はじめに
『沈黙のパレード』から生まれたこの5つの現代短編は、復讐そのものより、その後に人の心に残るものを描いています。
オハイオの父親は、誰かが代わりに復讐してくれることを心のどこかで望みました。
パレスチナ人の姉は、家族を守るための沈黙と、一人の人間を守るための真実の間で揺れます。
イスラエルの母親は、亡くなった娘を忘れまいとするうちに、憎んでいる男の方を強く記憶するようになります。
シカゴの妹は、兄が社会の象徴に変えられていく中で、きれいではない「本当の兄」を守ろうとします。
そしてエルサレムの外科医は、何十年も憎んできた男の命を、自分の手で救うことになります。
場所も文化も違います。
けれど五人が直面する問題は、よく似ています。
正義が十分に届かなかったとき、その怒りをどうするのか。
真実が人を傷つけると分かっていても、それでも語るべきなのか。
愛する人を忘れないことと、悲しみの中に住み続けることは同じなのか。
そして、許せない相手に自分の残りの人生まで渡さずに生きることはできるのか。
この5作品は、その問いに一つの答えを出すための物語ではありません。
むしろ、答えが出ないままでも、人は翌朝を迎えなければならないという現実を描いています。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Story 1 — 向かいの男
エミリーがいなくなってから、マーク・カーターは朝いちばんにカーテンを開けるようになった。
以前は違った。
以前の朝には、コーヒーの匂いがあって、妻のサラが食器を片づける音があって、二階からエミリーが「遅れる!」と叫びながら階段を駆け下りてきた。
十七歳の娘は、いつも靴下を片方だけリビングに忘れた。
マークがそれを拾って、
「またか」
と言うと、
エミリーは冷蔵庫からオレンジジュースを取りながら、
「明日から直す」
と答えた。
その「明日」は一度も来なかった。
今、マークがカーテンを開ける理由は一つだった。
道路の向こう側を見るためだ。
ダニエル・マーサーの家。
白い二階建て。
少し伸びすぎた芝生。
玄関脇の古い郵便受け。
エミリーがいなくなる前なら、マークはその家をほとんど意識したことがなかった。
今では、家の窓の位置まで覚えていた。
午前六時四十分。
玄関が開く。
ダニエルが出てくる。
グレーのパーカー。
黒い犬。
リードを左手に持つ。
いつもと同じだった。
マークはコーヒーカップを持ったまま立っていた。
ダニエルは犬と歩道へ出る。
家の前を通る。
角を曲がる。
そして消える。
マークは毎朝思った。
なぜあいつには朝が来るんだ。
エミリーには、もう来ないのに。
失踪から九か月後、警察はダニエルの家を捜索した。
近所中が見ていた。
パトカー。
黄色いテープ。
捜査官。
ニュース車両。
その日だけ、マークは初めて世界が自分の側へ動いた気がした。
ダニエルは以前にも、十九歳の女性が失踪した事件で事情聴取を受けていた。
起訴はされなかった。
今回も、最初はエミリーをほとんど知らないと言っていた。
ところが後になって、二人の間に短いメッセージのやり取りがあったことが分かった。
内容そのものは決定的ではなかった。
エミリーが近所の犬のことで連絡したこと。
ダニエルが返信したこと。
それだけ。
しかし、嘘は嘘だった。
「知らない」と言った男が、知っていた。
マークにはそれで十分だった。
警察には十分ではなかった。
遺体は見つからなかった。
血痕もない。
防犯カメラにも、決定的な映像はない。
そして、数週間後。
ダニエルは家へ戻ってきた。
何事もなかったように。
その夜、近所の人たちがカーター家へ集まった。
ビールを持ってきた人もいた。
キャセロールを持ってきた人もいた。
誰も食べなかった。
「信じられないよ」
隣のジェフが言った。
「どう考えてもあいつだろ」
誰かが頷いた。
別の誰かが言った。
「警察って、証拠、証拠、そればっかりだな」
マークは黙っていた。
サラはキッチンに立っていた。
「俺だったら耐えられない」
ジェフが言った。
「毎日あいつを見るなんて」
マークはビール瓶を見ていた。
「そのうち誰かが何かするんじゃないか」
部屋が一瞬静かになった。
誰が言ったのか、マークは後になって思い出せなかった。
ただ、その言葉が自分の中へ入ったことだけは覚えていた。
誰かが何かする。
マークは言った。
「馬鹿なことはするなよ」
何人かが頷いた。
会話は別の話へ移った。
だがその夜、全員が帰ったあと、マークはカーテンを閉めなかった。
向かいの家を見ながら、ソファで眠った。
サラはエミリーの部屋を少しずつ片づけ始めた。
最初に気づいたのは、机の上の化粧品が減っていたことだった。
次に、床に積まれていた雑誌。
それから、クローゼットの中の服。
ある土曜日、マークが二階へ上がると、サラが段ボール箱へエミリーの服を入れていた。
「何してるんだ」
サラは振り返らなかった。
「片づけてる」
「戻せよ」
サラの手が止まった。
「マーク」
「まだ帰ってくるかもしれないだろ」
サラはゆっくり立ち上がった。
「九か月よ」
「関係ない」
「あるわ」
「ない」
「あるの」
マークは段ボール箱を蹴った。
服が床へ落ちた。
サラは何も言わなかった。
その沈黙がマークをさらに怒らせた。
「エミリーのものを捨てるな」
「捨ててない」
「じゃあ何なんだ」
サラはしばらく夫を見ていた。
そして言った。
「あなた、エミリーを待ってるんじゃない」
マークは動かなかった。
「何だって?」
「待ってるのは、あの男が罰を受けることよ」
マークの顔が熱くなった。
「同じことだ」
「違う」
「違わない」
サラの目に涙が浮かんだ。
「いつからか、あなたはエミリーのことを話さなくなった」
「毎日話してるだろ」
「違う。話してるのはダニエルのこと」
マークは黙った。
「ダニエルが何時に犬を散歩した」
「誰と話していた」
「車を何時に出した」
「どの店に入った」
サラは声を落とした。
「あなた、エミリーよりあの男を見てる」
マークは部屋を出た。
階段を下りる途中で壁を殴った。
その夜、二人はほとんど話さなかった。
夕食のテーブルには三つの椅子があった。
マーク。
サラ。
そしてエミリー。
誰も座らない椅子。
そこだけは、まだ誰も動かしていなかった。
タイラー・グリーンは二十四歳だった。
四軒先に住んでいた。
エミリーが小さい頃から知っている。
昔はよく一緒にバスケットボールをした。
エミリーが中学生になってからは、タイラーを「近所のお兄ちゃん」と呼んでいた。
失踪後、タイラーはよくカーター家へ来た。
壊れた玄関の手すりを直した。
雪の日には歩道を除雪した。
サラがスーパーから帰ると、黙って荷物を運んだ。
いい青年だった。
少なくとも、誰もがそう思っていた。
ある晩、タイラーがマークのガレージへ来た。
マークは工具を片づけていた。
「ミスター・カーター」
「マークでいい」
「はい」
タイラーは入り口に立ったまま動かなかった。
「どうした」
「ちょっと聞きたいことがあって」
マークは工具箱を閉じた。
「何だ」
タイラーは道路の向こうを見た。
ダニエルの家。
「もし、あいつの家がなくなったら」
マークの手が止まった。
「何だって?」
「いや」
タイラーは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「もし、あいつがここからいなくなったら、少しは眠れると思います?」
マークは長いことタイラーを見た。
「俺に聞くな」
タイラーは頷いた。
「そうですよね」
「馬鹿なことはするな」
「してませんよ」
「ならいい」
タイラーは帰った。
マークは警察に電話しなかった。
サラにも話さなかった。
その夜、午前一時過ぎ。
スマートフォンが震えた。
タイラーからだった。
He won't be there forever.
あいつは永遠にあそこにいるわけじゃない。
マークは画面を見た。
返信欄に指を置いた。
Stop.
そう打った。
しばらく見た。
そして消した。
スマートフォンを伏せた。
そのままベッドへ入った。
眠れなかった。
火事は三日後だった。
午前二時十七分。
窓の外がオレンジ色に光った。
マークは跳ね起きた。
向かいの家のガレージが燃えていた。
火はすでに屋根へ回っていた。
「サラ!」
二人は外へ飛び出した。
近所の家々から人が出てくる。
誰かが911へ電話していた。
炎の向こうで、ダニエルが玄関から這い出てきた。
服が焼けていた。
両手と顔にひどい火傷を負っていた。
彼は地面へ倒れた。
消防士が駆け寄る。
ダニエルは何か叫んでいた。
最初は聞こえなかった。
もう一度叫んだ。
「リリー!」
消防士が家へ走った。
マークはその名前を知らなかった。
「誰?」
サラが呟いた。
誰かが言った。
「姪っ子じゃないか?」
十二歳だった。
週末だけ泊まりに来ていた。
マークは、その少女を見たことがあった。
何度か。
金曜日の夕方、小さなバックパックを持ってダニエルの家へ入る子。
気にしたことがなかった。
十分後、消防士が少女を運び出した。
顔は見えなかった。
小さな腕だけが毛布から出ていた。
その夜、マークの頭の中で、一つの言葉が何度も繰り返された。
子どもがいるなんて知らなかった。
近所の誰かが言っていた。
子どもがいるなんて知らなかった。
朝まで、その言葉が離れなかった。
そして午前五時ごろ。
別の問いに変わった。
子どもがいなければ、よかったのか。
警察は放火と判断した。
二日後、タイラーが逮捕された。
防犯カメラに映っていた。
ガソリンの購入記録。
スマートフォンの位置情報。
逃げる場所はなかった。
タイラーの母親が泣きながらカーター家へ来た。
サラが玄関で対応した。
マークは奥にいた。
話は聞こえなかった。
その夜、サラが言った。
「あなた、知ってた?」
マークはテレビを見ていた。
音は消してあった。
「何を」
「タイラー」
マークは答えなかった。
サラが夫を見る。
「何か知ってた?」
「知らない」
嘘ではなかった。
完全な嘘ではなかった。
「マーク」
「知らなかった」
サラは黙った。
「本当に?」
マークは妻を見られなかった。
翌朝、ニュースでリリーの状態が報じられた。
重度の火傷。
複数回の手術が必要。
命は助かる見込み。
マークはテレビを消した。
窓の向こうには、黒く焼けた家があった。
昨日まで毎朝そこから出てきた男はいない。
マークが何度も望んだ光景だった。
なのに何も感じなかった。
いや。
何も感じないことが怖かった。
タイラーとの面会は、逮捕から十日後だった。
マークは行くつもりはなかった。
弁護士を通してタイラーが会いたがっていると聞いた。
サラは止めなかった。
面会室で、タイラーはガラスの向こうに座っていた。
急に若く見えた。
二十四歳。
エミリーより七歳しか上ではない。
「ミスター・カーター」
「マークでいいって言っただろ」
タイラーは小さく頷いた。
「リリーのこと、知りませんでした」
マークは何も言わなかった。
「本当に」
「分かった」
「殺すつもりもなかった」
マークはタイラーを見る。
「じゃあ何をするつもりだった」
タイラーは答えられなかった。
「怖がらせたかっただけ?」
「分からないです」
「分からない?」
タイラーの目に涙が浮かんだ。
「みんな言ってたじゃないですか」
マークの胸が固くなった。
「何を」
「あいつは罰を受けるべきだって」
「だから火をつけたのか」
「ジェフも言ってた。リックも。みんな」
「みんなは火をつけてない」
タイラーの顔が変わった。
「でも思ってた」
マークは黙った。
「みんな同じこと言ってたじゃないですか」
タイラーはガラスへ近づいた。
「俺だけが、本当にやっただけですよ」
マークの口が乾いた。
「違う」
「何が違うんです?」
「俺は頼んでない」
タイラーはマークを見た。
「分かってます」
その返事が一番こたえた。
「あなたは頼んでない」
タイラーは続けた。
「でも止めもしなかった」
マークの心臓が強く打った。
「俺は馬鹿なことするなって言った」
「そうですね」
「言っただろ」
「言いました」
タイラーは少し笑った。
「でも、あの夜のメッセージ」
マークは動けなくなった。
「返信くれなかった」
マークはガラス越しにタイラーを見ていた。
「俺、あれで分かったんです」
「何を」
タイラーはしばらく黙った。
「止めないんだなって」
面会が終わっても、マークはしばらく立てなかった。
ダニエルは生きていた。
火傷はひどかった。
ニュースによると、最初に意識を取り戻したとき、自分の状態より先に姪について聞いたという。
「リリーは?」
それだけだった。
サラがそのニュースを見ていた。
マークはキッチンにいた。
聞こえていた。
聞きたくなかった。
「リリーは?」
その一言だけで、ダニエルの中に、自分が見ようとしなかった世界があることを知ってしまった。
彼にも心配する人がいる。
彼にも守りたい人がいる。
彼にも、誰かから「おじさん」と呼ばれる人生がある。
それでダニエルが無実になるわけではなかった。
エミリーに何が起きたのかも変わらない。
マークの疑いも消えなかった。
ただ、怪物だと思っていた男に、人間の輪郭が一瞬戻った。
マークは、それが嫌だった。
怪物のままでいてほしかった。
その方が簡単だった。
その日曜の朝。
サラがブルーベリーパンケーキを焼いた。
エミリーの好物だった。
正確には、エミリーはブルーベリーそのものは嫌いだった。
「潰れたら気持ち悪い」
と言って、いつも実だけ避けて、紫色になったシロップだけ食べていた。
マークはそのことを思い出した。
食卓には二人分の皿があった。
エミリーの椅子は壁際へ動かされていた。
マークは立ち止まった。
「椅子」
サラはフライパンを洗っていた。
「動かした」
「何で」
「座る人がいないから」
マークは何も言わなかった。
椅子は捨てられていない。
そこにある。
ただ、テーブルから少し離れた。
マークは座らず、窓の外を見た。
焼けた家。
黒い屋根。
割れた窓。
ブルーシート。
「警察に行く」
サラの手が止まった。
「何?」
「話してくる」
サラは夫を見た。
「何を」
マークは長く答えられなかった。
「タイラーのこと」
サラの顔が変わる。
「何を知ってたの?」
「知らなかった」
マークは言った。
そして首を振った。
「いや」
もう一度。
「知らなかった。でも……」
声が出なくなった。
サラは何も言わなかった。
マークは玄関へ向かった。
刑事は小さな取調室で話を聞いた。
若い女性だった。
マークはタイラーとのガレージでの会話を話した。
メッセージも見せた。
刑事が画面を確認した。
「返信は?」
「してません」
「なぜ?」
マークは手を見ていた。
「分からない」
刑事は何も言わない。
「本当に何をするかは知らなかった」
「分かりました」
「火をつけるなんて知らなかった」
「はい」
「俺は頼んでない」
刑事は答えなかった。
マークは顔を上げた。
「頼んでないんです」
「聞いています」
「俺がやったんじゃない」
刑事はペンを置いた。
「カーターさん」
マークは黙った。
「私は、あなたが火をつけたとは言っていません」
その瞬間、マークは自分が何をしているのか分かった。
刑事に説明しているのではなかった。
自分に説明していた。
俺じゃない。
頼んでない。
知らなかった。
何度繰り返せば、自分が信じられるのか。
マークは両手で顔を覆った。
長い時間が過ぎた。
刑事は急かさなかった。
やがてマークが言った。
「消えてほしかった」
刑事は動かなかった。
マークは手を下ろした。
「ダニエルが」
声が震えた。
「消えてほしいと思ってた」
刑事は黙っている。
「誰かが何かしてくれたらって」
マークの目から涙が落ちた。
「思ってた」
「でも火をつけろとは言ってない」
刑事はまだ何も言わない。
「俺は……」
マークはそこで初めて、最後まで言った。
「俺は、誰かが代わりにやってくれたらいいと思ってた」
部屋が静かになった。
その告白で、エミリーが戻るわけではなかった。
リリーの火傷が消えるわけでもない。
タイラーが自由になるわけでもない。
ダニエルの罪も無実も証明されない。
何一つ解決しなかった。
ただ一つだけ。
マークは、自分が何もしていない人間だとは、もう言えなくなった。
数週間後。
日曜日の朝。
サラがまたブルーベリーパンケーキを焼いた。
少し焦げていた。
マークは食卓に座った。
エミリーの椅子は壁際にあった。
その上には、以前なら絶対に置かなかった郵便物が何通か積まれていた。
マークはそれを見た。
サラも気づいた。
二人とも何も言わなかった。
窓の向こうには、焼けたダニエルの家があった。
修理はまだ始まっていない。
マークはいつもの癖で、そちらを見そうになった。
そのときサラが言った。
「冷めるわよ」
マークは振り返った。
皿の上のパンケーキ。
紫色のシロップ。
エミリーが好きだったもの。
マークはフォークを取った。
一口食べた。
少し硬かった。
「ちょっと焦げてるな」
サラはコーヒーを飲んだ。
「知ってる」
マークはもう一口食べた。
その朝だけは、
向かいの家を見ながら食べなかった。
Story 2 — 弟の名前
ラミが死んでから、父は彼の名前を毎日口にするようになった。
朝。
昼。
夜。
「ラミなら、こんなことはしなかった」
「ラミなら、もっと早く帰ってきた」
「ラミなら、この店を継いだ」
「ラミなら、お前よりずっと家族思いだった」
最後の言葉を聞くたびに、マリアムは笑うしかなかった。
笑わなければ、父に何か言ってしまいそうだったからだ。
ラミは弟だった。
二十二歳。
マリアムより四つ下。
大学へ通いながら、週末は父の店を手伝っていた。
いつもイヤホンを片方だけ耳に入れ、もう片方をぶら下げていた。
母に何度注意されても直さなかった。
「両方つけたら、お母さんの小言が聞こえなくなるから」
そう言って笑った。
母は怒ったふりをしながら、いつも最後には笑っていた。
そのラミがいなくなった。
ある夜、帰ってこなかった。
数時間後、家族は彼が死亡したことを知らされた。
何が起きたのか。
誰がどこまで関わっていたのか。
誰が何を話したのか。
はっきりしないことが多すぎた。
けれど家族の中では、しばらくして一つの名前が繰り返されるようになった。
サミール・ハリル。
同じ地区に住む四十代の男。
父の知り合いでもあった。
ラミとも何度か話していた。
そして事件の直前、ラミと会っていたらしい。
そのことを最初に否定した。
後から認めた。
父はそれで十分だと思った。
「密告したんだ」
ある夜、父が言った。
食卓の上には、母が作ったレンズ豆のスープがあった。
誰も食べていなかった。
「誰が?」
マリアムは聞いた。
父は彼女を見た。
「サミールだ」
「証拠は?」
父の顔が変わった。
「証拠?」
「本当にあの人が話したって分かってるの?」
「ラミが会った。そのあと死んだ」
「それだけ?」
父が拳をテーブルへ置いた。
「それだけじゃない」
母が小さく言った。
「もうやめて」
父は止まらなかった。
「サミールは嘘をついた」
「会ってないと言った」
「それから会ったと言った」
「なぜ嘘をつく?」
マリアムは答えなかった。
「後ろめたいからだ」
父はそう言った。
母はスープを混ぜた。
ラミの席だけ、器がなかった。
椅子は残っていた。
誰も座らなかった。
サミールは近所を歩いていた。
普通に。
パンを買う。
タクシーを呼ぶ。
薬局へ行く。
誰かと立ち話をする。
父はそれを見るたびに黙った。
声を出さなくなる。
顔だけが固くなる。
ある日、サミールが店の前を通った。
父はレジの奥にいた。
サミールは立ち止まらなかった。
父も呼び止めなかった。
その夜、父は夕食をほとんど食べなかった。
「何も言わなかったの?」
マリアムが聞いた。
父は返事をしなかった。
「話せばいいじゃない」
母がマリアムを見る。
「何を話すの」
父が言った。
「お前がやったのかって」
「聞いて、はいそうですって言うと思うか?」
マリアムは黙った。
父はラミの椅子を見る。
「そんな男だ」
母がスープをよそい直した。
「分からないでしょう」
父の手が止まった。
「何が?」
母はしばらく何も言わなかった。
「何が起きたのか」
父は妻を見た。
「またそれか」
「だって分からないもの」
「分かってる」
「あなたがそう思ってるだけ」
父が立ち上がった。
「お前は息子の味方じゃないのか?」
母の顔から血の気が引いた。
マリアムも息を止めた。
父は言ったあとで、自分が何を言ったか分かった。
けれど謝らなかった。
椅子を引き、外へ出た。
ドアが閉まった。
母はスープを見ていた。
マリアムは言った。
「お父さん、ひどい」
母は首を振った。
「悲しいのよ」
「お母さんだって悲しいでしょ」
「そうよ」
「だったら、どうしてあんなふうに言われて黙ってるの?」
母は答えなかった。
マリアムは苛立った。
「いつもそう」
母が顔を上げる。
「お母さんは、いつも何も言わない」
「何を言えばいいの」
「本当のこと」
母は娘を見た。
「本当のことって、何?」
マリアムは何も言えなくなった。
ラミの死から半年後、マリアムは大学の古いノートパソコンを整理していた。
弟が以前使っていたものだった。
父は触らなかった。
母も触らなかった。
マリアムだけが、授業の資料を移すために開いた。
デスクトップには写真が何枚も残っていた。
友人たち。
大学。
壊れた椅子。
猫。
食べかけのサンドイッチ。
何の意味もない写真ばかり。
マリアムは一枚ずつ見た。
ラミが生きていたころは、どれも価値がなかった。
今は全部捨てられなかった。
フォルダの奥に、音声ファイルがあった。
日付は、ラミが死ぬ三日前。
タイトルはなかった。
マリアムは再生した。
最初は風の音だけだった。
次に、ラミの声。
低く、急いでいた。
「分かった。明日会う」
別の声がした。
サミールだった。
マリアムは息を止めた。
音質は悪い。
でも間違いない。
「ここでは話すな」
サミールの声。
「誰にも言うな」
ラミが返す。
「だから助けてって言ってるんだ」
マリアムの指が止まった。
もう一度再生する。
「だから助けてって言ってるんだ」
助けて。
それまで家族の中で一度も出てこなかった言葉だった。
父の物語では、サミールがラミを裏切った。
ラミは何も知らずに巻き込まれた。
そういう話だった。
でも音声では違った。
ラミ自身がサミールへ連絡している。
助けを求めている。
何から?
誰から?
なぜ?
音声はそこで終わっていた。
マリアムはしばらく動けなかった。
翌日、サミールの家へ行った。
ドアを開けた彼は、驚かなかった。
疲れた顔をしていた。
「マリアム」
「話があります」
サミールは少し迷ってから、中へ入れた。
小さな部屋。
古いソファ。
棚に薬。
壁に家族写真。
マリアムは立ったままだった。
スマートフォンを出した。
音声を再生する。
サミールの顔が変わった。
「どこでそれを?」
「ラミのパソコン」
サミールは座った。
「何があったんですか」
サミールは答えない。
「弟はあなたに助けを求めてた」
沈黙。
「何を知ってたんです?」
サミールは両手を組んだ。
「君のお父さんには言えない」
マリアムの胸に怒りが上がった。
「またそれ?」
サミールが顔を上げる。
「みんな黙る」
「あなたも」
「母も」
「父は自分の答えしか聞かない」
声が震えた。
「ラミは死んだのに、誰も本当のことを言わない」
サミールはしばらく彼女を見ていた。
そして言った。
「ラミは怖がっていた」
マリアムは動かなかった。
「何を?」
サミールは窓の外を見る。
「自分が巻き込まれたことを」
「何に?」
「君が全部知らない方がいい」
マリアムは笑った。
「それ、誰が決めるんです?」
サミールは黙った。
「ラミ?」
「父?」
「あなた?」
「みんな私を守ってるつもり?」
サミールの顔が歪んだ。
「違う」
「じゃあ何?」
長い沈黙。
「守りたいのは、君だけじゃない」
マリアムは意味を理解するのに少し時間がかかった。
「誰を?」
サミールは答えなかった。
その答えない顔で分かった。
「家族?」
サミールが目を閉じた。
「ラミが何かしたの?」
「マリアム」
「何をしたの?」
「彼は悪い子じゃなかった」
マリアムの心臓が強く打った。
「そんなこと聞いてない」
サミールは顔を上げた。
「彼は、ある人たちのために荷物を運んだ」
「何の荷物?」
「知らなかったんだと思う」
「思う?」
「最初は」
マリアムは壁に手をついた。
「そのあと知った?」
「途中で気づいた」
「それであなたに来た?」
サミールは頷いた。
「やめたいと言った」
「怖いと言った」
「誰にも知られずに抜けたいと」
マリアムは弟の声を思い出した。
だから助けてって言ってるんだ。
「あなたは助けた?」
サミールは答えなかった。
「助けたんですか?」
「助けようとした」
マリアムの目から涙が出た。
「じゃあ、どうして死んだの」
サミールはうつむいた。
「分からない」
「嘘」
「本当に分からない」
「あなたが誰かに話したんでしょう」
サミールは顔を上げた。
「話していない」
「父はそう言ってる」
「君のお父さんがそう信じたいのは分かる」
マリアムの声が鋭くなる。
「信じたい?」
「息子が危険なことに関わっていたと考えるより」
サミールは言葉を止めた。
だが、もう遅かった。
「誰かに裏切られたと思う方が、楽なんですか」
サミールは答えなかった。
マリアムは泣いていた。
「あなた、ひどい」
「分かっている」
「父は毎日ラミの名前を言ってる」
「知っている」
「ラミは立派だったって」
「知っている」
「家族思いだったって」
「そうだった」
「でも、危ないこともしてた?」
サミールは小さく頷いた。
「人は一つではない」
マリアムはその言葉が嫌いだった。
その瞬間は。
「弟を哲学にしないで」
サミールは黙った。
家へ帰ると、父は店の奥で茶を飲んでいた。
母は豆を洗っていた。
「どこ行ってた」
父が聞いた。
マリアムは靴を脱いだ。
「サミールのところ」
父の顔が変わった。
「何しに」
「話しに」
父が立った。
「一人で?」
「うん」
「何を話した」
マリアムはスマートフォンを握った。
ここで音声を再生すればいい。
全部話せばいい。
それが正しい。
サミールが裏切った証拠はない。
ラミ自身が助けを求めていた。
父が作った物語は、少なくとも完全ではない。
言えばいい。
マリアムは父を見る。
この半年で、父は老けた。
髪が白くなった。
頬が落ちた。
ラミの名前を話すときだけ、昔の父に戻った。
少し誇らしげになる。
「ラミは弱音を吐かなかった」
「ラミは家族を裏切らなかった」
「ラミは誰よりもまっすぐだった」
その物語が父を生かしている。
マリアムは気づいてしまった。
真実を話すことは、父からその物語を取ることでもある。
「何を話した?」
父がもう一度聞いた。
マリアムは言った。
「何も」
母の手が止まった。
父は娘を見た。
「何も?」
「うん」
「何も知らないって?」
マリアムは頷いた。
「やっぱりそうか」
父は椅子に座った。
「嘘つきだ」
マリアムは母を見た。
母もこちらを見ていた。
その目で分かった。
母は何かを知っている。
前から。
その夜、マリアムは母の部屋へ行った。
父は寝ていた。
「お母さん」
母は窓を閉めていた。
「何?」
「知ってた?」
母の手が止まる。
「何を」
「ラミのこと」
母は振り向かなかった。
「危ないことに関わってたこと」
長い沈黙。
それで十分だった。
マリアムは声を抑えた。
「知ってたんだ」
母が椅子に座った。
「全部じゃない」
「どこまで?」
「怖がってたこと」
「どうして?」
「ある晩、帰ってきて泣いてた」
マリアムは息を止めた。
ラミが泣いた。
父の物語には存在しないラミだった。
「何て言ったの」
「何も」
「何も?」
「私に抱きついた」
母の目から涙が落ちる。
「子どもの頃みたいに」
マリアムは座った。
「それだけ?」
「助けてほしいって」
マリアムは目を閉じた。
また、その言葉。
助けて。
「じゃあ、どうして父に言わなかったの」
母は娘を見る。
「ラミが言わないでくれって」
「死んだあとも?」
母は答えなかった。
「今も?」
沈黙。
「お父さん、サミールを殺しかねないくらい憎んでるよ」
「分かってる」
「じゃあ言わなきゃ」
「何を?」
「ラミが……」
そこで言葉が止まった。
ラミが何をしたのか。
マリアム自身も全部は知らない。
母が言う。
「あなたのお父さんは、息子を失った」
「知ってる」
「その息子が、自分の知らないところで怖がって、間違って、助けを求めていた」
母は首を振った。
「それを今、全部渡したら」
「じゃあ嘘のままにするの?」
「嘘じゃない」
「嘘だよ」
マリアムの声が少し大きくなった。
「ラミは完璧じゃなかった」
母の顔が強張る。
「そんなこと言わないで」
「ほら」
母が娘を見る。
「お母さんも同じ」
「何が」
「ラミを守ってるんじゃない」
マリアムの目から涙が落ちた。
「自分が覚えていたいラミを守ってる」
母は何も言えなかった。
三日後、父の従兄が家へ来た。
男が二人一緒だった。
マリアムは店の奥で声を聞いた。
「このままにはできない」
「みんな知ってる」
「サミールはいつまで普通に歩くつもりだ」
父の声は低かった。
「何をするつもりだ」
「話をするだけだ」
マリアムの手が止まった。
Story 1のMarkなら、ここで黙っていた。
彼女はそれを知らない。
けれど同じ場所に立っていた。
何も頼まない。
何も命令しない。
ただ、止めない。
父が言った。
「俺は知らないからな」
男の一人が答えた。
「もちろん」
マリアムは店へ入った。
「やめて」
全員が振り向いた。
父の顔が硬くなる。
「何の話だ」
「サミールのところへ行くの、やめて」
従兄が笑った。
「誰もそんなこと言ってない」
「聞こえた」
父が立ち上がった。
「マリアム、部屋へ行け」
「行かない」
「これはお前の話じゃない」
「ラミの話でしょう?」
父が黙った。
マリアムはスマートフォンを出した。
手が震えていた。
「じゃあ聞いて」
父の顔が変わる。
「何を」
マリアムは音声を再生した。
風の音。
ラミの声。
「分かった。明日会う」
そしてサミール。
「ここでは話すな」
ラミ。
「だから助けてって言ってるんだ」
父が動かなくなった。
音声が終わる。
誰も話さない。
「何だ、これ」
父の声はかすれていた。
「ラミのパソコンにあった」
「いつ」
「死ぬ三日前」
父がスマートフォンへ手を伸ばした。
マリアムは渡した。
父はもう一度再生した。
「だから助けてって言ってるんだ」
父の指が震えた。
「何を助けてほしかったんだ」
マリアムは答えられない。
「何を?」
「危ないことに関わってた」
父が顔を上げる。
「誰が言った」
「サミール」
父が笑った。
「ほら」
マリアムは胸が痛くなった。
「違う」
「やっぱりあいつが嘘を」
「違うって」
「ラミを悪者にして自分を守ってるだけだ!」
母が店の入口に立っていた。
「違うの」
父が妻を見る。
母は泣いていた。
「私も知ってた」
父の顔から表情が消えた。
「何を」
母は答えられない。
「何を知ってた?」
母が言った。
「ラミが怖がってた」
父は動かなかった。
「あなたに言えないって」
「どうして俺に」
「がっかりさせると思ってたから」
父は椅子に座った。
音も立てずに。
従兄たちは何も言わず、店を出ていった。
その夜、父はラミの椅子に座った。
初めてだった。
マリアムも母も何も言わなかった。
父はずっとテーブルを見ていた。
「何をしたんだ」
誰に聞いているのか分からなかった。
マリアムは言った。
「全部は分からない」
「悪いことか」
「たぶん」
父は目を閉じた。
「ラミが?」
「うん」
「俺のラミが?」
マリアムの胸が締めつけられた。
「お父さん」
「俺はあの子を知らなかったのか」
母がすぐに言った。
「知ってたわ」
父が妻を見る。
「何を?」
母は椅子を少し近づけた。
「笑うところ」
「怒るところ」
「食べ方」
「眠いときの顔」
「小さい頃、雷が怖かったこと」
父の目に涙が浮かぶ。
「でも、こんなこと知らなかった」
「全部知ってる親なんていないでしょう」
父は何も言わなかった。
マリアムが小さく言った。
「私も知らなかった」
父が娘を見る。
「でも、ラミはラミだよ」
父は首を振った。
「分からない」
「分からなくていい」
その言葉を言った自分に、マリアム自身が驚いた。
「今は」
父は泣いていた。
「サミールは?」
マリアムは答えた。
「分からない」
「裏切ったのか?」
「分からない」
「じゃあ誰のせいなんだ」
マリアムは父を見る。
「分からない」
父の顔が歪んだ。
「それじゃ何もないじゃないか」
マリアムは黙った。
父はテーブルを叩かなかった。
怒鳴らなかった。
ただ泣いた。
「誰かのせいにしたかった」
初めてだった。
父がそう言ったのは。
「分かってる」
「サミールならよかった」
マリアムは息を止めた。
父は続けた。
「あいつ一人が悪ければよかった」
誰も否定しなかった。
翌朝、母がパンとオリーブとチーズを並べた。
父は遅れてきた。
いつもの自分の席へ向かった。
途中で止まった。
ラミの椅子を見る。
昨夜、自分が座った椅子。
父はしばらく立っていた。
そして、その椅子を少しだけテーブルへ寄せた。
母が見た。
マリアムも見た。
父は座らなかった。
誰にも座らせなかった。
ただ、以前より近く置いた。
「サミールに会う」
父が言った。
マリアムの手が止まる。
「何しに?」
父はパンをちぎった。
「分からない」
それから少し考えた。
「聞きに行く」
「何を?」
父は長く黙った。
「ラミが、何を怖がってたのか」
マリアムは父を見た。
「怒らない?」
父は苦しそうに笑った。
「怒ると思う」
母が俯く。
「でも」
父はラミの椅子を見た。
「俺が聞きたいラミじゃなくて」
声が少し震えた。
「本当のラミのことを聞く」
マリアムは何も言えなかった。
母が父の前に茶を置いた。
父は一口飲んだ。
苦かったのか、少し顔をしかめた。
その顔を見て、マリアムは突然思い出した。
ラミも同じ顔をした。
熱い茶を飲むたびに。
父と同じように。
彼女は笑いそうになった。
そして泣きそうになった。
その朝、父は初めてラミの名前を口にしなかった。
けれど誰も、
彼を忘れたとは思わなかった。
Story 3 — 空いた椅子
金曜日の夕方になると、ミリアム・レヴィは必ず七本のキャンドルを出した。
二本はShabbatのため。
一本は夫の父親のため。
一本は自分の母親のため。
そして三本は、もう誰も理由を聞かなくなった。
そのうち一本だけ、少し細い白いキャンドルがあった。
それはノアのためだった。
二十六歳で死んだ娘。
ミリアムは毎週、そのキャンドルを同じ場所に置いた。
食卓の端。
空いた椅子の前。
ノアの椅子だった。
誰も座らなかった。
夫のダヴィドも。
妹のヤエルも。
孫たちも。
客が来ても、その椅子だけは空けていた。
最初の一年、誰も何も言わなかった。
二年目も。
三年目になると、ヤエルが一度だけ聞いた。
「いつまで?」
ミリアムは何を聞かれているのか分かっていた。
「何が?」
「椅子」
ミリアムは答えた。
「座りたいの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、そのままでいいでしょう」
それからヤエルは聞かなくなった。
ノアが死んだ日のことを、ミリアムは細部まで覚えていた。
電話が鳴った時間。
窓の外の光。
冷蔵庫に残っていたレモン。
ダヴィドが靴を履くとき、一度ひもを結び直したこと。
ヤエルが何も言わず壁際に座ったこと。
何年経っても、その日の記憶だけは薄くならなかった。
むしろ他の記憶の方が消えていった。
ノアが七歳のとき、何色のランドセルを欲しがったか。
十二歳のとき、誰と喧嘩したか。
高校で何を嫌っていたか。
そんなことは少しずつ曖昧になった。
でも、ノアが死んだ日だけは鮮明だった。
そしてもう一つ、鮮明になり続けたものがあった。
アヴィ・ベン=アミ。
ミリアムは彼の名前を忘れなかった。
忘れるわけがなかった。
ノアの死に関わったと、ミリアムが信じている男。
警察は事情を聞いた。
証拠は不十分だった。
起訴されなかった。
ミリアムには納得できなかった。
最初は警察へ電話した。
次に弁護士へ。
その次は記者へ。
ネットで名前を検索した。
勤務先。
住所。
過去の発言。
家族構成。
写真。
どこで働いているか。
何をしているか。
誰と写っているか。
数年後には、彼がどんな眼鏡をかけているかまで知っていた。
ダヴィドはある日言った。
「もうやめたらどうだ」
ミリアムは振り返った。
「何を?」
「検索するのを」
「なぜ?」
「何も変わらない」
ミリアムは冷たく笑った。
「あなたは変わってもいいのね」
ダヴィドの顔が止まった。
「そういう意味じゃない」
「私は忘れない」
「誰も忘れろなんて言ってない」
「なら言わないで」
ダヴィドは黙った。
それから、彼も言わなくなった。
ヤエルは母親と違った。
最初の一年は、ノアの話をたくさんした。
くだらない話まで。
ノアが映画館でいつも途中で寝たこと。
道路標識を読むのが好きだったこと。
知らない犬を見るたびに勝手に名前をつけたこと。
辛い料理が苦手なのに、毎回注文して後悔したこと。
けれどミリアムは、いつも最後に同じところへ戻した。
「アヴィがあの日、あそこにいなければ」
「アヴィは何を知っていたのか」
「どうして警察はもっと調べなかったのか」
「誰かが守ったんじゃないか」
ヤエルはそのたびに黙った。
ある金曜日、Shabbatの食卓で、ダヴィドがノアの昔の写真を出した。
海辺で撮ったものだった。
ノアは二十歳。
髪が風で全部顔にかかっている。
ヤエルが笑った。
「これ覚えてる。写真撮る直前に転んだんだよね」
ダヴィドも笑った。
「そうだった」
ミリアムは写真を見た。
「この旅行の二年後よ」
ヤエルの笑顔が消えた。
「何が?」
「アヴィが最初にノアと接触したの」
食卓が静かになった。
ダヴィドが低く言う。
「ミリアム」
「事実でしょう」
ヤエルは写真を手に持ったまま母を見ていた。
「今それ言う?」
「何が悪いの」
「私、ノアのこと話してたんだけど」
「私もよ」
「違う」
ミリアムの顔が硬くなる。
「何が違うの?」
ヤエルは写真をテーブルへ置いた。
「ママはノアのこと話してない」
ミリアムは黙った。
「アヴィのこと話してる」
ダヴィドが小さく息を吐いた。
「ヤエル」
「だってそうじゃない」
ヤエルは母を見る。
「ノアの写真を見てもアヴィ」
「ノアの誕生日でもアヴィ」
「ノアの好きだった店へ行ってもアヴィ」
「Shabbatでもアヴィ」
ミリアムの声が低くなる。
「あなたは何を言いたいの」
ヤエルの目に涙が浮かんだ。
「ママは、ノアよりあの男のことを覚えてる」
ミリアムの手が止まった。
「そんなことない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
「やめなさい」
「ママ、アヴィがどこで働いてるか知ってるでしょう」
「知ってる」
「去年引っ越したことも」
「知ってる」
「娘が二人いることも」
「知ってる」
「その娘がどこの学校に行ってたかも」
ミリアムは答えなかった。
ヤエルは泣きながら言った。
「じゃあノアが最後に好きだった映画は?」
ミリアムは口を開いた。
言葉が出なかった。
ヤエルもそれに気づいた。
「ほら」
「忘れただけよ」
「アヴィのことは忘れないのに?」
ミリアムは立ち上がった。
椅子が床を擦った。
「もういい」
「よくない」
「黙りなさい」
ヤエルも立った。
「ママは、ノアを忘れたくないんじゃない」
ミリアムの顔が赤くなる。
「何ですって?」
「怒りを手放したくないんだよ」
ダヴィドが立ち上がった。
「やめろ」
ヤエルは止まらなかった。
「怒ってる間は、ノアのために戦ってる気がするから」
ミリアムの目から涙が出た。
「あなたに何が分かるの」
「私も姉を失った」
「母親じゃない」
「そうだよ」
ヤエルの声も震えた。
「でも私は妹なの」
部屋が静かになった。
「私だってノアを失った」
ミリアムは何も言えなかった。
ヤエルは空いた椅子を見る。
「でもこの家で、ノアを悲しむ方法は一つしかないみたい」
「怒ること」
「アヴィを憎むこと」
「忘れないって言い続けること」
ヤエルは母を見る。
「私、笑ったら裏切り者みたいだった」
ミリアムの表情が変わった。
「そんなこと思ってたの?」
「思ってたよ」
「誰がそんなこと」
「誰も言ってない」
ヤエルは涙を拭いた。
「でも、ずっとそう感じてた」
その夜、Shabbatの食事はほとんど残った。
数日後、ミリアムは一人でノアの部屋へ入った。
部屋はもう、昔のままではなかった。
ヤエルが少しずつ整理していた。
ダヴィドも何かを箱へ入れていた。
けれど一番上の棚だけは誰も触っていなかった。
ノアの古い箱。
ミリアムは椅子に乗って下ろした。
写真。
チケット。
ノート。
意味の分からないメモ。
小さな貝殻。
そして古いスマートフォン。
充電すると、まだ動いた。
写真を開いた。
最初の数枚は普通だった。
友人。
カフェ。
空。
靴。
ノア自身。
そして動画が一本あった。
三十秒ほど。
再生した。
画面にはノアとヤエルが映っていた。
二人とも台所にいる。
ヤエルが何かを焦がしている。
ノアが笑っていた。
「やばい、ママ来るよ」
「黙って!」
「無理、絶対バレる」
「窓開けて!」
二人が笑う。
ノアがカメラへ顔を近づける。
「これ見つかったら、全部ヤエルのせいだから」
そこで動画が終わった。
ミリアムはもう一度見た。
もう一度。
三度目で、途中で止めた。
泣いた。
久しぶりに、アヴィのことを考えずにノアを見ていた。
そのことに気づいた瞬間、別の罪悪感が来た。
こんなに笑っていた娘を、自分はいつから死んだ日の顔だけで思い出していたのだろう。
次の金曜日。
ミリアムはいつものように七本のキャンドルを出した。
そして途中で止まった。
一本減らした。
六本。
ノアのキャンドルをやめたわけではなかった。
ノアのものは残した。
ただ、誰のためか分からない二本を箱へ戻した。
ダヴィドが見ていた。
何も言わなかった。
ヤエルは少し遅れて来た。
孫たちも一緒だった。
食卓にはノアの椅子があった。
空いたまま。
ミリアムはそこを見た。
そして言った。
「それ、こっちへ動かして」
ダヴィドが聞き返した。
「椅子?」
「うん」
誰も動かなかった。
ヤエルが母を見る。
「どこに?」
ミリアムは窓際を指した。
「そこ」
ダヴィドが椅子を持ち上げた。
食卓から離した。
窓の横。
ノアの写真が置いてある棚の下。
ミリアムは小さな額を持ってきた。
海辺の写真。
髪が全部顔にかかっているノア。
それを椅子の上ではなく、棚へ置いた。
ヤエルが黙って見ていた。
「座っていいの?」
孫の一人が聞いた。
ミリアムは空いた場所を見る。
椅子が一つなくなった食卓。
少し狭く感じる。
「いいわよ」
子どもがそこへ椅子を持ってきた。
新しい椅子。
誰かが座るための椅子。
食事が始まった。
パン。
魚。
サラダ。
スープ。
ミリアムは最初、ほとんど話さなかった。
ダヴィドが孫に学校のことを聞いた。
ヤエルが仕事の話をした。
普通の会話。
それが少し怖かった。
ノアがいないのに、普通だった。
そのときヤエルが言った。
「これ、ノア好きだったよね」
魚料理を指していた。
ミリアムは頷いた。
「骨が嫌いだったけどね」
ヤエルが笑う。
「自分で取らないんだよね」
ダヴィドも笑った。
「いつも俺に渡す」
ミリアムも笑った。
本当に。
少しだけ。
そして言った。
「二十歳のときなんて、魚の骨を全部私の皿に置いたのよ」
ヤエルが笑った。
「それ覚えてない」
「私は覚えてる」
ミリアムはそう言った。
その瞬間、少し驚いた。
ノアの話をしている。
アヴィの名前を出さずに。
それだけのことだった。
でも長い間、できなかった。
食事のあと、ヤエルがキッチンへ来た。
ミリアムは皿を洗っていた。
「ママ」
「何?」
「ありがとう」
ミリアムは蛇口を止めた。
「何が?」
ヤエルは首を振る。
「別に」
ミリアムはしばらく娘を見た。
そして言った。
「私は、あの人を許さない」
ヤエルは何も言わなかった。
「たぶん一生」
「うん」
「今でも、何か知ってたと思ってる」
「うん」
「もしかしたら、本当に関わってたかもしれない」
「うん」
ミリアムは皿を拭いた。
「でも」
少し間を置いた。
「もう、毎日見なくてもいいのかもしれない」
ヤエルの目に涙が浮かんだ。
「何を?」
「彼を」
それ以上は言わなかった。
数週間後。
ミリアムは一人でパソコンを開いた。
検索窓には、アヴィの名前が残っていた。
何年も毎日のように入力した名前。
新しい記事が一件出ていた。
クリックしようとした。
指が止まった。
しばらく見た。
閉じた。
代わりに写真フォルダを開いた。
ノア。
海。
台所。
友人。
変な帽子。
焦げた料理。
ヤエルと笑っている動画。
ミリアムは一枚を開いた。
ノアがパンを口いっぱいに入れている写真。
美しくもない。
悲しくもない。
ただ、ノアだった。
ミリアムは笑った。
それから泣いた。
両方だった。
次の金曜日。
キャンドルに火をつけた。
ノアの写真は窓際にあった。
椅子もそこにあった。
でも、空席ではなかった。
その上には毛布が置かれていた。
孫が寒いと言ったとき使うためのもの。
食卓では、ダヴィドがワインを注いでいた。
ヤエルがパンをちぎった。
孫が何かをこぼした。
ミリアムは叱った。
みんなが笑った。
その途中で、ミリアムはノアの写真を見た。
そして初めて思った。
忘れていない。
怒っていないわけでもない。
許したわけでもない。
ただ。
ノアを思い出すために、もうアヴィを必要としなかった。
それで十分だった。
Story 4 — みんなが見た映像
最初の動画は、四十二秒だった。
四十二秒で、兄の人生は一つの物語になった。
黒いジャケット。
夜の歩道。
ナイトクラブの入口。
叫び声。
警備員の腕。
地面に倒れる兄。
誰かの悲鳴。
そして画面が揺れたところで終わる。
動画は翌朝には何百万回も再生されていた。
兄の名前は、マーカス・リード。
二十八歳。
シカゴ南部で育った。
高校ではバスケットボールをしていた。
母親に毎週日曜電話することを、一度も忘れなかった。
妹のニアには、誕生日になると必ず十ドルだけ多く入ったギフトカードを送った。
理由を聞くと、
「税金分」
と言った。
意味はなかった。
マーカスはそういう人だった。
くだらない冗談を真顔で言う。
人を笑わせる。
怒ると声が大きくなる。
間違っても、なかなか謝らない。
優しいところもあった。
面倒なところもあった。
でも四十二秒の動画の中には、そのどれも映っていなかった。
映っていたのは、
倒されるマーカス。
それだけだった。
三日後、ニアの家の前には記者がいた。
母のデボラは、最初は話さないと言っていた。
それでも一週間後にはカメラの前に座っていた。
「息子は帰ってきません」
母はそう言った。
「でも、何が起きたのかは知りたいんです」
その映像も拡散された。
SNSでは、兄の写真が何千回も使われた。
高校卒業の日。
母と笑っている写真。
甥を抱いている写真。
教会の前に立っている写真。
知らない人たちがコメントした。
彼のために正義を。
彼は家に帰るはずだった。
警備員を逮捕しろ。
警備員の名前はエリック・ウォレス。
三十九歳。
元軍人。
二児の父。
その情報もすぐに広がった。
住所まで出た。
勤務先には脅迫電話が届いた。
妻のSNSも見つけられた。
子どもの学校名まで投稿された。
ニアは、それを見たとき少し怖くなった。
でも何も言わなかった。
兄が死んだ。
その方が大きかった。
事件から二週間後。
大きな集会が開かれた。
ニアは母の隣に座った。
舞台上にはマーカスの大きな写真があった。
笑っている。
きれいな写真だった。
司会者が言った。
「マーカスは暴力の被害者になりました」
拍手が起きる。
「彼の声を奪うことはできても、私たちの声を奪うことはできません」
歓声。
ニアは座っていた。
手元のプログラムを折っていた。
母は泣いていた。
周囲の人が母の背中をさすった。
その瞬間、ニアは妙なことを思った。
兄なら、この状況を嫌がっただろう。
大きな自分の写真。
知らない人たちの拍手。
真面目な音楽。
マーカスならきっと、
「俺、そんな聖人じゃないって」
と言った。
その想像で、少し笑いそうになった。
ニアは笑わなかった。
ここでは笑ってはいけない気がした。
一か月後、弁護士から電話が来た。
「見ていただきたいものがあります」
ニアは母と一緒に事務所へ行った。
小さな会議室だった。
弁護士はノートパソコンを開いた。
「これはクラブ側から提出された映像です」
ニアが聞いた。
「例の動画?」
「違います」
弁護士の声が慎重になった。
「もっと前から撮られていたものです」
動画が始まった。
最初は何も起きていない。
店の外。
人が並んでいる。
マーカスがいる。
友人二人と話している。
ニアは画面を見つめた。
生きている兄。
歩いている。
笑っている。
それだけで胸が苦しくなる。
数分後。
口論が始まった。
マーカスと別の客。
何を言っているかは聞こえない。
相手が腕を広げる。
マーカスが近づく。
警備員が間に入る。
マーカスが警備員を押す。
ニアの体が硬くなった。
母が小さく言った。
「違う」
動画は続く。
マーカスが何かを叫ぶ。
もう一度押す。
警備員が後ろへ下がる。
そしてマーカスがポケットへ手を入れる。
警備員の表情が変わる。
数人が動く。
マーカスが腕を振る。
警備員が彼を制止する。
地面へ押さえる。
ここで、世間が見た四十二秒につながった。
母が立ち上がった。
「止めて」
弁護士が動画を止めた。
部屋が静かになった。
「これは……」
母の声が震えた。
「これで息子が悪いって言いたいんですか?」
弁護士は首を振った。
「そうではありません」
「じゃあ何なの」
「警備員側の責任がなくなるわけでもありません」
ニアは画面を見ていた。
止まった映像の中で、マーカスは怒っていた。
ニアが知っている顔だった。
兄が本気で腹を立てたときの顔。
「ポケットに何があったの?」
ニアが聞いた。
弁護士は少し迷った。
「何もありませんでした」
母が顔を上げる。
「何も?」
「武器はありません」
ニアは息を吐いた。
少し安心した。
でも動画は消えなかった。
兄が先に押したこと。
怒鳴ったこと。
もう一度向かっていったこと。
それも消えなかった。
帰りの車で、母は何も話さなかった。
家に着いてから、ニアが聞いた。
「どうする?」
母はバッグをテーブルに置いた。
「何を」
「動画」
「何もしない」
ニアは母を見る。
「公開しないの?」
母の顔が硬くなる。
「する必要がある?」
「でも、みんな見たのは後半だけだよ」
「だから?」
「だから、完全じゃない」
母が振り返った。
「マーカスは死んだのよ」
「知ってる」
「自分を説明できない」
「それも知ってる」
「だったら、なんで今さらあの子を悪く見せるの?」
ニアは答えなかった。
母の声が震える。
「世間は残酷よ」
「少しでもあの子が怒ってる映像が出たら、全部あの子のせいにする」
ニアにも分かっていた。
きっとそうなる。
今まで兄を称賛していた人の一部は離れる。
警備員を擁護する人たちは言うだろう。
ほら見ろ。
最初に手を出したのは彼だ。
兄の人生は、今度は別の四十二秒に縮められる。
「でも」
ニアが言った。
「エリックの家族は?」
母が黙る。
「何?」
「警備員の家族」
「今それを言うの?」
「住所まで出てる」
「ニア」
「子どもの学校まで」
母は娘を睨んだ。
「あなたは誰の妹なの?」
その言葉で、ニアは止まった。
母自身も、言ったあとで顔を変えた。
でも謝らなかった。
ニアも何も言わなかった。
その夜、ニアは兄の古い留守番電話を聞いた。
保存していた。
誕生日のものだった。
「おい、ばあさん」
最初の一言でニアは笑った。
二歳しか違わない。
「プレゼント送った。十ドル多めに入れた。税金な」
そこでマーカスが自分で笑っている。
「あと電話返せ。ママに俺ばっかり連絡してるって言われるから」
終わり。
四十秒。
奇妙だった。
兄の人生は今、四十二秒の動画で知られている。
でもニアにとっては、この四十秒の方がずっとマーカスだった。
数日後、ニアはエリック・ウォレスの妻からメールを受け取った。
最初は偽物だと思った。
短い文章だった。
あなたに何かを求めるつもりはありません。
夫のしたことを正当化してほしいとも思いません。
ただ、娘が学校へ行けなくなりました。
家の前に人が来るからです。
ニアは画面を閉じた。
十分後、また開いた。
返信はしなかった。
翌日も。
その次の日も。
でもメールを削除することもできなかった。
世間では、マーカスの事件がさらに大きくなっていた。
テレビ番組。
ポッドキャスト。
新聞。
政治家。
活動家。
評論家。
誰もマーカスを知らなかった。
でも全員が、マーカスについて話していた。
ある番組では、
「平和を愛した青年」
と紹介された。
ニアはテレビへ言った。
「それは違う」
兄は平和を愛していたわけではない。
喧嘩もした。
大学を一度辞めた。
母の車を勝手に使った。
二十歳のとき、従兄と殴り合った。
それでも、甥の誕生日には必ず来た。
母の病院には毎回付き添った。
妹が失恋した夜には、午前三時まで電話につき合った。
人間だった。
それなのに社会は、
聖人か犯罪者か、
どちらかにしようとしている。
ある日、母が記者会見をすることになった。
ニアも隣に座る予定だった。
会場へ向かう車の中で、母は言った。
「今日は余計なこと言わないでね」
ニアは窓の外を見ていた。
「余計なことって?」
母は答えなかった。
会場には大勢の人がいた。
マーカスの写真。
プラカード。
カメラ。
ニアの椅子は母の隣。
でも直前になって、ニアは座れなくなった。
空いた椅子を残して、会場の後ろへ行った。
母が振り返った。
目が合った。
ニアは首を振った。
母の顔が少し崩れた。
記者会見は始まった。
ニアは後ろから見ていた。
自分の空席が、母の隣にあった。
その夜。
ニアは弁護士へ電話した。
「映像を公開したい」
相手は黙った。
「本当に?」
「うん」
「お母さんは?」
ニアは答えなかった。
「反対してます」
「それでも?」
「うん」
電話を切ったあと、母へ話した。
予想していたよりひどかった。
「あなた、何考えてるの?」
「ママ」
「兄を守る気ないの?」
「守りたいよ」
「だったらどうして!」
「だって今の話もマーカスじゃないから!」
母が止まった。
ニアの目から涙が落ちた。
「みんなが作ったマーカスも、マーカスじゃない」
「何を言ってるの」
「完璧な被害者」
「平和な青年」
「誰にも手を出さない人」
「そんな人じゃなかったでしょ」
母の顔が歪んだ。
「死んだ人の悪いところまで、世間に見せたいの?」
「悪いところじゃない」
「じゃあ何」
ニアは声を落とした。
「人間だったところ」
母は何も言えなかった。
ニアは続けた。
「マーカスは間違う人だった」
「怒る人だった」
「馬鹿なこともした」
「でも、それで死んでいい人になったわけじゃない」
母が泣き始めた。
「それを世間が分かると思う?」
ニアは首を振った。
「分からない」
「じゃあ、なぜ」
ニアは兄の写真を見る。
笑っている。
「兄ちゃんを、嘘できれいにしたくない」
母は顔を覆った。
「私は守りたいだけなの」
「知ってる」
「もう傷つけられたくない」
「知ってる」
ニアは母の隣へ座った。
長い沈黙。
母が小さく聞いた。
「公開したら、あの子を責める人が出る」
「うん」
「ひどいこと言う」
「うん」
「耐えられる?」
ニアは答えた。
「分からない」
動画は翌日の午後に公開された。
最初の一時間で、反応が変わり始めた。
話が全然違うじゃないか。
マーカスが先に暴れてる。
警備員は仕事しただけだ。
それでも押さえ方が異常だ。
どっちも悪い。
家族はこの映像を隠してたのか?
被害者ビジネス。
マーカスを侮辱するな。
完全版が出るまで判断すべきじゃなかった。
ニアは画面を見続けた。
兄が、また別の物語に変わっていく。
今度は聖人ではない。
今度は「自業自得の男」。
一時間前まで兄を称賛していたアカウントが、今は批判していた。
人間は変わっていない。
動画が長くなっただけだった。
母が部屋へ入ってきた。
「閉じなさい」
ニアは画面を見ていた。
「もう少し」
「閉じて」
ニアはノートパソコンを閉じた。
部屋が静かになった。
母は座らなかった。
「どうして」
それだけ聞いた。
ニアは母を見る。
「何が?」
「どうしてやったの」
ニアはしばらく答えられなかった。
兄の写真。
記者会見。
空いた椅子。
留守番電話。
四十二秒。
完全版映像。
全部が頭にあった。
そして言った。
「兄ちゃんは」
声が震えた。
「みんなの象徴になる前に、私の兄だったから」
母の目から涙が落ちた。
「だから?」
「だから、きれいにしたくなかった」
「悪くもしたくなかった」
ニアは自分の胸を押さえた。
「そのまま覚えていたかった」
母は何も言わなかった。
数週間後。
事件への関心は少しずつ薄れ始めた。
別のニュースが出た。
別の動画が拡散された。
別の名前がトレンドになった。
世界は進んだ。
ニアのスマートフォンには、まだ知らない人からメッセージが届いた。
兄を責めるもの。
兄を守るもの。
ニアを責めるもの。
ニアを称賛するもの。
彼女はほとんど読まなくなった。
ある日曜の午後。
母の家で食事をした。
鶏肉。
マカロニ。
コーンブレッド。
母が言った。
「マーカス、これ嫌いだったわね」
ニアが笑った。
「マカロニ?」
「違う。コーンブレッド」
「好きだったよ」
「嫌いだった」
「ママのが嫌いだったんじゃない?」
母がニアを見る。
「失礼ね」
二人とも笑った。
しばらくして、母が言った。
「確認したい」
「何?」
「本当に嫌いだった?」
ニアはスマートフォンを出した。
「本人に聞こうか」
母が笑った。
「どうやって」
ニアは保存していた留守番電話を再生した。
マーカスの声が流れる。
「おい、ばあさん」
母がすぐに笑った。
ニアも笑った。
録音の中のマーカスは、
被害者でもなかった。
象徴でもなかった。
完璧でもなかった。
悪人でもなかった。
ただのマーカスだった。
録音が終わった。
ニアはスマートフォンを裏返した。
母が言った。
「もう一回」
ニアは再生した。
外では、誰かの車が通り過ぎた。
テレビは消えていた。
SNSも開いていなかった。
その午後だけは、
誰もマーカスが何を象徴していたのか話さなかった。
二人はただ、
彼がどんな人だったかを話した。
Story 5 — 名前を呼ばなかった医師
その夜、ユセフ・ハリールが飲んでいたものをコーヒーと呼ぶには、少し寛大さが必要だった。
午前二時十三分。
エルサレムの病院。
夜勤はまだ終わらない。
ユセフは自動販売機の前に立ち、ぬるくて苦い液体を口にした。
「よく毎晩それ飲めるな」
振り返らなくても分かった。
救急医のダニエル・ローゼンだった。
「コーヒーだ」
「泥水だろ」
「君が淹れるものよりましだ」
「僕がいつコーヒーを淹れた?」
ユセフは少し笑った。
二人が同じ病院で働き始めて、十年以上になる。
ユセフは五十四歳の外科医。
ダニエルは四十八歳の救急医。
二人の考え方が同じだったわけではない。
育った場所も違った。
家族が語ってきた歴史も違った。
けれど救急室では、そんな違いは後回しになった。
患者が運ばれてくれば、まず呼吸を見る。
血圧を見る。
出血を止める。
名前さえ後から知ることがある。
誰がどこから来たのか。
誰を愛し、誰を憎んでいるのか。
そんなことを考えている暇はない。
少なくとも、ユセフはずっとそうやって働いてきた。
その夜までは。
院内放送が入った。
高齢男性。
多重外傷。
意識レベル低下。
腹腔内出血の疑い。
ダニエルは紙コップを置いた。
「行くぞ」
ユセフも残りを捨てた。
救急室へ入ったときには、すでに担架が運び込まれていた。
七十代後半と思われる男性。
白髪。
血に濡れたシャツは切り開かれている。
酸素マスク。
看護師が情報を読み上げた。
「エリ・ナヴォン。七十八歳」
ユセフは歩みを止めた。
聞き違いだと思った。
「エリ・ナヴォン」
もう一度聞こえた。
その名前を最後に耳にしたのがいつだったか、ユセフには思い出せなかった。
だが忘れたことは、一日もなかった。
担架の上の男を見る。
老いている。
三十八年前に見た写真とはまるで違う。
頬は落ち、髪は白くなり、皮膚には深い皺が刻まれている。
それでも分かった。
エリ・ナヴォン。
父の死に関わった男。
父を殺した男だと、ユセフが三十八年間信じ続けてきた男だった。
「ユセフ?」
ダニエルがこちらを見ていた。
「知り合いか?」
一瞬のあと、ユセフは答えた。
「いや」
嘘だった。
そのとき看護師が叫んだ。
「血圧、下がってます!」
時間が再び動き始めた。
ユセフは担架へ近づいた。
名前を消した。
記憶も消した。
エリ・ナヴォンではない。
七十八歳男性。
腹腔内出血。
それだけだ。
CTの結果、脾損傷、肝損傷、骨盤骨折。
ユセフは言った。
「手術する」
手術前に手を洗っていると、父の手が浮かんだ。
大きくて、指の太い手だった。
父は時計を修理する仕事をしていた。
子どものころ、ユセフには不思議だった。
あんな太い指で、どうして小さな歯車を扱えるのだろう。
一度聞いたことがある。
父は笑った。
「手じゃない。待てるかどうかだ」
それから時計を指した。
「急がせたら壊れる」
ユセフが十六歳のとき、父は死んだ。
その後、家の中に一つの名前が残った。
エリ・ナヴォン。
父が最後に会った人物。
父の居場所を誰かに伝えたと噂された人物。
証拠はなかった。
裁判もなかった。
誰かが見た。
誰かから聞いた。
誰かが知っていると言った。
いつの間にか、それは家族の中で事実になった。
エリが裏切った。
エリが父を死なせた。
母はその名前をほとんど口にしなかった。
叔父たちは違った。
何度も言った。
だからユセフも覚えた。
十六歳の少年が、悲しみと一緒に覚えた名前だった。
手術台の上では、患者の顔は見えなかった。
緑色の布。
血。
モニター。
数字。
「吸引」
ユセフの手は動いた。
切開する。
出血点を探す。
止血する。
縫合する。
父が死んだあと、ユセフは医師になった。
復讐のためではない。
少なくとも、そう信じてきた。
医学部の合格通知を見た母は泣いた。
「お父さんがいたら……」
母はその先を言わなかった。
家族はいつも、そこで言葉を止めた。
お父さんがいたら。
手術の途中で血圧がさらに落ちた。
「ユセフ」
「分かってる」
吸引。
輸血。
止血。
そのときだった。
ほんの一瞬だけ、頭の中に考えが生まれた。
もし、少し遅れたら。
判断を一つ誤ったら。
この男は七十八歳だ。
重傷だ。
大量に出血している。
死んでも不思議ではない。
誰も疑わないかもしれない。
その考えは一秒も続かなかった。
だが、確かに存在した。
ユセフは自分の手を見た。
「血液、もっと入れて」
手術を続けた。
四時間後。
エリ・ナヴォンは生きていた。
ICUへ送られたあと、ユセフは廊下の壁にもたれた。
ダニエルが紙コップを持って現れた。
「今度はまともなやつ」
ユセフは受け取らなかった。
「いらない」
ダニエルは隣に立った。
少しして言った。
「知ってる人なんだろ」
ユセフは黙った。
「名前を聞いたときの顔で分かった」
「父の死に関わった男だ」
ダニエルはすぐには聞き返さなかった。
「関わった?」
「そう聞かされて育った」
「証拠は?」
ユセフは彼を見る。
「今、それを聞くのか」
「医者として聞いてるんじゃない」
「なら何として?」
ダニエルは少し考えた。
「十年以上一緒に働いてる人間として」
ユセフは目を逸らした。
「証拠はない」
ダニエルは頷いた。
何も言わなかった。
翌日、エリの娘が病院へ来た。
レイチェル。
五十歳くらいだった。
ユセフとほぼ同じ世代。
「父を手術してくださった先生ですか?」
「はい」
レイチェルはユセフの手を両手で握った。
「ありがとうございます」
ユセフの身体が固まった。
「まだ危険な状態です」
「でも、生きています」
彼女の目に涙がたまった。
「私には父しかいないんです」
ユセフは返事ができなかった。
私には父しかいない。
十六歳の自分には、ある日突然、その父がいなくなった。
目の前の女性の父親が、その原因だったかもしれない。
そして、その男の命を自分が救った。
「先生、本当にありがとうございます」
ユセフは手を引いた。
「仕事ですから」
自分で言っておきながら、その言葉が嫌だった。
三日後、エリは意識を取り戻した。
ユセフは病室へ行かなかった。
診察は他の医師へ任せた。
必要がないからだ、と自分に言った。
四日目。
廊下でレイチェルに呼び止められた。
「先生」
ユセフは立ち止まった。
「父が会いたいそうです」
「私に?」
「先生のお名前を聞いたら……知っている名前だと」
胸の奥が冷たくなった。
「ハリール先生ですよね?」
「そうです」
「父が、その名前を知ってるって」
病室の前で、ユセフは五分ほど立っていた。
医療上必要な面会ではない。
断ってもいい。
そのまま帰ってもいい。
それでもドアを開けた。
ベッドにいる男は小さかった。
三十八年間、ユセフの記憶の中では巨大だった。
父を奪った男。
母を泣かせた男。
家族を壊した男。
怪物。
だが目の前にいるのは、チューブにつながれた老人だった。
エリが目を開けた。
ユセフを見た。
「ハリール?」
弱い声だった。
「はい」
「父親は……アデル?」
ユセフの身体が硬くなる。
「そうです」
少し間を置いた。
「アデル・ハリールは私の父です」
エリは目を閉じた。
「そうか」
それだけだった。
ユセフの胸の中で、何かが弾けた。
「それだけですか」
エリが目を開ける。
「何が?」
「父を知っていたんでしょう」
「知っていた」
「あなたが情報を渡した」
老人はしばらく黙った。
「誰から聞いた」
「三十八年間、みんなから」
エリは天井へ視線を移した。
「みんな、か」
そして小さく言った。
「便利な言葉だ」
ユセフは拳を握った。
「否定するんですか」
「何を?」
「あなたのせいで父は死んだ」
エリはユセフを見た。
「君はそう信じている」
「答えてください」
沈黙が続いた。
やがてエリが言った。
「私は君の父親について話した」
ユセフは呼吸を忘れた。
三十八年間待っていた言葉だった。
「誰に?」
返事はない。
「何を話したんです」
「彼がどこにいるか」
涙が出た。
怒りなのか、別の何かなのか、自分でも分からなかった。
「じゃあ、やっぱりあなたが」
「だが」
エリが遮った。
「君が聞いてきた話とは違う」
「何が違う」
「私は彼を殺させるために話したわけじゃない」
ユセフは乾いた笑いを漏らした。
「父は死んだ」
「知っている」
「なら同じだ」
エリは目を閉じた。
「そうかもしれない」
ユセフはその言葉に耐えられなかった。
「そうかもしれない?」
「私は、自分が正しいと思っていた」
「父だってそうだったかもしれない」
エリは何も答えなかった。
ユセフは病室を出た。
翌朝ではなく、その夜のうちに母を訪ねた。
八十二歳になった母は、一人で暮らしていた。
「こんな時間に珍しいね」
「近くまで来たから」
また嘘をついた。
母は茶を出した。
壁には父の写真がある。
写真の父は、今のユセフよりずっと若かった。
「母さん」
「何?」
「エリ・ナヴォンを覚えてる?」
母のカップが止まった。
「どうして、その名前を」
「病院へ運ばれてきた」
母の顔色が変わった。
「患者として?」
「俺が手術した」
母はゆっくり椅子へ座った。
「生きてるの?」
「うん」
長い沈黙。
ユセフは父の写真を見た。
「本当は何を知ってる?」
母は俯いた。
「もういいでしょう」
「よくない」
「三十八年も前よ」
「三十八年だから聞いてる」
ユセフは母を見る。
「エリは父さんを裏切ったの?」
返事がない。
「母さん」
やがて母が言った。
「あなたのお父さんとエリは……友達だった」
ユセフは意味が分からなかった。
「何?」
「若い頃から」
「そんな話、聞いたことない」
「言わなかったもの」
「なぜ?」
母の目から涙が落ちた。
「二人とも、自分が正しいと思っていた」
病室で聞いたのと同じ言葉。
「最後の頃、お父さんはエリを憎んでなかった」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあ、どうして誰も」
「家族は知らなかった」
「母さんは?」
母は答えない。
ユセフの声が震えた。
「どうして俺に言わなかった」
母は息子を見た。
「あなたに必要だったから」
「何が?」
「悪い人が」
ユセフは黙った。
「あなたは十六歳だった」
母は涙を拭わなかった。
「お父さんが死んで、毎晩聞いたでしょう。誰のせいなのって」
「私は答えられなかった」
「周りの人がエリだと言った」
「そうしたら、あなたは少し眠るようになった」
ユセフは椅子へ沈んだ。
「だから、そのままにしたの?」
母は頷いた。
「あなたから憎しみまで取ったら」
声が崩れた。
「悲しみしか残らないと思ったの」
病院へ戻ったあと、ユセフはエリのカルテを開いた。
ソーシャルワーカーの記録に目が止まった。
家族歴。
支援活動。
寄付。
ある小さな医療基金の名前。
ユセフはその基金を知っていた。
十年以上前、従妹の息子が手術を受けたとき、費用の一部を助けてもらっている。
匿名の支援だった。
担当者へ問い合わせた。
しばらくして返事が来た。
エリ・ナヴォンは、その基金の設立者の一人だった。
ユセフは電話を切った。
そして腹が立った。
猛烈に。
父を裏切っただけの男ならよかった。
人を傷つけただけの人間ならよかった。
そうなら、三十八年間の物語はそのまま残る。
しかしエリは、知らない家族を助けていた。
その中には、ユセフ自身の親族までいた。
知りたくなかった。
そんなことは。
退院前日。
ユセフはエリの病室へ入った。
老人は窓の外を見ていた。
「先生」
「基金のことを知りました」
エリは黙っている。
「どうしてやったんです」
「何を?」
「人を助けることです」
エリがかすかに笑った。
「変な質問だな」
「答えてください」
しばらくして、エリは言った。
「昔、助けられなかった人がいた」
ユセフの胸が痛んだ。
「父ですか」
エリは答えなかった。
今度は、ユセフも繰り返さなかった。
やがてエリが口を開いた。
「君は私を許さなくていい」
ユセフの表情が硬くなる。
「あなたにそれを言われたくない」
「そうだな」
また沈黙が来た。
ユセフは病室を出ようとした。
「ユセフ」
足が止まった。
エリが初めて名前を呼んだ。
振り返る。
老人は長いことユセフの顔を見ていた。
「君のお父さんも」
声が弱くなる。
「同じ目をしていた」
ユセフは何も答えなかった。
病室を出たあと、壁にもたれた。
涙は出なかった。
怒鳴りもしなかった。
許したわけでもなかった。
それまで父の死には、はっきりした形があった。
父がいた。
エリが裏切った。
父が死んだ。
その形で三十八年間生きてきた。
今、その形が崩れていた。
父は何をしていたのか。
エリはなぜ居場所を話したのか。
父は最後にエリをどう思っていたのか。
母は他に何を知っているのか。
分からない。
そして初めてユセフは考えた。
全部分かる日は、来ないのかもしれない。
まもなく別の手術へ呼ばれた。
交通事故の若い男性だった。
洗面台で手を洗う。
石鹸をつける。
手首。
手の甲。
指の間。
いつもの順番。
そこでユセフは自分の手を見た。
父とは似ていない。
父の指は太かった。
自分の指は細い。
外科医の手だった。
父から受け継いだものは多いと思っていた。
名前。
記憶。
悲しみ。
怒り。
その全部を、最後まで持ち続けなければならないと思っていた。
そうではないのかもしれない。
正しいかどうかは、まだ分からなかった。
手術が終わったのは午後三時。
ユセフは自動販売機へ向かった。
またコーヒーを買った。
一口飲んだ。
まずかった。
「懲りないな」
ダニエルが来た。
「今日もまずい」
「昨日もそう言った」
「明日も言うよ」
ダニエルが笑った。
少しして、エリのことを聞いた。
「退院するんだって?」
「うん」
「話した?」
「少し」
ダニエルは、それ以上聞かなかった。
二人は窓のそばに立った。
下では救急車が病院へ入ってきていた。
また誰かが運ばれてくる。
まだ名前も知らない誰か。
ユセフは紙コップを口へ運んだ。
エリを許してはいなかった。
十六歳の自分の悲しみも消えていない。
三十八年間の怒りを、間違いだったと片づけることもできなかった。
ただ、父のことを考えたとき。
その日初めて、
エリの顔より先に、
時計を修理していた大きな手が浮かんだ。
そして父の声が聞こえた。
「手じゃない。待てるかどうかだ」
ユセフはほんの一瞬、目を閉じた。
それから紙コップを置いた。
救急室へ戻った。
そこにはまた、
救わなければならない誰かが待っていた。
最後に

5つの物語を通して、「沈黙」の意味は少しずつ変わっていきます。
『向かいの男』では、沈黙は共犯に近づきます。
何も命令していない。
何も実行していない。
それでも、止めることができたかもしれない。
『弟の名前』では、沈黙は愛になります。
家族を守りたい。
亡くなった人の記憶を壊したくない。
でも、その愛が別の人間を危険にさらすこともある。
『空いた椅子』では、沈黙は悲嘆になります。
怒りを手放すと、亡くなった人まで遠くへ行ってしまうように感じる。
けれど、誰かを忘れないために、誰かを憎み続ける必要はない。
『みんなが見た映像』では、沈黙は社会の物語とぶつかります。
人は、死者を聖人か悪人のどちらかにしたがります。
しかし、本当に愛していた人間は、そのどちらでもない。
不完全で、間違えて、優しくて、面倒で、それでも愛されていた一人の人間です。
そして『名前を呼ばなかった医師』では、沈黙は言葉では処理できないものへ変わります。
憎んできた男が善人だったわけではない。
無実だったとも言い切れない。
ただ、怪物だけではなかった。
その事実が、長年守ってきた憎しみの形を壊します。
この5作品で何度も現れるのは、「相手を許すこと」と「相手から自由になること」は別だという考えです。
誰かを許せなくてもいい。
怒りが完全に消えなくてもいい。
亡くなった人を忘れなくてもいい。
それでも、朝食を食べることはできます。
店を開けることもできます。
家族と話すこともできます。
仕事へ戻ることもできます。
そしていつか、亡くなった人を思い出すとき、憎んでいる相手の顔より先に、その人自身の笑顔が浮かぶ日が来るかもしれません。
それが、この5つの物語が最後に残す小さな希望です。
Short Bios:
マーク・カーター — 『向かいの男』
オハイオ州に暮らす父親。失踪した娘エミリーのために正義を求めながら、自分が暴力を望んでいたことと向き合います。
マリアム — 『弟の名前』
パレスチナ人の大学生。弟ラミの死をめぐる家族の物語が完全ではないと知り、父を守る沈黙と真実を語る責任の間で揺れます。
ミリアム・レヴィ — 『空いた椅子』
イスラエルで娘ノアを失った母親。亡くなった娘を忘れないために抱えてきた怒りが、いつの間にか娘自身の記憶を覆っていることに気づきます。
ニア・リード — 『みんなが見た映像』
シカゴで兄マーカスを失った妹。兄が世間の象徴へ変えられる中、彼を美化も断罪もせず、一人の不完全な人間として守ろうとします。
ユセフ・ハリール — 『名前を呼ばなかった医師』
エルサレムで働くパレスチナ人外科医。父の死に関わったと信じてきた男の命を救い、三十八年間抱えてきた憎しみの形そのものを問い直すことになります。

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