はじめに
もし、昨日まで穏やかだった人が、突然別人のようになったら。
理由のない頭痛や寒気、悪夢が続き、自分の目や声までいつもと違うように感じたら。
それは単なる疲れなのでしょうか。
今回の5つの現代短編は、「霊が憑いている人に現れる15の特徴」というスピリチュアルな考え方をもとに、現代の日本で起こる5つの異なる物語として描いたものです。
元の話では、頭痛、ネガティブな感情、胸の苦しさ、悪夢、首や肩の重さ、背筋の寒気、目や人格、声の変化など、心と体に現れるさまざまなサインが語られています。
5人の主人公たちは、最初から霊を疑うわけではありません。
疲れ、ストレス、体調不良、悲しみ。
そう考えていた小さな異変が重なり、やがて普通には説明しにくい出来事へとつながっていきます。
これは霊を怖がるための5つの物語ではありません。
自分自身や、大切な人に起きている小さな変化に気づくための物語です。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Story 1: 急に家族を憎み始めた男

健司は、自分が怒鳴る人間になるとは思っていなかった。
三十八年間生きてきて、人に腹を立てることはもちろんあった。けれど声を荒らげることはほとんどない。
妻の由美は、結婚して十五年になる。
娘の美咲は十六歳。
二人とも、健司について同じことを言っていた。
「お父さんは怒らない人。」
会社でもそうだった。
東京・丸の内の金融会社でチームリーダーを務め、部下が失敗してもまず理由を聞いた。
「次に同じことをしなければいい。」
それが健司の口癖だった。
だから、その日の午後、会議室で彼が突然机を叩いた時、部屋にいた全員が黙った。
「何回同じことを言わせるんだよ!」
若い社員の佐々木が固まった。
入力した数字を一桁間違えただけだった。
しかも提出前に気づき、すでに修正していた。
普段なら健司が怒るようなことではない。
「すみません。」
佐々木が頭を下げる。
健司はさらに何か言おうとした。
ところが、その瞬間、自分の声が妙に遠く聞こえた。
自分が話しているのに、自分ではない誰かが喋っているような感覚だった。
健司は口を閉じた。
会議室を出ると、激しい頭痛が始まった。
こめかみの奥を、誰かに強く押されているようだった。
トイレへ行き、冷たい水で顔を洗った。
鏡の中の自分を見る。
目の下には薄いクマがあった。
「疲れてるな。」
そう呟いた。
その時は、それだけだと思った。
異変は少しずつ増えていった。
家に帰ると、何もかもが気に障った。
テレビの音。
食器の音。
娘がスマートフォンを見ながら笑う声。
由美がキッチンで鼻歌を歌う声。
以前なら何とも思わなかったことが、耳の奥に刺さった。
ある夜、美咲が食卓で言った。
「来月、友達とディズニー行っていい?」
健司は味噌汁を飲みながら答えた。
「いいよ。」
「本当?」
「学校のことちゃんとやってるならね。」
いつもなら、それで終わる会話だった。
ところが美咲が、
「やった!」
と笑った瞬間、健司の胸の奥から突然、強い苛立ちが湧き上がった。
理由はなかった。
本当に、何の理由もなかった。
「何がそんなに楽しいんだよ。」
美咲の笑顔が止まった。
「え?」
「毎日遊ぶことばっかり考えて。」
「毎日じゃないよ。」
「口答えするな。」
由美が健司を見た。
「ちょっと、どうしたの?」
「何が?」
「今日のあなた、変よ。」
その言葉を聞いた瞬間、さらに腹が立った。
「変なのはそっちだろ。」
健司は箸を置き、席を立った。
自分の部屋へ入り、ドアを閉めた。
その途端だった。
胸が苦しくなった。
心臓を外側から掴まれているような圧迫感。
健司はシャツの胸元を握った。
数分すると治まった。
救急車を呼ぶほどではない。
けれど、何かがおかしい。
健司はベッドに座り、深く息を吐いた。
そして、さっき自分が家族に言った言葉を思い返した。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
娘がディズニーに行く。
それだけの話だった。
自分は楽しみにしている娘を見るのが好きだったはずだ。
なのに、あの瞬間だけは、
美咲が笑っていることそのものが許せなかった。
その夜から、夢を見るようになった。
毎回、同じ家だった。
健司が子どもの頃に住んでいた祖母の家。
古い木造住宅。
廊下の奥に、一人の男が立っている。
顔は見えない。
健司は夢の中で尋ねる。
「誰?」
男は答えない。
ただ健司を見ている。
目を覚ますと、午前三時を少し過ぎている。
頭が痛い。
首も重い。
背中には汗をかいているのに、寒い。
そんな夜が何日も続いた。
由美は心配した。
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
「仕事が忙しいだけだよ。」
健司はそう答えた。
自分でもそう信じたかった。
四月から担当部署が変わった。
責任も増えた。
部下も増えた。
疲労とストレス。
全部それで説明できる。
そう思っていた。
土曜日の夕方、美咲がリビングで友達と電話をしていた。
笑い声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、健司の頭痛が始まった。
そして、またあの感情が湧いてきた。
うるさい。
楽しそうにするな。
なぜかそんな言葉が頭に浮かぶ。
健司はリビングへ行った。
「電話切れ。」
美咲が振り返る。
「もうちょっとだけ。」
「今すぐ切れって言ってるんだよ。」
「何で?」
その一言だった。
健司の中で何かが切れた。
「何でじゃない!」
テーブルを強く叩いた。
美咲がびくっと体を震わせた。
「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ!」
由美がキッチンから飛び出してきた。
「健司!」
それでも止まらなかった。
「学校行かせてもらって、スマホ買ってもらって、好きなもの食べて、それで何が不満なんだ!」
美咲の目から涙が落ちた。
その顔を見た瞬間、健司はさらに怒鳴ろうとした。
ところが、美咲が震える声で言った。
「お父さん。」
健司は黙った。
美咲は泣きながら父親の顔を見ていた。
「最近のお父さん、怖い。」
健司は何も言わなかった。
「怒ってる時の目……お父さんの目じゃないみたい。」
部屋が静かになった。
その言葉だけが残った。
健司は無意識にテレビ画面に映った自分を見た。
黒い画面に、自分の顔が薄く映っていた。
確かに目つきが違って見えた。
鋭い。
冷たい。
自分でも知らない顔だった。
次の瞬間、頭に激痛が走った。
健司は額を押さえた。
「あなた?」
由美が近づこうとした。
「来るな!」
健司は反射的に叫んだ。
そして自分で驚いた。
その声が、
自分の声より少し低く聞こえた。
翌週の日曜日。
由美は半ば強引に、健司を母親の家へ連れて行った。
埼玉にある古い住宅街だった。
母の春江は七十二歳。
「最近忙しいみたいだから、顔だけでも見せてあげよう。」
由美はそう言った。
健司は気が進まなかった。
玄関が開いた。
「いらっしゃい。」
春江が笑った。
ところが健司の顔を見た瞬間、その笑顔が消えた。
手に持っていた湯飲みが床に落ちた。
乾いた音が響いた。
「お母さん?」
由美が驚いた。
春江は健司を見たまま動かなかった。
「どうしたの?」
健司が聞く。
春江の唇が震えていた。
「今の顔……。」
「何?」
春江は答えなかった。
目をそらし、
「何でもない。」
と言った。
けれど昼食の間、春江は何度も健司を見ていた。
やがて美咲が、仏壇の横に置かれた古いアルバムを見つけた。
「おばあちゃん、これ見ていい?」
「いいよ。」
家族で写真を見ることになった。
健司の子ども時代。
若い頃の春江。
祖父母。
親戚。
昭和の終わり頃の色褪せた写真が並んでいる。
美咲が一枚の写真を指した。
「この人、誰?」
若い男性だった。
二十代後半くらい。
細身で、鋭い目をしている。
春江が一瞬黙った。
「私の弟。」
「お父さんの叔父さん?」
「そう。」
健司はその写真を見た。
名前だけは聞いたことがあった。
正一。
若くして亡くなった母の弟。
詳しい話は聞かされていなかった。
「何歳で亡くなったの?」
美咲が尋ねた。
「二十九。」
「若いね。」
春江はアルバムを閉じようとした。
その時だった。
健司が言った。
「金のことで揉めたんだろ。」
春江の手が止まった。
由美が健司を見る。
「何の話?」
健司は写真を見たまま続けた。
「じいちゃんが土地を売って、その金を渡さなかった。」
春江の顔色が変わった。
「健司。」
「それで正一が怒った。」
「やめなさい。」
「家を出ていけって言った。」
春江が立ち上がった。
「もうやめなさい!」
美咲が驚いて母親のほうを見る。
健司はゆっくり顔を上げた。
「何で?」
春江は震えていた。
「どうして知ってるの?」
「何を?」
「その話。」
健司は黙った。
春江は続けた。
「あなたには一度も話したことない。」
健司の表情から少しずつ感情が消えていった。
由美が小さな声で聞いた。
「健司……誰かから聞いたの?」
返事はなかった。
健司は写真の中の正一を見つめている。
そして言った。
「俺は何ももらってない。」
春江が息を止めた。
「健司?」
「全部あいつらが取った。」
声が低かった。
明らかに、いつもの健司の声ではなかった。
春江の顔から血の気が引いた。
健司はゆっくり春江を見た。
その目を見た瞬間、春江が後ずさった。
「正一……。」
由美が春江を見る。
「お母さん?」
健司の口元がわずかに動いた。
そして、かすれた声で言った。
「忘れたのか。」
春江の目から涙が落ちた。
「ごめんなさい……。」
その瞬間、健司の体が大きく揺れた。
激しい頭痛。
胸の圧迫感。
首から背中にかけて冷たいものが走った。
息ができない。
「健司!」
由美が支えた。
数秒後。
健司は床に座り込んだ。
「……どうした?」
由美も美咲も答えなかった。
健司は周りを見た。
母親が泣いている。
娘も泣いている。
自分の手には古い写真が握られている。
「何?」
健司が尋ねた。
「何があった?」
由美は夫の顔を見た。
目が戻っていた。
いつもの健司の目だった。
「覚えてないの?」
「何を?」
春江が椅子に座り、両手で顔を覆った。
長い沈黙の後、ぽつりと話し始めた。
正一が亡くなる少し前、家族の間で大きな争いがあった。
祖父が所有していた土地。
売却した金。
相続。
約束。
裏切り。
正一は、自分だけ家族から捨てられたと思っていた。
最後に春江と会った時、激しく言い争った。
その数か月後、正一は亡くなった。
春江はその話を家族にほとんどしてこなかった。
「私も忘れようとしてた。」
春江が言った。
健司は何も言えなかった。
あの夢。
祖母の家。
廊下の奥に立つ男。
毎晩、同じ場所からこちらを見ていた。
あれは誰だったのか。
頭痛はいつから始まったのか。
性格が変わったのはいつからか。
どうして娘の笑顔が憎く感じたのか。
なぜ、自分が知らないはずのことを知っていたのか。
全部が一本の線になり始めていた。
その夜、家へ帰った後、健司は美咲の部屋を訪ねた。
ドアをノックした。
「入っていい?」
少し間があった。
「うん。」
美咲はベッドに座っていた。
健司は椅子に座った。
何を言えばいいか分からなかった。
長い沈黙の後、頭を下げた。
「ごめん。」
美咲は黙っていた。
「怖かったよな。」
娘の目に涙が浮かんだ。
「すごく怖かった。」
「うん。」
「本当に、お父さんじゃないみたいだった。」
健司はゆっくり頷いた。
「俺も、自分じゃないみたいだった。」
美咲は父親を見た。
「お父さん。」
「ん?」
「今はいつもの目だよ。」
健司は少しだけ笑った。
それを聞いて、初めて胸の奥が軽くなった。
その夜、健司は久しぶりに夢を見なかった。
翌朝。
カーテンを開けると、日の光が部屋に入ってきた。
由美がコーヒーを淹れていた。
美咲が眠そうな顔で学校へ行く準備をしている。
何でもない朝だった。
それが、とてもありがたく感じた。
健司は二人を見ながら言った。
「ありがとう。」
由美が振り返った。
「何が?」
健司は少し考えた。
「分からないけど。」
そして笑った。
「今は、言いたくなっただけ。」
由美も笑った。
美咲も少し笑った。
健司は、自分の中に何が起きていたのかを完全には説明できなかった。
けれど一つだけ分かっていた。
人は、自分自身の変化に、自分では気づけないことがある。
その時、自分をよく知っている人の、
「あなた、いつもと違うよ」
という一言が、
自分を取り戻す最初のきっかけになることがある。
そして健司は、その日から時々、鏡の中の自分の目を見るようになった。
自分が、ちゃんと自分でいるかを確かめるために。
Story 2: 13番ホーム

美緒がその駅を使い始めたのは、会社の移転がきっかけだった。
二十六歳。
広告会社に勤めて四年目。
仕事は忙しかったが、体は丈夫だった。
多少寝不足でも、朝になれば普通に起きられる。
頭痛持ちでもない。
貧血もない。
満員電車にも慣れていた。
だから最初の日、美緒はその痛みを気にしなかった。
地下へ続く長いエスカレーターを降り、13番ホームへ出た瞬間だった。
ズキン。
右のこめかみに鋭い痛みが走った。
「痛っ。」
思わず手を当てた。
けれど、ほんの数分だった。
電車が来て乗り込み、駅を離れる頃には、何事もなかったように消えていた。
仕事が始まれば忘れてしまった。
その日は、ただそれだけだった。
二日目。
同じ時間。
同じホーム。
美緒はスマートフォンを見ながら電車を待っていた。
そして、また頭痛が始まった。
昨日より少し強い。
こめかみだけではない。
頭の奥全体が重い。
「寝不足かな。」
前の晩は一時まで動画を見ていた。
理由はそれだと思った。
ところが、その直後だった。
首の後ろに冷たいものを感じた。
エアコンの風ではない。
首筋の一点だけに、
ひやっ。
と何かが触れたような感覚。
美緒は肩をすくめた。
次の瞬間、その冷たさが背中をゆっくり下りていった。
ゾクゾク。
鳥肌が立った。
美緒は後ろを振り返った。
サラリーマン。
学生。
旅行者らしい外国人。
いつもの朝の駅だった。
変わったものは何もない。
「冷房強すぎ。」
小さく呟いた。
電車が来た。
乗った。
そして、また駅を離れると頭痛が消えた。
それから同じことが三日続いた。
13番ホームに立つ。
頭が痛くなる。
首が冷たくなる。
背中がゾクゾクする。
電車に乗る。
駅を離れる。
治る。
美緒は不思議に思いながらも、深く考えなかった。
地下鉄の空気。
照明。
湿度。
何か理由があるのだろう。
そう考えていた。
次の週、美緒は別の感覚を覚えるようになった。
誰かが後ろにいる。
最初は、それだけだった。
ホームで電車を待っている時、
すぐ後ろに誰かが立っている。
そう感じる。
振り返る。
誰もいない。
少し離れたところには人がいる。
けれど、自分のすぐ後ろには誰もいない。
前を向く。
数十秒すると、
また感じる。
背後から見られている。
美緒はもう一度振り返る。
誰もいない。
そんなことが何度も続いた。
ある朝、ホームの黒い柱に自分の姿がぼんやり反射しているのが見えた。
美緒は髪を直した。
その時だった。
自分の右肩の後ろに、誰かが立っているように見えた。
黒い影。
美緒は勢いよく振り返った。
誰もいない。
「……何?」
心臓が速くなった。
もう一度柱を見る。
自分しか映っていなかった。
美緒は苦笑した。
「疲れてるな、私。」
広告会社では新しいキャンペーンが始まったばかりだった。
毎日残業。
睡眠時間も短い。
それで説明できる。
そう思った。
異変は会社でも起きるようになった。
午後の会議。
上司が話している声が遠く聞こえる。
美緒は目の前の資料を見ていた。
文字は読める。
けれど頭に入ってこない。
自分がここにいるのかどうか分からない。
椅子に座っている体が、少し浮いているような感覚。
「美緒?」
同僚の沙織が小声で呼んだ。
美緒はハッとした。
「え?」
「大丈夫?」
「うん。」
「さっきからずっと同じページ見てるよ。」
美緒は笑った。
「ちょっと寝不足。」
けれど、その夜ベッドに入ってから考えた。
最近、
地面にちゃんと立っていない感じがする。
頭の中に薄い霧がかかっているような時間がある。
一番強くなるのは、
あの13番ホームだった。
その日は金曜日だった。
プレゼンが長引き、美緒が会社を出たのは午後十一時を過ぎていた。
いつもの駅へ向かう。
終電にはまだ間に合う。
地下へ降りる。
13番ホーム。
昼間とはまるで違っていた。
人がほとんどいない。
ホームの端に男性が一人。
遠くのベンチに女性が一人。
美緒は柱の近くに立った。
すぐに頭痛が始まった。
「またか。」
右のこめかみを押さえた。
次に首が冷たくなった。
背筋に寒気が走る。
そして、
誰かが後ろに立った。
今までで一番近い。
息が聞こえそうなほど近い。
美緒は振り返らなかった。
怖かった。
心の中で言った。
気のせい。
気のせい。
疲れているだけ。
スマートフォンを見る。
画面の文字がぼやけた。
午前十一時十八分。
あと四分で電車が来る。
美緒は深呼吸した。
その時、
左耳のすぐ後ろで、
誰かが何かを言ったような気がした。
聞き取れない。
声なのかどうかも分からない。
美緒は振り返った。
誰もいない。
その瞬間。
頭の中が、
ふっ。
と軽くなった。
痛みが消えたのではない。
考える力そのものが遠くなった。
ホームの音が小さくなる。
アナウンス。
電車の走る音。
誰かの咳。
全部が遠い。
美緒は前を向いた。
ホームの先。
線路。
暗いトンネル。
なぜかそこへ行かなければならない気がした。
理由は分からない。
一歩。
また一歩。
美緒はホームの端へ歩き始めた。
足が自分のものではないようだった。
止まろう。
そう思った。
けれど体が止まらない。
あと二歩。
その時だった。
「危ない!」
背後から腕を強く引かれた。
美緒の体が後ろへ倒れた。
駅員だった。
「大丈夫ですか!」
美緒は床に座り込んだ。
息が荒い。
「何……?」
自分がどこにいるのか、数秒分からなかった。
駅員が美緒の顔を覗き込む。
「気分悪いですか?」
「私……。」
美緒は線路を見た。
すぐ近くだった。
「私、何してました?」
駅員は少し黙った。
「ホームの端へ歩いていました。」
「覚えてないです。」
「誰かと一緒ですか?」
「え?」
駅員が美緒の後ろを見る。
「さっき、誰かと話してませんでした?」
美緒の背中が冷たくなった。
「一人です。」
「そうですか。」
「どうして?」
駅員は迷った。
「いや……。」
「何ですか?」
「誰かに返事してるように見えたので。」
美緒は何も言えなかった。
翌朝。
美緒は会社を休んだ。
ほとんど眠れなかった。
家にいても頭の中に昨夜の出来事が残っている。
なぜホームの端へ歩いたのか。
誰と話していたのか。
自分には記憶がない。
午後、駅から電話があった。
昨夜の件について簡単に確認したいという連絡だった。
美緒は駅へ向かった。
駅員室で、昨夜助けてくれた駅員と再会した。
四十代くらいの男性だった。
「体調は大丈夫ですか?」
「はい。」
美緒は答えた。
少し迷ってから尋ねた。
「あの……昨日、私、本当に誰かと話してました?」
駅員は困ったような顔をした。
「そう見えました。」
「防犯カメラってありますよね。」
駅員は黙った。
「見せてもらえませんか。」
「普通はお見せできないんです。」
「でも、自分が何をしてたのか知りたいんです。」
しばらく話した末、必要な範囲だけ確認することになった。
モニターに昨夜のホームが映った。
午後十一時十九分。
美緒が柱の横に立っている。
一人。
スマートフォンを見ている。
十一時二十一分。
美緒が突然、顔を上げる。
そして右側を見る。
誰もいない。
美緒は誰もいない空間に向かって、小さく頷いた。
一度。
二度。
三度。
口が動いている。
何か答えている。
美緒は画面を見つめた。
「私……何て言ってるんですか?」
音声はない。
次の瞬間。
画面の中の美緒が笑った。
その笑顔を見て、美緒自身が息を止めた。
自分の笑い方ではなかった。
そして美緒は歩き出した。
ホームの端へ。
誰かについていくように。
駅員が走ってきて腕をつかむ。
映像はそこで止まった。
美緒は長い間何も言えなかった。
やがて聞いた。
「この場所で……前に何かあったんですか?」
駅員は答えなかった。
けれど、顔が変わった。
美緒はすぐに気づいた。
「あるんですね。」
「ずいぶん昔のことです。」
「何があったんですか?」
駅員は少し迷ってから言った。
「事故です。」
「事故?」
「ホームから人が落ちました。」
美緒は線路の映像を見る。
「どこですか?」
駅員はモニターの一点を指した。
美緒が毎朝立っていた柱のすぐ前だった。
その日から、美緒は通勤経路を変えた。
十五分余計にかかる。
乗り換えも一回増えた。
けれど、あの駅を使うのをやめた。
不思議なことに、
頭痛はなくなった。
首の冷たさも。
背筋の寒気も。
誰かに見られている感覚も。
会社でぼんやりすることも減った。
沙織が昼休みに言った。
「最近、顔色いいね。」
美緒は笑った。
「そう?」
「先週すごかったよ。目もぼんやりしてたし。」
「そんなに?」
「うん。話しかけても聞こえてない時あった。」
美緒は少し黙った。
そして言った。
「たぶん、疲れてたんだと思う。」
それ以上は話さなかった。
自分でも何だったのか、完全には分からない。
ただ一つだけ分かっていた。
体は、
自分より先に何かを感じていた。
頭痛。
首の冷たさ。
背筋の寒気。
誰かがいるような感覚。
意識が遠くなる感じ。
全部、
「ここから離れたほうがいい」
という何かのサインだったのかもしれない。
それから三か月後。
美緒は友人との食事の帰り、偶然あの駅の近くを通った。
以前なら何も考えず地下へ入っていただろう。
けれど、その日は入口の前で足を止めた。
夕方の東京。
人々が次々と地下へ降りていく。
会社員。
学生。
買い物帰りの女性。
誰も異変を感じているようには見えない。
美緒はしばらく入口を見つめた。
そして歩き出した。
別の駅へ向かった。
その瞬間だった。
首の後ろが、
ほんの少しだけ冷たくなった。
美緒は立ち止まった。
振り返らなかった。
代わりに空を見た。
東京のビルの隙間に、夕方の光が残っていた。
美緒はゆっくり息を吐いた。
「私は、帰る。」
誰に言ったわけでもなかった。
けれど声に出して言った。
そして、そのまま人混みの中を歩いていった。
背中の冷たさは、いつの間にか消えていた。
Story 3: 声を失った歌手

彩は、自分の声だけは裏切らないと思っていた。
三十一歳。
大阪を中心に活動するウェディングシンガー。
結婚式場、ホテル、レストラン。
週末になれば、誰かの人生で一度しかない日に歌う。
新郎新婦が入場する時。
両親へ手紙を読む前。
披露宴の最後。
彩は何百組もの結婚式で歌ってきた。
風邪をひいても。
失恋しても。
眠れない夜が続いても。
ステージに立てば、声は出た。
だから、その日も心配していなかった。
大阪郊外にある古い洋館。
百年近く前に建てられた建物を改装した結婚式場だった。
天井が高い。
細長い窓。
古い木の床。
正面には小さなステージがある。
午後二時。
彩はマイクの前に立った。
ピアニストがイントロを弾く。
彩が息を吸った。
歌い始めようとした、その瞬間だった。
「ゴホッ。」
咳が出た。
彩は口元を押さえた。
「ごめんなさい。もう一回お願いします。」
ピアニストが笑った。
「乾燥してるからね。」
もう一度イントロ。
彩が歌う。
今度は声が出た。
けれど、一番高い音に入ったところで、
「ゴホッ、ゴホッ。」
また咳。
彩は喉を押さえた。
「何これ。」
痛くはない。
風邪の時の感じとも違う。
喉の奥に、小さな何かが引っかかっている。
そんな感覚だった。
その日は、それが最初の異変だった。
リハーサルが終わる頃には、さらに妙なことが始まった。
彩は控室で水を飲んでいた。
突然、
「げふっ。」
大きなげっぷが出た。
彩は自分で驚いた。
昼食を食べ過ぎたわけではない。
炭酸飲料も飲んでいない。
しばらくすると、また出た。
「げふっ。」
そしてもう一度。
「げふっ。」
同じ楽屋にいたピアニストが笑った。
「どうしたの今日。」
「分かんない。」
彩も笑った。
「胃がおかしいのかな。」
ところが、それから十数分。
げっぷが止まらなかった。
同時に目まで変になった。
乾いている。
しょぼしょぼする。
何度も瞬きをしたくなる。
彩は鏡を見た。
充血しているわけではない。
けれど目を開け続けているのがつらい。
パチパチ。
パチパチ。
何度も瞬きをする。
「コンタクトかな。」
彩はレンズを外した。
変わらない。
その時、また咳が出た。
今度は少し激しかった。
ゴホッ。
ゴホッ。
ゴホッ。
喉の奥から何かを外へ出そうとしているような咳だった。
彩は洗面台につかまった。
そして鏡の中の自分に言った。
「今日、おかしい。」
本番は何とか終えた。
けれど、最後の曲で彩自身がはっきり気づいた。
声が違う。
低い。
少しかすれている。
自分の声なのに、いつもの響きではない。
披露宴が終わり、マネージャーの奈緒が言った。
「今日、喉大丈夫?」
「やっぱり分かった?」
「後半、声かなり低かったよ。」
「風邪かな。」
「熱ある?」
「ない。」
「明日休みでしょ。寝なよ。」
彩もそのつもりだった。
翌日は一日中家にいた。
温かい飲み物。
加湿器。
のど飴。
早めに寝る。
普通なら、それで少しは良くなる。
けれど月曜日。
まだ咳が出る。
目もしょぼしょぼする。
何より声が戻らない。
彩は病院へ行った。
喉を診てもらった。
大きな異常は見つからなかった。
医師からは、できるだけ声を休ませるよう言われた。
彩は安心した。
「使いすぎだったんだ。」
そう思った。
ところが、その夜から別のことが始まった。
午前二時三十七分。
彩の恋人、直人は歌声で目を覚ました。
最初はテレビがついているのかと思った。
けれど違った。
隣で寝ている彩が歌っていた。
目は閉じたまま。
とても小さな声。
鼻歌に近い。
直人は彩を見た。
「彩?」
返事はない。
歌い続けている。
直人は体を起こした。
知らない曲だった。
ゆっくりした旋律。
古い歌のようにも聞こえる。
直人はスマートフォンを手に取り、録音ボタンを押した。
一分ほどして、彩は歌うのをやめた。
そして何事もなかったように眠り続けた。
翌朝。
「昨日、夜中に歌ってたよ。」
彩は笑った。
「私が?」
「うん。」
「何歌ってた?」
「知らない曲。」
直人が録音を再生した。
彩の表情が変わった。
「これ……私?」
「そう。」
彩は何度も聞いた。
「知らない。」
「寝ぼけてたんじゃない?」
「でも私、この歌知らないよ。」
直人は深く考えなかった。
夢の中で聞いたメロディーかもしれない。
どこかの店。
テレビ。
動画。
本人が覚えていないだけ。
彩もそう考えようとした。
けれど、それから三晩。
同じことが起きた。
毎回、同じ曲だった。
一週間後。
彩は再び、あの洋館へ行くことになった。
次の結婚式の打ち合わせがあった。
建物に入った瞬間。
目がしょぼしょぼし始めた。
パチパチ。
パチパチ。
次に、
「ゴホッ。」
咳。
その後、
「げふっ。」
げっぷ。
彩は玄関で立ち止まった。
一週間、自宅ではかなり良くなっていた。
なのに、この建物に入った途端だった。
「どうしたの?」
奈緒が振り返る。
「ここ入った瞬間、また始まった。」
「何が?」
「全部。」
彩は喉を触った。
「咳も、目も。」
奈緒は心配そうに顔を覗き込んだ。
「この建物、ホコリすごいんじゃない?」
彩は頷いた。
それなら説明できる。
古い洋館。
古いカーテン。
古い木材。
アレルギー。
その方が自然だった。
打ち合わせが終わった後、二人はステージ脇を通った。
そこに一人の老人がいた。
七十代くらい。
小さな脚立に乗り、照明器具を直していた。
式場の古参スタッフ、森田だった。
彩とは以前にも何度か会っていた。
「喉どうした?」
森田が聞いた。
「ちょっと調子悪くて。」
「歌う人は大変だな。」
彩は笑った。
その時、奈緒が言った。
「この人、最近変な歌まで歌うんですよ。」
「変な歌?」
「寝ながら。」
「やめてよ。」
彩が笑った。
奈緒はスマートフォンを出した。
「これ。」
直人から送ってもらった録音だった。
奈緒は再生した。
静かな歌声が流れる。
森田の手が止まった。
脚立の上で、動かなくなった。
十秒。
二十秒。
老人の顔から表情が消えた。
「もう一回。」
奈緒が見上げる。
「え?」
「もう一回聞かせて。」
録音を最初から流した。
森田はゆっくり脚立から降りた。
彩を見た。
「どこで覚えた?」
「覚えてません。」
「この歌。」
「知らないです。」
森田の顔が青ざめていた。
「知らないわけない。」
彩は笑えなかった。
「本当に知らないんです。」
森田はステージの方を見た。
「昔、ここでよく歌ってた人がいた。」
「歌手ですか?」
「ああ。」
まだここが結婚式場になる前。
この建物では小さなパーティーや音楽会が開かれていた。
そこで歌っていた女性がいた。
名前は玲子。
二十代後半。
澄んだ声で、地元では少し知られていたという。
「その人が、よく歌ってた。」
森田が言った。
彩はスマートフォンを見た。
「この曲を?」
森田は頷いた。
「でも有名な曲じゃない。」
「じゃあ何ですか。」
「本人が作った曲だ。」
彩は何も言えなかった。
「その人、今は?」
彩が尋ねた。
森田はしばらく黙っていた。
「亡くなった。」
二十八歳だった。
突然だった。
病気だったという。
亡くなる少し前、玲子はこの建物で最後のステージを予定していた。
けれど、その日は来なかった。
そのまま、二度とここで歌うことはなかった。
彩は胸のあたりが重くなった。
「録音、残ってますか?」
「分からない。」
森田は考えた。
「昔の写真ならある。」
倉庫から古いアルバムが出てきた。
白黒写真。
色褪せたカラーフィルム。
ステージ。
客席。
演奏者たち。
そして一枚の写真。
マイクの前に立つ若い女性。
森田が指を置いた。
「玲子さん。」
彩は写真を見た。
知らない女性。
見たこともない。
「本当に、この人の歌なんですか。」
「ああ。」
「私、どうやって……。」
言葉が続かなかった。
その時、
喉の奥が急に苦しくなった。
「ゴホッ。」
咳。
「ゴホッ、ゴホッ。」
彩は口を押さえた。
目がしょぼしょぼする。
涙が出てくる。
次に、げっぷ。
そして喉の奥から、低い声が漏れた。
「あ……。」
彩自身が驚いた。
自分が出した音なのに、
自分の声に聞こえなかった。
森田もそれを聞いた。
彼の表情が固まった。
数日後。
彩は次の結婚式のリハーサルで再び洋館へ入った。
本当は断りたかった。
けれど仕事だった。
今回は奈緒も、直人も一緒に来ていた。
直人は客席の後ろに座っていた。
彩がステージに立つ。
ピアニストが尋ねる。
「最初からいきます?」
彩が頷く。
鍵盤に手が置かれた。
その時。
彩の目が激しく瞬き始めた。
パチパチ。
パチパチ。
奈緒が気づいた。
「彩?」
返事がない。
彩はステージの一点を見ている。
誰もいない左側。
「彩。」
直人も立ち上がった。
彩の口が開いた。
歌い始めた。
予定していた曲ではなかった。
直人はすぐに分かった。
あの夜の歌だった。
眠りながら歌っていた歌。
彩は一度も習ったことがない。
譜面もない。
なのに止まらない。
一番。
二番。
さらに続く。
録音には入っていなかった部分まで歌っている。
森田が音を聞きつけ、ステージ裏から出てきた。
そしてその場で立ち尽くした。
彩の声が変わっていた。
低くなったのではない。
歌い方そのものが違う。
息の入れ方。
語尾の震わせ方。
音を伸ばす癖。
森田の目に涙が浮かんだ。
「玲子さん。」
直人が振り返る。
「え?」
森田は彩から目を離さなかった。
「声まで同じだ。」
歌が終わった。
彩はしばらく動かなかった。
やがて膝から力が抜けた。
直人が走った。
「彩!」
彩は直人の腕に支えられた。
「私……。」
「大丈夫?」
「何でみんな見てるの?」
奈緒が言った。
「覚えてないの?」
「何を?」
「今、歌ってた。」
彩は困った顔をした。
「何を?」
誰もすぐには答えられなかった。
その日の仕事は中止になった。
彩はしばらく歌う仕事を休んだ。
不思議なことに、あの洋館へ行かなくなると、
咳は減った。
げっぷも止まった。
目のしょぼつきも消えた。
そして少しずつ、元の声が戻った。
数週間後。
彩は自宅で久しぶりに歌った。
短い曲だった。
直人が隣の部屋から聞いていた。
歌い終わる。
直人が顔を出した。
「戻ったね。」
「何が?」
「彩の声。」
彩は笑った。
けれど、あの洋館で歌った曲だけは、今でも覚えていなかった。
録音を聞けば、自分の声なのは分かる。
自分の口から出た。
自分の体が歌った。
けれど、
自分は知らない。
数か月後。
彩は別のホテルの結婚式で歌っていた。
明るい会場。
大きな窓。
新郎新婦が笑っている。
最後の曲を歌い終えると、大きな拍手が起きた。
彩は頭を下げた。
自分の声だった。
楽屋へ戻り、鏡の前に座る。
目を見る。
喉を触る。
何もおかしくない。
彩は小さく息を吐いた。
以前なら、
咳が出れば風邪。
目がしょぼしょぼすれば乾燥。
げっぷが出れば胃。
声が変われば喉。
一つずつ別の理由を考えていた。
今は少し違う。
体の小さな変化が重なる時、
何かを知らせていることもある。
彩はそう考えるようになった。
控室を出る直前、
鏡の中の自分に向かって言った。
「今日は、私の声。」
そして微笑んだ。
廊下の向こうから次の披露宴の音楽が聞こえてきた。
彩はゆっくり立ち上がり、
自分の足で、
次のステージへ歩いていった。
Story 4: 408号室

隆が京都へ一人で来たのは、休みたかったからだった。
四十五歳。
東京の不動産会社で働いている。
半年前に離婚した。
娘は元妻と暮らしている。
仕事に行けば普通に働ける。
同僚とも話せる。
食事もする。
眠る。
外から見れば、何も問題はなかった。
けれど一人になると、何とも言えない疲れが体の中に残っていた。
誰かと話したくない。
テレビも見たくない。
スマートフォンさえ触りたくない。
そんな日が増えていた。
金曜日の夜。
隆は思い立って京都行きの新幹線を予約した。
寺でも見よう。
うまいものでも食べよう。
何もしない二日間でもいい。
泊まる場所は、中心部から少し離れた小さな旅館だった。
派手ではない。
築年数も古い。
口コミには、
「静か」
「落ち着く」
「昔ながらの雰囲気」
と書かれていた。
隆には、それがちょうどよかった。
受付を済ませると、仲居が四階まで案内した。
「こちら、408号室になります。」
襖を開ける。
八畳ほどの和室。
低いテーブル。
座椅子。
窓の外には古い町家の屋根が並んでいる。
部屋の隅には、小さな木製の整理箪笥が置かれていた。
黒っぽい木。
ところどころ傷がある。
旅館の家具の中では、その箪笥だけが少し古く見えた。
隆は気にしなかった。
荷物を置き、畳の上に大の字になった。
「静かだな。」
久しぶりに、何も考えなくていい夜になるはずだった。
最初の夢を見たのは、その夜だった。
隆は長い廊下に立っていた。
見覚えのない家。
壁は薄暗い。
廊下の奥に、一人の女が立っている。
白い服。
顔は見えない。
女は動かない。
隆も動けない。
ただ、見ている。
しばらくすると女が右手を上げた。
隆の後ろを指さした。
振り返ろうとした瞬間、
目が覚めた。
午前三時十八分。
部屋は真っ暗だった。
隆は天井を見た。
心臓が少し速い。
「夢か。」
体を起こそうとした時、
肩が重いことに気づいた。
両肩に何かを乗せられているようだった。
首も痛い。
「枕が合わないな。」
隆は首を回した。
ゴキッと音がした。
旅館の枕は少し硬かった。
畳に敷かれた布団も、自宅のベッドとは違う。
それなら説明はつく。
水を飲み、もう一度横になった。
その時。
部屋のどこかで、
コトッ。
小さな音がした。
隆は目を開けた。
静かだった。
古い建物だ。
木が鳴ることくらいある。
そう思って目を閉じた。
翌朝。
肩の重さは残っていた。
腰も少し痛い。
隆は笑った。
「四十五で旅館に負けるか。」
朝食を食べ、清水寺の方へ歩いた。
外に出ると、不思議なほど体が軽くなった。
肩も気にならない。
腰の痛みもほとんど消えた。
昼にはすっかり忘れていた。
夕方、旅館へ戻る。
408号室の襖を開けた。
その瞬間だった。
首の後ろが、
ゾクッ。
とした。
隆は立ち止まった。
部屋が寒いわけではない。
空調もついていない。
それでも首筋から背中へ、冷たい感覚がゆっくり下りた。
「何だよ。」
隆は荷物を置いた。
その夜。
また同じ夢を見た。
同じ廊下。
同じ女。
今度は少し近い。
昨日より二、三歩こちらに近づいている。
女はまた、隆の後ろを指さした。
夢の中で隆は言った。
「何があるんだよ。」
女は答えない。
隆が振り返ろうとすると、
目が覚めた。
午前三時十七分。
ほぼ同じ時間だった。
体を起こす。
肩が重い。
腰が痛い。
今度は膝や肘まで妙にだるい。
風邪をひいた時のような、体の節々の痛み。
隆は額に手を当てた。
熱はなさそうだった。
「旅行疲れだな。」
翌朝、そう自分に言い聞かせた。
二日目の朝。
食堂へ向かう途中で、不思議なことが起きた。
隆が廊下を歩いていると、向こうから六十代くらいの女性客が来た。
すれ違う直前。
女性が急に立ち止まった。
隆を見る。
そして、その後ろを見る。
顔がこわばった。
隆も足を止めた。
「何か?」
女性は我に返ったように首を振った。
「いえ。すみません。」
そのまますれ違った。
朝食を終え、隆が部屋へ戻ろうとすると、さっきの女性が追いかけてきた。
「あの。」
隆が振り返る。
女性は申し訳なさそうに言った。
「変なことを言ってもいいですか。」
「何でしょう。」
「さっき廊下でお会いした時。」
女性は言葉を選んだ。
「あなたのすぐ後ろに、女の人がいるように見えたんです。」
隆は黙った。
女性は慌てて続けた。
「一瞬だけです。見間違いだと思います。本当にすみません。」
「どんな人でした?」
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。
女性は少し考えた。
「白っぽい服で。」
隆の胸が冷たくなった。
「顔は?」
「見えませんでした。」
夢と同じだった。
「髪は?」
「長かったと思います。」
隆はもう何も聞かなかった。
「ありがとうございます。」
女性は何度も頭を下げて去った。
隆は廊下に一人残った。
夢。
首の寒気。
肩。
腰。
そして今の話。
偶然。
そう思いたかった。
その日の午後。
隆は受付へ行った。
旅館の主人らしい六十代の男性が座っていた。
「すみません。」
「はい。」
「408号室って、昔何かありました?」
主人は目を上げた。
「何か、とは?」
「いや……変な質問なんですけど。」
隆は笑ってごまかした。
「事故とか。」
主人も少し笑った。
「ないですよ。」
「本当に?」
「ええ。うちは長いですけど、408で何かあったという話は聞いたことありません。」
「そうですか。」
隆は少し安心した。
やはり自分が疲れているだけなのだ。
離婚。
仕事。
睡眠不足。
旅行。
それらが重なって変な夢を見ている。
女性客の話だって偶然だ。
その夜は早めに寝ようと思った。
三日目。
チェックアウトの朝だった。
隆は荷物をまとめていた。
肩と腰の痛みは、部屋にいる間だけ強くなっていた。
もうすぐ帰れる。
そう思うと少し安心した。
スマートフォンの充電器を探している時、
ベッド脇の小さな整理箪笥を動かした。
充電器のコードが後ろに落ちていた。
箪笥を少し手前へ引く。
その時、
引き出しの一つが自然に開いた。
古い木の匂いがした。
中は空だった。
隆は閉めようとした。
けれど、引き出しの底に何か傷のようなものが見えた。
よく見る。
文字だった。
爪か刃物のようなもので刻まれている。
「静江」
その下に数字。
昭和四十六年十一月十七日。
隆はしばらく見ていた。
旅館の備品にしては妙だった。
写真を撮った。
チェックアウトの時、主人にスマートフォンを見せた。
「これ、何ですか?」
主人が画面を見る。
「ああ。」
「知ってるんですか?」
主人は少し考えた。
「その箪笥ですか。」
「はい。」
「旅館のものじゃないんですよ。」
隆は眉を寄せた。
「じゃあ、どこから?」
主人は帳簿を閉じた。
「何年か前に、この近くの古い家が取り壊しになりましてね。」
「はい。」
「そこの家具をいくつか譲ってもらったんです。」
隆は黙った。
「あの箪笥も?」
「たぶんそうです。」
「その家の人は?」
主人は少し考えた。
「一人暮らしのおばあさんだったかな。」
「名前は?」
「そこまでは……。」
隆はスマートフォンの写真を見た。
静江。
「亡くなったんですか?」
「確か、そうだったと思います。」
隆は何も言わなかった。
主人は心配そうに尋ねた。
「何かありました?」
隆は迷った。
「悪い夢を見たくらいです。」
それだけ答えた。
東京に戻った日の夜。
隆は自宅のベッドに横になった。
肩は痛くない。
腰も痛くない。
首も軽い。
体の節々のだるさも消えていた。
午前三時を過ぎても目は覚めなかった。
そして、夢も見なかった。
翌日。
仕事へ行く。
普通の一日だった。
昼休みに隆は、旅館で撮った箪笥の写真を見返した。
なぜか気になって仕方がない。
静江。
昭和四十六年十一月十七日。
隆は旅館の主人に一度だけ電話した。
「すみません。昨日の家具のことなんですけど。」
主人は覚えていた。
「調べてくれたんですか?」
「少しだけ。」
古い家の持ち主について、近所の人に聞いてくれたらしい。
家に住んでいた女性の名前は、
静江。
隆は電話を握ったまま黙った。
「亡くなった日は分かります?」
主人も黙った。
そして言った。
「十一月十七日だったそうです。」
隆は背中に寒気を感じた。
「昭和四十六年?」
「そう聞きました。」
電話を切った。
隆はしばらく机の前から動けなかった。
夢に出てきた女。
旅館の廊下。
白い服。
顔は見えない。
毎晩、隆の後ろを指さしていた。
隆は突然、気づいた。
あの夢の中で、
自分の後ろにはいつも何があったのか。
隆は目を閉じた。
408号室で自分が眠っていた位置。
布団。
壁。
枕。
そして、
枕元のすぐ後ろに置かれていたもの。
あの整理箪笥だった。
数週間後。
旅館から一本の電話が来た。
主人だった。
「先日はどうも。」
「こちらこそ。」
少し世間話をした後、主人が言った。
「あの箪笥なんですが。」
隆は黙った。
「408号室から出しました。」
「そうですか。」
「倉庫へ移したんです。」
主人はそこで少し笑った。
「変な話なんですけどね。」
「何ですか?」
「この前、別のお客さんに言われたんですよ。」
隆の手が止まった。
「何て?」
「408号室、よく眠れましたって。」
隆は何も言わなかった。
それから主人は小さな声で言った。
「前は、悪い夢を見るって言う人が時々いたんです。」
隆は窓の外を見た。
東京の昼。
車が走っている。
人が歩いている。
いつもの景色。
「どうして最初に言わなかったんですか。」
隆は聞いた。
主人は苦笑した。
「部屋のせいだと思ってなかったんですよ。」
その言葉が、隆の中に残った。
隆は、それ以来すぐに「幽霊」という言葉を使うようになったわけではない。
今でも、あれが何だったのか自分では説明できない。
疲れていたのかもしれない。
夢と現実を結びつけすぎたのかもしれない。
けれど一つだけ、不思議だった。
408号室を離れた瞬間から、
肩も、
首も、
腰も、
体の痛みも、
きれいに消えた。
そしてあの女は、
夢の中で一度も隆自身を指さしていなかった。
いつも、
隆の後ろを指していた。
隆は時々、そのことを思い出す。
人は何か異変を感じた時、
すぐに自分自身の問題だと思う。
疲れている。
年齢のせい。
体調が悪い。
心が弱っている。
けれど時には、
自分ではなく、
自分のそばにある何かに理由があるのかもしれない。
隆はそれから、古い旅館や古道具屋に入る時、
ほんの少しだけ自分の体の感覚を意識するようになった。
頭。
首。
肩。
背中。
腰。
そして、
理由もないのに急に体が重くなった時には、
無理に我慢しなくなった。
その場から少し離れてみる。
それだけでもいい。
ある夜。
自宅で眠る前に、隆は京都で撮った写真を整理していた。
寺。
庭。
料理。
夕暮れ。
最後に、あの箪笥の写真が出てきた。
隆はしばらく見た。
そして削除した。
スマートフォンを伏せる。
電気を消す。
布団に入る。
その夜も、
夢には誰も出てこなかった。
Story 5: 7時14分の写真

幸子の笑い声が消えたことに、最初に気づいたのは孫の結衣だった。
幸子は六十七歳。
横浜で、娘の真由美夫婦と高校生の結衣と暮らしている。
家の中で一番よく喋るのも、一番よく笑うのも幸子だった。
朝は誰より早く起きる。
庭の鉢植えに水をやり、味噌汁を作り、家族が出かける時には玄関まで見送る。
結衣が学校から帰れば、
「今日はどうだった?」
と必ず聞く。
結衣が答えなくても、
「まあ、話したくなったら聞くから。」
と笑う。
そんな人だった。
だから、親しい友人の恵美子が亡くなった時、家族は心配した。
二人は三十年以上の付き合いだった。
子育ての時期も一緒。
夫婦喧嘩をした夜も。
親の介護も。
子どもの受験も。
何かあるたびに電話をしていた。
恵美子が亡くなったのは、春の終わりだった。
幸子は葬儀で泣いた。
家へ戻ってからもしばらく元気がなかった。
家族は当然だと思った。
大切な友人を亡くした。
悲しくて当然だった。
誰も、その後の変化を不思議には思わなかった。
最初のうちは。
「最近、頭が痛いのよ。」
幸子がそう言い始めたのは、葬儀から三週間ほど後だった。
「病院行った?」
真由美が聞いた。
「そこまでじゃない。」
幸子は笑った。
「年よ、年。」
けれど頭痛は何度も起きた。
特に夕方。
幸子はこめかみを押さえながら、ぼんやり窓の外を見ることが増えた。
ある日、結衣が学校から帰ると、幸子がリビングの椅子に座っていた。
テレビはついていない。
本も読んでいない。
スマートフォンも持っていない。
ただ壁を見ている。
「おばあちゃん。」
返事がない。
「おばあちゃん?」
もう一度呼ぶ。
幸子がゆっくり結衣を見た。
その目を見て、結衣は一瞬言葉を失った。
目に力がない。
眠そうという感じとも違う。
どこか遠くを見ているようだった。
「何?」
幸子が言った。
「いや。」
結衣は首を振った。
「何でもない。」
数秒後には、いつもの幸子の顔に戻っていた。
結衣は気のせいだと思った。
次に変わったのは言葉だった。
幸子はもともと、人の悪口をほとんど言わない。
困ったことがあっても、
「まあ、仕方ないわね。」
で終わる人だった。
ところが最近は違った。
ニュースを見れば、
「こんな世の中、良くなるわけない。」
近所の子どもが外で笑っていれば、
「うるさいわね。」
真由美が週末に出かけると言えば、
「あなたはいつも自分のことばっかり。」
真由美は驚いた。
「お母さん、どうしたの?」
「何が?」
「そんなこと、前は言わなかったじゃない。」
幸子の目が鋭くなった。
「前の私の何を知ってるの。」
その言い方に、真由美は黙った。
数秒後。
幸子自身も少し戸惑った顔をした。
「ごめん。」
「大丈夫?」
「最近、眠れてないから。」
家族は恵美子を亡くした悲しみだと思った。
人は悲しい時、普段とは違う言葉を口にすることもある。
そう考えていた。
結衣だけは、少し違うことを気にしていた。
幸子の目だった。
いつもではない。
時々だけ。
話している途中。
怒った時。
あるいは急に黙った時。
幸子の目が変わる。
その瞬間だけ、
「おばあちゃんじゃない人」
を見ている気持ちになる。
ある夜、結衣は母親に言った。
「最近のおばあちゃん、ちょっと怖い。」
真由美は洗濯物を畳みながら答えた。
「恵美子さんのことで疲れてるんでしょう。」
「違うの。」
「何が?」
「目。」
真由美が手を止めた。
「目?」
「時々、全然違う顔になる。」
「考えすぎよ。」
「でも。」
真由美は結衣の肩を軽く叩いた。
「おばあちゃんも悲しいんだから、しばらく優しくしてあげよう。」
結衣はそれ以上言わなかった。
自分でも説明できなかったからだ。
家族の誕生日会が開かれたのは、その二週間後だった。
真由美の夫、隆史の五十歳の誕生日。
親戚も数人集まった。
食卓には寿司。
唐揚げ。
サラダ。
大きなケーキ。
幸子も朝から料理を手伝った。
その日は久しぶりに元気そうだった。
よく笑った。
「五十なんてまだ若いわよ。」
幸子が隆史に言う。
「お義母さんに言われると安心します。」
みんなが笑った。
結衣も少し安心した。
やっぱり最近疲れていただけなのかもしれない。
結衣はスマートフォンで何枚も写真を撮った。
ケーキ。
料理。
父親。
母親。
幸子。
午後七時。
家族写真。
幸子は真ん中で笑っていた。
いつものおばあちゃんだった。
それから少しして、幸子が席を立った。
「ちょっと外の空気吸ってくる。」
誰も気にしなかった。
数分後に戻ってきた。
結衣はその後も写真を撮り続けた。
七時半。
八時。
誕生日会は普通に終わった。
少なくとも、その夜は。
翌朝。
結衣はベッドの中で、前日の写真を見ていた。
何十枚もある。
友達に送ろうと思って、良い写真を選んでいた。
一枚。
二枚。
三枚。
指を動かしていた結衣の手が止まった。
幸子の写真。
何か変だった。
午後7時10分。
笑顔。
7時12分。
笑顔。
7時13分。
いつもの顔。
次の写真。
7時17分。
結衣は画面を大きくした。
幸子は笑っている。
口は笑っている。
けれど、
目が笑っていない。
結衣は次の写真を見る。
7時22分。
また同じ目。
7時31分。
同じ。
8時03分。
同じ。
まるで、ある時間を境に違う人になっている。
結衣は急いで写真を戻した。
何度確認しても、
境目は同じだった。
7時14分より前。
いつもの幸子。
7時14分より後。
違う幸子。
結衣はベッドから起きた。
「お母さん!」
真由美も最初は笑った。
「写真写りでしょ。」
「違うから見て。」
結衣はスマートフォンを渡した。
真由美が写真を順番に見る。
その顔から笑みが消えた。
「……確かに。」
「でしょ。」
「でも、何なのこれ。」
結衣が聞いた。
「7時14分、おばあちゃん何してた?」
真由美は思い出した。
「外に出たの、そのくらいじゃない?」
二人で幸子に聞いた。
「昨日、七時すぎに外出たよね。」
幸子は首を傾げた。
「私が?」
「うん。」
「出てないわよ。」
結衣と真由美が顔を見合わせた。
「出たよ。」
「覚えてない。」
幸子は本当に不思議そうな顔をしていた。
「庭じゃない?」
「知らない。」
「何しに?」
「知らないって。」
幸子は少し苛立った。
その瞬間。
また目が変わった。
結衣は一歩下がった。
真由美も気づいた。
今度は、はっきりと。
その日の午後。
結衣は幸子のスマートフォンを一緒に確認した。
7時14分。
何か記録が残っていないか。
電話。
なし。
メッセージ。
なし。
写真。
なし。
けれど音声アプリを開いた時、一つの履歴があった。
7時14分。
古い音声メッセージが再生されている。
送り主。
恵美子。
「これ……。」
真由美の声が小さくなった。
幸子は画面を見つめた。
「そんなの残ってた?」
数年前に使っていたスマートフォンから、自動的に復元されたデータだった。
恵美子が元気だった頃に送った音声。
再生時間、一分二十八秒。
幸子は首を振った。
「聞いた覚えない。」
結衣が言った。
「昨日、7時14分に再生してる。」
幸子の顔から表情が消えた。
「聞いてみる?」
真由美が聞いた。
幸子はしばらく黙っていた。
そして頷いた。
結衣が再生ボタンを押した。
恵美子の声が流れた。
明るい声。
「幸ちゃん、昨日電話できなくてごめんね。」
三人とも黙って聞いた。
昔の、何でもないメッセージだった。
買い物。
天気。
真由美のこと。
結衣がまだ小さかった頃の話。
音声の途中で、
幸子の呼吸が変わった。
ゆっくり。
深く。
目を閉じた。
「お母さん?」
真由美が呼ぶ。
幸子は目を開けた。
その目を見た瞬間、
結衣は凍りついた。
また違う目だった。
幸子は真由美をじっと見た。
そして言った。
「まーちゃん。」
真由美が動かなくなった。
「……何?」
幸子が少し笑った。
「まだ泣き虫なのね。」
真由美の顔色が変わった。
結衣は母を見る。
「お母さん?」
真由美は幸子から目を離さなかった。
「その呼び方……。」
真由美の声が震えていた。
「お母さん、私のこと、まーちゃんなんて呼んだことない。」
幸子は黙っている。
真由美は続けた。
「恵美子さんだけだった。」
結衣の背中が冷たくなった。
真由美が子どもの頃。
幸子と恵美子が親しくなったばかりの時。
恵美子だけが、真由美を
「まーちゃん」
と呼んでいた。
大人になってからは、ほとんど使われなくなった。
結衣も知らなかった。
幸子自身も使わない。
それなのに、
今、幸子の口から出た。
「お母さん。」
真由美がもう一度呼んだ。
幸子は返事をしない。
しばらくして、
大きく息を吐いた。
目を何度か瞬いた。
そして周囲を見た。
「どうしたの?」
真由美は答えられなかった。
幸子が尋ねる。
「何でそんな顔してるの?」
結衣が言った。
「今の覚えてる?」
「何が?」
真由美は椅子に座った。
目に涙が浮かんでいる。
幸子は困惑した。
「私、何か言った?」
真由美は頷いた。
「恵美子さんが私を呼んでた名前。」
幸子は固まった。
「何て?」
「まーちゃん。」
幸子の目から涙が落ちた。
「私が?」
「うん。」
幸子は両手で顔を覆った。
長い間、誰も喋らなかった。
やがて幸子が小さな声で言った。
「寂しかったの。」
結衣が顔を上げる。
「恵美ちゃんがいなくなってから。」
幸子は泣いていた。
「寂しいって言ったら、みんな心配すると思って。」
真由美が母の手を握った。
「言えばよかったのに。」
「あなたたちにはあなたたちの生活があるから。」
「家族でしょ。」
幸子はさらに泣いた。
真由美も泣いた。
結衣も黙って祖母のそばに座った。
それから家族は、幸子を一人にしすぎないようになった。
何か特別なことをしたわけではない。
一緒に食事をする。
散歩に行く。
恵美子の思い出を話す。
幸子が悲しいと言えば、
「悲しまないで」
とは言わず、
そのまま話を聞いた。
不思議なことに、
頭痛は少しずつ減った。
ぼんやりする時間も減った。
幸子が突然ネガティブなことを言うことも少なくなった。
結衣は時々、祖母の目を見る。
いつもの目だった。
数週間後。
三人で昔の写真を整理した。
幸子と恵美子が若い頃の写真が何枚も出てきた。
海。
旅行。
子どもたち。
運動会。
花見。
幸子は一枚の写真を持ち上げて笑った。
「恵美ちゃん、本当に写真写り悪かったのよ。」
真由美も笑った。
「お母さんも大して変わらないよ。」
「失礼ね。」
結衣は二人をスマートフォンで撮った。
カシャ。
幸子が笑っている。
後で写真を確認した。
口も。
頬も。
目も。
全部、いつもの幸子だった。
それでも結衣は、あの7時14分の写真を消さなかった。
時々見る。
7時13分。
優しく笑う祖母。
7時17分。
同じ顔なのに、
まるで別人に見える祖母。
わずか四分。
何が起きたのか、
結衣には説明できない。
幸子にも分からない。
真由美にも分からない。
ただ、家族には一つだけ分かったことがあった。
異変というものは、
本人が最初に気づくとは限らない。
毎日一緒にいる人。
いつもの笑い方を知っている人。
いつもの声を知っている人。
いつもの目を知っている人。
そんな人だからこそ、
「何か違う」
と気づける瞬間がある。
ある日、結衣は幸子に言った。
「おばあちゃん。」
「何?」
「最近、目が戻ったね。」
幸子は笑った。
「何よ、それ。」
「前、ちょっと怖かったから。」
幸子は少し黙った。
そして結衣の頭を撫でた。
「気づいてくれてありがとう。」
その夜。
幸子は久しぶりに恵美子の夢を見た。
二人は若かった。
二十代の頃の姿。
恵美子は少し離れた場所に立っていた。
幸子が呼ぶ。
「恵美ちゃん。」
恵美子は笑った。
何も言わない。
ただ手を振った。
そしてゆっくり遠ざかっていった。
幸子は追いかけなかった。
目が覚める。
朝だった。
カーテンの向こうから光が入っている。
幸子はベッドの上でしばらく目を閉じていた。
そして小さく言った。
「ありがとう。」
キッチンへ行く。
味噌汁を作る。
結衣が眠そうな顔で降りてくる。
「おはよう。」
幸子が言う。
「おはよう。」
「今日遅刻しない?」
「大丈夫。」
「本当?」
「大丈夫だって。」
いつもの朝。
いつもの会話。
幸子が笑う。
結衣も笑う。
そしてその日、
家族の誰も、
幸子の目に違和感を感じなかった。
最後に

5つの物語には、幽霊そのものがはっきり姿を現れる場面がほとんどありません。
むしろ中心にあるのは、
人間の変化です。
いつも優しかった人が怒る。
楽しかったことが楽しくなくなる。
理由もなく頭が痛くなる。
ある場所だけ体が重くなる。
悪夢が続く。
目が変わる。
声が変わる。
自分の知らないことを、自分の口が語る。
そして興味深いのは、多くの場合、
本人が最後まで「自分は普通だ」と思っていることです。
健司の変化に最初に気づいたのは娘でした。
美緒の異常な行動を客観的に見せたのは防犯カメラでした。
彩が知らない歌を歌っていることを知ったのは恋人でした。
隆の後ろに女性を見たのは旅館の別の宿泊客でした。
幸子の目の変化に最初に気づいたのは孫娘でした。
ここには、一つの共通した問いがあります。
自分自身について、自分だけが一番よく知っていると言い切れるでしょうか。
人間には、自分では気づけない変化があります。
だからこそ、自分を長く知っている家族や友人から、
「最近、少し違うよ」
と言われた時、その言葉を完全に無視しないことも一つの大切な姿勢なのかもしれません。
元の話は、こうした特徴を紹介した後、視聴者を恐怖の中に置いたまま終わりません。
波動が下がると霊的な影響を受けやすいという考え方から、
笑うこと。
感謝すること。
前向きな状態を保つこと。
心を落ち着かせること。
そうした方向へ話を進めています。
そして最後には、シンギングボウルを使って心を落ち着かせる時間まで設けています。
この5つの物語も、同じ場所に戻ってきます。
霊を怖がるための物語ではありません。
自分の心と体の変化に気づくための物語です。
そして、自分だけで気づけない時には、
自分を本当に知っている誰かの目が、
最初のサインを見つけてくれることもある。
5つの物語の中で最も怖いものは、幽霊そのものではないのかもしれません。
それは、
「自分が自分ではなくなり始めているのに、自分だけがそれに気づいていないこと」
なのかもしれません。
けれど同時に、5つの物語にはもう一つ共通するものがあります。
誰かが気づいてくれたこと。
家族。
恋人。
同僚。
見知らぬ人。
そんな小さな気づきによって、主人公たちは少しずつ自分自身へ戻っていきます。
そこに、この5つの物語の希望があります。
Short Bios:
健司
38歳。東京・丸の内の金融会社で働く会社員。穏やかで家族思いだったが、突然人格や目つき、声に変化が現れ始める。
美緒
26歳。東京の広告会社勤務。会社移転後に利用し始めた地下鉄の13番ホームで、頭痛や寒気、意識の異変を経験する。
彩
31歳。大阪を中心に活動するウェディングシンガー。古い洋館で歌ったことをきっかけに、咳や喉の違和感、声の変化が始まる。
隆
45歳。東京の不動産会社勤務。離婚後の疲れを癒やすため京都へ一人旅に出るが、408号室で奇妙な身体症状と悪夢を経験する。
幸子
67歳。横浜で娘家族と暮らす明るい女性。親友の死後、頭痛や性格、目つきに変化が現れ、家族が最初にその異変に気づく。
片山和子
今回の5つの現代短編の土台となったスピリチュアルな話を語るスピリチュアルカウンセラー。元動画では、霊が憑いている時に現れやすい15の特徴を、自身の経験を交えながら紹介している。

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