
はじめに
村田沙耶香『地球星人』の奈月は、自分を地球人ではないと考えました。
その設定だけを取り出せば、非常に特殊な人物の物語に見えるかもしれません。
けれど第一部で奈月たちの声を聞き、第二部で心理、社会、文学、精神性という異なる角度から考えていくと、別の問いが浮かび上がってきました。
奈月は、本当に私たちからそれほど遠い存在なのでしょうか。
子どもが家庭で起きていることを理解できず、自分だけの世界を作る。
親が子どもの幸せを願うあまり、その子の人生まで決めようとしてしまう。
仕事をし、結婚し、家を買い、子どもを育てながら、ある日突然、「これは本当に自分が選んだ人生なのだろうか」と考える。
傷つけられた経験を持つ人が、自分でも気づかないまま誰かを傷つけてしまう。
そして人生の後半になって、「私は何を残したのだろう」と自分に問いかける。
こうして見ると、『地球星人』の問いは決して遠いものではありません。
今回の5つの物語では、奈月、由宇、智臣を現代へ置き換えることはしませんでした。
代わりに、まったく違う5人の人生を描きました。
火星から来たと思うことで家庭の中を生き延びようとする11歳の湊。
母を愛しているからこそ、その愛情から逃げられなくなる美奈。
「正しい人生」を歩んできたのに、午後6時12分のホームで突然立ち止まる健司。
傷つけられた人を救う仕事をしながら、自分もまた誰かを怖がらせていたことに気づく沙織。
そして、結婚も子どもも大きな肩書きもない64歳の玲子。
彼らは互いを知りません。
同じ街で、ときどきすれ違うだけです。
けれど全員が、それぞれ違う形で同じ問いの近くを歩いています。
「私は、このままでここにいていいのだろうか。」
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Story 1 「火星から来た男の子」

高木湊は、毎晩九時四十分になると机の引き出しから赤いノートを出した。
表紙には何も書いていない。
中には、日付と短い文章が並んでいた。
火星観測局 第37報告
地球人の父個体は、今日も帰宅してから二十分以内に声が大きくなった。
母個体は夕食の途中で三回ため息をついた。
姉個体は自分の部屋へ逃げた。
私は味噌汁を全部飲んだ。
以上。
湊は最後に小さく、
帰還予定 未定
と書いた。
ペンを置く。
隣の部屋で、父と母の声が聞こえる。
内容はよくわからない。
お金のこと。
仕事のこと。
誰かが何かを忘れたこと。
誰が悪いか。
同じ話を何度もしているように聞こえる。
湊はイヤホンをつけた。
音楽は流さない。
ただ耳を塞ぐ。
それから窓を開けた。
冬の空気が入ってきた。
火星は見えなかった。
湊は小学五年生だった。
学校では問題を起こさない。
宿題も出す。
テストも悪くない。
友達がいないわけでもない。
休み時間には男子三人とゲームの話をする。
給食も普通に食べる。
先生に、
「高木くんは落ち着いてますね」
と言われたことがある。
母はその話を聞いて、
「家でもそうならいいのにね」
と笑った。
湊も笑った。
何が違うのか、湊にはよくわからなかった。
家でも静かにしている。
むしろ家のほうが静かだ。
大きな声を出さない。
物を投げない。
ドアを強く閉めない。
父が帰ってきたら、自分の部屋へ行く。
母の顔が固くなっていたら、話しかけない。
姉が泣いていたら見ない。
そういうことを守っている。
湊はかなり上手に地球人をやっていると思っていた。
最初の火星報告書を書いたのは、九歳のときだった。
学校の理科で惑星を習った。
先生が火星の写真を見せた。
赤い。
寒い。
空気が薄い。
人間はそのままでは住めない。
湊はその説明を聞いて、少し安心した。
人間が住めない場所がある。
それなら、人間ではない自分が住める場所もあるかもしれない。
その夜、大学ノートの最初のページに書いた。
私は火星から来た。
書いてみると、妙にしっくりした。
次に、
地球の家族に観察のため預けられている。
と書いた。
その設定にすると、いろいろ説明できた。
父が怒る理由がわからない。
地球人だから。
母が急に黙る。
地球人だから。
学校でみんなが同じところで笑う。
地球人だから。
自分だけ笑えない。
火星人だから。
これなら、自分が壊れているわけではない。
ただ種類が違う。
それだけだった。
ある土曜日。
湊は市立図書館へ行った。
家にいると、父がいた。
父は何もしていなかった。
テレビを見ていた。
それだけだった。
でも湊は家を出た。
図書館までは歩いて十五分。
途中にコンビニがある。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
湊は文具売り場へ行った。
赤い表紙の小さなノート。
税込百六十八円。
今使っている報告書があと六ページしかなかった。
新しいものを一冊取る。
レジには、いつもいる女性店員がいた。
年齢はよくわからない。
母より若いかもしれないし、同じくらいかもしれない。
店員はノートを見た。
「新しいノート、いいですね」
湊は少し驚いた。
店員はそれ以上何も言わず、袋に入れるか聞いた。
「いりません」
「ありがとうございます」
湊は店を出た。
なぜか、その言葉が少し残った。
新しいノート、いいですね。
何を書くかは聞かなかった。
学校用かも聞かなかった。
ただ、いいですねと言った。
図書館ではいつも宇宙の本を読む。
図鑑。
ロケット。
火星探査。
宇宙飛行士。
その日は、火星の地下に氷があるかもしれないという本を読んでいた。
「また火星?」
声がした。
湊は顔を上げた。
松原さんだった。
図書館の司書。
四十代くらい。
眼鏡。
いつも髪を後ろでまとめている。
「うん」
「好きだねえ」
湊はうなずいた。
松原さんは本を棚へ戻していた。
「将来、宇宙飛行士?」
湊は首を振った。
「行くんじゃなくて」
「うん?」
「帰る」
松原さんの手が止まった。
湊は少し後悔した。
普通ならここで笑われる。
あるいは、
「夢があっていいね」
みたいに言われる。
でも松原さんは、
「火星に?」
と聞いた。
「うん」
「そっか」
それだけだった。
湊は本に目を戻した。
松原さんも棚の整理へ戻った。
その日は、それで終わった。
次の週。
湊はまた来た。
松原さんがカウンターにいた。
「火星、どう?」
湊は一瞬、何のことかわからなかった。
「帰れそう?」
湊は首を振った。
「まだ」
「遠いもんね」
湊は少し考えた。
「距離の問題じゃない」
松原さんは笑わなかった。
「じゃあ、何の問題?」
湊は答えなかった。
松原さんも待った。
後ろでコピー機の音がした。
幼児コーナーから子どもの声。
誰かが本を返却箱に入れた。
普通の図書館の音。
湊は小さく言った。
「まだ観察が終わってない」
「何を観察してるの?」
「地球人」
松原さんは少し考えた。
「難しい?」
「うん」
「どんなところが?」
湊はまた黙った。
その質問は予想していなかった。
その夜。
火星観測局 第43報告
本日、地球人の一個体に、地球人のどこが難しいか聞かれた。
答えられなかった。
難しいことが多すぎる。
父個体は怒る前と怒ったあとで同じ顔をしている。
母個体は泣いていないときも泣いているように見える。
姉個体は「別に」と言うとき、別にではない。
地球人は言葉と意味が一致しない。
観察継続。
帰還予定 未定。
湊は少し考えて、最後に一行足した。
松原個体は今のところ危険度低。
日曜日の夜。
父が母に言った。
「だからお前は何でも大げさなんだよ」
母が何か言い返した。
父の声がさらに大きくなった。
姉のドアが閉まった。
湊は机に座っていた。
イヤホンをつける。
何も流さない。
そのまま報告書を開く。
字を書こうとした。
手が少し震えた。
火星観測局 第44報告
今日、父個体は
そこで止まった。
何を書けばいいかわからない。
怒鳴った。
そう書けばいい。
でもそれだけでは足りない。
怖かった。
それを書くと、報告書ではなくなる気がした。
火星人は観察する側だった。
観察する側は怖がらない。
湊はページを破った。
小さく丸めてゴミ箱へ入れた。
そして新しいページに、
本日、特記事項なし。
とだけ書いた。
次の土曜日。
松原さんが湊を見ると、
「今日は火星の本じゃないんだ」
と言った。
湊は動物の図鑑を持っていた。
「うん」
「火星に動物いるかな」
「いないと思う」
「寂しいね」
湊は少し考えた。
「静かでいい」
松原さんはそこで何も言わなかった。
しばらくして、湊が本を読んでいるところへ来た。
「湊くん」
名前を呼ばれた。
図書館カードで知っているのだろう。
「何」
「火星って、家の中も静かなの?」
湊の指がページの上で止まった。
ゾウの写真。
大きな耳。
群れ。
「たぶん」
「どれくらい?」
「誰も怒鳴らない」
松原さんは何も言わなかった。
湊は続けた。
「ドアも強く閉めない」
「うん」
「夜も」
声が少し小さくなった。
「音がしない」
松原さんはしゃがまなかった。
子どもに話しかける大人がよくするように、顔を近づけたりもしなかった。
隣の椅子に座った。
同じ高さになった。
「火星に帰りたい?」
湊はしばらく考えた。
ずっとそうだと思っていた。
火星へ帰る。
地球からいなくなる。
そういう話だった。
でも松原さんに聞かれると、少し違う気がした。
「帰りたいんじゃない」
「うん」
「地球の家にいる間だけ」
湊は窓の外を見る。
「火星人でいたい」
松原さんはその言葉を聞いていた。
「どうして?」
湊は膝の上の手を見る。
「そうすれば」
言葉が出てこない。
少し待つ。
「僕の家じゃないから」
松原さんの表情が変わった。
でも大きくは変わらなかった。
「僕の家じゃなかったら」
湊は続ける。
「僕のせいじゃない」
松原さんは何も言わなかった。
湊は初めて、その言葉を自分の耳で聞いた。
僕のせいじゃない。
何のせいなのか、自分でもよくわからない。
でもずっと、自分が何か違うから家がおかしいのだと思っていた。
火星人なら、違って当然だった。
松原さんは、
「お父さんとお母さん、よく喧嘩する?」
とはすぐに聞かなかった。
代わりに、
「家で一番静かな場所ってどこ?」
と聞いた。
湊は考えた。
「トイレ」
「トイレ?」
「鍵があるから」
松原さんの顔が少しだけ固くなった。
「他には?」
「図書館」
「ここ?」
「うん」
「そっか」
湊は少し心配になった。
「誰かに言う?」
松原さんはすぐには答えなかった。
「湊くんが危ない目にあってるかどうかは、ちゃんと知りたい」
湊は黙った。
「でも、勝手に全部決めたくない」
「どういうこと」
「湊くんの話をもう少し聞きたい」
湊は本を閉じた。
「火星の話でもいい?」
「もちろん」
「本当に?」
「うん」
松原さんは少し笑った。
「私はまだ火星のこと全然知らないから」
それから湊は、ときどき報告書を図書館へ持っていくようになった。
最初は見せなかった。
ただ鞄の中に入れていた。
ある日、松原さんが、
「今日も報告書ある?」
と聞いた。
湊はうなずいた。
「読んでほしい?」
湊は首を振った。
「わかった」
次の週も同じ。
その次の週。
湊は赤いノートをカウンターに置いた。
「一ページだけ」
「うん」
「声に出さないで」
「わかった」
松原さんがページを読む。
湊は顔を見なかった。
窓を見ていた。
そのページには、
火星観測局 第51報告
母個体が今日、「全部私が悪い」と言った。
父個体は「そういう意味じゃない」と言った。
地球人は相手を傷つけてから、傷つけるつもりではなかったと言う。
地球語は難しい。
私は何も言わなかった。
特記事項あり。
と書いてあった。
松原さんは読み終わって、ノートを閉じた。
「ありがとう」
それだけ言った。
湊は少し驚いた。
「何が?」
「読ませてくれて」
湊はノートを鞄に戻した。
数日後、学校から帰る途中。
湊はコンビニの前を通った。
自動ドアが開く。
誰かが出てきた。
中から、
「いらっしゃいませ」
と聞こえた。
湊は少し立ち止まった。
前なら、新しいノートが必要なときだけ入った。
今日は必要ない。
赤いノートはまだ半分以上残っている。
それでも店に入った。
棚を回る。
飲み物。
お菓子。
文房具。
レジ。
あの女性店員がいた。
湊は小さなホットチョコレートを取った。
会計。
「今日はノートじゃないんですね」
店員が言った。
湊はうなずいた。
「まだあるから」
「たくさん書いてます?」
湊は少し迷った。
「うん」
「いいですね」
また同じ言葉だった。
いいですね。
何を書いているのか聞かない。
湊は商品を受け取った。
「ありがとう」
自分から言った。
外へ出る。
冷たい空気。
湊はホットチョコレートを両手で持った。
家へ帰る道を歩いた。
家では今日も何か起こるかもしれない。
父が怒るかもしれない。
母が黙るかもしれない。
姉がドアを閉めるかもしれない。
何も起こらないかもしれない。
わからない。
でも今夜は、新しい報告書を書くつもりだった。
火星観測局 第52報告
最初の一行だけ、もう決めていた。
地球には、今のところ二個体ほど、危険度の低い地球人がいる。
湊は歩いた。
火星へ帰る方法は、まだ知らなかった。
でも地球の中に、少しだけ報告できる場所が増えていた。
Story 2 「あなたのためだから」

佐藤美奈が母からの電話に出るか迷うようになったのは、母を嫌いになったからではなかった。
むしろ逆だった。
母のことが好きだった。
スマートフォンの画面に、
お母さん
と出ている。
美奈は出版社のエレベーターを降りたところで足を止めた。
午後七時二十三分。
今日は原稿の締め切りが重なっていた。
昼食は三時にデスクで食べた。
疲れている。
でも電話に出なかったら、母は心配する。
美奈は通話ボタンを押した。
美奈:
「もしもし」
和子:
「あ、美奈? 今大丈夫?」
この「今大丈夫?」に、
大丈夫ではない、と答えたことがほとんどない。
美奈:
「うん。大丈夫」
和子:
「今日寒かったでしょう」
美奈:
「寒かった」
和子:
「ちゃんと食べた?」
美奈:
「食べたよ」
和子:
「またコンビニじゃないでしょうね」
美奈は笑った。
美奈:
「違うよ」
嘘だった。
昼食はコンビニのおにぎり二つだった。
和子:
「そういえばね」
来る。
美奈にはわかった。
母の声がほんの少し明るくなる。
和子:
「前に話した田中さんの息子さん」
美奈は目を閉じた。
「うん」
「覚えてる?」
「銀行の人?」
「そうそう。今度東京に来るんだって」
美奈は会社のエントランスを出た。
冷たい風が顔に当たる。
「へえ」
「会ってみたら?」
美奈は歩きながら答えた。
「お母さん」
「会うだけよ」
「うん」
「別に結婚しなさいなんて言ってないでしょう」
美奈は何も言わなかった。
「美奈?」
「聞いてるよ」
「お母さんね」
母の声が少し柔らかくなった。
「あなたが一人なのが心配なの」
美奈は横断歩道の前で止まった。
赤信号。
向こう側をたくさんの人が歩いている。
「わかってる」
「今は仕事が楽しいかもしれないけど」
信号が青になる。
「子どもだって、欲しいと思ったときには遅いこともあるでしょう」
美奈は歩き出した。
「うん」
「お母さんはあなたのために言ってるのよ」
「わかってる」
「じゃあ、一度だけ会ってみない?」
美奈は答えなかった。
母が続けた。
「嫌だったら断ればいいんだから」
美奈は小さく息を吐いた。
「考えとく」
母の声が明るくなった。
「ほんと?」
「考えるだけね」
「それでいいのよ」
それで母は満足した。
電話の最後に、
「風邪ひかないようにね」
と言った。
美奈も、
「お母さんもね」
と言った。
電話を切った。
母からの電話はいつも、最後まで優しかった。
だから、美奈は疲れた。
美奈は三十三歳だった。
出版社で編集の仕事をして十一年になる。
仕事は好きだった。
忙しい。
給料が特別高いわけでもない。
作家から夜中に電話が来る。
予定通りに原稿が届かない。
校了直前に百ページ直したいと言われる。
それでも好きだった。
自分が関わった本が書店に並ぶ日は、今でも少し嬉しい。
結婚が嫌いなわけではない。
恋愛もしてきた。
二十代の終わりには、三年間付き合った人がいた。
結婚の話も出た。
でも結婚しなかった。
大きな理由はなかった。
ただ、その人との十年後を考えたとき、
「違う」
と思った。
母は半年ほど落ち込んだ。
美奈本人より落ち込んでいた。
それ以来、母は以前より積極的になった。
友人の息子。
親戚の知り合い。
元同僚の甥。
「会うだけ」
が増えた。
その週末、美奈は実家へ帰った。
母から、
「肉じゃが作りすぎたから取りに来ない?」
と連絡があったからだ。
実家までは電車で四十分。
玄関を開けると、
「寒かったでしょう」
と母が言った。
そのあとすぐ、
「そんな薄いコートで大丈夫?」
と言った。
美奈は笑った。
「大丈夫」
「若い人は寒くないのねえ」
母は台所へ戻った。
鍋には肉じゃが。
テーブルには美奈の好きなほうれん草の胡麻和え。
冷蔵庫には美奈が昔好きだった麦茶。
三十三歳になっても、実家へ帰ると二十三歳くらいに戻る。
ときどき十三歳にもなる。
「食べていくでしょう?」
「うん」
「ご飯よそう?」
「自分でやるよ」
「いいの、座ってて」
母は嬉しそうだった。
美奈は座った。
こういうとき、母が自分を愛していることを疑う余地はなかった。
夕食の途中、母が言った。
「田中さんの息子さんね」
美奈は箸を止めなかった。
「うん」
「写真送ってもらったの」
「そうなんだ」
「見る?」
「いい」
「見るだけ」
母はスマートフォンを取った。
美奈は笑った。
「見ないって」
「どうして?」
「興味ないから」
母の顔が少し曇った。
「会ったこともないのに」
「だからだよ」
「一回会えばわかるでしょう」
美奈は肉じゃがのじゃがいもを箸で半分にした。
「お母さん」
「何?」
「私、今、結婚したいって思ってないんだよね」
母は少し黙った。
「今はでしょう?」
美奈は顔を上げた。
母は悪気なく言っていた。
本当に、何の悪気もない。
「うん。今は」
「だったら会うだけ会っておけばいいじゃない」
美奈はまた箸を置いた。
「なんで?」
「なんでって」
母が困った顔をした。
「あとで結婚したくなったときに、いい人がいなかったら困るでしょう」
「そのとき考えるよ」
「でも子どもは?」
「わからない」
「欲しくないの?」
「今はわからない」
母の表情が変わった。
悲しそうだった。
怒っているのではない。
悲しそうだった。
それが一番つらかった。
「美奈」
「うん」
「お母さん、あなたに幸せになってほしいだけなのよ」
美奈は答えられなかった。
その言葉に反論すると、
私はあなたの愛情を拒絶します
と言っているような気がした。
帰る前、母が大きな保存容器を二つ渡した。
肉じゃが。
きんぴらごぼう。
「こんなに食べられないよ」
「冷凍しなさい」
「肉じゃがは冷凍するとじゃがいも変になるよ」
「じゃあ早く食べなさい」
玄関で母がマフラーを直した。
「これちゃんと巻いて」
「子どもじゃないよ」
「私にとっては子どもよ」
美奈は笑った。
駅まで母と歩いた。
途中、コンビニの前で母が止まった。
「あ、ちょっと待って」
「何?」
「買うものある」
二人で入った。
母はまっすぐデザート売り場へ行った。
「これ」
小さなカスタードプリンを二つ取った。
美奈は笑った。
「まだそれ買うの?」
「好きだったでしょう」
「小学生のころね」
「今は嫌い?」
美奈はプリンを見た。
「嫌いじゃないけど」
「じゃあいいじゃない」
母は二つともかごへ入れた。
レジで、女性店員が、
「スプーン二つお付けしますか?」
と聞いた。
母が、
「お願いします」
と答えた。
外へ出ると、母はプリンを一つ美奈の袋へ入れた。
「明日食べなさい」
「ありがとう」
「ちゃんと朝ごはんも食べるのよ」
「はいはい」
駅で別れる。
母は改札の向こうまで手を振った。
美奈も振り返した。
電車に乗ってから、美奈は袋の中のプリンを見た。
少し泣きたくなった。
なぜなのか、自分でもよくわからなかった。
一か月後。
実家の押し入れを整理することになった。
母が、
「おばあちゃんのもの、そろそろ片づけようと思って」
と言った。
祖母は三年前に亡くなっていた。
母方の祖母だった。
母は祖母と仲が良かった。
少なくとも美奈にはそう見えていた。
古い着物。
写真。
年賀状。
小さな裁縫箱。
美奈が段ボールを動かしていると、古い封筒の束が出てきた。
「これ何?」
母が覗いた。
「あら」
手に取る。
「おばあちゃんからの手紙」
「手紙?」
「私が東京にいたころ」
母は二十代の初め、短い間だけ東京で働いていた。
美奈が知らない時代だった。
「読んでいい?」
「いいわよ。たいしたこと書いてないと思うけど」
美奈は一通開いた。
紙が黄色くなっている。
丸い字。
最初は、
ちゃんと食べていますか。
風邪をひいていませんか。
仕事はどうですか。
そんなことが書いてあった。
美奈は少し笑った。
「お母さんと同じこと書いてる」
「親子だからね」
続きを読む。
途中で美奈の目が止まった。
和子ももう二十五でしょう。仕事も大事だけれど、女はやっぱり家庭を持ったほうが安心です。
その次の手紙。
近所の山田さんの息子さんがとても真面目な方だそうです。一度会うだけ会ってみたらどうですか。
美奈は何も言わなかった。
もう一通。
お母さんは和子に幸せになってほしいだけです。
美奈は顔を上げた。
母は別の箱を整理していた。
「お母さん」
「何?」
「これ」
手紙を渡す。
母が読む。
最初は普通の顔だった。
途中で止まった。
しばらく、そのままだった。
美奈は何も言わなかった。
母が小さく笑った。
「おばあちゃん、こんなこと書いてたのね」
「覚えてない?」
「覚えてるような、覚えてないような」
母はもう一度読んだ。
「山田さんの息子さんって誰だったかしら」
美奈も少し笑った。
でも母は手紙を置かなかった。
「私ね」
母が言った。
「東京でもっと働きたかったの」
美奈は初めて聞いた。
「そうなの?」
「うん」
母は手紙を見ていた。
「小さな旅行会社にいたの。楽しかったのよ」
「知らなかった」
「お父さんと結婚して辞めたから」
「辞めたかったの?」
母は少し考えた。
「わからない」
その答えが、美奈には意外だった。
「嫌だったわけじゃないのよ」
母は言った。
「お父さんのこと好きだったし。結婚もしたかった。あなたが生まれて嬉しかった」
「うん」
「でも」
母は手紙を折り直した。
「もう少し東京にいたかったのかもしれない」
美奈は黙っていた。
母は自分でも初めて考えているようだった。
帰り道。
二人はいつものコンビニの前を通った。
母が止まった。
「プリン買う?」
美奈は笑った。
「今日はいい」
「嫌いになった?」
「違うよ」
少し歩いた。
母が言った。
「田中さんの息子さんのこと」
美奈は母を見る。
「断っておくね」
「うん」
また少し歩く。
「でもね」
母が言った。
「お母さん、やっぱり心配なのよ」
美奈は笑った。
「知ってる」
「一人で歳取ったらどうするんだろうとか」
「うん」
「病気になったらとか」
「うん」
「子ども欲しくなってからじゃ遅いんじゃないかとか」
「うん」
母は少し困った顔をした。
「だから、何も言わないって約束はできない」
美奈は立ち止まった。
母も止まる。
ここで美奈は初めて、母に言った。
「それでいいよ」
母が驚いた。
「いいの?」
「心配するのはいい」
美奈は少し考えた。
「でもね、お母さん」
「うん」
「お母さんが私を幸せにしたいのは、ちゃんとわかってる」
母は黙って聞いていた。
「でも、お母さんが安心できる私になることと、私が幸せになることは、同じじゃないと思う」
母はすぐには答えなかった。
通りを自転車が一台通った。
コンビニの自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
という声が外まで聞こえた。
母が小さく言った。
「難しいね」
美奈は少し笑った。
「うん」
「親って」
「子どもも難しいよ」
母も笑った。
二人は駅まで歩いた。
翌週の水曜日。
午後八時十一分。
美奈のスマートフォンが鳴った。
お母さん
美奈は仕事を終えたところだった。
少し迷ってから出た。
「もしもし」
「あ、美奈? 今大丈夫?」
「うん」
母は今日スーパーで安かった魚の話をした。
近所の人の犬の話。
父が健康診断で血圧を注意された話。
美奈の仕事の話。
十分くらい話した。
そして少し沈黙した。
美奈は待った。
「最近」
母が言った。
美奈は少し身構えた。
「どう?」
それだけだった。
いい人いないの。
結婚は。
子どもは。
何も続かなかった。
美奈はしばらく答えなかった。
「美奈?」
「うん」
「どうしたの?」
「なんでもない」
美奈は会社の窓から街を見た。
駅へ急ぐ人。
自転車。
マンションの灯り。
遠くにコンビニの看板。
「最近ね」
美奈は言った。
「けっこう楽しいよ」
母は、
「そう」
と答えた。
少し間があった。
「それならよかった」
電話を切ったあと、美奈はしばらく画面を見ていた。
母は変わったわけではない。
自分も変わっていない。
きっとまた母は何か言う。
美奈もまた腹を立てるだろう。
それでも今日、母は一つの質問を飲み込んだ。
美奈には、それがわかった。
そしてたぶん母にも、
美奈がそれに気づいたことはわからなかった。
それでよかった。
Story 3 「午後6時12分のホーム」

藤井健司は、毎日ほぼ同じ時間に会社を出た。
午後五時四十三分。
パソコンを閉じる。
部下から最後の確認を受ける。
メールを二通返す。
エレベーターで一階へ。
会社のビルを出るのが、午後五時五十六分前後。
そこから駅まで歩いて七分。
改札を通り、階段を上がる。
そして午後六時十二分。
いつものホームに立つ。
別に決めているわけではなかった。
何年も繰り返しているうちに、そうなった。
健司は四十五歳だった。
大手メーカーに勤めて二十二年。
現在は営業企画部の部長。
妻の真理子とは結婚して十八年になる。
高校一年の娘、彩。
中学二年の息子、悠人。
郊外に戸建ての家。
住宅ローンはあと十二年。
車は六年目。
健康診断では少し血圧が高いと言われた。
これといって大きな問題はない。
「藤井さんって、人生ちゃんとしてますよね」
若い部下に言われたことがある。
健司は笑った。
「何だよ、それ」
「家もあって、家族もいて、部長で」
「住宅ローンもあるぞ」
みんなが笑った。
健司自身も、自分は恵まれていると思っていた。
本当に。
その火曜日も、午後六時十二分にホームに立った。
電光掲示板。
あと三分。
向かいのホームにも人が並んでいた。
スーツ。
制服。
買い物袋。
イヤホン。
スマートフォン。
下を向く人。
時計を見る人。
ため息をつく人。
ホームに電車が入る。
扉が開く。
人が降りる。
人が乗る。
扉が閉まる。
発車する。
次の電車が来る。
また同じ。
健司は何となく向かい側を見ていた。
エスカレーターから人が上がってくる。
一定の速度。
同じ方向。
黄色い線の内側に並ぶ。
電車が来る。
扉の位置に人が集まる。
降りる人を待つ。
乗る。
閉まる。
流れていく。
その瞬間。
本当に、ほんの一瞬だった。
健司には駅全体が巨大な機械のように見えた。
人間がベルトの上を流れている。
会社から駅へ。
駅から家へ。
朝になれば家から駅へ。
駅から会社へ。
何十年も。
何万人も。
同じことを繰り返す。
健司は少し息苦しくなった。
自分の手を見る。
鞄。
スーツ。
革靴。
社員証。
そこまで考えたところで、スマートフォンが振動した。
彩からだった。
パパ、帰りにチョコ買ってきて
健司は画面を見た。
その下に、
明日のテストやばい
とある。
思わず笑った。
何味?
と返した。
すぐに、
いつもの
と来た。
電車が到着した。
健司は乗った。
機械は消えた。
ただの駅に戻った。
帰宅途中、一度だけ駅前のコンビニに寄った。
彩の好きなチョコレートを取る。
レジへ向かう途中、小さな赤いノートが並んでいた。
なぜか目に入った。
昔、似たようなものを使っていた気がする。
大学時代。
いや、高校だったか。
思い出せない。
健司はチョコレートだけ買った。
家へ帰る。
玄関を開けると、
「おかえり」
と真理子の声。
悠人はリビングでゲーム。
彩はダイニングテーブルに教科書を広げていた。
健司がチョコを置く。
「神」
彩が言った。
「安い神だな」
「最高」
健司は笑った。
その瞬間、自分がこの家族を嫌いではないことを強く感じた。
むしろ好きだった。
だから、駅で感じたことが余計にわからなくなった。
数日後。
会社で来年度の人事計画について会議があった。
部下の昇進。
異動。
採用。
数字。
三時間。
会議が終わり、同僚の杉本が言った。
「藤井、次は本部長狙えるんじゃない?」
健司は笑った。
「無理だよ」
「何言ってんの。部長になったときもそう言ってたじゃん」
「本部長は面倒そうだ」
「でも、ここまで来たら次はそこだろ」
次。
健司は少し止まった。
「どうした?」
「いや」
「疲れた?」
「たぶん」
その日の帰りも六時十二分のホームだった。
今度は機械には見えなかった。
ただ、人が多かった。
でも「次」という言葉だけが頭に残った。
係長。
課長。
部長。
次は本部長。
その次は?
役員?
定年?
健司はホームの時計を見た。
午後六時十二分。
土曜日。
健司は物置を片づけていた。
悠人が自転車の工具を探していたからだ。
古い段ボール。
キャンプ用品。
子どもが小さいころの浮き輪。
使っていない扇風機。
奥から細長い木箱が出てきた。
開ける。
古い鉋が入っていた。
健司はしばらく見ていた。
父のものだった。
父は大工ではなかった。
普通の会社員。
でも休日になると家具を作った。
小さな本棚。
椅子。
庭のベンチ。
健司も高校生のころ手伝った。
大学生になると、自分でも少し作るようになった。
初めて真理子にあげたものも、小さな木の箱だった。
「何これ」
と言われた。
「アクセサリー入れ」
「曲がってる」
「手作りだから」
真理子は笑った。
その箱は、今も寝室にある。
健司は鉋を手に取った。
木の匂いはもうほとんどしない。
「パパ、それ何?」
悠人が聞いた。
「鉋」
「使えるの?」
「たぶん」
「何作るやつ?」
「何でも」
悠人は興味を失ったように、
「へえ」
と言って工具箱を持って出ていった。
健司はしばらくそこに座っていた。
木工を最後にやったのはいつだろう。
二十五歳?
二十八歳?
結婚前か。
結婚後か。
やめようと決めた記憶はない。
忙しくなった。
子どもが生まれた。
仕事が増えた。
家を買った。
気づいたらやっていなかった。
健司は鉋を箱に戻さなかった。
その夜。
夕食のあと、真理子が食器を洗っていた。
健司はスマートフォンを見ていた。
検索画面。
木工教室 初心者 土曜日
いくつか出てくる。
近所に一つあった。
月二回。
土曜午前。
健司はページを閉じた。
また開いた。
真理子が後ろから覗いた。
「何見てるの?」
健司は少し恥ずかしくなった。
「木工」
「木工?」
「教室」
真理子が手を拭いた。
「行くの?」
「いや。見てただけ」
「行けば?」
「土曜日だぞ」
「だから?」
「家のことあるだろ」
「あなた、土曜の午前って大体テレビ見てるよ」
健司は笑った。
「そうだけど」
真理子がスマートフォンを取るように見る。
「昔やってたよね」
「覚えてる?」
「曲がった箱もらったから」
「まだ持ってんの?」
「持ってるよ」
真理子は笑った。
「申し込めば?」
健司は少し黙った。
「なんかさ」
「何?」
「今さらって感じしない?」
「四十五歳で木を削ったら逮捕されるの?」
「そういう意味じゃない」
真理子は冷蔵庫を開けた。
「じゃあいいじゃん」
健司は申し込み画面を開いた。
名前。
メール。
年齢。
初心者。
入力する。
最後に、
申し込む
のボタン。
指が止まる。
真理子が横から言った。
「何悩んでるの」
「いや」
健司は押した。
画面に、
お申し込みありがとうございます
と表示された。
それだけだった。
翌週の水曜日。
午後六時十二分。
いつものホーム。
向かい側に人。
こちら側にも人。
電車。
広告。
アナウンス。
健司はまた人の流れを見た。
この前ほど機械には見えなかった。
でも、完全に違うとも思えなかった。
自分も同じ時間に同じ場所へ来ている。
同じ会社へ二十二年通っている。
結婚。
家。
子ども。
住宅ローン。
誰かが描いた典型的な人生にかなり近い。
それは事実だった。
でも同時に。
真理子を好きになったのも事実。
彩が生まれた日のことを忘れられないのも事実。
悠人が初めて自転車に乗れたとき、自分のことのように嬉しかったのも事実。
今の仕事で誇りに思う案件もある。
健司は少し混乱した。
「工場だから偽物」
と考えれば簡単だった。
でもそんな感じはしなかった。
ホームの隣に立っていた男性が、紙袋を持っていた。
小さなケーキ屋のロゴ。
男性はスマートフォンを見て笑っている。
もしかしたら誕生日かもしれない。
何も知らない。
制服姿の女子高校生が友達と笑っている。
高齢の女性が買い物袋を持っている。
若い男性が眠そうに立っている。
みんな同じ電車を待っている。
でも同じ人生ではない。
健司は時計を見た。
六時十二分。
木工教室の初日。
健司は少し早く着いた。
参加者は八人。
六十代くらいの男性。
若い女性。
夫婦。
大学生らしい男の子。
会社員。
誰も健司の肩書きを知らない。
先生が言った。
「今日は小さな箱を作ります」
健司は笑いそうになった。
また箱だった。
木を切る。
削る。
測る。
少しずれる。
やり直す。
仕事の会議では、間違えないことが重要だった。
ここでは削りすぎたら戻らない。
でも、少しくらいずれても箱にはなる。
健司は鉋を使った。
シャッ。
薄い木屑が出る。
もう一度。
シャッ。
木の匂い。
その匂いを嗅いだ瞬間、十八歳くらいの自分を思い出した。
父の隣。
庭。
夏。
汗。
何かを完成させる必要もなく、ただ木を削っていた時間。
健司は手を止めた。
「大丈夫ですか?」
先生が聞いた。
「はい」
健司は笑った。
「ちょっと懐かしくて」
帰宅すると、真理子が聞いた。
「どうだった?」
「面白かった」
「よかったじゃん」
健司は作りかけの箱を見せた。
真理子が笑う。
「まだ曲がってる」
「昔よりマシだ」
彩が来た。
「何それ?」
「箱」
「何入れるの?」
健司は答えようとして止まった。
「まだ決めてない」
彩が言う。
「じゃあ私のアクセ入れにする」
「なんでお前のになるんだ」
「いらないんでしょ?」
「いるよ」
「何入れるの?」
健司はまた答えられなかった。
みんなが笑った。
その夜。
子どもたちが寝たあと。
健司と真理子はリビングにいた。
真理子がテレビを見ている。
健司は作りかけの箱を眺めていた。
「真理子」
「ん?」
「俺さ」
「うん」
「この生活、嫌いじゃないんだよ」
真理子がテレビから目を離した。
「急に何?」
「いや」
健司は少し笑った。
「最近ちょっと考えてて」
「何を?」
「仕事とか」
「辞めたいの?」
「違う」
真理子の顔が少し安心した。
「じゃあ何」
健司は言葉を探した。
「なんかさ」
「うん」
「結婚して」
「うん」
「子どもができて」
「うん」
「家買って」
「うん」
「昇進して」
「自慢?」
「違うって」
二人で笑った。
健司は少し真面目な顔に戻った。
「どれも嫌じゃないんだよ」
「うん」
「でも気づいたら、自分の人生にあるものって、みんな“次はこれ”って感じで増えてたなって」
真理子は黙って聞いた。
「だからって捨てたいわけじゃない」
健司は箱を触った。
「ただ、この生活の中に、俺が自分で選んだものをもう少し増やしたい」
真理子は少し考えた。
「木工?」
「例えば」
「いいんじゃない」
「それだけ?」
「何て言ってほしいの」
「もっと感動的な」
「じゃあ、健司さん、新しい人生の始まりですね」
「やめろ」
真理子は笑った。
健司も笑った。
二週間後。
午後六時十二分。
健司はいつものホームにいた。
何も変わっていない。
同じ会社。
同じスーツ。
同じ住宅ローン。
同じ電車。
同じホーム。
本部長の話もまだ断っていない。
むしろ、少し興味もあった。
それも自分だった。
電車が来る。
健司は鞄を持ち直した。
中には仕事の資料。
会社のノートパソコン。
財布。
そして、布に包んだ小さな木の箱。
まだ完成していない。
角が少しずれている。
蓋もぴったり閉まらない。
次の土曜日に直す予定だった。
扉が開く。
健司は人の流れに混ざって電車へ乗った。
外から見れば、昨日とまったく同じだった。
でも今度は、自分がどこへ向かっているのかを、ほんの少しだけ自分でも知っていた。
Story 4 「彼女が謝らなかった理由」

川村沙織は、人の話を最後まで聞くことを自分の仕事だと思っていた。
遮らない。
否定しない。
決めつけない。
「でもね」とすぐに言わない。
十九歳の莉央が初めて支援センターへ来た日も、沙織はそうした。
莉央は椅子の端に座っていた。
黒いパーカー。
膝の上で握られた両手。
目を合わせない。
「家には戻りたくない」
それだけ言った。
沙織は、
「どうして?」
とすぐには聞かなかった。
「戻りたくないんだね」
とだけ言った。
莉央の肩が少し下がった。
それから、少しずつ話し始めた。
母親のこと。
母親の恋人のこと。
学校へ行けなくなったこと。
家にいると息が詰まること。
ある夜、駅で朝まで座っていたこと。
沙織は聞いた。
この仕事をして十二年。
こういう話は何度も聞いてきた。
それでも慣れたとは思わなかった。
慣れてはいけないとも思っていた。
沙織自身も、家が安全な場所ではない子どもだった。
父親はほとんど家にいなかった。
母は沙織のことをよく見ていた。
どこへ行く。
誰と会う。
何時に帰る。
何を着る。
何を食べる。
何を勉強する。
全部、母が決めた。
「あなたは自分で決めると間違えるから」
よく言われた。
高校二年のとき、友人と旅行へ行きたいと言った。
母は泣いた。
「お母さんがこんなに心配してるのに、どうしてわからないの?」
結局、行かなかった。
大学も、自宅から通えるところを選んだ。
就職して家を出したいと言ったとき、母は三日間口をきかなかった。
沙織は二十五歳でようやく一人暮らしを始めた。
鍵を閉めたあと、自分の部屋の中で一人になった。
誰にも、
「今日はどこへ行ったの」
と聞かれない。
それだけで泣いた。
だからこの仕事を選んだ。
自分のような子に、自分で決めていいと言える人になりたい。
そう思った。
莉央は支援センターにつながって三か月ほどで、少しずつ変わった。
アルバイトを始めた。
小さなカフェ。
週四日。
センターが紹介したシェアハウスにも入った。
最初は、
「人と住むの無理」
と言っていた。
でも同年代の女性二人と暮らし始めると、思ったよりうまくいった。
沙織は嬉しかった。
本当に。
莉央が、
「昨日自分でカレー作った」
と写真を見せた日。
「給料入った」
と言った日。
新しい靴を買った日。
一つずつ、自分の人生を取り戻しているように見えた。
沙織は心の中で何度も思った。
大丈夫。もう前に進んでる。
問題が起き始めたのは、莉央に恋人ができてからだった。
相手は二十二歳。
同じカフェで働く男性。
最初に聞いたとき、沙織は笑った。
「よかったね」
莉央も笑った。
「まあね」
その笑顔を見て、沙織は本当に嬉しかった。
でも一週間後。
莉央が、
「昨日彼の家泊まった」
と言った。
沙織の中で何かが動いた。
「シェアハウスには連絡した?」
「した」
「何時に?」
「夜」
「お酒飲んだ?」
莉央が少し顔を上げた。
「飲んだけど」
「どれくらい?」
「覚えてない」
沙織は眉を寄せた。
「莉央、それは危ないよ」
「大丈夫だった」
「大丈夫だったからいい、じゃないよ」
莉央は黙った。
沙織は続けた。
「あなた、今まだ生活作り直してる途中でしょう」
その瞬間。
莉央の顔が少し変わった。
沙織は気づかなかった。
それから沙織は、莉央に聞くことが増えた。
今日はどこに泊まるの。
彼の家?
何時に帰る?
仕事は休んでない?
お金、大丈夫?
避妊してる?
莉央は最初は答えた。
そのうち、
「大丈夫」
が増えた。
「ちゃんとしてる」
「わかってる」
沙織には、その「大丈夫」が危険に見えた。
自分も若いころ、
「大丈夫」
と言って母から逃げていた。
だから余計に心配になった。
ある日、莉央が支援センターに来なかった。
連絡もない。
沙織は三回メッセージを送った。
今日予約だったよ。大丈夫?
一時間後。
何かあったら連絡してね。
さらに一時間。
心配しています。返事だけください。
夜になって、
ごめん寝てた
と返ってきた。
沙織はすぐ電話した。
「もしもし」
「うん」
莉央の声は眠そうだった。
「今日来なかったから心配したよ」
「ごめん」
「今どこ?」
「彼の家」
沙織は目を閉じた。
「また?」
電話の向こうが静かになった。
「何」
「最近、彼の家にいること多くない?」
「別にいいじゃん」
「いい悪いじゃなくて」
「じゃあ何?」
沙織は少し強い声になった。
「あなた、シェアハウスにもルールがあるでしょう」
「連絡してる」
「仕事は?」
「行ってる」
「本当に?」
電話が切れた。
沙織は画面を見た。
胸がざわついた。
怒っているのではない。
心配している。
そう思った。
次の面談日。
莉央は来た。
でも椅子に深く座り、腕を組んでいた。
沙織はいつものように、
「最近どう?」
と聞いた。
「普通」
「仕事は?」
「普通」
「彼とは?」
莉央は沙織を見た。
「その話したくない」
沙織は少し驚いた。
「どうして?」
「したくないから」
沙織は一度黙った。
本当なら、
「わかった」
と言うところだった。
それが自分の仕事だった。
でもその日は言えなかった。
「莉央」
「何」
「私が心配してるの、わかってる?」
莉央は目をそらした。
「わかってる」
「あなた、前に家で自由がなかったって言ってたでしょう」
「うん」
「せっかくここまで生活作ったのに、また誰かに依存して」
莉央の顔が硬くなった。
「依存してない」
「でも」
「してないって言ってる」
沙織は少し声を落とした。
「私はあなたのために言ってるの」
その瞬間。
自分の声だけが、部屋から遅れて聞こえたような気がした。
あなたのために言ってるの。
母の声。
高校二年。
旅行へ行きたいと言った夜。
母が泣きながら言った。
お母さんはあなたのために言ってるの。
沙織は止まった。
莉央は沙織を見ていた。
目が怖かった。
怒っているというより、閉じていた。
「莉央」
沙織が言った。
莉央は立ち上がった。
「帰る」
「待って」
「やだ」
「話そう」
莉央が振り返った。
「沙織さんも、私が嫌だって言ってるのに聞かないよね」
沙織は何も言えなかった。
「お母さんと同じ」
莉央は出ていった。
ドアが閉まった。
沙織はその場で謝らなかった。
謝えなかった。
「ごめん」
と言うだけなら簡単だったはずなのに。
身体が拒否した。
その言葉を口にしたら、
自分がずっと信じてきたものが壊れる気がした。
私は支援する側。
私はわかっている側。
私は傷つけられた人の味方。
私は母とは違う。
その全部が一緒に崩れる。
沙織は誰もいない面談室に座っていた。
椅子が二つ。
テーブル。
ティッシュ。
壁の時計。
いつも通り。
でも、自分が座っている側が突然わからなくなった。
仕事が終わっても家へ帰る気になれなかった。
駅前を歩いた。
人が多い。
夕食へ向かう人。
帰宅する人。
笑っている学生。
沙織は一度だけコンビニに入った。
何も欲しくなかった。
ただ明るかった。
レジの声。
電子音。
冷蔵ケースの低い音。
客は普通におにぎりや水を買っている。
窓際の席が一つ空いていた。
沙織はペットボトルの水だけ買って座った。
スマートフォンを開く。
莉央へ送る文章を書く。
さっきはごめんね。
消した。
言い方が悪かった。
消した。
それも違う。
言い方だけではない。
自分が莉央の人生を「危ない」「正しい」で整理し始めていた。
それを認めたくなかった。
画面を閉じた。
翌日。
同僚の田村が聞いた。
「昨日、莉央ちゃん怒って帰った?」
沙織は一瞬、
「ちょっとね」
で終わらせようとした。
でもやめた。
「私がやった」
田村が見る。
「何を?」
沙織は話した。
全部ではない。
でも、
「あなたのために言ってる」
と言ったところまで。
田村はすぐに慰めなかった。
「どう思った?」
沙織は苦笑した。
「母と同じこと言った」
「うん」
「最悪」
田村は少し考えた。
「最悪な人になった?」
沙織は顔を上げた。
「何それ」
「自分でそう思ってる顔してる」
沙織は黙った。
田村が言った。
「沙織さんが莉央ちゃんを心配したことは本物でしょう」
「うん」
「でも、莉央ちゃんが怖かったのも本物かもしれない」
沙織は目を伏せた。
第二部で誰かが言ったような言葉だった。
二つとも本物。
沙織には、それが一番苦しかった。
片方が嘘なら楽だった。
莉央は次の面談をキャンセルした。
その次も。
沙織は連絡しなかった。
したかった。
何度も。
でも、自分が安心したいから連絡したくなっている可能性があった。
代わりに、センターの規則通り、担当を田村にも共有した。
「もし莉央が希望するなら、担当変えてください」
自分で言った。
その言葉にも少し傷ついた。
自分が必要ではなくなることが怖かった。
そこにも気づいた。
二週間後。
莉央から短いメッセージが来た。
話だけなら行く
沙織は返信した。
わかりました。待っています。
余計なことは書かなかった。
莉央は前と同じ椅子に座った。
沙織は向かいにいた。
しばらく何も話さなかった。
莉央が言った。
「謝らないの?」
沙織は心臓が少し強く鳴るのを感じた。
「謝りたい」
「じゃあ謝れば」
「うん」
沙織は一度息を吸った。
「ごめんなさい」
莉央は何も言わない。
沙織は続けた。
「でも、二週間前にすぐ謝えなかった理由も言っていい?」
莉央は肩をすくめた。
「別に」
沙織は手を見る。
「謝ったら」
言葉を探す。
「自分がどんな人間か、変わってしまう気がした」
莉央が少し眉を寄せる。
「どういうこと?」
「私はずっと、自分は傷つけられた側だと思ってた」
莉央は黙っている。
「それでこの仕事を選んで、誰かの自由を守りたいと思ってた」
沙織は一度止まった。
「だから、私も誰かを怖がらせることがあるって認めるのが怖かった」
莉央は沙織を見た。
「私のこと心配してたのは本当」
「うん」
「でも、心配してるからって、私が嫌って言ってること聞かなくていいわけじゃない」
沙織はうなずいた。
「そう思う」
「彼のこと嫌いなの?」
「会ったことないから嫌いじゃない」
「じゃあ何」
「怖かった」
莉央の表情が少し変わった。
「何が?」
沙織は正直に言った。
「莉央がまた誰かに人生を全部預けて、傷つくんじゃないかって」
「私が?」
「うん」
「でもそれ、沙織さんの怖さじゃん」
沙織は少し驚いた。
そしてうなずいた。
「そうだね」
莉央も少し驚いたようだった。
沙織は続けた。
「私が心配していることと、莉央が決めることを分けたい」
「できるの?」
「練習する」
莉央が少し笑った。
初めてだった。
「何それ」
「できるって言うとまた嘘になるから」
莉央は少し下を向いた。
沙織が聞いた。
「彼の話、今日はしたくない?」
莉央は考えた。
「少しなら」
沙織はうなずいた。
それ以上質問しなかった。
莉央が自分から話し始めるまで待った。
面談が終わったあと、莉央はドアの前で止まった。
「沙織さん」
「うん」
「まだちょっとムカついてる」
沙織は少し笑った。
「うん」
「謝ったから終わりじゃないから」
「わかってる」
莉央はドアを開けた。
「じゃあまた」
「また」
ドアが閉まった。
沙織は一人になった。
胸は軽くならなかった。
全部許された感じもしなかった。
でもそれでよかった。
謝罪は、自分を元の「いい人」に戻してもらうためのものではない。
沙織はようやく少しだけそう思えた。
机の上の支援記録を開いた。
いつもの欄が並んでいる。
生活。
就労。
住居。
安全。
沙織はペンを持った。
少し考えてから、余白に自分だけがわかる小さな文字で書いた。
心配と支配を混ぜない。
そして線を引かなかった。
忘れないために、そのまま残した。
Story 5 「ここにいるだけ」

森本玲子は、朝六時四十分に目を覚ました。
目覚ましは七時にセットしていた。
まだ二十分ある。
もう一度寝ようと思ったが、眠れなかった。
天井を見る。
窓の外では、ゴミ収集車の音が遠くに聞こえた。
隣の部屋から、水道を使う音。
上の階では、小さな子どもが走っている。
玲子は布団から起きた。
六十四歳。
去年、小さな翻訳会社を退職した。
今は週二日だけ、駅から少し離れた書店で働いている。
結婚はしなかった。
子どももいない。
一人暮らしは三十年以上になる。
「寂しくない?」
何度聞かれただろう。
若いころ。
三十代。
四十代。
五十代。
聞き方だけ少しずつ変わった。
二十代なら、
「いい人いないの?」
三十代なら、
「まだ結婚する気ないの?」
四十代になると、
「一人で大丈夫?」
五十代以降は、
「老後どうするの?」
玲子はそのたび、
「どうするんでしょうね」
と笑った。
本当に、どうするのか全部決めているわけではなかった。
朝食はトーストとヨーグルト。
コーヒー。
新聞は取っていないので、タブレットでニュースを読む。
七時四十五分。
今日は仕事のない日だった。
午前中に図書館へ行く。
午後は友人の誕生日プレゼントを探す。
夕方、郵便局。
それだけ。
特別な予定はない。
玲子はこういう日が嫌いではなかった。
九時半。
市立図書館。
入口の横に、小さな男の子が立っていた。
赤いノートを胸に抱えている。
十一歳くらいだろうか。
玲子は少年の横を通った。
少年は少しだけ空を見ていた。
冬の薄い青空。
何を見ているのだろう。
玲子は気にせず中へ入った。
借りていた小説を返す。
歴史の棚。
エッセイ。
新刊。
三冊借りた。
カウンターの向こうで、司書の女性が少年に何か話している。
少年が赤いノートを開いた。
玲子には関係のないことだった。
でもなぜか、帰り際に一度だけ振り返った。
少年は少し笑っていた。
昼過ぎ。
玲子は駅近くのカフェに入った。
コーヒーとサンドイッチ。
窓際の席。
隣のテーブルには、三十代くらいの女性と六十代くらいの女性が座っていた。
親子だろうか。
若いほうが言った。
「だから、心配してることと言うことは別なんだって」
年上の女性が、
「わかってるって」
と答えた。
少し間があった。
「でも心配なのよ」
若い女性が笑う。
「それは止めなくていいよ」
年上の女性も笑った。
玲子は本を開いた。
会話はもう聞かなかった。
誰にでも何かある。
親子なら親子の。
夫婦なら夫婦の。
一人なら一人の。
玲子はそう思った。
午後二時。
玲子は友人への誕生日プレゼントを探していた。
高校時代からの友人、恭子。
六十五歳。
孫が三人いる。
夫と二人暮らし。
最近、陶芸を始めた。
去年の玲子の誕生日には、小さな湯のみをくれた。
少し歪んでいた。
玲子は気に入っている。
陶芸店で、小さな道具入れを買った。
会計をしていると、スマートフォンが鳴った。
恭子だった。
「もしもし」
「玲子、今日暇?」
「まあね」
「今、孫預かってるんだけど、もう大変」
後ろから子どもの声。
玲子は笑った。
「楽しそうじゃない」
「一時間ならね」
「何時間いるの」
「朝から」
「じゃあ頑張って」
「冷たい」
二人で笑った。
電話の最後に恭子が言った。
「来月、温泉行こうよ」
「いいよ」
「平日に」
「あなた孫は?」
「娘に返す」
玲子は笑った。
電話を切った。
少しだけ羨ましいと思った。
孫の声。
家族が集まる家。
誰かが、
「おばあちゃん」
と呼ぶ人生。
玲子にはない。
それを欲しかった時期も、たぶんあった。
でも、欲しかったかもしれないものと、今持っていないことへの後悔は、同じではなかった。
午後四時半。
郵便局へ行く途中、駅を通った。
ホームの時計は六時十二分にはまだ早い。
それでも帰宅する会社員が少しずつ増えていた。
玲子はベンチに座り、電車を待った。
向かいのホームに、四十代くらいの男性が立っている。
スーツ。
鞄。
何の特徴もない。
男性は鞄の中から、布に包んだ小さな木の箱を少しだけ出した。
蓋を確認する。
またしまう。
玲子は、
「手作りかな」
と思った。
電車が来た。
男性は人の流れに入っていった。
玲子も反対方向の電車へ乗った。
互いの名前を知らない。
もう会うこともないかもしれない。
夕方。
玲子は駅から家まで歩いた。
横断歩道で信号を待つ。
少し前に二人の女性がいた。
一人は四十歳くらい。
もう一人は二十歳前後。
二人の間には少し距離があった。
若い女性が何か言った。
年上の女性が答える。
声は聞こえない。
でも若いほうが少し笑った。
年上の女性も笑った。
信号が青になる。
四人、五人、十人。
知らない人たちが一斉に歩き出す。
玲子もその中に入った。
数秒後には、みんな別々の方向へ消えた。
家の近くで、一度だけコンビニに寄った。
夕食用の小さな弁当。
ヨーグルト。
炭酸水。
それだけ。
レジへ向かう途中。
文房具の棚に赤いノート。
デザート売り場にカスタードプリン。
菓子棚にチョコレート。
窓際には誰も座っていなかった。
玲子には、それらが何かを意味しているわけではない。
ただの商品だった。
レジの女性店員が、
「袋はご利用ですか?」
と聞いた。
「お願いします」
「お箸お付けしますか?」
「はい」
会計を終える。
玲子は店を出た。
自動ドアが閉まった。
帰宅すると、郵便受けに葉書が一枚あった。
元同僚からだった。
家族写真。
娘夫婦。
孫。
中央に元同僚と夫。
みんな笑っている。
初孫が生まれました。毎日忙しいけれど幸せです。
玲子は写真をしばらく見た。
いい写真だった。
本当に幸せそうだった。
「よかったね」
小さく言った。
葉書を棚に置く。
昔なら、こういうものを見ると少し胸がざわついた。
自分が選ばなかった人生。
結婚式。
子ども。
家族写真。
孫。
誰かが帰ってくる家。
その人生を一度も想像しなかったわけではない。
二十九歳のとき、結婚を考えた男性もいた。
でも別れた。
理由はもう一つにはまとめられない。
仕事もしたかった。
一人でいたかった。
彼の家族との関係が重かった。
彼自身にも少し疲れていた。
自分にも問題があった。
ただ別れた。
それから何度か恋愛した。
結婚には至らなかった。
そして時間が経った。
「選ばなかった」
と、
「選べなかった」
の間にある人生。
玲子は自分の人生をそう感じることがあった。
全部を意思で決めたわけでもない。
全部を社会に決められたわけでもない。
偶然。
臆病。
仕事。
出会い。
別れ。
自由。
寂しさ。
いろいろ混ざっている。
それで六十四歳になった。
夕食を食べながら、テレビをつけた。
旅番組。
夫婦が定年後にキャンピングカーで日本を回っている。
楽しそうだった。
玲子は少し羨ましかった。
「一人じゃキャンピングカーは面倒だな」
声に出した。
すぐに笑った。
誰も聞いていない。
食べ終わり、皿を洗う。
ヨーグルトは明日の朝に回した。
炭酸水を開ける。
八時過ぎ。
恭子から写真が届いた。
孫がソファで寝ている。
やっと寝た
玲子は、
お疲れさま
と返した。
少しして、
来月の温泉忘れないでよ
と来た。
忘れない
と返す。
スマートフォンを置いた。
部屋が静かになった。
玲子は静かな部屋が好きだった。
同時に、ときどき嫌いだった。
その両方だった。
九時。
窓を開けた。
冷たい空気が入る。
遠くを電車が走る音。
どこかで犬が吠える。
救急車。
誰かが自転車で通る。
近くの家から笑い声。
少し離れたところには、さっきのコンビニの看板が見える。
明るい四角。
今も誰かが入っている。
水を買う人。
夜勤へ行く人。
家族のために牛乳を買う人。
一人分の弁当を買う人。
きっと、それぞれ違う。
玲子は今日すれ違った人たちを思い出した。
赤いノートを持った少年。
カフェの母娘。
木の箱を持った会社員。
横断歩道の二人。
何を考えているかは知らない。
幸せかどうかも知らない。
玲子自身も、彼らから見ればただの六十代の女性だっただろう。
もしかしたら、
一人でかわいそう。
自由でいいな。
地味な人生。
気楽そう。
そんなふうに見えるかもしれない。
どれも少し当たっている。
どれも足りない。
棚には、旅行の写真がいくつかあった。
一人で行った台湾。
恭子と行った京都。
昔の恋人と行った北海道。
両親と最後に行った箱根。
その横に、会社を辞めたときにもらった小さな時計。
立派な賞状はない。
子どもの写真もない。
家族の系譜を未来へつなぐ人間でもない。
社会に何か大きなものを残したとも思わない。
翻訳会社で二十八年間働いた。
何千ページも他人の言葉を日本語にした。
その大半はもう覚えていない。
それでも毎朝起きた。
働いた。
誰かを好きになった。
別れた。
友達ができた。
親を見送った。
失敗した。
笑った。
一人で泣いた夜もあった。
そして今日も、一日が終わる。
玲子は思った。
それで足りないのだろうか。
誰に聞いているのか、自分でもわからなかった。
すぐに別のことを考えた。
明日の朝のパンがない。
冷蔵庫を開ける。
本当にない。
「買うの忘れた」
玲子は笑った。
さっきコンビニへ行ったのに。
もう一度行く気にはならなかった。
明日は少し早く家を出て、書店へ行く途中で買えばいい。
窓を閉める。
カーテンを引く。
玲子は明日の予定をスマートフォンに入れた。
パン
それだけ。
人生の意味は、まだ書かなかった。
書く必要もない気がした。
明日になれば、パンを買う。
その次の日には、恭子へ誕生日プレゼントを渡す。
来月は温泉へ行く。
春になれば、図書館までの道の桜が咲く。
それより先は、まだわからない。
玲子は部屋の灯りを消した。
街には、まだたくさんの窓が光っていた。
その一つひとつの中で、誰かがそれぞれの人生を続けていた。
玲子もその一人だった。
最後に

5つの物語の最初に登場した湊は、自分を火星人だと思うことで自分を守っていました。
彼に必要だったのは、
「君は火星人ではない」
と現実を教えることだけではありませんでした。
まず必要だったのは、
「火星では、家の中も静かなの?」
と聞いてくれる人でした。
自分の世界を壊す前に、その世界がなぜ必要なのかを見てくれる人です。
美奈の母、和子は娘を傷つけようとしていたわけではありません。
娘を愛していました。
だからこそ、
「あなたのため」
と言いました。
しかし古い手紙を開いたとき、その言葉が自分の母親から受け取ったものだったことを知ります。
「普通」は法律や制度だけによって受け継がれるわけではありません。
ときには、愛する人から愛する人へ渡されていきます。
健司は別の答えを見せました。
社会が示す人生を歩いたからといって、その人生が偽物になるわけではありません。
妻を愛している。
子どもを愛している。
仕事にも誇りがある。
それでも、
「この人生の中に、自分で選んだものをもう少し増やしたい」
と思うことはできる。
人間工場から逃げることだけが自由ではない。
その中に自分の選択を少しずつ取り戻すことも、自由の一つなのかもしれません。
そして沙織は、もっと苦しい境界へ進みました。
傷つけられた人は、永遠に「傷つけられる側」にだけいるわけではありません。
自分の傷から生まれた恐怖が、善意や心配という形を取り、別の誰かの自由を奪うこともある。
だから沙織は、
「私が心配していることと、あなたが決めることを分けたい」
と学び始めました。
これは『地球星人』を考えるうえでも大切な境界です。
人の傷を理解することと、その人のすべての行動を肯定することは同じではありません。
そして最後に玲子が登場します。
彼女には劇的な出来事が起こりません。
世界を変えません。
人生の使命も発見しません。
ただ一日を生きます。
図書館へ行き、昼食を食べ、友人と電話し、電車に乗り、夕食を買い、家へ帰る。
その途中で、前の4作品の人物たちとすれ違います。
玲子は彼らの物語を知りません。
彼らも玲子の人生を知りません。
読者だけが知っています。
赤いノートを抱えている少年にも世界がある。
カフェで話している母娘にも世界がある。
ホームに立つ会社員にも世界がある。
横断歩道を渡る二人にも世界がある。
そして、一人で夕食を買って帰る64歳の女性にも世界がある。
外から見れば、誰もそのすべてを知ることはできません。
それは奈月も同じだったのではないでしょうか。
「宇宙人」
「普通ではない人」
「社会に適応できない人」
そんな言葉だけでは、その人の中にある世界までは見えません。
『地球星人』が突きつけた「地球人」という言葉を、ここでもう一度考えてみると、少し違って見えてきます。
もしかすると私たちは、完全な地球人と地球人ではない人に分かれているのではない。
誰もが社会に合わせている部分を持ち、誰にも見せていない部分を持ち、その間を行ったり来たりしながら生きているのかもしれません。
5人は最後まで出会いません。
同じ街ですれ違うだけです。
それでも同じ街にいる。
同じ地球にいる。
そして玲子は、その人生に大きな意味を見つける代わりに、明日の予定に一言だけ書きました。
「パン」
それでいいのかもしれません。
生きている理由を証明してから、生きるのではない。
何者かになってから、ここにいる資格を得るのでもない。
明日パンを買う。
誰かに電話する。
仕事へ行く。
木を削る。
誰かの話を聞く。
赤いノートに一行書く。
そんな小さな続きを重ねながら、人は生きていく。
奈月が問い続けた、
「地球人にならなくても、ここにいていいのか。」
5つの物語から返せる答えがあるとすれば、とても短いものです。
ここにいていい。
ただし、それは自分だけに許される自由ではありません。
隣にいる、自分とは違う誰かにも同じ場所を残すこと。
そこまで含めて初めて、「ここにいていい」という言葉は、本当の意味を持ち始めるのかもしれません。
Short Bios:
村田沙耶香
日本の小説家。社会が「普通」と呼ぶ生き方、性、結婚、家族、身体、労働、人間らしさなどを、独特の視点から描いてきました。『コンビニ人間』で芥川賞を受賞し、海外でも広く読まれています。『地球星人』では、社会そのものを異質なものとして見る奈月を通して、「正常」とは誰が決めるのかという問いを極端な地点まで押し広げています。
『地球星人』
村田沙耶香による長編小説。自分を地球人ではないと考える奈月を中心に、幼少期の傷、家族、性、結婚、生殖、社会規範、「人間工場」という感覚が描かれます。衝撃的な展開の奥に、「社会に適応するとは何か」「人と違ったまま生きることは可能なのか」という問いを持つ作品です。
5つの現代短編について
「火星から来た男の子」「あなたのためだから」「午後6時12分のホーム」「彼女が謝らなかった理由」「ここにいるだけ」は、『地球星人』の登場人物や物語を再現したものではなく、作品から浮かび上がるテーマを現代の異なる人生へ広げるために制作したオリジナルフィクションです。

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