はじめに
私たちは人生の中で、何度「次は?」と聞かれるのでしょう。
学校を卒業したら、次は就職。
仕事を始めたら、次は結婚。
結婚したら、次は家や子ども。
長く働いたら、次は退職後の人生。
年を取れば、今度は安全な暮らし。
どれも間違っているわけではありません。
けれど村田沙耶香『コンビニ人間』が投げかける問いを現代の日常へ移してみると、少し不思議なことが見えてきます。
私たちは、自分で選んでいると思っている人生のどこまでを、本当に自分で選んでいるのでしょうか。
今回の5つの短編に登場するのは、特別な人たちではありません。
結婚して家を買った麻衣。
誰とでもうまく付き合える亮。
35年間働いて退職した誠。
母親のために海外赴任を断った絵里。
77歳になり、娘から心配される修一。
彼らは互いを知りません。
ただ、同じ街ですれ違うだけです。
同じコンビニの自動ドアを通り、同じ店員からレシートを受け取り、それぞれの人生へ戻っていきます。
しかし、一人ひとりの小さな物語を追っていくと、「普通」という言葉の意味が少しずつ変わっていきます。
これは、「普通の人生」を否定する5つの物語ではありません。
むしろ、自分がすでに生きている人生を、もう一度自分の目で見つめ直すための5つの物語です。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Story 1 「次はこれだよね」

新しい部屋には、まだ新しい匂いがした。
木の匂いなのか、壁紙なのか、それとも数日前に届いたばかりの家具の匂いなのか、麻衣にはよくわからなかった。
リビングの隅には、まだ三つの段ボール箱が残っていた。
箱の横には、新しいダイニングテーブル。
新しい椅子。
新しいソファ。
壁には、まだ何も掛かっていない。
高橋麻衣、34歳。
食品会社に勤めて12年になる。
四年前に直樹と結婚した。
そして先月、二人でこのマンションを買った。
「どう?」
直樹がカーテンを少し閉めながら聞いた。
「何が?」
「この色。やっぱりこっちでよかったと思わない?」
麻衣はソファから眺めた。
薄いグレーのカーテン。
「うん。いいと思う」
「だよね」
直樹は満足そうだった。
麻衣も気に入っていた。
本当に。
駅まで徒歩11分。
南向き。
スーパーも近い。
会社へも以前より少し通いやすくなった。
住宅ローンは長いけれど、二人で働いていれば無理のない金額だった。
母親にも、
「いいところ買ったわね」
と言われた。
友人たちからも、
「おめでとう」
「素敵」
「順調だね」
というメッセージがたくさん来た。
順調。
麻衣もそう思っていた。
直樹が段ボールを開けながら言った。
「これ、キッチンのやつじゃない?」
中から食器が出てきた。
結婚したときに買った白い皿。
旅行先で買った小さな器。
そして一番下から、青いマグカップが出てきた。
「あ、それまだ持ってたの?」
「持ってるよ」
麻衣は立ち上がって、それを受け取った。
少し濃い青色。
取っ手の下に、小さな傷がある。
大学三年のときに買ったものだった。
高価なものではない。
どこで買ったのかも、もう正確には覚えていない。
「そろそろ新しくしてもいいんじゃない?」
直樹が言った。
「ほら、食器も新しいのにしたし」
麻衣はマグカップを見た。
「これはいい」
「なんで?」
「好きだから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
迷わなかった。
「そっか」
直樹はそれ以上何も言わなかった。
麻衣は青いマグを新しい食器棚の一番取りやすい場所に置いた。
新しい白いカップの間に、それだけが少し古く見えた。
でも、そこにあると落ち着いた。
翌週、大学時代の友人三人が新居へ遊びに来た。
ワインとケーキを持ってきてくれた。
「麻衣、すごいじゃん」
由香がベランダから外を見ながら言った。
「駅近だし、景色もいいし」
「駅近っていっても11分だよ」
「11分は駅近」
「そう?」
「東京基準ならね」
みんな笑った。
大学を卒業して12年。
話す内容はずいぶん変わった。
昔は恋愛と就職活動だった。
今は住宅ローン。
保育園。
親の健康。
会社での立場。
由香には二人の子どもがいる。
千春は昨年結婚した。
理沙は独身で、最近転職した。
「で」
由香がワインを飲みながら言った。
「次は?」
麻衣はケーキを切っていた。
「次?」
由香は少し笑った。
「子ども」
「ああ」
「考えてる?」
「まあ、そのうち」
「34でそのうちって言ってると、すぐだよ」
由香に悪意はなかった。
麻衣にもわかっていた。
むしろ心配して言ってくれている。
千春が、
「まあまあ」
と笑った。
「家買ったばっかりなんだから、しばらく二人で楽しんでもいいじゃん」
「そうだけど」
由香が言った。
「でも、次ってそうじゃない?」
麻衣は笑った。
「そうだね」
その場では、それで終わった。
夜、友人たちが帰ったあと。
麻衣はワイングラスを洗いながら、なぜか由香の言葉を思い出した。
次。
大学四年の春にも聞いた。
「次、どうするの?」
就職活動だった。
食品会社から内定をもらったとき、両親はとても喜んだ。
「いい会社でよかったね」
母が言った。
麻衣も嬉しかった。
社会人になって数年後、直樹と付き合い始めた。
三年経ったころ、友人に聞かれた。
「で、次は?」
そのときの「次」は結婚だった。
結婚して二年ほどすると、
「賃貸にずっとお金払うの、もったいなくない?」
という話が周囲で増えた。
直樹も同じことを言った。
麻衣も、
「そうだね」
と思った。
そして家を買った。
今度は、
「次は子ども?」
麻衣は水を止めた。
流し台の上に、洗ったグラスが四つ並んでいた。
直樹が後ろから言った。
「楽しかった?」
「うん」
「由香ちゃん、相変わらずだね」
麻衣は笑った。
「うん」
それだけだった。
数日後の夜。
二人はダイニングテーブルで家具のカタログを見ていた。
「ここに小さい棚が欲しくない?」
直樹がページを見せた。
「テレビの横?」
「そう。これくらい」
「いいんじゃない?」
「白と木目、どっち?」
「どっちでもいいよ」
直樹が顔を上げた。
「麻衣、だいたいそれ言うよね」
「何?」
「どっちでもいい」
麻衣は笑った。
「だって本当にどっちでもいいんだもん」
「カーテンもそうだったし」
「気に入ってるよ」
「うん。知ってる」
直樹は責めているわけではなかった。
むしろ少し不思議そうだった。
ページをめくりながら、何気なく聞いた。
「麻衣ってさ」
「うん」
「本当は何がしたいの?」
麻衣はカタログを見た。
「棚?」
「違う違う」
直樹が笑った。
「人生で」
麻衣も笑った。
「急に大きくなったね」
「いや、なんとなく」
「何がしたいって、仕事?」
「仕事でもいいし。趣味とか、行きたいところとか」
「旅行なら行きたいところいっぱいあるよ」
「そういうのでもいいけど」
直樹は少し考えた。
「なんていうか、昔からやってみたかったこととかないの?」
麻衣は答えようとした。
旅行。
料理。
ヨガ。
映画。
いくつか頭に浮かんだ。
でも、どれも質問の答えではないような気がした。
「直樹は?」
「俺?」
「うん」
「北海道を一周したい」
「車で?」
「そう」
「そんなこと考えてたの?」
「ずっと」
直樹は笑った。
「大学のときから」
「知らなかった」
「あと、小さいのでいいからいつか自分で家具作ってみたい」
「家具?」
「うん。下手でもいいから」
麻衣は初めて聞いた。
「麻衣は?」
もう一度聞かれた。
麻衣は青いマグに手を伸ばした。
「……わかんない」
「そっか」
直樹はそれ以上聞かなかった。
「別に今答えなくていいけど」
そしてまた家具のカタログを見始めた。
麻衣も一緒に見た。
白い棚。
木目の棚。
引き出しが二つ。
三つ。
高さ80センチ。
120センチ。
選択肢はたくさんあった。
でも、その夜から一つの質問だけが頭に残った。
本当は何がしたいの?
麻衣は不幸なのだろうか。
翌朝、電車の中で考えた。
違う。
直樹が嫌い?
違う。
仕事が嫌い?
忙しい日は嫌だけれど、辞めたいほどではない。
家を買ったことを後悔している?
していない。
昨日もベランダから夕焼けを見て、ここにしてよかったと思った。
では何が問題なのだろう。
何も問題がない。
それなのに答えられなかった。
そのことだけが気になった。
会社で昼休みに、同僚が言った。
「高橋さん、新居どうです?」
「まだ段ボールあるよ」
「でもいいなあ。私も次は家かな」
次。
麻衣はその言葉に反応した。
以前なら聞き流していた。
「高橋さん?」
「あ、ごめん」
「どうしました?」
「なんでもない」
金曜日。
麻衣は少し残業した。
駅に着いたのは午後9時を過ぎていた。
直樹からメッセージが来た。
「先に食べた。何かいる?」
「大丈夫」
と返した。
駅から家へ歩く。
途中に、いつものコンビニがあった。
近づくと、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
いつもの女性店員の声。
麻衣は店に入った。
特に買うものは決めていなかった。
飲み物の棚。
お菓子。
パン。
弁当。
雑誌。
レジ横には新しいスイーツ。
赤い札。
新発売。
別の商品には、
期間限定。
その隣には、
おすすめ。
麻衣はなぜか立ち止まった。
商品にはわかりやすく書いてある。
新しい。
人気。
おすすめ。
お得。
選んでください。
麻衣は棚を見ながら、少し笑いそうになった。
人生にも札が付いていたら簡単なのに。
大学卒業。
おすすめ:就職。
数年後。
次はこちら:結婚。
その次。
人気:住宅購入。
そして今。
おすすめ:子ども。
馬鹿みたいな想像だった。
でも、少しだけ怖かった。
麻衣はコーヒーの棚へ行った。
いつも買う安いものに手を伸ばした。
その隣に、少し高い豆があった。
直樹はコーヒーをあまり飲まない。
麻衣だけが飲む。
一度手を引いた。
それから、その高いほうを取った。
理由は特にない。
飲んでみたかった。
それだけだった。
レジへ向かう。
前にはイヤホンをした若い男性が立っていた。
スマートフォンを見ている。
店員に何か聞かれると、男性はイヤホンを片方外し、すぐに感じのいい笑顔になった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
会計を終えると、またイヤホンをして店を出ていった。
麻衣の番になった。
「袋はご利用ですか?」
「いりません」
「ありがとうございます」
レシートを受け取った。
店を出ようとして、ふとそれを見た。
21時17分。
店名。
コーヒー。
金額。
何を買ったかが、はっきり書いてある。
自分が選んだもの。
ほんの小さなものなのに。
麻衣はレシートを折って、バッグに入れた。
自動ドアが開いた。
外の空気は少し冷たかった。
家へ帰ると、直樹はソファでテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
麻衣はキッチンへ行った。
買ってきたコーヒーを棚に置く。
青いマグカップが見えた。
新しい白いカップの間に、一つだけ古い青。
大学生のころ、自分で買った。
誰にも勧められていない。
誰かと相談した記憶もない。
ただ店で見て、
これがいい、
と思った。
それだけだった。
麻衣はマグを取り出した。
「コーヒー飲む?」
直樹が聞いた。
「今から?」
「うん」
「眠れなくなるよ」
「少しだけ」
直樹がキッチンへ来た。
「珍しいの買ったね」
「うん」
「高いやつじゃん」
「飲んでみたかったから」
まただった。
迷わず言えた。
飲んでみたかったから。
直樹が笑った。
「いいじゃん」
コーヒーを淹れた。
麻衣は青いマグで飲んだ。
直樹は白いカップ。
しばらく二人で何も話さなかった。
新しい部屋は静かだった。
まだ何も掛かっていない壁。
片づいていない段ボール。
決まっていない棚。
直樹が言った。
「この前のこと、気にしてる?」
「何?」
「俺が聞いたやつ。本当は何したいのって」
麻衣は少し考えた。
「うん」
「ごめん。別に深い意味なかったんだけど」
「謝らなくていいよ」
「気にしなくていいから」
麻衣は青いマグを両手で持った。
「ううん」
直樹を見る。
「もう少し気にしてみたい」
「え?」
「私、自分にそういうこと、あんまり聞いたことなかったから」
直樹は黙って聞いていた。
「別に今の生活が嫌なわけじゃないよ」
「うん」
「直樹と結婚したことも、家買ったことも後悔してない」
「うん」
「でも」
麻衣は少し笑った。
「次は何、って聞かれることはいっぱいあった気がする」
直樹は何も言わなかった。
「でも、何がしたい、って聞かれたこと、あんまりなかった」
しばらくして、直樹が言った。
「じゃあ、次を決めなくてもいいんじゃない?」
麻衣は思わず笑った。
「また次って言った」
「あ」
二人で笑った。
窓の外には、駅から帰ってくる人たちの灯りが見えた。
麻衣はコーヒーをもう一口飲んだ。
特別おいしいかどうかは、まだわからなかった。
でも自分で選んだ味だった。
その夜、麻衣は人生を変える決心をしなかった。
仕事を辞めるとも言わなかった。
子どもを持つかどうかも決めなかった。
北海道へ行こうとも思わなかった。
ただ、寝る前にバッグの中からコンビニのレシートを取り出した。
捨てようとして。
少し考えて。
青いマグカップの横に置いた。
明日の答えは、まだ何も書かれていなかった。
Story 2 「誰も見ていない私」

西村亮は、人の名前を覚えるのが得意だった。
名前だけではない。
誰がブラックコーヒーを飲むか。
誰が甘いものを食べないか。
誰が阪神ファンで、誰の娘が今年受験なのか。
そういうことを自然に覚えていた。
広告会社に入って七年。
亮は、職場で嫌われることがほとんどなかった。
「西村って、本当に誰とでも話せるよな」
金曜の夜、会社の飲み会で先輩の田辺が言った。
「そうですか?」
「そうだよ。部長とも普通に話すし、新人とも仲いいし」
向かいに座っていた後輩の美咲が笑った。
「西村さん、相手によって人格変えてません?」
「ひどいな」
みんなが笑った。
亮も笑った。
「でも、ちょっとわかる」
美咲が続けた。
「部長と話してる西村さん、めっちゃ真面目ですよ」
「社会人だからね」
「私たちといるとき全然違う」
「それは君たちが俺を駄目にしてる」
また笑いが起きた。
亮はこういう瞬間が好きだった。
誰かが少し黙ったら話を振る。
料理が足りなければ注文する。
飲みすぎた人には水を頼む。
誰かが帰ろうとしたら、
「駅まで一緒に行きますよ」
と言う。
それを努力だと思ったことはなかった。
昔からそうだった。
帰りの電車で、母からメッセージが来た。
「元気にしてる?」
亮はすぐに返した。
「元気だよ。仕事も順調。心配しないで」
本当は今週、仕事でかなり疲れていた。
でも母に言うほどのことではないと思った。
少しして恋人の彩香からメッセージ。
「まだ飲んでる?」
亮は返す。
「今帰ってる。会いたかった?」
すぐに、
「別に笑」
と返ってきた。
亮は笑った。
「俺は会いたかったけど」
ハートのスタンプが返ってきた。
電車の窓に自分の顔が映っていた。
少し酔っている。
でも感じのいい顔だった。
翌週、亮は大阪へ出張した。
新しい広告キャンペーンのプレゼン。
一泊二日。
予定はかなり詰まっていた。
午後3時にクライアント。
午後6時に食事。
午後8時半に別会社の担当者と軽く飲む。
ホテルへ戻るのは10時過ぎ。
そのはずだった。
ところが午後5時前、担当者から連絡が入った。
体調不良で夕食がキャンセル。
その後の予定もなくなった。
「今日はもう大丈夫です」
上司からメッセージが来た。
「明日の10時集合で」
亮はホテルの部屋でスマートフォンを見た。
午後5時12分。
突然、夜が全部空いた。
こんなことは久しぶりだった。
彩香に連絡しようかと思った。
「今日暇になった」
と入力した。
消した。
東京にいる彼女に言っても仕方ない。
同僚に、
「大阪で一人になった。おすすめある?」
と送ろうとした。
それもやめた。
ベッドに座った。
テレビをつけた。
ニュース。
チャンネルを変える。
バラエティー番組。
また変える。
ドラマ。
消した。
部屋が静かになった。
亮はスマートフォンを開いた。
Instagram。
友人が沖縄旅行の写真を載せていた。
「最高だった!」
亮は反射的にハートを押した。
別の友人が転職した。
「新しい挑戦!」
ハート。
後輩がラーメンを載せている。
「これ絶対うまいやつ」
とコメントしようとした。
指が止まった。
スマートフォンを伏せた。
静かだった。
エアコンの音だけが聞こえた。
一人で大阪を歩いてみようか。
そう思った。
でも、どこへ?
道頓堀?
大阪城?
梅田?
誰かと一緒なら、すぐ決められる気がした。
相手が食べたいもの。
相手が行きたい場所。
相手が喜びそうなこと。
それを考えればいい。
でも今日は誰もいない。
自分は何がしたいんだろう。
亮は少し笑った。
たかが一晩だ。
考えすぎだ。
とりあえず食事をしよう。
ホテルを出た。
街には人が多かった。
仕事帰りの会社員。
観光客。
学生。
カップル。
亮は飲食店の前で何度か立ち止まった。
焼肉。
寿司。
ラーメン。
居酒屋。
何でも食べられる。
それが困った。
彩香がいれば、
「何食べたい?」
と聞く。
「何でもいい」
と言われたら、
「じゃあ焼肉?」
と提案する。
会社の人なら、年齢と人数を考えて店を選ぶ。
後輩なら安くて入りやすいところ。
クライアントなら少し落ち着いた店。
でも今日は、
誰も喜ばせなくていい。
それなのに決められない。
結局、亮はコンビニへ入った。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
いつもの音。
東京でも大阪でも、あまり変わらない。
少し安心した。
おにぎり。
弁当。
サンドイッチ。
パスタ。
亮は棚の前をゆっくり歩いた。
誰にも聞かなくていい。
何を食べてもいい。
カツ丼を取った。
戻した。
パスタを取った。
また戻した。
最後に、鮭のおにぎりとカップ味噌汁を選んだ。
小学生のころから好きだった組み合わせだった。
レジへ行く。
「温めますか?」
店員に聞かれた。
亮はいつもの笑顔になった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
店員も笑った。
「お箸、一膳でよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます」
店を出た。
数歩歩いて、亮は止まった。
なぜか、さっきの自分の声が耳に残った。
明るい声。
感じのいい笑顔。
誰も知っている人はいないのに。
もう二度と会わないかもしれない店員。
それでも、自分は自然に「感じのいい西村亮」になった。
亮は少しおかしくなった。
「俺、誰にでもこれやってるんだな」
小さく言った。
そして次の瞬間、別のことを考えた。
でも、それの何が悪いんだろう。
店員が少し気持ちよく働けるなら。
自分も気持ちよく店を出られるなら。
あの笑顔は嘘なのだろうか。
亮にはわからなかった。
ホテルへ戻り、おにぎりを食べた。
テレビはつけなかった。
スマートフォンも伏せたままにした。
鮭のおにぎり。
味噌汁。
驚くほど普通の夕食だった。
でもおいしかった。
食べ終えてから、亮は椅子に座った。
何をすればいいのかわからない。
それなら、何もしなくてもいい。
そう思った。
五分。
十分。
十五分。
最初は落ち着かなかった。
何度もスマートフォンへ手が伸びた。
誰かから連絡が来ていないか。
誰かが何か投稿していないか。
自分が返事をするものはないか。
でも、触らなかった。
しばらくすると、部屋の静けさが少し変わった。
寂しいというより、
広い。
そんな感じがした。
亮はベッドの横に置いた出張バッグを開いた。
着替えを探していると、底に硬いものが当たった。
古いフィルムカメラだった。
「あ」
持ってきたことを忘れていた。
高校時代に父からもらったもの。
大学時代にはよく持ち歩いていた。
写真が好きだった。
人の顔より、誰もいない場所を撮るのが好きだった。
雨上がりの道路。
閉店後の商店街。
朝の駅。
誰も座っていない公園のベンチ。
社会人になってから、ほとんど使わなくなった。
写真ならスマートフォンで撮れる。
それにスマートフォンなら、すぐ誰かに見せられる。
亮はカメラを手に取った。
出張の前夜、
「せっかく大阪行くし」
と思って何となく入れたのだった。
窓を開けることはできなかった。
ガラス越しに街を見た。
ビルの明かり。
車。
小さく歩く人。
亮は一枚撮った。
カシャ。
写真は出てこない。
画面にも表示されない。
誰かからハートもつかない。
うまく撮れているかさえわからない。
亮はもう一枚撮った。
カシャ。
なぜか少し嬉しかった。
翌朝。
目覚ましより30分早く起きた。
亮はカメラを持ってホテルを出た。
まだ人の少ない街を歩いた。
閉まっている居酒屋。
店の前に積まれたビールケース。
掃除をしている人。
朝日がビルの間から少しだけ入ってくる。
亮は何枚か撮った。
誰にも送らない。
SNSにも載せない。
ただ撮った。
コンビニの前を通った。
昨日とは違う店だった。
自動ドアから、スーツ姿の男性が出てきた。
その後ろから高齢の女性。
次に学生。
それぞれ違う方向へ歩いていった。
亮はカメラを構えた。
でも撮らなかった。
そのまま少し見ていた。
東京へ戻った数日後。
亮はいつものコンビニに寄った。
夜だった。
レジには、いつもの女性店員。
窓際には、50代くらいの男性が一人で座っていた。
スーツではなかった。
カフェラテのカップを前に置き、何もしていない。
ただ窓の外を見ていた。
亮はその男性を一瞬見た。
どこか落ち着かないようにも見えた。
飲み物を取ってレジへ行く。
「袋はご利用ですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
いつもの笑顔が出た。
店を出た。
今度は立ち止まらなかった。
笑顔が偽物だとは思わなかった。
人に合わせる自分も自分なのだと思った。
母を安心させたい自分。
恋人を笑わせたい自分。
後輩に優しくしたい自分。
上司から信頼されたい自分。
知らない店員にも感じよく接したい自分。
どれも誰かとの間で生まれる。
だからといって、嘘ではない。
ただ。
それしか知らないのは、少し寂しい。
亮は歩きながら、バッグの中のカメラに触れた。
誰にも見せない写真が、まだフィルムの中に残っている。
どんな写真になっているのか、自分にもまだわからない。
それでよかった。
誰にも見られていない自分を、急いで見つける必要はない。
少しずつ知っていけばいい。
交差点の信号が青になった。
亮は人の流れと一緒に歩き出した。
コンビニの窓際では、さっきの男性がまだ一人で座っていた。
カフェラテの横には、一冊の本が置かれていた。
まだ、開かれてはいなかった。
Story 3 「自由になった朝」

佐々木誠が最後に会社を出たのは、金曜日の午後六時四十二分だった。
エレベーターを降りると、受付の前に二十人ほど集まっていた。
同じ部署の部下たち。
昔一緒に働いた同僚。
後輩。
人事の担当者までいた。
「佐々木さん、本当にお疲れさまでした」
花束を渡された。
拍手が起きた。
誠は、こういうときに何を言えばいいか知っていた。
三十五年間、何度も人を送り出してきたからだ。
「こちらこそ、本当にありがとうございました」
少し笑う。
「皆さんに助けてもらってばかりでした」
誰かが、
「そんなことないですよ」
と言う。
また笑いが起きた。
最後に、入社五年目の部下が頭を下げた。
「佐々木さんがいなくなると、本当に困ります」
その言葉だけが、少し長く残った。
誠は花束を持ち直した。
「すぐ慣れるよ」
と答えた。
エレベーターへ向かう途中、何人かと握手した。
入口を出る。
夕方の風が少し冷たかった。
会社のビルを振り返った。
三十五年。
毎朝そこへ来た。
会議。
電話。
トラブル。
報告。
謝罪。
判断。
昼食。
残業。
出張。
そしてまた翌朝。
明日からは来なくていい。
誠は思った。
自由だ。
翌朝。
午前五時四十八分。
誠は目を覚ました。
天井を見た。
目覚まし時計は鳴っていない。
もう鳴らす必要がなかった。
それでも身体は起きる時間を覚えていた。
隣では妻の陽子が眠っている。
誠はしばらくベッドにいた。
会社へ行かなくていい。
急いでシャワーを浴びる必要もない。
ネクタイを選ばなくていい。
六時半の電車に乗らなくていい。
不思議な感じだった。
少し嬉しかった。
もう一度寝ようとした。
眠れなかった。
七時過ぎ、陽子が起きてきた。
「早いね」
「癖だな」
「今日からゆっくりすればいいのに」
「そうだな」
陽子がコーヒーを淹れた。
「今日どうする?」
誠はすぐ答えた。
「ホームセンター行こうと思ってる」
「何買うの?」
「ベランダの棚。前から気になってたんだ」
「いいじゃない」
午前中にホームセンターへ行った。
午後は庭の鉢を整理した。
夜はいつもより早く風呂に入った。
悪くない一日だった。
最初の二週間は楽しかった。
平日の昼に陽子と蕎麦を食べに行った。
土日は混む店へ、火曜日に行った。
銀行にも役所にも並ばずに入れた。
昼間の公園には、小さい子どもと高齢者が多いことを初めて知った。
陽子は言った。
「いい顔してるよ」
誠もそう思った。
早期退職の条件は悪くなかった。
住宅ローンは終わっている。
子ども二人も独立した。
年金までの数年も、何とかなる。
会社から出された早期退職制度を見たとき、最初は迷った。
でも陽子が言った。
「三十五年も働いたんだから、もういいんじゃない?」
そして最後に、
「これから好きなことしたら」
と言った。
その言葉が、とても魅力的に聞こえた。
好きなこと。
時間はたくさんある。
三週間目の水曜日。
朝六時三分。
誠はまた目を覚ました。
陽子はまだ寝ている。
カーテンの隙間から薄い光が入っていた。
その日、予定はなかった。
昨日もなかった。
明日もない。
誠は台所へ行った。
冷蔵庫を開ける。
閉める。
テレビをつける。
ニュース。
株価。
天気予報。
交通情報。
以前なら、天気予報を見ながらネクタイを締めていた。
「中央線、一部遅れています」
アナウンサーが言った。
誠は反射的に時計を見た。
そして気づいた。
自分には関係ない。
テレビを消した。
静かになった。
七時過ぎ、陽子が起きてきた。
「おはよう」
「おう」
陽子は冷蔵庫からヨーグルトを出した。
「今日、何するの?」
誠は答えようとした。
昨日なら、
「買い物」
その前なら、
「庭」
と言えた。
今日は何もなかった。
「……さあ」
陽子は気にせず言った。
「私は十時からヨガだから。お昼適当に食べてね」
「わかった」
陽子は自分の予定を持っていた。
ヨガ。
友人とのランチ。
地域の図書館。
月に二度の陶芸教室。
誠は今まで、その予定をほとんど知らなかった。
会社にいる間、陽子は「家にいる人」だった。
でも家にいるようになってみると、陽子には自分の生活があった。
誠だけに予定がなかった。
午前九時。
誠はリビングに座っていた。
スマートフォンを見る。
会社のメールアプリは、退職の日に削除した。
最初は解放された気がした。
今は少し寂しかった。
以前なら、この時間までに十件以上メールが来ていた。
配送センターから。
営業部から。
部下から。
取引先から。
「佐々木さん、ご確認お願いします」
「佐々木さん、判断いただけますか」
「佐々木さん、今日少し時間いただけますか」
面倒だった。
本当に面倒だった。
それなのに、誰も判断を求めてこないと、身体の置き場所がわからなかった。
誠は立ち上がった。
とりあえず外へ出た。
駅の近くまで歩いた。
通勤する人たちが急いでいる。
スーツ。
鞄。
イヤホン。
自転車。
信号が青になると、一斉に駅へ向かって動く。
数週間前まで、自分もそこにいた。
誠は歩道の端に立って、人の流れを見ていた。
不思議だった。
あれほど嫌だった朝の混雑が、少し羨ましく見えた。
行く場所がある。
時間が決まっている。
誰かが待っている。
誠はそのまま歩き、交差点の角にあるコンビニへ入った。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
女性店員が棚を整えていた。
誠はコーヒーマシンの前に立った。
何となくカフェラテを選んだ。
窓際の席に座る。
七時十二分。
会社員が次々に入ってくる。
コーヒー。
おにぎり。
新聞。
たばこ。
店員は休むことなく動いている。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
「温めますか?」
「袋はご利用ですか?」
同じ言葉。
同じ動き。
誠はしばらく見ていた。
以前なら、こんな場所で朝から座っている人を見ると、
「暇なんだな」
と思ったかもしれない。
今、自分がその人だった。
翌朝も行った。
カフェラテを買った。
その次の日も。
七時前後。
同じ窓際。
三日目、店員が誠を見ると、
「おはようございます」
と言った。
誠は少し驚いた。
「おはようございます」
ただそれだけだった。
でも店を出たあと、少し気分が良かった。
誰かが自分を覚えていた。
一週間ほどして、陽子が聞いた。
「最近、毎朝どこ行ってるの?」
「コンビニ」
「毎朝?」
「コーヒー飲んでる」
陽子は笑った。
「家にもコーヒーあるのに」
「そうだけど」
「友達できた?」
「できるわけないだろ」
「じゃあ何してるの?」
誠は少し考えた。
「座ってる」
陽子はさらに笑った。
「ずいぶん贅沢な時間の使い方になったね」
誠も笑った。
昔なら、何もしない時間を「無駄」と呼んだ。
今は、その無駄がないと一日が始まらなかった。
ある朝。
カフェラテを買って、レシートを財布に入れようとした。
財布の中に、同じ店のレシートが何枚もあった。
誠は全部出してテーブルに並べた。
7:06。
7:14。
6:58。
7:11。
7:03。
カフェラテ。
カフェラテ。
カフェラテ。
カフェラテ。
誠は思わず笑った。
「何やってんだ、俺」
会社を辞めた。
自由になった。
好きな時間に起きていい。
どこへ行ってもいい。
それなのに自分で毎朝七時に同じ場所へ来て、同じものを買っている。
会社員時代を思い出した。
五時四十八分起床。
六時二十分朝食。
六時三十五分家を出る。
六時四十九分の電車。
八時前に会社。
月曜朝会。
水曜の進捗会議。
金曜の報告。
三十五年間。
決められていることが多かった。
誠はそれを不自由だと思っていた。
でも。
決められているから、考えなくて済むことも多かった。
朝起きて、
「今日は何をすればいいんだろう」
とは考えなかった。
会社が教えてくれた。
その日の午後、誠は自分の部屋を片づけた。
本棚の奥から一冊の本が出てきた。
分厚い歴史小説だった。
五年ほど前に買ったもの。
戦国時代を舞台にした上下巻。
上巻の途中にしおりが挟まっている。
ページを開く。
百二十七ページ。
そこから先を読んでいなかった。
「ああ」
思い出した。
出張の新幹線で読んでいた。
途中で会社から電話がかかってきた。
物流センターで問題が起きた。
そのまま本を閉じた。
それから開かなかった。
誠はソファに座った。
百二十七ページから読み始めた。
十分ほどでスマートフォンを見た。
何の通知もない。
また読む。
二十分。
三十分。
いつの間にか一時間経っていた。
面白かった。
誰の役にも立たない。
誰にも評価されない。
会社の数字にもならない。
それでも続きを読みたかった。
午後三時、陽子が帰ってきた。
「あれ、珍しい」
「何が?」
「本読んでる」
「昔買ったやつ」
「面白い?」
「うん」
陽子は嬉しそうに、
「よかったね」
と言った。
誠はその言葉に少し引っかかった。
何が「よかった」のだろう。
でも悪い気はしなかった。
それから誠は、毎朝コンビニへ本を持っていくようになった。
カフェラテを買う。
窓際に座る。
二十分ほど読む。
最初は、それだけ。
ある夜、若い男性が一人入ってきた。
イヤホンをしていた。
飲み物を買い、店員に明るく礼を言った。
店を出る直前、その男性が一瞬、誠のほうを見た。
誠も目が合ったような気がした。
知らない人だった。
翌朝。
病院の書類らしい封筒を抱えた女性が急いで店に入ってきた。
ゼリー飲料。
水。
そしてプリンを一つ。
女性は時計を見ながら会計を済ませ、急いで出ていった。
誠は本を読んでいた。
名前も知らない。
何があったのかも知らない。
でもこの店には毎日、たくさんの人生が入ってきて、数分後には出ていく。
自分もその一人だった。
退職から二か月ほど経った朝。
陽子が朝食を作りながら聞いた。
「今日は何するの?」
以前と同じ質問だった。
誠はヨーグルトを食べながら答えた。
「午前中、本の続きを読む」
陽子が振り返った。
「午後は?」
「まだ決めてない」
「そっか」
それで会話は終わった。
誠は少し考えた。
以前なら、
「今日は何するの?」
と聞かれたとき、答えがないことが怖かった。
今日は違った。
午前中の予定が一つある。
自分で決めた。
午後は決まっていない。
それも悪くなかった。
コンビニへ向かう。
自動ドアが開く。
「おはようございます」
いつもの店員。
「おはようございます」
カフェラテを買う。
レシートを受け取る。
7時08分。
誠は窓際に座った。
本を開く。
昨日の続き。
三十五年間、自分は会社という大きな時間割の中で生きてきた。
それを後悔してはいなかった。
あの仕事があったから、家族を養えた。
仲間もできた。
誇りに思う仕事もあった。
会社に合わせて生きた時間まで、偽物だったわけではない。
ただ。
会社がなくなったあとも、自分の時間は続いている。
その時間を何に使うかを、今度は誰も決めてくれない。
誠は一ページめくった。
その朝は、昨日より五ページ多く読んだ。
窓の外では、会社員たちが駅へ急いでいた。
誠はもう、その列に戻りたいとは思わなかった。
でも、あの列の中にいた自分を否定したいとも思わなかった。
カフェラテを一口飲む。
少しぬるくなっていた。
誠は本に戻った。
その日の予定は、それだけで始まった。
Story 4 「行かなかった飛行機」

小林絵里は、空港の出発案内板を見上げた。
シンガポール。
その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
出張で羽田へ来ただけだった。
今回は福岡行き。
それなのに、シンガポールという文字だけが、別の時間につながっているように見えた。
数年前。
35歳だった。
会社から海外赴任の話をもらった。
三年間。
シンガポール支社。
ずっとやってみたかった仕事だった。
英語を使う。
海外のチームと働く。
自分でプロジェクトを任される。
上司から話を聞いた日、絵里は珍しく迷わなかった。
「行きたいです」
自分でも驚くくらい、すぐに言えた。
その夜、母に電話した。
「お母さん、決まった」
「何が?」
「シンガポール」
電話の向こうで、母が少し黙った。
それから明るい声で言った。
「よかったじゃない」
「三年だよ」
「三年なんてすぐよ」
「そんなことないでしょ」
「でも、行きたかったんでしょう?」
絵里は笑った。
「うん」
そのときは、それで終わった。
本当に行くつもりだった。
出発まで、あと一か月。
母が入院した。
最初は検査だった。
念のため。
そう聞いていた。
でも検査の結果、治療が必要だと言われた。
母は68歳だった。
父はすでに亡くなっていた。
兄は結婚して、少し離れた場所に住んでいる。
病院の個室で、母は窓の外を見ながら言った。
「予定通り行きなさい」
「でも」
「でもじゃない」
「治療長くなるんでしょ」
「長くなるかもしれないけど」
「一人で大丈夫なの?」
「一人じゃないでしょ。お兄ちゃんもいるし」
兄も言った。
「俺もできるだけ来るから」
誰も、絵里に残れとは言わなかった。
だから余計に難しかった。
会社では、人事が待ってくれた。
「最終的な返事は来週でも大丈夫です」
上司も言った。
「家庭の事情なら仕方ない。急いで決めなくていい」
急いで決めなくていい。
でも決めなければならない。
絵里は毎晩、同じことを考えた。
行く。
残る。
行く。
残る。
シンガポールの住居候補まで送られてきていた。
オフィスの場所。
渡航日。
現地のチーム紹介。
すべてが具体的だった。
一方で母の予定も具体的だった。
検査。
点滴。
治療。
通院。
薬。
体調が悪い日。
何も食べられない日。
少し食べられる日。
母の未来も、シンガポールの未来も、どちらも目の前に並んでいた。
ある夕方、病院へ行く途中で、いつものコンビニに寄った。
母が好きだったプリン。
水。
ゼリー飲料。
小さな雑誌。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
いつもの女性店員が棚を整えていた。
絵里はプリンを手に取った。
母は昔からこの安いプリンが好きだった。
高級なものより、こっち。
「これでいいの」
よくそう言っていた。
レジで会計する。
レシート。
時刻。
商品。
金額。
絵里はそれを財布に入れた。
病院へ着く。
母はベッドにいた。
「またプリン?」
「好きでしょ」
「毎回買わなくていいのに」
「食べられそう?」
「少しなら」
絵里はふたを開けた。
母は二口食べた。
それだけだった。
でも絵里は少し安心した。
数日後。
絵里は会社へ行った。
会議室。
上司と人事担当。
「決めました」
「うん」
「今回は、行きません」
上司は少しだけ黙った。
「そうか」
「すみません」
「謝ることじゃない」
人事担当が言った。
「国内でのポジションは調整します」
絵里はうなずいた。
会議室を出た。
廊下を歩いた。
不思議なくらい静かだった。
泣かなかった。
でも、胸の中で何かが閉じた感じがした。
母はそのことを聞いて怒った。
「どうして断ったの」
「私が決めたから」
「私のせいでしょ」
「違う」
「違わないでしょ」
絵里は少し強い声で言った。
「お母さんに言われて残ったんじゃないから」
母は黙った。
「私が残るって決めたの」
少し間があった。
「だから、お母さんが謝る必要ない」
母は窓の外を見た。
それから小さく言った。
「でも、行きたかったんでしょう」
絵里はすぐには答えなかった。
「うん」
母は目を閉じた。
「ごめんね」
「だから違うって」
「違わなくても、ごめんって言いたいの」
絵里は何も言えなかった。
治療は一年半ほど続いた。
調子のいい日もあった。
悪い日もあった。
母と笑う日もあった。
喧嘩する日もあった。
病院へ行く途中、絵里は何度も同じコンビニに寄った。
プリン。
水。
ゼリー飲料。
雑誌。
ときどき何も買わずに出た。
店員の顔も覚えた。
店員も絵里を覚えているようだった。
でも話はしなかった。
ある朝、窓際の席に50代くらいの男性が座っていた。
カフェラテと分厚い本。
絵里はその横を急いで通り過ぎた。
ゼリー飲料。
水。
プリン。
会計。
病院の書類を抱えたまま、自動ドアを出た。
男性の名前は知らない。
何を読んでいるのかも知らない。
それでよかった。
母が亡くなったのは、春だった。
桜がほとんど散ったあと。
絵里は葬儀の間、泣かなかった。
親戚に、
「しっかりしてるね」
と言われた。
会社へ戻ったあとも、普通に仕事をした。
ある日、社内メールが来た。
シンガポール支社へ、新しい責任者が赴任するという知らせ。
絵里の知っている人だった。
年下の男性。
優秀で、感じのいい人。
「おめでとうございます」
と返信した。
本当にそう思った。
数週間後、SNSに写真が出た。
高層ビル。
夜景。
現地のスタッフ。
英語の看板。
絵里は画面を見た。
胸が痛んだ。
急に涙が出た。
母が亡くなったときより、強く。
絵里はスマートフォンを伏せた。
そして思った。
行きたかった。
今でも。
行きたかった。
その気持ちは消えていなかった。
半年ほどして、出張で空港へ行った。
出発案内板。
シンガポール。
絵里は立ち止まった。
あのとき行っていたら。
どこに住んでいたのか。
誰と働いていたのか。
何を見ていたのか。
母が最後に入院したとき、帰国していたのか。
間に合ったのか。
間に合わなかったのか。
もう答えは出ない。
選ばなかった人生は、いつも完璧な形で残る。
実際に生きていないから。
失敗もしない。
疲れもしない。
寂しくもならない。
ただ、可能性のまま残る。
絵里はそのことに初めて気づいた。
その日の帰り。
いつもの街へ戻った。
なんとなく、あのコンビニに入った。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
店内はほとんど変わっていなかった。
棚。
レジ。
飲料ケース。
雑誌。
プリンの棚。
絵里は立ち止まった。
同じプリンがあった。
母が好きだったもの。
手を伸ばした。
一つ取る。
少し考える。
戻さなかった。
レジへ行く。
「袋はご利用ですか?」
「いりません」
「ありがとうございます」
レシートを受け取る。
絵里は店の外へ出た。
袋からプリンを出した。
近くのベンチに座る。
ふたを開ける。
一口。
懐かしい味だった。
でも今日は母のためではない。
自分のために買った。
それが少し不思議だった。
絵里はスマートフォンを開いた。
シンガポールの写真がまだ残っていた。
消そうとは思わなかった。
行かなかったことは、今でも悲しい。
その人生を見てみたかった。
でも。
母の病室で一緒にテレビを見た夜。
治療のあと、二人で黙ってプリンを食べた午後。
母が最後に、
「いてくれてよかった」
と言った朝。
それも失いたくなかった。
どちらかを「正しかった」にする必要はないのかもしれない。
絵里は小さく言った。
「行きたかった」
少し間を置く。
「でも、残ってよかった」
二つの言葉が、初めて喧嘩しなかった。
立ち上がって店を出る。
交差点の向こうから、高齢の男性がゆっくり歩いてきた。
その少し後ろから、40代くらいの女性が追いつく。
「お父さん、待ってって言ったでしょう」
男性が振り返る。
「普通に歩いてただけだよ」
「普通が一番心配なの」
「なんだそれ」
二人は少し言い合いながら、コンビニのほうへ歩いてきた。
絵里は横を通り過ぎた。
知らない親子だった。
数秒後には、もう振り返らなかった。
手の中には、プリンの空き容器とレシートが残っていた。
絵里はレシートを見た。
今日の日付。
今日の時間。
今日、自分で選んだもの。
それだけは、はっきり書かれていた。
Story 5 「お父さんのためだから」

山田修一のテーブルの上には、いつの間にか三つのものが並ぶようになっていた。
薬のケース。
銀行から届いた封筒。
そして、小さな白い紙。
娘の奈緒が書いたものだった。
月曜 薬
火曜 ゴミ
水曜 病院 10:30
木曜 買い物
金曜 奈緒 電話
「こんなのなくてもわかるよ」
修一が言った。
「わかってる」
奈緒は冷蔵庫を開けながら答えた。
「私が安心するから置いといて」
「じゃあ、お前のためか」
「そういう言い方しないでよ」
奈緒は笑った。
修一も笑った。
そのころは、まだ笑える話だった。
修一は77歳だった。
妻の和子を亡くして五年になる。
この家には42年間住んでいる。
二人の子どもを育てた。
庭には和子が植えた紫陽花がある。
玄関の柱には、子どもたちの身長を測った鉛筆の跡がまだ薄く残っている。
奈緒は車で25分ほどの場所に住んでいた。
週に一度は来る。
電話はもっと多い。
修一はありがたいと思っていた。
本当に。
奈緒が来ると、冷蔵庫の古い食品を捨ててくれる。
スマートフォンのわからないところも教えてくれる。
病院の書類も整理してくれる。
「これ、来月までに返送だから」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「お父さん、昔からそう」
そんなやり取りも嫌いではなかった。
修一には毎朝の日課があった。
七時半ごろ家を出る。
住宅街を歩く。
小さな公園の横を通る。
交差点を渡る。
そしてコンビニへ行く。
ブラックコーヒーと新聞を買う。
雨の日以外は歩く。
妻が生きていたころからの習慣だった。
和子はコーヒーを飲まなかった。
「そんな苦いもの、よく朝から飲めるね」
毎朝そう言った。
修一は、
「人生が甘いからな」
と答えた。
「よく言うわ」
和子は笑った。
五年経った今も、ブラックコーヒーを飲むと、ときどきその声を思い出す。
ある日、奈緒が車の鍵を見ながら言った。
「お父さん、そろそろ運転やめない?」
修一は新聞から顔を上げた。
「なんで」
「この前、駐車場でちょっと危なかったでしょ」
「あれは向こうが急に出てきたんだよ」
「そういう問題じゃなくて」
奈緒は少し言葉を選んだ。
「77でしょ」
「77でも運転してる人はいっぱいいる」
「それはわかってるけど」
「病院でも何も言われてない」
「事故が起きてからじゃ遅いでしょう」
修一は黙った。
奈緒の言っていることはわかった。
自分でも、夜の運転は少し見づらくなったと思っていた。
駐車するとき、一度で入らないことも増えた。
「考えとく」
「考えるじゃなくて」
「奈緒」
少し強い声になった。
奈緒は黙った。
その日の話は、それで終わった。
二か月後、修一は車を手放した。
最後に自分で洗った。
ボンネットを拭く。
運転席に座る。
エンジンをかける。
妻を病院へ連れていった車。
孫を迎えに行った車。
二人で温泉へ行った車。
ただの車だった。
でも鍵を渡したとき、何か一つ自分の生活が小さくなったような気がした。
奈緒は言った。
「これで安心した」
修一は、
「そうか」
と答えた。
娘が安心したなら、それでいい。
そう思った。
次は薬だった。
修一が一度、夜の薬を飲み忘れた。
電話で話したとき、何気なく言っただけだった。
翌週、奈緒が曜日ごとに分かれた薬のケースを買ってきた。
「これ使って」
「こんなの年寄りみたいだな」
「年寄りだよ」
「お前、親に言うか」
二人で笑った。
次は銀行だった。
修一の家に怪しい電話がかかってきた。
「未払い料金があります」
という電話だった。
修一はすぐ切った。
何も被害はなかった。
でも奈緒に話すと、顔色が変わった。
「お父さん、銀行のこと私も見られるようにしよう」
「なんで」
「何かあったとき困るから」
「何もなかっただろ」
「今回はね」
スマートフォンに銀行アプリを入れた。
大きな送金があったときには奈緒にもわかるようにした。
「これで安心」
また奈緒が言った。
修一は、
「そうか」
と答えた。
次は家だった。
「ここ広すぎない?」
奈緒が言った。
「二階、ほとんど使ってないでしょ」
「使ってないな」
「掃除も大変だし」
「まあな」
「私たちの近くに小さいマンションあるよ」
修一は新聞をたたんだ。
「ここ売れってことか」
「今すぐじゃないよ」
奈緒は慌てた。
「ただ、次はそういうことも考えたほうがいいかなって」
次。
修一はその言葉を聞いた。
車の次。
薬の次。
銀行の次。
今度は家。
「考えとく」
「またそれ」
「考えるのは俺だろ」
奈緒は少し黙った。
「もちろん」
そう言った。
でも、その「もちろん」が少し寂しそうだった。
修一は奈緒が嫌いではなかった。
むしろ、娘がいてくれてよかったと思っていた。
だから難しかった。
奈緒の言っていることは、ほとんど正しい。
運転は危なくなっていた。
薬は忘れた。
詐欺電話も来た。
家は広い。
もし一人で倒れたら。
もし階段から落ちたら。
もし電話に出なかったら。
修一自身も考えないわけではない。
ただ。
一つ一つは小さいことだった。
車。
薬。
銀行。
家。
気づくと、自分の生活について決める前に、
奈緒はどう言うだろう
と考えるようになっていた。
それが少し嫌だった。
でも言えなかった。
心配してくれている人に、
「心配するな」
とは言いにくい。
ある朝。
修一はいつものようにコンビニへ向かった。
交差点の手前で後ろから声がした。
「お父さん!」
振り返る。
奈緒だった。
車を近くに停めたらしい。
「何してるんだ」
「それこっちの台詞」
奈緒が追いついた。
「電話したのに」
「歩いてたから気づかなかった」
「どこ行くの?」
「コンビニ」
「言ってよ」
「コンビニ行くのに?」
「昨日雨降ったから、道滑るでしょう」
「晴れてるよ」
「でも」
修一はまた歩き始めた。
奈緒も横を歩く。
「お父さん、待ってって」
「普通に歩いてるだけだよ」
「普通が一番心配なの」
「なんだそれ」
向こうから30代くらいの女性が歩いてきた。
手にはコンビニのプリンの空き容器。
二人はすれ違った。
修一は気に留めなかった。
その日の午後。
奈緒が家に来た。
「ねえ」
冷蔵庫に食品を入れながら言った。
「朝のコンビニも、しばらく一人で行かないほうがいいんじゃない?」
修一は聞こえないふりをした。
「お父さん」
「聞いてる」
「転んだらどうするの」
「転んでない」
「転んでからじゃ遅いでしょう」
修一は新聞を置いた。
「じゃあ、どうするんだ」
「私が来たときに買い物すればいいし」
「毎朝来るのか?」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあコーヒーは?」
「家で飲めるでしょう」
「新聞は?」
「取ればいいじゃない」
「散歩は?」
「私が来たとき一緒に歩けばいい」
奈緒は一つずつ答えた。
全部、合理的だった。
修一はしばらく娘を見た。
「奈緒」
「何?」
「お前が安心する生活と、私が生きたい生活は同じなのかな」
奈緒の表情が変わった。
「何それ」
「そのままだよ」
「私はお父さんのために言ってるんだよ」
「わかってる」
「だったら」
「わかってるから、言いにくかったんだ」
奈緒は黙った。
修一も黙った。
冷蔵庫の音だけが聞こえた。
しばらくして、奈緒が椅子に座った。
「じゃあ、どうすればいいの」
声が少し震えていた。
修一はそこで初めて、娘が怒っているのではなく、怖がっているのだと気づいた。
「私、お母さんのとき」
奈緒が言った。
修一は何も言わなかった。
「もっと早く気づけばよかったって、ずっと思ってる」
和子の病気が見つかったときには、かなり進んでいた。
奈緒は何度も自分を責めた。
そんな必要はないと、修一は何度も言った。
それでも消えなかったのだろう。
「今度はお父さんまで何かあったら」
奈緒は下を向いた。
「私、たぶん自分を許せない」
修一は娘を見ていた。
そこで初めて、
「お父さんのためだから」
という言葉の中に、自分以外の人間がいることに気づいた。
奈緒自身だった。
娘は父親だけを守ろうとしていたのではない。
もう一度大切な人を失う怖さから、自分自身も守ろうとしていた。
修一は静かに言った。
「奈緒」
「うん」
「お前が心配するなとは言わない」
奈緒が顔を上げた。
「俺も、昔と同じじゃない。それはわかってる」
「じゃあ」
「でもな」
修一はテーブルの上の白い紙を指で触った。
薬。
病院。
電話。
「全部危なくないようにしたら、たぶん最後は何もしないのが一番安全になる」
奈緒は何も言わなかった。
「階段も危ない。外も危ない。車も危ない。風呂も危ない」
修一は少し笑った。
「生きてるのも危ない」
「そんな極端な」
「極端だけどな」
奈緒も少しだけ笑った。
二人は、その日初めて一つずつ話した。
車。
修一はもう運転しない。
「これは俺も納得してる」
薬。
ケースは使う。
夜に奈緒が毎日確認するのはやめる。
銀行。
大きな送金だけ奈緒にも知らせる。
家。
今は売らない。
半年後にまた話す。
そしてコンビニ。
「歩いて行く」
修一が言った。
奈緒はすぐに、
「でも」
と言った。
修一は待った。
奈緒も自分の言葉に気づいたらしい。
少し考えた。
「着いたら連絡して」
「毎日?」
「一回だけ」
「面倒だな」
「それくらいやってよ」
修一は少し考えた。
「それくらいならいい」
二人とも完全には満足していなかった。
だから、たぶんちょうどよかった。
翌朝。
七時二十六分。
修一は家を出た。
一人だった。
玄関を閉める。
ポケットにスマートフォン。
ゆっくり歩く。
紫陽花の前を通る。
公園。
交差点。
信号が赤だった。
待つ。
青になる。
渡る。
以前なら何も考えなかった距離だった。
今日は、自分の足が地面に触れる感覚を少し意識した。
コンビニが見えてきた。
近づく。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
女性店員が言った。
修一は店に入った。
いつもの朝だった。
学生が飲み物を選んでいる。
スーツ姿の会社員がおにぎりを二つ持っている。
小さな子どもを連れた母親。
作業着姿の男性。
外国人の若い店員が商品の箱を運んでいる。
窓際には、50代くらいの男性がいた。
カフェラテ。
分厚い歴史小説。
少し離れたところには、古いフィルムカメラを首から下げた若い男性。
飲料棚の近くでは、女性がスマートフォンを見ていた。
画面には、青いマグカップの写真が一瞬見えた。
プリンの棚の前では、別の女性が一つだけプリンを取った。
誰も、誰かを知らない。
修一も知らない。
それぞれ買うものを選んでいる。
それぞれどこかへ行く。
修一はいつものブラックコーヒーを取った。
新聞も一部。
レジへ行く。
いつもの女性店員が聞いた。
「袋はご利用になりますか?」
「いりません」
「ありがとうございます」
レシートを受け取る。
修一は何となく見た。
7時38分。
ブラックコーヒー。
新聞。
金額。
今日の日付。
今日、自分の足でここまで来て、自分で選んだもの。
修一はレシートを財布にしまった。
スマートフォンを取り出す。
奈緒に短いメッセージを送った。
「着いた」
数秒後。
返事。
「よかった」
修一は画面を見て笑った。
それから窓際の空いている席に座った。
コーヒーを一口飲む。
苦い。
昔と同じ。
外では、人が駅へ向かって歩いていた。
学生。
会社員。
若い人。
年を取った人。
急いでいる人。
ゆっくり歩く人。
修一は店の中をもう一度見た。
歴史小説を読む男性。
カメラを持った若者。
青いマグの写真を見ていた女性。
プリンを買った女性。
レジの店員。
そして自分。
みんな、それぞれ普通に見えた。
修一はふと思った。
普通の人って、どの人なんだろう。
答えを考えているうちに、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
また一人、誰かが入ってきた。
最後に

麻衣は、人生を捨てませんでした。
離婚もしません。
会社も辞めません。
ただ初めて、
「私は何がしたいのだろう」
と自分に問い始めました。
亮も、「本当の自分」を突然発見したわけではありません。
人によって話し方を変える自分。
母を安心させる自分。
恋人を笑わせる自分。
知らない店員にも笑顔を向ける自分。
それらを偽物と決めるのではなく、
誰かといる自分も自分であり、一人の自分もこれから知っていけばいい
と思えるようになりました。
誠は、会社という大きな時間割を失いました。
自由になったはずなのに、最初は自由をどう使えばいいのかわからなかった。
そこで彼が見つけたのは、新しい使命でも大きな夢でもありません。
歴史小説の続きを読むことでした。
誰にも評価されない。
何の成果にもならない。
それでも、自分が続きを読みたい。
その小さな「したい」が、彼自身の時間をもう一度動かし始めました。
絵里の物語では、もっと難しい問題が残りました。
母親のためにシンガポールへ行かなかった。
母親との最後の時間を大切に思っている。
それでも、行かなかった人生を今でも見てみたい。
ここには簡単な答えがありません。
そして、おそらく答えを一つにする必要もありません。
後悔があることと、その選択を間違いだと思うことは同じではない。
「行きたかった」
「残ってよかった」
その二つが同時に真実であってもいい。
そして最後の修一と奈緒。
奈緒は父親を支配したかったわけではありません。
父親を失うのが怖かった。
「お父さんのためだから」という言葉の中には、父への愛と、自分自身の恐怖が一緒に入っていました。
修一も、娘の助けを全部拒絶したわけではありません。
運転はやめる。
薬は管理する。
銀行も一部共有する。
でもコンビニまでは、自分の足で歩く。
二人が見つけたのは完全な自由でも完全な安全でもなく、
どこまで助けてもらい、どこから自分で決めるのかを話し続けること
でした。
そして5人の物語には、ずっと小さな紙がありました。
レシートです。
そこには、
いつ。
どこで。
何を買ったか。
いくら払ったか。
すべて記録されています。
けれど人生には、
なぜその会社に入ったのか。
なぜ結婚したのか。
なぜ夢を諦めたのか。
なぜ家族のそばに残ったのか。
なぜ誰かの助けを受け入れたのか。
そんなことを正確に記録した紙はありません。
人間の大きな選択は、もっと曖昧です。
文化。
家族。
愛。
恐怖。
お金。
年齢。
偶然。
誰かの期待。
そして自分自身の願い。
いろいろなものが混ざっています。
だから、「誰の影響も受けずに選んだ人生」だけを本当の人生とするなら、そんな人生はほとんど存在しないのかもしれません。
大切なのは、人生のすべてを一から選び直すことではないのでしょう。
ときどき立ち止まって、
「これは今でも、私が引き受けたい人生だろうか」
と自分に聞いてみる。
違うと思えば選び直す。
これでいいと思えば、誰かから勧められた道であっても、自分のものとして歩き続ける。
最後の朝。
同じコンビニに5人がいます。
互いの名前を知りません。
一人は歴史小説を読んでいる。
一人は古いカメラを持っている。
一人は青いマグカップの写真を見ている。
一人はプリンを買う。
一人はブラックコーヒーを飲んでいる。
そして修一は思います。
「普通の人って、どの人なんだろう。」
もしかすると、『コンビニ人間』が私たちに残した最も面白い問いは、
「普通とは何か」
だけではないのかもしれません。
なぜ私たちは、これほど違う人生を生きている人間たちを、一つの「普通」という言葉の中に入れようとするのでしょうか。
自動ドアが開きます。
また誰かが入ってきます。
その人にも、外からは見えない人生があります。
そして、おそらく私たちにもあります。
Short Bios:
高橋麻衣
34歳の食品会社勤務。結婚、住宅購入と順調に人生を歩んできた女性。夫の何気ない質問をきっかけに、自分が本当に望んできたものを初めて考え始める。
西村亮
29歳の広告会社勤務。誰とでも自然に付き合える人気者。一人きりの夜を経験し、誰にも見られていない自分について考え始める。
佐々木誠
58歳。大手物流会社に35年間勤務したのち早期退職。自由を得たことで、逆に仕事という役割が自分に与えていたものに気づいていく。
小林絵里
37歳のIT企業勤務。念願だった海外赴任を母親の病気を機に断る。母を見送ったあと、後悔と納得が同時に存在できることを受け入れていく。
山田修一
77歳。妻を亡くして一人暮らしを続ける男性。娘の愛情を受け入れながらも、自分の人生を自分で決めることの意味を考える。
山田奈緒
46歳。修一の娘。父親を深く心配するあまり、少しずつ父の生活を管理するようになる。父との対話から、愛することと相手の人生を決めることの違いに向き合う。
この5つの短編は、『コンビニ人間』から着想を得たテーマを現代の日常へ移して制作したオリジナルのフィクションです。村田沙耶香氏による物語、続編、公式解釈ではありません。

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