
はじめに
台湾を歩いていると、不思議な感覚に包まれることがあります。
木造の家、温泉街、商店街、夜市、人と人との近い距離──。
日本人にとっては、どこか昭和の記憶を思い出させる風景です。
しかし、その懐かしさは本当に「昔の日本」なのでしょうか。
この旅は、その答えを探すために始まりました。
迪化街では、人の顔が見える商売に出会い、雙連朝市では家族の台所を知りました。北投では、日本統治時代に建てられた建物が、台湾の家族の記憶へと変わっていたことを学びます。九份では、美しい提灯の奥に、鉱山で働いた人々の人生がありました。そして淡水では、一つの国だけでは語れない、多くの文化と歴史が重なった台湾の姿に出会います。
旅を続けるうちに、「台湾に昔の日本が残っている」という最初の印象は少しずつ変わっていきます。
そこに残っていたのは、日本の過去ではありませんでした。
台湾の人々が百年以上にわたり受け継ぎ、使い、変え、守り続けてきた「台湾自身の歴史」だったのです。
この五日間の旅は、台湾を知る旅であると同時に、日本という国をもう一度見つめ直す旅でもあります。
それでは、台湾の町角へ、一緒に歩いてみましょう。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Day 1: 日本が失った商店街を探す一日

Today's Question
「日本人が懐かしいと感じるのは、古い町並みなのか。それとも、その町に流れる時間なのか。」
Scene 1
ホテルを出る朝
朝八時二十分。
ホテルの自動ドアが静かに開くと、冷房の効いたロビーから一歩外へ出た瞬間、台北の夏の空気が全身を包み込んだ。
日本の夏よりも少し重たい湿気。
遠くで聞こえるスクーターのエンジン音。
信号が変わる電子音。
朝食を終えた人たちが、コーヒーを片手に足早に駅へ向かっていく。
空は薄い青。
ところどころに白い雲が浮かび、強い日差しはまだ高層ビルの向こう側に隠れている。
ホテル前には二台の黄色いタクシーが停まっていた。
運転手が窓を開ける。
「おはようございます。」
片倉佳史が笑顔で振り返る。
「皆さん、おはようございます。今日は台北の中でも、私が何度歩いても飽きない町をご案内します。」
綾瀬はるかは空を見上げた。
「朝なのに、空気がもう夏休みですね。」
内村光良が笑う。
「その表現、いいですね。東京だったら"暑い"で終わります。」
許光漢が頷いた。
「台湾では、この湿気まで含めて『台北らしい朝』なんです。」
林依晨はホテルの向かいを指差した。
制服姿の高校生が、自転車で通り過ぎる。
その横では、屋台から湯気が立ち上り、サンドイッチを買う会社員が並んでいる。
「毎日見ている景色ですが、皆さんと一緒に見ると少し違って見えます。」
片倉が腕時計を見た。
「それでは、行きましょう。」
全員がタクシーへ乗り込む。
車が静かに走り始めると、街並みがゆっくり流れていく。
ガラス張りのビル。
コンビニ。
朝食店。
スクーター専用レーン。
赤信号で停まるたび、窓の外から豆乳や焼きたての葱餅の香りが風に乗って入ってくる。
綾瀬が窓を少しだけ開けた。
「いい匂い……。」
内村も鼻を動かす。
「朝からお腹が空いてきました。」
「まだ朝ご飯を食べたばかりでしょう。」
林依晨が笑う。
「旅行中は別腹なんです。」
内村は即座に答えた。
車内に笑いが広がる。
しばらくして、高層ビルが少しずつ減り始めた。
代わりに、低い建物が並び始める。
古い看板。
バルコニー。
赤煉瓦の壁。
片倉が窓の外を指差した。
「もうすぐです。」
全員が自然と外へ目を向ける。
「これから向かうのは、大稲埕の中心にある迪化街です。」
タクシーはゆっくり速度を落とした。
「ここは十九世紀から台湾有数の商業地区として発展し、お茶、乾物、漢方薬、布などを扱う商人たちが集まった町です。」
外では、一軒、また一軒とシャッターが開き始めている。
ガラガラガラ……
その音が、静かな朝の通りに心地よく響く。
「今は人気の観光地でもありますが、それだけではありません。」
片倉は少し声を落とした。
「ここは、今でも現役の商店街です。何世代にもわたって商売を続けている店があり、地元の人たちが普段どおり仕入れに来ます。」
タクシーが停まる。
ドアが開く。
一歩外へ出た瞬間。
乾燥椎茸。
漢方薬。
焙煎した茶葉。
乾いた木箱。
朝の湿った石畳。
さまざまな香りが、ゆっくりと五人を迎えた。
綾瀬は思わず深く息を吸う。
「……なんでしょう。」
「初めて来たはずなのに。」
少し間を置いて続けた。
「どこか懐かしいです。」
片倉は微笑みながら言った。
「その『懐かしい』が、今日一日を通して探したい答えです。」
五人はゆっくりと迪化街の石畳へ足を踏み出した
Scene 2
乾物街を歩く
迪化街の奥へ進むにつれて、通りの匂いは少しずつ濃くなっていった。
乾燥椎茸の土っぽい香り。ナツメやクコの実のほのかな甘さ。薬草の苦みを含んだ匂い。店先に積まれた麻袋からは、乾いた穀物の香りが漂っている。
道幅はそれほど広くない。荷物を積んだ台車が通り、スクーターがその隙間を縫うように走っていく。頭上には色あせた看板が何枚も突き出し、古い建物の壁には、雨と強い日差しによって刻まれた時間が残っていた。
片倉佳史が、両側に並ぶ店を見渡した。
片倉佳史:
「迪化街の面白いところは、観光客向けに昔の雰囲気を再現した通りではないことです。今でも、料理店や薬局の人たちが実際に仕入れに来ます。特に旧正月の前になると、買い物客で歩けないほど混雑します」
内村光良:
「つまり、普段は商店街で、正月前になると巨大なアメ横みたいになるんですね」
林依晨:
「そうですね。台湾の人にとっては、お正月の準備をする場所という印象も強いです」
綾瀬はるかは、透明な袋いっぱいに詰められた赤い実を見つめていた。
綾瀬はるか:
「これはナツメですか?」
店主が笑顔で近づき、袋の中から一粒取り出して手渡した。
店主:
「食べてみて。自然の甘さです」
綾瀬は両手で受け取り、表面を指先で触った。少ししわがあり、乾いているが、硬すぎない。
一口かじると、最初は控えめだった甘さが、噛むほどにゆっくりと広がった。
綾瀬はるか:
「お菓子ほど甘くないけれど、ずっと食べていたくなる味ですね」
内村光良:
「こういうのは危ないんですよ。健康に良さそうだから、罪悪感なく食べ続けてしまう」
許光漢:
「台湾では、スープやお茶にも入れます。家に普通に置いてあることも多いですね」
綾瀬はるか:
「日本でいう梅干しや海苔みたいな感じでしょうか」
林依晨:
「少し似ています。家庭ごとに、使い方も違います」
店主は奥から古い木製の秤を出してきた。棒の片側には金属の皿があり、反対側には小さな重りが付いている。
片倉佳史:
「昔は、こうした秤で量り売りをしていました。今ではデジタルの秤も使いますが、古くからのお客さんのために残している店もあります」
内村が秤を持ち上げる。
内村光良:
「思ったより難しいですね。これ、水平になったところが正解なんですよね」
店主が手を添えて調整すると、棒が静かに止まった。
店主:
「機械は数字だけ。でも昔の秤は、手の感覚も大事」
許光漢がその言葉を繰り返した。
許光漢:
「手の感覚も大事……。商売そのものが、今より身体に近かったんですね」
片倉佳史:
「そうかもしれません。量る、包む、渡す。その一つ一つに人の手が入っていた」
内村光良:
「時間はかかるけれど、その分、顔を見る時間も増える」
店主は紙袋にナツメを少し入れ、綾瀬に手渡した。
店主:
「これは、おまけ」
綾瀬はるか:
「ありがとうございます」
内村光良:
「ほら、もう常連客のようになっています」
笑いながら店を出ると、隣の店から漢方薬の強い香りが流れてきた。
店内には、天井近くまで小さな引き出しが並んでいる。引き出しには一つずつ漢字が書かれ、店主が開けるたびに、木の擦れる乾いた音がした。
片倉が一行を中へ招いた。
片倉佳史:
「ここでは薬を売るだけではなく、昔は町の人の暮らしそのものを知っていました。誰が眠れていないのか、誰が働きすぎているのか、どの家に高齢者がいるのか。店主は、家族の体調まで覚えていたんです」
林依晨:
「病気を聞く前に、生活を知っていたんですね」
内村光良:
「日本の昔の薬局もそうだったかもしれませんね。薬を買いに行くと、『最近お母さんどう?』と聞かれたりして」
綾瀬はるか:
「今は便利になったけれど、自分の顔を覚えている店は少なくなりました」
店主が小さな湯飲みに薬草茶を注いだ。濃い褐色の液体から、木の根と焦がした砂糖を合わせたような香りが立ち上る。
全員が少しずつ口に含んだ。
内村光良:
「苦いですね」
綾瀬はるか:
「でも、後から少し甘くなります」
許光漢:
「昔の生活みたいですね。最初は苦くて、後から思い出すと甘い」
内村光良:
「ただし、本当に苦いまま終わった日もあったでしょうね」
片倉佳史:
「そこを忘れないことも大切です。懐かしさは、時々、過去をきれいに見せますから」
店の外では、朝よりも多くの人が行き交っていた。
しかし、漢方薬店の中には、別の速度で時間が流れているようだった。
Scene 3
布問屋の奥にある暮らし
次に一行が訪れたのは、古い布問屋だった。
店内へ入った瞬間、外の強い光が途切れ、目の前が少し暗くなった。
天井近くまで布が積み重ねられている。赤、藍、黄、緑。花模様、幾何学模様、伝統的な台湾柄。絹の布は照明を柔らかく反射し、綿の布は空気を含んでふんわりとしていた。
扇風機が低い音を立てながら首を振っている。
その奥から、ミシンを踏む規則的な音が響いていた。
カタカタカタカタ。
片倉佳史:
「大稲埕は乾物だけでなく、布の商売でも有名です。昔は台湾各地から仕入れに来る人がいて、結婚式の服や、家庭で使う布もここで選びました」
綾瀬は、深い青色の布に手を触れた。
綾瀬はるか:
「少し冷たいですね。触ると、見ている時と印象が違います」
店の女性主人が、布を広げて見せた。
女性店主:
「これは台湾の昔の花柄。若い人にも最近人気があります」
林依晨:
「昔、おばあちゃんの家にあったような柄が、今はバッグや服になっています」
内村光良:
「日本でも昭和の柄が、若い人には逆に新しく見えることがありますね」
許光漢は、店の奥にある小さな食卓に気づいた。茶碗、果物、飲みかけのお茶が置かれ、その上の壁には家族写真が飾られている。
許光漢:
「ここで食事もするんですか?」
女性店主はうなずき、白黒写真を指した。
そこには、小学生くらいの少女が布の山の前に座り、ノートを広げていた。
女性店主:
「これ、私です。学校から帰ると、ここで宿題をしました。忙しい日は店を手伝いました」
綾瀬はるか:
「遊びに行きたくなりませんでしたか?」
女性店主:
「その時は嫌でした。でも今は、この店の音がないと寂しいです」
奥でミシンの音が止まり、短い静けさが訪れた。
内村光良:
「昔の商店街って、家族の暮らしが店から少し外にはみ出していたんでしょうね」
片倉佳史:
「そうですね。商売と家庭が完全に分かれていなかった。町の人は、店主としての顔だけではなく、父親や母親としての顔も見ていた」
林依晨:
「だから子どもも、親がどう働いているか知っていました」
許光漢:
「今は仕事と家庭を分けることが自由だと思われています。それは大切なことですが、子どもが親の働く姿を見る機会は減りました」
綾瀬はるか:
「親も、子どもが放課後どんな顔をしているのか、見えにくくなったかもしれませんね」
女性店主は笑いながら言った。
女性店主:
「昔は家族で喧嘩しても、同じ店にいるから逃げられません」
内村光良:
「それは大変ですね」
女性店主:
「だから早く仲直りする」
店内に笑いが広がった。
外から風が入り、吊るされた布がゆっくり揺れた。
許光漢:
「誰にも邪魔されない自由と、誰にも気づかれない孤独は、少し似ていますね」
その言葉の後、誰もすぐには答えなかった。
片倉は店の入口に立ち、外を行き交う人々を見た。
片倉佳史:
「町に人の目が多かった時代は、窮屈でもありました。でも、その目に救われることもあった。今日考えたいのは、昔に戻ることではなく、失ったものの中で何を今に戻せるか、ということかもしれません」
Scene 4
路地裏の食堂
正午を過ぎる頃には、通りの石畳が強い日差しを反射していた。
一行の額には薄く汗が浮かび、歩く速度も朝より少し遅くなっている。
路地へ入ると、空気の匂いが変わった。
醤油で煮込んだ豚肉。揚げた葱。炊きたての米。生姜の効いたスープ。
内村光良:
「ようやく、歴史より食欲が勝つ時間になりました」
林依晨が笑いながら、小さな食堂を指した。
入口には扉がなく、道路と店内を分けるものは小さな段差だけだった。
金属製の丸テーブル。プラスチックの椅子。壁には色あせた料理写真が並んでいる。
天井の扇風機が勢いよく回り、食器の音と注文を呼ぶ声が店いっぱいに響いていた。
席が足りず、一行は地元の家族と相席になった。
片倉佳史:
「昔は、日本でも相席が珍しくありませんでした。食堂や汽車では、知らない人と同じ空間を使うことが普通だった」
内村光良:
「今は、知らない人と目が合っただけで、少し気まずくなりますからね」
料理が運ばれてきた。
魯肉飯、大根餅、青菜炒め、魚のつみれスープ。湯気と一緒に香りが立ち上り、全員の顔が一斉に明るくなった。
向かいに座った年配の女性が、赤い調味料の瓶を綾瀬の前に押し出した。
年配の女性:
「少し入れると、おいしいよ」
林依晨:
「かなり辛いですから、本当に少しだけにしてください」
綾瀬は慎重に一滴だけ入れた。
内村はその横で、少し多めにかけた。
一口食べた瞬間、彼の表情が止まった。
内村光良:
「これは……思った以上に来ますね」
綾瀬はるか:
「どうして私より多く入れたんですか」
内村光良:
「大人としての余裕を見せようと思って」
向かいの女性が笑いながら、水のコップを指した。
周囲の客まで笑い始め、内村も苦笑しながら水を飲んだ。
許光漢:
「言葉が通じなくても、辛さは共有できますね」
林依晨:
「今、店中の人が内村さんを心配しています」
内村光良:
「こんな形で地域社会に参加するとは思いませんでした」
食事を続けながら、片倉が店内を見渡した。
片倉佳史:
「こういう場所では、知らない人の会話が自然に耳に入ります。誰かが子どもを叱り、誰かが仕事の愚痴を言い、誰かが店主に家族の近況を話す」
綾瀬はるか:
「今は、隣の人の話を聞かないふりをするのが礼儀になっていますね」
許光漢:
「それは相手を尊重するためでしょうか。それとも関わらないためでしょうか」
内村光良:
「たぶん両方です」
林依晨は少し考え、箸を置いた。
林依晨:
「台湾でも、こういう食堂は少しずつ減っています。日本の人は、台湾には昔の風景がそのまま残っていると思うかもしれません。でも、私たちも同じように失い始めています」
綾瀬はるか:
「残っているように見えるものも、ずっと残るとは限らないんですね」
許光漢:
「だから、日本人が懐かしそうに台湾を歩いている姿を見ると、少し不思議です。あなたたちが失ったものを、私たちもこれから失うのかもしれないと思うから」
食堂のざわめきは変わらず続いていた。
子どもがスプーンを落とし、母親が拾う。店主が大きな声で注文を確認する。鍋から上がる湯気が扇風機の風で店内に広がる。
何気ない日常の一つ一つが、急に貴重なもののように見えてきた。
Scene 5
茶館から大稲埕埠頭へ
午後、一行は古い商家を改装した茶館へ入った。
外の熱気から店内へ入ると、肌に触れる空気が少しひんやりしている。
木製の床は歩くたびに小さく軋み、奥には古い棚や茶器が並んでいた。窓から差し込む光の中を、細かな埃が静かに漂っている。
店員が茶葉を温めた急須へ入れ、熱湯を注ぐ。
湯気とともに、花のような香りが広がった。
片倉佳史:
「大稲埕は、お茶の輸出で発展した町でもあります。十九世紀には台湾茶が海外へ運ばれ、多くの商人がここに集まりました。この建物も、かつて商売と暮らしが一体になっていた町家の形を残しています」
全員が小さな茶杯を手に取る。
一口飲むと、最初は軽く、飲み込んだ後に甘い香りが喉の奥に残った。
綾瀬はるか:
「朝からいろいろな場所を見ましたが、一番印象に残っているのは、建物より人かもしれません」
内村光良:
「僕もです。ナツメをおまけしてくれた店主とか、辛いものを勧めてくれたおばあちゃんとか」
林依晨:
「内村さんの場合、辛さの記憶が一番強いですね」
内村光良:
「身体に刻まれましたから」
片倉は静かに茶を注ぎ足した。
片倉佳史:
「日本人は台湾の古い町を歩くと、『昭和の日本みたいだ』と言うことがあります。でも、その言葉には少し注意が必要です」
許光漢:
「台湾は、日本の過去ではありませんからね」
内村光良:
「そう言われると、確かに少し勝手な見方かもしれません」
林依晨:
「懐かしいと感じること自体が悪いのではありません。ただ、台湾の人がこの町を使い続け、守り、変えてきた時間も見てほしいと思います」
綾瀬はるか:
「日本が残したものを見ているのではなく、その後、台湾の人たちが生かしてきたものを見ている」
片倉佳史:
「その通りです」
夕方、一行は茶館を出て、大稲埕埠頭へ向かった。
川から吹く風が、昼間の熱を少しずつ運び去っていく。空は青から薄い橙色へ変わり、川面には細長い光の道が伸びていた。
自転車で走る若者。犬を連れた夫婦。ベンチに座って夕日を見る老人。屋台からは焼いた肉と甘い飲み物の香りが流れてくる。
五人は川沿いに並んで腰を下ろした。
一日歩いた足には、心地よい重さが残っている。
しばらく誰も話さなかった。
綾瀬はるか:
「朝は、古い建物を見れば昔の日本を思い出すのだと思っていました」
内村光良:
「違いましたか?」
綾瀬はるか:
「建物だけではありませんでした。店の人が客のことを知っていたり、知らない人と同じテーブルに座ったり、子どもが親の働く姿を見ていたり……」
許光漢:
「人と人との距離ですね」
林依晨:
「でも、距離が近いと面倒なこともあります」
内村光良:
「昔を懐かしむ時、人は面倒だった部分を上手に忘れますからね」
片倉佳史:
「昔に戻る必要はないと思います。昔には不自由もあり、閉鎖的な部分もありました。ただ、その中にあった“誰かが自分を見ている感覚”は、今の暮らしに戻せるかもしれません」
小さな船が、夕日の光を横切った。
エンジン音が川面を伝い、次第に遠ざかっていく。
許光漢:
「今日、日本を探しに来たんですよね」
内村光良:
「そのつもりでした」
許光漢:
「見つかりましたか?」
内村は少し考えた後、首を横に振った。
内村光良:
「日本を見つけたというより、台湾を少し知った気がします」
綾瀬も静かにうなずいた。
綾瀬はるか:
「でも、懐かしかったです」
林依晨:
「何が懐かしかったんでしょう」
夕日がゆっくりと川の向こうへ沈んでいく。
内村は赤く染まった空を見ながら答えた。
内村光良:
「自分が一人ではないと感じられる暮らし、ですかね」
屋台の明かりが一つ、また一つと灯り始めた。
遠くから子どもの笑い声が聞こえる。
誰かが道を譲り、誰かが軽く頭を下げる。
それは、特別な出来事ではなかった。
しかし、一日かけて町を歩いた五人には、その何でもない光景が、朝よりも少し違って見えていた。
大稲埕で見つけたのは、保存された昔の日本ではなかった。
それは、台湾の人々が今も続けている暮らしだった。
そして、その暮らしに触れたことで、日本人の中に眠っていた記憶が、静かに目を覚ましたのだった。
Day 1として、Scene 1からつなげても不自然にならない構成にしています。
Day 2: 昭和の縁日と台所を探す一日

今日の案内人と旅の仲間
日村勇紀
食べ物と人懐っこい雰囲気に自然に溶け込み、町の人との距離を一気に縮めていく。
マツコ・デラックス
懐かしさを無条件に美化せず、昔の暮らしの不便さや、現代人の孤独を鋭く見つめる。
周杰倫(ジェイ・チョウ)
台湾の古い町や音楽、家族の記憶を静かに語る。普段は多くを話さないが、風景を見ながら核心をつく。
徐若瑄(ビビアン・スー)
日本と台湾の両方を知る視点から、似ている部分と、同じに見えて実は異なる部分を伝える。
片倉佳史
朝市、古い住宅街、雑貨店、夜市を案内しながら、台湾の日常の中に残る生活文化を解説する。
Today’s Route
ホテル出発
↓
雙連朝市
↓
台湾式朝食
↓
古い住宅街と理髪店
↓
昔ながらの雑貨店
↓
寧夏夜市
Today’s Question
日本では年に一度の祭りになった風景が、なぜ台湾では毎日の暮らしとして残っているのか。
Scene 1
雨上がりの雙連朝市
朝八時。
ホテルを出ると、夜明け前に降った雨が、まだ歩道のところどころに残っていた。
曇った空の下で、湿ったアスファルトが淡く光っている。車が水たまりを通るたび、薄い水しぶきが道路脇へ広がった。
空気には雨の匂いがあった。
濡れたコンクリート、街路樹の葉、排気ガス。そして、少し離れた朝食店から流れてくる、焼いた小麦粉と葱の香り。
ホテル前で待っていた片倉佳史が、四人を迎えた。
片倉佳史:
「今日は観光地として造られた場所ではなく、台北の人が毎日の食事を買いに来る場所から始めます」
日村勇紀:
「朝市ですね。もう僕、ホテルで朝ご飯を食べずに来ましたから」
マツコ・デラックス:
「あなた、昨日の夜から朝市のことしか考えてなかったでしょう」
日村勇紀:
「朝市に失礼があってはいけませんからね。万全の空腹で来ました」
タクシーが雙連駅の近くに着くと、窓の外に色とりどりのテントが見えてきた。
赤、青、黄色のビニール屋根。その下に野菜、魚、肉、果物、衣類、日用品が隙間なく並んでいる。
タクシーを降りた瞬間、町の音が一気に押し寄せた。
包丁がまな板を叩く音。
店主の呼び声。
ビニール袋を広げる乾いた音。
魚の入った水槽から上がる水音。
買い物客の間をゆっくり進むスクーターのエンジン音。
片倉佳史:
「ここが雙連朝市です。近くに寺院や住宅地があり、地元の人が野菜や肉、惣菜、生活用品を買いに来ます。台湾の市場は、食品だけでなく、服や靴、雑貨まで一緒に並んでいるのが特徴です」
ビビアン・スー:
「子どもの頃、母と市場へ行くと、買い物だけでは終わらないんです。母が知り合いと話し始めて、なかなか帰れなくなる」
マツコ・デラックス:
「日本の昔の市場もそうよ。買い物の時間より立ち話のほうが長いの」
日村勇紀:
「スーパーだと、知り合いを見つけても、お互いに気づかないふりをする時がありますよね」
マツコ・デラックス:
「あるわよ。すっぴんの時なんか特にね」
一行が市場の中へ進む。
魚屋の前には、銀色の魚が氷の上に並び、濡れた鱗が白い照明を反射していた。肉屋では、大きな包丁が一定のリズムでまな板を叩いている。
トン、トン、トン。
その横では、青菜に残った水滴が朝の光を受け、葉の先からゆっくり落ちていた。
日村が、大きな白い冬瓜の前で立ち止まる。
日村勇紀:
「これ、一人暮らしで買ったら、食べ終わるまで冬が来ますね」
店主の女性が笑いながら、冬瓜を軽く叩いた。
店主:
「切って売るよ。全部買わなくていい」
ビビアン・スー:
「市場では、必要な分だけ買えます。家族の人数や、今日何を作るかを話しながら決めるんです」
片倉佳史:
「日本でも、昔は量り売りや切り売りが一般的でした。大量の商品を自分で選ぶのではなく、店の人に相談する買い方ですね」
マツコ・デラックス:
「便利さだけで言えば、スーパーのほうが便利よ。でも、自分で全部決めなくていいっていう安心もあったのよね」
周杰倫:
「市場の人は、家族が何人いるか知っています。だから、買いすぎると止められることもあります」
日村勇紀:
「売る側が止めるんですか?」
周杰倫:
「『今日はそれだけで十分』と言われます」
マツコ・デラックス:
「商売人としては失格かもしれないけど、人間としては合格ね」
少し先では、揚げたての食べ物を並べる店から、油と胡椒の香りが流れてきた。
日村の歩く速度が、目に見えて遅くなる。
マツコ・デラックス:
「もう市場を見てないわよ。匂いだけを追いかけてる」
Scene 2
台湾の朝食と、家族の台所
市場の端に、小さな朝食店があった。
ステンレス製の調理台の上で、生地が鉄板に広げられている。卵を割る音がし、刻んだ葱が散らされる。
ジュッという音とともに、香ばしい湯気が立ち上った。
店内には背もたれのない丸椅子が並び、壁には手書きのメニューが貼られている。
片倉佳史:
「台湾では、朝食を外で買う人が多いんです。豆漿、蛋餅、飯糰、焼餅など、店によって得意なものがあります」
日村勇紀:
「朝食の選択肢が多い国って、それだけで幸せですよね」
マツコ・デラックス:
「あなたの場合、朝食が終わっても次の朝食を探すでしょう」
テーブルに、温かい豆漿、蛋餅、油條を挟んだ焼餅、もち米の飯糰が並べられた。
日村は蛋餅を箸で持ち上げる。
薄い生地の間から、卵と葱が顔を出す。口に入れると、外側はわずかに香ばしく、中は柔らかい。
日村勇紀:
「これ、毎朝食べられますね」
ビビアン・スー:
「台湾の人にとっては、とても普通の味です。でも海外に長くいると、急に食べたくなります」
マツコ・デラックス:
「特別なごちそうじゃないからこそ、故郷の味になるのよね」
周杰倫は温かい豆漿を一口飲み、店内を見渡した。
会社員、制服姿の学生、買い物かごを持った高齢の女性。年齢も目的も違う人たちが、同じ湯気の中で朝食を取っている。
周杰倫:
「子どもの頃、朝食を買いに行くのは、家族の役割でした。誰かが人数分を持って帰る」
ビビアン・スー:
「注文も覚えていますよね。お父さんは甘くない豆漿、お母さんは温かいもの、子どもは卵を追加する、とか」
日村勇紀:
「家族の好みを覚えている人が、朝のヒーローなんですね」
片倉佳史:
「日本でも、昭和の家庭では、誰が何を好むかを家族全員が知っていたことが多かったでしょう。今は同じ家に住んでいても、朝食の時間も食べるものも別々という家庭が増えました」
マツコ・デラックス:
「でも、それを全部悪いとは言えないわよ。昔は家族が一緒という名目で、母親だけが早起きして、全員分を用意していたんだから」
日村が箸を止める。
日村勇紀:
「確かに、懐かしい朝食の裏で、誰かが働いていたんですよね」
ビビアン・スー:
「大切なのは、昔と同じ生活に戻ることではなくて、誰かがしてくれたことを忘れないことかもしれません」
片倉がうなずいた。
片倉佳史:
「懐かしさを語る時には、その風景を支えていた人も見なければいけませんね」
店主が、日村の空になった皿を見て声をかけた。
店主:
「もう一つ食べる?」
日村は反射的にうなずきかけ、マツコの視線に気づいて止まった。
マツコ・デラックス:
「好きにしなさい。どうせ夜市でも食べるんだから」
日村勇紀:
「では、控えめに一つだけ」
マツコ・デラックス:
「それを控えめとは言わないのよ」
Scene 3
古い住宅街と理髪店
朝食を終えた一行は、朝市を離れ、古い住宅が残る路地へ向かった。
大通りから一本入るだけで、音が少し遠くなる。
建物の一階には金属製の格子があり、その奥に植木鉢や自転車、子どもの靴が置かれている。窓から洗濯物が垂れ、室外機から落ちる水が、古いタイルを一定の間隔で濡らしていた。
路地の端では、年配の男性が椅子に座り、新聞を読んでいる。
猫が植木鉢の陰から一行を眺め、興味を失ったようにゆっくり目を閉じた。
片倉は、赤と青と白の回転灯が付いた小さな理髪店の前で止まった。
片倉佳史:
「台湾には、こうした昔ながらの理髪店がまだ残っています。髪を切るだけでなく、髭剃りや洗髪、肩のマッサージまで行う店もあります。昔の町では、理髪店は情報が集まる場所でもありました」
ガラス越しに見ると、古い革張りの椅子が二脚並んでいる。
壁には少し色あせた髪型の見本写真。棚には整髪料の瓶や、長年使われた櫛が整然と並んでいた。
日村勇紀:
「椅子だけでもう気持ちよさそうですね」
店主の男性が手招きした。
日村が椅子に座ると、背もたれがゆっくり倒され、白い蒸しタオルが顔に載せられた。
日村勇紀:
「これはもう、観光ではなく休暇ですね」
マツコ・デラックス:
「一人だけ旅の目的を変えないでちょうだい」
店主が日村の顔に泡を塗り始める。
周杰倫は、店の隅に置かれた古いラジオを見つけた。小さな音で、懐かしい台湾歌謡が流れている。
周杰倫:
「この音楽を聴くと、子どもの頃の午後を思い出します」
ビビアン・スー:
「音楽は、景色より早く記憶を連れてきますね」
片倉佳史:
「日本の昭和の理髪店にも、ラジオやテレビがありました。客は髪を切りながら、野球やニュースの話をした。店主は町の出来事をよく知っていました」
マツコ・デラックス:
「今は予約して、必要なことだけ話して、終わったらすぐ帰る店も多いものね。それはそれで気楽だけど」
ビビアン・スー:
「昔の店では、話したくない日でも話しかけられました」
マツコ・デラックス:
「そうなのよ。昔の温かさには、逃げられない温かさも含まれていたの」
蒸しタオルを外された日村が、目を細めながら言う。
日村勇紀:
「でも、誰かに顔を触ってもらうと、安心しますね」
周杰倫:
「人に世話をしてもらう時間が、減ったのかもしれません」
店主が剃刀を静かに動かす。
店内にはラジオの音と、剃刀が皮膚を滑る微かな音だけが残った。
Scene 4
雑貨店に並ぶ小さな記憶
午後、一行は住宅街の角にある小さな雑貨店へ入った。
店先には洗濯ばさみ、ほうき、子どもの玩具、蚊取り線香、菓子、瓶入りの飲料が、規則性なく並んでいる。
店内は狭く、二人が並んで歩くと肩が触れそうだった。
天井には古い扇風機が回り、紙でできた商品の札が風に揺れている。
甘い菓子の匂いと、石鹸、線香、古い木棚の匂いが混ざっていた。
片倉佳史:
「台湾では、こうした店を柑仔店と呼びます。食品から日用品、子どものお菓子まで扱う、町の小さな商店です。日本の駄菓子屋や、昔の個人商店に近い役割を持っていました」
日村は、色鮮やかな紙箱に入った菓子を手に取った。
日村勇紀:
「これ、当たりが出たらもう一つもらえるタイプですか?」
ビビアン・スー:
「そうです。子どもの頃、お金が少ししかなくても、長く悩んで選びました」
マツコ・デラックス:
「子どもの百円は、大人の一万円くらい価値があったものね」
周杰倫:
「店のおばさんが、子どもたちの名前を全部知っていました」
片倉佳史:
「時には、親より先に子どもの秘密を知ることもあったでしょうね」
店主の女性が、古い木箱からビー玉と紙風船を出してきた。
日村が紙風船を膨らませようとするが、なかなか丸くならない。
マツコ・デラックス:
「あなた、食べ物以外は不器用なのね」
日村勇紀:
「食べ物には向こうから心を開いてくれますから」
ビビアンが紙風船を受け取り、息を吹き込む。
薄い紙が、カサカサと音を立てながら丸くなった。
ビビアン・スー:
「こういう玩具は、壊れやすいですよね。でも、壊れやすいから大切に遊びました」
マツコ・デラックス:
「今は壊れにくい物が増えたけど、飽きるのは早くなったかもしれないわね」
周杰倫は、店の外でゲームをしている子どもたちを見た。片手にはスマートフォン、もう片方には店で買った小さな菓子袋を持っている。
周杰倫:
「古いものと新しいものは、必ずしもどちらか一つを選ぶ必要はないと思います」
片倉佳史:
「そうですね。この子たちはスマートフォンを使いながら、昔と同じ店でお菓子を買っている。文化はそのまま保存されるのではなく、形を変えながら続いていくのでしょう」
マツコ・デラックス:
「大人はすぐに、『昔の子どもは外で遊んだ』って言うけど、昔の子どもだって、その時代の新しい遊びに夢中だったのよ」
日村勇紀:
「結局、大人はいつの時代も、子どもの遊び方に文句を言うんですね」
店主が笑いながら、四人に小さな飴を一つずつ渡した。
包み紙を開くと、果物に似た甘い香りが広がった。
Scene 5
寧夏夜市――毎晩開かれる縁日
夕方、日が沈み始める頃、一行は寧夏夜市へ向かった。
まだ完全には暗くなっていない。
しかし通りでは、屋台の照明が一つずつ灯り、金属製の台車が押され、鍋や鉄板が並べられていた。
油を熱する音。
肉を焼く煙。
胡椒、八角、醤油、にんにく、砂糖の香り。
店主同士が声を掛け合い、椅子が道路へ運び出される。
昼間は普通の通りだった場所が、数十分のうちに別の顔へ変わっていった。
片倉佳史:
「寧夏夜市は、台湾料理を中心とした比較的歩きやすい夜市です。台湾の夜市は、祭りのために特別に開かれるのではなく、こうして毎晩、人々の食事と娯楽の場所になります」
日村勇紀:
「毎晩お祭りということですよね。これは住みたくなりますね」
マツコ・デラックス:
「あなたの場合、一週間で屋台の人全員に顔を覚えられるわよ」
通りの両側には、人が集まり始めていた。
学校帰りの学生。仕事を終えた会社員。子どもを連れた家族。観光客。近所からサンダルで来たような高齢の夫婦。
日村は牡蠣入りのオムレツを受け取った。
柔らかな卵の下に、小さな牡蠣と青菜が入り、甘辛いソースがかかっている。
日村勇紀:
「うまい。これはお祭りの屋台というより、ちゃんと夕食ですね」
ビビアン・スー:
「台湾では、夜市で家族の夕食を済ませることもあります。特別な日に来る場所ではなく、台所の延長なんです」
片倉佳史:
「そこが、日本の縁日との大きな違いですね。日本では、屋台が並ぶ風景は祭りや花火大会など、非日常になりました。しかし台湾では、夜市が日常の中に組み込まれています」
マツコは、家族が一つのテーブルを囲む姿を見つめた。
父親が麺を取り分け、母親が子どもの口を拭いている。子どもは食事よりも、向かいのゲーム屋台を気にしていた。
マツコ・デラックス:
「日本でも昔は、商店街の中に夕食も遊びも全部あったのよね。今は食事、買い物、遊びが、それぞれ別の建物に分かれている」
周杰倫:
「ここでは、食べている人の隣で、子どもが遊び、その横を仕事帰りの人が歩いています。生活が分かれていない」
一行は、輪投げの屋台へ移動した。
日村が勢いよく輪を投げるが、商品から大きく外れた。
マツコ・デラックス:
「食べ物以外、本当にだめね」
日村勇紀:
「まだ一投目ですから」
二投目は近くまで行き、三投目が小さな人形に引っかかった。
日村が両手を上げると、周囲にいた子どもたちまで拍手した。
日村勇紀:
「知らない子どもたちに認められました」
ビビアン・スー:
「夜市では、大人も子どもも同じ場所で遊べますね」
片倉佳史:
「町から子どもの姿が消えると、大人だけの場所が増えていきます。昔の商店街や縁日には、さまざまな世代が同じ空間にいました」
夜は完全に暗くなっていた。
赤や黄色の看板が通りを照らし、油の煙が光をぼんやりと滲ませている。
人の声、食器の音、ゲームの電子音、遠くを走るスクーター。
すべてが重なりながら、不思議と一つのリズムになっていた。
一行は夜市の端にある小さなテーブルへ座った。
冷たい愛玉の飲み物が運ばれ、透明な氷がグラスの中で音を立てた。
日村勇紀:
「今日一日、ずっと食べていた気がします」
マツコ・デラックス:
「気がするんじゃなくて、食べてたのよ」
片倉佳史:
「日本の皆さんには、この夜市が昭和の縁日のように見えますか?」
日村は人の流れを見ながら答えた。
日村勇紀:
「似ています。でも、日本の縁日は終わるのが寂しかったんです。次は来年だと思うから」
ビビアン・スー:
「ここは明日も開きます」
周杰倫:
「明日も開くから、誰も終わりを意識しない。特別ではないからこそ、生活の一部になります」
マツコはグラスの氷をストローで静かに動かした。
マツコ・デラックス:
「日本人が懐かしいと思うのは、屋台じゃないのかもしれないわね」
日村勇紀:
「では、何でしょう?」
マツコ・デラックス:
「子どもも、お年寄りも、金持ちも、そうじゃない人も、とりあえず同じ道を歩いていたことよ」
片倉は夜市の奥へ続く光を見つめた。
片倉佳史:
「日本では非日常になった風景が、台湾では日常として続いている。しかし、それも永遠ではありません。家族の形も、働き方も、町の使われ方も変わっています」
ビビアン・スー:
「だから、懐かしいと言うだけではなく、今ここにあるうちに大切にしなければいけませんね」
周杰倫が、小さくうなずいた。
周杰倫:
「失った後で懐かしむより、まだある時に気づくほうがいい」
その時、近くの屋台から、大きな笑い声が上がった。
輪投げに成功した子どもが、景品を抱えて家族のところへ走っていく。
屋台の主人が次の客を呼び、鉄板の上では新しい料理が焼かれ始める。
夜市は、誰かの思い出になるために存在しているわけではなかった。
ここで働く人がいる。
夕食を取る人がいる。
子どもを遊ばせる家族がいる。
一日の疲れを、食べ物と会話の中でほどいていく人がいる。
日本人には昭和の縁日のように見えるその光景は、台湾の人々にとって、今夜も続いている普通の生活だった。
帰りのタクシーの窓から、夜市の明かりが少しずつ遠ざかっていく。
日村勇紀:
「明日も、あそこは開くんですよね」
ビビアン・スー:
「はい。特別なことがなければ、いつものように」
日村はしばらく後ろを振り返っていた。
日村勇紀:
「毎日あるものほど、なくなった時に大きいのかもしれませんね」
マツコは窓の外を見たまま答えた。
マツコ・デラックス:
「だから、あるうちにちゃんと見ておくのよ」
車窓を、台北の光が静かに流れていった。
Day 3: 温泉に残された記憶をたどる一日

今日の案内人と旅の仲間
阿川佐和子
人の話を自然に引き出し、歴史や政治の奥にある個人の記憶を見つめる。
リリー・フランキー
古い建物や、少し寂れた風景の中に残る生活の匂いを感じ取る。ユーモアを交えながら、人間の弱さを語る。
張鈞甯(チャン・チュンニン)
台湾で育った世代として、日本文化への親しみと、台湾人としての複雑な歴史認識を率直に語る。
温昇豪(ウェン・シェンハオ)
台湾社会の家族観や世代間の違いを見つめ、歴史が日常生活にどのように残っているかを考える。
片倉佳史
北投温泉の歴史、日本統治時代の建築、台湾で受け継がれてきた温泉文化を案内する。
Today’s Route
ホテル出発
↓
台北駅から新北投へ
↓
北投温泉博物館
↓
地熱谷
↓
市場近くで昼食
↓
昔ながらの温泉宿
↓
夕暮れの北投公園
Today’s Question
台湾に残る日本的な風景を見た時、私たちは誰の記憶を懐かしんでいるのか。
Scene 1
電車で向かう温泉の町
朝九時。
ホテルを出た一行は、台北駅から地下鉄に乗った。
平日の車内には、仕事へ向かう人、学校へ向かう学生、買い物袋を膝に置いた高齢者が座っている。
扉が閉まるたびに流れる案内放送。
線路を走る一定の振動。
冷房の風に混じって、誰かが持っている朝食の袋から、卵と胡椒の香りがわずかに漂っていた。
淡水信義線を北へ進み、北投駅で新北投支線へ乗り換える。
ホームへ入ってきた車両には、温泉や緑を思わせる絵が描かれていた。
阿川佐和子:
「温泉へ行く電車だと思うと、乗り換えただけで旅行気分になりますね」
リリー・フランキー:
「人間は単純ですからね。電車に木の模様が描いてあるだけで、もう身体が温まった気になります」
張鈞甯:
「新北投までは一駅しかありません。でも、この短い区間で町の雰囲気が変わります」
温昇豪:
「台北市内ですが、子どもの頃は少し遠くへ来た感じがしました」
車両がゆっくり動き始める。
窓の外には、低い建物と緑の斜面が見えた。都会の密度が少しずつ緩み、空の面積が広くなっていく。
片倉佳史が、進行方向の山を指した。
片倉佳史:
「北投は、台湾を代表する温泉地の一つです。温泉そのものは以前から地域の人々に知られていましたが、本格的に温泉地として整備されたのは日本統治時代です」
阿川佐和子:
「ということは、日本人が温泉街を造ったのですか?」
片倉佳史:
「旅館、公共浴場、鉄道など、観光地としての基盤は日本統治時代に整えられました。ただし、今の北投を作っているのは、その後ここで暮らしてきた台湾の人々です」
リリー・フランキー:
「歴史の始まりだけを見て、『これは日本のものだ』と言うのは違うわけですね」
片倉佳史:
「そうですね。建物を造った人、そこで働いた人、戦後に使い続けた人、壊そうとした人、保存した人。それぞれの時間が重なっています」
列車は数分で新北投駅に到着した。
扉が開く。
駅の外へ出ると、台北中心部とは少し違う空気が一行を迎えた。
雨に濡れた木々。
石の歩道。
どこかから流れてくる硫黄の匂い。
山に近い湿った風が、葉を揺らしていた。
リリー・フランキー:
「匂いがもう温泉ですね」
阿川佐和子:
「懐かしいような、ゆで卵のような」
温昇豪:
「台湾でも硫黄の匂いを嗅ぐと、北投に来たと感じます」
一行は緑に囲まれた北投公園へ入っていった。
Scene 2
畳の上に重なる時間
北投温泉博物館は、公園の坂の途中に建っていた。
赤煉瓦の壁。
黒い瓦屋根。
アーチ形の窓。
木造部分には、日本家屋を思わせる静かな佇まいがある。
建物の前で、片倉が一行を振り返った。
片倉佳史:
「この建物は、二十世紀初頭に公共浴場として建てられました。当時は東アジアでも非常に規模の大きな温泉施設だったと言われています。その後、長く使われなくなりましたが、地元の教師と学生たちが建物の価値に気づき、保存運動につながりました」
張鈞甯:
「行政が最初から守ったのではなく、地域の人たちが見つけ直したんですね」
片倉佳史:
「ええ。古い建物は、価値があるから自動的に残るわけではありません。誰かが『これは残すべきだ』と言わなければ消えてしまいます」
靴を脱いで建物に入る。
足の裏に畳の柔らかさが伝わった。
室内には、木と藺草の香りが残っている。開いた窓から風が入り、庭の葉が揺れる音が聞こえた。
阿川は畳の縁に沿って、ゆっくり歩いた。
阿川佐和子:
「日本人としては、身体が先に反応しますね。畳を見ると、なぜか声を小さくしたくなります」
リリー・フランキー:
「そして寝転がりたくなる」
阿川佐和子:
「ここではやめてください」
張鈞甯は、部屋の中央に座った。
張鈞甯:
「台湾人の私にも、畳は懐かしい感じがします。日本のドラマや映画で見てきたからかもしれません。でも、それだけではない気もします」
温昇豪:
「古い台湾の家にも、日本式の部屋が残っていることがあります。祖父母の家で見た人もいるでしょう」
片倉佳史:
「戦後、日本人が去った後、日本家屋には台湾の人々が住みました。そこで子どもが生まれ、食事をし、勉強をし、家族の思い出を作った。建物の形式は日本でも、そこで積み重ねられた記憶は台湾のものです」
窓の外から鳥の声が聞こえた。
畳の上を通り抜けた風が、障子のような木枠をわずかに震わせる。
阿川佐和子:
「日本人がここへ来て、『昔の日本が残っている』と喜ぶことがありますよね」
張鈞甯:
「悪いことではないと思います。ただ、その言葉だけだと、台湾の人がここで過ごした戦後の時間が見えなくなります」
リリー・フランキー:
「日本人は、自分たちが失ったものを海外で見つけると、急に自分のものだったような気分になることがありますね」
温昇豪:
「台湾人の側にも複雑さがあります。日本時代を懐かしく語る人もいれば、植民地支配として厳しく見る人もいる。同じ家族の中でも意見が違います」
阿川佐和子:
「どちらか一つだけを正しい記憶にはできないんですね」
片倉は、古い浴場の方向へ歩きながら答えた。
片倉佳史:
「歴史は一つですが、記憶は一つではありません」
大浴場の跡には、青みを帯びたタイルが残っていた。
かつて湯が張られていた広い浴槽。
高い天井。
アーチ窓から差し込む淡い光。
目を閉じると、湯の音や人の話し声が戻ってくるようだった。
リリー・フランキー:
「風呂というのは、不思議な場所ですよね。服を脱ぐと、肩書まで少し取れる」
阿川佐和子:
「知らない人同士でも、同じ湯に入ると会話が始まったりしますからね」
温昇豪:
「でも、台湾では日本ほど裸で他人と入浴する習慣は一般的ではありません。北投の温泉文化も、そのまま日本と同じ形で定着したわけではないんです」
張鈞甯:
「取り入れながら、台湾に合う形へ変わっていったんですね」
片倉がうなずく。
片倉佳史:
「文化は、受け取った瞬間から、その土地のものに変わり始めます」
Scene 3
地熱谷――美しさと恐ろしさの境目
博物館を出た一行は、さらに坂を上って地熱谷へ向かった。
道の脇を温泉の川が流れている。
白い湯気が水面から立ち上り、風が吹くたびに歩道を覆った。
硫黄の匂いは先ほどよりも強い。湿った熱気が頬に触れ、眼鏡のレンズが一瞬曇る。
地熱谷へ着くと、青緑色の湯が大きなくぼみの中に広がっていた。
水面から絶えず白い蒸気が上がり、向こう岸の木々が見えたり隠れたりする。
阿川佐和子:
「きれいですけれど、少し怖いですね」
片倉佳史:
「地熱谷は非常に高温の温泉が湧く場所です。かつては、その不気味な湯気や熱さから、地獄谷とも呼ばれました」
リリー・フランキー:
「温泉って、地球が穏やかに見せている顔ではないんですよね。本当は地下の力が噴き出している」
張鈞甯:
「美しいけれど、近づきすぎてはいけない」
温昇豪:
「自然との関係そのものですね。恵みをもらうけれど、支配はできない」
一行は柵の前で立ち止まり、湯気の向こうを見つめた。
ときどき風向きが変わると、白い蒸気が一気に押し寄せ、全員の姿を包んだ。
数秒後、湯気が通り過ぎる。
世界が一度消え、また現れたようだった。
阿川佐和子:
「昔の人は、この湯気を見て何を感じたのでしょう」
片倉佳史:
「畏れでしょうね。温泉は身体を癒やしますが、同じ熱が人を傷つけることもある。自然の恵みと危険は、もともと分かれていません」
リリー・フランキー:
「現代の温泉施設では、温度も床も照明も全部管理されています。でも、ここに来ると、元は人間に都合よくできたものじゃないと分かりますね」
張鈞甯は、水面の色を見つめていた。
張鈞甯:
「歴史も少し似ていると思います。人は都合のいい温度に調整して記憶しようとする。でも、実際にはもっと熱くて、触れにくいものがある」
阿川が静かにうなずいた。
阿川佐和子:
「懐かしさは、過去を入りやすい温泉にしてしまうのかもしれませんね」
温昇豪:
「だからこそ、気持ちよさだけでなく、熱源がどこにあるのかも見なければいけない」
地熱谷の湯気が再び立ち上がった。
誰もすぐには言葉を続けなかった。
Scene 4
市場の昼食と、おばあさんの記憶
正午を過ぎ、一行は北投市場近くの食堂へ向かった。
市場の中には、野菜、肉、魚、衣類、食器が所狭しと並んでいる。
通路は狭く、買い物客の肩が触れ合う。
上から吊られた蛍光灯が、濡れた床を白く照らしていた。
食堂に入ると、煮込んだ豚肉と生姜、胡椒の匂いが漂っている。
一行は、排骨酥湯、乾麺、青菜、煮卵を注文した。
熱いスープが運ばれてくる。
揚げた豚肉を煮込んだスープは、表面に薄い油が浮かび、大根と胡椒の香りが湯気とともに立ち上った。
リリー・フランキー:
「温泉に入る前に、内側から温めるわけですね」
阿川佐和子:
「今日はずっと温まっていますね」
隣のテーブルには、白髪の女性が一人で座っていた。
女性は片倉の話を聞き、日本語で声をかけた。
女性:
「日本から来ましたか?」
少し古風だが、はっきりとした日本語だった。
阿川が驚いて答える。
阿川佐和子:
「はい。日本語を話されるんですね」
女性:
「子どもの時、少し学校で習いました。もう忘れました」
そう言いながら、女性は笑った。
片倉が中国語も交えながら話を聞くと、女性は北投の近くで生まれ、幼い頃に日本統治時代の終わりを経験したという。
女性:
「昔、日本人の子どももいました。一緒に遊んだ。でも急に、みんないなくなった」
女性は、箸で煮卵をゆっくり切った。
女性:
「子どもだから、政治は分からない。ただ、友達がいなくなった」
テーブルの上が静かになった。
市場のざわめきや、食器を洗う音は続いている。
阿川佐和子:
「そのお友達の名前は覚えていますか?」
女性は少し考えた。
女性:
「名前は……よしこ。たぶん、よしこ」
その名前を口にした瞬間、女性の目が遠くを見るようになった。
張鈞甯:
「その後、会うことはなかったんですか?」
女性は首を横に振った。
女性:
「日本へ帰った。どこか分からない」
リリーは、手を付けかけたスープの匙を静かに置いた。
リリー・フランキー:
「大きな歴史の中では、『日本人が引き揚げた』という一行で終わります。でも、子どもにとっては、明日から友達が来なくなったということなんですね」
温昇豪:
「台湾の家族にも、そういう小さな記憶が残っています。ただ、語る人が亡くなると一緒に消えてしまう」
女性は阿川を見て、再び日本語で言った。
女性:
「よしこ、元気だったら、九十歳くらい」
阿川佐和子:
「どこかで、この北投のことを覚えているかもしれませんね」
女性は小さく笑った。
女性:
「覚えているかな」
その声には、期待と諦めの両方が混じっていた。
食事を終えて店を出る時、女性は手を振った。
女性:
「日本へ帰ったら、よしこによろしく」
阿川も笑顔で手を振った。
しかし、市場の外へ出てからもしばらく、誰も言葉を発しなかった。
Scene 5
湯の中で肩書を脱ぐ
午後、一行は昔ながらの雰囲気を残す温泉宿へ向かった。
木の看板。
磨かれた石の床。
受付の横には竹の籠が積まれ、廊下には温泉の湿った匂いが漂っている。
庭には大きな石と南国の植物が配置され、葉の上に残った水滴が午後の光を反射していた。
片倉が浴場へ入る前に説明する。
片倉佳史:
「北投の温泉にはいくつか泉質があります。強い酸性を持つものもあり、日本の玉川温泉に似た泉質として紹介されることがあります。ただし、施設によって引いている湯は異なります」
リリー・フランキー:
「温泉は説明を聞いている時が一番真面目で、入った瞬間に全部忘れるんですよね」
男女に分かれ、それぞれ浴場へ入った。
石造りの浴槽には、わずかに青みを帯びた湯が張られている。
掛け湯をし、ゆっくり身体を沈める。
熱が足先から腰、肩へと広がった。
リリーは息を吐き、浴槽の縁に頭を預けた。
リリー・フランキー:
「人間は、湯に入ると『ああ』って言いますね。国籍に関係なく」
温昇豪:
「台湾では、水着を着る温泉施設や個室の温泉も多いです。裸で入る日本式の習慣に慣れていない人もいます」
片倉佳史:
「日本から入ってきた文化が、そのまま残ったのではなく、台湾の生活や感覚に合わせていくつもの形に変わったんです」
リリー・フランキー:
「文化は、翻訳されながら残るんですね」
隣の女性浴場では、阿川、張鈞甯が湯に浸かっていた。
窓の外には、濡れた緑が見える。
湯気が天井へ上り、声が少し柔らかく響いた。
阿川佐和子:
「さっきのおばあさんの言葉が残っています。『よしこによろしく』って」
張鈞甯:
「会えないと分かっていても、誰かに伝えたかったのでしょうね」
阿川佐和子:
「私たちは日本人だから、あの言葉を預けられたんでしょうか」
張鈞甯:
「たぶん。でも、阿川さん個人にも預けたのだと思います。国と国ではなく、人から人へ」
湯が浴槽の縁から静かにあふれた。
阿川佐和子:
「歴史を語ると、加害者や被害者、統治した側とされた側に分かれます。それは必要なことです。でも、その間に友達だった子どもたちもいた」
張鈞甯:
「どちらかだけを語ると、もう一方が消えてしまう。支配の歴史を忘れてはいけない。でも、人と人の記憶も消してはいけない」
湯から上がった後、一行は畳の休憩室に集まった。
冷たいお茶が用意され、窓の外には北投公園の木々が見える。
全員の頬は温泉で少し赤くなっていた。
リリー・フランキー:
「風呂上がりに歴史の話をすると、少し優しく話せる気がしますね」
阿川佐和子:
「身体の力が抜けるからでしょうか」
温昇豪:
「人は自分を守ろうとしている時、歴史について強い言葉を使います。自分の国や家族の尊厳が脅かされると感じるからです」
張鈞甯:
「でも、相手にも守りたい記憶がある」
片倉が湯飲みを置いた。
片倉佳史:
「台湾の日本時代を語る時、『親日』か『反日』かという二つの言葉だけで整理されることがあります。しかし、実際の記憶はもっと複雑です。良い思い出を持つ人も、苦しみを記憶する人もいる。同じ人の中に、両方が存在することもあります」
阿川佐和子:
「好きか嫌いかだけでは、歴史は話せないんですね」
片倉佳史:
「そして、懐かしいかどうかだけでも話せません」
Scene 6
夕暮れの北投公園
温泉宿を出ると、午後の強い光はすでに弱くなっていた。
北投公園の木々の間を、橙色の光が斜めに通り抜けている。
温泉の川からは薄い湯気が上がり、水の流れる音が静かに続いていた。
犬を散歩させる人。
ベンチで話す高齢者。
学校帰りの子ども。
観光客が去り始めた公園には、地元の生活の時間が戻っていた。
一行は川沿いのベンチに腰を下ろした。
阿川佐和子:
「今日の朝、畳を見た時、私は日本を懐かしいと思いました」
リリー・フランキー:
「日本人ですからね。身体が勝手に反応する」
阿川佐和子:
「でも、今は少し違って見えます。あの畳の上で暮らした台湾の家族や、建物を守った学生たちの時間もある」
張鈞甯:
「同じ場所を見ても、人によって思い出すものが違います」
温昇豪:
「そして、自分の記憶ではないものを、懐かしいと感じることもある」
リリーは、川の上を漂う湯気を眺めた。
リリー・フランキー:
「懐かしさって、自分が経験した過去だけじゃないんでしょうね。生きたことのない時代にも、帰りたいと思うことがある」
阿川佐和子:
「なぜでしょう」
リリー・フランキー:
「今の自分に足りないものが、そこにあるように見えるからじゃないですか」
片倉は、古い木々に囲まれた温泉博物館の屋根を見た。
片倉佳史:
「ただし、その場所は、私たちのために過去を保存しているわけではありません。台湾の人々が、自分たちの歴史として守ってきた場所です」
張鈞甯:
「日本人が懐かしいと感じてくれるのは嬉しいです。でも、その懐かしさの先に、台湾の物語も見てほしい」
阿川佐和子:
「日本の面影を入口にして、台湾の歴史へ入っていく」
温昇豪:
「入口で立ち止まらなければ、ですね」
空の色が、橙色から薄い紫へ変わっていく。
公園の照明が一つずつ灯り、温泉の川に細長く映った。
阿川は、昼に出会った女性のことを思い出していた。
阿川佐和子:
「今日、私が一番忘れられないのは建物ではありません。『よしこによろしく』という言葉です」
誰もすぐには答えなかった。
鳥の声が遠ざかり、代わりに夜の虫の音が聞こえ始める。
張鈞甯:
「届かないかもしれない言葉でも、誰かが受け取れば、完全には消えないのかもしれません」
リリー・フランキー:
「僕らが覚えていれば、少なくとも今日の間は、よしこさんはここにいたことになりますね」
温昇豪:
「そして、あのおばあさんも、もう一度子どもの頃に戻れた」
片倉は静かにうなずいた。
北投で見つけたものは、台湾に保存された昔の日本ではなかった。
日本人が造った建物。
台湾人がそこで送った生活。
忘れられた時代。
守り直された場所。
別れた友人の名前。
それらが何層にも重なり、一つの風景を作っていた。
過去は、一つの国だけのものではない。
しかし、誰のものでもないわけでもない。
そこに生きた一人ひとりの記憶があり、それぞれに異なる温度がある。
帰りの電車が新北投駅を離れる。
窓の外で、温泉の町の明かりがゆっくり遠ざかっていった。
阿川佐和子:
「懐かしいという言葉を、今日は簡単に使えなくなりました」
片倉佳史:
「使ってはいけないのではありません。その言葉の奥に、誰の時間があるのかを考えればいいのだと思います」
列車は暗くなり始めた台北の街へ戻っていく。
温泉の熱は身体から少しずつ消えていた。
しかし、昼に聞いた一人の名前だけは、一行の心に静かに残り続けていた。
よしこ。
どこかで、同じ北投の空を覚えているかもしれない人。
その夜、五人はそれぞれの部屋へ戻ってからも、しばらくその名前を忘れることができなかった。
Day 4: 山の町が隠してきた記憶をたどる一日

今日の案内人と旅の仲間
大泉洋
旅先の小さな不便や予想外の出来事を笑いに変えながら、人々の暮らしに自然に入り込んでいく。
石原さとみ
食、建築、町の表情に素直な好奇心を向ける一方、その美しさの奥にある人々の人生を丁寧に見つめる。
陳柏霖(チェン・ボーリン)
台湾人として、九份が海外からどのように見られているかを考えながら、観光地の裏側にある地元の生活を語る。
桂綸鎂(グイ・ルンメイ)
華やかな風景よりも、そこに残る沈黙や、失われた人々の記憶に心を向ける。
片倉佳史
九份と金瓜石の鉱山史、日本統治時代の建物、町が観光地へ変わっていった背景を案内する。
Today’s Route
ホテル出発
↓
台北から金瓜石へ
↓
黄金博物館
↓
鉱山労働者の町を歩く
↓
九份老街で昼食
↓
石段と茶館
↓
夕暮れの展望台
↓
提灯が灯る九份
Today’s Question
美しい風景だけを見て、その場所を知ったと言えるのだろうか。
Scene 1
海と山の間へ
朝八時半。
台北市内を出た車は、東へ向かって走っていた。
窓の外には、朝の交通量の多い市街地が流れていく。
スクーターの群れ。
信号待ちをするバス。
朝食の袋を片手に横断歩道を急ぐ人々。
やがて高い建物が減り、緑に覆われた山が近づいてきた。
空には薄い雲が広がっていたが、その隙間から時折、白い光が海面へ差し込んでいる。
海沿いの道へ出ると、窓の向こうに灰青色の海が広がった。
波が岩にぶつかり、白い泡となって消えていく。
車が山道へ入ると、道路は細くなり、何度も大きく曲がり始めた。
大泉洋:
「これは、なかなかの道ですね。運転していないのに、ハンドルを切りたくなります」
石原さとみ:
「さっきまで海が見えていたのに、今度は山の中です」
陳柏霖:
「九份と金瓜石は、海に近い山の斜面にあります。天気も変わりやすいです。台北が晴れていても、ここだけ雨ということもあります」
大泉洋:
「それは観光客にとって、なかなか手強い町ですね」
桂綸鎂:
「でも、霧や雨が似合う町でもあります」
片倉佳史が、山の斜面に見え始めた建物を指した。
片倉佳史:
「今日は最初に九份ではなく、さらに奥にある金瓜石へ向かいます。九份と金瓜石は、どちらも鉱山によって栄えた町です」
石原さとみ:
「金が採れたんですよね」
片倉佳史:
「はい。十九世紀末に金鉱が発見され、日本統治時代には大規模な採掘が行われました。世界的にも重要な鉱山の一つとなり、多くの人が働くために集まりました」
陳柏霖:
「今の静かな山の町からは想像しにくいですが、当時は非常に活気があったそうです」
大泉洋:
「つまり今日は、きれいな提灯の写真を撮って、お茶を飲むだけの旅ではないわけですね」
片倉佳史:
「もちろん、それも楽しんでいただきます。ただ、その景色が生まれる前に、どんな町だったのかも見ておきたいと思います」
車の窓に、小さな雨粒が一つ落ちた。
続いて、二つ、三つ。
山の上に近づくほど、周囲の景色が白い霧に包まれていった。
石原が窓ガラス越しに外を見つめた。
石原さとみ:
「町が、少しずつ昔の中に入っていくように見えますね」
桂綸鎂は、霧の向こうにかすむ山を見ながら静かに言った。
桂綸鎂:
「昔へ入るというより、昔のほうが、こちらへ近づいてくるのかもしれません」
Scene 2
金色の時代を支えた人々
黄金博物館のある金瓜石へ到着すると、雨は細かな霧雨に変わっていた。
濡れた石段。
山の斜面に並ぶ古い住宅。
樹木の葉から落ちる水滴。
遠くでは鳥の声が響き、その合間に、谷を吹き抜ける風の音が聞こえる。
一行は傘を差しながら、ゆっくり坂を上った。
片倉は、木造の建物の前で足を止めた。
片倉佳史:
「この一帯は、かつて鉱山会社の施設や職員住宅が集まっていた場所です。日本統治時代に建てられた日本式の建築も残されています」
建物の中へ入ると、外の湿気が少し遠のいた。
木の床が、歩くたびに小さく鳴る。
畳の部屋。
縁側。
山の緑を切り取るような窓。
一見すると、静かな別荘のようにも見えた。
石原さとみ:
「とても落ち着いた家ですね。ここだけを見ると、鉱山の町とは思えません」
片倉佳史:
「こうした住宅に住んだのは、主に会社の幹部や技術者でした。一方で、実際に坑道へ入った労働者たちは、異なる環境で暮らしていました」
大泉洋:
「同じ鉱山の町でも、立場によって見えていた風景が違うんですね」
陳柏霖:
「山の上の家から町を見る人と、地中深くで働く人では、一日の光の量さえ違ったと思います」
一行は展示室へ移動した。
壁には、鉱山で働く人々の白黒写真が並んでいる。
汚れた作業着。
手にした工具。
暗い坑道の入口。
肩を並べて写真に写る若い男性たち。
石原は、一枚の写真の前で立ち止まった。
石原さとみ:
「みんな、思ったより若いですね」
片倉佳史:
「危険な仕事でした。落盤、粉塵、事故。高温多湿の坑道で長時間働く必要もありました」
大泉洋:
「金と聞くと、輝いているものを想像しますけれど、採る場所は真っ暗なんですね」
桂綸鎂:
「人は、地上で輝くもののために、地下へ入っていった」
展示されていた鉱石の表面が、照明を受けてわずかに光っている。
その小さな輝きを見ながら、誰もすぐには言葉を続けなかった。
片倉は、鉱山の模型を指した。
片倉佳史:
「この地域では、日本人だけでなく、多くの台湾人も働きました。また、戦争中には連合軍の捕虜が労働を強いられた場所もあります」
部屋の空気が少し変わった。
雨が屋根を打つ音が、先ほどよりはっきり聞こえた。
石原さとみ:
「美しい町の観光案内だけでは、なかなか知ることのない話ですね」
陳柏霖:
「観光地は、見せたい顔を持っています。訪れる人も、見たい顔だけを探すことがあります」
大泉洋:
「でも、それだけ見て帰ったら、この町の半分も見ていないことになる」
桂綸鎂:
「半分というより、表面だけかもしれません」
一行は坑道を再現した展示へ入った。
入口をくぐると、空気が急に冷たくなる。
岩の壁。
薄暗い照明。
天井から落ちる水滴。
湿った土と金属の匂い。
遠くから、岩を砕くような音が再現されている。
カーン。
カーン。
その乾いた音が、狭い空間に何度も反響した。
大泉洋:
「数分いるだけで、外へ出たくなりますね」
石原さとみ:
「ここで、一日中働いていたんですよね」
片倉佳史:
「そして地上へ戻れば、家族がいました。町には学校、商店、映画館、病院もありました。鉱山は仕事だけではなく、生活全体を作っていたのです」
陳柏霖:
「だから鉱山が閉じるということは、仕事を失うだけではない。町の理由そのものがなくなることだった」
出口の先から、外の白い光が見えた。
一行はその光に向かって歩いた。
坑道を出ると、霧雨の山の空気が、先ほどより新鮮に感じられた。
桂綸鎂は振り返り、暗い入口を見つめた。
桂綸鎂:
「観光客は、暗い場所へ入り、数分で明るい場所へ戻れます。でも、昔の人は毎日、自分の家族のためにあの暗さへ戻っていったんですね」
Scene 3
山の斜面に残る暮らし
黄金博物館を出た一行は、古い住宅の残る坂道を歩いた。
石段は雨で濡れ、ところどころに苔が生えている。
家々の屋根は低く、その間を細い路地が縫うように伸びていた。
軒下には洗濯物が掛けられ、植木鉢には赤い花が咲いている。
観光施設から少し離れると、人の姿は急に少なくなった。
遠くでテレビの音が聞こえる。
鍋の蓋が触れ合う音。
家の中から流れてくる、醤油と生姜で何かを煮ている香り。
石原さとみ:
「ここは、本当に人が暮らしているんですね」
片倉佳史:
「観光客には古い町並みに見えますが、住民にとっては生活の場所です。家の前を毎日、大勢の人が通ることで苦労する方もいます」
大泉洋:
「自分の家を勝手に撮られたりすることもあるでしょうね」
陳柏霖:
「台湾では、人気の撮影場所になった家の前に、『ここは住居です』と書かれることがあります。それでも中へ入ろうとする人がいる」
大泉洋:
「観光客は、景色だと思った瞬間に、そこに生活があることを忘れてしまうんでしょうね」
坂の途中で、一人の高齢の男性が小さな椅子に座っていた。
足元には茶色い犬が寝そべっている。
片倉が挨拶すると、男性は一行を見て笑った。
男性:
「今日は霧だから、景色はあまり見えないよ」
片倉佳史:
「昔からこちらにお住まいですか?」
男性:
「生まれた時から。昔は、みんな鉱山の仕事をしていた」
男性は、霧に隠れた谷の方向を指した。
男性:
「あそこにも家がたくさんあった。夜になると明かりがいっぱい見えた。今は静かだ」
石原さとみ:
「鉱山が閉じた時、町はどうなりましたか?」
男性は少し考えた後、肩をすくめた。
男性:
「若い人は出ていった。仕事がないから。家だけ残った」
犬が目を開け、石原を一度見てから、再び頭を地面に置いた。
大泉洋:
「寂しかったですか?」
男性:
「その時はね。でも今は観光客が来る。うるさい時もある。でも、誰も来ないよりはいい」
陳柏霖が笑った。
陳柏霖:
「正直ですね」
男性も笑った。
男性:
「町は静かすぎても死ぬ。人が多すぎても疲れる。ちょうどいいのが難しい」
大泉は感心したようにうなずいた。
大泉洋:
「町も人間と同じですね。一人になりたいけれど、ずっと一人だと寂しい」
桂綸鎂:
「観光は町を救うこともある。でも、町を別のものに変えてしまうこともある」
片倉は、石段の下に続く住宅を見た。
片倉佳史:
「九份も同じです。鉱山が閉じた後、一度は忘れられた町になりました。しかし映画や観光によって再び人が集まり始めた。ただし、戻ってきたのは、かつての鉱山町ではありませんでした」
石原さとみ:
「同じ場所でも、違う理由で生き直したんですね」
男性に別れを告げ、一行は坂を下った。
後ろから男性の声が聞こえた。
男性:
「九份へ行くなら、たくさん食べてきなさい!」
大泉洋:
「この助言だけは、必ず守ります!」
霧の中に笑い声が広がった。
Scene 4
九份老街――人の波と台所の湯気
昼過ぎ、一行は九份老街の入口に着いた。
金瓜石の静かな路地とは対照的に、狭い通りは大勢の人で埋まっていた。
赤い提灯。
漢字の看板。
屋根から垂れる雨水。
傘と傘がぶつかり、人々は互いに身体をずらしながら進んでいる。
店先では、大きな鍋から湯気が上がっていた。
肉を煮込む甘い醤油の香り。
焼いたソーセージ。
胡椒餅。
芋を蒸した甘い匂い。
魚のつみれを煮るスープの香り。
それらが狭い通りの中で混ざり合っている。
大泉洋:
「これは前へ進むだけで技術が必要ですね」
石原さとみ:
「立ち止まると、すぐ後ろの人に追いつかれてしまいます」
片倉佳史:
「九份は鉱山が栄えた時代、労働者やその家族のための商店や飲食店が集まっていました。現在の老街には、観光客向けの店も増えていますが、芋圓や草仔粿など、地域で親しまれてきた食べ物もあります」
一行は、芋圓を出す店へ入った。
窓際の席からは、本来なら海と山が見えるはずだった。
しかし今日は、白い霧が谷全体を覆っている。
テーブルには、温かい芋圓が運ばれてきた。
紫、黄色、白の小さな団子が、甘い汁の中に浮かんでいる。
石原が一つ口に入れた。
石原さとみ:
「もちもちしています。でも、お餅とは少し違いますね」
陳柏霖:
「タロイモやサツマイモを使います。九份の代表的な食べ物として知られています」
大泉洋:
「色が違うと、全部確認したくなりますね」
桂綸鎂:
「確認という名前で、たくさん食べるんですね」
大泉は真剣な表情で、紫色と黄色の芋圓を見比べた。
大泉洋:
「文化を理解するには、比較が必要ですから」
店内の別のテーブルでは、家族が声を上げながら写真を撮っていた。
窓際へ移動し、料理を持ち上げ、何枚も角度を変えている。
大泉は自分の器を見つめた。
大泉洋:
「昔は、食べる前に写真を撮るなんてなかったですよね」
石原さとみ:
「でも写真があることで、後から味まで思い出すこともあります」
陳柏霖:
「反対に、写真を撮ることに集中して、その場の記憶が薄くなることもあります」
桂綸鎂:
「人は、思い出を残すために、思い出を経験する時間を失うことがあります」
大泉は、手にしていたスマートフォンを静かにテーブルへ置いた。
大泉洋:
「今の言葉を聞いた後だと、写真を撮りにくいですね」
桂綸鎂:
「撮ってもいいと思います。ただ、撮った後で自分の目でも見れば」
食事を終え、一行は再び老街へ出た。
古い菓子店では、女性が草餅を手際よく包んでいる。
その指は、考えるより先に動いているようだった。
片倉が声をかけると、女性は作業を続けながら話した。
女性店主:
「母から習いました。母は祖母から習いました」
石原さとみ:
「一日にいくつくらい作るんですか?」
女性店主:
「数えない。忙しい日は、ずっと作る」
大泉洋:
「手が覚えているんでしょうね」
女性店主:
「頭で考えると、遅くなるよ」
一同が笑った。
女性は、できたばかりの草餅を一つずつ手渡した。
温かく、柔らかい。
葉のような香りと、餡の控えめな甘さが口に広がった。
石原さとみ:
「さっき博物館で見た歴史とは違う形ですが、これも町の歴史ですね」
片倉佳史:
「記録に残る歴史と、手に残る歴史があります。作り方、味、身体の動き。文字に書かれなくても、次の世代へ渡されていくものです」
Scene 5
石段の途中にある茶館
午後三時を過ぎた頃、一行は九份を代表する石段へ向かった。
急な階段の両側に古い建物が並び、その軒先から赤い提灯が下がっている。
雨に濡れた石段は黒く光り、提灯の赤色を淡く映していた。
下から上ってくる人。
上から慎重に降りる人。
傘を閉じる人。
写真を撮る人。
店の中から聞こえる笑い声。
一行は石段の途中にある茶館へ入った。
木の扉を開けると、外の人混みの音が少し遠くなった。
室内には古い木の柱と家具があり、壁には書や陶器が飾られている。
炭火で湯を沸かす音。
茶葉を温めた時に広がる、香ばしく甘い香り。
窓の外では、霧がゆっくり動いている。
片倉が茶館の成り立ちを説明した。
片倉佳史:
「九份が観光地として再び注目されるようになった背景には、台湾映画の存在があります。閉山後に衰退していた町が、映画の舞台として知られ、多くの人が訪れるようになりました」
陳柏霖:
「映画は、忘れられていた町に新しい物語を与えました」
大泉洋:
「そして今は、映画を知らない人も、この風景を見に来る」
桂綸鎂:
「誰かが撮った物語が、町そのものの記憶より有名になることがあります」
店員が急須へ湯を注いだ。
最初の湯は茶葉を目覚めさせるために捨てられる。
二度目の湯が、五つの小さな茶杯へ注がれた。
石原は両手で杯を包み、香りを確かめる。
石原さとみ:
「この場所は、初めて来たのに、どこかで見た気がします」
大泉洋:
「写真や映像で何度も見ているからでしょうね」
片倉佳史:
「九份を日本のアニメ映画のモデルだと紹介する話をよく耳にします。しかし、制作側が公式にモデルと認めているわけではありません」
石原さとみ:
「それでも、多くの日本人はその物語を重ねて見ますよね」
陳柏霖:
「それ自体は自然なことだと思います。人は自分が知っている物語を通して、新しい場所を見ますから」
桂綸鎂:
「でも、自分の物語だけを見ていると、その土地の声が聞こえなくなる」
窓の外から、旅行者たちの歓声が聞こえた。
霧が一瞬薄くなり、山の斜面と、その向こうの海が姿を現したのだ。
全員が窓へ目を向ける。
しかし数秒後、景色は再び白い霧に包まれた。
大泉洋:
「ほんの一瞬でしたね」
桂綸鎂:
「全部見えないから、もっと見たくなるのかもしれません」
石原さとみ:
「観光も歴史も同じですね。少し見えただけで、全部分かったように思ってしまう」
片倉は茶を飲み、静かに答えた。
片倉佳史:
「旅の中で見えるものは、いつも一部分です。だからこそ、見えなかったものがあると意識する必要があります」
大泉洋:
「今日なら、坑道の中で働いていた人たちや、観光客が帰った後もここで暮らす人たちですね」
陳柏霖:
「写真の外側にいる人たちです」
一行はしばらく会話を止め、茶を飲んだ。
外では雨が提灯を濡らしている。
室内では急須の蓋が小さく鳴り、炭火の上で湯が静かに沸き続けていた。
Scene 6
提灯が灯る頃
夕方。
茶館を出ると、空はすでに薄暗くなっていた。
霧雨の中で、赤い提灯が一つ、また一つと灯り始めている。
昼間は目立たなかった小さな光が、暗くなるほど鮮やかになっていく。
濡れた石段。
赤い光。
傘の黒い影。
湯気を上げる屋台。
遠くから流れてくる台湾歌謡。
一行は人の流れから少し離れた場所に立ち、石段を見下ろした。
観光客たちは互いに写真を撮り、笑い、階段を行き交っている。
石原さとみ:
「きれいですね」
誰も否定しなかった。
今日一日、町の歴史や苦労を知った後でも、その風景はやはり美しかった。
大泉洋:
「美しいと言うことに、少し遠慮してしまいますね。鉱山で亡くなった人や、町を離れた人のことを知った後だと」
片倉佳史:
「美しいと思ってはいけないわけではありません。大切なのは、美しさだけで終わらないことです」
陳柏霖:
「町の過去を知ったからといって、提灯が暗くなるわけではありません。ただ、光の後ろにあるものが見えるようになる」
桂綸鎂:
「明るさを見るためには、暗さも必要ですから」
一行は、さらに石段を下った。
一軒の家の扉が開き、年配の女性が外へ出てきた。
女性は店の前に置かれた小さな椅子を片づけ、雨に濡れた床をほうきで掃き始めた。
その横では、観光客が何枚も写真を撮っている。
女性は慣れた様子で、特に気に留めることなく手を動かしていた。
石原さとみ:
「あの方にとっては、この景色は仕事の終わりの時間なんですね」
大泉洋:
「僕たちは『夢のような町』と言うけれど、あの人は明日の朝、また床を掃く」
片倉佳史:
「観光客が見ている九份と、住民が生きている九份は、同じ場所に重なっています」
展望の開けた場所へ出ると、霧の切れ間から海岸沿いの町の明かりが見えた。
遠くに小さな車の光が動いている。
山の斜面には家々の灯りが点在し、夜の海は黒く静かに広がっていた。
五人は手すりの前に並んだ。
石原さとみ:
「今日の朝は、九份へ来れば、台湾らしいきれいな風景が見られると思っていました」
大泉洋:
「実際、見られましたね」
石原さとみ:
「はい。でも、今はこの町を『きれいな町』だけでは説明できません」
陳柏霖:
「町は、説明しやすい言葉ほど、本当の姿から遠ざかることがあります。懐かしい町、美しい町、映画のような町。それは全部間違いではない。でも全部でもない」
桂綸鎂:
「私たちは、場所を一つの言葉に閉じ込めることで、安心するのかもしれません」
片倉が、暗い山の方向を見つめた。
片倉佳史:
「九份は鉱山によって生まれ、鉱山とともに衰退し、映画と観光によって別の形で生き直しました。今後もまた、町の姿は変わっていくでしょう」
大泉洋:
「変わらず残ってほしいと思うのは、観光客の勝手な願いでしょうか」
片倉佳史:
「住んでいる人が変化を望むこともあります。古い家は美しくても、生活には不便です。観光客が懐かしさを求める一方で、住民は安全で快適な暮らしを望んでいるかもしれません」
石原さとみ:
「残すことと、生きることが、いつも同じ方向ではないんですね」
下の石段から、子どもの笑い声が聞こえた。
小さな女の子が、赤い提灯を見上げながら母親の手を引いている。
その横を、荷物を運ぶ店の男性が急いで通り過ぎた。
観光客の夢と、住民の仕事が、同じ階段ですれ違っていた。
大泉は、山の町をもう一度見渡した。
大泉洋:
「今日の質問は、美しい風景だけを見て、その場所を知ったと言えるか、でしたね」
片倉佳史:
「はい」
大泉洋:
「知ったとは言えません。でも、美しいと思ったことが、もっと知りたいと思う入口にはなりますね」
桂綸鎂が小さくうなずいた。
桂綸鎂:
「入口で写真を撮って帰るか、その先へ少し歩くか。違いはそこかもしれません」
帰りの車へ向かう頃、雨はほとんど止んでいた。
石段に残った水が、提灯の光を揺らしている。
振り返ると、九份の町は夜の山に浮かぶ小さな島のように見えた。
美しく、懐かしく、どこか非現実的な光景。
しかし、その光の奥には、地中で働いた人々がいた。
鉱山が閉じ、故郷を離れた家族がいた。
静かになった町を守り続けた人がいた。
観光客を迎えながら、今もここで暮らしている人がいた。
車が山道を下り始める。
窓の外で、赤い提灯が少しずつ遠ざかっていった。
石原さとみ:
「明日、写真を見た時、最初に何を思い出すでしょうね」
陳柏霖:
「提灯かもしれません」
大泉洋:
「芋圓かもしれません」
全員が笑った。
少し間を置いて、桂綸鎂が言った。
桂綸鎂:
「私は、坑道の出口の光を思い出すと思います」
車内が静かになった。
山の上では、今夜も提灯が灯っている。
けれど五人の心に残った九份は、旅を始める前に思い描いていた町とは、もう少し違う場所になっていた。
美しい風景の向こう側へ、ほんの少しだけ足を踏み入れたからだった。
Day 5: 海へ流れていく記憶を見送る一日

今日の案内人と旅の仲間
笑福亭鶴瓶
初対面の人とも自然に言葉を交わし、歴史の説明だけでは見えない、その町に暮らす人々の温かさを引き出す。
上白石萌音
古い町並み、学校、音楽、家族の記憶に心を寄せ、小さな出来事の中に旅の意味を見つける。
林志玲(リン・チーリン)
日本と台湾の両方で活動してきた経験から、互いの国が相手をどのように見ているのかを語る。
劉以豪(リウ・イーハオ)
若い台湾人の視点から、歴史を受け継ぐことと、過去に縛られず未来へ進むことの間を考える。
片倉佳史
淡水の港町としての歴史、外国勢力の影響、日本統治時代の教育や町の発展を案内する。
Today’s Route
ホテル出発
↓
台北駅から淡水へ
↓
淡水老街
↓
古い市場と食堂
↓
紅毛城
↓
真理大学と淡江中学周辺
↓
川沿いの渡船
↓
漁人碼頭
↓
夕日を見ながら旅を振り返る
Today’s Question
過去を大切にするとは、昔の姿を守ることなのか。それとも、記憶を抱えながら新しく生きることなのか。
Scene 1
終点へ向かう電車
朝九時。
一行は台北駅から淡水信義線に乗った。
今日は、この旅の最終日だった。
車内の窓には台北の街並みが流れている。
高層ビル。
古い集合住宅。
朝食店の前に並ぶスクーター。
学校へ向かう学生たち。
地下を走っていた列車が地上へ出ると、窓から差し込む光が急に明るくなった。
建物の間隔が少しずつ広がり、遠くに山が見え始める。
上白石萌音:
「最終日だと思うと、同じ電車の景色も少し違って見えますね」
笑福亭鶴瓶:
「最初の日は、何を見るんやろうと思って外を見ますけど、最後の日は、もう終わるんかと思って見るんですよ」
林志玲:
「旅の終わりには、来た時には気づかなかったものが見えることがありますね」
劉以豪:
「台北の地下鉄も、最初はただの移動手段だったかもしれません。でも何日か乗ると、駅名や乗り換え方を覚えて、少し自分の町のように感じます」
鶴瓶は路線図を見上げた。
笑福亭鶴瓶:
「今日は終点まで行くんやね」
片倉佳史:
「はい。淡水は台北盆地を流れる淡水河の河口近くにあります。古くから交通と貿易の要所で、多くの国や文化が関わってきた町です」
上白石萌音:
「これまで訪れた場所は、日本との関係が強い場所が多かったですよね」
片倉佳史:
「淡水にも日本統治時代の歴史はあります。ただ、それだけではありません。スペイン、オランダ、清朝、西洋の宣教師、そして日本。それぞれが異なる時代に足跡を残しています」
笑福亭鶴瓶:
「一つの国の面影だけを探しても、この町は分からへんということですか」
片倉佳史:
「そうですね。むしろ今日の淡水では、台湾の歴史が一つの物語ではないことが、よく見えると思います」
列車は河に沿うように走り始めた。
窓の外に大きな水面が見える。
朝の光が風に揺れる水面で細かく砕けていた。
釣りをする人。
河川敷を自転車で走る人。
遠くをゆっくり進む小さな船。
上白石萌音:
「水を見ると、町が少し開いて見えますね」
林志玲:
「淡水は、台北の人が夕日を見に来る場所でもあります。若い人のデート場所としても有名です」
笑福亭鶴瓶:
「今日は歴史を勉強して、最後はデートですか」
劉以豪:
「五人ですけど」
笑福亭鶴瓶:
「ちょっと人数が多いな」
車内に笑いが広がった。
やがて列車は速度を落とし、淡水駅のホームへ入っていった。
終点を告げる音楽が流れる。
扉が開くと、川から届く湿った風が一行を迎えた。
Scene 2
港町の朝と、路地の食卓
淡水駅を出ると、すぐ近くに川が見えた。
広い遊歩道には、散歩をする人、写真を撮る観光客、犬を連れた家族が行き交っている。
しかし片倉は川沿いへは向かわず、古い町の路地へ入っていった。
大通りの賑わいが少し遠ざかる。
狭い道の両側には、低い建物が並んでいる。
古い看板。
金属製の格子戸。
軒下に積まれた野菜箱。
店先で魚をさばく音。
濡れた床から上がる市場の匂い。
片倉佳史:
「観光客の多くは川沿いの老街を歩きますが、少し内側へ入ると、地元の人が利用する市場や食堂があります。淡水は観光地である前に、普通の人が暮らす町です」
一行は古い市場へ入った。
魚、肉、青菜、豆腐、乾麺。
声を上げて客を呼ぶ店主たち。
買い物かごを持った高齢の女性たちが、商品を手に取り、値段を確かめている。
鶴瓶は、惣菜店の前で店主の男性に声をかけた。
笑福亭鶴瓶:
「これは何ですか?」
男性は中国語で説明しながら、揚げた魚のすり身を一つ差し出した。
林志玲が通訳する。
林志玲:
「淡水でよく食べられる魚のすり身です。試食していいそうです」
鶴瓶が一口食べる。
外側は少し香ばしく、中には魚の旨味と胡椒の香りが詰まっていた。
笑福亭鶴瓶:
「おいしい。これ、ご飯が欲しくなりますね」
店主は笑い、さらにもう一つ渡した。
笑福亭鶴瓶:
「いや、一つで大丈夫です」
店主は首を振り、鶴瓶の手に押し込んだ。
上白石萌音:
「もう気に入られていますね」
劉以豪:
「鶴瓶さんは言葉が通じなくても、知り合いのように見えます」
笑福亭鶴瓶:
「食べ物をもらったら、もう友達や」
一行は市場近くの小さな食堂に入った。
壁には古い写真が飾られ、天井の扇風機がゆっくり回っている。
料理は阿給と魚丸湯だった。
油揚げの中に春雨を詰め、甘辛いソースをかけた阿給から、湯気が立ち上っている。
上白石は箸で慎重に切った。
中から透明な春雨が現れ、ソースが染み込んでいた。
上白石萌音:
「不思議な組み合わせですね。でも、どこか家庭料理のような安心する味です」
林志玲:
「淡水へ来ると食べたくなる人が多いです。豪華な料理ではありませんが、この町を思い出す味なんです」
笑福亭鶴瓶:
「名物って、必ずしも一番ぜいたくな食べ物やないんですよね」
片倉佳史:
「むしろ、安くて日常的に食べられたものが、町を代表する味になることがあります」
隣のテーブルでは、年配の夫婦が同じ料理を食べていた。
夫が妻の器に魚のつみれを一つ移す。
妻は何も言わず、それを食べる。
特別な会話はない。
しかし、長い時間を一緒に過ごしてきた人たちだけが持つ静けさがあった。
上白石萌音:
「旅をしていると、知らない人の何気ない姿が、心に残ることがありますね」
劉以豪:
「その人たちにとっては、いつもの昼食なのに」
林志玲:
「自分の日常も、外国から来た誰かには、美しい風景に見えるのかもしれません」
片倉は、食堂の外を通る人々を見ながら言った。
片倉佳史:
「私たちは旅先で特別なものを探します。しかし、本当にその土地らしいものは、その土地の人が特別だと思っていない日常の中にあるのかもしれません」
Scene 3
一つの城に残る複数の国
午後、一行は坂道を上り、紅毛城へ向かった。
川沿いの平らな道から離れると、石段が続く。
気温はそれほど高くなかったが、湿った空気の中を歩くうちに、全員の額に薄く汗が浮かんだ。
坂の上に、赤い壁の建物が見えてくる。
青空を背景にした赤い城壁。
芝生。
大きな木。
その向こうには淡水河が広がっている。
片倉佳史:
「この場所には、スペイン人が築いた要塞がありました。その後、オランダ勢力が入り、建物を再建します。さらに清朝時代には、イギリス領事館として使われました」
笑福亭鶴瓶:
「建物一つで、ずいぶん持ち主が変わったんですね」
片倉佳史:
「台湾という島が、東アジアの海上交通で重要な位置にあったことを示しています」
上白石萌音:
「赤い壁なので、一つの時代の建物に見えます。でも、実際にはいくつもの時代が重なっている」
劉以豪:
「台湾の歴史そのものだと思います。誰かが来て、誰かが去って、その後に別の人が残された建物を使う」
城内へ入ると、厚い壁のおかげで外より少し涼しかった。
窓は小さく、そこから淡水河と対岸の山が見える。
遠くで船が動いていた。
林志玲は窓辺に立った。
林志玲:
「ここにいた外国人は、この景色をどんな気持ちで見たのでしょう。美しい異国の風景と思ったのか、それとも遠い故郷へ帰りたいと思ったのか」
片倉佳史:
「植民地や領事館の歴史を、建物の美しさだけで語ることはできません。ここは交流の場所であると同時に、力を競い合った場所でもあります」
笑福亭鶴瓶:
「昨日の九份もそうでしたけど、きれいな建物ほど、そこに至るまでの事情が複雑ですね」
上白石萌音:
「古いものが美しく見えるのは、時間が争いや痛みを少し隠してしまうからでしょうか」
片倉は壁に残る古い跡へ目を向けた。
片倉佳史:
「時間は傷を消すのではなく、見えにくくします。だから、こちらから近づいて見なければいけません」
建物を出ると、芝生の上で若いカップルが写真を撮っていた。
女性が赤い壁を背に立ち、男性が何度もスマートフォンの角度を変えている。
少し離れた場所では、子どもたちが走り回っていた。
過去に国家が争った場所で、今は家族や恋人たちが休日を過ごしている。
劉以豪:
「歴史的な場所が、平和な日常に使われているのは、いいことだと思います」
上白石萌音:
「痛みを忘れているようにも見えますか?」
劉以豪:
「忘れてはいけない。でも、ずっと悲しい場所のままにする必要もないと思います。子どもが走れる場所になったことも、歴史の続きです」
林志玲が静かにうなずいた。
林志玲:
「記憶を残すことと、幸せになることは、反対ではないんですね」
Scene 4
学校に残された言葉
紅毛城を出た一行は、緑に囲まれた道を歩き、真理大学の周辺へ向かった。
西洋風の煉瓦建築。
芝生の庭。
木陰を歩く学生たち。
教科書を抱えて急ぐ人。
ベンチで飲み物を飲みながら話す人。
歴史的な建物の間に、若い世代の日常があった。
片倉佳史:
「この地域では、カナダ出身の宣教師ジョージ・レスリー・マッケイが、教育や医療活動を行いました。淡水には、彼に関係する学校や教会、医療施設の歴史が残っています」
上白石萌音:
「外国から来た人が、ここに学校を作ったんですね」
片倉佳史:
「はい。もちろん宣教活動の一部でもありましたが、台湾の近代教育や医療に大きな影響を残しました」
笑福亭鶴瓶:
「外国人が来たという話でも、軍隊として来た人、商売で来た人、教えるために来た人では、残すものが違いますね」
林志玲:
「けれど、良いことをした人であっても、当時の文化や宗教を持ち込んだ側面があります。歴史上の人物を完全な善人か悪人かに分けるのは難しいですね」
劉以豪:
「今の価値観だけで過去を見ると、簡単に答えを出せます。でも、その時代に生きた人が何を考えていたかは、もっと複雑だと思います」
一行は、近くの古い学校建築が見える場所まで歩いた。
校舎から、ピアノの音が聞こえてきた。
窓の向こうで、誰かが同じ部分を何度も練習している。
途中で音が止まり、少し間を置いて、また最初から始まる。
上白石は足を止めた。
上白石萌音:
「旅先で学校の音を聞くと、不思議な気持ちになります。ここで毎日勉強している人がいるんですよね」
笑福亭鶴瓶:
「僕らには歴史的な建物でも、学生には遅刻しそうで走る場所や」
上白石萌音:
「私たちが感動して見ている階段を、学生は毎朝急いで上っているかもしれませんね」
ピアノの旋律が、今度は最後まで続いた。
少しぎこちなかった音が、一つの曲になっていく。
劉以豪:
「学校は、過去を教える場所ですが、未来のための場所でもあります」
片倉佳史:
「古い校舎を保存する意味も、昔のまま止めておくことではありません。そこで今の学生が学び、新しい人生を始める。建物が使われ続けていることに価値があります」
林志玲:
「保存するとは、触らずに置いておくことではなく、次の世代へ役割を渡すことなんですね」
鶴瓶は、校門から出てくる学生たちを見た。
笑いながら歩く数人の若者。
片手にはスマートフォン。
もう片方には授業で使った本。
笑福亭鶴瓶:
「若い人は、建物ほど過去を気にしてへんかもしれませんね」
劉以豪:
「それでいい部分もあると思います。過去を知らなければいけない。でも、過去のためだけに生きる必要はない」
上白石萌音:
「覚えている人と、前へ進む人。両方が必要なのかもしれません」
Scene 5
河を渡る短い旅
午後四時を過ぎた頃、一行は淡水の川辺へ戻った。
昼間よりも人が増えている。
屋台。
大道芸人。
自転車。
川を眺めながら飲み物を手に歩く人々。
一行は渡船に乗り、対岸の八里へ向かうことになった。
船はそれほど大きくない。
エンジンが動き始めると、船体が細かく震えた。
岸を離れる。
淡水の町並みが、少しずつ遠ざかっていく。
川から吹く風には、海の塩気がわずかに混ざっていた。
上白石の髪が風に揺れた。
上白石萌音:
「陸から見ていた町と、川から見る町では印象が違いますね」
片倉佳史:
「淡水は、陸の終わりではなく、水上交通の入口として栄えた町です。船で見ると、その役割が分かりやすいと思います」
笑福亭鶴瓶:
「昔はこの川を通って、人や品物や新しい文化が入ってきたんですね」
林志玲:
「そして出ていったものもあります。お茶や農産物、そこで暮らしていた人たち」
劉以豪:
「港は、出会う場所であると同時に、別れる場所でもあります」
船の横を、別の渡船が通り過ぎた。
向こうの乗客が手を振る。
鶴瓶もすぐに大きく手を振り返した。
相手の子どもが喜び、さらに両手を上げる。
上白石萌音:
「また友達ができましたね」
笑福亭鶴瓶:
「名前も知らんけど、もう友達や」
林志玲:
「旅では、二度と会わない人と笑い合うことがありますね」
笑福亭鶴瓶:
「二度と会わんから意味がないんやなくて、その一瞬だけでも一緒に笑ったことに意味があるんです」
船は川の中央を進んでいた。
一行は黙って風景を眺めた。
遠くには山。
水面には午後の光。
空を横切る鳥。
淡水の町と八里の岸が、川を挟んで向かい合っている。
上白石萌音:
「この旅で会った人たちも、もう二度と会わないかもしれませんね」
Day 1の乾物店の店主。
朝市の女性。
理髪店の男性。
北投で「よしこによろしく」と言った女性。
金瓜石の坂道に座っていた老人。
九份で草餅を作っていた店主。
それぞれの顔が、一行の記憶に浮かんだ。
片倉佳史:
「旅人は町を通り過ぎます。しかし、町の人は、旅人が去った後もそこで生活を続けます」
劉以豪:
「旅人の思い出の中では、会った人はその時の姿のままです。でも本人の人生は続いていく」
林志玲:
「だから旅の記憶は、少し不完全で、少し勝手なんですね」
船が対岸へ近づく。
係員がロープを準備し、乗客たちは出口へ向かい始めた。
短い航海だった。
しかし、岸を離れて町を見たことで、五日間歩いてきた台湾が、一つの場所ではなく、流れ続ける時間の中にあることが感じられた。
Scene 6
夕日の前で見つけた答え
一行は再び渡船で淡水側へ戻り、そこから漁人碼頭へ向かった。
夕方の空は、まだ明るい。
桟橋には、夕日を待つ人々が集まり始めていた。
家族。
恋人。
友人同士。
カメラを構える人。
ベンチに腰を下ろす人。
犬と一緒に海を眺める人。
一行は情人橋の近くを歩き、海に向かって開かれた場所まで進んだ。
風が強くなっていた。
水面には細かな波が立ち、太陽から伸びる光が、その波によって何度も途切れている。
空は青から金色へ変わり始めていた。
五人は並んで腰を下ろした。
旅の最初の日から、まだ五日しか経っていない。
しかし、迪化街の朝は、もっと前の出来事のように感じられた。
上白石萌音:
「Day 1では、日本が失った商店街を台湾で探していましたね」
笑福亭鶴瓶:
「最初は、台湾に昔の日本が残っていると思って来たんですよね」
林志玲:
「実際、似ているものはありました。古い商店、畳、温泉、木造建築、人と人との近い距離」
劉以豪:
「でも、それを台湾に残った日本とだけ呼ぶと、その後の台湾人の時間が消えてしまう」
片倉は、沈み始めた太陽を見ながらうなずいた。
片倉佳史:
「台湾には、日本統治時代に生まれた建築や制度、文化が残っています。それを否定する必要はありません。しかし、それらは戦後、台湾の人々によって使われ、改造され、守られ、時には忘れられました」
上白石萌音:
「残っているものは、もう日本だけのものではないんですね」
片倉佳史:
「はい。台湾の歴史の一部になっています」
太陽が少しずつ水平線へ近づく。
桟橋の人々が一斉にスマートフォンを上げ始めた。
鶴瓶もポケットからスマートフォンを出したが、少し考えて再びしまった。
笑福亭鶴瓶:
「今日は、目で見ときます」
上白石萌音:
「写真を撮らなくて大丈夫ですか?」
笑福亭鶴瓶:
「忘れたら、それはそれでええんです。全部覚えようと思うから、今を見られへんこともありますから」
劉以豪は、夕日を背に写真を撮る若いカップルを見た。
劉以豪:
「でも写真も必要だと思います。忘れた時に、もう一度戻る入口になります」
笑福亭鶴瓶:
「そうやな。どっちも正しいな」
林志玲:
「この旅で何度も出てきた答えですね。一つだけが正しいのではない」
太陽の下半分が、水平線に触れた。
空が橙色から赤へ変わっていく。
川と海の境界は、夕日の光の中で見えなくなっていた。
上白石は、膝の上で手を組んだ。
上白石萌音:
「今日の質問は、過去を大切にするとは、昔の姿を守ることなのか。それとも、記憶を抱えながら新しく生きることなのか、でした」
片倉佳史:
「今はどう思いますか?」
上白石は少し考えた。
上白石萌音:
「昔のまま保存するだけでは、過去を大切にしたことにならない気がします。そこにあった痛みや暮らしを知って、今を生きる人が使える形に渡していくことなのかもしれません」
劉以豪:
「僕もそう思います。若い人が古い建物で学んだり、昔の市場で新しい商品を売ったりする。それは過去を壊すことではなく、続けることです」
林志玲:
「ただし、新しくする時に、誰かの記憶を消してしまわないことも大切ですね」
笑福亭鶴瓶:
「全部残すことはできへん。でも、全部忘れたらあかん。その間を探し続けるしかないんでしょうね」
太陽は半分以上、水平線の向こうへ沈んでいた。
周囲から小さな歓声が上がる。
誰もが同じ夕日を見ている。
しかし、誰もが異なる一日を過ごし、異なる記憶を抱えてここに来ていた。
片倉佳史:
「この五日間で、日本を見つけましたか?」
鶴瓶は首を傾けた。
笑福亭鶴瓶:
「最初は日本を探していたけど、途中から台湾のことを知りたくなりました」
上白石萌音:
「私は、日本を見つけたというより、日本を見る目が少し変わりました」
林志玲:
「台湾を見ることで、自分の国を見直す。それも旅の役割ですね」
劉以豪:
「台湾人の僕も、皆さんと歩いたことで、普通だと思っていた風景を見直しました」
片倉は、夕日の最後の光を見つめていた。
片倉佳史:
「旅人が町から何かを持ち帰るだけでなく、町に住む人も、旅人の目を通して自分たちの暮らしを見つめ直すことがあります。旅は一方通行ではないのかもしれません」
太陽が完全に水平線の向こうへ消えた。
空にはまだ赤い光が残っている。
水面も、橋も、人々の顔も、その光に染まっていた。
夕日が消えても、誰もすぐには動かなかった。
数分前まで太陽があった場所を、全員が見つめ続けている。
上白石萌音:
「なくなった後も、光は残るんですね」
林志玲が微笑んだ。
林志玲:
「記憶みたいですね」
やがて空の赤色は薄れ、街の照明が一つずつ灯り始めた。
橋に白い光が入り、桟橋の店から音楽が聞こえてくる。
人々は夕食へ向かい、恋人たちは手をつなぎ、子どもたちは走り始めた。
夕日は終わった。
けれど、淡水の夜はこれから始まる。
五日間の旅で一行が見つけたのは、台湾に保存された昔の日本ではなかった。
乾物街に続く商売。
朝市の台所。
毎晩開かれる夜市。
台湾人の家族が暮らした日本家屋。
複数の記憶が残る温泉。
鉱山の暗闇から生まれた町。
観光客の夢と住民の生活が重なる石段。
異なる国の歴史を抱えた港。
それらは、過去の姿をそのまま残したものではない。
人々が使い、変え、守り、忘れ、もう一度見つけ直してきたものだった。
日本人がそこに懐かしさを感じることは、間違いではない。
しかし、その懐かしさは答えではなく、入口だった。
その入口を抜けた先に、台湾の人々が生きてきた時間がある。
そして台湾を見つめることで、日本人は、自分たちが何を失い、何をまだ取り戻せるのかを考え始める。
一行はゆっくり立ち上がった。
笑福亭鶴瓶:
「お腹が空きましたね」
上白石萌音:
「最後まで食べ物で終わるんですね」
笑福亭鶴瓶:
「人は歴史だけでは生きていけへんからね」
全員が笑った。
五人は明かりの灯った桟橋を、町へ向かって歩き始めた。
後ろでは、さきほど夕日が沈んだ海が、静かに暗くなっていく。
旅は終わろうとしていた。
しかし、町の暮らしは明日も続く。
市場の店は再び開き、夜市には明かりが灯り、北投では温泉の湯気が上がる。
九份の石段は朝の雨に濡れ、淡水の渡船は川の上を行き来する。
旅人が去った後も、台湾は思い出の中に止まることなく、新しい一日を生きていく。
だからこそ、本当に持ち帰るべきものは、昔の風景を閉じ込めた写真だけではない。
その風景の中で、今も誰かが生きているという感覚だった。
これでDay 1からDay 5まで、**「台湾に昔の日本を探しに行き、最後には台湾そのものと出会う」**という一つの旅の物語として完結します。
最後に

旅の最後に、私たちは一つの夕日を見ました。
その夕日は、日本人にも、台湾人にも、初めて台湾を訪れた旅行者にも、同じように静かに沈んでいきました。
しかし、その夕日を見ながら思い浮かべていた景色は、一人ひとり違っていました。
乾物街で笑っていた店主。
朝市で家族の朝食を買う人々。
北投で「よしこによろしく」と語った女性。
金瓜石の暗い坑道。
九份の提灯。
淡水の川を渡る小さな船。
旅とは、有名な場所を訪れることではありません。
その土地で暮らしている人々の時間に、ほんの少しだけ触れさせてもらうことです。
そして、本当の旅は帰国してから始まるのかもしれません。
台湾を見たことで、日本のことを考え始める。
懐かしいと感じた理由を問い直す。
失われたものを嘆くだけではなく、今の暮らしの中で取り戻せるものは何かを探し始める。
過去は、保存するだけでは生き続けません。
誰かが語り、歩き、使い、次の世代へ渡して初めて、歴史は未来になります。
この旅が、台湾を好きになるきっかけだけでなく、自分自身の故郷や家族、そして日々の暮らしを見つめ直す小さな入口になれば幸いです。
Short Bios:
片倉佳史(かたくら よしふみ)
台湾を30年以上取材し続ける紀行作家・写真家。観光地だけでなく、市場や商店街、鉄道、暮らしの風景を丹念に記録し、日本と台湾を結ぶ架け橋として活躍している。
内村光良
日本を代表するコメディアン・映画監督・司会者。穏やかな人柄と観察眼で、人の魅力を自然に引き出す。
綾瀬はるか
俳優。飾らない感性と柔らかな好奇心で、旅先の人々や文化を素直な視点から見つめる。
林依晨(アリエル・リン)
台湾を代表する俳優。台湾の日常文化と家族観を温かく伝え、多くの世代から支持されている。
許光漢(シュー・グァンハン/グレッグ・ハン)
俳優。台湾の若い世代を代表する存在として、伝統と現代を結ぶ視点を持つ。
日村勇紀
コメディアン。食文化や町の人々との交流を通して、その土地の魅力を自然体で伝える。
マツコ・デラックス
コラムニスト・タレント。懐古主義に流されず、社会や文化を多面的に読み解く鋭い視点で知られる。
周杰倫(ジェイ・チョウ)
シンガーソングライター・映画監督・俳優。台湾ポップカルチャーを世界へ広めたアーティストの一人。
徐若瑄(ビビアン・スー)
俳優・歌手。日本と台湾の両方で長く活動し、二つの文化を知る貴重な視点を持つ。
阿川佐和子
エッセイスト・インタビュアー。相手の記憶や人生を自然に引き出す聞き手として高く評価されている。
リリー・フランキー
作家・俳優・イラストレーター。日常の中にある孤独や優しさを独特の感性で描き続けている。
張鈞甯(チャン・チュンニン)
俳優。知性と落ち着きを兼ね備え、台湾社会や歴史を静かな視点から見つめる。
温昇豪(ウェン・シェンハオ)
俳優。台湾の家族や地域社会を描く作品への出演も多く、現代台湾の価値観を体現する存在。
大泉洋
俳優・タレント。ユーモアと人懐っこさで、旅先の空気を和ませながら本質的な問いを投げかける。
石原さとみ
俳優。豊かな感受性で建築や文化、人々の暮らしに目を向け、旅の感動を丁寧に言葉へ変える。
陳柏霖(チェン・ボーリン)
俳優。台湾を代表する国際派俳優として、現代台湾の魅力を自然体で伝えている。
桂綸鎂(グイ・ルンメイ)
俳優。静かな存在感と繊細な演技で、台湾映画を代表する実力派として知られる。
笑福亭鶴瓶
落語家・タレント。人との距離を一瞬で縮める温かな人柄で、多くの人々に親しまれている。
上白石萌音
俳優・歌手。文学や音楽への深い理解を持ち、小さな日常の美しさを丁寧に見つめる。
林志玲(リン・チーリン)
俳優・モデル。日本と台湾を結ぶ文化交流にも貢献し、国境を越えて愛される存在。
劉以豪(リウ・イーハオ)
俳優。若い世代の台湾を代表する俳優として、自然体で誠実な魅力を持つ。

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