はじめに
「普通になれば、幸せになれる。」
家族はそう思うかもしれません。
学校も、社会も、悪意なくそう教えるかもしれません。
しかし、その「普通」の中に居場所を見つけられない子どもは、どこへ行けばいいのでしょうか。
村田沙耶香『地球星人』の奈月は、自分を地球人ではないと考えます。
彼女にとって宇宙人という考えは、単なる奇妙な空想ではありませんでした。
理解されない家庭。
安心できない場所。
大人から受けた深い傷。
自分の身体さえ自分のものではないように感じる経験。
そんな世界で奈月は、自分自身に別の説明を与えます。
「私がおかしいのではない。私は地球人ではないのだ。」
今回の架空の対話では、奈月、由宇、智臣、そして奈月の母が、かつて奈月と由宇が「何があっても生き延びる」と誓った山の家に集まりました。
そこで彼らが語ったのは、宇宙人についてだけではありません。
家族とは何か。
社会に適応するとは何か。
結婚や仕事や出産を「普通」と呼ぶのは誰なのか。
社会のルールを疑うことと、すべてのルールを壊すことは同じなのか。
そして何より、
世界を信じられなくなった人間は、それでもこの世界に居場所を作れるのか。
という問いでした。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1 「私は地球人じゃない」

夜の山は、街よりずっと暗かった。
窓の外には、ほとんど何も見えない。
遠くで虫の声が続き、ときどき風が木々を揺らしている。
奈月は窓のそばに座っていた。
由宇は少し離れた壁にもたれている。
智臣は畳の上に座り、母は湯のみを両手で持ったまま、奈月を見ていた。
長い沈黙のあと、母が口を開いた。
母:
奈月。
奈月:
何。
母:
あなた、本当に自分が宇宙人だと思ってたの?
奈月は窓の外を見たままだった。
母:
小さいころから、ずっと言ってたでしょう。
別の星から来たとか。
魔法が使えるとか。
ピュートがどうとか。
奈月:
うん。
母:
本気だったの?
奈月は少しだけ振り返った。
奈月:
お母さんは、私が地球人になりたかったと思ってる?
母の表情が止まった。
母:
何それ。
奈月:
聞いただけ。
母:
普通、自分が地球人かどうかなんて考えないでしょう。
智臣が小さく笑った。
母が彼を見る。
智臣:
いや。
すみません。
ただ、今の「普通」って言葉、すごく地球人らしいなと思って。
母:
茶化さないでください。
智臣:
茶化してません。
本当に。
奈月は智臣を見た。
智臣:
俺も聞かれたことないですよ。
「地球人になりたいですか」って。
最初から地球人として扱われるから。
母:
当たり前でしょう。
智臣:
その当たり前が嫌だった人の話をしてるんじゃないですか。
母は答えず、奈月を見る。
母:
あなたは、何がそんなに嫌だったの。
奈月は少し考えた。
奈月:
全部。
母:
全部じゃわからない。
奈月:
じゃあ、何から言えばいい?
母:
家?
奈月:
家も。
母:
学校?
奈月:
学校も。
母:
人?
奈月:
人も。
母は少し苛立ったように息を吐いた。
母:
そうやって何でも嫌だったみたいに言うけど、あなたにも楽しいことはあったでしょう。
奈月:
あったよ。
母:
でしょう?
奈月:
由宇といるとき。
母が黙った。
由宇は目を伏せた。
奈月:
ピュートといるとき。
山に来たとき。
星を見てたとき。
あとは、魔法を使えると思ってたとき。
母:
それは空想でしょう。
奈月は母を見る。
奈月:
空想だったら、意味がないの?
母:
そういう意味じゃない。
奈月:
じゃあどういう意味?
母:
現実じゃないってこと。
奈月は少し笑った。
奈月:
現実のほうが安全だったら、私も現実にいたと思う。
母の指が湯のみの縁で止まった。
由宇が顔を上げる。
智臣は何も言わない。
母:
安全じゃなかったって、どういう意味。
奈月はすぐには答えなかった。
奈月:
お母さん、本当にわからないの?
母:
何が。
奈月:
私がどういう子どもだったか。
母:
変わった子だった。
奈月:
それだけ?
母:
扱いにくかった。
言うことを聞かないし、何を考えてるのかわからないし。
奈月:
怖がってたとは思わなかった?
母の顔が少し変わった。
母:
何を?
奈月:
家の中を。
学校を。
大人を。
母は答えなかった。
奈月:
自分の身体も。
由宇が静かに奈月を見る。
母の顔から色が少し引いた。
母:
……その話をするの?
奈月:
したくない?
母:
そういう意味じゃない。
奈月:
私は子どものころ、もっとしたくなかったよ。
また沈黙。
風が障子をわずかに揺らした。
由宇:
奈月。
奈月:
何。
由宇:
無理しなくていい。
奈月は由宇を見る。
奈月:
昔もそう言ってくれたね。
由宇は返事をしなかった。
奈月:
由宇だけだった。
母:
そんなことないでしょう。
奈月:
じゃあ誰?
母が口を開く。
奈月は待った。
母は何も言わなかった。
奈月:
私が「宇宙人かもしれない」って言ったとき、お母さんは笑ったよね。
母:
子どもの話だから。
奈月:
「そうなんだ」って一回でも言った?
母:
奈月。
奈月:
「どうしてそう思うの」って聞いた?
母は目をそらした。
奈月:
聞かなかった。
母:
そんな昔のこと、全部覚えてるわけじゃないでしょう。
奈月:
私は覚えてる。
母:
あなたは昔から、嫌だったことばかり覚えてる。
由宇が少し身体を起こした。
由宇:
それ、違うと思う。
母が由宇を見る。
母:
あなたまで。
由宇:
奈月は楽しかったことも覚えてます。
俺も覚えてる。
二人で山を歩いたこととか。
星を見たこととか。
くだらない話を何時間もしたこととか。
母:
じゃあ。
由宇:
だから、嫌だったことばかり覚えてるわけじゃない。
母は黙った。
由宇は奈月を見る。
由宇:
俺、奈月が自分を宇宙人だって言ったとき、別に変だと思わなかった。
智臣:
どうして?
由宇:
俺も地球が嫌だったから。
奈月の目が少し動いた。
由宇:
家にいると、自分だけ違う生き物みたいだった。
みんなが普通にわかってることが、俺にはよくわからない。
大人が怒る理由とか。
何を言えば正解なのかとか。
何をしたら愛されるのかとか。
奈月:
だから私たち、同じだった。
由宇:
うん。
母:
子どもなら、みんな少しくらいそういうことあるでしょう。
智臣が母を見る。
智臣:
それ、本当に同じですかね。
母:
何が。
智臣:
「みんな子どものころ寂しいことはある」と、
「この子は現実より宇宙人であるほうが安全だと思った」
って、同じなんですか。
母は黙った。
奈月:
ピュートは私を怒らなかった。
母:
ぬいぐるみなんだから当たり前でしょう。
奈月:
そう。
だから安心だった。
母は奈月を見た。
奈月:
何を言っても、
変な顔しない。
「そんなのおかしい」って言わない。
誰かと比べない。
「どうしてお姉ちゃんみたいにできないの」って言わない。
母:
私はそんなに言ってない。
奈月は母を見た。
母:
……言ったことはあるかもしれないけど。
奈月:
ある。
母:
親なら、多少は比べることもあるでしょう。
奈月:
親なら?
母:
子どもにちゃんとしてほしいと思うから。
奈月:
私はちゃんとしてなかった?
母:
そういう言い方じゃなくて。
奈月:
じゃあ何が足りなかった?
母は答えようとして、止まった。
奈月:
私、ずっと考えてた。
何をしたら、お母さんは私を普通の子として扱うんだろうって。
母の表情が硬くなる。
奈月:
でもわからなかった。
だから、途中から考えるのやめた。
智臣:
それで宇宙人になった。
奈月は智臣を見る。
奈月:
うん。
智臣:
逃げたかった?
奈月は少し考える。
奈月:
逃げるっていうより。
別の説明が欲しかった。
智臣:
説明?
奈月:
私が間違ってるんじゃない説明。
少し間があった。
奈月:
学校でみんながわかることを、私だけわからない。
家でも何かすると怒られる。
何をしても間違う。
身体も自分のものじゃない感じがする。
そういうとき、
「私はダメな地球人です」
って思うより。
奈月:
「私は地球人じゃないから、地球のルールがわからない」
って思うほうが、生きやすかった。
由宇が静かにうなずいた。
母:
そんなふうに考えてたなんて、知らなかった。
奈月の顔が少し変わった。
奈月:
知らなかった?
母:
知らなかった。
奈月:
じゃあ、見てた?
母が黙る。
奈月:
私のこと。
母:
見てたわよ。
奈月:
どこを?
母:
何それ。
奈月:
成績?
態度?
お姉ちゃんと比べてどうか?
人に迷惑をかけてないか?
母の手が少し震えた。
奈月:
それじゃなくて。
私が怖がってるかどうか。
私が何を信じたら生きられるか。
そこ、見た?
母は答えなかった。
奈月もそれ以上追わなかった。
長い沈黙が続いた。
やがて母が小さく言った。
母:
子どもがそんなこと考えてるなんて、普通は思わない。
奈月は笑わなかった。
奈月:
また普通。
母が目を伏せた。
智臣が静かに言う。
智臣:
たぶん、その「普通」が見えなくしたんじゃないですか。
母:
何を。
智臣:
奈月さんを。
母は何も言わなかった。
智臣:
普通の子なら大丈夫。
普通の家庭なら大丈夫。
普通の学校なら大丈夫。
そう思ってると、そこから外れる苦しさが見えにくくなる。
母:
じゃあ私は何をすればよかったの。
少し強い声だった。
母:
子どもが宇宙人だって言ったら、一緒に信じればよかった?
魔法が使えるって言ったら、本当だねって言えばよかった?
奈月が母を見る。
奈月:
信じなくていい。
母が止まる。
奈月:
宇宙人が本当にいるって思わなくていい。
魔法が本当にあるって思わなくていい。
母:
じゃあ。
奈月:
どうしてそんな話が必要なのか、聞いてほしかった。
母の目が少し潤んだ。
奈月:
「それがあると楽になるの?」
って。
奈月:
「何がそんなに怖いの?」
って。
奈月:
一回でいいから。
由宇は俯いたままだった。
智臣も黙っている。
母は何か言おうとした。
声が出なかった。
しばらくして、
母:
ごめん。
とだけ言った。
奈月はすぐに返事をしなかった。
奈月:
今の私に謝ってる?
母が顔を上げる。
母:
どういう意味。
奈月:
それとも、あのころの私に?
母は答えられなかった。
奈月は窓の外を見た。
奈月:
あのころの私は、まだここにいるよ。
由宇が奈月を見る。
奈月:
だから宇宙人の話も、まだ終わってない。
母:
今でも自分を宇宙人だと思ってるの?
奈月は少し考えた。
奈月:
わからない。
母:
わからない?
奈月:
昔は、宇宙人じゃないと生きられない気がしてた。
今は。
言葉が止まる。
由宇:
今は?
奈月は由宇を見る。
奈月:
地球人でも宇宙人でも、どっちでもいい場所があればよかったのかもしれない。
誰もすぐには話さなかった。
外で風が強くなった。
木の枝が擦れる音がした。
由宇が静かに言った。
由宇:
俺たち、昔そういう場所を作ろうとしてたんだと思う。
奈月:
二人で?
由宇:
うん。
奈月:
あれは場所だったのかな。
由宇:
少なくとも俺には、そうだった。
奈月は由宇を見つめた。
奈月:
私にも。
少し間。
奈月:
だから、なくなったとき怖かった。
由宇の表情が変わった。
母は二人を見ている。
智臣が小さく聞いた。
智臣:
なくなった?
奈月は由宇から目を離さない。
奈月:
由宇が地球人になったから。
由宇がわずかに息を止めた。
さっきまでとは違う沈黙が部屋に落ちた。
奈月は静かに続けた。
奈月:
私は宇宙人になったんじゃない。
少し間を置く。
奈月:
地球人じゃなくても生きていい場所が欲しかっただけ。
由宇は何も答えなかった。
けれど、その顔には、次に言わなければならない言葉があることだけは見えていた。
Topic 2 「由宇、どうして地球人になったの?」

部屋の空気は、少し変わっていた。
奈月の最後の言葉が、まだ畳の上に残っているようだった。
奈月:
私は宇宙人になったんじゃない。
地球人じゃなくても生きていい場所が欲しかっただけ。
由宇は長い間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくり顔を上げた。
由宇:
奈月。
奈月:
何。
由宇:
俺、地球人になったつもりないよ。
奈月の目が少し動いた。
奈月:
でも、なった。
由宇:
そう見えただけだよ。
奈月:
違う。
由宇:
何が違う?
奈月:
昔は、地球がおかしいって言ってた。
由宇:
言ってた。
奈月:
大人は変だって。
家族も変だって。
由宇:
言ってた。
奈月:
それなのに、大人になったら、仕事して。
人に合わせて。
普通の言葉を使って。
普通みたいな顔して。
由宇:
それで地球人?
奈月:
少なくとも、私にはそう見えた。
由宇は少し笑った。
苦い笑いだった。
由宇:
じゃあ聞くけど。
俺はどうすればよかったの。
奈月は黙った。
由宇:
ずっと子どものころのままでいればよかった?
奈月:
そういう意味じゃない。
由宇:
でも、少しそう思ってたでしょう。
奈月は返事をしなかった。
由宇:
奈月は、俺が昔のままでいてくれたら安心だったんだと思う。
奈月:
悪い?
由宇:
悪いとは言ってない。
ただ。
少し間を置いた。
由宇:
俺だって生きなきゃいけなかった。
母が由宇を見る。
智臣も黙って聞いている。
奈月:
私も生きてた。
由宇:
知ってる。
奈月:
じゃあ。
由宇:
でも、俺たちは同じ生き方をしないといけなかったの?
奈月の表情が少し硬くなる。
奈月:
約束した。
由宇:
覚えてる。
奈月:
何があっても生き延びるって。
由宇:
覚えてるよ。
奈月:
じゃあ、どうして。
由宇は少し身を乗り出した。
由宇:
奈月。
俺は約束を忘れたんじゃない。
生き延び方が変わったんだ。
奈月は何も言わなかった。
風が窓を少し揺らした。
智臣:
それ、どういう意味?
由宇は智臣を見る。
由宇:
子どものころは、本当に地球から逃げたいと思ってた。
ここにいる人たちも。
家族も。
学校も。
全部怖かった。
奈月と話してるときだけ、自分がおかしくないと思えた。
奈月:
だったら。
由宇:
でも、大人になったら。
由宇は言葉を探した。
由宇:
地球から逃げる場所なんて、本当にないんだってわかってきた。
奈月:
だから負けた。
由宇:
負けたんじゃない。
奈月:
同じでしょ。
由宇:
違うよ。
奈月:
何が。
由宇:
俺は、地球の全部を信じたわけじゃない。
仕事が素晴らしいとも思ってない。
結婚したら幸せとも思ってない。
普通の人間になれたとも思ってない。
奈月:
でも合わせた。
由宇:
合わせたよ。
奈月:
どうして。
由宇:
合わせないと、生きる場所がなくなることもあるから。
奈月がすぐに答える。
奈月:
私は合わせなかった。
由宇:
知ってる。
奈月:
生きてる。
由宇:
うん。
奈月:
じゃあできる。
由宇は少し黙った。
由宇:
奈月は、それでどれだけ傷ついた?
奈月の顔が止まる。
由宇は続ける。
由宇:
どれだけ孤立した?
どれだけ人を信用できなくなった?
どれだけ地球を敵だと思わないと生きられなくなった?
奈月:
それは地球が悪かったから。
由宇:
うん。
悪かったことはある。
たくさん。
奈月:
じゃあ。
由宇:
でも。
由宇は奈月を見る。
由宇:
全部を敵にすると、最後には誰も残らない。
奈月は目をそらした。
母が小さく息を吐いた。
母:
由宇くんの言ってることはわかる。
奈月が母を見る。
奈月:
お母さんには言われたくない。
母は黙った。
由宇がすぐに言う。
由宇:
奈月。
おばさんの話じゃない。
俺の話。
奈月は由宇を見る。
由宇:
俺も昔、誰も信じたくなかった。
でも、ずっとそうやって生きるのは無理だった。
奈月:
どうして。
由宇:
疲れるから。
奈月は少し驚いた顔をした。
由宇:
ずっと警戒してる。
誰かが何か言うたび、
「こいつも地球人だ」
って思う。
仕事でも。
店でも。
電車でも。
家でも。
奈月:
それの何が悪い?
由宇:
悪いんじゃない。
しんどかった。
奈月は黙る。
由宇:
ある日、会社で一人の人に言われた。
「由宇って、何でも一人でやろうとするよね」って。
最初、腹が立った。
智臣:
どうして?
由宇:
「人に頼ったら負け」みたいに思ってたから。
でも、その人が別の日に、何も聞かずに仕事を手伝ってくれた。
ただそれだけ。
奈月:
それで地球人を信じた?
由宇:
全部じゃない。
その人一人。
奈月は黙った。
由宇:
そのあと、また一人。
また一人。
全部じゃなくていいんだと思った。
奈月:
何が。
由宇:
地球全部を信じなくても、一人ずつなら見てもいい。
その人が本当に敵かどうか。
母が由宇を見た。
母:
それは、普通のことじゃない?
由宇は少し笑った。
由宇:
俺には普通じゃなかったんです。
母は黙った。
奈月:
じゃあ私も、一人ずつ見ればよかったって言いたいの。
由宇:
言いたいんじゃない。
できなかった理由もわかる。
奈月の目が少し動く。
由宇:
奈月は、子どものころから何度も裏切られた。
それなら、全部同じに見えるようになる。
俺もそうだった。
奈月:
でも変わった。
由宇:
うん。
奈月:
私は変われなかった。
由宇:
違う。
由宇は少し強く言った。
由宇:
変わらなかったんじゃなくて、変わる必要がないくらい安全な場所がなかったんじゃないか。
部屋が静かになった。
奈月は由宇を見つめている。
智臣も少し顔を上げた。
奈月:
安全だったら、地球人になれた?
由宇:
そこじゃない。
奈月:
じゃあ何。
由宇:
安全だったら。
少し間を置く。
由宇:
地球人にならなくても、地球にいていいと思えたかもしれない。
奈月は答えなかった。
しばらくして、智臣が口を開く。
智臣:
俺は少し由宇さんと違う。
由宇が見る。
智臣:
俺は、合わせるのは今でも嫌い。
結婚も、普通の夫婦も、家族っていう形も。
だから奈月さんと結婚した。
母:
それもどうかと思うけど。
智臣:
そう思うでしょうね。
母は言葉に詰まった。
智臣:
でも俺は、制度を嫌いながら制度を使った。
結婚したくなかったけど、結婚したら周りが黙るから。
奈月:
偽装。
智臣:
そう。
由宇:
それも適応じゃない?
智臣は少し考えた。
智臣:
たぶん。
奈月:
じゃあ智臣も地球人。
智臣:
そうかもしれない。
奈月が驚いたように見る。
智臣:
でも、それでいいと思ってる。
奈月:
どうして。
智臣:
全部一致してなくていいから。
社会が用意した形を、自分のために使う。
それで少し楽になるなら。
由宇がうなずく。
由宇:
俺もそれに近い。
奈月は二人を見る。
奈月:
じゃあ私は何だったの。
由宇の表情が変わる。
奈月:
私は、ずっと本気で逃げてた。
地球から。
工場から。
普通から。
二人は、途中から使えばいいって思った。
智臣:
奈月さん。
奈月:
私は馬鹿だった?
由宇:
違う。
奈月:
じゃあ何。
由宇はすぐには答えなかった。
由宇:
奈月は、最初から本気だった。
奈月:
何が違うの。
由宇:
俺は途中で、
地球を全部拒絶するより、
地球の中で少しでも自分が生きられる場所を探すほうに変わった。
奈月は、それを裏切りだと思った。
奈月:
思った。
由宇:
今も?
奈月は長く黙った。
奈月:
少し。
由宇はうなずいた。
由宇:
いいよ。
奈月:
いいの?
由宇:
そう思われても仕方ない。
俺、本当に何も説明しなかったから。
奈月:
どうして。
由宇:
怖かった。
奈月:
何が。
由宇:
奈月に、
「お前も地球人になった」
って言われるのが。
奈月は由宇を見る。
由宇:
言われたら、たぶん俺自身もそう思ってしまう気がした。
奈月の顔が少し緩む。
由宇:
俺も、ずっと自信なかった。
合わせて生きることが、本当に生き延びることなのか。
ただ諦めただけなのか。
奈月:
今はわかる?
由宇:
わからない。
奈月は少し驚いた。
由宇:
でも、前よりは生きやすい。
それだけ。
奈月:
それでいいの。
由宇:
たぶん。
「正しい生き方」より、
「明日も生きられる生き方」のほうが俺には大事だった。
奈月は視線を落とした。
奈月:
私たち、何があっても生き延びるって言ったよね。
由宇:
うん。
奈月:
私は、同じ方法で生き延びるって意味だと思ってた。
由宇:
俺は、今になって違うと思う。
奈月:
どう違う?
由宇:
生き延びるって。
一緒の場所にいることじゃなかったんじゃないかな。
奈月は黙る。
由宇:
離れても。
考え方が変わっても。
相手が自分と違う人になっても。
それでも生きてること。
それが約束だったんじゃないかって。
奈月は窓の外を見る。
暗い山。
昔と同じように見える。
でも同じではない。
奈月:
子どものころの由宇は、もういない?
由宇は少し笑った。
由宇:
いるよ。
奈月:
どこに。
由宇:
今の俺の中に。
奈月は少し考えた。
奈月:
でも、同じじゃない。
由宇:
同じじゃない。
奈月:
それでも由宇?
由宇:
それでも俺。
少し沈黙。
由宇が静かに続けた。
由宇:
奈月もそうじゃない?
奈月が見る。
由宇:
昔の奈月もいる。
今の奈月もいる。
どっちかだけが本物じゃない。
奈月は返事をしなかった。
母が、初めて少し小さな声で聞いた。
母:
人って、そんなに変わっていいの?
由宇が母を見る。
由宇:
変わらないと生きられないこともあると思います。
母は何も言わなかった。
奈月が由宇を見る。
奈月:
じゃあ。
由宇が待つ。
奈月:
私は、由宇に置いていかれたんじゃなくて。
少し間を置く。
奈月:
由宇が別の道で生き延びてたってこと?
由宇はゆっくりうなずいた。
由宇:
俺はそう思ってる。
奈月は長く黙っていた。
それから、小さく言った。
奈月:
まだ、完全には許せない。
由宇は笑った。
由宇:
うん。
奈月:
でも。
奈月は昔二人で星を見ていた窓の外へ目を戻した。
奈月:
裏切っただけじゃなかったのかもしれない。
由宇は何も言わなかった。
その沈黙は、昔二人が共有していた沈黙とは違っていた。
でも、完全に知らない人同士の沈黙でもなかった。
Topic 3 「この世界は本当に人間工場なの?」

部屋の外は、まだ暗かった。
夜が少しだけ薄くなっている。
奈月は窓のそばに座ったまま、さっきの由宇の言葉を考えていた。
別の道で生き延びる。
それは、奈月にはまだ少し都合のいい言葉にも聞こえた。
智臣が湯のみを置いた。
智臣:
俺、奈月さんが言ってた「工場」って考え方、最初から全部おかしいとは思ってない。
母がすぐに顔を上げた。
母:
全部おかしいでしょう。
智臣:
全部ですか?
母:
人間を工場の部品みたいに見るなんて。
奈月:
でも、お母さんは私に結婚してほしかった。
母の顔が少し硬くなる。
母:
それは普通でしょう。
奈月が少し笑った。
奈月:
また。
母は黙った。
由宇:
おばさん、どうして結婚してほしかったんですか。
母:
どうしてって。
幸せになってほしかったから。
奈月:
結婚したら幸せ?
母:
必ずとは言わないけど。
奈月:
じゃあ、どうして勧めるの。
母:
一人より安心でしょう。
奈月:
誰が。
母:
奈月が。
奈月は母を見た。
奈月:
お母さんじゃなくて?
母は一瞬、言葉を失った。
智臣:
そこ、結構大事だと思います。
母が智臣を見る。
智臣:
俺たちが結婚したら、周りが急に静かになった。
母:
それは。
智臣:
結婚する前は聞かれたんです。
「彼女いないの?」
「結婚しないの?」
「将来どうするの?」
でも結婚したら、ほとんど聞かれなくなった。
奈月:
私も。
由宇:
つまり、結婚したことで社会的には一つクリアした。
智臣:
そう。
ゲームみたいに。
母:
そんな言い方しないで。
奈月:
でも近いよ。
学校。
就職。
結婚。
子ども。
次。
次。
次。
由宇:
それが工場?
奈月:
うん。
人が生まれる。
学校に入る。
働けるようにする。
仕事をする。
結婚する。
繁殖する。
子どもを作る。
その子どももまた学校へ行って、働いて、繁殖する。
奈月は淡々と話した。
奈月:
ずっと続く。
母が嫌そうな顔をした。
母:
「繁殖」なんて言い方するからおかしく聞こえるの。
奈月:
でも生物としてはそうでしょう。
母:
人間には愛情があるでしょう。
奈月:
愛情があると繁殖じゃなくなるの?
母は詰まった。
由宇が少し笑った。
由宇:
奈月、そこは昔から変わらないな。
奈月:
何が。
由宇:
言葉を一回全部剥がす。
奈月:
剥がしたら見えるから。
由宇:
何が?
奈月:
地球人が自然だと思ってるもの。
智臣がうなずく。
智臣:
俺も、結婚とか恋愛とかって、かなり宣伝されてると思う。
母:
宣伝?
智臣:
歌。
映画。
ドラマ。
広告。
結婚式。
恋愛して、結婚して、家庭を持つのが幸せっていう物語。
母:
それは、多くの人が本当にそう感じるからでしょう。
智臣:
そういう人もいる。
でも、そうじゃない人がいると、急に心配される。
奈月:
工場から外れたから。
母:
だから、あなたたちは全部悪く考えすぎなの。
由宇が母を見る。
由宇:
でも一つ聞いていいですか。
母:
何。
由宇:
もし奈月が、結婚しないで、子どもも作らないで、一人でずっと楽しそうに生きてたら。
それでも心配しました?
母は少し考えた。
母:
すると思う。
由宇:
どうして?
母:
老後とか。
病気とか。
奈月:
結婚してたら病気にならない?
母:
そういう意味じゃない。
奈月:
子どもがいたら一人にならない?
母:
絶対ではないけど。
奈月:
じゃあ、なんでそれが安心なの。
母はしばらく黙った。
母:
私がそういう人生しか知らないからかもしれない。
部屋が少し静かになった。
奈月は母を見る。
母は目を伏せたまま続けた。
母:
結婚して。
子どもを育てて。
家を守って。
大変なこともあったけど、それが人生だと思ってた。
奈月:
それが嫌だった?
母:
嫌だったとは言わない。
奈月:
じゃあ幸せだった?
母はすぐには答えなかった。
その沈黙が、奈月には意外だった。
母:
幸せだったこともある。
奈月:
ことも?
母:
ずっと幸せな人なんているの?
奈月は少し考えた。
奈月:
わからない。
母:
だから、あなたにも同じように。
何というか。
家庭があれば。
帰る場所があれば。
一人じゃなければ。
少しは安心だと思った。
奈月:
お母さんが?
母は奈月を見る。
母:
たぶん、私も。
奈月は黙った。
智臣が静かに言った。
智臣:
じゃあ、「奈月さんの幸せ」と「お母さんが安心できる奈月さん」が混ざってたんですね。
母は反論しなかった。
奈月:
それが工場なんだと思う。
母:
どうしてそこに戻るの。
奈月:
みんな悪い人じゃない。
お母さんも。
先生も。
会社の人も。
親戚も。
みんな「幸せになってほしい」って言う。
でも、言うことが似てる。
働け。
結婚しろ。
子どもを作れ。
ちゃんとしろ。
由宇:
命令じゃないのに、同じ方向へ行く。
奈月:
だから工場。
智臣は少し考えた。
智臣:
でも俺、そこで一つ違うと思う。
奈月が見る。
智臣:
工場って言うと、全部同じものを作る感じがするでしょう。
奈月:
うん。
智臣:
実際は、地球人ってかなりバラバラじゃない?
結婚して幸せな人もいる。
結婚して不幸な人もいる。
子どもが欲しい人も、欲しくない人もいる。
仕事が好きな人もいる。
奈月:
でも、工場の中でも部品は全部同じじゃない。
智臣:
そうだけど。
由宇:
たぶん智臣さんが言いたいのは、構造があることと、そこにいる人間の気持ちまで全部同じってことは別だってことじゃない?
智臣がうなずいた。
智臣:
そう。
俺は結婚制度が嫌い。
でも結婚してる人が全員洗脳されてるとは思わない。
奈月:
どうして。
智臣:
本人が本当に欲しいなら、それはその人の選択でしょう。
奈月:
本人が本当に欲しいって、どうやってわかるの。
智臣が止まる。
奈月:
子どものころから、
「いつか素敵な人と結婚する」
って聞かされて。
映画でもそう。
親もそう。
友達もそう。
それで自分が欲しいと思ったら、それは自分の欲望?
由宇:
難しいな。
奈月:
工場が欲しがらせてるだけかもしれない。
母:
じゃあ、あなたの欲しいものは全部どこから来たの?
奈月が母を見る。
母:
宇宙人になりたいっていう考えも。
工場から逃げたいっていう考えも。
あなた一人で何もないところから作ったの?
奈月は少し黙った。
由宇が母を見る。
由宇:
それ、結構いい質問ですね。
奈月は由宇を睨む。
由宇:
いや、悪い意味じゃなくて。
俺たちだって、何かから影響受けてる。
奈月:
ピュート?
由宇:
それだけじゃなく。
本とか。
テレビとか。
お互いとか。
傷ついた経験とか。
智臣:
つまり、「工場に影響された欲望」と「完全に自分だけの欲望」を分けるのは無理かもしれない。
奈月は少し不機嫌そうだった。
奈月:
じゃあ全部工場でいい。
由宇:
いや、それだと話が終わる。
奈月:
何で。
由宇:
何をしても「工場のせい」。
誰を好きになっても「工場のせい」。
何を選んでも「洗脳」。
そうなったら、もう誰の選択も信じられない。
奈月は黙った。
由宇:
奈月の選択も。
奈月の顔が少し変わった。
奈月:
私も?
由宇:
そう。
「工場から逃げる」っていう選択も、工場に反応してできたものなら。
工場がなかったら生まれなかったでしょう。
奈月:
じゃあ私は工場に作られた?
由宇:
部分的には。
俺も。
智臣さんも。
おばさんも。
母:
私は工場じゃない。
由宇が少し笑った。
由宇:
そういう意味じゃなくて。
みんな何かの中で作られてるってことです。
奈月は窓の外を見る。
奈月:
それ、嫌。
智臣:
俺も嫌。
奈月:
自分だと思ってたものが、全部誰かから入れられたものだったら。
智臣:
全部じゃないと思う。
奈月:
どうして。
智臣:
同じものを渡されても、全員同じ人間にならないから。
少し間。
智臣:
同じ親に育てられても違う。
同じ学校でも違う。
同じ社会でも違う。
何を受け取るか。
何を拒否するか。
何に傷つくか。
それは一人ずつ違う。
奈月は智臣を見る。
智臣:
だから俺は、工場があるかないかなら、あると思う。
でも地球全部が工場だとは思わない。
奈月:
どこが違うの。
智臣:
工場の外に、誰かと一緒に作るものもあるから。
奈月の表情が少し変わる。
智臣:
俺たちの結婚もそうだった。
制度としては工場のものかもしれない。
でも、使い方は俺たちで決めた。
性行為をしない。
普通の夫婦を演じない。
必要以上に干渉しない。
奈月:
工場の部品を盗んで、別のもの作った。
智臣:
そう。
それなら俺は好きかもしれない、その言い方。
由宇が笑った。
奈月もほんの少し笑った。
母だけが複雑そうな顔をしている。
母:
でも私は。
奈月が見る。
母:
結婚も家族も、そんなに悪いものだと思えない。
奈月:
悪いって言ってない。
母:
言ってるように聞こえる。
奈月:
私が嫌だったって言ってる。
母:
でも、あなたは「工場」って呼ぶ。
奈月:
お母さんは工場の中で幸せだった?
母は少し考えた。
母:
幸せだったことも。
苦しかったこともある。
奈月:
じゃあ、お母さんにとっては、それでよかったんじゃない。
母が驚いたように奈月を見る。
母:
あなた、そんなこと言うの。
奈月:
何。
母:
私の人生まで否定してると思ってた。
奈月は少し考えた。
奈月:
否定したかったのかもしれない。
母:
どうして。
奈月:
お母さんが私の人生を否定したから。
部屋が静かになる。
母はしばらく何も言えなかった。
やがて小さく言った。
母:
そうね。
奈月が母を見る。
母:
そうだったかもしれない。
奈月は答えなかった。
由宇:
じゃあ、工場って考え方は、全部間違いじゃない。
智臣:
でも全部を説明できるわけでもない。
奈月:
中途半端。
由宇:
人間って中途半端なんじゃない。
奈月:
嫌い。
由宇:
知ってる。
少し笑いが起きた。
すぐ静かになった。
奈月がまた窓を見る。
奈月:
私、地球を工場って呼ぶと安心した。
智臣が見る。
奈月:
意味がわかるから。
なんでみんな結婚しろって言うのか。
なんで子どもを作れって言うのか。
なんで働けって言うのか。
全部、工場だから。
そう思えば説明できた。
由宇:
説明できると安心する?
奈月:
うん。
由宇:
でも、もし全部工場じゃなかったら?
奈月は少し考えた。
奈月:
怖い。
智臣:
どうして。
奈月:
一人ずつ違うなら、一人ずつ見ないといけないから。
部屋が静かになった。
奈月は自分で言った言葉に少し驚いたようだった。
奈月:
この人は敵。
この人は工場の部品。
って決めたほうが簡単。
由宇:
うん。
奈月:
でも一人ずつ見たら。
間違うかもしれない。
信じて、また傷つくかもしれない。
由宇はゆっくりうなずいた。
由宇:
それが怖かったんだと思う。
奈月は何も言わなかった。
母が静かに聞いた。
母:
私も、工場の部品だった?
奈月は母を見る。
長い間、答えなかった。
奈月:
お母さんは。
一人だった。
母の目が少し動く。
奈月:
私を傷つけた一人。
でも。
少し間を置いた。
奈月:
工場全部じゃなかった。
母は下を向いた。
智臣が静かに言った。
智臣:
たぶん、そこから先が難しいんでしょうね。
奈月:
何が。
智臣:
地球全部を敵にしないなら。
どのルールを拒否して。
どのルールは残すのか。
奈月が智臣を見る。
智臣:
結婚しろ、は捨ててもいい。
子どもを作れ、も捨てていい。
でも。
少し間があった。
智臣:
全部のルールを捨てていいわけじゃないでしょう。
奈月の顔から、少しだけ柔らかさが消えた。
由宇も智臣を見る。
母は何も言わない。
奈月が低い声で聞いた。
奈月:
誰が決めるの。
誰もすぐには答えなかった。
夜の終わりが、窓の向こうで少しずつ近づいていた。
Topic 4 「自由になるためなら、どこまで壊していい?」

奈月の問いに、誰も答えなかった。
奈月:
誰が決めるの。
智臣は畳に目を落とした。
由宇は窓の外を見ている。
母は冷めかけた湯のみを握っていた。
奈月がもう一度言った。
奈月:
結婚しなくていい。
子どもを作らなくていい。
普通の仕事をしなくていい。
そういうルールは捨ててもいいって、今言ったよね。
智臣:
うん。
奈月:
じゃあ、その次は?
智臣:
その次?
奈月:
どこに線があるの。
智臣は答えなかった。
奈月:
地球人が作ったルールでしょう。
結婚も。
家族も。
法律も。
道徳も。
母:
一緒にしないで。
奈月が母を見る。
母:
結婚するかどうかと、人を傷つけていいかどうかは全然違うでしょう。
奈月:
どうして?
母:
どうしてって。
人を傷つけたら、その人が苦しむから。
奈月は少し黙った。
奈月:
じゃあ。
私が傷ついたときは?
母の表情が変わった。
奈月:
地球人のルールは私を守った?
誰も答えない。
奈月:
子どもを傷つけちゃいけない。
そういうルールもあったんでしょう。
母:
あった。
奈月:
でも守られなかった。
母:
……そうね。
奈月:
じゃあ、ルールって何。
守らない人がいて。
見ない人がいて。
気づかない人がいて。
あとから「本当はダメだった」って言うだけなら。
何のためにあるの。
母は目を伏せた。
由宇が静かに言った。
由宇:
奈月。
ルールが破られたことと、ルールが必要ないことは同じじゃない。
奈月は由宇を見る。
奈月:
また地球人みたいなこと言う。
由宇:
そうかもしれない。
奈月:
昔なら言わなかった。
由宇:
昔の俺は、何でも壊せば自由になれると思ってたから。
奈月:
今は違う?
由宇:
違う。
奈月:
どうして。
由宇は少し考えた。
由宇:
ルールがなくなったら、強い人が自由になるから。
奈月の目が動いた。
由宇:
弱い人じゃない。
強い人。
智臣:
それはあるな。
奈月:
どういう意味。
由宇:
何でもしていい世界になったら、最初に困るのは誰だと思う?
奈月は答えない。
由宇:
子ども。
身体の弱い人。
一人でいる人。
お金がない人。
助けてくれる人がいない人。
奈月:
私みたいな人。
由宇:
そう。
奈月は黙った。
由宇:
奈月を傷つけた大人は、奈月より強かった。
年齢も。
立場も。
言葉も。
全部。
もし「好きにしていい」が本当にルールなら。
その人にとっては都合がいい。
奈月:
でも、ルールがあっても止まらなかった。
由宇:
そう。
止まらなかった。
由宇は奈月から目をそらさなかった。
由宇:
だからルールだけじゃ足りない。
でも、足りないことと、いらないことは違う。
部屋が静かになった。
智臣がゆっくり口を開いた。
智臣:
俺、昔は法律とか道徳とか、全部「多数派が作ったもの」って思ってた。
奈月:
違うの?
智臣:
そういう部分もあると思う。
でも、全部じゃない。
奈月:
例えば?
智臣:
人の身体は、その人のもの。
奈月の顔がわずかに強張った。
智臣:
本人が嫌だと言ったら触らない。
人を傷つけない。
殺さない。
それって「普通になれ」とは違うと思う。
奈月:
どう違う。
智臣:
「普通になれ」は、他人が俺の人生を決めるルール。
「他人を傷つけるな」は、俺が他人の人生を奪わないためのルール。
奈月は智臣を見たまま黙った。
由宇が小さくうなずいた。
母:
そうよ。
奈月:
でもお母さんも、私の人生を決めようとした。
母は言葉を失った。
奈月:
結婚しろ。
ちゃんとしろ。
普通になれ。
母:
そこまで言ってない。
奈月は何も言わず母を見る。
母は途中で止まった。
母:
……言ってたのね。
奈月:
うん。
母:
それと、あなたがされたことを一緒にされたくない。
奈月:
一緒じゃないよ。
母が顔を上げる。
奈月:
でも、同じところが少しある。
母:
何が。
奈月:
「あなたのためだから」って、自分がしていることを正しいと思えるところ。
母の表情が変わった。
奈月は静かだった。
責めるような声ではなかった。
それがかえって重かった。
奈月:
お母さんは私のため。
あの人は自分の欲望。
同じじゃない。
でも二人とも、私がどう感じてるかより、自分の中の理由を先にした。
母は目を伏せた。
母:
……そうね。
奈月は少し驚いたように母を見た。
母:
同じじゃない。
同じじゃないけど。
あなたが嫌だと言っていることより、私が正しいと思っていることを優先したことはあった。
奈月は何も言わなかった。
母:
それは認める。
由宇が静かに息を吐いた。
智臣はしばらくして言った。
智臣:
たぶん、そこが線なのかもしれない。
奈月:
何が。
智臣:
相手がいるかどうか。
奈月:
わからない。
智臣:
結婚しない。
自分の人生。
子どもを持たない。
自分の人生。
会社を辞める。
自分の人生。
でも、人を傷つける。
そこには別の人の人生がある。
奈月は黙って聞いている。
智臣:
自分の自由を守るために、別の人の身体や人生を奪い始めたら。
それはもう自由じゃないんじゃないか。
奈月:
じゃあ何。
智臣:
支配。
その言葉のあと、誰も話さなかった。
奈月が目を伏せた。
長い沈黙だった。
やがて奈月が小さく言った。
奈月:
私は支配された。
智臣:
うん。
奈月:
だから支配する側にはなりたくなかった。
由宇:
うん。
奈月:
でも。
奈月の声が止まった。
由宇は待った。
奈月:
なったのかな。
誰もすぐには答えなかった。
母が口を開きかける。
由宇が先に言った。
由宇:
なった瞬間はあったと思う。
奈月は由宇を見る。
母も驚いたように由宇を見る。
奈月:
そう。
由宇:
でも。
奈月:
慰めなくていい。
由宇:
慰めるつもりじゃない。
奈月は待った。
由宇:
傷つけられたことと、傷つけたこと。
両方、本当でいいと思う。
奈月の顔が少し歪んだ。
奈月:
そんなの嫌。
由宇:
俺も嫌だよ。
奈月:
どっちかにして。
被害者だったのか。
悪い人だったのか。
由宇:
どっちかじゃないんじゃない。
奈月:
ずるい。
由宇:
うん。
でも人間って、たぶんそういうところがある。
奈月:
また人間。
由宇:
奈月だってそうだよ。
奈月は由宇を睨んだ。
由宇:
傷つけられた奈月も本当。
生き延びようとした奈月も本当。
誰かを傷つけた奈月も本当。
どれか一つを消したら、奈月じゃなくなる。
奈月の目に涙はなかった。
けれど、声が少しだけ低くなった。
奈月:
じゃあ、どうしたらいいの。
由宇は答えなかった。
奈月:
傷つけられたことを忘れる?
由宇:
違う。
奈月:
許す?
由宇:
それも俺が決めることじゃない。
奈月:
じゃあ。
由宇:
自分が傷つけられた痛みを、自分が誰かを傷つける許可証にしない。
奈月は黙った。
由宇:
それしか、俺にはわからない。
奈月は窓の外を見る。
少しずつ空の黒が薄くなっている。
奈月:
でも。
もし地球人のルールを全部信じられないなら。
何を信じればいい?
智臣が答えた。
智臣:
ルールじゃなくて、相手を見る。
奈月が振り返る。
智臣:
この人は嫌がっているか。
怖がっているか。
苦しんでいるか。
自分の自由で、この人の自由を消してないか。
奈月は黙って聞いている。
智臣:
全部の社会規範を信じなくても、それくらいなら自分で確かめられる。
奈月は少し考えた。
奈月:
それも間違うかもしれない。
智臣:
間違う。
奈月:
じゃあ意味ない。
智臣:
間違ったら、止まる。
聞く。
戻る。
謝る。
奈月:
戻れないこともある。
智臣:
ある。
奈月は少し苛立ったように言った。
奈月:
みんな、答えがないことばっかり言う。
由宇が小さく笑った。
由宇:
奈月は答えが欲しいんだよ。
奈月:
悪い?
由宇:
悪くない。
だから「工場」って答えが必要だったんじゃない?
奈月は由宇を見る。
由宇:
地球は工場。
地球人は部品。
自分たちは宇宙人。
そう分ければ、全部わかりやすい。
奈月:
うん。
由宇:
でも、人間を一人ずつ見ると、わからなくなる。
いい人が悪いことをする。
傷ついた人が誰かを傷つける。
愛している人が支配する。
正しいルールが守られない。
奈月は黙っている。
由宇:
たぶん、地球ってそういうところなんだと思う。
奈月:
だから嫌い。
由宇:
俺も嫌いなところいっぱいある。
奈月:
それでもいる。
由宇:
いる。
奈月:
どうして。
由宇は少し考えた。
由宇:
地球以外に行く場所がないからじゃなくて。
奈月を見る。
由宇:
嫌いじゃない人も、ここにいるから。
奈月の表情が止まった。
智臣が視線を落とす。
母も何も言わない。
奈月:
由宇。
由宇:
何。
奈月:
私も?
由宇はすぐには答えなかった。
少し笑った。
由宇:
だからここにいるんだろ。
奈月は目をそらした。
長い沈黙のあと、母が小さく言った。
母:
奈月。
奈月は振り向かなかった。
母:
私も、あなたの人生を自分の安心のために変えようとした。
奈月の肩がわずかに動いた。
母:
あなたのためだと思ってた。
だから、正しいと思ってた。
母は湯のみを置いた。
母:
でも「あなたのため」って言えば何をしてもいいわけじゃなかった。
奈月はまだ窓を見ている。
母:
もっと早くわかればよかった。
奈月は長く黙った。
そして、静かに言った。
奈月:
お母さん。
母:
何。
奈月:
私は、お母さんを許さなくてもいい?
母の顔が止まった。
由宇も智臣も動かなかった。
母はしばらく奈月を見ていた。
そして、小さくうなずいた。
母:
いい。
奈月が初めて母を見る。
母:
それも、あなたが決めることだから。
奈月は何も言わなかった。
窓の向こうで、山の輪郭がわずかに見え始めていた。
しばらくして奈月が口を開いた。
奈月:
じゃあ。
自由って。
何でもできることじゃないんだね。
智臣:
たぶん。
奈月:
自分の人生を自分で決めること。
由宇:
うん。
奈月は少し考える。
奈月:
でも、誰かの人生まで決めないこと。
誰も答えなかった。
答える必要がないように感じられた。
やがて奈月が、もう一度外を見る。
奈月:
それなら。
地球のルール、全部捨てなくてもいいのかもしれない。
由宇が奈月を見る。
奈月:
でも、どれを残すかは自分で考えたい。
由宇:
それでいいんじゃない。
奈月は少しだけうなずいた。
しかし、すぐに別の表情になった。
奈月:
でも由宇。
由宇:
何。
奈月:
ルールを選べるようになる前に壊れちゃった人は、どうするの?
由宇の表情が消えた。
奈月は続けた。
奈月:
帰る場所もない。
信じる人もいない。
普通にも戻れない。
宇宙人にもなりきれない。
そんな人は。
少し間があった。
奈月:
どこに行けばいいの?
誰も答えられなかった。
窓の向こうでは、夜が終わろうとしていた。
Topic 5 「奈月は、どこへ帰ればよかったの?」

窓の向こうでは、夜が終わろうとしていた。
山の輪郭が少しずつ見えてくる。
奈月は窓辺に座ったまま、外を見ていた。
奈月:
どこに行けばいいの?
誰も答えなかった。
母は湯のみを両手で包んでいた。
由宇は畳を見ている。
智臣は膝を立て、その上に腕を置いた。
奈月がもう一度言った。
奈月:
帰る場所がない人は。
普通にも戻れない。
宇宙人にもなりきれない。
誰も信じられない。
そういう人は、どこに行けばいいの。
長い沈黙のあと、母が口を開いた。
母:
家に帰ればよかったじゃない。
奈月は母を見た。
責める顔ではなかった。
ただ、本当に意味がわからないようだった。
奈月:
どの家?
母が止まった。
奈月:
私が育った家?
母:
そうよ。
奈月:
あそこが帰る場所だったと思う?
母は何も言えなくなった。
奈月は続ける。
奈月:
帰るって、住所に戻ること?
母:
そういう意味じゃない。
奈月:
じゃあ何。
母は言葉を探した。
母:
自分を受け入れてくれるところ。
奈月の目が少し動いた。
奈月:
私を?
母はうなずいた。
奈月:
どの私を?
母:
どのって。
奈月:
普通の私?
結婚した私?
お母さんに迷惑をかけない私?
母が黙る。
奈月:
それとも。
宇宙人の私も?
母はすぐに答えられなかった。
奈月は笑わなかった。
奈月:
そこなんだよ。
母の目が少し潤んだ。
奈月:
帰っていいって言われても。
帰ったら変えられるなら。
そこは帰る場所じゃない。
由宇が静かにうなずいた。
由宇:
そうだと思う。
母は由宇を見る。
母:
じゃあ、あなたは?
由宇:
俺?
母:
奈月にとって、あなたが帰る場所だったんじゃないの。
由宇の表情が変わった。
奈月も由宇を見る。
由宇はしばらく何も言わなかった。
由宇:
たぶん。
子どものころは。
奈月:
うん。
由宇:
でも、それは重すぎた。
奈月の顔が少し硬くなる。
由宇は続けた。
由宇:
俺一人が奈月の地球全部になるのは。
無理だった。
奈月は目を伏せた。
由宇:
ごめん。
奈月:
謝らなくていい。
由宇:
でも。
奈月:
今なら少しわかる。
由宇が見る。
奈月:
私、由宇一人がいればいいと思ってた。
由宇がいるなら地球が全部敵でもいいって。
由宇:
うん。
奈月:
でも由宇が変わったら、地球全部がなくなった。
由宇は何も言わない。
奈月:
一人だけを帰る場所にしたら、その人がいなくなったとき、全部なくなるんだね。
智臣が静かに言った。
智臣:
たぶん、本当は一つじゃ足りないんだと思う。
奈月が智臣を見る。
奈月:
何が。
智臣:
帰る場所。
奈月:
何個いるの。
智臣:
わからない。
でも。
一人の人。
一つの家。
一つの制度。
一つの役割。
そこだけに全部預けるのは危ない。
奈月:
じゃあ何に預けるの。
智臣:
少しずつ。
奈月は眉をひそめた。
智臣:
人に少し。
場所に少し。
仕事に少し。
自分の好きなものに少し。
思い出にも少し。
全部を一つにしない。
奈月は少し考えた。
奈月:
面倒。
智臣:
かなり。
由宇が少し笑った。
由宇:
奈月、地球はだいたい面倒だよ。
奈月:
だから嫌い。
三人が少しだけ笑った。
母だけは笑わなかった。
母は奈月を見ていた。
やがて静かに言う。
母:
奈月。
奈月:
何。
母:
さっき言ったでしょう。
宇宙人だって言ったとき、どうして理由を聞かなかったのって。
奈月は黙っている。
母:
私、本当に。
ただの変な空想だと思ってた。
奈月:
うん。
母:
子どもって、そういうものだと思ってた。
奈月:
うん。
母:
でも今聞いてると。
あなたはずっと。
「助けて」って言ってたのかもしれない。
奈月の表情が変わった。
奈月:
違う。
母が驚く。
母:
違う?
奈月:
「助けて」じゃなかった。
母:
じゃあ何だったの。
奈月は少し考えた。
奈月:
「ここにいていい?」だった。
誰も動かなかった。
奈月は続ける。
奈月:
私が地球人じゃなくても。
変でも。
みんなと違っても。
怖がってても。
うまく話せなくても。
奈月:
ここにいていい?
それを聞いてた。
母の目から涙が落ちた。
奈月はそれを見ていた。
母:
私は。
「ちゃんとしなさい」って答えてた。
奈月は何も言わない。
母:
「普通になりなさい」って。
奈月は少しだけうなずく。
母は涙を拭かなかった。
母:
どうすればよかったんだろう。
奈月が母を見る。
初めて、母の声が質問になっていた。
言い訳でも。
命令でも。
説明でもない。
本当にわからない人の声だった。
母:
私、どうすればよかった?
奈月は長く考えた。
奈月:
わからない。
母が少し驚く。
奈月:
私もわからない。
母:
そう。
奈月:
でも。
母が待つ。
奈月:
私が怖いって言ったら。
怖いんだねって言ってほしかった。
母:
うん。
奈月:
宇宙人だって言ったら。
そう思うくらいここが嫌なんだねって。
母:
うん。
奈月:
あの人のことを話したら。
私を信じてほしかった。
母は目を閉じた。
しばらくして、
母:
うん。
とだけ答えた。
奈月は母を見た。
奈月:
それだけでも。
違ったと思う。
母は声を出さずに泣いていた。
由宇は顔を伏せた。
智臣は窓の外を見ている。
少しして母が言った。
母:
私は、あなたを普通にしたかった。
奈月は静かに聞いた。
奈月:
どうして?
母はすぐには答えなかった。
母:
普通なら。
苦しまないと思ってたから。
奈月の顔がほんの少し歪んだ。
奈月:
私は普通にされることが苦しかった。
母はうなずいた。
母:
今はわかる。
奈月は少し間を置いて聞いた。
奈月:
今の私も、普通にしたい?
母は奈月を見た。
長い時間が流れた。
母:
怖い。
奈月が少し驚く。
母:
今でも怖い。
あなたの考えてることがわからないときがある。
あなたがどこまで行ってしまうのか怖い。
奈月:
うん。
母:
だから、普通になってくれたら安心するって。
今でも少し思う。
奈月は母を見続けた。
母:
でも。
それは私が安心したいからなんだって。
前よりわかる。
奈月は何も言わなかった。
母は続ける。
母:
だから。
普通になってとは言わない。
奈月の目が少し揺れた。
母:
ただ。
生きててほしい。
その言葉に、由宇が顔を上げた。
奈月は母を見る。
奈月:
どんなふうでも?
母は迷った。
奈月はその迷いを待った。
やがて母が言った。
母:
人を傷つけないで。
自分も傷つけないで。
それ以外は。
母:
私にわからなくても。
生きててほしい。
奈月は長く黙った。
奈月:
それ、かなり違うね。
母は少し笑った。
泣きながら。
母:
何が。
奈月:
「普通になって」より。
母もうなずいた。
外がかなり明るくなっていた。
窓の向こうに山の稜線が見える。
由宇が立ち上がった。
由宇:
外、行く?
奈月を見る。
奈月は少し考えてから立ち上がった。
四人で家の外へ出た。
冷たい空気。
土の匂い。
木々。
昔とほとんど変わらないように見える山。
奈月と由宇は少し前を歩いた。
母と智臣は後ろにいる。
しばらく誰も話さなかった。
由宇が空を見上げる。
由宇:
覚えてる?
奈月:
何を。
由宇:
何があっても生き延びること。
奈月は歩くのを止めた。
奈月:
覚えてる。
由宇:
まだ守ってる?
奈月はすぐには答えなかった。
山を見た。
家を見た。
母を見る。
智臣を見る。
そして由宇を見る。
奈月:
昔は。
生き延びるって、逃げ続けることだと思ってた。
由宇は黙って聞いている。
奈月:
地球から。
家族から。
工場から。
全部から。
由宇:
うん。
奈月:
誰にも捕まらないことだと思ってた。
少し間。
奈月:
でも、全部から逃げたら。
誰もいなくなる。
由宇が小さくうなずく。
奈月:
だから。
違うのかもしれない。
由宇:
何が。
奈月:
生き延びること。
奈月は少し考える。
奈月:
逃げることもある。
残ることもある。
誰かを信じることもある。
信じないこともある。
ルールを壊すこともある。
守ることもある。
由宇:
ずいぶん面倒になったね。
奈月が少し笑った。
奈月:
地球だから。
由宇も笑った。
二人の後ろで、母が少し離れたところに立っていた。
奈月は母を見る。
母は何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
奈月はまた空を見る。
星はもうほとんど見えない。
朝の光に消えていく。
子どものころなら、それを少し悲しいと思ったかもしれない。
今日は違った。
星が見えなくなっても、なくなったわけではない。
奈月はふと聞いた。
奈月:
由宇。
由宇:
何。
奈月:
地球人にならなくても。
ここにいていいのかな。
由宇はすぐには答えなかった。
母も。
智臣も。
誰も奈月の代わりに答えなかった。
朝の風が四人の間を通り抜けた。
奈月はもう一度、山の向こうを見た。
そして、そのままそこに立っていた。
最後に

この対話で最も印象的だったのは、奈月が最後まで「普通の人」にならなかったことです。
誰も奈月を治しませんでした。
由宇も救いませんでした。
智臣も答えを与えませんでした。
母との傷も、一晩の対話ですべて消えたわけではありません。
それでいいのだと思います。
奈月の苦しみを、
「本当は普通の女性だった」
という結論で終わらせてしまったら、『地球星人』が投げかける問いそのものを消してしまいます。
むしろ重要だったのは、奈月が少しずつ二つの極端な考えの間を見るようになったことでした。
一方には、
「社会に従わなければならない。」
という世界があります。
もう一方には、
「社会のルールはすべて壊していい。」
という世界があります。
しかし、その間にも生きる場所はあるのかもしれません。
結婚しなくてもいい。
子どもを持たなくてもいい。
一般的な成功を求めなくてもいい。
人と違っていてもいい。
その一方で、
他人の身体は他人のもの。
他人の人生を奪わない。
自分が傷つけられた経験を、誰かを傷つける理由にはしない。
奈月が探していたのは、「地球人になる方法」ではなかったのかもしれません。
地球人にならなくても、地球で生きられる方法。
そして今回、もう一つ大きな問いが見えてきました。
子どもの奈月は「助けて」と言っていたのでしょうか。
対話の中で奈月は違うと言いました。
彼女が聞いていたのは、
「ここにいていい?」
だった。
変でも。
怖がっていても。
周囲と同じように感じられなくても。
誰かが、
「ここにいていい」
と答えていたら。
奈月の人生がどう変わったのかは、誰にもわかりません。
しかし少なくとも、自分を守るために世界全体を敵にする必要は、少し小さくなったのかもしれません。
そして由宇についても、大切なことが見えてきました。
由宇は奈月を捨てたのではなく、別の方法で生き延びようとしていた。
子どものころ二人が交わした、
「何があっても生き延びる」
という約束。
奈月はそれを、「一緒に逃げ続けること」だと思っていました。
由宇は大人になり、それを別の意味で受け取るようになった。
人に合わせることもある。
社会の仕組みを利用することもある。
誰かを少しだけ信じることもある。
それもまた、生き延びる方法だった。
そして最後に残ったのが、奈月の問いです。
「地球人にならなくても、ここにいていいのかな。」
誰も答えませんでした。
私は、この沈黙がこの対話には合っていると思います。
「いいよ」と誰かが答えてしまえば、また誰かが奈月の存在を許可することになるからです。
奈月自身が、いつか、
「私はここにいていい。」
と思えるかどうか。
その答えは、まだ彼女自身の中にもありません。
朝になり、星は見えなくなりました。
けれど星そのものが消えたわけではありません。
奈月も同じなのかもしれません。
見える形が変わっても、誰かが理解できなくても、存在そのものまで消す必要はない。
『地球星人』が残すのは、「普通ではなくてもいい」という簡単な慰めではありません。
もっと難しい問いです。
自分とは違う生き方をする人に対して、私たちはその人を自分たちと同じにしようとせず、それでも同じ世界で生きていくことができるのでしょうか。
奈月が最後に見ていたのは、別の惑星ではありませんでした。
彼女がずっと逃げようとしていた、この地球でした。
Short Bios:
奈月
『地球星人』の主人公。幼いころから家族や社会に強い違和感を持ち、自分を地球人ではない存在として捉えることで現実を生き延びようとします。
由宇
奈月のいとこで、幼少期の彼女にとって最も深い理解者。二人は「何があっても生き延びる」と誓いますが、大人になるにつれて異なる生存方法を選んでいきます。
智臣
奈月の夫。一般的な恋愛、性、結婚生活に距離を感じ、奈月と通常とは異なる夫婦関係を築きます。社会制度を拒絶するだけではなく、利用して生きるという視点を持っています。
奈月の母
奈月に「普通」の人生を望んできた母親。今回の架空の対話では単純な悪役としてではなく、娘を幸せにしたいという思いと、自分自身の安心を混同していた人物として描いています。
村田沙耶香
1979年千葉県生まれの小説家。『コンビニ人間』で第155回芥川龍之介賞を受賞。社会が当然とする「普通」、家族、性、身体、生殖、人間という概念そのものを独特の視点から問い直す作品で、海外でも広く読まれています。

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