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Imaginary Conversation

Imaginary Conversation

Exploring the World Through Dialogue.

村田沙耶香 世界99 考察|6人の作家・思想家が問う「本当の自分」と自由

August 28, 2026 by Nick Sasaki Leave a Comment

はじめに

村田沙耶香『世界99』を読み終えたあと、私たちに残るのは、物語の意味を一つにまとめた「答え」ではありません。

むしろ、いくつもの不快な問いです。

如月空子には、本当に「自分」がないのでしょうか。

人によって人格を変えることは、自分を失うことなのでしょうか。それとも、誰もが程度の差こそあれ行っている生存の方法なのでしょうか。

女性が家事、育児、介護、生殖といった負担から解放されたとき、その負担を別の存在が引き受けているなら、それを自由と呼べるのでしょうか。

傷つけられた経験は、人を優しくするのでしょうか。

他人の悲劇に涙を流すことは、本当に共感なのでしょうか。それとも、その苦しみを安全な場所から消費しているだけなのでしょうか。

怒りも対立も減った社会は、私たちが望んできた平和なのでしょうか。

そして、人間同士が記憶や感情まで共有し、完全に分かり合えるようになったとき、「私」と「あなた」が別々であることには、まだ意味があるのでしょうか。

今回の仮想対話では、作家ルース・オゼキとカズオ・イシグロ、哲学者の國分功一郎とマーサ・ヌスバウム、社会学者の上野千鶴子、政治理論家ジョアン・トロントという六人の視点から、『世界99』が投げかける問題を考えました。

彼らは作品に一つの正解を与えません。

固定された自己など必要ないと考えれば、では責任はどこにあるのかという問いが現れる。

女性の苦役を減らすべきだと考えれば、ではその苦役を誰が引き受けるのかという問いが現れる。

共感を大切にすれば、他人の苦しみを自分の感動のために利用していないかという問いが現れる。

怒りを減らせば、社会は穏やかになる。しかし、不正に対して「嫌だ」と言う能力まで失ってよいのでしょうか。

そして完全な理解を求めれば、最後には「他者」がいなくなってしまうかもしれない。

『世界99』の恐ろしさは、人間の悪意だけを描いていることではありません。

むしろ私たちの、ごく普通で善良にさえ見える願いから世界が変わっていくことです。

楽になりたい。

傷つきたくない。

理解されたい。

愛されたい。

争いたくない。

自由になりたい。

どれも自然な願いです。

だからこそ、この作品が突きつける問いは簡単ではありません。

私たちがより楽に、より安全に、より平和に生きられる世界を作ったとき、その世界の外側へ押し出された存在はいないでしょうか。

そして、もし誰も外側へ追いやらない世界を作るために、すべての人を同じにしなければならないとしたら。

私たちは、それを望むのでしょうか。

(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)


Table of Contents
はじめに
Topic 1|あなたはいくつの世界に住んでいますか?
Topic 2|楽になったとき、その苦しみはどこへ行ったのか?
Topic 3|傷ついたことは、私たちを善い人にしてくれるのか?
Topic 4|怒らなくなれば、人間は優しくなったことになるのか?
Topic 5|違うままでいることには、どんな価値があるのか?
最後に

Topic 1|あなたはいくつの世界に住んでいますか?

世界99 考察 1

部屋の中央には、『世界99』が一冊置かれていた。

その隣には、何も書かれていない白い紙が一枚だけある。

誰かがそこに「本当の自分」と書こうとして、やめたようにも見えた。

最初に口を開いたのは、ルース・オゼキだった。

ルース・オゼキ:
私は空子を読んでいて、最初からそれほど奇妙な人だとは思わなかったんです。

もちろん彼女の〈呼応〉や〈トレース〉は極端です。でも、人によって自分が変わるという感覚そのものは、かなり普通のことではないでしょうか。

母親と話しているときの自分。

昔の友人と話しているときの自分。

仕事をしているときの自分。

恋人の前にいる自分。

一人でいるときの自分。

全部、少しずつ違う。

それなのに私たちは、その奥に必ず一人だけ「本物の私」がいるはずだと思いたがります。

私はそこから疑いたいです。

國分功一郎:
そうですね。

むしろ、「本当の自分」という言葉が強すぎるんだと思います。

本当の自分が一つあって、社会の中ではそれを隠したり演じたりしている。

そういう図を最初から採用すると、空子は「自分を失った人」に見えます。

でも、その図自体が正しいのか。

そこを考えなければいけない。

ルース:
私自身、子どものころから、場所によって違う自分がいたように感じていました。

父親の前の自分。

母親の前の自分。

学校の自分。

日本文化に触れている自分。

アメリカで生活している自分。

どれか一つだけを取り出して、「これが本当の私です」と言うのは、とても難しい。

むしろ、そういう複数の関係の中で現れるもの全部が「私」なのかもしれません。

國分:
そこは非常に重要ですね。

人間は、関係の外で出来上がっている存在ではない。

まず完成した「私」がいて、その私が後から社会へ出ていくわけではありません。

生まれたときから、言葉を教えられ、価値観を与えられ、欲望の形さえ周囲から影響を受ける。

その意味では、「世界の影響を受けていない純粋な自分」を探すことは、かなり難しい。

マーサ・ヌスバウム:
ただ、私はそこに一つ警戒も感じます。

もし「人はみな環境によって作られている」という話だけで終わってしまうと、責任が弱くなりませんか。

「私はそういう環境で育ったから」

「その社会では普通だったから」

「みんなそうしていたから」

そうやって、自分の行為から距離を取ることができてしまう。

空子という人物の面白さも、まさにそこにあるように思います。

彼女は多くの場面で、

「この世界ではこうだから」

と生きられる。

でも、その世界の中で誰かが傷ついているとき、彼女はどこまで責任を持つのでしょう。

國分:
そこは「自由」と「責任」を分けて考えない方がいいと思います。

私たちは普通、自由というと、

「何の影響も受けずに、自分の意志だけで選んだ」

という状態を想像します。

でも実際には、そんな選択はほとんどない。

今日何を食べたいと思うかですら、文化や習慣や身体状態から影響を受けています。

恋愛もそう。

職業もそう。

誰を好きになるかも、何を恥ずかしいと思うかも、かなり社会的に作られている。

だから、

「完全に自由ではない」

ということと、

「何の責任もない」

ということは同じではありません。

ルース:
それは仏教的な考え方とも少し近いですね。

固定された、永遠に変わらない「私」はない。

でもだからといって、

「私は存在しません。だから何をしても構いません」

とはならない。

むしろ逆です。

自分が他者との関係の中で作られているなら、自分の行為もまた関係の中に影響を与えていく。

私と世界は切り離せない。

だから責任がなくなるのではなく、むしろ責任の範囲が広がる。

國分:
そうですね。

私は責任を、「完全に自由に選んだから責任を負う」と考えるよりも、

自分が置かれた状況にどう応答するか

という問題として考えたい。

空子は、自分の人格が社会によって作られたことを理由にして、すべてから逃げることもできる。

でも、一度何かに気づいてしまったらどうなのか。

例えば、

自分の楽さを誰かが支えている。

誰かが傷ついている。

自分もそこから利益を得ている。

それを知った後は、

「私はこういう世界の人だから」

だけでは済まない。

そこで初めて、

「では、私はどう応答するのか」

という問題が出てくる。

しばらく沈黙があった。

カズオ・イシグロが本に目を落としたまま言った。

カズオ・イシグロ:
私は少し違うところが気になります。

空子は、本当に「自分がない」のでしょうか。

むしろ彼女には、非常に一貫したものがあるようにも見える。

彼女はずっと、安全でいたい。

楽でいたい。

世界と衝突したくない。

それは人格ではないのでしょうか。

ルース:
面白いですね。

確かに。

「私は何者でもない」と言っている人にさえ、

「何者でもない状態を守りたい」

という欲望がある。

國分:
そうなんです。

空子には固定された性格がないように見える。

でも、行動原理はかなり一貫している。

安全。

摩擦の回避。

楽さ。

状況への適応。

これは十分に「彼女らしさ」と呼べるのではないか。

ヌスバウム:
すると、「自分がない」のではなく、

「自分を主張しないことを選び続けている人」

とも言えますか。

國分:
そこは慎重にしたいですね。

「選んでいる」と言い切ると、また自由意志の問題に戻ってしまう。

私は、

そうするようになった

と言いたい。

空子は、ある時点で完全に意識的に、

「今日から私は自己を薄くします」

と決めたわけではない。

少しずつ学習した。

こうすれば怒られない。

こうすれば嫌われない。

こうすれば安全。

こうすれば楽。

それが身体化されていった。

ルース:
そして、それは多くの人に起こっていることですよね。

子どもはとても早く学びます。

この家では、こういう感情は出してはいけない。

この学校では、こういう子でいると好かれる。

この職場では、こういう話し方をした方が安全。

女性ならこう。

男性ならこう。

長男ならこう。

外国人ならこう。

空子はそれを極端に可視化している。

上野千鶴子:
私はそこに、ジェンダーの問題もかなり強く感じます。

特に女性には、

「相手の気持ちを察する」

「場を壊さない」

「感じよく振る舞う」

「相手に合わせる」

という能力が、美徳として要求されやすい。

空子の〈呼応〉は極端ですけれども、完全に異質な能力ではありません。

むしろ女性に長く求められてきた適応能力を、非常に純粋な形で取り出したようにも見える。

ジョアン・トロント:
そして、そういう適応はしばしば「ケア」と混ざります。

他人が何を必要としているか察する。

空気を読む。

衝突を避ける。

関係を保つ。

それ自体は人間社会に必要な能力です。

問題は、それをいつも同じ人が担当するときです。

すると、

「よく気がつく人」

「優しい人」

「空気を読める人」

が、少しずつ自分の欲望を後回しにするようになる。

上野:
しかも本人も、

「私はそういう性格だから」

と思い始めるんですね。

そこが怖いところです。

社会的に要求された役割が、いつの間にか本人の性格に見えてくる。

ルース:
では、その人の「本当の気持ち」はどこにあるのでしょう。

上野:
私は、必ずしも「奥に眠っている本当の気持ち」があるとは思いません。

それより、

「嫌だと言える余地があるか」

の方が大切だと思います。

國分:
それは非常にいい言い方ですね。

本当の自分を発見することより、

拒否できるかどうか。

上野:
そう。

あなたが相手に合わせているとしても、それをいつでもやめられるなら問題は小さい。

でも、

合わせなければ居場所を失う。

愛されなくなる。

仕事を失う。

家族から排除される。

そういう状況なら、それは単なる「柔軟な人格」ではなくなる。

ヌスバウム:
つまり自己の問題を、内面だけではなく自由の条件から見る必要がある。

上野:
そう思います。

「あなたは本当は何をしたいの?」

という質問は、一見とても優しい。

でも、場合によっては残酷です。

長い間、自分の欲望より他人の要求を優先してきた人に、突然、

「本当の自分を見つけなさい」

と言っても分からない。

そして分からない本人をまた責める。

「自分を持っていない」

「主体性がない」

と。

ルース:
それは空子が第一部で言っていたことにも近いですね。

「普通になりなさい」と言われて苦しんだ人に、

今度は「自分らしくなりなさい」と言う。

命令の内容は変わった。

でも命令であることは変わっていない。

國分:
非常に現代的な問題ですね。

自分らしく。

自分の人生を選べ。

自分の好きなことを仕事にしろ。

自分の意見を持て。

一見すると自由の言葉です。

でも、それが義務になる。

「自分らしくできないあなた」に責任が返ってくる。

イシグロ:
そして興味深いのは、

「自分らしく生きる」

という文化も、結局一つの世界なのかもしれないということです。

ルース:
そうですね。

「本当の自分を発見することが人生の目的だ」

という価値観も、普遍的真理とは限らない。

一つの文化的世界観です。

國分:
そこから『世界99』というタイトルに戻れると思います。

私たちは、

「現実は一つ」

と考えています。

でも、同じ事実を見ても、それを意味づける世界は違う。

あるコミュニティでは、

「結婚しないなんてかわいそう」

と言われる。

別のコミュニティでは、

「結婚するなんて自由を捨てるの?」

と言われる。

どちらも自分の世界では自然です。

上野:
子どもを持つこともそうですね。

産まなければ、

「後悔する」

と言われる世界もあれば、

産めば、

「なぜ自分の人生を犠牲にしたの」

と言われる世界もある。

トロント:
仕事も同じです。

家族を優先する人を「向上心がない」と見る世界。

仕事を優先する人を「家族を大切にしない」と見る世界。

どちらも内部に入ると、自分の常識になります。

ヌスバウム:
ただ、ここで相対主義に行くのは危険ですね。

「世界が違うから、何でも正しい」

とはならない。

國分:
もちろんです。

でも、まず自分の正しさも一つの世界に属している、と知ることは必要だと思います。

ヌスバウム:
そこは同意します。

むしろ、自分の世界しか見えていないことを理解したうえで、

それでも、

「これは人を傷つけている」

と言える根拠を探す必要がある。

ルース:
私はそこで「分からなさ」を残したいです。

相手の世界を完全に理解したと思った瞬間、また危険になる。

「あなたはこういう人でしょう」

「あなたの苦しみはこうでしょう」

と決めてしまう。

イシグロ:
つまり、

他人を理解することと、

他人を説明し尽くすことは違う。

ルース:
はい。

そして「自分」についても同じかもしれない。

自分を完全に説明できなくてもいい。

私はこういう人です。

これが私の本質です。

これが私の本当の欲望です。

そこまで固定しなくても、生きていける。

國分:
でも、そこに責任の問題が戻ってくる。

ルース:
そうですね。

國分:
私は、「自分を固定しないこと」と「自分から逃げ続けること」を区別したいんです。

「私は変わる人間です」

ということと、

「昨日の私は今日の私ではないから、昨日したことには責任がありません」

というのは違う。

ヌスバウム:
そこは重要です。

人格が流動的でも、行為には結果が残る。

誰かが傷ついたという事実も残る。

國分:
そう。

だから私は「本当の自分」を探すより、

自分が通ってきた道を引き受ける

という言い方の方が好きです。

自分は変わる。

矛盾もする。

ある世界ではAだった。

別の世界ではBだった。

それでいい。

でも、

Aとしてしたことも、

Bとしてしたことも、

全部、自分の人生の中にある。

ルース:
それは美しい考えですね。

固定された自己ではなく、

連続した責任。

國分:
そうかもしれません。

自分というものを、一枚の肖像画のように考えるから苦しくなる。

むしろ長い物語のように考える。

ページごとに違う。

登場人物の考えも変わる。

前の章と矛盾する。

でも同じ本です。

イシグロ:
小説家としては、とても納得できます。

良い登場人物ほど、一言では説明できない。

「この人は優しい人です」

と言った瞬間、薄くなる。

優しいけれど残酷。

臆病だけれど勇敢。

愛しているけれど逃げる。

人間は矛盾を持っている。

ルース:
もしかすると「本当の自分」という考えが苦しいのは、

その矛盾を一つにまとめようとするからなのかもしれませんね。

上野:
でも私は、ここで空子に少し厳しいことも言いたいです。

矛盾を受け入れることと、

何も選ばないことは違います。

空子は世界ごとに自分を切り替えることで、衝突を避けられる。

それは彼女を守った。

でも同時に、

「この世界ではこうだから」

と判断を外に置くこともできる。

國分:
そうですね。

上野:
例えば、ある世界で誰かが傷つけられている。

空子は、

「この世界では普通だから」

と言える。

別の世界へ行けば、別の価値観を採用する。

そうすると、

誰が「これは嫌だ」と言うんでしょう。

ヌスバウム:
そこに道徳的主体の問題が出てきます。

ルース:
ただ私は、空子を「道徳的に弱い人」とだけ呼びたくありません。

彼女がそうなった理由には、生存があります。

上野:
もちろん。

だからこそ難しいんです。

生き延びるために身につけた方法が、

後になって誰かを見えなくすることがある。

トロント:
ケアでも同じことがあります。

ある家庭の中で、誰かが「いつも我慢する人」になる。

最初は家族を守るため。

でも長く続くと、家族全体が、

「この人は我慢できる人」

と思い始める。

本人もそう思う。

そしてある日、その人が限界に来ても、誰も気づかない。

適応能力が、その人を見えなくしてしまった。

ルース:
空子自身にも、それが起きているのかもしれません。

自分を薄くした結果、

自分の痛みも見えなくなった。

そして他人の痛みも見えにくくなった。

國分:
そこは非常に重要だと思います。

自分の感覚を麻痺させると、

自分は楽になる。

でも、

痛みを感じる能力そのものが弱くなる。

すると、誰かが苦しんでいても、

「そんなに嫌ならやめればいいのに」

と言えるようになる。

自分自身が「嫌」という感覚を切断してきたから。

ヌスバウム:
つまり、自分への感受性と他者への感受性はつながっている。

ルース:
そう思います。

自分を感じることは、自己中心的なことではない。

自分の痛みを認められる人の方が、他人の痛みも現実として感じられる場合がある。

上野:
でも、「自分の気持ちを大切にしましょう」だけでは社会は変わらない。

そこも忘れてはいけません。

個人が自分の本音に気づいても、

拒否できない環境なら意味がない。

國分:
だから自己の問題と制度の問題を分けられない。

上野:
そうです。

「もっと自分らしく生きれば?」

と女性に言う。

でも育児も介護も家事も全部その人に乗っている。

それで、

「あなたはなぜ自分の夢を追わないの?」

と言われても困る。

トロント:
自由には条件があります。

時間。

お金。

安全。

誰かに頼れること。

断っても関係を失わないこと。

自分を持て、と言う前に、

自分を持つ余地が社会の中にあるのか

を考えないといけない。

誰もすぐには話さなかった。

最初に置かれていた白い紙を、ルースが手に取った。

ルース:
この紙に「本当の自分」と書こうとすると、少し息苦しくなりますね。

國分:
何と書きますか。

ルースは少し考えた。

ルース:
「今ここにいる私」。

國分:
それならいいかもしれない。

ヌスバウム:
でも明日は違う私になる?

ルース:
もちろん。

ヌスバウム:
では、今日のあなたが誰かを傷つけたら?

ルースは笑った。

ルース:
明日の私が謝ります。

國分も笑った。

國分:
そこなんですよ。

変わることと、切断することは違う。

イシグロ:
もしかすると、人間の「自己」とは、一貫した性格ではなく、

昨日の自分を今日の自分が見捨てないことなのかもしれませんね。

その言葉のあと、部屋が静かになった。

上野がゆっくり言った。

上野:
私はそれにもう一つ加えたいです。

今日の自分を作った人たちも、見捨てないこと。

母親。

家族。

教師。

同僚。

社会。

場合によっては、自分の代わりに苦労してきた人。

「私は自分の力でこうなりました」

と思わないこと。

トロント:
そうすると、自己とは孤立したものではなくなりますね。

私という存在の中に、

世話してくれた人。

働いてくれた人。

教えてくれた人。

傷つけた人。

傷つけられた人。

全部が少しずつ入っている。

ルース:
それは仏教的な意味でも、とても自然です。

「私」は単独で存在していない。

でも、だから私が消えるわけでもない。

むしろ、

私の中に世界がある。

國分:
そして世界の中に私がいる。

イシグロ:
それなら『世界99』という題名も少し違って見えますね。

99の世界が外に並んでいるだけではない。

一人の中にも、いくつもの世界がある。

ルース:
そうですね。

ヌスバウム:
ただ、それでも私は最後に聞きたい。

自分の中に99の世界があるとして、

その中の一つが誰かを傷つけていたら、

誰が止めるのでしょう。

また沈黙が生まれた。

國分が、その白い紙を見ながら答えた。

國分:
たぶん、「本当の自分」ではないと思います。

ヌスバウム:
では何ですか。

國分:
気づいた自分です。

昨日までは気づかなかった。

今日、気づいた。

なら、今日からどう応答するか。

それしかないんじゃないでしょうか。

ルース:
つまり、本当の自分を見つけることより、

気づいたあとに逃げないこと。

國分:
はい。

「私はこういう人だから」

「この世界では普通だから」

「みんなやっているから」

そこから一歩だけ外へ出る。

完全に自由にはなれない。

でも、応答することはできる。

上野が言った。

上野:
そして、応答できる条件を社会側も作らなければいけない。

個人に全部背負わせない。

トロントがうなずいた。

トロント:
そうですね。

自分の声を持つことも、

断ることも、

誰かを助けることも、

余裕がなければできません。

イシグロが最後に静かに口を開いた。

イシグロ:
では、本当の自分とは何か、という質問を少し変えてみませんか。

「あなたは誰ですか」

ではなく、

「あなたは、自分がしてきたことをどこまで自分のものとして引き受けられますか」

と。

ルースが白い紙にペンを置いた。

「本当の自分」とは書かなかった。

代わりに、短くこう書いた。

「私は、どの世界で生きているのだろう。」

そして、その下にもう一行。

「その世界で、私は何を見ないことにしているのだろう。」

誰もすぐには次の言葉を続けなかった。

けれど、その二つ目の問いが、次の話題へ向かう扉になっていた。

自分がどの世界にいるのか。

誰がその世界を作っているのか。

そして、自分が安全に、便利に、楽に生きているとき。

その楽さのために、

どこかで別の誰かが疲れているとしたら。

それを知ったあとにも、

「これは私の世界では普通だから」

と言い続けることができるのだろうか。

Topic 2|楽になったとき、その苦しみはどこへ行ったのか?

世界99 考察 2

前の話題が終わっても、白い紙は机の上に残っていた。

そこには二つの文章が書かれている。

「私は、どの世界で生きているのだろう。」

「その世界で、私は何を見ないことにしているのだろう。」

上野千鶴子が、その二行をしばらく見ていた。

上野千鶴子:
私は二つ目の方が気になりますね。

「何を見ないことにしているのか」。

社会が便利になると、私たちはたいてい、便利になった部分だけを見ます。

洗濯に時間がかからなくなった。

食事がすぐ届く。

子どもを預けられる。

介護してもらえる。

家の中を掃除してもらえる。

でも、その「楽になった」という文章には、主語が抜けているんです。

誰が楽になったのか。

ジョアン・トロント:
そして、もう一つ主語が抜けています。

誰がその仕事をするようになったのか。

上野:
そうです。

ある人の負担が減ったとき、負担そのものが消えたとは限らない。

場所が変わっただけかもしれない。

家庭の中から市場へ。

妻から介護職へ。

親から保育士へ。

豊かな国から賃金の安い国へ。

人間から機械へ。

そして『世界99』では、人間からピョコルンへ。

トロント:
ケアについて考えると、これは非常に重要です。

人間はケアをなくすことができません。

赤ん坊は誰かに世話されなければ生きられない。

病気の人もそうです。

高齢者もそう。

健康で働いている大人でさえ、食事、清掃、物流、医療、教育、公共サービスに依存している。

だから問いは、

「ケアをなくせるか」

ではない。

誰がケアをするのか。
どの条件でケアをするのか。
そして、その人には断る力があるのか。

そこです。

カズオ・イシグロ:
ピョコルンが魅力的なのは、その問いを非常に残酷なほど分かりやすくしている点ですね。

もし家事をしてくれる存在がいる。

性的な欲求も引き受けてくれる。

子どもまで産んでくれる。

育児もしてくれる。

人間は自由になる。

一見、とても合理的です。

上野:
しかも、女性の側から見れば魅力的ですよ。

私はそこを簡単に否定したくない。

長い間、家事も出産も育児も介護も、「女性だから」という理由で背負わされてきた。

そこから解放されたいと思うのは当然です。

「昔の女性は偉かった」

「母親は自分を犠牲にするものだ」

なんて言って、苦労を美化するべきではない。

トロント:
そうですね。

ケアが重要だからといって、ケアする人が苦しむ必要はありません。

そこを混同すると危険です。

上野:
私は『世界99』の母親が重要なのは、そこだと思うんです。

彼女を「犠牲になった可哀想な母親」とだけ読むと、また母親を固定してしまう。

彼女にも喜びはあったでしょう。

家族を愛していたでしょう。

子どもを育ててよかったと思った瞬間もある。

でも、

「愛していた」

と

「私が全部やるのが当然だった」

は同じではない。

ルース・オゼキ:
愛と義務が混ざるんですね。

上野:
ええ。

家族の中では特にそうです。

「やりたくない」と言いにくい。

母親が子どもの世話をしているとき、

「今日はやりたくありません」

とはなかなか言えない。

介護もそうです。

愛情があるほど、断りにくくなる。

だから「本人がやりたいと言っている」というだけでは、本当に自由な選択か分からないんです。

國分功一郎:
Topic 1の話とつながりますね。

「自分で選んだ」と「強制された」の間に、たくさんの中間があります。

上野:
そうです。

家族は、その中間が最も多い場所かもしれない。

誰も命令していない。

でも、やらなければ家が回らない。

誰も「あなたがやれ」と言わない。

でも結局いつも同じ人がやる。

それが何十年も続く。

トロント:
社会も同じです。

誰かがしなければならない仕事があります。

清掃。

介護。

ごみ収集。

保育。

食事の準備。

病院での補助。

しかし、私たちはそれらの仕事をしばしば、

「誰でもできる仕事」

として低く評価する。

実際には、人間の生活を維持するために不可欠なのに。

上野:
不可欠な仕事ほど、なぜか安い。

面白いですよね。

なくなったら社会が止まる仕事ほど、低く評価されることがある。

イシグロ:
するとピョコルンは、「誰でもできる仕事」を究極まで押し進めた存在とも言えますか。

人間ですらなくなる。

だから賃金もいらない。

権利もいらない。

文句も言わない。

トロント:
その時点で完璧な労働者になりますね。

上野:
そして完璧な母親にもなる。

完璧な妻にも。

完璧な介護者にも。

疲れない。

文句を言わない。

自分の夢を持たない。

「今日は嫌です」と言わない。

それって、昔社会が女性に求めていた理想像そのものじゃないですか。

部屋が少し静かになった。

ルース:
そう考えると、ピョコルンが可愛い姿をしていることも不気味ですね。

イシグロ:
なぜ可愛い必要があるのでしょう。

上野:
愛されるためでしょうね。

利用しているという罪悪感を薄くするためでもあるかもしれない。

可愛い。

懐いている。

嬉しそうに見える。

そうすると、

「この子も幸せなんじゃないか」

と思える。

トロント:
ケア関係では非常に危険な推測です。

相手が何も言わない。

相手が笑っている。

相手が慣れている。

それだけで、

「問題ない」

と判断してしまう。

國分:
でも逆の危険もありますよね。

こちらが勝手に、

「あなたは搾取されていて可哀想だ」

と決める。

上野:
あります。

非常にあります。

救済する側も支配できますから。

トロント:
だから重要なのは、相手の声です。

ただし、声を聞けば全部解決するわけでもない。

声を出せる条件が必要です。

ルース:
どういう意味でしょう。

トロント:
例えば労働者に、

「この仕事を続けたいですか?」

と聞く。

本人が「はい」と言う。

でも、その仕事を辞めたら家族が食べられないとしたら?

「はい」は完全に自由でしょうか。

介護をしている娘に、

「お母さんの世話をしたいですか?」

と聞く。

「もちろん」と答える。

でも、他に介護する人がいなかったら?

その「もちろん」には、愛と責任と圧力が全部入っています。

國分:
だから意思だけ見ても不十分なんですね。

トロント:
そうです。

選択肢を見なければならない。

断ったときに何が起きるか。

それが重要です。

イシグロ:
ではピョコルンに聞けばいい、というだけでは足りない。

トロント:
その通りです。

ピョコルンが「私はこれをしたい」と言ったとしても、

それ以外の生き方を知っているのか。

拒否できるのか。

別の場所へ行けるのか。

そもそも「したい」という欲望自体が、誰によって作られたのか。

そこまで考える必要があります。

上野:
これは人間にも同じことが言えます。

昔の女性が、

「私は専業主婦になりたいです」

と言った。

その気持ちは本物だったかもしれない。

でも、他にどんな人生が現実的に選べたのか。

教育。

就職。

収入。

社会的評価。

それらを見ずに、

「本人が選んだんだから問題ない」

とも言えない。

國分:
自由は、選択の瞬間だけを見ると分からない。

その選択を作った歴史を見る必要がある。

上野:
そうです。

そして『世界99』が面白いのは、女性をそこから解放して終わらないことです。

ピョコルンがやってくれる。

じゃあ女性は自由になりました。

よかったですね。

で終わらない。

イシグロ:
むしろ、その次の問題が始まる。

上野:
そう。

女性が自由になった。

ではピョコルンは?

誰かが下に残る。

そしてもっと怖いのは、

自分が下にいた経験がある人ほど、

「私はもうそこから出た」

という安心を求めることがあることです。

ヌスバウム:
それは次のTopicにもつながりそうですね。

被害を受けたことが、他の被害に敏感にするとは限らない。

上野:
むしろ、

「私は苦労してここまで来たんだから」

という気持ちが、

次の人にも同じ苦労を要求することがあります。

トロント:
あるいは、

「今度は私がサービスを受ける側だ」

となる。

ケアする側から、ケアされる側へ。

下から上へ。

その位置の変化自体は悪くありません。

でも、自分が上に移動したことで、下にいる人が見えなくなることがある。

ルース:
それは非常に人間的ですね。

自分が苦しかった場所から逃げたら、もう振り返りたくない。

上野:
ええ。

「私はもう自由になった」

と思いたい。

その自由の裏側を見たら、また重くなるから。

イシグロ:
そこで空子の「楽ちん」が効いてきますね。

上野:
そうなんです。

私は空子の「楽ちん」を責めたくない。

人は楽になっていい。

もっと楽でいい。

むしろ、苦労を美徳にする社会は嫌です。

でも、

楽になることと、楽さの代償を見ないことは違う。

私はそこだと思います。

トロント:
非常に同意します。

技術も同じです。

洗濯機ができてよかった。

食器洗浄機もいい。

医療技術もいい。

介護用ロボットも役に立つ。

問題は便利さそのものではない。

その便利さが、

誰かを不可視にしていないか。

誰かの負担を増やしていないか。

そして、その人が「嫌だ」と言えるか。

イシグロ:
AIも同じでしょうか。

トロント:
もちろん。

AIが人間の面倒な仕事を減らすなら、それは良いことです。

でも、そのAIを作るためのデータは誰が作ったのか。

誰が低賃金で分類したのか。

誰が電力を供給するのか。

誰の土地や水を使うのか。

そしてAIによって仕事を失う人は誰なのか。

便利さはいつも、ネットワークの上にあります。

上野:
「魔法」じゃないんですよね。

目の前ではボタン一つでも、

向こう側には誰かがいる。

ルース:
それを私たちは見ないように設計しているのかもしれません。

イシグロ:
便利な技術ほど、人間の労働を見えなくする。

上野:
そうです。

ホテルの部屋が毎日きれいになる。

誰が掃除したか知らない。

荷物が翌日に届く。

誰が夜中に運んだか知らない。

親が施設で暮らしている。

誰が夜中に体を起こしてくれたか知らない。

食卓に安い食材が並ぶ。

誰が収穫したか知らない。

それが現代の「楽ちん」です。

國分:
でも、全部知っていたら生きられないという問題もありませんか。

すべての商品。

すべてのサービス。

すべての電力。

すべての労働条件。

いちいち調べていたら何もできない。

上野:
もちろんそうです。

だから個人の罪悪感だけにしてはいけない。

「あなたの便利な生活は搾取でできています。反省してください」

で終わると、何も変わらない。

トロント:
それは非常に重要です。

ケア倫理は、善良な個人になりなさい、という話だけではありません。

制度の問題です。

負担をどう分配するか。

報酬をどうするか。

休めるか。

声を上げられるか。

政治的に参加できるか。

上野:
そう。

個人に、

「全部自分でやりなさい」

と戻してはいけない。

女性に、

「搾取したくないなら家事も介護も全部自分でやれば」

と言ったら、昔に戻るだけです。

ルース:
では、何が理想でしょう。

上野:
私は「誰も依存しない社会」ではなく、

依存することを恥ずかしくしない社会

だと思います。

そして、

依存を特定の人だけに集中させない。

トロント:
私もそう思います。

ケアを受けることは失敗ではありません。

人間の普通の状態です。

問題は、

誰かがずっとケアする側で、

別の誰かがずっと受ける側になること。

その関係が固定されることです。

イシグロ:
もしピョコルンが人間と同じ権利を持ったら、問題は解決しますか。

トロント:
面白い質問ですね。

ある程度は改善するでしょう。

断れる。

報酬がある。

休める。

別の仕事を選べる。

でも、それでもケア労働の価値を社会が低く見ていたら、完全には解決しません。

上野:
それに、人間はまた新しいピョコルンを作るかもしれない。

イシグロ:
もっと下の存在を。

上野:
そう。

人間は階層を作るのが上手です。

ピョコルンに権利を与えた。

では次は?

AI。

クローン。

人工生命。

外国人。

囚人。

貧しい人。

動物。

「ここまでは私たちと同じ。でもここから下は違う」

という線をまた引く。

ヌスバウム:
つまり問題は、ピョコルンという特定の存在ではなく、

「誰を道徳的共同体の外に置くか」

という人間の習慣なのかもしれません。

イシグロ:
それは怖いですね。

人間は自由になるために、自由でなくていい存在を必要とする。

誰もすぐには答えなかった。

しばらくして、國分が口を開いた。

國分:
私は「自由」という言葉を少し疑いたくなりました。

私たちは、

「やりたくないことをしなくていい」

ことを自由と考える。

それは大切です。

でも、そのやりたくないことを誰かが必ずしなければならないなら、

自由は個人だけで考えられない。

トロント:
その通りです。

國分:
例えば介護。

私は介護したくない。

それ自体を責めるべきではない。

でも親は介護を必要としている。

では誰がする?

誰かに頼む。

それも悪くない。

では、その人が介護したくない日は?

上野:
そこです。

私の自由だけで話を終わらせない。

國分:
つまり自由とは、

「私は嫌だからやりません」

だけでは成立しない。

社会全体で、

避けられない負担をどう引き受けるか

まで考えなければならない。

トロント:
私はそれを民主主義の問題だと思っています。

誰が何をするかを、

力のある人だけが決めない。

ケアする人も、される人も、制度を決める側に参加できること。

ルース:
その考え方だと、

「助ける人」と「助けられる人」

も固定されませんね。

トロント:
そうです。

今日は私があなたを助ける。

明日はあなたが私を助ける。

ある時期には私は依存する。

別の時期にはあなたが依存する。

人間の人生は本来そういうものです。

上野:
でも現実では、

ずっと世話する人と、

ずっと世話される人に分かれてしまう。

そこにジェンダーや階級が入り込む。

イシグロ:
そして『世界99』では、種そのものが入り込む。

人間とピョコルン。

上野:
ええ。

だからあの作品は怖い。

人間社会の問題を少し誇張しただけなんです。

構造は私たちの社会にもある。

その時、ルースが最初の白い紙を裏返した。

何も書かれていない面が現れた。

ルース:
一つ質問してもいいですか。

もし明日、本当に何でもしてくれる存在が発明されたら。

家事。

介護。

育児。

仕事。

嫌な会話。

孤独の慰め。

全部やってくれる。

その存在は疲れないと言われている。

苦しまないとも言われている。

私たちは使いますか。

誰もすぐには答えなかった。

イシグロ:
おそらく使うでしょうね。

上野:
私も使うと思います。

トロント:
私も、必要なら使うでしょう。

ルース:
では、その存在がある日、

「本当は嫌でした」

と言ったら?

沈黙。

上野:
そこからが倫理なんでしょうね。

使わなかった人だけが善人なのではない。

知らなかったことにも限界はある。

でも知ったあとに、

何をするか。

國分:
またそこに戻ってきますね。

気づいたあと、どう応答するか。

トロント:
そして個人の優しさだけに頼らない。

その存在が二度と「嫌だ」と言えない状態に戻されない仕組みを作る。

イシグロ:
では、人間の進歩とは、

苦しみをゼロにすることではないのかもしれませんね。

上野:
私はゼロにできる苦しみは、どんどんゼロにしていいと思いますよ。

痛い出産を痛くなくできるなら、したらいい。

重い物を機械が持てるなら持たせればいい。

危険な仕事を安全にできるならそうする。

苦労に価値をつけすぎない方がいい。

ただし、

消えたと思った苦しみが、どこへ行ったのかは確認しよう

ということです。

トロント:
それが非常に大切です。

苦しみを減らすことと、

苦しんでいる人を見えなくすることは、まったく違います。

上野:
そしてもう一つ。

楽になることを、罪悪感で壊さない。

母親に、

「あなたが全部やるべき」

とも言わない。

娘に、

「母親を使って自由になった」

だけとも言わない。

介護される人に、

「人に迷惑をかけている」

とも言わない。

私たちはみんな迷惑をかけて生きるんです。

問題は、

誰の迷惑だけが当たり前になっているか。

ルース:
それはいい言葉ですね。

誰にも迷惑をかけないことではなく、

迷惑を一人に固定しない。

トロント:
はい。

依存をなくすのではなく、

依存を公正にする。

イシグロ:
それなら「自由」も少し違って見えます。

自由とは、

誰にも頼らず生きることではない。

上野:
ええ。

そんな人はいません。

イシグロ:
誰かに頼りながら、

その誰かにも人生があることを忘れない。

トロント:
そして、その人がいつでも「今日は無理です」と言えること。

國分:
断れる依存。

上野:
いいですね。

ルース:
では、ピョコルンの問題も、

「使ってはいけない」

だけでは足りない?

トロント:
足りません。

もしピョコルンが本当に人間と共に生きる存在なら、

何を望むか。

何を断るか。

どんな生活をしたいか。

誰と暮らしたいか。

それを聞かなければならない。

上野:
そして、

「私たちのために何ができますか?」

から会話を始めないことですね。

イシグロ:
「あなたは何をしたいですか」から始める。

上野:
そう。

でも、もっと難しい質問も必要でしょうね。

國分:
何ですか。

上野:
「あなたが何もしたくない日にも、ここにいていいですか」。

部屋が静かになった。

トロントがゆっくりとうなずいた。

トロント:
それは、ケアの倫理として非常に重要な問いです。

役に立つから価値があるのではない。

ケアしてくれるから価値があるのでもない。

何もしない存在にも場所があるか。

イシグロ:
それは人間にも返ってきますね。

働けない人。

介護される人。

老いた人。

病気の人。

子ども。

上野:
そうです。

だからピョコルンの問題は、最後には人間の問題になる。

「役に立たない存在に価値があるか」。

ここで社会の本音が出ます。

ルースは白い紙の裏に、ゆっくり一行を書いた。

「私が楽になったとき、その苦しみはどこへ行ったのだろう。」

少し下に、もう一つ。

「そして、その苦しみを引き受けた存在は、断ることができただろうか。」

上野がそれを見ながら言った。

上野:
私はもう一つ足したいです。

ルースがペンを渡した。

上野は、その下に書いた。

「それでも、私たちは楽になっていい。」

國分が、その三行を眺めた。

國分:
この三つを同時に持つのが難しいんでしょうね。

楽になりたい。

誰かを犠牲にしたくない。

でも誰にも頼らず生きることもできない。

トロント:
だから答えは「自立」ではない。

関係をどう作るかです。

イシグロ:
そして、その関係の中で、誰を自分と同じくらい現実的な存在として見ることができるか。

上野が小さくうなずいた。

上野:
人間は、相手を自分と同じくらい現実的だと思うと、使いにくくなるんですよ。

相手にも疲れがある。

夢がある。

嫌な日がある。

家に帰りたい日がある。

それが見えたら、

「この人がやればいい」

とは簡単に言えなくなる。

ルース:
だから私たちは、時々相手を薄くする。

國分:
Topic 1の空子と逆ですね。

空子は自分を薄くした。

ルース:
そして社会は、支えてくれる人を薄くする。

母親。

労働者。

介護者。

ピョコルン。

イシグロ:
自分が楽に生きるために、他者を背景にする。

トロント:
それがケアの不可視化です。

上野:
そして怖いのは、自分も以前その背景だった人が、前景に出た瞬間、次の誰かを背景にしてしまうことです。

その言葉のあと、誰もすぐには話さなかった。

白い紙には、三つの文章が残った。

「私が楽になったとき、その苦しみはどこへ行ったのだろう。」

「その苦しみを引き受けた存在は、断ることができただろうか。」

「それでも、私たちは楽になっていい。」

三つは矛盾しているように見えた。

しかし、その矛盾を消してしまうことこそ危険なのかもしれなかった。

人は苦しまなくていい。

母親も。

女性も。

介護者も。

労働者も。

そしてピョコルンも。

けれど、もし自分が苦しみから抜け出すために、別の誰かをその場所へ押し込んだのだとしたら。

そこで生まれる問いは、

「誰が悪いのか」

だけではなかった。

もっと不快な問いだった。

自分がかつて傷つけられたことは、自分が今、誰かを傷つけていない証明になるのだろうか。

Topic 3|傷ついたことは、私たちを善い人にしてくれるのか?

世界99 考察 3

白い紙には、前のTopicで書かれた三つの文章が残っていた。

「私が楽になったとき、その苦しみはどこへ行ったのだろう。」

「その苦しみを引き受けた存在は、断ることができただろうか。」

「それでも、私たちは楽になっていい。」

マーサ・ヌスバウムが、その最後の一文を指でなぞるように見つめていた。

マーサ・ヌスバウム:
私は、ここにもう一つ加えたいです。

「自分が苦しんだことは、他人の苦しみを理解する力になるのか」。

私たちは、よくそう考えますよね。

苦労した人は優しい。

差別された人は差別しない。

傷つけられた人は、傷つける側にはならない。

でも、本当にそうでしょうか。

國分功一郎:
『世界99』は、そこをかなり残酷に崩していますね。

上野千鶴子:
ええ。

苦労したから優しくなる、というのは一つの物語です。

でも、苦労した人が必ずしも他人の苦労に敏感になるわけではない。

むしろ、

「私はもっと大変だった」

という方向に行くこともある。

ヌスバウム:
そうです。

苦しみは、人間を自動的に道徳的に成熟させません。

苦しみによって、共感が深まることもある。

一方で、恐怖や怒りや恨みが強くなることもある。

そして、自分が傷つけられたという事実が、

「私は善い側にいる」

という感覚を生むこともある。

國分:
それが危険なんでしょうね。

自分が被害を受けた。

だから自分は加害者ではない。

そういう自己認識ができてしまう。

上野:
でも人間は、関係によって立場が変わります。

職場では弱い立場。

家庭では強い立場。

社会では差別される側。

でも別の集団に対しては差別する側。

一人の人間の中に、その両方がある。

ヌスバウム:
『世界99』では、その構造が非常に明確ですね。

空子自身も傷つけられている。

女性として見られ、役割を押しつけられ、他人に合わせなければ安全に生きられなかった。

でも、その経験が彼女を自動的に他の弱者の側へ立たせるわけではない。

國分:
むしろ空子は、世界ごとに判断を切り替えられる。

ある世界では自分が被害者。

別の世界では、別の人を「面倒な人」として見る。

上野:
それはかなり現実的です。

たとえば、女性差別に敏感な人が、階級差別や外国人差別には鈍感なこともある。

逆もある。

高齢者差別には敏感でも、若者を「最近の若者は」と一括りにする。

自分が傷ついた軸には敏感。

自分が有利な軸には鈍感。

ヌスバウム:
人間は、すべての不正を同じように感じられるわけではありません。

自分に近い苦しみは見える。

遠い苦しみは抽象的になる。

そこに道徳的想像力が必要になる。

國分:
でも、その「想像すること」自体にも問題がありますよね。

自分は相手を理解している、と思いすぎる。

ヌスバウム:
もちろんです。

共感には限界があります。

だから私は、単に「相手の気持ちになりましょう」と言えばいいとは思っていません。

相手の苦しみを、自分の感情の材料にしてしまう危険もあります。

そのとき、ルース・オゼキが少し身を乗り出した。

ルース・オゼキ:
それはレナの話につながりますね。

ヌスバウム:
そうです。

私はあそこが非常に重要だと思います。

一人の人が苦しむ。

社会はその人を守れなかった。

その人が死ぬ。

すると、後から多くの人が悲しむ。

映画になる。

観客が泣く。

感動する。

そして、自分が優しい人間になったような気持ちになる。

上野:
生きているときは面倒なんですよね。

ルース:
どういう意味でしょう。

上野:
生きている人を助けるのは面倒なんです。

時間がかかる。

お金がかかる。

意見も違う。

要求もある。

感謝してくれるとは限らない。

こちらの生活も変えなければならない。

でも、死んだ人には要求されない。

だから安全に悲しめる。

ヌスバウム:
それはとても重要ですね。

悲しむこと自体が悪いわけではありません。

問題は、その悲しみがどこへ向かうのかです。

「私はこんなに心を痛めています」

という自己確認で終わるのか。

それとも、

「なぜこの人が生きているとき、社会は何もしなかったのか」

へ進むのか。

國分:
感情と行為の間ですね。

ヌスバウム:
そうです。

感情は重要です。

でも感情だけでは倫理にならない。

上野:
私は「感動」という言葉が面白いと思います。

感動する側は、何かを受け取るんです。

泣いた。

心が震えた。

人生について考えた。

自分は少し変わった気がする。

でも、その感動を作った苦しみを経験した人には、何が返るんでしょう。

ルース:
物語を書く側にも返ってくる問いですね。

上野:
もちろん。

社会問題を作品にする。

被害者の体験を書く。

読者が泣く。

作品が評価される。

書いた人も評価される。

出版社も利益を得る。

でも、その苦しみの当事者はどこにいるのか。

ヌスバウム:
文学そのものへの非常に厳しい問いですね。

ルース:
でも私は、そこで文学を否定したくはありません。

物語がなければ、遠い他者の苦しみに触れることすらできない場合があります。

上野:
私も否定していません。

問題は、

「感動したから分かった」

と思わないことです。

國分:
それは大事ですね。

一度泣いたことで、

「この問題を理解した」

と感じてしまう。

でも、実際には何も理解していないかもしれない。

ヌスバウム:
そう。

そして感動は時に、道徳的な自己満足にもなります。

「私はこの悲劇に涙を流せる人間だ」

という。

上野:
それは一種の安全な善人ポジションですね。

國分:
そう考えると、「私は傷ついたことがある」という自己認識も似ている。

それ自体が、

「だから私は善い人間だ」

という証明にはならない。

ヌスバウム:
その通りです。

苦しみは資格証明書ではありません。

ルース:
それはかなり強い言葉ですね。

ヌスバウム:
でも重要です。

傷ついた経験は、尊重されるべきです。

その人の苦しみを軽く扱ってはいけない。

でも、その経験が自動的に正しさを保証するわけでもない。

上野:
被害者だから間違えない、ということもない。

國分:
逆に、加害者と呼ばれる人の中にも、被害の歴史がある場合がある。

ヌスバウム:
そうです。

そこも難しい。

加害者の背景を理解することと、加害を免責することは違います。

例えば、ある人が虐待を受けて育った。

その人が後に誰かを虐待した。

彼の過去を理解することは必要です。

でも、

「彼も被害者だったから仕方ない」

とは言えない。

國分:
ここでもTopic 1の責任に戻りますね。

自分が何によって作られたか。

それを理解する。

でも、理解したあとどう応答するかは残る。

上野:
そして「加害者」というラベルだけを貼ると、社会が問題を個人に押し込めて終わることもあります。

ヌスバウム:
どういう意味でしょう。

上野:
例えば、ある人が明らかに差別的な発言をした。

その人を批判する。

それは必要です。

でも、その人だけを「悪い人」として追放すると、

その差別を生み出している制度や文化は残る。

すると別の人が同じことをする。

國分:
個人を悪人にすることで、構造が無罪になる。

上野:
そうです。

逆に構造だけを問題にすると、

「社会が悪いんだから個人に責任はない」

となる。

どちらも危険です。

ヌスバウム:
だから、個人と構造を同時に見る必要がある。

上野:
ええ。

私はここが『世界99』の面白いところだと思います。

誰か一人を悪役にできない。

明人にも欲望がある。

空子にも自己防衛がある。

母親にも歴史がある。

白藤にも正義がある。

でも、正義があるから誰も傷つけないわけではない。

國分:
白藤は特に面白いですね。

彼女はかなり真剣に正しくあろうとする。

ヌスバウム:
私は白藤に共感します。

不正を見て、

「これはおかしい」

と言おうとする。

それは必要です。

上野:
でも疲れる。

ヌスバウム:
そうでしょうね。

國分:
しかも、自分が正しいことを確認し続けなければならない。

この言い方は大丈夫か。

誰かを傷つけていないか。

自分は加害者ではないか。

常にチェックする。

上野:
正しさが自己監視になる。

ルース:
そして、正しくあろうとすること自体が苦しみになる。

ヌスバウム:
でも、それでも私は白藤の不安を完全には否定したくありません。

自分が間違っているかもしれないと考えられることは、倫理的に重要です。

上野:
もちろんです。

問題は、

「私はいつでも正しい人でなければならない」

になること。

國分:
そうなると、間違いを認めることが難しくなりますね。

ヌスバウム:
そうですね。

自分のアイデンティティが「善い人」で固定されると、

自分の加害性を認めることが、自己崩壊のように感じられる。

上野:
だから人は言い訳するんです。

「私は差別するような人じゃない」

「私は女性を尊重しています」

「私は外国人の友人もいます」

「私は昔差別された経験があります」

全部、

「私は善い人です」

を守るために使われる。

國分:
なるほど。

行為ではなく自己像を守っている。

ヌスバウム:
そこが重要です。

倫理は、

「私は善い人間か」

という問いだけではありません。

むしろ、

「今の行為は何を生んでいるか」

を見ることです。

ルース:
それは空子に合いますね。

空子は「私は善人です」とも「悪人です」ともあまり考えない。

國分:
そう。

彼女はむしろ、

「楽かどうか」

で動く。

上野:
だから逆に見えやすい。

普通の人は、自分の行為に道徳的な説明をつけます。

空子はそれをあまりしない。

ヌスバウム:
それが読者を不安にさせるのかもしれません。

空子の中に、

「私は善くありたい」

という欲望が弱い。

國分:
でも、読者自身も本当に善くありたいから善いことをしているのか。

それとも、

善い人と思われたいからなのか。

上野:
あるいは、悪い人だと思いたくないだけかもしれない。

ルース:
空子はそこを剥がしてしまうんですね。

ヌスバウム:
そうかもしれません。

そして、そこからレナの映画の問題がもう一度見えてくる。

観客が涙を流す。

「かわいそうだった」

「差別はよくない」

そう思う。

でも、その感情が、

「私は差別に反対する人間です」

という自己確認で終わったら。

上野:
レナは二度使われることになりますね。

生きているときには社会から傷つけられ、

死んだあとには社会が自分の優しさを確認するために使う。

部屋が静かになった。

國分:
これはかなり重いですね。

ヌスバウム:
重いですが、私はもう一つ言いたい。

それでも、泣くことを恐れすぎない方がいい。

上野:
ええ。

ヌスバウム:
他者の苦しみに心を動かされる能力は大切です。

冷淡になる必要はない。

「感動は搾取かもしれない」と考えすぎて、

何も感じなくなる方が危険です。

ルース:
では、どう違いを見分けますか。

ヌスバウム:
私は、自分の感情がどこへ向かうかを見ると思います。

感動したあと、

その人をより深く知ろうとするのか。

自分の偏見を疑うのか。

制度について考えるのか。

何かを変えようとするのか。

それとも、

「いい映画だった」

で終わるのか。

國分:
感情の出口ですね。

ヌスバウム:
そうです。

涙に出口があるか。

上野:
でも、すべての感動を行動に変えろ、と言ったらまた苦しくなりますね。

ヌスバウム:
その通りです。

人間には限界があります。

世界中の苦しみに一つずつ行動することはできない。

だから、

「行動しなければあなたの涙は偽物」

とも言いたくない。

ルース:
すると、何が残りますか。

ヌスバウム:
謙虚さだと思います。

「私はこの人の苦しみを完全には分かっていない」

「私が泣いたことで、この人の苦しみが償われたわけではない」

「私は善い人になったわけでもない」

それを忘れない。

國分:
それはいいですね。

感動しても、自分を無罪にしない。

上野:
同じことは被害経験にも言えますね。

「私は傷ついた」

それは事実。

でも、

「だから私は誰も傷つけない」

までは言わない。

ヌスバウム:
そうです。

上野:
むしろ、自分が傷ついたからこそ、

「私は次にどこで強い側にいるだろう」

と見る。

國分:
それは非常に重要だと思います。

自分が弱い場所ばかりを見ると、

自分の加害性は見えない。

ルース:
人は自分を、人生全体で被害者だと思いたくなることがありますね。

上野:
あります。

でも実際には、軸ごとに違う。

経済的には恵まれている。

ジェンダーでは不利。

国籍では有利。

家庭では弱い。

職場では強い。

一人の中に複数の位置がある。

それが「世界99」でもある。

國分:
そう考えると、被害者と加害者を固定しないことは、

「みんな同じくらい悪い」

という話ではないですね。

ヌスバウム:
絶対に違います。

そこはとても重要です。

権力差はあります。

選択肢の差もあります。

受けた被害の重さも違う。

「誰でも加害者になるから、誰も責められない」

とはならない。

上野:
そう。

責任をぼかすために複雑さを使ってはいけない。

國分:
複雑さは免罪符ではない。

ヌスバウム:
その通りです。

むしろ複雑だからこそ、

誰がどの場面でどれだけ力を持っていたかを丁寧に見る必要がある。

ルース:
そして、見たあとにどう応答するか。

國分:
またそこに戻りますね。

少し笑いが起きた。

だが、ヌスバウムはまだ考えていた。

ヌスバウム:
私は、もう一つ不快な質問をしてもいいですか。

上野:
どうぞ。

ヌスバウム:
私たちは今、レナの苦しみについて非常に真剣に話しています。

被害者と加害者について。

感動を消費する危険について。

では、私たち自身はどうでしょう。

私たちは今、

レナの苦しみを使って、

自分たちの思想を語っていないでしょうか。

部屋の空気が変わった。

誰もすぐには答えなかった。

國分:
その問いは必要ですね。

上野:
かなり嫌な質問ですけどね。

ヌスバウム:
だから必要なのだと思います。

誰かの苦しみを分析するとき、

分析する側は安全な場所にいます。

頭が良く見える。

倫理的に見える。

場合によっては評価される。

その危険から、学者も自由ではない。

ルース:
作家も同じです。

イシグロ:
そうですね。

他人の痛みは、文学にとって非常に強い材料です。

上野:
社会運動も同じですよ。

他人の被害を語ることで、自分の正しさを証明することがある。

國分:
では、語らない方がいいんでしょうか。

上野:
私はそうは思いません。

語らなければ消される苦しみもある。

ヌスバウム:
私もそう思います。

問題は、語ることをやめることではなく、

自分がどの位置から語っているのかを忘れないこと

でしょう。

ルース:
そして、物語の中心を自分の善意にしないこと。

イシグロ:
相手の苦しみが、こちらの人格形成のために存在しているかのように扱わない。

上野:
「あなたの苦しみのおかげで私は成長しました」

って、言われる側からしたら、たまらないことがありますからね。

國分:
確かに。

ヌスバウム:
苦しみには意味がある、と簡単に言うことも危険です。

誰かの苦しみを、後から美しい物語にしてしまう。

ルース:
「あなたはこの経験があったから強くなった」

という言葉もそうですね。

上野:
本人が言うならいい。

他人が言うのは違う。

ヌスバウム:
まさにそこです。

苦しみから意味を作る権利は、まずその人にある。

外側の人が勝手に、

「この悲劇には意味がありました」

と言ってはいけない。

しばらくして、國分が白い紙を自分の方へ引き寄せた。

國分:
ここまで話していると、

「苦しみは人を善くするか」

という最初の質問の答えは、かなりはっきりしてきた気がします。

ルース:
どうですか。

國分:
苦しみそのものは、人を善くしない。

ただ、

苦しみをどう受け取り、

それにどう応答するかによって、

その後は変わりうる。

ヌスバウム:
私は賛成です。

上野:
私も。

苦労は教育ではない。

苦労したから偉いわけでもない。

でも、自分の苦労を、

「他人にも同じ苦労をさせる理由」にするのか、

「同じ苦労を減らす理由」にするのか。

そこは違う。

ルース:
それは非常に分かりやすいですね。

上野:
自分は我慢した。

だからあなたも我慢しなさい。

になるのか。

自分は我慢した。

だからあなたは我慢しなくていい社会にしよう。

になるのか。

同じ経験から、反対方向へ行ける。

ヌスバウム:
そこに倫理的選択があります。

國分:
完全に自由な選択ではないかもしれない。

でも応答はできる。

ルース:
そして、自分がどちらへ進んでいるかを何度も確認する。

上野:
そうですね。

一回善い選択をしたから、

ずっと善い人になるわけではない。

その瞬間ごとに変わる。

ヌスバウム:
私は「善い人」という名詞より、

「より良く応答する」という動詞の方が好きです。

國分:
それは今回の会話に合っていますね。

善人か悪人かではなく、

今どう応答しているか。

ルース:
そして、間違えたら?

ヌスバウム:
認める。

修復する。

必要なら謝る。

可能なら変える。

完璧な無罪を目指さない。

上野:
それ、大事ですね。

今の社会は「一度も加害したことのない人」でいようとしすぎることがある。

そんな人はいない。

國分:
でも、

「誰でも加害するんだから仕方ない」

にも行かない。

上野:
そう。

その間です。

ルースがペンを取った。

白い紙の下の方に、一行を書いた。

「私が傷ついたことは、私を善い人にはしない。」

少し迷ってから、もう一行。

「でも、その傷にどう応答するかは、次に傷つく人を変えるかもしれない。」

ヌスバウムがその文章を読んだ。

ヌスバウム:
私は、もう一つ加えたいです。

彼女はその下に書いた。

「誰かの苦しみに涙したとき、その涙を自分の無罪証明にしない。」

上野が小さく笑った。

上野:
厳しいですね。

ヌスバウム:
私自身にも向けています。

上野:
それならいい。

國分が三つの文章を眺めた。

國分:
でも、ここまで行くと、次の問題が出てきませんか。

自分の加害性を認め続ける。

世界の不正を見る。

感動を疑う。

正義さえ疑う。

それをずっとやっていたら、人間は疲れます。

ルース:
白藤のように。

國分:
そうです。

正しくあろうとすることが、

自分を監視し続けることになる。

上野:
そしてある日、

「もう何も感じたくない」

と思うかもしれない。

ヌスバウム:
怒らない。

争わない。

傷つかない。

誰も責めない。

イシグロ:
とても平和に聞こえますね。

ヌスバウム:
ええ。

だからこそ、次の問いは難しい。

もし怒りも対立もなくせるなら、

私たちはそれを本当に望むのでしょうか。

誰もすぐには答えなかった。

白い紙に残された三つの文章の下には、まだ十分な余白があった。

そこに次に何が書かれるのかは、

まだ誰にも分からなかった。

Topic 4|怒らなくなれば、人間は優しくなったことになるのか?

世界99 考察 4

白い紙には、前のTopicで書かれた三つの文章が残っていた。

「私が傷ついたことは、私を善い人にはしない。」

「でも、その傷にどう応答するかは、次に傷つく人を変えるかもしれない。」

「誰かの苦しみに涙したとき、その涙を自分の無罪証明にしない。」

最後の一文の下には、まだ余白があった。

マーサ・ヌスバウムが、その余白をしばらく見つめていた。

マーサ・ヌスバウム:
前の話を続けるなら、私たちは少し危険な場所に来ていますね。

自分の正しさを疑う。

自分の加害性を見る。

他人の苦しみを簡単に理解したと思わない。

それは大切です。

でも、それを続けていると、人は疲れる。

そして、ある瞬間こう思うかもしれません。

「もう怒りたくない」

「もう傷つきたくない」

「何も問題だと思わなくなれば、もっと楽に生きられるのではないか」

ルース・オゼキ:
空子なら、その感覚をよく理解しそうですね。

國分功一郎:
ええ。

世界と摩擦を起こさない方が楽だという感覚です。

ヌスバウム:
問題は、そこからです。

怒りを減らすことは、本当に悪いことでしょうか。

私は、怒りを無条件に礼賛したくありません。

怒りは人を傷つけます。

復讐を正当化する。

相手が苦しめば自分の傷が癒えるように思わせる。

そして時に、

「あなたが私と同じだけ苦しめば、公平になる」

という方向へ進む。

私はそこにはかなり批判的です。

國分:
すると、『世界99』後半のように、怒りが減っていく社会は、むしろ良い面もある。

ヌスバウム:
もちろんあります。

怒りが減れば、暴力も減るかもしれない。

人間関係の消耗も減る。

家庭内で怒鳴る人がいなくなる。

SNSで罵倒し合うことも減る。

政治的な敵意も薄くなる。

それを全部「怖い社会」と決めつけるのは簡単すぎます。

ルース:
私はそこが面白いと思います。

読者は、穏やかな社会を見ると不気味に感じる。

でも、現実では私たちは毎日のように、

もっと争いを減らしたい、

もっと優しくなりたい、

もっと分かり合いたい、

と思っています。

では本当にそれが実現したとき、なぜ怖いのでしょう。

國分:
おそらく「どうやって実現したか」が重要なんでしょうね。

ヌスバウム:
その通りです。

自分の怒りを理解し、考え、別の形に変えていく。

それと、

怒る能力そのものを失うことは違う。

ルース:
怒りがなくなるのではなく、怒りを使わなくてもいい状態になるのと、

怒りという感覚が存在しなくなるのでは違う。

ヌスバウム:
ええ。

例えば、子どもが誰かにいじめられているのを見たとします。

あなたの中に、

「これは許せない」

という感覚が生まれる。

私は、そのあと相手を苦しめたいという復讐心に進む必要はないと思う。

でも最初の、

「これは間違っている」

という感覚までなくしてしまったらどうなるでしょう。

國分:
不正を感知するセンサーとしての怒り。

ヌスバウム:
そうです。

怒りそのものが常に正しいわけではない。

人間は間違った理由でも怒る。

嫉妬でも怒る。

自分の特権が脅かされても怒る。

だから、

「怒っているから正しい」

とは言えない。

でも、

何も怒れなくなった社会も危険です。

ルース:
身体で考えると分かりやすいかもしれません。

痛みは嫌なものです。

でも、痛みを完全に感じない身体は危険ですよね。

火傷しても気づかない。

骨折しても歩き続ける。

國分:
怒りを社会的な痛覚として考える。

ルース:
そう。

痛みを減らすことは大切です。

でも、痛みを感じる能力までなくすこととは違う。

ヌスバウム:
私はその比喩が好きです。

ただし、怒りは痛みより複雑です。

なぜなら、怒りは簡単に他人への攻撃へ変わるから。

だから必要なのは、

怒りを消すことでも、

怒りに従うことでもない。

怒りが何を知らせているのかを読むこと

だと思います。

國分:
すると、白藤の正義感も同じですね。

彼女は何かがおかしいと感じ続ける。

それで疲れる。

でも、その疲れをなくすために「おかしいと思わない人」になったら、何かを失う。

ヌスバウム:
そうです。

白藤の苦しさは、本当に難しい。

社会の矛盾に敏感であることは、素晴らしい能力でもあります。

でも、すべての不正に反応し続けると、人間は壊れる。

ルース:
では、鈍感になるしかないのでしょうか。

ヌスバウム:
私はそう思いません。

敏感であることと、すべてを自分一人で背負うことを分ける必要があります。

國分:
Topic 2のケアと似ていますね。

問題を感じる人が、問題を全部処理しなければならないわけではない。

ヌスバウム:
その通りです。

社会的な仕組みが必要です。

怒りを個人の内側だけで処理すると、

ある人は爆発する。

ある人は病む。

ある人は麻痺する。

でも、制度が不正を修正できるなら、

怒りを復讐へ変えずに済む。

ルース:
つまり、怒りが必要ない社会とは、

怒れなくなった社会ではなく、

怒りが示した問題に応答できる社会。

ヌスバウム:
そうです。

それなら私はかなり理想的だと思います。

國分:
ここで『世界99』のクリーンな社会が難しくなりますね。

見た目には穏やか。

対立も少ない。

怒りも少ない。

そこだけ見れば良い社会に見える。

でも、その静けさが、

問題が解決された結果なのか、

問題を感じる能力が薄くなった結果なのか。

それが分からない。

ルース:
そして、もしかすると両方なのかもしれない。

ヌスバウム:
ええ。

そこがこの作品の面白さでしょう。

完全なディストピアなら簡単です。

「これは怖い社会です」

で終わる。

でも、実際に苦しむ人が減っているなら?

暴力が減ったなら?

人間関係が楽になったなら?

それでも私たちは、

「以前の方が人間らしかった」

と言えるでしょうか。

國分:
その「人間らしさ」という言葉も危険ですね。

戦争も人間らしい。

嫉妬も人間らしい。

虐待も人間がする。

だから、

「人間らしいから残すべき」

とは言えない。

ルース:
そうですね。

怒りも同じ。

人間らしいという理由だけで守る必要はない。

ヌスバウム:
私もそう思います。

だから問いは、

「怒りを残すべきか」

ではない。

もっと正確には、

不正に気づき、それに抵抗する能力を残すべきか

です。

國分:
怒りはその一つの形にすぎない。

ヌスバウム:
そうです。

人は怒らずに抵抗することもできる。

悲しみから動くこともできる。

愛から動くこともできる。

連帯から動くこともできる。

冷静な判断から動くこともできる。

でも、

「何も問題だと思わない」

状態とは違う。

その時、上野千鶴子が口を開いた。

上野千鶴子:
私は少し社会的な角度から見たいです。

「怒らない人」が評価される社会って、誰にとって都合がいいんでしょう。

ヌスバウム:
なるほど。

上野:
家庭で妻が怒らない。

職場で部下が怒らない。

介護職が怒らない。

低賃金労働者が怒らない。

学生が怒らない。

市民が怒らない。

管理する側からすると、とても楽です。

國分:
「穏やかさ」が統治の技術になる。

上野:
そう。

日本では特に、

「感情的になるな」

「空気を壊すな」

「大人なんだから我慢しろ」

という言葉が使われることがあります。

もちろん、怒鳴り散らすことを肯定しているわけではありません。

でも、怒っている内容を見る前に、

「怒っている人は未熟」

と処理されることがある。

ヌスバウム:
それは重要ですね。

怒りの表現の仕方と、怒りの理由を分けなければならない。

上野:
そうです。

声を荒げたことは問題かもしれない。

でも、

なぜその人がそこまで怒ったのか。

そこを見ないといけない。

ルース:
特に、長い間我慢してきた人ほど、ある日突然爆発することがありますね。

上野:
ええ。

そして爆発した瞬間だけ見て、

「怖い人」

とされる。

その前の10年間の沈黙は見えない。

國分:
それはTopic 2の不可視化ともつながります。

支えている間は見えない。

怒った瞬間だけ見える。

上野:
そうなんです。

母親もそう。

介護者もそう。

ずっとやっている間は「当たり前」。

ある日、

「もうできません」

と怒ったら、

「急にどうしたの」

と言われる。

ヌスバウム:
すると、怒りは時に、

見えなかった負担を可視化する。

上野:
そう。

だから私は、

「怒りをなくしましょう」

と簡単には言えない。

誰の怒りをなくそうとしているのか、考えたい。

國分:
権力のある人の怒りと、権力のない人の怒りは同じではない。

ヌスバウム:
ええ。

そこはとても重要です。

王が臣下に怒ることと、

臣下が不正な扱いに怒ることは、

同じ「怒り」でも意味が違う。

感情は、権力関係の中にあります。

ルース:
すると、クリーンな社会で全員が穏やかになっていたとしても、

以前どんな人が怒る必要があったのかを見るべきなのかもしれません。

上野:
そうです。

もし、弱い立場の人が怒らなくなったことで社会が平和になったのなら、

その平和は誰にとっての平和か。

國分:
でも逆に、強い側の怒りもなくなっているなら?

例えば、差別的な怒り。

支配的な怒り。

暴力的な怒り。

それも減る。

上野:
それは良いことです。

だから難しいんですよ。

全部まとめて「怒りを残せ」とも言えない。

ヌスバウム:
私はやはり、

怒りを目的にしないことだと思います。

目的は正義です。

怒りはそのための信号の一つ。

信号が必要なくなるほど問題が解決されたなら素晴らしい。

でも、問題が残っているのに信号だけ切ったなら危険。

國分:
火災報知器を止めて、

「静かになった」

と喜ぶようなものですね。

ルース:
火はまだ燃えているのに。

ヌスバウム:
そうです。

部屋の中に少し笑いが起きたが、すぐに静かになった。

ルース:
私はもう一つ考えたいことがあります。

怒りだけでなく、不快感です。

『世界99』の後半では、社会がとてもクリーンになっていく。

もし人が不快な感情をほとんど感じなくなったら、

それは幸福なのでしょうか。

國分:
不快感にはどんな価値があると思いますか。

ルース:
私は、必ずしも価値があるとは言いたくないです。

苦しいものは苦しい。

でも、不快感は時々、

自分と世界がずれていることを知らせます。

「ここにいたくない」

「これは私には合わない」

「この関係は苦しい」

そういう感覚です。

もしそれが全部なくなったら、

人は世界に完璧に適応できます。

國分:
空子の究極形ですね。

ルース:
そうかもしれません。

でも、完璧に適応した人間は自由なのでしょうか。

上野:
それは怖い質問ですね。

國分:
Topic 1で、

拒否できる余地が大切だという話をしました。

不快感は、拒否の前段階なのかもしれない。

まず、

「嫌だ」

と感じる。

そのあと、

「嫌だと言う」

になる。

ルース:
もし最初の「嫌だ」が消えたら?

國分:
拒否そのものが起きなくなる。

ヌスバウム:
そう考えると、

理想社会とは、

人が不快感を感じなくなる社会ではなく、

不快感を表現しても破壊されない社会なのかもしれません。

上野:
私はそちらの方が好きですね。

怒ってもいい。

嫌だと言ってもいい。

反対してもいい。

それでも関係が終わらない。

ルース:
それは人間関係でもそうですね。

完全に争わない夫婦より、

争っても修復できる夫婦。

ヌスバウム:
そうです。

愛とは、対立がないことではない。

対立しても相手を破壊しないこと。

國分:
社会も同じかもしれません。

民主主義は、

全員が同じ意見になる制度ではない。

違う意見を持ったまま、同じ社会に残れる制度。

上野:
非常に重要ですね。

「みんな仲良く」

より、

「仲良くできなくても一緒にいられる」

方が民主主義的かもしれない。

ルース:
それはTopic 5にもつながりますね。

違うままでいること。

ヌスバウム:
ええ。

怒りの問題を突き詰めると、

結局「違いをどう扱うか」に行く。

他人が自分と違う。

価値観も違う。

望むものも違う。

それを不快に感じることもある。

そこで、

相手を変えるのか。

自分を消すのか。

相手を消すのか。

それとも、

違うまま共存するのか。

國分:
でも、違いの中には許容できないものもありますよね。

例えば差別。

暴力。

「私の価値観ではこれが普通です」

と言われても受け入れられない。

ヌスバウム:
もちろんです。

違いを尊重することと、

すべての行為を許すことは違います。

そこには最低限守るべき尊厳や安全がある。

上野:
だから難しい。

「違いを尊重しましょう」

だけでもだめ。

「正しい価値観に統一しましょう」

でも危険。

ルース:
その間に、人間社会がある。

國分:
そして『世界99』は、

その間をなくした社会を想像しているのかもしれない。

ルース:
どういう意味ですか。

國分:
もし全員が同じように感じる。

同じように考える。

怒りも減る。

摩擦も減る。

すると、

「違いをどう扱うか」

という問題そのものが消える。

ヌスバウム:
問題を解決したのではなく、

問題を生む違いを消した。

國分:
そう。

それは効率的です。

上野:
かなり効率的でしょうね。

ルース:
そして優しいかもしれない。

ヌスバウム:
だから怖い。

もし明らかに残酷なら、拒否できる。

でも、苦しみが減っている。

争いも減っている。

みんな穏やか。

そこで、

「でも私はこの社会が嫌です」

と言ったら、

なぜ嫌なのか説明しなければならない。

國分:
「何が不満なんですか?」

と聞かれる。

ルース:
何も苦しくないのに。

上野:
それは強いですね。

不幸だから抵抗するのは分かりやすい。

でも、

幸福なのに抵抗する理由は何か。

ヌスバウム:
自由かもしれません。

國分:
でも幸福と自由が衝突したら?

ヌスバウム:
そこは簡単には答えられません。

人間は自由であるために、どれだけの苦しみを受け入れるべきなのか。

私は、

「自由のためなら苦しみも必要」

と美化したくない。

上野:
私も嫌です。

苦労を残す理由に自由を使わない方がいい。

ルース:
では、何を守りたいのでしょう。

長い沈黙があった。

イシグロが静かに口を開いた。

カズオ・イシグロ:
もしかすると、

「自分とは違う誰かが存在する可能性」

ではないでしょうか。

全員が彼の方を見た。

イシグロ:
怒りそのものを守りたいわけではない。

争いもいらない。

苦しみもできるだけ減らしたい。

でも、

自分とは違う人がいる。

その人が、

「私は違う」

と言える。

そして、その違いが不快でも、社会から消されない。

それを守りたいのではないでしょうか。

ルース:
他者が他者であり続けること。

イシグロ:
そうです。

私が理解できない人。

私が賛成できない人。

時に私を苛立たせる人。

でも、その人が存在してよい。

ヌスバウム:
それは非常に重要だと思います。

怒りのない社会より、

怒る必要があったときに怒れる社会。

違いのない社会より、

違いがあっても破壊し合わない社会。

上野:
「平和」の定義が変わりますね。

國分:
平和とは、摩擦ゼロではない。

摩擦があっても、一緒に残れること。

ルース:
それなら、人間関係にも当てはまります。

理解できない部分が残っても、

それで関係を終わらせなくていい。

ヌスバウム:
ええ。

完全な理解を要求しない。

完全な同意も要求しない。

でも、相手の尊厳は守る。

私は、その方が成熟した平和に思えます。

上野が白い紙を手元へ引き寄せた。

上野:
では、今日の一行を書きましょうか。

彼女はペンを持った。

「怒りがないことと、不正がないことは同じではない。」

ヌスバウムが、その下に書いた。

「怒りを超えることと、怒る能力を奪われることも同じではない。」

ルースが少し考えて、さらに一行。

「平和とは、誰も『嫌だ』と言わなくなることではない。」

國分がペンを受け取った。

「『嫌だ』と言っても、その世界に残れることかもしれない。」

四つの文章が並んだ。

イシグロはそれを読みながら言った。

イシグロ:
でも、ここで一つ困ったことがあります。

ヌスバウム:
何でしょう。

イシグロ:
私たちは今、

違う人が存在することに価値がある、

と言いました。

では、なぜでしょう。

ただ「人間らしいから」では弱い。

争いも生む。

誤解も生む。

孤独も生む。

もし技術によって、

もっと完全に互いを理解できるようになり、

違いによる苦しみまで減らせるなら。

なぜ、あえて違いを残さなければならないのでしょう。

誰も答えなかった。

ルースが白い紙の下の余白を見つめた。

ルース:
それは次に考えなければいけないことですね。

もし、あなたの痛みを私が完全に理解できる。

あなたの記憶も感じられる。

あなたがなぜ怒ったのかも、なぜ愛したのかも全部分かる。

そうなったら、

争いはもっと減るかもしれない。

國分:
そして「世界99」も減る。

上野:
一つの世界に近づく。

ヌスバウム:
それは、とても優しい世界に聞こえます。

イシグロ:
ええ。

だから聞きたい。

もし完全に分かり合えることが可能なら、

それでも私たちは、

分かり合えない部分を残したいのでしょうか。

白い紙の一番下に、

誰もまだ答えを書かなかった。

その問いだけが残った。

Topic 5|違うままでいることには、どんな価値があるのか?

世界99 考察 5

白い紙の一番下には、前のTopicで残された問いがあった。

「もし完全に分かり合えることが可能なら、それでも私たちは、分かり合えない部分を残したいのでしょうか。」

カズオ・イシグロは、その一文を長く見ていた。

カズオ・イシグロ:
私はこの問いが、いちばん難しいと思います。

私たちは普通、

理解し合うことを善いことだと考えています。

家族でも。

恋人でも。

社会でも。

戦争でも。

「もっと相手を理解できれば、争いは減る」

そう考える。

それはかなり正しいと思います。

ルース・オゼキ:
ええ。

人間の苦しみの多くは、

「分かってもらえない」

という感覚から来ますからね。

國分功一郎:
でも、『世界99』はその考えを極端まで進める。

記憶まで共有する。

感覚まで近づく。

相手の世界が、自分の中に入ってくる。

すると、誤解は減るでしょう。

イシグロ:
そして孤独も減るかもしれない。

私はそこを、簡単に怖いと言いたくないんです。

もし誰かが、

「私は一生、誰にも理解されなかった」

と感じて生きてきたなら。

その人に、

「でも分かり合えないことには価値があります」

と言うのは、かなり残酷でしょう。

ルース:
そうですね。

違いを美化することもできますから。

「あなたはあなた、私は私」

と言いながら、実際には相手を放置しているだけということもある。

國分:
理解しようとする努力は必要です。

ただ、

「完全に理解する」

となると話が変わる。

イシグロ:
なぜでしょう。

國分:
完全に理解できるということは、

相手の行為にも感情にも、

すべて説明がつくということですよね。

なぜ怒ったか。

なぜ逃げたか。

なぜ裏切ったか。

なぜ愛したか。

全部分かる。

そうすると、

驚きがなくなる。

ルース:
そして「あなた」という存在に、未知の部分がなくなる。

國分:
そうです。

相手が自分の予測からはみ出さなくなる。

イシグロ:
でも、それはそんなに悪いことでしょうか。

予測できないから、人は傷つきます。

恋人が突然去る。

子どもが自分の期待と違う人生を選ぶ。

友人が考えを変える。

理解できないから苦しむ。

もし全部理解できたら、少なくともその苦しみは減る。

ルース:
そうですね。

だから私は、

「分からない方が美しい」

とは言いたくない。

國分:
私もです。

ただ、

相手を理解することと、

相手が自分の中に完全に回収されることは違うと思う。

イシグロ:
回収される。

國分:
はい。

「私はあなたを理解している」

という言葉は、時々とても暴力的です。

ルース:
分かります。

「あなたは本当はこう思っている」

「あなたが怒っている理由はこれ」

「あなたはこういうタイプの人だから」

そう言われると、

自分の説明権を奪われることがあります。

國分:
そう。

相手を理解したつもりになることで、

相手が自分について語る必要がなくなる。

イシグロ:
すると、完全な理解は、

完全な支配にも近づく可能性がある。

ルース:
あります。

特に、相手より先に相手を説明できるようになったとき。

少し沈黙があった。

イシグロ:
では、記憶を共有することはどうでしょう。

説明ではない。

本当に相手の記憶を感じる。

その人の子ども時代。

恥ずかしかったこと。

愛された瞬間。

傷ついた瞬間。

全部、自分の記憶のように感じる。

それでも「理解したつもり」にすぎないでしょうか。

ルース:
それはさらに難しいですね。

もし本当に共有できるなら、

私たちが現在使っている「共感」という言葉を超えるかもしれない。

國分:
そして、責任の形も変わるでしょうね。

例えば、あなたが私にひどいことをした。

でも私は、あなたがそうした背景を完全に体験できる。

あなたの恐怖も。

幼少期も。

孤独も。

その瞬間の感情も。

そうなったら、怒り続けることは難しくなるかもしれない。

イシグロ:
それは良いことでは?

國分:
良い部分はあります。

でも同時に、

「それでも私は傷ついた」

と言う場所がなくならないでしょうか。

ルース:
ああ。

國分:
理解した瞬間に、許さなければならないようになる。

「あなたの事情を全部知っているのに、まだ怒るのですか」

と。

イシグロ:
なるほど。

完全な理解が、新しい道徳的圧力になる。

ルース:
これは重要ですね。

私たちは普通、

「相手の立場になって考えなさい」

と言います。

でも、相手を理解したからといって、

自分の痛みが消える必要はない。

國分:
そうです。

説明できることと、

傷が存在しなくなることは違う。

イシグロ:
すると、完全な共感の世界でも、

「私はあなたを理解しています。それでも私は傷つきました」

と言える場所が必要になる。

ルース:
はい。

それが残らないと、

共感が自己消去になってしまう。

マーサ・ヌスバウムが口を開いた。

マーサ・ヌスバウム:
私はそこに、尊厳の問題を感じます。

相手を理解することは、

相手の境界をなくすことではありません。

人間は、

「あなたの痛みが分かる」

と言うことができる。

でも同時に、

「それはあなたの痛みであり、私の痛みではない」

という区別も必要です。

ルース:
仏教について話すときも、よく誤解されるところです。

「自己は固定されていない」

ということと、

「私は存在しない」

は同じではありません。

イシグロ:
もう少し説明してもらえますか。

ルース:
たとえば波を考えてみてください。

波は海から独立していません。

水も周囲の波も風も全部つながっている。

でも、その瞬間には一つの波として形を持っている。

固定された永遠の自己ではない。

それでも、何もないわけではない。

人間も似ています。

関係の中で生まれ、変わり続ける。

だから「一つの本当の自分」に執着しなくていい。

でも、

だからといって社会が、

「あなたと私の境界はもう不要です」

と決めていいわけではない。

國分:
自分から境界への執着を手放すことと、

境界を外から消されることは違う。

ルース:
まったく違います。

イシグロ:
では、記憶ワクチンの問題も、

共有そのものではなく、

「共有しない自由」があるかどうかなのでしょうか。

國分:
かなり大きいと思います。

Topic 1でもTopic 2でも、結局「断れるか」という問題が出てきました。

ルース:
そうですね。

自分を変えることも。

ケアすることも。

怒りを手放すことも。

記憶を共有することも。

自分から選べるなら意味が変わる。

國分:
そして、断った人が世界から排除されないこと。

イシグロ:
そこが本当の多様性なのかもしれない。

全員が違っていいと言いながら、

実際には同じ価値観を共有しなければ追い出される社会もありますから。

ヌスバウム:
ええ。

「多様性」という言葉のもとで、

多様性を認めるという同じ考えを全員に要求する。

そこにも矛盾があります。

ルース:
人間は面白いですね。

違いを守ろうとして、違いを管理し始める。

國分:
そして管理された違いだけが許される。

イシグロ:
予測できる違い。

安全な違い。

ルース:
本当に異質なものは困る。

國分:
そう。

自分の世界を揺らすほど違う人は、やはり排除したくなる。

ヌスバウム:
すると、「違うままでいることの価値」は、

違いが美しいから、だけではないのかもしれません。

イシグロ:
何だと思いますか。

ヌスバウム:
自分が間違っている可能性を残してくれること。

部屋が静かになった。

國分:
それは大きいですね。

ヌスバウム:
もし全員が私と同じ記憶。

同じ価値観。

同じ感情。

同じ判断。

そうなったら、私は安心でしょう。

でも、

私が間違っていたとき、誰がそれを知らせるのでしょう。

ルース:
他者は、私の世界の外から来る。

ヌスバウム:
そうです。

他者は面倒です。

理解できない。

反対する。

怒る。

こちらの正しさを疑う。

でも、その存在があるから、

私は自分の世界を絶対だと思わずに済む。

國分:
これは『世界99』というタイトルにも戻りますね。

世界が99あることは苦しい。

話が通じない。

価値観が違う。

でも世界が一つになったら、

自分の世界を外から見る場所もなくなる。

ルース:
99の世界は分断でもあるけれど、

同時に相互批判の可能性でもある。

イシグロ:
では、100番目の世界とは何でしょう。

誰も答えなかった。

イシグロは少し笑った。

イシグロ:
ただの思いつきです。

でも題名が「世界99」なら、

私はどうしても100を考えてしまう。

99の異なる世界がある。

100番目は、

全部が一つになる世界なのでしょうか。

それとも、

99の世界が違うまま共にいられる場所でしょうか。

ルース:
私は後者の方が好きですね。

一つになるのではなく、

間に場所を作る。

國分:
世界と世界の間。

ヌスバウム:
対話ですね。

イシグロ:
でも対話は、いつも成功するわけではない。

ルース:
成功しなくていいのかもしれません。

イシグロ:
どういう意味ですか。

ルース:
私たちは会話の目的を、

「分かり合うこと」

にしすぎると思うんです。

話した。

でも分かり合えなかった。

すると失敗だと思う。

でも、

話した。

分かり合えなかった。

それでも相手がそこにいることを認めた。

それでも一緒に席を立たなかった。

それも一つの成功ではないでしょうか。

國分:
Topic 4の、

「嫌だと言っても、その世界に残れる」

とつながりますね。

ルース:
そうです。

「あなたのことはまだ分かりません」

と言いながら、関係を続ける。

イシグロ:
それは愛にも当てはまりますか。

ルース:
むしろ愛こそそうでは?

イシグロは少し考えた。

イシグロ:
私は、愛について一つ質問をしてみたいです。

もし、あなたが愛している人のすべてを理解できるとしたら。

その人がなぜあなたを好きになったか。

なぜ時々距離を取るのか。

何を隠しているのか。

何に傷ついているのか。

何を夢見ているのか。

全部分かる。

あなたは、それを望みますか。

ルース:
少しは望むでしょうね。

國分:
かなり望むかもしれない。

ヌスバウム:
特に関係が苦しいときは。

イシグロ:
では、さらに進めます。

その人の記憶も全部あなたの中に入る。

その人の価値観もあなたと同じになる。

あなたが悲しめば同じように悲しむ。

あなたが正しいと思うことを、その人も正しいと思う。

あなたが美しいと思うものを、その人も美しいと思う。

もう誤解はない。

争いもほとんどない。

それでも、その人を愛したいですか。

今度は誰もすぐに答えなかった。

ルース:
不思議ですね。

最初はとても魅力的に聞こえたのに。

そこまで行くと、

少し寂しい。

國分:
相手というより、自分の反射になる。

イシグロ:
そうなんです。

愛には、

相手が自分ではないことが必要なのかもしれない。

ヌスバウム:
私はそう思います。

愛は所有とは違います。

相手が自分の予想を超える。

自分の望む通りにならない。

それでも、その人に価値があると思う。

ルース:
相手の自由を含めて愛する。

イシグロ:
そこには怖さがあります。

相手が自由なら、

自分から去ることもできる。

考えを変えることもできる。

自分を愛さなくなることもできる。

國分:
だから人は相手を固定したくなる。

イシグロ:
そう。

「あなたはこういう人でいてほしい」

「ずっと私を愛してほしい」

「変わらないでほしい」

でも、完全に固定された相手を本当に愛せるでしょうか。

ルース:
人形に近づいてしまう。

イシグロ:
あるいは人工的な伴侶に。

自分の望む通りに反応する。

絶対に離れない。

怒らない。

裏切らない。

理解してくれる。

それは完璧な関係に見える。

でも、

そこに相手の自由がなければ、

愛されていると言えるのでしょうか。

國分:
愛されているのではなく、

プログラム通りに反応されているだけかもしれない。

ヌスバウム:
この問題はピョコルンにも戻りますね。

人間が望む通りに存在してくれる存在。

ケアする。

愛する。

慰める。

反抗しない。

ルース:
そして私たちは、それを「理想的」と呼ぶ。

イシグロ:
でも、本当に理想的な他者とは、

こちらの期待から少しはみ出す存在なのかもしれない。

國分:
それは面倒ですよ。

イシグロ:
とても面倒です。

全員が少し笑った。

イシグロ:
でも、そこに愛の現実があるように思います。

相手を完全には理解できない。

完全には所有できない。

完全には予測できない。

それでも、

「あなたがあなたでいることを望む」。

ルース:
それは、とても大きな愛ですね。

ヌスバウム:
そして難しい愛です。

自分を安心させるために相手を変えない。

國分:
ただ、ここでも現実的な線引きは必要ですね。

「あなたはあなたでいていい」

と言って、相手の暴力まで許すことはできない。

ヌスバウム:
もちろんです。

他者性の尊重は無制限な許容ではない。

誰かの自由が、別の人の尊厳や安全を破壊するときには制限が必要です。

ルース:
違いを残すということは、ルールをなくすことではない。

國分:
そう。

むしろ、違う人たちが一緒に暮らすためにこそルールがいる。

イシグロ:
では、理想は一つの世界ではない。

複数の世界が存在し、

その間に共通の最低限のルールがある。

ヌスバウム:
尊厳。

安全。

参加。

拒否する権利。

自分の声。

そういったものですね。

ルース:
でも、記憶まで共有できる世界なら、

そういうルールすら必要なくなる可能性がありますよね。

相手の痛みを自分も感じるなら、

傷つけようとしない。

國分:
それはかなり魅力的です。

イシグロ:
そうなんです。

だから私は最後まで迷います。

もし本当に、

他者を傷つけることが難しくなるほど完全な共感が可能なら、

個人の境界を少し失う代わりに、

それを受け入れる価値はないのでしょうか。

ルース:
あるかもしれません。

國分:
私も簡単に否定できません。

ヌスバウム:
私もです。

イシグロ:
では、なぜ私たちはまだ躊躇するのでしょう。

長い沈黙があった。

ルースが白い紙を見つめた。

ルース:
私は、苦しみをなくしたくないからではないと思います。

苦しみは減ってほしい。

誤解も減ってほしい。

孤独も減ってほしい。

でも、

そのために「あなた」がいなくなることには躊躇する。

イシグロ:
「あなた」がいなくなる。

ルース:
はい。

あなたを完全に理解した結果、

あなたと私の違いが消える。

そのとき、

私は誰に出会っているのでしょう。

國分:
自分自身だけになる。

ルース:
そう。

私は他者と出会いたい。

自分の世界にはない何かに出会いたい。

それによって驚きたい。

変わりたい。

時には傷つくかもしれない。

でも、自分だけでは作れない世界に触れたい。

イシグロ:
それが、違いの価値でしょうか。

ルース:
私はそう思います。

違いは、

単に個性を飾るためではない。

他者が私を変えられる余地を残すためにある。

國分がゆっくりうなずいた。

國分:
それは非常に重要ですね。

もし相手が完全に私と同じなら、

相手は私を変えられない。

ヌスバウム:
そして社会も変わらない。

國分:
そう。

異なる世界がぶつかるから、

自分の世界の限界が見える。

イシグロ:
つまり、違いにはコストがある。

誤解。

摩擦。

孤独。

怒り。

でも同時に、

創造性。

修正。

成長。

愛。

そこも違いから生まれる。

ルース:
ええ。

違いをなくせば苦しみが減るかもしれない。

でも、

人間が互いに何かを与える可能性も減るかもしれない。

その時、ジョアン・トロントが静かに加わった。

ジョアン・トロント:
私は、ケアにも同じことが言えると思います。

良いケアは、

相手を自分と同じにすることではありません。

「私ならこうしてほしい」

ではなく、

「あなたは何を望んでいるか」

と聞く。

上野千鶴子:
そして、自分には理解できない答えが返ってくる可能性を認める。

トロント:
そうです。

相手が、

「あなたの助けはいらない」

と言うかもしれない。

こちらが善いと思うことを拒否するかもしれない。

それでも相手を尊重できるか。

そこにケアの難しさがあります。

上野:
親子もそうですね。

親は子どもをよく知っていると思う。

「あなたのためを思って」

と言う。

でも子どもは、

「それは私の人生じゃない」

と言う。

ルース:
完全に分かっていると思うことが、

一番相手を見えなくする瞬間もある。

イシグロ:
興味深いですね。

「理解すること」が「見ること」を妨げる。

國分:
説明が完成すると、観察をやめるからでしょうね。

ルース:
そうかもしれません。

「この人はこういう人」

と分かった瞬間、

その人が変わる可能性を見なくなる。

イシグロ:
すると愛とは、

相手についての結論を出さないことでもある。

ルース:
私は好きですね、その言い方。

ヌスバウム:
私も。

誰かを愛するとは、

「あなたが誰か、私はもう知っています」

ではなく、

「あなたがこれから誰になるか、まだ分からない」

と言えること。

しばらく誰も話さなかった。

白い紙は、もうかなり文字で埋まっていた。

Topic 1から始まった問い。

本当の自分。

責任。

便利さ。

ケア。

被害。

加害。

感動。

怒り。

平和。

そして違い。

すべてが、どこかでつながっていた。

イシグロがその紙を見ながら言った。

イシグロ:
最初のTopicで、

「本当の自分は必要なのか」

と話しました。

今は少し違うところまで来ましたね。

國分:
ええ。

固定した自分はなくてもいい。

ルース:
でも、だからといって、

みんなが同じになればいいわけでもない。

ヌスバウム:
自己は固定されていなくても、

境界や尊厳には意味がある。

トロント:
そしてその境界は、

他者を拒絶する壁ではなく、

相手の声を聞くための距離でもある。

上野:
距離がないと、

「あなたの気持ちは私が一番分かっている」

になりますからね。

イシグロ:
では、

分からないことは失敗ではない。

ルース:
そう思います。

時には、

分からないまま隣にいることの方が、

分かったつもりになるより優しい。

國分がペンを取った。

白い紙の最後の余白に書いた。

「完全に分かり合うことと、同じ存在になることは同じではない。」

ルースが、その下に続けた。

「他者を愛するとは、相手についての結論を急がないことかもしれない。」

ヌスバウムが書いた。

「違いは、私が間違っている可能性を残してくれる。」

トロントが続けた。

「相手を尊重するとは、相手が私の望む答えを出さない権利を守ることでもある。」

上野が最後に一行を書いた。

「あなたのため、と言う前に、あなたはどうしたい、と聞く。」

全員がイシグロを見た。

まだ一行分の余白が残っていた。

イシグロはペンを手に取った。

しばらく何も書かなかった。

そして、ゆっくり書いた。

「分からないまま、それでも一緒にいたいと思えるだろうか。」

誰も、その下には何も書かなかった。

それが答えではなかったからだ。

むしろ、この対話全体の最後に残すには、

答えがない方がよかった。

ルースが最初のページを振り返った。

そこにはTopic 1で書いた文章がある。

「私は、どの世界で生きているのだろう。」

「その世界で、私は何を見ないことにしているのだろう。」

ルース:
最初は、自分についての問いでしたね。

國分:
でも最後は、他者についての問いになった。

上野:
そしてその間には、

誰が自分の生活を支えているのか、

という問いがあった。

トロント:
誰の負担を見ていないか。

ヌスバウム:
誰の苦しみを自分の正しさの材料にしているか。

イシグロ:
誰の怒りを消して平和を作っているか。

ルース:
そして最後に、

誰を自分と同じにして安心しようとしているか。

國分が静かに言った。

國分:
そう考えると、『世界99』が怖いのは、

人間が悪いからではないのかもしれません。

人間がずっと、

楽になりたい。

理解されたい。

傷つきたくない。

争いたくない。

愛されたい。

と思っているからなのかもしれない。

上野:
全部、普通の願いですね。

國分:
そうです。

それが少しずつ進んでいった先に、

誰かが見えなくなる。

誰かの自由がなくなる。

違いが邪魔になる。

ヌスバウム:
だから善意だけでは十分ではない。

トロント:
便利さも悪ではない。

ルース:
自己が変わることも悪ではない。

イシグロ:
共感も悪ではない。

上野:
平和も悪ではない。

國分:
でも、

どんな善いものも、

その代償を誰が払っているかを見なくなった瞬間、

別のものに変わる可能性がある。

静かな沈黙が続いた。

白い紙の最後に書かれた一文だけが残っている。

「分からないまま、それでも一緒にいたいと思えるだろうか。」

それは、記憶ワクチンを受けるかどうかだけの問いではなかった。

夫婦にも。

親子にも。

友人にも。

政治にも。

宗教にも。

異なる文化にも。

そして、自分とは違う99の世界すべてにも向けられていた。

相手を完全に理解できない。

相手も自分を完全には理解しない。

時には怒る。

傷つく。

間違える。

それでも、

相手を消さない。

自分と同じにしない。

利用できる存在にしない。

かわいそうな物語だけにもしない。

そして、

「あなたの世界は私にはまだ分からない」

と言いながら、

そこにその人の世界が存在することを認める。

もしかすると、

それが『世界99』の中で最も難しい選択なのかもしれない。

一つの完璧な世界を作ることではなく。

99の世界を消すことでもなく。

違う世界を持ったまま、

同じ場所に残ること。

最後にイシグロが、小さな声で言った。

イシグロ:
完全に分かり合えないことは、

人間の失敗ではないのかもしれませんね。

ルースがうなずいた。

ルース:
ええ。

もしかすると、

そこから初めて、

本当に相手に会えるのかもしれません。

白い紙は、それ以上埋められなかった。

最後に

小説『世界99』の社会倫理図解

この対話は、「本当の自分とは何か」という問いから始まりました。

しかし最後まで進むと、もっと重要なのは、本当の自分を発見することではないように思えてきます。

人間は変わります。

家族の前と仕事場では違う。

友人によっても違う。

時代によっても違う。

昨日の自分と今日の自分さえ違います。

一つの純粋な「本当の自分」を見つけられなくても、それだけで人間性を失うわけではないのかもしれません。

けれど、変わることと、自分がしてきたことから切り離されることは違います。

今回の対話で何度も戻ってきたのは、

「気づいたあと、どう応答するのか」

という問いでした。

自分が社会によって作られてきたことに気づく。

自分の便利な生活を誰かが支えていることに気づく。

自分も傷つけられてきた一方で、別の誰かを傷つけているかもしれないと気づく。

自分の正義が、誰かを裁く快楽に変わっている可能性に気づく。

その瞬間から、私たちには新しい選択が生まれます。

第二の大きな発見は、苦しみを減らすことと、苦しみを移動させることは違うということでした。

人間はもっと楽になっていい。

母親も、介護者も、労働者も、女性も、苦労する必要はありません。

苦しみを美化する必要もありません。

問題は、苦しみが消えたと思ったときです。

本当に消えたのでしょうか。

それとも、家族から低賃金労働者へ、人間から人工的存在へ、見える場所から見えない場所へ移っただけなのでしょうか。

ピョコルンは、その問いを極端な形で私たちに見せます。

そして問いは現代社会にも返ってきます。

便利なサービス。

安い商品。

介護。

物流。

テクノロジー。

AI。

私たちがボタン一つで得ている便利さの向こう側には、しばしば別の身体、別の時間、別の生活があります。

それでも、答えは「便利さを捨てよう」ではありません。

もっと難しい。

私たちは楽になっていい。けれど、その楽さを支える存在を背景にしてはいけない。

第三の発見は、被害者と加害者を簡単に分けられないことでした。

傷ついたことは、人を自動的に善くしません。

自分が苦しんだから、

「あなたも我慢しなさい」

と言うこともできる。

自分が苦しんだから、

「あなたには同じ苦しみを経験させたくない」

と言うこともできる。

同じ傷から、まったく違う未来が生まれます。

重要なのは傷そのものではなく、その傷にどう応答するかです。

そして他人の苦しみに涙を流すときにも、同じ注意が必要です。

感動することは悪ではありません。

文学は、知らなかった他者の世界に触れるための強力な方法でもあります。

しかし、

「私は泣いた。だから私は理解した」

とは限りません。

他人の苦しみを、自分が善い人間であることの証明に使わない。

それは、この対話をする私たち自身にも向けられた問いです。

第四の発見は、平和についてでした。

怒りは人を傷つけます。

復讐にもなります。

しかし怒りは時に、

「ここには何かおかしいことがある」

と知らせる社会的な痛覚でもあります。

だから、

怒りを乗り越えることと、怒る能力を失うことは同じではありません。

本当に成熟した社会とは、誰も「嫌だ」と言わなくなる社会ではなく、

「嫌だ」と言っても、その社会に残れる社会

なのかもしれません。

そして最後に残ったのが、他者の問題でした。

完全に分かり合えたら、争いは減るでしょう。

孤独も減るかもしれません。

それは魅力的です。

だから『世界99』後半の世界を、単純なディストピアとして拒絶することはできません。

けれど、相手を完全に理解するために、相手と自分の境界までなくしたらどうなるでしょう。

愛する人が、自分と同じ記憶を持つ。

同じ価値観を持つ。

同じものを美しいと思う。

同じことに怒る。

自分を完全に理解してくれる。

争いはなくなるかもしれません。

しかしそのとき、私たちは誰を愛しているのでしょう。

他者でしょうか。

それとも、自分自身の反射でしょうか。

違いにはコストがあります。

誤解があります。

摩擦があります。

孤独があります。

時には怒りもあります。

しかし違いがあるからこそ、他者は私たちの世界にないものを持ってくることができます。

私たちを驚かせる。

間違いを指摘する。

価値観を揺らす。

そして、自分一人では決してなることのできなかった人間へ変えてくれる。

だから、違いの価値とは単に「個性は素晴らしい」ということではないのかもしれません。

他者が私を変えられる余地を残すこと。

そこにあるのかもしれません。

『世界99』から始まったこの対話の最後に残ったのは、答えではありませんでした。

もっと静かな問いでした。

分からないまま、それでも一緒にいたいと思えるだろうか。

相手を完全には理解できない。

相手も自分を完全には理解しない。

時には傷つく。

意見も違う。

違う世界を生きている。

それでも、相手を消さない。

自分と同じにしない。

役に立つ存在だけにしない。

かわいそうな物語だけにもしない。

「あなたの世界は、私にはまだ分からない」

そう言いながら、その世界が存在することを認める。

もしかすると、私たちに必要なのは、99の世界を一つにすることではないのかもしれません。

99の世界が違うまま、それでも同じ場所に存在できること。

その難しさの中に、人間であることの意味が残っているのかもしれません。

Short Bios:

ルース・オゼキ(Ruth Ozeki)
日系アメリカ人の作家、映画制作者、禅僧。『あるときの物語(A Tale for the Time Being)』などで知られ、自己、記憶、時間、文化的アイデンティティ、相互依存といったテーマを探究している。本対話では「固定された本当の自分」という考えを問い直し、他者を完全に理解し尽くさないことの意味を考える。

國分功一郎(Koichiro Kokubun)
日本の哲学者。自由、意志、責任、欲望などを研究し、『中動態の世界』などで知られる。本対話では「自由に選んだか、強制されたか」という単純な二分法を超え、環境によって形作られた人間にも、気づいた後の「応答」が残るという視点を提示する。

上野千鶴子(Chizuko Ueno)
日本を代表する社会学者・フェミニスト研究者の一人。女性、家族、家事労働、介護、高齢社会などを長く研究してきた。本対話では、空子の母親とピョコルンを通して、ある人の自由が別の人の見えない労働によって支えられる構造を考える。

ジョアン・トロント(Joan C. Tronto)
アメリカの政治理論家で、ケア倫理研究を代表する研究者の一人。人間を完全に自立した存在としてではなく、互いに依存し、ケアし、ケアされながら生きる存在として捉える。本対話では、依存そのものではなく、負担と権力が特定の人や存在に集中することを問題として考える。

マーサ・ヌスバウム(Martha C. Nussbaum)
アメリカの哲学者。倫理学、政治哲学、感情、正義、人間の尊厳などを幅広く研究している。本対話では、怒りと復讐を区別し、被害者と加害者という固定されたカテゴリーを超えながら、不正に気づく能力と正義のあり方を考える。

カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)
長崎生まれの英国作家、ノーベル文学賞受賞者。『わたしを離さないで』『クララとお日さま』などを通して、記憶、愛、人間性、人工的存在、代替可能性といった問題を描いてきた。本対話では、完全に理解できる相手を愛することと、自分には完全には理解できない「他者」を愛することの違いを問いかける。

Filed Under: 仮想対談, 哲学, 心理学, 文学, 日本文学 Tagged With: アイデンティティ, カズオ・イシグロ, ケア倫理, ジョアン・トロント, ピョコルン, マーサ・ヌスバウム, ルース・オゼキ, 上野千鶴子, 世界99, 他者性, 共感, 國分功一郎, 如月空子, 怒り, 搾取, 日本文学, 村田沙耶香, 現代文学, 自由, 記憶

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