
はじめに
登場人物たちが語る「生まれてきた意味」
『時生』は、時間を越えて父と息子が出会う物語です。
けれど、その中心にあるのはタイムトラベルそのものではありません。
もっと個人的で、もっと苦しい問いがあります。
「この人生は、生まれてきてよかった人生だったのか。」
短い命。
病気。
親子のすれ違い。
「捨てられた」と思って生きてきた記憶。
変えられない過去。
そして、未来から来た息子が若い父親を少しずつ変えていくという不思議な関係。
今回の仮想対話では、現在の宮本拓実、若き日の拓実、時生、拓実の妻、千鶴が、それぞれ違う立場からこの問いに向き合いました。
そして会話が進むほど、最初の問いは簡単には答えられないものになっていきました。
幸せだったか。
意味があったか。
生まれてきてよかったか。
それらは、誰か一人が決められるものではないのかもしれません。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1 — 生まれてきてよかった人生とは何か

病室には、機械の小さな音だけが続いていた。
窓の外はもう暗い。
時生はベッドに横になっている。眠っているようにも見えたが、目は薄く開いていた。
拓実の妻は、長いあいだ息子を見ていた。
そして、誰に聞くともなく口を開いた。
妻:「ねえ……この子、生まれてきて幸せだったと思う?」
拓実は答えなかった。
妻はもう一度言った。
妻:「私、最近ずっと考えてるの。」
「こんなこと考えちゃいけないって分かってる。」
「でも……考えちゃうの。」
若い拓実が壁にもたれていた。
若い拓実:「何を?」
妻は時生を見る。
妻:「この子は、生まれてきてから、ずっと病気と一緒だったでしょう。」
「普通の子が考えなくてもいいことを、小さい頃から考えなきゃいけなかった。」
「病院に行って。」
「検査して。」
「薬を飲んで。」
「できないことが少しずつ増えて。」
声が震える。
「それで……こんなに早く。」
言葉が続かなかった。
若い拓実は視線を落とした。
現在の拓実は妻の手を握ろうとした。
妻は拒まなかった。
でも握り返さなかった。
妻:「私たちは、この子が生まれてきてくれてよかったって言えるよ。」
「当たり前よ。」
「私にとっては、この子がいてくれてよかった。」
「でも、それって……」
拓実を見る。
「私たちが幸せだったっていう話でしょう?」
誰も答えなかった。
妻は続けた。
妻:「時生が幸せだったかどうかとは、違うでしょう?」
その時。
ベッドから声がした。
時生:「違うね。」
妻が振り向いた。
妻:「起きてたの?」
時生:「途中から。」
妻:「ごめん。」
時生:「何で謝るの。」
「俺の話してたんでしょ。」
妻は目を伏せた。
妻:「聞かせたくなかった。」
時生:「でも俺の人生の話じゃん。」
その言葉に、妻は何も返せなかった。
若い拓実が口を開く。
若い拓実:「だったら本人に聞けばいいじゃねえか。」
現在の拓実が彼を見る。
若い拓実:「何だよ。」
「みんなで考えたって分からないだろ。」
「本人が幸せだったって言えば幸せだった。」
「不幸だったって言えば不幸だった。」
時生が若い父親を見る。
時生:「そんな簡単?」
若い拓実:「簡単だろ。」
時生:「じゃあ親父。」
若い拓実:「何だよ。」
時生:「今、幸せ?」
若い拓実は黙った。
「……知らねえよ。」
時生:「ほら。」
若い拓実:「何がほらだよ。」
時生:「自分の人生なのに分かんないじゃん。」
千鶴が小さく笑った。
若い拓実が睨む。
若い拓実:「笑うなよ。」
千鶴:「だって本当じゃない。」
「拓実って、自分が不幸だっていうことだけは、いつも自信満々だったじゃない。」
若い拓実:「実際そうだったんだよ。」
千鶴:「そうかな。」
若い拓実の顔が険しくなる。
若い拓実:「親に捨てられて、金もなくて、仕事もうまくいかなくて。それで幸せだと思えって?」
現在の拓実が静かに言った。
現在の拓実:「誰もそんなこと言ってない。」
若い拓実:「じゃあ何だよ。」
現在の拓実:「お前はいつも、幸せじゃなかった理由を数えてた。」
「何がなかった。」
「誰がいなかった。」
「誰が自分を傷つけた。」
「それを全部並べて。」
「だから俺は不幸なんだって。」
若い拓実は鼻で笑った。
若い拓実:「未来の俺は随分偉くなったんだな。」
現在の拓実:「偉くなんかなってない。」
「ただ。」
時生を見る。
「昔の俺が知らなかったものを知ってる。」
妻が時生の布団を直した。
妻:「時生。」
時生:「うん。」
妻:「本当のこと言っていいのよ。」
時生が少し笑う。
時生:「何、その言い方。」
妻:「私たちを安心させようとしなくていいってこと。」
時生の笑顔が消えた。
妻は続ける。
妻:「つらかったなら、つらかったって言っていい。」
「怖かったなら、怖かったって。」
「どうして自分だけって思ったなら、それも。」
「私たちのために……」
声が詰まる。
「幸せだったなんて言わなくていい。」
時生は母親を見た。
長い沈黙。
時生:「怖いよ。」
妻の顔が崩れそうになる。
時生は続けた。
時生:「普通に怖い。」
「死ぬのも怖い。」
「みんなが俺より先のこと話してる時も嫌だった。」
「大学とか。」
「仕事とか。」
「結婚とか。」
少し笑う。
「みんな普通に、“そのうち”って言うじゃん。」
「俺には、その“そのうち”があるか分からないから。」
妻の目から涙が落ちた。
妻:「ごめんね。」
時生:「だから何で母さんが謝るんだよ。」
妻:「だって……。」
時生:「母さんが病気にしたわけじゃないじゃん。」
妻は答えられない。
千鶴が時生に聞いた。
千鶴:「羨ましいと思う?」
時生:「何が?」
千鶴:「長く生きられる人。」
時生はすぐ答えなかった。
時生:「思うよ。」
「そりゃ思う。」
「ニュースとかでさ。」
「どうでもいいことで喧嘩してる人いるじゃん。」
「駅で怒鳴ってたり。」
「一日中、誰かの悪口言ってたり。」
若い拓実を見る。
時生:「親父みたいに。」
若い拓実:「おい。」
時生が笑う。
妻まで少し笑った。
時生:「そういうの見ると。」
「この人、明日があると思ってるんだなって。」
部屋が静かになる。
時生:「羨ましいよ。」
「明日を無駄にできるって。」
その言葉に、若い拓実が初めて時生を真っ直ぐ見た。
若い拓実:「だったら。」
少し言いにくそうにする。
「やっぱり不公平じゃねえか。」
時生:
「うん。」
若い拓実は驚いた。
若い拓実:「認めるのかよ。」
時生:「何を?」
若い拓実:「人生が。」
時生:「不公平じゃないなんて言ってないよ。」
「不公平でしょ。」
「俺よりずっと長く生きる人いるし。」
「元気な人もいるし。」
「病院なんてほとんど行ったことない人もいる。」
「何で俺なのって思ったこともある。」
若い拓実:
「じゃあ。」
時生を見る。
「生まれてこなかった方がよかったって思ったことは?」
妻が息を止めた。
現在の拓実が若い自分を見る。
現在の拓実:「おい。」
時生:「いいよ。」
拓実:
「時生。」
時生:「俺の話なんでしょ。」
時生は天井を見る。
しばらく誰も話さなかった。
そして。
時生:「分かんない。」
妻の顔が動いた。
期待していた答えではなかった。
時生:
「“生まれてこなかった俺”って、いないじゃん。」
「比べられないよ。」
誰も言葉を挟まない。
時生:「生まれてこなかったら、病気にもならなかった。」
「怖くもなかった。」
「痛くもなかった。」
「でも。」
少し間。
「親父にも会ってない。」
「母さんにも。」
「友達にも。」
「好きだったものも知らない。」
「腹立ったことも。」
「笑ったことも。」
「全部ない。」
若い拓実:
「でも、ないなら苦しくもない。」
時生:「そう。」
若い拓実:
「だったら。」
時生:
「でも、嬉しくもない。」
若い拓実が止まった。
時生:「ゼロと比べて、どっちがいいって言われても分かんないよ。」
現在の拓実が、息子を見ながら言った。
現在の拓実:「俺は分かる。」
時生:
「親父。」
拓実:
「お前が生まれてきてよかった。」
時生:
「だから、それは親父の答えだって。」
拓実が止まる。
時生は怒ってはいない。
むしろ優しい声だった。
時生:「親父にとって俺がいてよかった。それは嬉しいよ。」
「でも。」
「それを俺の人生が幸せだった証拠にしないでよ。」
拓実は何も言えなくなった。
妻が小さく言った。
妻:「私も……やってた。」
時生:
「何を?」
妻:
「あなたが笑ってくれた日を思い出して。」
「旅行に行ったこととか。」
「誕生日とか。」
「家族で食事したこととか。」
「だからこの子は幸せだったって。」
涙を拭く。
「そう思おうとしてた。」
時生:「それ、悪いこと?」
妻:
「分からない。」
時生:
「俺、楽しかったよ。」
妻が顔を上げる。
時生:「旅行も。」
「誕生日も。」
「母さんの料理も。」
「親父のくだらない話も。」
現在の拓実:
「くだらないは余計だ。」
時生が笑う。
時生:「本当に楽しかった。」
妻:
「じゃあ……。」
時生:
「でも。」
妻が止まる。
時生:「楽しいことがあったから、怖かったことが消えるわけじゃない。」
千鶴が静かに言った。
千鶴:「両方あっていいんじゃない?」
全員が彼女を見る。
千鶴:「幸せだった時間があって。」
「同時に、すごくつらい人生でもあって。」
「どっちか一つに決めなくても。」
若い拓実:
「それじゃ答えになってねえじゃん。」
千鶴:
「何で答えにしなきゃいけないの?」
若い拓実:
「幸せだったか不幸だったかって話だろ。」
千鶴:
「人の人生って、最後に○か×をつけるものなの?」
若い拓実は黙った。
現在の拓実が若い自分を見る。
現在の拓実:「お前はずっと×をつけてた。」
若い拓実:
「またそれかよ。」
現在の拓実:
「自分の人生に。」
「母親に捨てられた。」
「金がない。」
「仕事が続かない。」
「だから俺の人生は×だって。」
若い拓実:
「間違ってるか?」
現在の拓実:
「今なら分かる。」
「お前は人生が終わってもいないのに、採点してた。」
若い拓実:
「未来を知ってる奴は楽だな。」
現在の拓実:
「そうじゃない。」
若い拓実:
「じゃあ何だよ。」
現在の拓実は時生を見る。
現在の拓実:「未来を知ってても、採点できない人生があるって知ったんだよ。」
時生が父を見る。
時生:「俺?」
拓実:
「そう。」
「お前の人生。」
「短い。」
妻が目を閉じる。
拓実:
「そんな言葉、言いたくないけど。」
「短い。」
「病気もある。」
「苦しいこともある。」
「俺が代われるなら代わりたい。」
声が震える。
「でも。」
時生を見る。
「だからって、お前の人生を不幸だったって決めるのも違う。」
「幸せだったって俺が決めるのも違う。」
時生は黙って聞いている。
現在の拓実:「俺に言えるのは。」
長い間。
拓実は言葉を探した。
「お前がいた時間を、なかった方がよかったとは絶対に思わない。」
妻が泣いた。
若い拓実は少し苛立ったように言った。
若い拓実:「でもそれも、お前の答えだろ。」
現在の拓実:
「そうだ。」
若い拓実:
「本人の答えじゃない。」
「そうだ。」
若い拓実:
「だったら結局分からねえじゃん。」
現在の拓実:
「分からない。」
若い拓実は少し驚いた。
若い拓実:「認めんのかよ。」
現在の拓実:
「認める。」
「分からないことを、分かったことにする方が怖い。」
また病室に機械音だけが残った。
時生はしばらく目を閉じていた。
やがて。
時生:「俺さ。」
全員が見る。
時生:「“生まれてきてよかった?”って聞かれると、ちょっと困る。」
妻:
「どうして?」
時生:
「質問がでかすぎる。」
少し笑う。
「人生全部まとめて答えろってことでしょ。」
「無理だよ。」
若い拓実:
「じゃあ何なら答えられる。」
時生は少し考えた。
時生:「今日。」
「今日?」
時生:「今日、生きててよかったか。」
若い拓実:
「それなら?」
時生は母親を見る。
父親を見る。
千鶴を見る。
そして、若い父親を見る。
時生:「今日は、よかった。」
妻の唇が震えた。
時生:
「昨日は?」
「昨日もまあ、よかった。」
現在の拓実:
「まあって何だよ。」
時生:「親父がうるさかったから減点。」
拓実:
「お前な。」
少し笑いが起きた。
その笑いが消える前に、時生が続けた。
時生:「明日は分かんない。」
誰も笑わなくなった。
時生:
「でも。」
「明日が来たら。」
「その時また考える。」
妻が時生の手を握った。
今度は、
「幸せだった?」
とは聞かなかった。
ただ握った。
時生も握り返した。
しばらくして、若い拓実が窓の方を向いたまま言った。
若い拓実:「なあ。」
時生:
「何?」
若い拓実:
「もし。」
言葉を探す。
「もし俺がお前の親父になるなら。」
時生:
「なるよ。」
若い拓実:
「まだ信じてねえよ。」
時生:
「はいはい。」
若い拓実:
「もし本当なら。」
振り向かない。
「俺みたいな奴のところに生まれてきて、後悔しないのか。」
現在の拓実が若い自分を見る。
千鶴も何も言わない。
時生は少し考えた。
そして。
時生:「それも質問がでかいな。」
若い拓実:
「真面目に答えろよ。」
時生:「真面目だよ。」
少し間。
時生:「親父。」
若い拓実が振り向く。
「まだ途中じゃん。」
若い拓実は何も言えなかった。
時生:
「俺の人生も。」
「親父の人生も。」
「今ここで全部まとめて、よかったとか悪かったとか。」
「決めなくていいんじゃない?」
若い拓実は窓の外へ視線を戻した。
現在の拓実は、その若い背中を見ていた。
かつての自分。
自分の人生はもう決まったと思っていた男。
捨てられた子供。
運の悪い男。
誰にも愛されない人間。
そうやって、自分の人生に早すぎる結論をつけていた男。
そして、その男のすぐそばに。
まだ生まれてさえいない息子がいる。
妻が小さく言った。
妻:「じゃあ、幸せだったかどうか、今決めなくてもいいのね。」
時生:
「俺はそう思う。」
妻:
「私、いつか答えが欲しくなると思う。」
時生:
「うん。」
妻:
「あなたがいなくなったあと。」
声が震える。
「きっと何度も。」
時生は母親の手を握った。
時生:「その時は、母さんの答えを考えればいいよ。」
妻:
「私の答え?」
時生:
「うん。」
「俺の人生の答えじゃなくて、俺と生きた母さんの人生の答え。」
妻は顔を伏せた。
その言葉を聞きながら、若い拓実だけが別のことを考えていた。
自分はずっと、
母親が自分をどう思っていたか。
なぜ自分を捨てたのか。
自分は愛されていたのか。
その答えを母親の人生から奪い取ろうとしてきた。
でも。
もしかすると。
母親の答えと。
自分の答えは。
同じでなくてもいいのかもしれない。
若い拓実はまだ、それを口にはしなかった。
その問いは、次の場所まで彼についていくことになる。
Topic 2 — 親が子供を育てるのか、子供が親を育てるのか

病室には、まださっきの問いが残っていた。
「俺と生きた母さんの人生の答え。」
時生がそう言ってから、妻はずっと息子の手を握っていた。
若い拓実は窓の外を見ている。
現在の拓実は、その若い自分を見ていた。
時生が先に口を開いた。
時生:
「親父。」
若い拓実:
「何だよ。」
時生:
「俺が過去に行かなかったら、親父って変わってなかった?」
若い拓実が振り向く。
若い拓実:
「何で俺に聞くんだよ。」
時生:
「未来の親父に聞く。」
現在の拓実は少し困った顔をした。
現在の拓実:
「……たぶんな。」
時生:
「たぶん?」
拓実:
「お前がいなかったら、少なくとも同じようには変わらなかったと思う。」
若い拓実が鼻で笑う。
若い拓実:
「随分、息子頼みだな。」
現在の拓実:
「認めたくないけどな。」
時生:
**「じゃあ俺が親父を育てたってこと?」
拓実:
「調子に乗るな。」
時生:
「でもそうじゃん。」
妻が少し笑った。
千鶴も笑う。
若い拓実だけが不満そうだった。
若い拓実:
「普通は逆だろ。」
千鶴:
「何が?」
若い拓実:
「親が子供を育てるんだろ。」
時生:
「本当に?」
若い拓実:
「本当だろ。」
時生:
「じゃあ親は、子供が生まれる前から完成してるの?」
若い拓実は止まった。
若い拓実:
「完成って何だよ。」
時生:
「ちゃんとした親。」
「子供が生まれた瞬間から全部分かってる?」
妻が首を横に振る。
妻:
「全然。」
時生:
**「でしょ。」
妻:
「あなたが赤ちゃんの時なんて、毎日怖かった。」
時生:
**「母さんでも?」
妻:
**「もちろん。」
「ちゃんと息してるか何度も確認した。」
「熱が出たら、自分が何か間違えたんじゃないかと思った。」
「泣き止まないと、私の抱き方が悪いのかと思った。」
時生:
**「じゃあ俺が母さんを親にした?」
妻は少し考えた。
妻:
「そうね。」
「あなたが生まれて、私も初めて母親になった。」
現在の拓実が言った。
現在の拓実:
「俺もそうだった。」
若い拓実:
「お前が?」
拓実:
「何だよ、その顔。」
若い拓実:
「お前がまともに父親やってるの、まだ想像できねえ。」
時生:
**「俺も昔の親父見た時そう思った。」
若い拓実:
「お前ら二人で俺を馬鹿にすんな。」
少し笑いが起きた。
時生が現在の拓実を見る。
時生:
「親父、俺が生まれた時どうだった?」
拓実:
**「怖かった。」
時生:
「嬉しくなかった?」
拓実:
「嬉しかったよ。」
「嬉しかったけど。」
少し間。
「同じくらい怖かった。」
時生:
「何が?」
拓実:
「自分が父親になること。」
若い拓実が少し真顔になる。
現在の拓実:
「俺は自分の親のことで、ずっと引っかかってただろ。」
若い拓実:
**「まあな。」
拓実:
「だから。」
「自分も同じことをするんじゃないかって思った。」
時生:
「同じこと?」
拓実:
「子供を傷つける。」
「期待させて、裏切る。」
「ちゃんと愛せない。」
「そうなるんじゃないかって。」
妻が拓実を見る。
時生も黙る。
若い拓実が言った。
若い拓実:
「で?」
拓実:
「何が。」
若い拓実:
「そうなったのかよ。」
拓実は時生を見る。
現在の拓実:
「なったこともあると思う。」
妻が少し意外そうに見る。
拓実:
「怒ったし。」
「勝手に期待したし。」
「心配だからって、余計なことも言った。」
時生:
**「結構言った。」
拓実:
「お前な。」
時生:
「本当じゃん。」
妻が静かに言った。
妻:
「でもあなた、時生が生まれてから変わった。」
若い拓実:
**「どう変わった?」
妻は少し考えた。
妻:
「逃げなくなった。」
若い拓実が妻を見る。
妻:
「昔のあなたは、嫌なことがあると先に怒ったでしょう。」
現在の拓実が苦笑する。
若い拓実:
「何だよ、悪いか。」
妻:
「悪いとは言ってない。」
「でも。」
「時生が病気だと分かった時。」
「怒ってもどうにもならないことがあるって、初めて本当に知ったんじゃない?」
拓実は何も言わなかった。
時生:
**「俺の病気で親父が大人になった?」
妻:
「そんな言い方はしたくない。」
時生:
「でもそういうこと?」
妻は止まった。
現在の拓実が先に答えた。
現在の拓実:
「違う。」
時生が見る。
拓実:
「お前の病気に意味をつけて、俺が成長したからよかったなんて言いたくない。」
時生は少し表情を変えた。
拓実:
「お前が病気じゃなかった方がいい。」
「そんなの当たり前だ。」
「元気で。」
「もっと長く生きて。」
「俺より先に死ぬなんてこと考えなくて済むなら。」
声が少し震える。
「その方がいいに決まってる。」
妻の目に涙が浮かぶ。
時生:
**「じゃあ俺は親父を育ててない?」
拓実:
「育てた。」
時生:
「どっちなんだよ。」
拓実:
「両方だよ。」
「お前が生まれたことで、俺は変わった。」
「でも。」
「だからお前の苦しみに意味があった、とは言いたくない。」
千鶴が静かに口を開く。
千鶴:
「そこ、すごく大事だと思う。」
若い拓実:
**「何が?」
千鶴:
「人って。」
「誰かの苦しみから何かを学んだ時。」
「その苦しみまで必要だったことにしたくなるでしょう。」
現在の拓実が千鶴を見る。
千鶴:
「“あの経験があったから今の自分がある。”」
「それは本人が言うならいい。」
「でも周りが。」
『その苦しみには意味があったんだよ』
「って決めるのは違うと思う。」
時生がうなずく。
若い拓実:
**「でも実際、時生がいたからお前は変わったんだろ。」
現在の拓実:
「そうだ。」
若い拓実:
「じゃあ時生の人生には意味があったってことでいいじゃねえか。」
時生の顔から笑いが消えた。
時生:
「またそれ?」
若い拓実:
「何が。」
時生:
「俺って、親父を変えるために生まれたの?」
病室が静かになった。
若い拓実も、すぐには答えなかった。
妻が言った。
妻:
「そんなわけない。」
時生:
「でもみんな言うじゃん。」
「俺が親父を変えた。」
「俺が家族を変えた。」
「俺が何か残した。」
「それが俺の人生の意味だって。」
妻:
「私はそこまで——」
時生:
「似てるよ。」
妻は黙った。
時生は少し息を整えた。
時生:
「俺、親父を変えるために生まれたんじゃないよ。」
「母さんを母親にするためでもない。」
「誰かに何かを教えるためでもない。」
若い拓実:
「じゃあ何のためだよ。」
時生:
「知らないよ。」
若い拓実:
「知らないのかよ。」
時生:
「何で生まれた本人が、生まれた目的まで知ってなきゃいけないんだよ。」
千鶴が少し笑う。
千鶴:
「それはそうね。」
時生:
「俺は。」
少し考える。
「ラーメン好きだったし。」
現在の拓実:
「急に何だ。」
時生:
「ゲームも好きだった。」
「夏の夜も好きだった。」
「親父と出かけたのも。」
「母さんと喧嘩したのも。」
妻:
「喧嘩まで?」
時生:
「したじゃん。」
妻は少し笑う。
時生:
「そういうのが俺の人生だろ。」
「誰かを育てたかどうかだけじゃなくて。」
現在の拓実は息子を見た。
拓実:
**「そうだな。」
時生:
「だから親父。」
「俺のおかげで変わったっていうのはいい。」
「でも。」
「それを俺が生まれた理由にしないで。」
拓実:
「……分かった。」
時生:
「本当に?」
拓実:
「分かった。」
若い拓実が腕を組む。
若い拓実:
「じゃあ親って何なんだよ。」
妻:
「何が?」
若い拓実:
「子供を育てる。」
「子供に育てられる。」
「でも子供は親のために生きてるわけじゃない。」
「じゃあ。」
「親は何をすればいいんだよ。」
現在の拓実が笑った。
現在の拓実:
「俺も知りたいよ。」
若い拓実:
「未来まで行っても分かんねえのか。」
拓実:
「分からないことの方が増える。」
時生:
**「それ、結構いい親父じゃん。」
拓実:
「何が。」
時生:
「何でも分かってる顔しないから。」
妻が時生を見る。
妻:
「私は、分かってる顔してた?」
時生:
「時々。」
妻:
「どんな時?」
時生:
「病院の時。」
妻の表情が変わる。
時生:
「医者が説明してる時。」
「母さん、いつも先に質問するじゃん。」
「俺が聞きたいことまで。」
妻は黙った。
妻:
「怖かったの。」
時生:
「うん。」
妻:
「あなたに聞かせたくないこともあった。」
「まだ知らなくていいことも。」
時生:
「母さんが決めた?」
妻:
「……そう。」
時生:
「俺のため?」
妻:
「そう思ってた。」
現在の拓実が妻を見る。
時生:
**「でも俺、気づいてたよ。」
妻:
「何に?」
時生:
「みんなが隠してること。」
妻の目が動く。
時生:
「病院ってさ。」
「大人は隠せてると思ってるけど。」
「顔で分かるんだよ。」
妻が目を伏せる。
妻:
「ごめん。」
時生:
「また謝る。」
妻:
「だって。」
時生:
「俺、怒ってないよ。」
「ただ。」
「守るって、全部隠すことじゃないんだなって思った。」
若い拓実がその言葉に反応した。
若い拓実:
「子供には知らなくていいこともあるだろ。」
時生:
「あると思う。」
若い拓実:
「じゃあ。」
時生:
「でも。」
若い拓実を見る。
時生:
「その“知らなくていい”を、誰のために決めてるかは考えた方がいい。」
現在の拓実が少し苦笑した。
現在の拓実:
「お前、本当に俺の息子か?」
時生:
「だからそう言ってるじゃん。」
若い拓実:
「そこはまだ信じてねえ。」
千鶴が若い拓実を見る。
千鶴:
「拓実。」
若い拓実:
「何。」
千鶴:
「あなた、子供ができたら意外と過保護になりそう。」
若い拓実:
「ならねえよ。」
現在の拓実:
「なる。」
若い拓実:
「うるせえ。」
時生:
「なるなる。」
少し笑いが戻る。
そのあと、妻がぽつりと言った。
妻:
「私ね。」
「時生が生まれてから。」
「強くならなきゃってずっと思ってた。」
時生が母を見る。
妻:
「この子を守らなきゃ。」
「私が泣いたら駄目。」
「不安な顔したら駄目。」
「しっかりしなきゃ。」
「それが母親だと思ってた。」
「でも。」
涙が落ちる。
「本当は、あなたに何度も助けられてた。」
時生:
**「俺が?」
妻:
「あなたが笑うと安心した。」
「病院で。」
「私が泣きそうになってる時に。」
「あなたがくだらないこと言って。」
「それで笑って。」
「私の方が。」
「大丈夫かもしれないって思えた。」
時生:
**「それも俺が母さんを育てたってこと?」
妻は少し笑った。
妻:
「そうね。」
「でも。」
時生を見る。
「あなたは、私を母親にするために生まれたんじゃない。」
時生も少し笑った。
時生:
「うん。」
妻:
「ただ。」
「あなたと生きていたら。」
「私が母親になっていった。」
現在の拓実がその言葉を聞いていた。
現在の拓実:
「それだな。」
若い拓実:
「何が。」
拓実:
「親が子供を育てるって言うけど。」
「たぶん。」
「親は最初から親なんじゃない。」
「子供と一緒に。」
「少しずつ親になっていく。」
若い拓実:
**「失敗しながら?」
現在の拓実:
「失敗だらけだ。」
時生:
「親父は特に。」
拓実:
「黙れ。」
若い拓実の顔が少し曇った。
若い拓実:
「じゃあ。」
「親が失敗して。」
「そのせいで子供が傷ついたら。」
「それも“親も成長途中だった”で済むのか?」
現在の拓実は黙った。
千鶴も妻も若い拓実を見る。
若い拓実:
**「子供からしたら関係ねえだろ。」
「親が未熟だったとか。」
「余裕がなかったとか。」
「事情があったとか。」
「傷ついた方は。」
「傷ついたんだよ。」
病室の空気が変わった。
現在の拓実が静かに答えた。
現在の拓実:
「済まない。」
若い拓実:
「何?」
拓実:
「済まないよ。」
「親が成長途中だったからって。」
「傷つけたことが消えるわけじゃない。」
若い拓実は黙る。
拓実:
「だから。」
「親も子供に育ててもらう、っていう言葉を。」
「親の言い訳に使っちゃいけない。」
千鶴がうなずく。
千鶴:
「それは大事。」
時生が現在の拓実を見る。
時生:
「じゃあ親父が俺を傷つけたことも?」
拓実:
「あるなら、ある。」
時生:
「認める?」
拓実:
「認める。」
時生:
「謝る?」
拓実:
「必要なら。」
時生は少し笑った。
時生:
「じゃあ一個ある。」
拓実:
「何だよ。」
時生:
「昔、俺のプリン食った。」
拓実:
「お前、今この流れでそれ言う?」
妻が吹き出した。
千鶴も笑った。
若い拓実まで少し笑った。
笑いが収まったあと。
時生が言った。
時生:
「でも、本当に。」
「親父も母さんも。」
「俺が育てた部分あると思う。」
妻:
「うん。」
時生:
「俺も二人に育てられた。」
現在の拓実:
「そうだな。」
時生:
「じゃあ。」
「どっちが育てたっていうより。」
「一緒に育った、でいいんじゃない?」
誰もすぐには答えなかった。
現在の拓実が先にうなずく。
現在の拓実:
「それが一番近いかもしれない。」
若い拓実は少し考えていた。
若い拓実:
「でも俺には。」
「まだ分かんねえ。」
時生:
「何が?」
若い拓実:
「子供に育ててもらうとか。」
「子供がいるから変わるとか。」
「そんなの。」
少し苛立つ。
「結局、親になる奴の話だろ。」
時生:
「どういう意味?」
若い拓実:
**「俺は。」
「親に育ててもらったって感じがしねえ。」
部屋が静かになる。
若い拓実:
「なのに。」
「未来じゃ俺が親になって。」
「子供に育ててもらう?」
笑う。
でも笑顔ではない。
「都合よすぎねえか。」
現在の拓実が若い自分を見る。
彼が次に何を言うか分かっていた。
なぜなら自分だから。
若い拓実:
「親ってさ。」
「子供を育てるって言うなら。」
「途中でいなくなるのは何なんだよ。」
時生の表情が変わる。
若い拓実:
**「育てられなかった事情がある?」
「愛してたけど仕方なかった?」
「そんなの。」
声が強くなる。
「残された子供に何の関係があるんだよ。」
現在の拓実は目を閉じた。
Topic 2で話していた、
子供が親を育てる
という問いは、
いつの間にか別の問いに変わっていた。
親に育ててもらえなかったと思っている子供は、その親をどう見ればいいのか。
時生は若い父親を見た。
さっきまで少し笑っていた男の顔に。
今は、ずっと昔から消えなかった子供の顔が残っていた。
そしてその傷が、
次の話の扉を開こうとしていた。
Topic 3 — 「捨てられた」という記憶は、人をどこまで支配するのか

若い拓実の言葉が、病室に残っていた。
「残された子供に何の関係があるんだよ。」
誰もすぐには返さなかった。
時生は若い父親を見ていた。
さっきまで皮肉を言っていた男の顔から、怒りだけが少し消えていた。
代わりに残っていたのは、もっと幼いものだった。
現在の拓実には、それが分かった。
自分も長い間、その顔をしていたから。
若い拓実:
「何だよ。」
現在の拓実:
**「何が。」
若い拓実:
「みんな黙って。」
「俺が子供みたいなこと言ってると思ってんだろ。」
千鶴が首を横に振る。
千鶴:
「思ってない。」
若い拓実:
「じゃあ何だよ。」
千鶴:
「本当に傷ついてるんだなって思った。」
若い拓実の顔が硬くなった。
若い拓実:
「同情すんなよ。」
千鶴:
「同情してない。」
「ただ、拓実ってずっと怒ってるから。」
「怒ってる方が本当の気持ちなんだと思ってた。」
若い拓実:
「本当だよ。」
千鶴:
「本当に?」
若い拓実が睨む。
千鶴:
「捨てられたって思った時。」
「最初に怒ったの?」
若い拓実は答えない。
千鶴:
「最初から。」
『ふざけんな』
「って思った?」
若い拓実:
「……知らねえよ。」
千鶴:
「寂しくなかった?」
若い拓実:
「やめろ。」
千鶴:
「怖くなかった?」
若い拓実:
「やめろって言ってんだろ。」
病室の空気が張った。
時生が静かに言った。
時生:
「親父。」
若い拓実:
「何だよ。」
時生:
「怒ってる時って、ちょっと楽?」
若い拓実:
「は?」
時生:
「悲しいより。」
若い拓実:
「何言ってんだ。」
時生:
「怒ってる時って、相手が悪いって思えるじゃん。」
「でも悲しい時って。」
「自分が残されただけになる。」
若い拓実は何も言わなかった。
現在の拓実が時生を見る。
現在の拓実:
「お前、昔の俺にそこまで言うなよ。」
時生:
「親父が言わないから。」
現在の拓実は苦笑した。
若い拓実が吐き捨てる。
若い拓実:
「未来から来たからって、全部分かった顔するな。」
時生:
「分かってないよ。」
「俺は親父じゃないし。」
若い拓実:
「じゃあ黙ってろ。」
時生:
「でも。」
若い拓実:
「何だよ。」
時生:
「“捨てられた”って言葉だけで、親父が自分の人生全部説明してるのは分かる。」
若い拓実が立ち上がった。
若い拓実:
「お前に何が分かる!」
現在の拓実も立ちかけた。
千鶴が手で止める。
若い拓実:
「自分の母親がいなくなって。」
「何でいないのかも分からなくて。」
「周りの家には普通に母親がいて。」
「運動会でも。」
「学校でも。」
「何かあるたびに。」
声が震える。
「俺だけ違う。」
誰も口を挟まない。
若い拓実:
「そのうち考えるんだよ。」
『俺が何か悪かったのか。』
一瞬、声が小さくなる。
「子供だから分からねえんだよ。」
「大人の事情なんて。」
「だから。」
「母親がいない理由を、自分の中に探すんだよ。」
現在の拓実の顔が変わった。
若い拓実:
「俺が悪い子だったから。」
「俺がいらない子だったから。」
「俺じゃなかったら、残ってくれたのか。」
千鶴が目を伏せる。
妻も黙って聞いている。
時生は若い父から目を逸らさなかった。
若い拓実:
「でもそんなこと考えてたら。」
「自分が壊れるだろ。」
「だから途中から。」
「俺は悪くない。」
「向こうが悪い。」
「俺を捨てた奴が悪い。」
「そう思うようになった。」
「その方が楽だった。」
時生が小さく言った。
時生:
「やっぱり怒ってた方が楽だったんだ。」
若い拓実は反発しなかった。
椅子に座る。
そして。
若い拓実:
「……そうかもな。」
長い沈黙。
現在の拓実が口を開いた。
現在の拓実:
「俺も。」
若い拓実が見る。
現在の拓実:
「ずっと同じだった。」
「自分は捨てられた。」
「だからこうなった。」
「人を信用できない。」
「仕事が続かない。」
「怒りっぽい。」
「誰かが離れていくと。」
『ほら、やっぱり』
「って思う。」
若い拓実:
「実際そうだっただろ。」
現在の拓実:
「そう見える出来事を集めてたんだよ。」
若い拓実:
**「何だそれ。」
現在の拓実:
「自分が捨てられる人間だって証明するもの。」
若い拓実:
「そんなもの集めてどうすんだよ。」
拓実:
「無意識だから分からない。」
「でも。」
「千鶴が少し距離を取る。」
『やっぱり俺を捨てる。』
「誰かが信用してくれない。」
『ほら、俺は愛されない。』
「うまくいかない。」
『俺の人生は最初からこうなるんだ。』
千鶴が現在の拓実を見る。
千鶴:
「私も、それ感じてた。」
若い拓実が彼女を見る。
千鶴:
「私が何か言うと。」
「拓実は、その言葉そのものじゃなくて。」
「“捨てるかどうか”で聞いてた。」
若い拓実:
「そんなことない。」
千鶴:
「あるよ。」
千鶴:
「喧嘩した時。」
「私はただ怒ってるだけなのに。」
「拓実はすぐ。」
『じゃあ別れればいいだろ。』
「って言った。」
若い拓実が黙る。
千鶴:
「私は別れるなんて言ってない。」
「でも拓実が先に言う。」
「何でだと思う?」
若い拓実:
「知らねえよ。」
千鶴:
「捨てられる前に。」
「自分から捨てたことにしたかったんじゃない?」
若い拓実の目が変わった。
若い拓実:
「違う。」
千鶴:
「そう?」
若い拓実:
「違う。」
千鶴:
「じゃあ何で、私がまだそこにいるのに。」
「いつも“どうせいなくなる”って決めてたの?」
若い拓実は答えない。
時生が現在の拓実を見る。
時生:
「親父、これ後で分かった?」
現在の拓実:
「かなり後でな。」
時生:
「面倒くさいな。」
拓実:
「お前、今それ言う?」
時生:
「だって。」
少し笑いが生まれた。
若い拓実だけは笑わなかった。
しばらくして、若い拓実が言った。
若い拓実:
「じゃあ。」
現在の拓実:
「何だ。」
若い拓実:
「真実を知ったら全部変わったのかよ。」
病室がまた静かになる。
若い拓実:
「母親には事情があった。」
「俺を嫌いだったわけじゃない。」
「それが分かったら。」
「それまでの何十年が全部治ったのか?」
現在の拓実はすぐに答えなかった。
現在の拓実:
「治ってない。」
若い拓実が少し驚く。
若い拓実:
「治ってない?」
「じゃあ意味ねえじゃん。」
拓実:
「意味はあった。」
若い拓実:
「どっちだよ。」
現在の拓実は少し考える。
現在の拓実:
「傷が消えたわけじゃない。」
「子供の頃、一人だった時間も変わらない。」
「寂しかったことも。」
「恨んだことも。」
「全部残ってる。」
若い拓実:
「だったら。」
拓実:
「でも。」
若い自分を見る。
「“俺は愛されなかった子供だった”っていう話は、変わった。」
若い拓実は動かなかった。
妻が静かに聞く。
妻:
「どう違うの?」
拓実:
「母親がいなかったことと。」
「愛されていなかったことを。」
「俺はずっと同じだと思ってた。」
「でも違った。」
妻:
「一緒にいられないことと、愛していないことは同じではなかった。」
拓実:
「そう。」
若い拓実の顔に怒りが戻る。
若い拓実:
「じゃあ愛してれば何してもいいのかよ。」
拓実:
「違う。」
若い拓実:
「愛してました。」
「事情がありました。」
「だから許してください。」
「そんな話か?」
拓実:
「違うって言ってる。」
若い拓実:
「じゃあ何が違うんだよ!」
現在の拓実:
「理解することと、許すことは別だ!」
部屋が静まった。
現在の拓実は少し声を落とした。
現在の拓実:
「俺は。」
「事情を知ったからって。」
「子供の頃の自分に。」
『母さんにも事情があったんだから我慢しろ』
「なんて言いたくない。」
若い拓実は黙る。
拓実:
「寂しかったものは寂しかった。」
「傷ついたものは傷ついた。」
「それでいい。」
「ただ。」
「“母親は俺を愛していなかった”っていう結論まで。」
「抱え続けなくていいって分かった。」
千鶴が静かにうなずいた。
千鶴:
「許すことより。」
「自分についての誤解を解く感じなのかも。」
若い拓実が千鶴を見る。
千鶴:
「相手を無罪にするんじゃなくて。」
「自分を。」
『愛される価値がなかった子供』
「にしておかなくていい。」
若い拓実は目を逸らした。
時生が聞く。
時生:
「じゃあさ。」
「親父は母親を許したの?」
現在の拓実が止まる。
若い拓実も見る。
妻も千鶴も答えを待つ。
現在の拓実:
「分からない。」
若い拓実:
「またそれかよ。」
拓実:
「本当に分からない。」
「許した部分もある。」
「まだ腹が立つ部分もある。」
「会いたかったと思う時もある。」
「今さらって思う時もある。」
時生:
「それでいいの?」
拓実:
「今はいいと思ってる。」
若い拓実が笑う。
若い拓実:
「ずいぶん中途半端だな。」
現在の拓実:
「お前は全部白黒にしたがるからな。」
若い拓実:
「分かりやすいだろ。」
拓実:
「その分かりやすさで、自分を二十年以上苦しめた。」
若い拓実の笑顔が消えた。
千鶴:
**「許すって、相手にプレゼントするものだと思ってる人もいるけど。」
妻:
「違う?」
千鶴:
「私は分からない。」
「でも。」
「許さないと前へ進めない、って言われるのも嫌。」
現在の拓実:
**「俺もそう思う。」
若い拓実が千鶴を見る。
若い拓実:
「じゃあ許さなくていいのか。」
千鶴:
「いいんじゃない?」
若い拓実が少し驚く。
千鶴:
「許せないなら。」
「今は。」
「ただ。」
「許せない相手のせいで、自分の今日まで全部決める必要はないと思う。」
若い拓実:
**「簡単に言うなよ。」
千鶴:
「簡単じゃないよ。」
「拓実を見てたから。」
若い拓実:
「何だよ。」
千鶴:
「あなた、ずっとお母さんに怒ってた。」
「でも、そのお母さんはそこにいない。」
若い拓実は黙る。
千鶴:
「いない人と毎日喧嘩してた。」
その言葉は、若い拓実に刺さった。
現在の拓実にも。
千鶴:
「何か決める時も。」
「仕事が嫌になった時も。」
「人と喧嘩した時も。」
「全部。」
『だって俺はこういう家庭で育ったから』
「って。」
「拓実は、お母さんがいないのに。」
「ずっとお母さんに今の人生まで決めてもらってた。」
若い拓実の顔が歪んだ。
若い拓実:
「……じゃあ俺が全部悪いって言いたいのか。」
現在の拓実がすぐに言う。
現在の拓実:
「違う。」
若い拓実:
「じゃあ何だよ!」
拓実:
「何が起きたかは、お前のせいじゃない。」
若い拓実が止まる。
拓実:
「子供だったお前に責任なんてない。」
「母親がいなくなったことも。」
「寂しかったことも。」
「それで傷ついたことも。」
「全部、お前のせいじゃない。」
若い拓実は現在の自分を見る。
現在の拓実:
**「でも。」
少し間。
「その傷を使って、これから何をするかまで全部決める必要はない。」
若い拓実の目が揺れる。
若い拓実:
「そんなの……。」
「今だから言えるんだろ。」
拓実:
「そうだよ。」
若い拓実:
「未来で幸せになったから。」
拓実:
「そうかもしれない。」
若い拓実:
「だったら今の俺には無理だ。」
現在の拓実は否定しなかった。
現在の拓実:
「じゃあ今は無理でいい。」
若い拓実:
「何?」
拓実:
「今すぐ母親を理解しなくていい。」
「許さなくていい。」
「立派にならなくていい。」
若い拓実が戸惑う。
拓実:
「でも。」
「一つだけ。」
「お前自身のことを。」
『捨てられるような人間だから捨てられた』
「って思うのはやめろ。」
若い拓実は何も言わなかった。
長い沈黙。
時生が若い拓実に聞いた。
時生:
「親父。」
若い拓実:
「何。」
時生:
「子供の頃の自分に会えたら、何て言う?」
若い拓実は眉をひそめた。
「急に何だよ。」
時生:
「俺は過去に来たじゃん。」
「親父も行けるとしたら。」
若い拓実:
**「何も言わねえよ。」
時生:
「何で。」
若い拓実:
「ガキの俺に言ったって分かんねえ。」
時生:
「それでも。」
若い拓実は黙る。
しばらくして。
若い拓実:
「……お前のせいじゃない。」
現在の拓実の表情が変わった。
千鶴が若い拓実を見る。
時生:
「それだけ?」
若い拓実:
「それだけでいいだろ。」
時生:
「うん。」
若い拓実は、少し苛立ったように続ける。
若い拓実:
「母親がいなくなったのは。」
「お前が悪かったからじゃない。」
「いい子じゃなかったからでも。」
「いらない子だったからでもない。」
声が少し震える。
「……それだけ。」
誰も何も言わなかった。
今、その言葉を一番聞いていたのは。
過去の子供ではない。
若い拓実自身だった。
妻が静かに言う。
妻:
「子供って。」
「自分に起きたことの理由を、自分の価値に結びつけてしまうのね。」
現在の拓実:
「そういうこと、あると思う。」
妻は時生を見る。
妻:
「じゃあ私も気をつけないと。」
時生:
「何を?」
妻:
「あなたが病気になったことを。」
「私のせいだと思わないように。」
時生は母親を見る。
妻:
「時々思うの。」
「妊娠中に何かした?」
「私の体が悪かった?」
「もっと早く気づけた?」
「何か防げた?」
時生:
「母さん。」
妻:
「分かってる。」
「理屈では。」
「でも。」
「親って、子供に起きたことを自分の責任にしたくなるのかもしれない。」
現在の拓実:
**「子供も同じなんだよ。」
妻が見る。
拓実:
「親に起きたことを。」
「自分のせいにすることがある。」
時生:
**「じゃあ親子って、結構お互い勝手に責任背負ってんだね。」
千鶴:
「そうかもね。」
若い拓実:
「面倒くせえな。」
時生:
「親父が言う?」
若い拓実:
「うるせえ。」
少し空気が緩んだ。
そのあと、時生が現在の拓実に聞いた。
時生:
「親父。」
「真実を知ってよかった?」
拓実:
「よかった。」
時生:
「傷が消えなくても?」
拓実:
「うん。」
時生:
「母親を完全に許せなくても?」
拓実:
「うん。」
時生:
「何で?」
現在の拓実は少し考えた。
現在の拓実:
「俺はずっと。」
「母親のことを知りたかったと思ってた。」
「何でいなくなった。」
「何で俺を置いていった。」
「その答えが欲しかった。」
「でも。」
若い自分を見る。
現在の拓実:
「本当は。」
「自分が愛される価値のない子供じゃなかったって知りたかったんだと思う。」
若い拓実が目を伏せた。
千鶴が小さく言う。
千鶴:
「それを知ったから。」
「過去が変わったわけじゃない。」
拓実:
「うん。」
千鶴:
「でも、自分の見え方が変わった。」
拓実:
「そう。」
時生は少し考えていた。
時生:
「じゃあさ。」
現在の拓実:
「何。」
時生:
「過去って、出来事だけじゃないのかもね。」
若い拓実:
「どういう意味?」
時生:
「起きたことは変わらない。」
「でも。」
「その出来事が、自分にとって何だったのかは。」
「あとから変わることがある。」
現在の拓実は息子を見る。
若い拓実も、時生を見る。
そこにいるのは。
未来から過去へ来た少年。
過去を変える力があるように見えて。
本当は。
父親に起きた出来事を消したわけではない。
母親との別れも。
孤独も。
怒りも。
何一つ消していない。
それでも。
その過去が意味するものを、少しずつ変えていた。
若い拓実がぽつりと言った。
若い拓実:
「だったら。」
時生:
「うん。」
若い拓実:
「過去に戻れるとしても。」
「全部変える必要はないのか。」
現在の拓実が彼を見る。
時生はすぐには答えなかった。
少し笑って。
時生:
「それ、次に考えようよ。」
若い拓実:
「何でお前が仕切るんだよ。」
時生:
「未来から来た人だから。」
若い拓実:
「それ便利だな。」
千鶴が笑った。
病室に少しだけ明るさが戻った。
けれどテーブルの上には、もう次の問いが置かれていた。
もし本当に過去へ戻れるなら。
私たちが変えたいのは、起きた出来事そのものなのか。
それとも。
その出来事に、ずっと握られてきた自分自身なのか。
Topic 4 — 過去を変えられなくても、意味は変えられるのか

病室には、さっきの問いが残っていた。
「もし本当に過去へ戻れるなら、変えたいのは出来事そのものなのか。それとも、その出来事に握られてきた自分自身なのか。」
若い拓実は、すぐに答えた。
若い拓実:
「俺なら全部やり直す。」
時生が笑う。
時生:
「全部って便利な言葉だね。」
若い拓実:
「何だよ。」
時生:
「何を変えるの?」
若い拓実は少し考えた。
若い拓実:
「まず、母親のこと。」
現在の拓実が見る。
若い拓実:
「もし戻れるなら、いなくなる前に聞く。」
「何で。」
「どこ行くんだ。」
「俺を置いていくのか。」
「戻ってくるのか。」
少し間。
「本当は俺のこと嫌いなのか。」
現在の拓実が静かに言う。
現在の拓実:
「それを聞けたら、人生変わったと思う?」
若い拓実:
「変わっただろ。」
現在の拓実:
「絶対?」
若い拓実:
「少なくとも、今みたいにはならなかった。」
現在の拓実は否定しなかった。
千鶴が口を開く。
千鶴:
「私のことも変える?」
若い拓実が彼女を見る。
若い拓実:
「何を。」
千鶴:
「喧嘩したこと。」
「疑ったこと。」
「勝手に捨てられると思ったこと。」
若い拓実は少し不機嫌になる。
若い拓実:
「できるなら変えるよ。」
千鶴:
**「全部?」
若い拓実:
「全部。」
千鶴は少し笑った。
千鶴:
「じゃあ、その場合。」
「今の拓実じゃなくなるね。」
若い拓実の顔が変わる。
若い拓実:
「それでいいだろ。」
千鶴:
「本当に?」
「過去を全部消して。」
「傷ついたことも。」
「怒ったことも。」
「間違えたことも。」
「全部なかったら。」
「それでも、今ここにいるあなたと同じ?」
若い拓実は答えない。
時生が少し面白そうに聞いている。
時生:
「親父。」
若い拓実:
**「何。」
時生:
「もし過去を全部変えて、親父が別の人生を歩いたら。」
「俺、生まれてくる?」
病室が静かになった。
若い拓実の表情が止まる。
現在の拓実も息子を見る。
若い拓実:
「……知らねえよ。」
時生:
「でしょ。」
若い拓実:
「でも、それとこれとは。」
時生:
「同じだよ。」
若い拓実:
**「何が。」
時生:
「過去を変えるって、嫌だった部分だけ消せるわけじゃないでしょ。」
「一個変えたら。」
「そのあとに会う人も。」
「選ぶ仕事も。」
「住む場所も。」
「全部ずれるかもしれない。」
妻が静かに言う。
妻:
「そうしたら、私たちも出会わなかったかもしれない。」
現在の拓実が妻を見る。
若い拓実は少し苛立つ。
若い拓実:
「だからって、つらかった過去をありがたがれって?」
現在の拓実:
「誰も言ってない。」
若い拓実:
**「でも結局そういう話だろ。」
「つらいことがあったから今の幸せがある。」
「だからよかった。」
「そう言いたいんじゃないのか。」
現在の拓実:
**「違う。」
「俺は、あの頃の自分に“つらくてよかったな”なんて絶対言わない。」
「そんなこと言われたら殴りたくなる。」
時生:
**「たぶん昔の親父なら本当に殴るね。」
少し笑いが起きる。
現在の拓実は続ける。
現在の拓実:
「でも。」
「過去を変えたいと思う気持ちと。」
「今の人生を否定することは別だ。」
若い拓実:
**「どう違う。」
拓実:
「母親に捨てられたと思って育ったこと。」
「できるなら変えたい。」
「千鶴を傷つけたこと。」
「できるなら変えたい。」
「仕事から逃げたことも。」
「人に当たったことも。」
「全部、戻れるならやり直したい場面はある。」
若い拓実:
**「じゃあ同じじゃねえか。」
拓実:
**「でも。」
時生を見る。
「その全部がなかった別の人生と、今ここにある人生を交換したいかって聞かれたら、俺には分からない。」
若い拓実は黙った。
千鶴が言う。
千鶴:
「“もしあの時”って、不思議だよね。」
妻:
**「どういうこと?」
千鶴:
「考える時って。」
「変えた後の良い結果だけ想像するでしょう。」
「母親が残ってくれたら、拓実はもっと幸せだった。」
「私たちが喧嘩しなかったら、うまくいった。」
「仕事を辞めなかったら、成功した。」
「でも。」
「変えた先で、別の問題が起きる可能性はあまり考えない。」
時生:
**「選ばなかった人生って失敗しないんだよね。」
若い拓実が時生を見る。
時生:
「頭の中にしかないから。」
「だから、いくらでも完璧にできる。」
現在の拓実が少し笑う。
現在の拓実:
「お前、随分大人みたいなこと言うな。」
時生:
**「親父よりはね。」
若い拓実:
「二人とも腹立つな。」
妻が若い拓実を見る。
妻:
「でも、もし本当に一つだけ変えられるなら?」
若い拓実:
**「一つ?」
妻:
「一つだけ。」
若い拓実はしばらく考えた。
そして。
若い拓実:
「母親がいなくなる日の朝。」
誰も口を挟まない。
若い拓実:
「止めなくてもいい。」
現在の拓実が少し驚く。
若い拓実:
「ただ。」
「聞きたい。」
『俺のこと嫌いだから行くのか。』
声が小さくなる。
「それだけ。」
現在の拓実は、若い自分を見た。
現在の拓実:
「それは。」
「過去を変えたいんじゃないかもしれない。」
若い拓実:
**「じゃあ何だよ。」
拓実:
**「意味を知りたいんだ。」
若い拓実は黙る。
現在の拓実:
「母親がいなくなった事実を消したいんじゃなくて。」
『俺は嫌われたから捨てられた』
「っていう意味を、確かめたい。」
千鶴がうなずく。
千鶴:
「そして、その意味が違ったら。」
「同じ出来事でも、人生の中での位置が変わる。」
若い拓実:
**「そんなことで変わるかよ。」
現在の拓実:
**「変わったよ。」
若い拓実が顔を上げる。
現在の拓実:
**「母親がいなかった事実は、何も変わってない。」
「子供の頃の寂しさも。」
「学校行事で他の家族を見て嫌だったことも。」
「全部そのまま。」
「でも。」
「昔はその全部が。」
『俺は愛されなかった証拠』
「だった。」
「今は違う。」
妻:
**「何になったの?」
拓実:
「愛していても、一緒にいられないことがある。」
「大人には、子供には見えない事情がある。」
「そのせいで子供が傷つくこともある。」
「そういう、もっと複雑な出来事になった。」
若い拓実:
**「複雑になっただけじゃねえか。」
現在の拓実:
「そうだよ。」
「でも。」
「単純に“俺は愛されなかった”っていう話より。」
「複雑な方が、本当だった。」
病室に沈黙。
時生が静かに言う。
時生:
「過去って。」
「変えるより。」
「増えるのかもしれないね。」
若い拓実:
**「増える?」
時生:
「同じ出来事に。」
「あとから意味が増える。」
「子供の時の意味。」
「大人になった時の意味。」
「親になった時の意味。」
現在の拓実は息子を見る。
時生:
「親父が母親に捨てられたと思ってたことも。」
「若い時は怒りだった。」
「でも自分が親になって。」
「また違って見えたんじゃない?」
現在の拓実:
**「そうだな。」
妻が時生を見る。
妻:
「じゃあ、あなたの病気も?」
時生の表情が少し変わる。
妻:
「今の私は。」
「つらい。」
「怖い。」
「できれば全部変えたい。」
「でも。」
「何年か経ったら。」
「違う意味になる?」
時生はすぐ答えなかった。
時生:
「なるかもしれない。」
妻の目に涙が浮かぶ。
時生:
「でも母さん。」
「今から意味を作らなくていいよ。」
妻が見る。
時生:
「今は、つらいでいいじゃん。」
「怖いでいい。」
「後から何か見つかるかもしれないけど。」
「今、“この病気にも意味がある”って思わなくていい。」
妻は泣いた。
現在の拓実も目を伏せた。
千鶴が言う。
千鶴:
「それ、すごく大事だと思う。」
「人って。」
「苦しい出来事があると、早く意味を見つけたくなる。」
「意味があれば耐えられる気がするから。」
「でも。」
「まだ悲しんでいる人に。」
『きっと意味があるよ』
「って言うと。」
「悲しむ時間まで奪うことがある。」
若い拓実:
**「じゃあ意味なんて後からでいい?」
千鶴:
「必要なら。」
「見つからなくてもいいかもしれない。」
若い拓実:
**「意味がない過去もあるってこと?」
現在の拓実:
「あるんじゃないか。」
若い拓実:
「それでいいのかよ。」
現在の拓実:
「全部に意味が必要なのか?」
若い拓実が止まった。
現在の拓実:
**「事故。」
「病気。」
「裏切り。」
「別れ。」
「全部。」
「何か素晴らしい結果につながらないと、受け入れちゃいけないのか?」
時生が父を見る。
拓実:
「そんなことないと思う。」
「意味が見つからないまま残ることだってある。」
「それでも、生きていくしかないこともある。」
若い拓実:
**「じゃあ過去に戻る意味って何なんだよ。」
時生が少し笑う。
時生:
「親父。」
若い拓実:
「何。」
時生:
「俺、過去に来たけど。」
「親父の過去、そんなに変えた?」
若い拓実は黙る。
時生:
「母親がいなくなったことも変わってない。」
「親父の生い立ちも。」
「昔やった失敗も。」
「全部残ってる。」
若い拓実:
「じゃあお前、何しに来たんだよ。」
時生は少し考える。
時生:
「親父に。」
「今見えてる人生だけが全部じゃないって。」
「見せに来たのかも。」
現在の拓実の表情が変わる。
時生:
「今の親父は。」
『俺は捨てられた。だから終わってる。』
「って思ってる。」
若い拓実:
「終わってるとは言ってねえ。」
時生:
「似たようなこと言ってるじゃん。」
時生:
**「でも俺から見ると。」
「親父のその先に。」
「まだ俺がいる。」
「母さんがいる。」
「親父がまだ知らない人がいる。」
「まだ知らない人生がある。」
若い拓実は、何も言わなかった。
時生:
「だから。」
「過去を変えるんじゃなくて、“この先なんか何もない”って思ってる親父の見方を変えるために来たのかもしれない。」
現在の拓実は息子を見つめた。
妻も。
千鶴も。
若い拓実が、小さく言った。
若い拓実:
「でも。」
「未来を知らない人はどうすんだよ。」
時生:
「何が?」
若い拓実:
「俺はお前がいるから。」
「この先何かあるって言われる。」
「でも普通は。」
「誰も未来から来ない。」
時生は黙った。
これは簡単に答えられない問いだった。
現在の拓実が言う。
現在の拓実:
「そうだな。」
若い拓実:
「じゃあ苦しい時。」
「この先いいことあるって。」
「どうやって信じるんだよ。」
現在の拓実:
**「信じられない時もある。」
若い拓実:
「じゃあ。」
拓実:
「無理に信じなくてもいい。」
若い拓実の顔が変わる。
現在の拓実:
「俺が若い時に。」
『いつか全部よくなる』
「なんて言われても。」
「たぶん腹が立った。」
時生:
**「絶対怒るね。」
拓実:
「だから。」
「“未来は明るい”って信じなくてもいい。」
「ただ。」
少し間。
「今見えている意味が、最後の意味だとは決めなくていい。」
若い拓実は黙って聞いていた。
千鶴が言う。
千鶴:
「それなら少し分かる。」
「今の私は。」
「この出来事は最悪だと思う。」
「それは変えなくていい。」
「でも。」
『一生、最悪の意味しか持たない』
「とまでは決めなくていい。」
現在の拓実:
**「そういうことだと思う。」
妻が時生を見る。
妻:
「あなたがいなくなったあと。」
「私が。」
「あなたの人生に違う意味を見つけても。」
「それは時生の人生を勝手に変えることになる?」
時生は少し考えた。
時生:
「母さんの中での俺の意味が変わるんでしょ?」
妻:
「うん。」
時生:
「それならいいんじゃない?」
「ただ。」
妻:
「ただ?」
時生:
「俺がその意味のために生きたことにはしないで。」
妻は静かにうなずいた。
妻:
「分かった。」
若い拓実が現在の拓実を見る。
若い拓実:
「じゃあ。」
「お前が今、過去に戻れるなら。」
「何を変える?」
現在の拓実は長く考えた。
現在の拓実:
「母親がいなくなることは。」
「止めたいと思う。」
「千鶴に言ったひどいことも。」
「消したい。」
千鶴:
**「随分いっぱいあるからね。」
拓実:
「うるさい。」
少し笑う。
現在の拓実:
「でも。」
「もし一つだけなら。」
若い拓実:
「何だ。」
拓実は、若い自分を見る。
「お前に、“今決めた自分の人生の意味を、一生信じなくていい”って言う。」
若い拓実は目を逸らした。
若い拓実:
「そんな言葉で変わるかよ。」
現在の拓実:
「変わらなくていい。」
若い拓実:
「は?」
拓実:
「その日すぐ変わらなくても。」
「どこかに残ればいい。」
「十年後でも。」
「二十年後でも。」
「意味が変わる時に。」
「あの時の言葉を思い出せれば。」
時生が小さく笑った。
時生:
「手紙みたいだね。」
現在の拓実:
「何が。」
時生:
「今は意味分からないけど。」
「後になって意味が変わる言葉。」
病室に、短い静けさが落ちた。
若い拓実はずっと窓を見ていた。
やがて。
若い拓実:
「じゃあ。」
「俺が今。」
「自分は捨てられた人間だって思ってても。」
現在の拓実:
「うん。」
若い拓実:
「それを今すぐ変えなくてもいい。」
拓実:
「いい。」
若い拓実:
「でも。」
「それが最後の答えだって決めなくてもいい。」
現在の拓実:
「そうだ。」
若い拓実は、少しだけうなずいた。
時生がその顔を見ていた。
未来から過去へ来た少年は。
父親の過去を消さなかった。
失敗も。
孤独も。
怒りも。
何一つ。
ただ。
その出来事に貼られていた、
「これが俺の人生のすべてだ」
という札を。
少しだけ剥がしていた。
そして時生が、ぽつりと言った。
時生:
「でもさ。」
現在の拓実:
「何だ。」
時生:
「意味が変わるって話してるけど。」
「じゃあ。」
全員が見る。
時生:
「俺の人生の意味って。」
「誰が決めるの?」
妻の表情が変わる。
現在の拓実も黙った。
時生:
「親父?」
「母さん?」
「俺?」
「それとも。」
「俺が死んだあと、残った人たちが勝手に決めていくの?」
誰もすぐには答えられなかった。
過去の意味を変えられるのなら。
今度は、
一人の人生の意味を、誰が持つ権利があるのか。
そのもっと難しい問いが、静かに始まっていた。
Topic 5 — 人生の意味は誰が決めるのか

時生の問いが、病室に残っていた。
「俺の人生の意味って、誰が決めるの?」
誰もすぐには答えなかった。
現在の拓実は息子を見る。
妻は時生の手を握ったまま。
若い拓実は窓際に立っていた。
千鶴は少し離れた椅子に座っている。
最初に口を開いたのは、現在の拓実だった。
現在の拓実:
「俺にとっては。」
時生:
**「うん。」
拓実:
「お前がいたことには意味がある。」
時生:
**「どんな意味?」
拓実:
「俺を変えた。」
時生はすぐには反応しなかった。
拓実は続ける。
「若い頃の俺は。」
「自分の人生なんてどうでもいいと思ってた。」
「人のせいにして。」
「逃げて。」
「怒って。」
「でもお前に会って。」
若い拓実:
**「ずいぶん悪く言うな。」
現在の拓実:
**「事実だろ。」
時生が少し笑う。
拓実:
「お前と一緒に動いて。」
「誰かのために何かするってことを覚えた。」
「親になる前に。」
「お前に親にしてもらった。」
時生は父を見る。
時生:
「だから。」
少し間。
「俺の人生には意味があった?」
拓実:
**「あった。」
時生:
「俺が親父を変えたから?」
拓実:
「それだけじゃない。」
時生:
**「でも今、最初にそれ言ったよ。」
現在の拓実が止まった。
時生:
**「じゃあさ。」
「もし俺が過去に行かなかったら?」
拓実:
「何?」
時生:
「親父を変えなかった。」
「誰も助けなかった。」
「何か大きなことも残さなかった。」
「病気になって。」
「家でゲームして。」
「母さんと喧嘩して。」
「親父に文句言って。」
「そのまま短い人生で終わってたら。」
病室が静まる。
「その俺の人生には、意味なかった?」
拓実はすぐに答えられなかった。
妻が言った。
妻:
「そんなことない。」
時生:
「何で?」
妻:
「だってあなたは、あなたでしょう。」
時生:
「でも母さんもさ。」
「俺が家族に何を残したとか。」
「俺のおかげでどう変わったとか。」
「そういう話するじゃん。」
妻は黙る。
時生:
「それって結局。」
『誰かの役に立ったから価値がある』
「ってことにならない?」
若い拓実が腕を組む。
若い拓実:
「でも、人の役に立つって大事だろ。」
時生:
「大事だと思う。」
若い拓実:
「じゃあいいじゃねえか。」
時生:
「でも。」
若い拓実を見る。
時生:
「役に立たなかった人は?」
若い拓実:
「何?」
時生:
「誰かを救わなかった人。」
「大きなことをしなかった人。」
「誰かの人生を変えなかった人。」
「そういう人の人生は、意味が少ないの?」
若い拓実は答えない。
時生:
「もし俺が親父を変えたから価値があるなら。」
「変えなかった俺は?」
妻が小さく言う。
妻:
「時生。」
時生:
**「怒ってないよ。」
「ただ。」
「俺の人生を、何かに役立ったかで説明されるのが。」
少し考える。
「ちょっと嫌なんだと思う。」
千鶴が静かに言った。
千鶴:
「分かる気がする。」
現在の拓実が見る。
千鶴:
「誰かが亡くなった時。」
「残った人は意味を探すでしょう。」
「この人が教えてくれたこと。」
「この人が残したもの。」
「この人のおかげで変わったこと。」
妻:
**「そうしないと耐えられない時もある。」
千鶴:
「うん。」
「だから悪いとは思わない。」
「でも。」
時生を見る。
「それは残った人の物語なんだと思う。」
時生が少しうなずいた。
時生:
「そう。」
「親父にとって、俺が親父を変えたことに意味がある。」
「母さんにとって、俺と過ごした時間に意味がある。」
「それはいい。」
「嬉しいし。」
「でも。」
「それを、そのまま俺の人生の意味にしないでほしい。」
現在の拓実:
**「じゃあ。」
「お前にとっての意味は?」
時生は笑った。
時生:
「またでかい質問。」
拓実:
「逃げるなよ。」
時生:
「逃げてない。」
少し考える。
「俺さ。」
「“人生の意味”って言われると。」
「何か一個、立派な答えを言わなきゃいけない感じがする。」
若い拓実:
**「たとえば?」
時生:
「人を救うため。」
「愛を知るため。」
「親父を変えるため。」
「何かを残すため。」
「そういうの。」
妻:
「違うと思う?」
時生:
「分かんない。」
「でも俺は。」
少し笑う。
「そんな立派なこと考えて毎日生きてなかったよ。」
妻:
**「じゃあ何を考えてたの?」
時生:
「今日は何食べるとか。」
「ゲームの続きとか。」
「友達から返事来ないなとか。」
「病院嫌だなとか。」
「親父うるさいなとか。」
現在の拓実:
**「それ最後まで言うな。」
時生:
「本当だから。」
少し笑いが起きた。
時生:
**「好きな女の子のこと考えたこともある。」
妻の顔が変わる。
妻:
「誰?」
時生:
「今そこ?」
千鶴が笑う。
妻:
「初めて聞いた。」
時生:
「言わないよ。」
現在の拓実:
**「俺には?」
時生:
「絶対言わない。」
病室に、久しぶりに普通の家族の笑いが広がった。
その笑いが落ち着いたあと。
時生が言った。
時生:
「そういうの全部が。」
「俺の人生だったと思う。」
「誰かを変えたことも入ってる。」
「でも、それだけじゃない。」
「ラーメン食べてうまかった。」
「くだらないことで笑った。」
「怖くて眠れなかった。」
「母さんに八つ当たりした。」
「親父と出かけた。」
「誰かを好きになった。」
「そういうの。」
少し間。
「誰の役にも立ってない時間も、俺の人生だった。」
妻の目から涙が落ちた。
妻:
「そうね。」
時生:
「だから。」
「俺が何を残したかだけで。」
「俺を説明しないで。」
現在の拓実は、長い間息子を見ていた。
そして。
現在の拓実:
「悪かった。」
時生:
「何が?」
拓実:
「俺。」
「お前が俺を変えたっていうことが。」
「あまりにも大きくて。」
「それでお前の人生を説明しようとしてた。」
時生は何も言わない。
拓実:
「俺にとっては、本当に大きかったから。」
時生:
「うん。」
拓実:
「でも。」
「お前は、俺の人生を変えるための出来事じゃない。」
時生の表情が少し変わった。
拓実:
**「お前は俺の息子だ。」
「それだけでいい。」
若い拓実が少し不満そうに言った。
若い拓実:
「それだけでいいって。」
「簡単に言うけど。」
「じゃあ人生の意味なんて、考える必要ねえのか?」
現在の拓実:
**「お前はどう思う。」
若い拓実:
「俺?」
拓実:
「そう。」
若い拓実は鼻で笑う。
若い拓実:
「俺の人生なんか。」
時生:
**「そこ。」
若い拓実:
「何だよ。」
時生:
「すぐそれ言う。」
若い拓実:
「本当だろ。」
時生:
「何が本当なの?」
若い拓実:
**「何もしてねえ。」
「誰かを助けてもねえ。」
「成功もしてねえ。」
「仕事もろくに続かねえ。」
「親にも捨てられた。」
「千鶴にも迷惑かけて。」
千鶴:
**「最後は余計。」
若い拓実:
「本当だろ。」
千鶴:
「本当だけど。」
若い拓実:
**「そんな人生に意味あるのかよ。」
時生は若い父を見る。
そして静かに聞いた。
時生:
「俺が生まれる前の親父に意味がなかったなら。」
「俺はどこから生まれたの?」
若い拓実:
「何だよ、それ。」
時生:
「今の親父になる前の親父も。」
「親父じゃん。」
「嫌なところいっぱいあるけど。」
「そこだけ切って。」
『この時期は意味なし』
「ってできる?」
若い拓実は黙った。
現在の拓実が少し笑う。
現在の拓実:
「俺も昔はしたかったけどな。」
「人生の黒歴史を全部切り取って。」
「ここからが本当の俺です、って。」
千鶴:
**「便利ね。」
拓実:
「便利だよ。」
「でも、できない。」
妻が言った。
妻:
「意味って。」
「成功したあとで、過去に与えるものなのかしら。」
千鶴:
「そういう意味もあるでしょうね。」
妻:
「じゃあ、成功しなかった人は?」
千鶴:
「だから。」
「意味って言葉を、成功の説明にしすぎると苦しくなるんじゃない?」
時生:
**「俺、思うんだけど。」
全員が見る。
時生:
「意味があるから生きるんじゃなくて。」
「生きたあとに。」
「いろんな人がいろんな意味を見つけるんじゃない?」
現在の拓実:
**「本人も?」
時生:
「本人も。」
「昨日は最悪だった。」
「でも十年後に思い出したら、違って見える。」
「親父がそうだったんでしょ?」
拓実:
**「そうだな。」
若い拓実:
**「じゃあ意味って、後付けじゃん。」
時生:
「そうかも。」
若い拓実:
「それでいいのかよ。」
時生:
「何でダメなの?」
若い拓実:
「だって人生の意味って、もっと。」
言葉を探す。
「最初からあるものじゃないのか。」
千鶴:
**「誰が決めて置いておくの?」
若い拓実:
「知らねえけど。」
千鶴:
「生まれた時に。」
『あなたの人生の意味はこちらです』
「って渡される?」
若い拓実:
「そういう話じゃねえ。」
時生が笑った。
現在の拓実が言う。
現在の拓実:
「俺は。」
「昔は、人生には答えがあると思ってた。」
若い拓実:
「お前が?」
拓実:
「自分が不幸な理由。」
「母親が悪い。」
「環境が悪い。」
「運が悪い。」
「それが答えだと思ってた。」
「でも。」
「生きてると、答えが変わる。」
時生:
**「じゃあ人生の意味も変わる?」
拓実:
「変わるんじゃないか。」
妻:
「時生が亡くなったあとも?」
拓実は答える前に、時生を見る。
時生はうなずいた。
現在の拓実:
**「変わると思う。」
「今の俺にとってのお前と。」
「十年後の俺にとってのお前は。」
「少し違うかもしれない。」
妻:
「忘れるってこと?」
拓実:
**「違う。」
「新しい時間が重なるってことだと思う。」
時生が言う。
時生:
「それならいいよ。」
妻:
「いいの?」
時生:
「俺をずっと同じ意味で覚えてなくていい。」
「悲しい子でも。」
「かわいそうな子でも。」
「親父を救った奇跡の息子でも。」
少し笑う。
「たまには、プリン食われて怒ってた奴くらいで思い出してよ。」
現在の拓実:
**「まだ言うか。」
妻は泣きながら笑った。
若い拓実は、その様子を見ていた。
そして急に言った。
若い拓実:
「なあ、時生。」
時生:
「何?」
若い拓実:
「お前。」
「死ぬの怖いって言ったよな。」
病室が静まる。
時生:
**「うん。」
若い拓実:
「それでも。」
「生まれてこなきゃよかったとは言わない?」
妻が息を止める。
現在の拓実も黙る。
Topic 1で答えきれなかった問いが戻ってきた。
時生は少し考えた。
時生:
「今日の俺なら。」
「言わない。」
若い拓実:
「今日?」
時生:
「うん。」
「明日の俺がどう思うかは知らない。」
「もっと苦しくなったら。」
「何で生まれたんだよって思うかもしれない。」
妻の顔が痛そうに歪む。
時生:
「でも。」
「そう思ったら、それも俺の本当の気持ちでしょ。」
「その瞬間の。」
若い拓実:
「じゃあ最後まで答えは出ないかもしれない。」
時生:
「出なくていいんじゃない?」
妻:
**「でも私は。」
「あなたが生まれてきてよかったと思いたい。」
時生:
「思っていいよ。」
妻:
「それでいいの?」
時生:
「それは母さんの人生の答えだから。」
妻は涙を拭く。
現在の拓実:
**「俺も。」
「お前が生まれてきてよかった。」
時生:
「うん。」
拓実:
「でも。」
少し間。
「お前にまで同じ答えを言わせようとは思わない。」
時生は父を見た。
そして、少しだけ笑った。
千鶴が若い拓実を見る。
千鶴:
「じゃあ拓実は?」
若い拓実:
「俺?」
千鶴:
「自分の人生。」
「生まれてきてよかったと思う?」
若い拓実は嫌そうな顔をした。
若い拓実:
「今日そればっかりだな。」
時生:
「逃げるなよ。」
若い拓実:
「お前が言うな。」
しばらくして。
若い拓実:
「今の俺なら。」
「分かんねえ。」
時生:
「うん。」
若い拓実:
「生まれてきてよかったなんて。」
「まだ言えねえ。」
現在の拓実は黙って聞いている。
若い拓実:
「でも。」
時生を見る。
「未来にお前がいるっていうなら。」
声が少し小さくなる。
「今ここで、“生まれてこなきゃよかった”って決めるのも、早いのかもしれねえ。」
現在の拓実は、若い自分を見た。
何か言おうとする。
時生が先に言った。
時生:
「それでいいんじゃない?」
若い拓実が時生を見る。
同じ言葉。
Topic 1で、時生が父に返した言葉だった。
病室は静かだった。
妻は時生の手を握っている。
千鶴は若い拓実を見る。
現在の拓実は、自分の過去と未来を同時に見ている。
そして時生は。
自分の人生について、最後の答えを出そうとはしなかった。
しばらくして妻が、最初の問いをもう一度口にした。
今度は、とても静かに。
妻:
「時生。」
「生まれてきて、幸せだった?」
時生は母を見る。
昔なら。
母を安心させる答えを探したかもしれない。
今は。
時生:
「ずっと幸せだったわけじゃないよ。」
妻:
「うん。」
時生:
「怖かったし。」
「腹立ったし。」
「もっと生きたいし。」
妻:
「うん。」
時生:
「でも。」
少し笑った。
「今日まで生きたことを、なかったことにはしたくない。」
妻は泣いた。
現在の拓実も目を伏せた。
時生は続けた。
時生:
「それで十分じゃない?」
誰も答えなかった。
たぶん。
答えなくてもよかった。
若い拓実が小さく言った。
若い拓実:
「じゃあ人生の意味って。」
「結局何なんだよ。」
時生は笑った。
時生:
「まだそれ聞く?」
若い拓実:
「最後なんだから答えろよ。」
時生:
「じゃあ。」
少し考える。
「俺には分かんない。」
若い拓実:
「おい。」
時生:
「でも。」
全員を見る。
時生:
「意味が分からないと、生きちゃいけないわけじゃないでしょ。」
その言葉のあと。
誰も話さなかった。
病室の機械は、同じリズムで鳴っている。
時間は進んでいる。
止められない。
戻せない。
時生の時間も。
拓実の時間も。
妻の時間も。
千鶴の時間も。
若い拓実の、まだ知らない未来も。
現在の拓実が時生に言った。
現在の拓実:
「お前が俺を変えたこと。」
「それは俺の人生では、本当だ。」
時生:
「うん。」
拓実:
「お前が生まれてきてよかったと思うことも。」
「俺の中では本当だ。」
時生:
「うん。」
拓実:
「でも。」
息子の手を握る。
「お前の人生の答えまで、俺が書くのはやめる。」
時生はその手を見る。
そして握り返した。
時生:
「そうして。」
妻も時生のもう一方の手を握った。
千鶴が言う。
千鶴:
「結局。」
「人生って、誰か一人が意味を決めるものじゃないのかもしれないね。」
現在の拓実:
「そうかもな。」
若い拓実:
**「じゃあ答えなし?」
時生:
「嫌?」
若い拓実:
「ちょっとな。」
時生:
「親父らしい。」
若い拓実は、少しだけ笑った。
そして。
若い拓実:
「でも。」
「答えがないなら。」
「まだ変わるってことか。」
現在の拓実が彼を見る。
時生も見る。
若い拓実:
「今日の答えが。」
「最後じゃない。」
時生:
「そうだね。」
窓の向こうが、ほんの少し明るくなっていた。
夜が終わろうとしている。
時生は目を閉じた。
眠る前に、小さく言った。
「じゃあ、まだ途中だ。」
現在の拓実は答えなかった。
ただ、息子の手を握っていた。
その言葉が誰の人生を指していたのか。
時生自身なのか。
若い拓実なのか。
父なのか。
残される母なのか。
あるいは、ここにいる全員なのか。
それを決める必要はなかった。
人生の意味が一つではないのなら。
人生の終わりでさえ、その人について語られる最後の言葉とは限らないのだから。
最後に

『時生』で最も心に残るのは、時生が父親を変えたことだけではありません。
それだけを彼の人生の意味にしてしまうと、
「誰かの役に立った人生だから価値がある」
という別の物差しが生まれてしまいます。
時生は、父を変えるためだけに生まれたわけではありません。
笑った。
怒った。
怖がった。
誰かを好きになった。
家族と過ごした。
病院を嫌がった。
普通の少年として生きた。
その時間そのものが、時生の人生でした。
一方で、彼が拓実に残したものも確かにあります。
父親になる前の父を変えた。
自分は愛されなかった人間だと思い込んでいた拓実に、別の未来があることを見せた。
過去そのものを消したのではなく、
過去の意味が、あとから変わることがある
と教えた。
そこに、この作品の大きな希望があります。
過去は消せません。
傷ついた子供時代も。
失敗も。
別れも。
後悔も。
けれど、
「あの出来事が自分の人生のすべてを決めた」
という結論まで、一生持ち続ける必要はありません。
そして最後に残ったのは、答えより少し柔らかな言葉でした。
時生は、自分の人生を「幸せだった」と簡単には言いません。
ただ、
「今日まで生きたことを、なかったことにはしたくない。」
と言う。
それで十分なのかもしれません。
人生は、最後に○か×をつけるものではない。
誰か一人が意味を決めるものでもない。
自分自身の感じ方。
家族が受け取ったもの。
時間が経ってから見えてくるもの。
それぞれが重なって、その人の人生を少しずつ違う形で残していきます。
そして、
今の自分がつけた人生の意味が、最後の意味とは限らない。
若い拓実にとっては、それが未来へ進むための最初の希望になりました。
登場人物
宮本拓実(現在)
時生の父。若い頃の未熟さや怒りを知ったうえで、父親として息子の短い人生に向き合います。時生によって自分が変わった事実を認めながらも、息子の人生を自分の成長物語だけで説明しないことを学んでいきます。
若き日の宮本拓実
自分は母親に捨てられたと思い、怒りや被害者意識を抱えて生きる青年。同じ自分である現在の拓実や、未来の息子・時生と向き合うことで、「捨てられた自分」という自己像を少しずつ問い直します。
時生
未来から若き日の父の前に現れる息子。父親を変える存在でありながら、自分を「父を救うための存在」として扱うことには抵抗します。短い命の中で感じた喜びも恐怖も、自分自身の人生として語ります。
拓実の妻
病気の息子を見守る母。最も痛い問いである「この子は生まれてきて幸せだったのか」を抱えます。時生との対話を通じて、自分にとっての答えと、時生本人の答えを分けて考えるようになります。
千鶴
若い拓実の未熟さや不信を近くで見てきた人物。拓実が「捨てられる前に自分から捨てる」ような生き方をしていたことを指摘し、過去を理解することと許すことの違いにも光を当てます。

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