「でも人は、説明してほしい。」
加賀:
「ええ。」
日高:
「なぜ殺した。」
「なぜ裏切った。」
「なぜ憎んだ。」
「何か一つ答えがあれば安心する。」
加賀:
「その通りです。」
野々口が聞く。
野々口:
「なぜ安心するんです。」
加賀は少し考えた。
加賀:
「距離を作れるからでしょう。」
野々口:
「距離?」
加賀:
「例えば、“特殊な家庭で育ったから”と説明できれば。」
「自分とは違う。」
「“特殊な性格だったから”なら。」
「自分とは違う。」
「“ひどいことをされたから復讐した”なら。」
「自分にはそんなことは起きていない。」
加賀は二人を見る。
加賀:
「理由があると、悪意を“あの人のもの”にできる。」
日高が低い声で言った。
日高:
「でも理由がないと。」
加賀がうなずく。
加賀:
「自分にもあるかもしれない。」
野々口の目が止まる。
長い沈黙。
野々口:
「誰にでも、人を殺したい気持ちがあると言うんですか。」
加賀:
「そんなことは言いません。」
「殺人と嫌悪を同じにするつもりもない。」
「でも。」
加賀はゆっくり言う。
加賀:
「誰かが失敗した時、少し嬉しい。」
「自分より幸せそうな人を、理由もなく嫌う。」
「相手について悪い噂を聞くと、どこか安心する。」
「そういう小さな悪意まで完全に無縁な人間が、どれだけいるでしょう。」
野々口は何も言わない。
日高が静かに聞いた。
日高:
「じゃあ、悪意は普通なんですか。」
加賀:
「感情として芽が出ることは、珍しくないと思います。」
日高:
「それなら恐ろしいですね。」
加賀:
「はい。」
「でも、そこが重要なんです。」
野々口が顔を上げる。
加賀:
「感情が生まれることと。」
「その感情を事実に変えることは別です。」
野々口の表情が固くなる。
加賀はノートを見る。
加賀:
「“日高が嫌いだ。”」
「それだけなら、あなたの内側の問題だった。」
「でもあなたは。」
「“日高は嫌われるべき人間だ。”」
「に変えた。」
日高が続ける。
日高:
「そして。」
「“日高は私を苦しめた。”」
加賀:
「さらに。」
加賀:
「“だから自分には理由がある。”」
野々口は机を見つめていた。
加賀:
「そこから責任が始まる。」
野々口が低い声で言う。
野々口:
「自分の中に悪意があること自体は、罪じゃないと。」
加賀:
「そう思います。」
野々口:
「ずいぶん優しいですね。」
加賀:
「優しさではありません。」
「もし感情そのものを罪にしたら。」
「人は自分の悪意をもっと隠すでしょう。」
野々口が見る。
加賀:
「“私はそんなこと思っていない。”」
「“相手が悪いからこう感じるだけだ。”」
「そうやって、また理由を作る。」
日高は少し目を伏せた。
日高:
「自分の悪意を認めたほうが。」
「むしろ人を傷つけにくい?」
加賀:
「場合によっては。」
加賀は野々口を見る。
加賀:
「“私はこの人が嫌いだ。でも、この人が悪いという証拠ではない。”」
「そこまで分けられれば。」
「少なくとも、自分の感情を相手の罪に変えずに済む。」
野々口が小さく笑った。
野々口:
「理想論ですよ。」
加賀:
「そうかもしれない。」
野々口:
「人間はそんなに冷静じゃない。」
加賀:
「だから失敗する。」
「だから確認する。」
「だから他人の視点を入れる。」
「だから事実と感情を分けようとする。」
野々口は黙った。
日高が野々口を見る。
日高:
「あなたには、それをする機会があったんですか。」
野々口が眉を寄せる。
日高:
「誰かに言う。」
「“俺は日高が嫌いで仕方ない。”」
「“理由は分からない。”」
「そう言える相手。」
野々口の表情が少し変わった。
野々口:
「いませんでしたね。」
日高:
「誰にも?」
野々口:
「そんなこと言ったら。」
「軽蔑されるでしょう。」
日高:
「だから一人で育てた。」
野々口が日高を見る。
日高:
「悪意を。」
野々口は否定しなかった。
野々口:
「たぶん。」
「自分の中だけなら、何でも正しくできますから。」
加賀が静かに聞く。
加賀:
「どういう意味です。」
野々口:
「頭の中で日高を嫌う。」
「すると、嫌う理由が見つかる。」
「その理由を考えていると、もっと嫌いになる。」
「もっと嫌いになると、前にあったことまで違って見える。」
「また理由が増える。」
野々口は苦笑した。
野々口:
「便利なんですよ。」
「一人の頭の中って。」
日高の顔が少し曇った。
野々口:
「反論する人がいない。」
「“それは考えすぎじゃないか”と言う人もいない。」
「“日高にも事情があったんじゃないか”と言う人もいない。」
「全部、自分の説明で終わる。」
加賀が低く言う。
加賀:
「そして説明が、確信に変わる。」
野々口:
「そうです。」
日高:
「確信が、事実に変わる。」
野々口は日高を見る。
野々口:
「自分の中では。」
日高は長く野々口を見ていた。
やがて、静かに言う。
日高:
「それなら。」
「私はあなたに何もしていなかった、とは言いません。」
「きっと傷つけたこともあった。」
「嫌な態度もあった。」
「私にも責任のあることはあるでしょう。」
野々口の顔にわずかな警戒が浮かぶ。
日高:
「でも。」
日高は言葉を選んだ。
日高:
「あなたが私を憎んだすべての理由を、私が背負う必要はない。」
野々口の目が動いた。
日高は続ける。
日高:
「あなたの中で生まれたものまで。」
「私のせいにはできない。」
野々口が少し強い声で言う。
野々口:
「じゃあ全部私のせいですか。」
日高:
「全部なんて言ってない。」
日高は首を振る。
「それが、あなたのやったことと同じだから。」
野々口が黙る。
日高:
「善人か悪人か。」
「被害者か加害者か。」
「全部一人に乗せる。」
「私はもう、それをしたくない。」
加賀が日高を見る。
日高の声は穏やかだった。
日高:
「私に悪かったところがあったなら、それは私のものです。」
「あなたに嫉妬があったなら、それはあなたのものです。」
「私があなたを傷つけたことと。」
「あなたが私を殺したことは。」
「同じ物語に入っていても、同じ責任ではない。」
野々口は何も言わない。
加賀が小さくうなずいた。
加賀:
「そこを混ぜると、人は責任を移せます。」
「“あの人がこうしたから、自分はこうなった。”」
「もちろん影響はある。」
「でも。」
加賀:
「影響を受けたことと、選択の責任まで相手へ渡すことは違う。」
野々口は苦笑する。
野々口:
「最後は私の選択だったと。」
加賀:
「はい。」
短い返事だった。
野々口は少し傷ついたような顔をした。
野々口:
「簡単ですね。」
加賀:
「簡単じゃない。」
「あなたの感情を否定していません。」
「苦しみも。」
「嫉妬も。」
「孤独も。」
「そこまで否定したら、また人間を単純にする。」
加賀は野々口を見る。
加賀:
「でも、理解することと責任を消すことは違う。」
野々口はしばらく黙っていた。
やがて言った。
野々口:
「もし。」
「もし私がもっと早く。」
「“私は日高が嫌いだ。でも日高が悪いとは限らない”って思えていたら。」
日高が見る。
野々口:
「何か変わったと思いますか。」
加賀は答えなかった。
日高もすぐには答えない。
やがて日高が言った。
日高:
「分かりません。」
野々口の顔に、少し落胆が浮かぶ。
日高:
「でも。」
「少なくとも。」
「私を殺す前に、あなた自身を疑う瞬間は増えたかもしれない。」
野々口は黙った。
日高:
「それだけでも。」
「今ここで話していることは、違っていたかもしれない。」
長い沈黙。
野々口がノートを開いた。
今までのように、証拠としてではない。
自分自身の文章を読むように。
数ページめくる。
そこには、日高の悪さが書かれている。
理由が並んでいる。
自分が被害を受けたことが書かれている。
野々口はそのページを見ながら、ぽつりと言った。
野々口:
「ずっと。」
「この話が真実なら。」
「私は理解できる人間だと思っていました。」
加賀が聞く。
加賀:
「誰に。」
野々口:
「自分に。」
日高が静かに野々口を見る。
野々口:
「日高が悪かった。」
「私は傷ついた。」
「私は追い詰められた。」
「だから起きた。」
野々口はノートを閉じた。
野々口:
「そうすれば。」
「自分がどんな人間か、分かる気がした。」
加賀:
「今は?」
野々口は長く黙った。
そして言った。
野々口:
「分かりません。」
日高も加賀も何も言わない。
野々口は少し笑った。
「それが一番怖いですね。」
加賀:
「何が。」
野々口:
「自分を全部説明できないことです。」
加賀が静かに答えた。
加賀:
「それは、野々口さんだけではないと思います。」
野々口が見る。
加賀:
「自分のことを完全に説明できる人なんて、たぶんいません。」
野々口:
「じゃあ、どうやって自分を信用するんです。」
加賀は少し考えた。
加賀:
「完全には信用しないことかもしれません。」
野々口の表情が変わる。
加賀:
「自分が見ているもの。」
「自分が感じていること。」
「自分が相手について作っている説明。」
「それを全部、一度は疑う。」
日高が言う。
日高:
「自分を疑うことが、自分を否定することではない。」
加賀:
「そうです。」
「むしろ、自分の悪意を他人の罪に変えないために必要なことがあります。」
野々口はノートへ手を置いた。
野々口:
「でも人は、自分の中に悪意があると認めたくない。」
加賀:
「はい。」
野々口:
「私も。」
加賀:
「はい。」
野々口は日高を見る。
その視線には、これまでのような敵意はほとんど残っていなかった。
代わりに、疲労と恐怖があった。
野々口:
「日高。」
日高:
「何です。」
野々口:
「もし。」
野々口は一度言葉を止めた。
「もし本当に。」
「あなたが私に何もしていなかったとしたら。」
日高は黙って待つ。
野々口:
「私は、何なんでしょうね。」
日高はすぐには答えなかった。
野々口は苦笑した。
野々口:
「嫉妬した人間。」
「劣等感の強い人間。」
「人殺し。」
「嘘つき。」
「どれも間違ってない。」
「でも。」
野々口の声が小さくなる。
野々口:
「それだけでもない気がする。」
日高は静かに答えた。
日高:
「たぶん、そうなんでしょう。」
野々口が顔を上げる。
日高は続ける。
日高:
「私も同じです。」
「あなたの中では悪人だった。」
「他の誰かの中では友人だった。」
「妻の中では夫だった。」
「読者の中では作家だった。」
「どれも私の一部です。」
日高は少し間を置く。
日高:
「一つの言葉で、人間全部を説明することなんてできない。」
野々口は黙っていた。
日高:
「だから。」
「あなたも、自分を一つの理由で説明しなくてもいいんじゃないですか。」
野々口が驚いたように日高を見る。
野々口:
「私を慰めているんですか。」
日高:
「違います。」
日高の声ははっきりしていた。
日高:
「責任を取ってください。」
野々口の表情が止まる。
日高:
「説明できない部分があっても。」
「あなたがしたことは消えない。」
「私を殺したことも。」
「私について嘘を書いたことも。」
「それは残る。」
日高は野々口から目を離さない。
日高:
「でも。」
「自分を完全な怪物にすることも。」
「全部私のせいにすることも。」
「どちらも逃げでしょう。」
野々口は何も言えなかった。
加賀が静かに続けた。
加賀:
「理解する。」
「責任は残す。」
「説明できない部分も残す。」
「たぶん、それくらいしかできないんでしょう。」
野々口は長い間ノートを見ていた。
そして、ゆっくり閉じた。
今度は、自分を守るためではないように見えた。
日高が最後に聞いた。
日高:
「野々口。」
野々口が顔を上げる。
日高:
「もし私が本当に、あなたが書いたような人間ではなかったとしたら。」
長い沈黙。
日高:
「あなたは、自分をどう説明するんですか。」
野々口は答えようとした。
口を開く。
閉じる。
もう一度開く。
それでも、言葉は出なかった。
しばらくして。
野々口:
「説明できません。」
それだけだった。
日高は目を閉じた。
加賀も何も言わなかった。
野々口は続ける。
野々口:
「ただ。」
「私はあなたを憎んだ。」
「その一部は嫉妬だった。」
「一部は劣等感だった。」
「一部は本当にあなたに傷ついたことだったかもしれない。」
「でも。」
野々口は日高を見る。
野々口:
「全部をあなたのせいにした。」
日高は静かに聞いている。
野々口:
「そして、自分がなぜそんな人間だったのか分からない部分まで。」
「あなたの罪にした。」
野々口はノートに触れた。
野々口:
「これを書いたのは。」
「あなたについて説明するためじゃなかった。」
「自分について説明するためだったんですね。」
加賀はうなずかなかった。
ただ聞いていた。
野々口の声は小さくなった。
野々口:
「でも、その説明のために。」
「あなたの人生を使った。」
日高が静かに答えた。
日高:
「そうですね。」
責めるような声ではなかった。
そのほうが野々口には重かった。
しばらくして、加賀が机の上のノートを手に取った。
表紙を閉じる。
加賀:
「事実が人を傷つけることはあります。」
二人が加賀を見る。
加賀:
「本当のことを知って、関係が壊れることもある。」
「真実を知ったことで、誰かを嫌いになることもある。」
加賀は閉じたノートを見た。
加賀:
「でも、作られた物語には別の怖さがあります。」
「語った人がいなくなっても。」
「語られた人が死んでも。」
「それだけが残ることがある。」
日高が野々口を見る。
野々口はもう目をそらさなかった。
加賀:
「だから、誰かを嫌う時。」
「誰かについての話を聞いた時。」
「少なくとも一つだけ、聞いてみてもいい。」
野々口が静かに待つ。
加賀は言った。
加賀:
「これは事実なのか。」
「それとも。」
少し間。
加賀:
「自分がその人を嫌うために必要としている物語なのか。」
部屋の中に、最後の沈黙が落ちた。
誰も完全に救われてはいなかった。
日高の命は戻らない。
野々口の罪も消えない。
加賀が真相を明らかにしても、人間の悪意そのものがなくなるわけではない。
それでも一つだけ、以前とは違っていた。
野々口はもう、
自分の憎しみを日高の罪として語ることができなかった。
自分の中に生まれたものとして、
少なくとも一度は見なければならなくなった。
そしてそれは、読者にも残る問いだった。
誰かについて悪い話を聞いた時。
誰かの成功を見て、なぜか腹が立った時。
「あの人はきっと裏ではこうだ」
と思いたくなった時。
その人について、
自分は本当は何を知っているのか。
そして、
その人について語っている物語は、
本当にその人の物語なのか。
それとも、
自分自身を守るために作った物語なのか。
最後に

野々口の憎しみには、嫉妬もありました。
劣等感もあった。
日高に実際に傷つけられたと感じた瞬間もあったでしょう。
しかし、それらだけでは彼自身が納得できなかった。
「私は友人の成功に耐えられなかった。」
それだけでは、自分をあまりにも惨めに感じてしまう。
そこで、
「日高は悪い人間だった。」
「私は被害者だった。」
という物語が必要になった。
ここに『悪意』の核心があります。
人間は、自分の中の醜い感情に耐えられない時、感情そのものを疑う代わりに、相手の人格を作り替えてしまうことがある。
そして一度その物語が他人にも信じられると、
「自分だけがおかしかったわけではない」
と安心できる。
だから悪意は、一人の中だけで終わらない。
語られ、共有され、いつの間にか「事実」のようになっていく。
この対話で加賀がたどり着いた答えは、悪意を完全に説明することではありませんでした。
むしろ、
人間には、自分でも説明しきれない感情が残ることを認めること。
その上で、
「私はこの人が嫌いだ。」
と、
「この人は悪い人間だ。」
を分けること。
理解する。
責任は残す。
感情は認める。
しかし、自分の感情を他人の罪に変えない。
それが、この作品から私たちが持ち帰れる大きな問いなのかもしれません。
誰かについて悪い話を聞いた時。
誰かの成功を見て、なぜか苛立った時。
「あの人はきっと本当はこういう人だ」
と思った時。
一度だけ自分に聞いてみる。
私はその人について、本当は何を知っているのだろう。
そしてもう一つ。
これはその人の物語なのか。それとも、自分がその人を嫌うために必要としている物語なのか。
Short Bios:
野々口修
日高邦彦の旧友であり作家。日高殺害を認めた後、自分が被害者だったという物語を残そうとする。嫉妬、劣等感、自己正当化、そして語ることの力を体現する人物。
日高邦彦
人気作家であり、事件の被害者。死後、自分では反論できない立場に置かれ、野々口によって人格まで書き換えられようとする。この対話では、「死者の人生を誰が語る権利を持つのか」という問いの中心になる。
加賀恭一郎
事件を担当する刑事。犯人が判明した後も捜査を続け、野々口が作った動機の物語を疑う。事実と解釈、共感と責任を切り分けながら、事件のさらに奥にある「悪意」を追う。

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