はじめに
村田沙耶香『地球星人』を読み終えたあと、多くの読者の中には簡単には消えない違和感が残ります。
奈月はなぜ、自分を「地球人ではない」と思わなければならなかったのでしょうか。
彼女の宇宙人という感覚は、傷ついた子どもが生き延びるために作った世界だったのでしょうか。それとも、社会の「普通」を外側から見る奈月自身の感受性も、そこには含まれていたのでしょうか。
そして、さらに難しい問題があります。
奈月が「人間工場」と呼んだ社会は、本当にそれほど間違っていたのでしょうか。
学校へ行き、働き、恋愛し、結婚し、子どもを育てる。
それを幸せだと感じる人もいる。
そこから逃れたい人もいる。
問題は、どちらが正しいかではなく、一つの幸福の形をすべての人に要求したとき、何が起こるのかなのかもしれません。
今回の架空の対話では、作家の西加奈子、精神科医・研究者の宮地尚子、天星術で知られる星ひとみ、社会学者の上野千鶴子という、まったく異なる視点を持つ4人に登場してもらいました。
文学。
トラウマ。
生まれ持った個性や人生の意味。
家族、結婚、生殖、社会制度。
4人の視点は完全には一致しません。
むしろ一致しないからこそ、『地球星人』が投げかける問いが、奈月一人の問題ではなく、私たち自身の問題として見えてきます。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1 「奈月は本当に宇宙人だったのか?」

それとも、宇宙人でなければ生きられなかったのか?
テーブルの上には、『地球星人』が一冊置かれていた。
誰もすぐには手を伸ばさなかった。
最初に口を開いたのは、西加奈子だった。
西加奈子:
私、この本を読んでいて、奈月を「変わった人」として見られなかったんですよ。
宮地尚子:
どういう意味ですか。
西:
むしろ、自分のほうが怖くなった。
「あ、この子を変だと思っている私の中にも、奈月を追い詰めた側の常識があるかもしれない」って。
星ひとみが静かにうなずいた。
星ひとみ:
それ、すごく大事だと思います。
上野千鶴子:
ただ、最初から社会の責任だけに持っていくと、奈月個人が見えなくなる危険もありますね。
西:
そうなんですよね。
だから今日は最初に、一番単純なところを聞きたい。
西は本の表紙に目を落とした。
西:
奈月は、本当に自分を宇宙人だと思っていたんでしょうか。
少し沈黙があった。
宮地がゆっくり口を開いた。
宮地:
私は、まずその問いを少し変えたいですね。
西:
どう変えます?
宮地:
「本当に信じていたのか」より、
なぜ、その考えが奈月に必要だったのか。
そこから見たいです。
星:
うん。
宮地:
子どもにとって現実があまりにも苦しいとき、その現実との間に距離を作ることがあります。
それは、嘘をついているという意味ではありません。
むしろ、その子なりに世界を理解できる形へ変えている。
上野:
つまり、世界のほうが理解不能だった。
宮地:
そうです。
家庭。
学校。
大人。
自分の身体。
自分を守るはずのものが安全ではない。
そういうときに、
「私がおかしい」
と受け取るより、
「私はここの人間ではない」
と考えるほうが、自分を守れることがある。
西が少し身を乗り出した。
西:
それって、ものすごく悲しいですよね。
宮地:
ええ。
西:
「私は宇宙人です」っていう言葉だけ聞くと、子どものかわいい空想にも見える。
でも実際には、
「この世界のルールがわからないのは、私が欠陥品だからじゃない」
って、自分を守っていた可能性がある。
宮地:
そうだと思います。
星:
でも、私はここで一つだけ気になるんです。
宮地が星を見る。
星:
奈月の全部を、その傷の結果として見てしまっていいのかなって。
宮地:
そこは私も全部とは言いません。
星:
奈月って、もともとすごく感受性が強い人でしょう。
世界の見方も独特。
みんなが当たり前だと思うことを、そのまま飲み込めない。
人と違うことを感じ取る力がある。
そういう部分まで全部、
「傷ついたからこうなった」
って言ってしまうと。
少し言葉を探した。
星:
奈月本人が消えてしまう感じがするんです。
上野がすぐに反応した。
上野:
これはかなり重要な指摘ですね。
社会の側は、人が規範から外れるとすぐ原因を探したがる。
「家庭に問題があったから」
「何か傷があるから」
「心理的な理由があるから」
でも、そもそも人間は同じではありません。
西:
ですよね。
傷ついていなくても、結婚したくない人はいる。
子どもが欲しくない人もいる。
会社員に向かない人もいる。
上野:
そうです。
普通から外れること全部に原因を求めると、
「正常な人間なら普通を望むはずだ」
という前提が残ってしまう。
宮地はうなずいた。
宮地:
そこは区別したいです。
奈月が持っていた感受性や個性と、
その感受性を守るために作られた防御の仕組みは、
同じではない。
星:
そう。
私はそこを見たいんです。
傷つく前の奈月。
西:
でも、それってわかるんでしょうか。
星:
完全にはわからないと思います。
ただ、
「この人のどこまでが傷で、どこまでが本来の性質か」
を外側から全部決めない。
それは必要だと思う。
上野:
そこで一つ聞きたいんですが。
星が見る。
上野:
「本来の奈月」って、本当にあるんでしょうか。
星は少し笑った。
星:
来ましたね。
西:
これは難しくなる。
上野:
だって、人間は家族、学校、文化、時代の中で作られます。
完全に何の影響も受けていない「生まれたままの純粋な自己」なんて、取り出せないでしょう。
星:
私は、固定された完成品としての「本当の自分」があるとは思ってないです。
でも、持って生まれた傾向や、反応の仕方には違いがある。
宮地:
その言い方なら、心理学側ともそこまで遠くないと思います。
西:
面白いですね。
最初は心理学とスピリチュアルで大きく割れると思ったけど。
宮地:
まだ最初ですから。
西が笑った。
西:
さっき誰かにも似たこと言われた気がする。
四人の空気が少しやわらいだ。
上野が本を開いた。
上野:
ただ、私は奈月の「宇宙人」を個人心理だけで読みたくないんですよ。
宮地:
社会の話ですか。
上野:
ええ。
奈月が、
「私はこの社会に属していない」
と感じる。
では、なぜその社会はそれほど狭かったのか。
西:
狭い?
上野:
女の子ならこう。
子どもならこう。
家族ならこう。
年齢が上がれば次はこう。
規範が先にあって、そこに合わない子を、
「変わっている」
と呼ぶ。
星:
本人が変なのではなく、入れられる箱が小さすぎる。
上野:
そう。
その意味では、
「私は宇宙人です」
という奈月の言葉は、
「この箱に私は入りません」
という宣言にも見える。
西:
でも奈月は、そんなに社会批判を意識して言っているわけじゃないですよね。
上野:
もちろん。
本人の意図と、作品が見せるものは別です。
宮地:
私はそこにもう一つ加えたいです。
上野:
どうぞ。
宮地:
「箱に入らない」というだけなら、まだ距離を取ることができます。
でも奈月の場合は、
「この箱に入らないと危険だ」
だけではなく、
「ここは安全ではない」
という経験が重なっている。
だから宇宙人という考えが、単なる個性の表現より強くなる。
西:
世界観になっていく。
宮地:
そうです。
その世界観が、自分を守る壁になる。
星が少し考え込んだ。
星:
そこで私は、ピュートがすごく気になるんです。
西:
やっぱり。
星:
だって、人間を信じられない奈月が、ピュートには心を置ける。
宮地:
安全な存在だったのでしょうね。
星:
否定しない。
比べない。
「普通になれ」って言わない。
何も奪わない。
西:
ぬいぐるみだからできることでもありますよね。
星:
もちろん。
でも奈月にとっては、それが必要だった。
上野:
ただ、ここでピュートにスピリチュアルな実在性を与える必要はないでしょう。
星:
そこは私も同じです。
「本当に宇宙から来た存在だった」
という話をしたいわけじゃない。
奈月の中で、
そこに何を預けていたのか
を見たい。
宮地がうなずいた。
宮地:
心理的な安全。
理解者。
自分を見守る存在。
あるいは、外へ出せない自分自身の一部。
いろいろ読めます。
西:
私は、奈月がピュートに話しているときって、
自分自身に、
「大丈夫」
って言っている感じもします。
宮地:
それもあり得ると思います。
少し沈黙。
西がふと聞いた。
西:
でも、ここで怖いことがありますね。
上野:
何でしょう。
西:
私たち、今すごく丁寧に奈月を解釈してるじゃないですか。
「これは防御」
「これは本質」
「これは社会規範への反応」
って。
でも。
西は少し笑った。
西:
奈月からしたら、
「勝手に決めないで」
って言うかもしれない。
宮地も笑った。
宮地:
それは十分あり得ますね。
上野:
むしろ言いそう。
星:
すごく言いそう。
四人が笑った。
そのあと、西が表情を戻した。
西:
そう考えると、私たちが一番気をつけないといけないのは、
奈月を説明し切らないことかもしれない。
宮地:
そうですね。
理解しようとすることと、
「この人はこういう人です」と閉じることは違う。
上野:
分類は便利ですからね。
トラウマ。
被害者。
非適応。
宇宙人。
フェミニスト的抵抗。
どの言葉も一部を説明する。
でも一部です。
星:
だから、私は「その人そのもの」を残したい。
宮地が星を見る。
宮地:
それは私も同意します。
西:
では逆に聞きたい。
なぜ私たちは、奈月を現実へ戻したくなるんでしょう。
上野がすぐに答えた。
上野:
こちら側を現実だと思っているからでしょう。
西:
でも、こちら側って何です?
上野:
結婚する。
働く。
他人と共通のルールを共有する。
大人らしく振る舞う。
多数の人間が「現実」と呼んでいる世界です。
宮地:
ただ、共有現実は必要でもあります。
上野が宮地を見る。
宮地:
他者と生きるには、ある程度同じ世界を共有しなければいけない。
そこは否定できません。
星:
でも「同じ世界を見る」と「同じ生き方をする」は違いますよね。
宮地:
そうです。
そこがすごく大事です。
西:
ああ。
宮地:
奈月に、
「結婚しなさい」
「子どもを持ちなさい」
「普通に生きなさい」
と言う必要はない。
でも、
「あなたが痛いと思うことと、他人が痛いと思うことは共有しよう」
という世界は必要です。
上野がうなずく。
上野:
それはTopic 4につながりますね。
西:
まだ行かないでください。
四人がまた少し笑った。
西は本を閉じた。
西:
じゃあ、Topic 1でいま私たちが言えることって何でしょう。
奈月は宇宙人だった?
宮地が少し考える。
宮地:
私は答えません。
西:
答えない?
宮地:
その問いより、
宇宙人という考えが奈月を何から守ったのか
を大切にしたい。
星が続ける。
星:
私は、
奈月が傷ついたことと、奈月が最初から持っていた違いを、同じものにしない
ということを残したいです。
上野が言う。
上野:
私は、
奈月を異常と呼ぶ前に、その異常を測っている側の正常を疑いたい。
西は少し考えた。
西:
私は。
奈月を読んで、
「この子を現実へ戻してあげたい」
と思った瞬間に、
一回、自分に聞いてみたい。
西:
「あなたが戻したい現実って、本当にそんなに安全な場所ですか?」
誰もすぐには話さなかった。
しばらくして星が静かに言った。
星:
もしかしたら奈月に必要だったのは、
「あなたは宇宙人じゃないよ」
でも、
「あなたは本当に宇宙人だよ」
でもなかったのかもしれない。
西:
じゃあ何だったと思います?
星は少し考えた。
星:
「そう思わないといられないくらい、何かが苦しいんだね」
その一言だったのかもしれない。
宮地が静かにうなずいた。
上野も何も言わなかった。
西は本の表紙をもう一度見た。
西:
宇宙人であることが問題だったんじゃなくて。
少し間を置く。
西:
宇宙人でなければ生きられないほど、地球が安全じゃなかった。
四人の間に、静かな沈黙が落ちた。
そして宮地が、その沈黙の中で小さく言った。
宮地:
では次は、大人がそのサインを見たとき、何ができたのかを考えたいですね。
Topic 2 「子どもが『私はこの世界の人間じゃない』と言ったら、大人はどうすればいい?」

宮地の最後の言葉が、そのまま次の話題になった。
宮地尚子:
では次は、大人がそのサインを見たとき、何ができたのかを考えたいですね。
西加奈子がすぐにうなずいた。
西加奈子:
これ、すごく難しいですよね。
子どもが突然、
「私は宇宙人です」
って言ったとして。
大人はどう返せばいいんだろう。
上野千鶴子:
多くの場合は、
「変なこと言わないの」
でしょうね。
西:
たぶん。
星ひとみ:
それか、
「かわいいこと言うね」
で終わる。
宮地:
問題は、その言葉の中身より、なぜその言葉が出てきたかなんです。
西:
でも、親からしたらわからないですよね。
子どもって普通に空想するでしょう。
魔法使いになりたいとか。
別の星から来たとか。
宮地:
そうです。
だから、宇宙人という言葉そのものを危険信号と決める必要はありません。
上野:
では何を見る?
宮地:
その子の全体です。
その言葉を言う前後。
学校へ行きたがらなくなった。
急に黙るようになった。
身体に触れられるのを極端に嫌がる。
眠れない。
食べられない。
怒り方が変わった。
家族の前でだけ様子が違う。
一つだけで決めるのではなく、変化を見る。
西:
つまり、
「宇宙人って言ったから問題」
ではない。
宮地:
そうです。
むしろ、
「この子はいま何を伝えようとしているんだろう」
と見る。
星が静かに言った。
星:
私は、そこにもう一つ入れたいです。
宮地:
何でしょう。
星:
すぐに直そうとしない。
西が星を見る。
星:
大人って、子どもが自分の理解できないことを言うと、すぐ正しい場所に戻そうとするでしょう。
「そんなことないよ」
「気にしすぎ」
「みんな同じだよ」
上野:
安心させるための言葉ですね。
星:
そう。
でも本人には、
「あなたの感じていることは間違っています」
と聞こえることがある。
西:
ああ、それはありますね。
励ましているつもりなのに。
星:
だから私は、
「そう感じてるんだね」
から入りたい。
宮地:
そこは非常に重要です。
感情を認めることと、内容を事実として肯定することは違います。
西:
ここ、もう少しわかりやすく言うと?
宮地:
たとえば子どもが、
「私は宇宙人だから、この家族とは本当は血がつながってない」
と言ったとします。
そこで、
「そうだよ、本当に宇宙人なんだよ」
と合わせる必要はない。
同時に、
「馬鹿なこと言うな」
と切る必要もない。
上野:
では?
宮地:
「そう思うくらい、ここに自分の居場所がない感じがするの?」
と聞く。
西:
中身を訂正する前に、感情を聞く。
宮地:
そうです。
星がうなずいた。
星:
その子の世界に一回入ってみる。
住み続ける必要はないけど。
上野:
ただ、私は親をあまり簡単に責めたくないんですよ。
西が見る。
上野:
奈月の母は確かに彼女を傷つけた。
でも現実の親も、子どもの言葉を毎回完璧に読み取れるわけではない。
仕事もある。
他の家族もいる。
自分自身も疲れている。
西:
それはそうですね。
上野:
だから、
「気づかなかった親は悪い」
だけで終わると、また別の「完璧な母親」規範を作ることになる。
星が少し笑った。
星:
それも新しい工場になりますね。
上野:
そうです。
「良い母親なら子どものすべてを察知できる」
そんなものは無理です。
宮地もうなずく。
宮地:
私も、察知することより、子どもが何か言ったときに戻ってこられる関係のほうが大切だと思います。
西:
戻ってこられる関係?
宮地:
一回気づけなかった。
一回間違えた。
それでも後から、
「さっきの話、もう一回聞いてもいい?」
と言える。
子どもも、
「この人には言ってもいいかもしれない」
と思える。
西:
完璧に見抜くより、聞き直せる。
宮地:
はい。
それのほうが現実的です。
少し沈黙。
西が本を開いたまま言った。
西:
でも奈月の場合、かなり難しいですよね。
だって本人も、
「助けて」
とは言ってない。
宮地:
そうですね。
西:
第一部で奈月は、
「助けてじゃない。“ここにいていい?”だった」
って言っていた。
あれ、私はすごく残っています。
上野がゆっくりうなずいた。
上野:
「助けて」という言葉には、すでに助ける側と助けられる側がありますからね。
西:
ああ。
上野:
大人が助ける。
子どもが助けられる。
でも奈月が求めていたのは、もっと手前だったのかもしれない。
星:
存在していいかどうか。
上野:
そう。
「私を直してください」ではなく、
「このままの私でもここにいられますか」。
宮地が静かに言った。
宮地:
これは子どもだけではないですね。
西が見る。
宮地:
大人でも、
自分のことを話せない人はいます。
話したら変えられる。
説教される。
病名をつけられる。
家族に迷惑をかける。
そう思って黙る。
西:
じゃあ、「話してくれればよかったのに」って言葉も。
宮地:
時に残酷です。
西:
どうして?
宮地:
「言わなかったあなたにも責任がある」
と聞こえることがあるからです。
上野:
言える環境だったのかを先に問わないといけない。
宮地:
そうです。
子どもが話せなかったのなら、
なぜ話せなかったのか。
そこを見る。
星が少し考えてから言った。
星:
私は、子どもって大人よりずっと空気を読んでいることがあると思うんです。
西:
ありますね。
星:
お母さんは忙しい。
今これを言ったら怒る。
お父さんには言えない。
家族を困らせる。
そうやって、自分の感覚より周りを優先してしまう子がいる。
上野:
特に「いい子」であることを求められた子ですね。
星:
そう。
それで大人は、
「何も言わなかったから大丈夫だと思った」
となる。
西:
怖いですね。
宮地:
沈黙が安全の証拠とは限らないんです。
上野が少し身を乗り出した。
上野:
ここで「家族」という言葉も少し疑いたいです。
西:
どういう意味です?
上野:
「家族なら何でも話せる」
「家族なら一番安心」
という物語があります。
でも実際には、家族だからこそ言えないこともある。
宮地:
あります。
上野:
家族が安全かどうかは、「家族だから」で決まらない。
西:
奈月には由宇のほうが安全だった。
上野:
そう。
血縁ではなく。
星が言った。
星:
だから私は、親だけに全部を背負わせないことも大事だと思います。
西:
学校とか?
星:
学校。
親戚。
友人の親。
カウンセラー。
近所の大人。
誰でもいい。
一人の子どもに、いくつかの安全な場所があること。
宮地がすぐにうなずいた。
宮地:
そこは非常に大事です。
一人の理解者だけでは、その人がいなくなったときに全部が崩れてしまうことがあります。
西:
奈月と由宇そのものですね。
宮地:
そうですね。
由宇一人に、
友達。
家族。
理解者。
安全基地。
全部が集中していた。
それは二人にとって重すぎたと思います。
少し沈黙があった。
西が静かに言う。
西:
でも、ここから私はもっと嫌なことを聞きたい。
上野:
どうぞ。
西:
奈月のお母さんは、奈月を愛してなかったんでしょうか。
誰もすぐには答えなかった。
上野が最初に口を開いた。
上野:
愛していた可能性は十分あると思います。
西:
ですよね。
だから苦しい。
上野:
愛していることと、傷つけないことは同じではありません。
星:
これはすごく大事ですね。
西:
「愛があったなら大丈夫」ではない。
上野:
ええ。
むしろ、
「愛しているから正しい」
と思ったときが危ない。
宮地:
相手の声を聞かなくなる。
上野:
そうです。
「あなたのため」
という言葉で、自分の価値観を相手に入れられる。
結婚しなさい。
ちゃんとしなさい。
普通になりなさい。
全部「あなたの幸せ」のため。
西:
愛の名を借りた暴力。
上野がうなずく。
上野:
かなり強い言葉ですが、起こり得ます。
星が少し慎重に言った。
星:
でも私は、そこで親自身にも、
「あなたは何を怖がっているんですか」
って聞いてみたいです。
西:
親に?
星:
はい。
子どもが普通じゃないと、
親は何が怖いんだろう。
将来?
世間?
自分の育て方が否定されること?
自分が理解できないこと?
宮地:
かなり重要ですね。
星:
子どもを変えたいとき、その奥に親自身の不安が入っていることがある。
だから、
「子どものため」
だけで終わらせず、
「私が安心したいだけじゃない?」
と自分に聞く。
上野が笑った。
上野:
それは親子関係に限らず使えますね。
西:
夫婦も。
宮地:
支援者にも。
西:
専門家にも?
宮地が笑う。
宮地:
もちろんです。
「この人を良くしてあげたい」
という善意が、
「自分が考える良い状態に戻したい」
になることがあります。
西は少し驚いた顔をした。
西:
それ、Topic 1の話に戻りますね。
奈月を現実へ戻したい。
宮地:
そうです。
どの現実へ?
誰が正しいと決めた現実へ?
そこは支援する側も問い続けないといけない。
星が言った。
星:
じゃあ、子どもが
「私はこの世界の人間じゃない」
と言ったとき。
大人が最初に聞くべきなのは、
「そんなことないよ」
じゃなくて。
少し間。
星:
「この世界のどこが一番つらい?」
なのかもしれない。
宮地がうなずいた。
宮地:
とてもいいと思います。
上野:
あるいは、
「この世界で、どこなら少し楽?」
でもいいですね。
西:
ああ、それいい。
つらいことだけ聞かない。
上野:
はい。
安全な場所。
好きな人。
落ち着くもの。
それも知る。
宮地:
その子の世界を「問題」だけにしないことですね。
星:
ピュートが好きなら、
「なんでそんなものに頼るの」
じゃなく、
「ピュートといると、どんな感じ?」
と聞く。
西:
それなら奈月、少し話したかもしれない。
少し沈黙。
西がやがて言った。
西:
でも、もし親が気づかなかったら?
もう傷つけてしまったあとだったら?
上野が答える。
上野:
後からでも聞くしかないでしょう。
西:
謝る?
上野:
謝ることもある。
でも謝れば全部終わるとは思わない。
宮地:
傷つけられた側には、許さない自由もあります。
星:
それでも、関係を作り直すことはできる?
宮地は少し考えた。
宮地:
できる場合もあります。
ただし、
「昔のことは忘れて」
ではなく。
「私がしたことを、あなたがどう感じていたか聞かせて」
から始める。
西:
相手に答えを要求しない。
宮地:
そうです。
上野:
親の罪悪感を軽くするために子どもへ許しを要求しないことも必要です。
星がゆっくりうなずいた。
星:
「ごめんね。だから許して」
だと、また子どもに役割を渡してしまう。
西:
なるほど。
また「私を安心させて」になる。
誰も少しの間、話さなかった。
やがて西が言った。
西:
じゃあ、私たちが親だったとして。
子どもがある日、
「私は地球人じゃない」
と言った。
何て答える?
宮地が最初に言った。
宮地:
「そう思うようになったこと、聞かせてもらってもいい?」
星が言う。
星:
「地球人じゃないと思うと、少し楽になる?」
上野が言う。
上野:
「あなたが普通じゃなくても、ここにいられるようにしたい。何が苦しいか教えて。」
西は少し考えた。
西:
私は。
「信じられないかもしれないけど、私は今あなたの話を信じようとしてる」
って言いたい。
三人が西を見る。
西:
宇宙人だって部分じゃなくて。
「あなたが何かを感じてる」ってことを。
宮地が静かにうなずいた。
宮地:
それで十分なこともあります。
西は本を閉じた。
西:
奈月に必要だったのは、答えを持った大人じゃなかったのかもしれないですね。
宮地:
ええ。
星:
わからなくても、残ってくれる大人。
上野:
そして、自分の「普通」を一度横に置ける大人。
西は少し考えた。
西:
子どもの世界を理解できなくても。
少し間を置く。
西:
その子が、その世界を必要としている理由を聞くことはできる。
誰も反論しなかった。
そして上野が静かに続けた。
上野:
ただ、その子が大人になったとき。
社会全体が同じように、
「こちらの普通へ来なさい」
と言い続けたら。
家庭の問題だけ解決しても足りません。
西が上野を見る。
上野:
次は、その「普通」を生産している社会のほうを見たほうがいいですね。
Topic 3 「人間工場は本当に存在するのか?」

上野の言葉のあと、少しだけ空気が変わった。
ここまでは奈月の家族や子ども時代を見ていた。
今度は、もっと大きなものを見ることになる。
上野千鶴子:
家庭の問題だけでは足りないと思うんです。
奈月の母親が「普通」を押しつけたとしても、その「普通」は母親一人が発明したものではない。
西加奈子:
どこかから受け取ってきた。
上野:
そう。
学校。
会社。
親戚。
テレビ。
広告。
結婚式。
住宅。
保険。
老後。
社会全体が、
「人生はこう進むものです」
という見取り図を持っている。
星ひとみが静かに聞いた。
星ひとみ:
でも、それって全部悪いんでしょうか。
上野:
悪いとは言っていません。
そこを単純にしないほうがいい。
問題は、
一つの人生モデルが、唯一の自然な人生として扱われることです。
宮地尚子:
それなら、奈月の「人間工場」という言葉も、完全な妄想として片づけるのは早い。
上野:
そう思います。
かなり極端な言葉です。
でも、極端だから見えるものもある。
西が少し考えた。
西:
奈月から見ると、
学校へ行く。
働く。
恋愛する。
結婚する。
性行為する。
子どもを作る。
その子をまた学校へ送る。
ずっと循環してる。
上野:
外側から見れば、かなりシステム的です。
星:
でも、その中で本当に幸せな人もいる。
上野:
もちろんです。
そこを奈月の視点だけで全部偽物にすると、逆に奈月が他人の人生を一つの説明に押し込めることになります。
宮地がうなずいた。
宮地:
それは面白いですね。
奈月は「普通」に押し込められた。
でも「人間工場」という考えが強くなりすぎると、今度は奈月が他人を「部品」にしてしまう。
西:
ああ。
宮地:
結婚している人を見て、
「工場に従っている」。
子どもを望む人を見て、
「繁殖させられている」。
そう決めてしまえば、その人自身の理由を聞かなくなる。
上野:
まさにそこです。
構造を見ることと、人間を構造だけで説明することは違う。
少し沈黙。
西が上野を見る。
西:
でも、実際に社会の圧力ってありますよね。
上野:
あります。
特に女性には長く、
「結婚」
「出産」
「家庭」
が人生の中心として期待されてきました。
しかも面白いのは、命令として来るとは限らないことです。
星:
「あなたの幸せのため」。
上野:
そう。
もっと柔らかい。
「いい人いないの?」
「子どもかわいいよ」
「仕事もいいけど家庭も大事よ」
一つずつは暴力的に見えない。
でも何年も何十年も積み重なる。
西:
それで本人も、
「私はこれを望んでいる」
と思うようになるかもしれない。
上野:
そこで難しくなる。
社会から影響を受けた欲望は、偽物なのか。
宮地が西を見る。
宮地:
それは心理学でも答えにくいですね。
人間の欲望って、ほとんど関係の中で作られますから。
西:
食べたいものだってそうですよね。
子どものころから食べてきたもの。
家族が好きだったもの。
CMで見たもの。
宮地:
そう。
「誰の影響も受けていない純粋な欲望」なんて、かなり見つけにくい。
星が口を開く。
星:
私はそこ、少し違う言い方をしたいです。
影響を受けることと、その人らしさがなくなることは同じではないと思う。
上野:
どういう意味ですか。
星:
同じ社会に生まれても、全員同じ人生を選ばないでしょう。
同じ家族でも、兄弟で全然違う。
同じことを言われても、響くものと響かないものがある。
宮地:
たしかに。
星:
だから外から入ってくるものはある。
でも、それをどう受け取るかは一人ずつ違う。
西:
前のTopicで話した「その人自身」がここにも戻ってくるんですね。
星:
そう。
私は「社会の影響だから全部偽物」とは思わない。
むしろ、
社会からもらったものを、その人がどう自分の人生に変えるか
を見る。
上野は少し考えた。
上野:
その言い方なら私も賛成できます。
私は、社会から影響された人生を偽物だとは思っていません。
むしろ重要なのは、
拒否する余地があるか
です。
西がすぐに反応した。
西:
拒否する余地。
上野:
結婚したい人が結婚する。
いい。
子どもが欲しい人が産む。
いい。
専業主婦になりたい人がなる。
それもいい。
問題は、
「そうしたくない」
と言った人に、
「まだわかってない」
「あとで後悔する」
「本当は欲しいはず」
と返すことです。
宮地:
本人の自己認識より、社会のほうがその人を知っているという態度ですね。
上野:
そうです。
それが怖い。
西が本を指で軽く叩いた。
西:
奈月は、ずっとそれをされていた。
「あなたは本当はこういう人間になるはず」。
上野:
ええ。
星が少し考え込んで言った。
星:
でも、人は途中で変わることもありますよね。
20歳では子どもが欲しくなかった。
35歳で欲しくなった。
逆もある。
上野:
もちろん。
星:
じゃあ、どの時点の自分を信じればいいんだろう。
宮地:
その時点その時点でいいんじゃないでしょうか。
星:
変わっていい?
宮地:
変わっていいと思います。
むしろ、
「私は昔こう言ったから、今もこうでなければならない」
というほうが苦しい。
西:
それ、由宇にもつながりますね。
子どものころの約束にずっと縛られる必要はない。
宮地:
そうですね。
上野が言った。
上野:
自由って、最初に正しい選択をすることではないと思うんです。
西:
では?
上野:
選び直せること。
少し沈黙。
上野:
結婚しても、離婚できる。
仕事を選んでも、辞められる。
子どもを持つことは取り消せませんが、親であることの形は問い直せる。
人生の選択を、一度決めたら永遠に固定されるものにしない。
星:
それなら「工場」の反対って、工場を壊すことじゃないのかもしれない。
上野が星を見る。
星:
出口を作ること。
西がゆっくりうなずいた。
西:
いいですね、それ。
宮地:
かなり重要だと思います。
規範が存在しても、そこから外れた人が排除されない。
途中で変えた人も失敗者にならない。
上野:
そういう社会なら、「工場」という感じはかなり弱くなるでしょうね。
西が笑った。
西:
奈月なら、
「出口がある工場も工場でしょう」
って言いそうですけど。
四人が少し笑った。
そのあと、西が表情を戻した。
西:
でも奈月が言う「人間工場」の中で、私は生殖がすごく大きいと思うんです。
仕事だけなら、辞められる。
結婚も終わらせられる。
でも人間という種は、ずっと子どもを作らないと続かない。
上野:
そこが奈月の視点の鋭さですね。
人間社会は、労働者だけでなく次の世代も必要とする。
だから生殖には、ものすごく多くの意味づけが乗る。
愛。
家庭。
母性。
父性。
人生の完成。
星:
でも、本当に子どもが欲しい人もいますよね。
上野:
もちろん。
私はそれを否定しません。
ここが大切です。
社会が生殖を必要としていることと、
個人が子どもを愛し、望むことは同時に成立します。
宮地:
人間の行動には、一つの理由しかないわけではない。
上野:
そう。
構造の中にいるからといって、その人の愛情が偽物になるわけではない。
西が少し笑った。
西:
これ、奈月には一番受け入れにくそうですね。
上野:
そうでしょうね。
奈月の世界観は、とてもきれいなんです。
工場。
部品。
宇宙人。
地球人。
敵。
味方。
構造が見える。
宮地:
きれいすぎる。
上野:
そう。
現実はもっと汚い。
結婚したい気持ちの中に、愛も社会圧力も孤独への不安も入っている。
子どもが欲しい気持ちにも、生物的な欲求、家族への期待、自分自身の願い、いろいろ混ざる。
西:
どれか一つにできない。
上野:
できない。
星が静かに言った。
星:
私は、それでいいと思うんです。
西:
混ざっていて?
星:
うん。
自分の気持ちが100パーセント純粋じゃないと、本物じゃないみたいに考える必要はない。
宮地:
それは大事ですね。
星:
誰かの影響を受けても。
親から受け取ったものがあっても。
社会からもらった価値観があっても。
その中で、
「これは今の私には必要」
「これは違う」
って見直していけばいい。
上野:
ただ、それをできるだけの選択肢が社会側にも必要です。
星:
そうですね。
西:
星さんが個人。
上野さんが制度。
上野:
役割分担ができましたね。
少し笑いが起きた。
宮地がしばらく黙っていたあと、口を開いた。
宮地:
私はもう一つ気になることがあります。
西:
何でしょう。
宮地:
奈月にとって、「人間工場」という考えは社会分析であると同時に、安心でもあったのではないでしょうか。
上野が見る。
宮地:
全部を工場として説明できれば、
「なぜ母は私を理解しなかったのか」
「なぜ周囲は結婚を求めるのか」
「なぜみんな同じ方向へ行くのか」
答えが一つになる。
西:
ああ。
宮地:
工場だから。
それで全部説明できる。
星:
説明できると安心する。
宮地:
ええ。
でも一人ずつ見ると、もっと怖い。
この人は私を愛していたけど傷つけた。
この人は結婚したけど本当に幸せ。
この人は子どもを望まない。
この人は望む。
この人は社会に適応しているけど自由。
西:
ばらばら。
宮地:
ばらばらです。
そして、ばらばらな人間を一人ずつ見るほうが、世界は予測しにくくなる。
西がゆっくり言った。
西:
奈月が「工場」と呼ぶことで消したのは、複雑さなのかもしれない。
上野がうなずいた。
上野:
そうですね。
ただし、その複雑さを見なくて済むほど、奈月は傷ついていた。
だから責める話ではない。
星:
でも、もし次へ進むなら、一人ずつ見る必要がある。
宮地:
そしてそれは、また誰かを信じる可能性を持つことでもあります。
西は少し黙っていた。
そして言った。
西:
最初のTopicで、
「奈月を現実に戻したい私たちの現実は、本当に安全なのか」
って話しましたよね。
上野:
はい。
西:
今は逆に聞きたくなりました。
奈月の「工場」という世界は、本当に奈月を安全にしてくれるんでしょうか。
誰もすぐには答えなかった。
星が静かに言った。
星:
最初は守ってくれたのかもしれない。
でも、すべての人を部品に見始めたら。
少し間。
星:
自分も誰ともつながれなくなる。
宮地がうなずいた。
宮地:
人を単純化することは、傷から身を守るには役立つ場合があります。
でも、そのままでは新しい関係を作りにくい。
上野が続けた。
上野:
そして社会についても同じです。
「人間工場」は、見えない規範を可視化する鋭い比喩です。
しかし比喩を現実そのものにしてしまえば、そこから見えなくなるものもある。
西:
何が見えなくなる?
上野:
一人ひとりが、制度の中でも勝手に違う人生を生きていること。
西は少し笑った。
西:
工場なのに、部品が勝手すぎる。
上野:
人間ですから。
四人が笑った。
少しして、西が本を閉じた。
西:
じゃあ、「人間工場は存在するのか」に対して。
上野さんは?
上野:
工場のような構造は存在する。
でも人間は部品ではない。
宮地:
私は、その比喩が奈月を守ったことと、後に奈月の世界を狭くした可能性の両方を見たい。
星:
私は、社会から受け取ったものがあっても、そこから自分なりの人生を作り直せると思いたい。
西は少し考えた。
西:
私は。
奈月が「みんな工場の部品だ」って言ったとき。
昔なら、
「そんなことないよ」
って言いたかった。
でも今なら。
少し間を置く。
西:
「そう見えるくらい、あなたにはみんな同じ方向へ歩いているように見えたんだね」
って一回聞いて。
そのあと、
西:
「でも、本当に一人ずつ同じかな」
って一緒に見てみたい。
誰も反論しなかった。
少しして上野が静かに言った。
上野:
問題は、工場があることだけではないんです。
工場から外れた人を、人間として扱えるかどうか。
西が上野を見る。
上野:
そして、工場を嫌って出た人が、今度は別の人の自由まで壊し始めたとき。
そこでは「社会が悪い」だけでは答えられなくなる。
宮地の表情が少し変わった。
星も黙った。
西が小さく言った。
西:
次ですね。
上野:
ええ。
今度は、奈月自身の側も見なければならないと思います。
Topic 4 「傷つけられた人が誰かを傷つけたとき、どこまで理解すべきなのか?」

上野の言葉のあと、部屋が少し静かになった。
ここまでは、奈月を傷つけた側を見てきた。
家族。
学校。
社会。
規範。
けれど、ここからは奈月自身を見る。
西加奈子:
たぶん、ここが一番苦しいですね。
宮地尚子:
そうですね。
西:
奈月が傷つけられたことは、かなりはっきりしている。
でも後半まで読むと、
「だから全部仕方なかった」
では終われない。
上野千鶴子:
終われません。
星ひとみ:
でも、そこを強く言いすぎると今度は、
「ほら、やっぱり奈月がおかしかった」
に戻りそうで怖いです。
宮地:
そこを分ける必要があります。
奈月がなぜそうなったのかを理解すること。
そして、奈月がしたことを評価すること。
この二つは同じではありません。
西:
理解と正当化。
宮地:
はい。
ある行為の背景がわかる。
それは大切です。
でも、
「背景があるから許される」
とは限らない。
上野:
むしろ背景を理解したうえで責任を見るほうが、人間を単純化しなくて済む。
西:
被害者なら善。
加害者なら悪。
そういう分け方から離れる。
上野:
そうです。
人は、ある関係では弱い側にいて、別の関係では強い側になることがある。
家庭で支配されていた人が、別の場所では誰かを支配することもある。
星:
それ、つらいですね。
上野:
つらいですが、現実です。
宮地:
そして、傷ついた経験があるからこそ他人の痛みに敏感になる人もいれば、逆に自分を守るために他人の痛みを感じにくくなる人もいます。
一つの方向には決まりません。
西:
じゃあ「トラウマがある人はこうなる」みたいには言えない。
宮地:
言えません。
まして小説の登場人物に診断名を当てて、それで全部説明するのは避けたいです。
星:
私はそこ、すごく大事だと思います。
人を一つの傷だけで見ない。
でも同時に、
「傷ついているから何をしてもその人らしさ」
にもしたくない。
西:
そこですよね。
今は「自分らしく生きよう」という言葉もすごく強い。
上野:
しかし「自分らしさ」は免罪符ではありません。
星:
そう。
私は人には光と影の両方があると思っているんです。
自分の中に強いもの、偏り、傷、怖さがあったとして。
それを、
「これも私だから全部肯定して」
とは違う。
宮地:
自分を否定しないことと、自分の行動を問い直さないことも別ですね。
星:
そうです。
西:
でも、自分の影を認めるってかなり難しいですよね。
特にずっと被害者だった人は。
宮地:
難しいです。
「私は傷つけられた」
という事実をやっと認められたあとで、
「でも私は誰かを傷つけた」
まで見るのは、とても負荷が大きい。
上野:
それでも必要です。
そうしないと、
「私は被害者だから正しい」
という新しい絶対性が生まれる。
西:
奈月の「地球人は全部おかしい」に近い。
上野:
ええ。
世界を二つに分ける。
自分たち。
地球人。
被害者。
加害者。
自由な人。
工場の部品。
二項対立は非常に強い。
でも人間はもっと混ざっています。
星:
私は、奈月が悪い人になったとは思いたくないです。
上野:
「悪い人」というラベルを貼る必要はないでしょう。
星:
でも行為は見ないといけない。
宮地:
そうです。
人間を全部否定せず、行為は行為として見る。
西:
「あなたは悪人です」ではなく、
「これは人を傷つけた」。
宮地:
はい。
そのほうが、むしろ責任をはっきりできます。
少し沈黙。
西がゆっくり言った。
西:
私、第一部で由宇が言った、
「自分が傷つけられた痛みを、自分が誰かを傷つける許可証にしない」
っていう言葉が残ってるんです。
宮地:
いい言葉ですね。
西:
でも実際、それってどうすればできるんでしょう。
宮地:
まず、自分が何に反応しているかを少しずつ知ること。
すぐに全部は無理です。
でも、
「今、私は怖いから相手を敵に見ているのかもしれない」
「この人は本当に危険なのか」
「昔の相手と重ねていないか」
そうやって少しだけ間を作る。
星:
間を作る。
宮地:
はい。
反応と行動の間に。
上野:
個人の努力だけでは限界もあります。
周囲の人や制度が、壊れる前に支えられる仕組みも必要でしょう。
西:
ここでも社会に戻る。
上野:
当然です。
責任を個人だけに背負わせたら、
「あなたが自分の傷をちゃんと管理しなかったから」
という新しい自己責任論になります。
宮地:
そこは同意します。
本人の責任と、支える環境の責任は両方あります。
星:
じゃあ奈月の場合、
もっと早く安全な人が何人かいたら違ったかもしれない。
宮地:
可能性はあります。
でも「そうだったはず」とは言えません。
過去を一つの原因で説明しないことも大切です。
西:
私たち、答えを一つにしたがりますね。
上野:
人間工場の話と同じです。
複雑なものを単純にしたほうが安心する。
西が少し笑った。
西:
奈月のことを批判しながら、私たちも奈月と同じことしてる。
宮地:
そういうことはありますね。
四人が少し笑った。
そのあと星が静かに言った。
星:
でも、私は「影」っていう言葉を使うとき、影を消すとは思ってないんです。
西:
どういうことですか。
星:
影があること自体は悪じゃない。
怒り。
嫉妬。
恐怖。
執着。
そういうものは誰にでもある。
問題は、それに全部運転させること。
上野:
運転させる。
星:
はい。
「私は怒ってる」
ならいい。
でも、
「私は怒ってるから、あなたを傷つけていい」
になると違う。
宮地:
感情と行為を分けるということですね。
星:
そう。
感情まで否定すると、また自分を消すことになる。
でも行為には選び直す余地がある。
西:
それ、奈月にはかなり難しいですよね。
星:
難しいと思います。
でもだからこそ、
「あなたの痛みは本物」
と、
「この行為は止める」
を同時に言える人が必要なんじゃないかな。
宮地がうなずいた。
宮地:
非常に大事です。
どちらかだけだと危険です。
「あなたの痛みは本物」だけだと、行為の境界が消える。
「その行為はダメ」だけだと、本人はまた全部否定されたと感じることがある。
上野:
支援も教育も司法も、本当はこの二つを両立させる必要がある。
西:
難しい。
上野:
難しいから制度が必要なんです。
個人の善意だけでは持たない。
少し間。
西が本を開いた。
西:
じゃあ、被害者と加害者って同じ人の中に同時に存在できるんでしょうか。
宮地:
できます。
星:
そう思います。
上野:
普通にあります。
西は苦い顔で笑った。
西:
全員即答。
上野:
むしろ、完全に一方だけという人間のほうが珍しいでしょう。
もちろん被害の程度も加害の程度も全然違います。
そこを同列にはできません。
でも、人間は複数の関係の中で生きています。
宮地:
だからこそ、
「私は被害者だから加害者ではない」
とも、
「私は誰かを傷つけたから、私が受けた被害はなかったことになる」
とも考えなくていい。
西:
両方、本当。
宮地:
はい。
その両方を持つことができる。
星:
でも、そこに行くまでには時間がかかる。
宮地:
かかります。
場合によっては、一生かけて向き合うものもあります。
西:
許しは必要ですか。
誰に聞くともなく言った。
上野が先に答えた。
上野:
私は「許さなければ回復できない」という考えには反対です。
宮地:
私もです。
星:
私も、無理に許す必要はないと思います。
西:
全員一致しましたね。
上野:
珍しいですね。
少し笑いが起きた。
宮地:
許さないことと、ずっと相手に支配され続けることも同じではありません。
許さなくても、自分の人生を取り戻すことはできる。
星:
相手のために許すんじゃなくて、自分がどう生きたいか。
西:
じゃあ奈月が母を許さなくてもいい。
宮地:
もちろん。
上野:
母親が謝ったから許すべき、という義務はありません。
西:
でも奈月が誰かを傷つけたことについては?
上野:
そこは別です。
本人が傷ついていたとしても、傷つけられた側にはその人自身の痛みがあります。
奈月の事情で消すことはできません。
宮地:
ここはかなり大切ですね。
加害を受けた側から見れば、
「あなたにも事情があった」
と言われても、自分の痛みが小さくなるわけではない。
星:
誰かの物語の脇役にしない。
西:
ああ。
星:
奈月の物語を理解したくて、奈月が傷つけた人をただの象徴にしてしまったら。
またその人を消してしまう。
部屋が静かになった。
西が小さく言った。
西:
文学を読む側も気をつけないといけないですね。
主人公を理解したいあまり、主人公以外の痛みを忘れる。
上野:
非常にあります。
主人公に感情移入することと、主人公を免責することは違います。
宮地が言った。
宮地:
私は、奈月に対して一番大切なのは、
「あなたに起きたことを信じる」
と、
「あなたがしたことも見る」
を同時に保つことだと思います。
西:
どっちも消さない。
宮地:
はい。
星:
それってすごく愛情がいると思う。
西が見る。
星:
好きだから全部許すんじゃなくて。
好きだから、あなたの影も見る。
でも影だけであなたを決めない。
上野:
ただ、その「愛情」という言葉にも注意は必要ですね。
星が笑った。
星:
来ると思いました。
上野:
「愛しているからあなたを正す」
に戻る危険があります。
星:
そうですね。
じゃあ、愛情というより。
宮地:
関係を切らずに境界を保つ。
星:
それが近いです。
西が少し考える。
西:
「あなたを見捨てない。でも、これは止める」。
宮地:
そう。
上野:
かなり重要な姿勢です。
少し沈黙。
西が言った。
西:
最初に星さんが、
「奈月が悪い人になったとは思いたくない」
って言いましたよね。
今はどうですか。
星は少し考えた。
星:
やっぱり、悪い人って一言では言いたくないです。
でも。
少し間。
星:
「傷ついた人だから仕方ない」とも言いたくない。
奈月の中にある光を見たいなら、影も見ないと嘘になると思います。
宮地がうなずく。
宮地:
その言い方なら、かなり近いです。
西が上野を見る。
西:
上野さんは?
上野:
私は、人間を善悪一色にしない。
そのうえで、行為には責任がある。
そして、その行為が生まれた社会条件も見る。
個人だけでも社会だけでも説明しない。
西:
宮地さん。
宮地:
理解をやめない。
でも理解を免責に使わない。
西:
私は。
少し考えた。
西:
奈月を読んでいて、
「この子はこんなに傷ついたんだから」
って何度も思った。
それで後半に行くと、
自分が奈月の味方でいたい気持ちと、
「でもこれは違う」
っていう気持ちがぶつかる。
宮地が静かに言った。
宮地:
そのぶつかりを消さなくていいと思います。
西:
消さなくていい?
宮地:
はい。
むしろ、その不快さを持ったまま読む。
それがこの作品の大切な部分かもしれません。
上野:
簡単に「被害者だから」「異常だから」「社会が悪いから」と終わらせない。
星:
奈月一人に答えを押しつけない。
西は本を閉じた。
西:
じゃあTopic 4の答えは。
宮地:
どこまで理解すべきか、ではなく。
西:
では?
宮地:
理解できるところまで、理解し続ける。
でも、責任を消さない。
少し沈黙。
星が静かに続けた。
星:
そして、
「あなたの痛みは本物です」
と、
「他の人の痛みも本物です」
を同時に言う。
上野がうなずいた。
上野:
その二つを同時に認められない社会は危険です。
西はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
西:
でも、それでも一つ残ります。
三人が見る。
西:
奈月の痛みに意味はあったんでしょうか。
もし意味がないなら。
あんなに苦しんで、何が残るんだろう。
星の表情が変わった。
宮地も西を見る。
上野は黙っていた。
西が続ける。
西:
「なぜこんな人生だったのか」。
そこまで考えたくなるんですよね。
星は少し間を置いて言った。
星:
それは、たぶん次の話ですね。
Topic 5 「奈月は、何のためにこの世界に生まれてきたのか?」

西の言葉のあと、誰もすぐには話さなかった。
西加奈子:
奈月の痛みに意味はあったんでしょうか。
もし意味がないなら。
あんなに苦しんで、何が残るんだろう。
星ひとみが少し視線を落とした。
宮地尚子は、すぐには答えなかった。
上野千鶴子は腕を組んだまま、西を見ている。
しばらくして、星が静かに言った。
星ひとみ:
私は「あなたは苦しむために生まれてきた」っていう言い方はしたくないです。
西がうなずく。
星:
それは違うと思う。
宮地尚子:
私もそこは強く同意します。
星:
人には、生まれ持ったものがあると思っています。
その人だけの感じ方。
得意なこと。
弱いところ。
人と違う部分。
でも。
少し間を置く。
星:
「この苦しみも最初から必要だった」
とまで言ってしまうと、私は怖い。
西:
どうして?
星:
誰かに傷つけられたことまで、
「あなたの人生に必要な学びでした」
って変えてしまうでしょう。
宮地がすぐに入った。
宮地:
そこは非常に重要です。
傷ついた人自身が、
「あの経験から何かを得た」
と後から思うことはあります。
でも、外側の人が、
「意味があった」
と決めてはいけない。
上野千鶴子:
加害した側まで免責されますからね。
西:
「あれがあったから今のあなたがある」。
宮地:
そう。
その言葉が支えになる人もいます。
でも、別の人には、
「だから傷つけられてよかったでしょう」
と聞こえる。
星:
私は、そこを分けたいです。
西:
何と何を?
星:
生まれてきた意味と、
起きたことの意味。
部屋が静かになった。
西:
違う?
星:
私は違うと思っています。
その人がこの世界に生まれてきたことには、その人自身の可能性や役割があるかもしれない。
でも、その人に起きたひどいことまで、
「必要だった」
とは限らない。
宮地:
その区別なら、とても大切だと思います。
上野が少し考えてから言った。
上野:
ただ、「役割」という言葉にも注意したいですね。
星:
はい。
上野:
人間は何かの役に立つために存在しなければならない、という意味に聞こえることがある。
奈月はすでに、
「社会の役に立つ人」
「家庭を作る人」
「子どもを産む人」
という役割から逃げてきた。
そこへ今度は、
「あなたには魂の役割があります」
と言ったら。
西が小さく笑った。
西:
また別の人間工場。
上野:
そうです。
星も笑った。
星:
そこは本当にそうですね。
じゃあ、役割より。
少し考える。
星:
存在の持ち味。
宮地:
持ち味。
星:
その人にしかない感じ方。
その人にしか見えないもの。
それを社会のために使わなければいけない、という意味ではなく。
西:
「役に立たなくてもいい奈月」。
星:
そう。
それでも奈月には、奈月にしか見えない世界がある。
上野がうなずいた。
上野:
その言い方なら私は好きです。
西が少し考えた。
西:
じゃあ奈月の「地球人じゃない」という感覚も。
星:
全部を傷の症状として消さなくていいと思う。
あの人には、もともと世界を外側から見るような感覚があったのかもしれない。
宮地が少し慎重に言った。
宮地:
「もともと」というところは私たちには確認できません。
星:
そうですね。
断定はできない。
宮地:
でも、奈月の感覚のすべてを病理として扱わない、という点には賛成です。
西:
つまり。
奈月が社会を奇妙だと思うこと自体は、治す必要がない。
宮地:
そうです。
問題は、その世界観の中で本人や他人が安全に生きられるかどうか。
上野:
そして、社会の側にも変わる責任があります。
西が上野を見る。
西:
ここでまた社会に戻りますね。
上野:
戻ります。
だって、奈月のような人を見て、
「あなたが社会に適応できないのが問題」
だけで終わったら、社会は永遠に変わらない。
星:
人を同じ形にしようとする。
上野:
そう。
では逆に聞きたい。
奈月が適応できないほど、社会のほうが狭すぎた可能性はないのか。
西は少し身を乗り出した。
西:
でも奈月の全部に合わせられる社会って作れるんでしょうか。
上野:
全部に合わせる必要はありません。
誰かが他人を傷つけるところまで受け入れる必要はない。
前のTopicで話した通りです。
でも、
結婚しない。
子どもを持たない。
一般的な夫婦関係を望まない。
独特なものの見方を持つ。
そういう違いまで矯正する必要はないでしょう。
宮地:
安全に関係できる範囲で、違いを残す。
上野:
ええ。
星が言った。
星:
そうすると、奈月に必要だったのは、
「地球人になること」
ではなかったのかもしれないですね。
西が見る。
星:
この地球で、自分のままでもいられる場所。
宮地がうなずいた。
宮地:
第一部の最後とつながりますね。
西:
「地球人にならなくても、ここにいていいのかな」。
少し沈黙。
西がゆっくり続けた。
西:
あれって、奈月の質問みたいに見えるけど。
本当は私たちへの質問なのかもしれませんね。
上野:
私はそう思います。
西:
「私はここにいていい?」
じゃなくて。
西は少し考える。
西:
「あなたたちの社会は、私みたいな人がここにいられるようになっていますか?」
上野がすぐにうなずいた。
上野:
その問いのほうが重要です。
個人に「適応してください」と言い続ける社会は楽です。
制度を変えなくて済むから。
宮地:
ただ、個人への支援も必要です。
上野:
もちろん。
私は「社会だけ変えれば全部解決」とは言っていません。
宮地:
奈月のように深く傷ついた人には、安全な人間関係や専門的な支えも必要になることがあります。
社会構造の問題だけで、その苦しみを消してはいけない。
星:
ここでも両方。
宮地:
そうです。
社会も。
個人も。
西が少し笑う。
西:
この対話、ずっと「どっちかじゃない」で進みますね。
上野:
現実がそうですから。
四人が少し笑った。
そのあと星が静かに言った。
星:
私は一つ、奈月に聞いてみたいことがあります。
西:
何です?
星:
「何のために生まれてきたの?」
ではなくて。
少し間。
星:
「これから、何を生きてみたい?」
宮地の表情が少し柔らかくなった。
宮地:
かなり違いますね。
星:
過去に意味をつけるより。
これから何を選ぶか。
上野:
未来へ質問を移す。
星:
はい。
奈月の人生を、
「あなたの苦しみにはこういう意味がありました」
って完成させたくない。
西:
まだ途中。
星:
そう。
生きているなら、途中です。
宮地がゆっくり言った。
宮地:
それはトラウマの回復を考えるうえでも大切な視点です。
過去を書き換えることはできない。
でも、
「過去に傷ついた人」
だけが自分の全体ではなくなる可能性はある。
西:
奈月は、ずっと「傷ついた子ども」でいなくてもいい。
宮地:
そうです。
傷ついたことは消さない。
でも、それ以外の人生を増やしていく。
星:
増やす。
宮地:
人。
場所。
好きなこと。
経験。
安全だった時間。
自分で決めたこと。
過去の傷だけが人生全体を占めないように。
上野が言った。
上野:
そのためにも、社会が一つの人生モデルしか認めないのでは困りますね。
西:
奈月が新しい人生を作ろうとしても、
また「結婚」「仕事」「子ども」に戻されたら。
上野:
そう。
回復さえ「普通になること」と同義にされてしまう。
宮地:
それは避けたいです。
回復は、
社会多数派と同じ人間になることではありません。
星:
自分で生きられる幅が増えること。
宮地がうなずいた。
宮地:
その表現は近いと思います。
西が少し黙ってから言った。
西:
でも、私にはまだ一つ怖いことがあります。
上野:
何でしょう。
西:
奈月のような人を受け入れる社会を作ろうっていうと。
私たち、また奈月を何かの象徴にしてませんか。
「社会を変えるために必要な人」
みたいに。
上野が一瞬黙った。
上野:
それは気をつけなければいけませんね。
西:
奈月は、私たちを教育するために生まれたわけじゃない。
宮地:
その通りです。
星:
だから「何のために生まれてきたか」を外から決めないほうがいい。
西:
あ。
星を見る。
星:
奈月の存在を、
社会批判のため。
家族を学ばせるため。
誰かを成長させるため。
そうやって意味づけしたら。
また奈月を誰かのために使ってしまう。
西が静かにうなずいた。
上野:
非常に重要です。
存在に社会的有用性を要求しない。
宮地:
「生き延びたから、何か意味あることをしなければならない」
という義務もない。
西:
ただ生きててもいい。
宮地:
はい。
星が少し笑った。
星:
私は、それが一番大事かもしれないと思います。
「何のために生まれたの?」
って聞くと、立派な答えを探してしまうでしょう。
使命。
成功。
誰かを救う。
でも。
少し間。
星:
生きること自体に、理由を提出しなくてもいい人もいる。
部屋が静かになった。
西が小さく言う。
西:
奈月には、それを一番言ってあげたかったかもしれない。
上野:
「役に立たなくてもいい」。
宮地:
「普通にならなくてもいい」。
星:
「でも、自分も他人も壊さずに、生きていく方法は探していこう」。
西が三人を見る。
西:
これ、かなり大事ですね。
ただ、
「あなたはそのままでいい」
では終わらない。
宮地:
そうです。
そのままでいい部分もある。
変えたほうが生きやすい部分もある。
止めなければならない行為もある。
全部違う。
上野:
そして、何を変えるべきかを社会側も問われる。
少し沈黙。
西が本の表紙に手を置いた。
西:
最初に私は、
「奈月の痛みに意味はあったのか」
って聞きました。
今は、少し違う質問になりました。
三人が見る。
西:
奈月が苦しんだことに、私たちが意味をつける必要はない。
でも。
西:
その苦しみを知った私たちは、何を変えるのか。
上野がゆっくりうなずいた。
上野:
それなら社会への問いになりますね。
宮地:
そして、奈月本人には人生を返せる。
星:
意味を決める権利も。
西が少し考える。
西:
奈月が、
「私の人生には意味なんてない」
って言ったとしても?
星はすぐには答えなかった。
星:
それでもいいと思う。
西:
いい?
星:
今そう思っているなら。
誰かが横から、
「いいえ、あなたには素晴らしい使命があります」
って上書きしなくていい。
宮地がうなずく。
宮地:
同意します。
意味は、必要になったときに本人が作るものでもいい。
作らなくてもいい。
上野:
人間は「意味ある存在」でなければ存在できないわけではありません。
西は小さく笑った。
西:
なんだか、すごく自由ですね。
上野:
自由というより、当然の権利でしょう。
また少し沈黙。
窓の外は明るくなり始めていた。
西が言った。
西:
じゃあ最後に。
もし奈月がここにいて。
「私は何のために生まれてきたの?」
って私たち四人に聞いたら。
何て答えます?
宮地が最初に言った。
宮地:
「私には決められない。でも、あなたが生き延びるために必要だったものを一緒に考えることはできる。」
上野が続けた。
上野:
「あなたが社会の期待を満たすために生まれてきたわけではない。」
星は少し考えた。
星:
「答えを急がなくていい。これから何を生きたいかは、まだ変えていける。」
西はしばらく黙っていた。
そして言った。
西:
私は。
「何のためかわからなくても、いていいと思う」
って言いたいです。
誰も言葉を足さなかった。
しばらくして上野が静かに口を開いた。
上野:
でも、その言葉を言うだけでは足りませんね。
西が見る。
上野:
本当に「いていい」社会になっているか。
それを私たちの側が問われる。
宮地がうなずく。
星も窓の外を見る。
西は本を閉じた。
西:
第一部で奈月は、
「地球人にならなくても、ここにいていいのかな」
って聞いた。
少し間。
西:
でも第二部の最後では。
もう奈月に答えさせなくていい気がします。
宮地:
では誰が答える?
西は静かに言った。
西:
地球の側です。
四人の間に、長い沈黙が落ちた。
最後に

この対話で最後まで残ったのは、
「奈月は何のために生まれてきたのか」
という問いでした。
けれど話していくうちに、その問いそのものが変わっていきました。
奈月が受けた苦しみに、外側から意味を与える必要はない。
「あの経験があったから成長できた」
「その苦しみには使命があった」
そう説明することで、本人が受けた痛みを別の物語へ変えてしまうこともあります。
奈月自身がいつか意味を見つけるかもしれない。
見つけないかもしれない。
それも奈月自身に残されるべきなのでしょう。
同時に、この対話では奈月を全面的に肯定することもしませんでした。
傷つけられたことは、誰かを傷つける許可にはならない。
奈月の痛みが本物であることと、奈月によって傷つけられた人の痛みが本物であることは、同時に成立します。
そして「人間工場」という奈月の社会観にも、同じ二面性があります。
社会には確かに、結婚、仕事、性、出産、家族について「普通」を作り出す力があります。
しかし、その中で結婚を心から望む人もいる。
子どもを愛し、家庭を作ることに幸福を感じる人もいる。
社会の構造を見ることと、その中で生きる一人ひとりを部品として見ることは違います。
だから『地球星人』が私たちに要求しているのは、奈月を地球人へ戻すことでも、奈月と一緒に地球を拒絶することでもないのかもしれません。
もっと難しいことです。
違うまま、共に生きられる場所を作ること。
第一部の最後で奈月は問いかけました。
「地球人にならなくても、ここにいていいのかな。」
第二部では、その質問の向きが変わりました。
もう奈月だけに答えを求める必要はありません。
今度は私たちが問われています。
奈月のような人に「ここにいていい」と言えるだけではなく、本当にここにいられる社会を作れているでしょうか。
もし答えが「まだ」であるなら。
変わることを求められているのは、奈月だけではありません。
地球の側なのかもしれません。
Short Bios:
西加奈子
日本の小説家。『サラバ!』などで知られ、人間の身体、家族、アイデンティティ、孤独、生きることを独自の感性で描いてきました。村田沙耶香と『地球星人』について実際に対談しており、本作によって自分自身が持っていた「普通」への思い込みまで問い直されたことを語っています。
宮地尚子
精神科医・医学研究者。トラウマ、暴力、ジェンダーなどを長年研究し、傷ついた人を単純な被害者像へ閉じ込めない視点を提示してきました。今回の架空の対話では、奈月を診断するのではなく、「なぜその世界が彼女に必要だったのか」を考える役割を担っています。
星ひとみ
天星術で知られる占術家。生年月日などをもとに、人が持って生まれた性質や「光と影」、人生の流れを読み解く活動で知られています。今回の対話では占いによって奈月を判断するのではなく、「人のすべてを傷の結果として説明してよいのか」「生まれ持った違いをどう受け止めるのか」という精神的・存在論的な視点を担っています。
上野千鶴子
社会学者。ジェンダー、家族、女性、ケア、社会制度などを研究してきました。今回の架空の対話では、奈月個人だけを見るのではなく、結婚、家族、生殖、仕事などを「普通の人生」として提示する社会の側にも問いを向けています。

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