はじめに
日本は、どこから始まったのでしょうか。
歴史の教科書なら、遺跡や古代国家、大和政権といった言葉から答えようとするでしょう。
けれども『古事記』は、まったく違うところから始めます。
まだ人間の王はいません。
日本という国家もありません。
混沌とした世界から神々が現れ、やがてイザナギとイザナミが島々を「生む」。
ここが、とても不思議です。
日本は「建国された」と語られる前に、「生まれた」と語られているのです。
そして物語が進むにつれて、言葉が変わっていきます。
イザナギとイザナミは国を生む。
オオクニヌシは国を作る。
アマテラスの系統は国を治める。
そして最後には、人間たちがそのすべてを一つの物語として書く。
この四つは、本当に同じなのでしょうか。
今回の架空の対話では、その疑問から古事記を読み直しました。
イザナギとイザナミに、
「国を生むとは何だったのか」
と尋ねる。
スサノオに、
「あなたが乱暴だったことと、アマテラスの系統が正統になることは同じ問題なのか」
と尋ねる。
オオクニヌシには、
「あなたは本当に自分の意思で国を譲ったのか」
と問いかける。
ニニギには、
「すでに神々と人々が暮らしている土地へ、なぜ天から統治者として降りるのか」
と尋ねる。
最後には、天武天皇、稗田阿礼、太安万侶を神々の前へ呼び、
「なぜ、この物語をこの形で残したのか」
と問いかけました。
けれども、この対話は古事記を否定するためのものではありません。
反対に、神話をそのまま歴史的事実として証明するためのものでもありません。
もっと単純で、もっと深い問いです。
人は、なぜ自分たちの始まりを物語にするのでしょうか。
国には土地があります。
人がいます。
制度があります。
権力があります。
それでも、それだけでは「私たちは同じ国の人間だ」という感覚は生まれないのかもしれません。
そこには、
「私たちはどこから来たのか」
「何を受け継いできたのか」
「なぜこの土地を故郷と呼ぶのか」
という物語が必要になる。
古事記は、日本人が非常に古い時代に残した、その巨大な答えの一つです。
しかし、一つの物語が人々を結びつける時、別の問題も生まれます。
誰の物語が中心になるのか。
誰の声が小さくなるのか。
勝った側と退いた側は、同じ出来事を同じように記憶するのか。
そして、一つの国になることは、一つの物語しか持てなくなることなのでしょうか。
今回の対話は、そこから始まります。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
トピック1: 日本は「生まれた」のか、それとも「作られた」のか?

登場人物
稗田阿礼
今回の司会。『古事記』に伝えられた物語を記憶した人物。
イザナギ
イザナミとともに国生みを行った神。
イザナミ
日本の島々と多くの神々を生んだ女神。
オオクニヌシ
地上で国作りを進めた神。
アマテラス
高天原を治め、後にその子孫が地上を治める物語へつながる太陽神。
オープニング
稗田阿礼は、しばらく誰にも話しかけなかった。
目の前には、日本の始まりに深く関わった神々が座っていた。
イザナギ。
イザナミ。
アマテラス。
そしてオオクニヌシ。
阿礼はゆっくりと口を開いた。
稗田阿礼:
「私は、皆様の物語を覚えました。
それを後の世へ伝える役目を与えられました。
けれども今日、改めて読み返していて、一つ不思議に思ったことがあります。」
イザナギが阿礼を見る。
イザナギ:
「何だろう。」
稗田阿礼:
「『古事記』では、日本はまず作られません。
生まれます。
イザナギ様とイザナミ様が島々を生む。
淡路島を生み、四国を生み、九州を生み、本州を生む。
ところが、その後になるとオオクニヌシ様が『国作り』をされる。
さらにその後、アマテラス様の子孫が、その国を『治める』ことになる。」
阿礼は一度言葉を切った。
「生む。
作る。
治める。
この三つは、本当に同じことなのでしょうか。」
オオクニヌシが少し笑った。
オオクニヌシ:
「やっと、そこを聞いてくれる者が現れたか。」
アマテラスが静かに視線を向ける。
アマテラス:
「ずいぶん意味のある言い方をしますね。」
オオクニヌシ:
「意味はありますよ。
私は長い間、『国を譲った神』として語られてきた。
だが、その前に私は国を作った。
そこを飛ばして語られることが多い。」
イザナミが二人を見る。
イザナミ:
「その前には、私たちが国そのものを生んでいます。」
阿礼は頷いた。
稗田阿礼:
「では今日は、その違いから始めたいと思います。
日本とは誰が作った国なのか。
いや、その聞き方そのものが間違っているのかもしれません。」
第一の問い
なぜ日本は「作られた」のではなく「生まれた」のでしょうか?
稗田阿礼:
「イザナミ様。
最初にお尋ねしたいと思います。
『古事記』では、あなたとイザナギ様が島々を造ったとは書かれていません。
生んだと語られています。
なぜでしょう。」
イザナミはすぐには答えなかった。
少し遠くを見るような表情をした。
イザナミ:
「今の人は、国と聞くと境界線を思い浮かべるのでしょうね。」
稗田阿礼:
「国境ですか。」
イザナミ:
「ええ。
ここからここまでが日本。
ここから先は別の国。
地図の上に線を引き、土地を区切る。
けれども、私たちが島を生んだ時、そんな感覚ではありませんでした。」
イザナギが頷く。
イザナギ:
「土地は、最初から誰かの所有物ではなかった。」
イザナミ:
「そう。
海から島が現れる。
風が吹く。
山が生まれる。
川が流れる。
そこに命が宿る。
その感覚に近かった。」
稗田阿礼:
「だから『生む』。」
イザナミ:
「私にとっては、そうです。
子供を生んだから、その子供を永遠に所有できるとは思わないでしょう。」
オオクニヌシがその言葉に反応した。
オオクニヌシ:
「面白いですね。」
イザナミ:
「何がですか。」
オオクニヌシ:
「国も同じだとおっしゃっている。」
イザナミ:
「私は、そう思います。」
アマテラスが静かに入る。
アマテラス:
「しかし、子供には親の責任があります。」
イザナミ:
「あります。」
アマテラス:
「生んだだけで終わりではない。」
イザナミ:
「もちろん。」
アマテラス:
「ならば土地にも、それを守り、秩序を作る者が必要なのではありませんか。」
オオクニヌシが少し身を乗り出す。
オオクニヌシ:
「今、アマテラス様は『守る者』とおっしゃいましたね。」
アマテラス:
「ええ。」
オオクニヌシ:
「『所有する者』ではなく。」
少し沈黙が生まれた。
アマテラスはオオクニヌシを見る。
アマテラス:
「違いがあると言いたいのですか。」
オオクニヌシ:
「大きな違いがあると思っています。」
稗田阿礼が口を挟まず、そのまま会話を続けさせた。
オオクニヌシ:
「土地を守る者は、土地の主人なのでしょうか。
人々を治める者は、その人々の所有者なのでしょうか。」
アマテラス:
「所有者とは言っていません。」
オオクニヌシ:
「ですが、後の物語では、治める権利が血筋によって受け渡されていく。」
アマテラスの表情がわずかに変わった。
イザナギが静かに言った。
イザナギ:
「最初の話に戻った方がよさそうだ。」
皆がイザナギを見る。
イザナギ:
「私とイザナミは、島を生んだ。
しかし、生んだ島の上に宮殿を建てて、我々が永遠に王になるとは言わなかった。
その発想は、少なくとも国生みの時点にはない。」
稗田阿礼:
「では、古事記の日本の始まりは『支配』ではない。」
イザナギ:
「そうとも言える。」
イザナミ:
「始まりは生命です。」
阿礼はその言葉を繰り返した。
稗田阿礼:
「日本の始まりは生命。」
イザナミが頷く。
イザナミ:
「島は土地ですが、物語の中では子供でもある。
山も川も海も、ただの資源ではない。
そういう世界から始まっているのです。」
オオクニヌシが静かに言った。
オオクニヌシ:
「もし本当にそうなら、その後の話は少し皮肉ですね。」
稗田阿礼:
「なぜですか。」
オオクニヌシ:
「生まれた土地を、後の者たちが『誰のものか』で争うからです。」
誰もすぐには答えなかった。
第二の問い
オオクニヌシは何を「作った」のでしょうか?
稗田阿礼がオオクニヌシに向き直った。
稗田阿礼:
「それでは、次にお尋ねします。
イザナギ様とイザナミ様が国土を生んだ後、あなたは国作りをされます。
あなたは何を作ったのでしょう。」
オオクニヌシ:
「土地ではありません。」
稗田阿礼:
「では、何ですか。」
オオクニヌシ:
「暮らしです。」
阿礼は黙って続きを待った。
オオクニヌシ:
「土地があるだけでは国にはならない。
山がある。
川がある。
平野がある。
それだけなら自然です。
そこに人が暮らし、食べ、病を治し、争いを収め、互いに関係を作る。
そこで初めて社会になる。」
イザナギが興味深そうに聞いている。
オオクニヌシ:
「私は何もない場所に大地を出したわけではない。
すでにある土地で、どう暮らすかを作った。」
イザナミ:
「だから国『作り』なのですね。」
オオクニヌシ:
「私はそう考えています。」
アマテラスが尋ねる。
アマテラス:
「しかし、あなた一人で作ったわけではないでしょう。」
オオクニヌシ:
「その通りです。」
アマテラスの表情が少し柔らかくなる。
オオクニヌシ:
「少名毘古那もいました。
土地の神々もいた。
人々もいた。
私一人が国を作ったと言うつもりはありません。」
アマテラス:
「それなら、なぜあなたは『自分の国』のように話すのですか。」
オオクニヌシは少し笑った。
オオクニヌシ:
「良い質問ですね。」
稗田阿礼もアマテラスを見る。
オオクニヌシ:
「私も、そこは何度も考えました。
私が国を作った。
しかし、だから私のものだ、と言えるのか。」
イザナミ:
「私は島を生みました。
でも私のものだとは思いません。」
オオクニヌシ:
「私も、本来は同じだったのかもしれません。」
アマテラス:
「では、あなたは国譲りに何の問題もなかったと?」
オオクニヌシの笑みが消えた。
オオクニヌシ:
「それとこれは別です。」
空気が変わった。
稗田阿礼はすぐには止めなかった。
アマテラス:
「なぜ。」
オオクニヌシ:
「私が国を所有していないことと、誰かが突然やって来て『これからはこちらが治める』と言うことは同じではないからです。」
アマテラス:
「突然ではありません。」
オオクニヌシ:
「その話は後でしましょう。」
アマテラスは黙った。
オオクニヌシ:
「私が言いたいのは、国を作ることは、土地を所有することではないということです。
人々の関係を育てる。
暮らしを作る。
病を癒す。
争いを調整する。
自然と共に生きる方法を探す。
国とは、そういう積み重ねではないでしょうか。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「では、あなたにとって国とは何ですか。」
オオクニヌシは少し考えた。
オオクニヌシ:
「人が、その場所で明日も生きたいと思える状態です。」
一瞬、誰も言葉を発さなかった。
イザナミが微笑んだ。
イザナミ:
「私はその答えが好きです。」
アマテラスも否定しなかった。
稗田阿礼:
「それなら、土地を生むことと、国を作ることは違いますね。」
オオクニヌシ:
「かなり違います。」
イザナギ:
「そして、治めることも違う。」
全員がイザナギを見る。
イザナギ:
「それが次の問題だろう。」
第三の問い
国は誰かの「もの」なのでしょうか?
稗田阿礼は、少し長く沈黙した後に口を開いた。
稗田阿礼:
「ここまで聞いて、最初に用意していた問いが少し変わりました。」
アマテラス:
「どのように。」
稗田阿礼:
「私は『誰が日本を作ったのか』と聞こうと思っていました。
けれども、今は別のことを聞きたい。」
阿礼は全員を見渡した。
稗田阿礼:
「国は、そもそも誰かの『もの』なのでしょうか。」
アマテラスが最初に答えた。
アマテラス:
「誰のものでもない国など、成り立つのでしょうか。」
オオクニヌシがすぐに返す。
オオクニヌシ:
「誰かが責任を持つことと、誰かの所有物になることは違うでしょう。」
アマテラス:
「責任を持つ者には権限が必要です。」
オオクニヌシ:
「その権限は誰から与えられるのですか。」
アマテラス:
「それは」
アマテラスが初めて言葉に詰まった。
イザナギが入る。
イザナギ:
「私が高天原をアマテラスに任せた。」
オオクニヌシ:
「高天原を、ですよね。」
イザナギが黙る。
オオクニヌシ:
「地上のすべてではない。」
アマテラスが視線を向ける。
アマテラス:
「あなたは今日、かなりはっきり言いますね。」
オオクニヌシ:
「長い間、国を譲った側ですから。」
イザナミが静かに割って入った。
イザナミ:
「少し違う方向から考えてみませんか。」
皆がイザナミを見る。
イザナミ:
「母親は子供を生む。
でも子供は母親の所有物ではない。
それでも母親は責任を持つ。
ある時までは守る。
育てる。
時には導く。
でも最後には手放す。」
アマテラスが静かに聞いている。
イザナミ:
「国もそうではないでしょうか。」
稗田阿礼:
「国も育つ。」
イザナミ:
「そう。
生まれる。
育つ。
変わる。
いろいろな者が関わる。
そして一人の手から離れていく。」
オオクニヌシ:
「それなら私は納得できます。」
アマテラスが尋ねる。
アマテラス:
「何に。」
オオクニヌシ:
「国が永遠に私のものではないことに。」
少し間を置く。
「ただし。」
アマテラスが見る。
オオクニヌシ:
「私のものではないからといって、あなたのものになるわけでもない。」
静かな緊張が走った。
稗田阿礼は、ここで初めて二人の間に入った。
稗田阿礼:
「もしかすると、この問題は『誰のものか』と聞くこと自体が間違っているのかもしれません。」
イザナギ:
「どういうことだ。」
稗田阿礼:
「土地は、そこに住む人々より長く存在します。
王より長い。
家系より長い。
国家の名前より長い。
そう考えるなら、私たちは土地を所有しているのではなく、一時的に預かっているだけなのかもしれません。」
イザナミがゆっくり頷いた。
イザナミ:
「その考え方なら、私が島を生んだという話ともよく合います。」
アマテラス:
「しかし、それでも秩序は必要です。」
オオクニヌシ:
「ええ。
そこは私も否定していません。」
アマテラスが少し意外そうな顔をする。
オオクニヌシ:
「私が疑っているのは秩序ではない。
秩序を作る者が、自分の正統性をどこから得るのかです。」
稗田阿礼:
「それは、この先の対話で避けられない問題ですね。」
オオクニヌシ:
「避けない方がいい。」
アマテラス:
「私も逃げるつもりはありません。」
イザナギが二人を見る。
イザナギ:
「面白くなってきたな。」
イザナミが少し笑う。
イザナミ:
「あなたは気楽ですね。」
イザナギ:
「最初に島を生んだだけだからな。」
イザナミ:
「私の方が大変だったのですけれど。」
場に小さな笑いが生まれた。
しかし、その笑いの後にも、問いは残った。
国を生んだ者。
国を作った者。
国を治める者。
その三者は同じではない。
そして、そのどれもが、
「だから国は私のものだ」
と言えるわけではない。
クロージング
稗田阿礼は、ここまでの言葉を頭の中でゆっくり辿った。
そして、最後に話し始めた。
稗田阿礼:
「今日、私は『日本は誰が作ったのか』という問いから始めました。
けれども、その問いでは足りなかったようです。」
阿礼はイザナギとイザナミを見る。
「イザナギ様とイザナミ様は、国を生んだ。」
オオクニヌシを見る。
「オオクニヌシ様は、そこに暮らしと社会を作った。」
そしてアマテラスを見る。
「アマテラス様の物語からは、誰がその国を治めるのかという問いが始まる。」
アマテラスは黙って聞いている。
稗田阿礼:
「生むこと。
作ること。
治めること。
どうやら、この三つは同じではありません。」
イザナミが静かに言った。
イザナミ:
「そして、どれか一つをしたからといって、永遠にその国を所有できるわけでもない。」
オオクニヌシ:
「そこは覚えておいてほしいですね。」
アマテラスがオオクニヌシを見る。
アマテラス:
「あなたが何を言いたいのかは、よく分かりました。」
オオクニヌシ:
「まだ半分も言っていませんよ。」
アマテラスがほんの少し笑った。
アマテラス:
「でしょうね。」
稗田阿礼も微笑んだ。
しかし、次の問いは軽くない。
阿礼はアマテラスとスサノオの名が記された古い記憶へと思いを移した。
同じ父から生まれた姉と弟。
一人は高天原の中心へ。
一人はそこから追放される。
そして、その二つの系統は、後に日本の統治をめぐる大きな物語へつながっていく。
稗田阿礼:
「次に聞かなければならないことは、もっと難しいかもしれません。
国を誰が生んだかではありません。
誰が『正統』だとされたのかです。」
アマテラスの表情が静かに引き締まった。
遠くから、まだこの場には姿を見せていないスサノオの気配が近づいてくる。
次の対話では、姉と弟が向き合う。
アマテラスとスサノオ。
果たして、正統だったのは誰なのか。
そしてそもそも、
「正統」というものは、最初から存在していたのだろうか。
トピック2: アマテラスとスサノオ正統だったのは誰か?

登場人物
稗田阿礼
今回の司会。物語を記憶し、問いを投げかける。
アマテラス
高天原を治める太陽神。後にその系統が天孫降臨へつながる。
スサノオ
アマテラスの弟。高天原で乱暴を働き、追放された後、出雲でヤマタノオロチを退治する。
イザナギ
アマテラスとスサノオの父。
オオクニヌシ
スサノオにつながる系統に属し、後に国作りを進める神。
オープニング
前の対話から少し時間が過ぎていた。
誰も大きな声を出してはいなかった。
アマテラスは静かに座っている。
オオクニヌシも、その向かい側にいる。
イザナギは二人の間に漂う緊張を感じ取っていた。
そこへ、一人の神が歩いてきた。
足音は重くない。
むしろ、どこか気楽だった。
スサノオ:
「ずいぶん真面目な顔してるな。」
アマテラスは顔を上げた。
アマテラス:
「遅いです。」
スサノオ:
「俺が来ると空気悪くなるだろ。」
アマテラス:
「自覚はあるのですね。」
スサノオ:
「昔よりはな。」
イザナギが小さくため息をついた。
イザナギ:
「お前たちは何年経っても変わらんな。」
スサノオ:
「父上、それ褒めてないよな。」
稗田阿礼は二人のやり取りを見ながら、静かに口を開いた。
稗田阿礼:
「前の対話では、国を生むこと、作ること、治めることは同じではないという話になりました。」
スサノオがオオクニヌシを見る。
スサノオ:
「そこまで行ったのか。」
オオクニヌシ:
「まだ入口です。」
スサノオ:
「お前が言うと怖いな。」
稗田阿礼は続けた。
稗田阿礼:
「その次に避けて通れないのが、アマテラス様とスサノオ様です。」
二人が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「お二人は同じ父から生まれた。
しかし、その後の物語では大きく道が分かれます。
アマテラス様は高天原の中心に残り、その系統が後の天孫降臨へつながっていく。
スサノオ様は追放され、地上へ降りる。
そして、後に出雲の物語へつながっていく。」
スサノオは腕を組んだ。
スサノオ:
「まあ、そう書かれてるな。」
稗田阿礼:
「そこで今日の問いです。
お二人のうち、誰が正統だったのでしょうか。
それとも、その聞き方そのものが間違っているのでしょうか。」
アマテラスの表情が少し引き締まった。
スサノオは笑わなかった。
第一の問い
スサノオは本当に「悪い神」だったのでしょうか?
稗田阿礼:
「最初に、スサノオ様。
かなり直接的に聞きます。」
スサノオ:
「いいぞ。」
稗田阿礼:
「高天原でのあなたの行い。
田畑を荒らした。
神聖な場所を汚した。
機織りの場で大きな惨事を起こした。
これらをどう考えていますか。」
スサノオは少し黙った。
いつもの軽い表情が消える。
スサノオ:
「悪かった。」
アマテラスが目を向けた。
スサノオ:
「ここで言い訳するつもりはない。
俺は荒れていた。
自分がどうしたいのかも分からなかった。
父上に海を治めろと言われた。
でも俺は母に会いたかった。
そればかり考えていた。」
イザナギの表情が変わる。
スサノオ:
「それで追放された。
姉ちゃんのところへ行った。
姉ちゃんは俺を疑った。
俺も腹を立てた。
そこから俺は、どんどん酷いことをした。」
アマテラスは口を挟まない。
スサノオ:
「だからそこは認める。
俺が被害者だった、と言うつもりはない。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「では、あなたは古事記の中で自分が乱暴者として描かれていることに不満はない。」
スサノオ:
「そこだけならな。」
稗田阿礼:
「そこだけなら?」
スサノオはアマテラスを見た。
スサノオ:
「俺が悪かった。
それは事実だとしていい。
でも、そのことと姉ちゃんが正統になることは別だろ。」
場が静かになった。
アマテラスがゆっくり口を開く。
アマテラス:
「私が正統になったのは、あなたが悪かったからだけではありません。」
スサノオ:
「じゃあ何でだ。」
アマテラス:
「父上から高天原を任されたからです。」
スサノオがイザナギを見る。
スサノオ:
「父上。」
イザナギ:
「確かに私は、アマテラスに高天原を任せた。」
スサノオ:
「高天原を、だよな。」
イザナギは答えない。
オオクニヌシが静かに言った。
オオクニヌシ:
「先ほどの話と同じですね。」
稗田阿礼:
「どういう意味ですか。」
オオクニヌシ:
「ある場所を任されたことと、すべての国を永遠に治める資格を得たことは同じではない。」
アマテラスがオオクニヌシを見る。
アマテラス:
「またそこへ戻りますか。」
オオクニヌシ:
「避けられませんから。」
スサノオが少し笑った。
スサノオ:
「俺、この男好きだわ。」
アマテラス:
「あなたの子孫ですからね。」
スサノオ:
「それ言われると妙に納得するな。」
一瞬、空気が緩む。
だが稗田阿礼は問いを戻した。
稗田阿礼:
「スサノオ様。
あなたはその後、出雲でヤマタノオロチを退治します。」
スサノオ:
「ああ。」
稗田阿礼:
「高天原では破壊者。
地上では救う者。
どちらが本当のあなたですか。」
スサノオは少し考えた。
スサノオ:
「両方だろ。」
稗田阿礼が黙る。
スサノオ:
「人間だってそうじゃないのか。
一度ひどいことをした人間が、その後ずっと同じ人間でいるとは限らない。
逆もある。
昔立派だったやつが、後でおかしくなることもある。」
イザナミはいない。
しかし前の対話の余韻が、この場に残っていた。
スサノオ:
「俺は姉ちゃんを傷つけた。
それは消えない。
でも俺はクシナダヒメを救った。
それも消えない。
どっちか一つだけを選ぶ必要があるのか。」
アマテラスはしばらく黙っていた。
そして言った。
アマテラス:
「その点については、私も否定しません。」
スサノオが少し驚く。
スサノオ:
「珍しいな。」
アマテラス:
「あなたは確かに変わった。」
スサノオ:
「姉ちゃん、それ昔言ってくれたらな。」
アマテラス:
「昔のあなたは聞かなかったでしょう。」
スサノオ:
「それもそうだな。」
稗田阿礼は二人の顔を見た。
稗田阿礼:
「では、スサノオ様を単純に悪の側へ置くことはできない。」
アマテラス:
「私はそう思います。」
スサノオ:
「やっと姉ちゃんから聞けたな。」
第二の問い
なぜアマテラスの子孫が国を治めるのでしょうか?
稗田阿礼は少し姿勢を正した。
稗田阿礼:
「では、もっと難しい問いへ進みます。」
アマテラスが阿礼を見る。
稗田阿礼:
「アマテラス様。
なぜ、あなたの子孫が地上を治めるのでしょうか。」
今度は誰も笑わなかった。
アマテラスはすぐには答えない。
アマテラス:
「高天原には秩序があります。」
稗田阿礼:
「はい。」
アマテラス:
「地上にも秩序が必要でした。」
オオクニヌシが静かに言う。
オオクニヌシ:
「秩序はすでにありました。」
アマテラスが見る。
オオクニヌシ:
「完全ではありません。
争いもあった。
混乱もあった。
しかし、何もなかったわけではありません。」
アマテラス:
「私は何もなかったとは言っていません。」
オオクニヌシ:
「では、なぜあなたの系統が治める必要があったのですか。」
アマテラスは一度目を閉じた。
アマテラス:
「まとまりが必要だったからです。」
スサノオがすぐに入る。
スサノオ:
「誰にとって。」
アマテラス:
「皆にとってです。」
スサノオ:
「それを決めたのは誰だ。」
アマテラス:
「高天原です。」
スサノオは少し笑った。
スサノオ:
「ほら。」
アマテラスの表情が硬くなる。
アマテラス:
「何です。」
スサノオ:
「姉ちゃん。
そこなんだよ。」
少し間が空く。
スサノオ:
「俺が暴れた。
俺が追放された。
そこまでは分かる。
でも、その後に姉ちゃんたちが地上まで治める話になる。
そこに俺の悪さは関係ないだろ。」
アマテラスは答えない。
スサノオ:
「俺が悪かったことと、姉ちゃんの血筋が日本を治めることは、本当に同じ話なのか?」
誰も口を挟まなかった。
稗田阿礼も黙っていた。
アマテラスが長く息を吐いた。
アマテラス:
「同じではありません。」
スサノオの表情が変わる。
スサノオ:
「そうか。」
アマテラス:
「あなたの行いと、私の子孫の統治は別の問題です。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「それなら、統治の根拠は何ですか。」
アマテラスは慎重に答える。
アマテラス:
「私の立場から言えば、神々の秩序を地上にもつなぐことでした。」
オオクニヌシが問う。
オオクニヌシ:
「それは地上から求められたことですか。」
沈黙。
アマテラス:
「そうとは言えません。」
オオクニヌシは何も言わなかった。
その沈黙が、言葉以上に重かった。
イザナギが口を開く。
イザナギ:
「私にも責任があるのかもしれない。」
アマテラスが父を見る。
イザナギ:
「私はお前たちに役割を与えた。
アマテラスには高天原。
ツクヨミには夜。
スサノオには海。」
スサノオが苦笑する。
スサノオ:
「俺は放棄したけどな。」
イザナギ:
「そうだ。」
イザナギは続けた。
イザナギ:
「役割を与えたことが、いつの間にか血統の正統性へ変わっていった。
そこは私が決めたことではない。」
稗田阿礼がその言葉を拾う。
稗田阿礼:
「役割が、血統に変わる。」
オオクニヌシ:
「そして血統が、統治権に変わる。」
スサノオ:
「それで何代も続く。」
アマテラスは静かに聞いている。
稗田阿礼:
「アマテラス様。
あなた自身は、ご自分の血統が永遠に国を治めるべきだと考えていたのでしょうか。」
アマテラスはしばらく答えなかった。
アマテラス:
「私が考えていたことと、後の世に私の物語がどう使われたかは、同じではないのかもしれません。」
オオクニヌシがアマテラスを見る。
初めて少し表情が柔らかくなった。
オオクニヌシ:
「その答えなら、話せそうです。」
第三の問い
「正統」は最初から存在するのでしょうか?
稗田阿礼は、皆の前にある問いを言葉にした。
稗田阿礼:
「ここまでの話から、もう一つの疑問が出てきます。」
スサノオ:
「何だ。」
稗田阿礼:
「正統とは、最初から存在するものなのでしょうか。
それとも、後の物語によって作られるものなのでしょうか。」
スサノオはすぐに答えた。
スサノオ:
「後からだろ。」
アマテラスが見る。
スサノオ:
「だって俺たちが生まれた時、誰も『アマテラス系統が何千年も日本を治めます』なんて言ってない。」
イザナギが頷く。
イザナギ:
「言っていない。」
スサノオ:
「ほら。」
アマテラスは少し考える。
アマテラス:
「しかし、後から形になったからといって、すべてが嘘になるわけではありません。」
稗田阿礼:
「どういう意味でしょう。」
アマテラス:
「人々は秩序を必要とする。
誰がどの役割を担うのか。
どう受け継ぐのか。
毎回すべてを争って決めていたら、社会は安定しません。」
オオクニヌシが頷いた。
オオクニヌシ:
「そこは分かります。」
スサノオが驚く。
スサノオ:
「お前、姉ちゃん側につくのか。」
オオクニヌシ:
「そういう話ではありません。」
場に少し笑いが戻る。
オオクニヌシ:
「継承の仕組みは必要です。
けれども、その仕組みが正しいことと、その仕組みが永遠に変わらないことは別です。」
アマテラス:
「では、何によって正統性を判断するのですか。」
オオクニヌシ:
「そこが難しい。」
スサノオ:
「血じゃないのか。」
オオクニヌシ:
「血だけなら、あなたにも権利があるでしょう。」
スサノオが笑う。
スサノオ:
「それは怖い国になるな。」
アマテラス:
「自覚があるなら結構です。」
再び小さな笑い。
しかしオオクニヌシは続けた。
オオクニヌシ:
「血統。
能力。
人々の支持。
土地との結びつき。
神意。
慣習。
どれも正統性を説明する材料にはなる。
でも、一つだけで十分なのかは分からない。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「では、物語は?」
オオクニヌシが阿礼を見る。
オオクニヌシ:
「物語?」
稗田阿礼:
「人々が『この人が治めるのは当然だ』と思うためには、その理由を説明する物語が必要なのではないでしょうか。」
アマテラスがゆっくり頷く。
アマテラス:
「それはあるでしょう。」
スサノオ:
「なるほどな。」
スサノオは少し遠くを見る。
スサノオ:
「じゃあ正統って、剣だけで作るもんじゃないんだな。」
イザナギ:
「そうだろう。」
スサノオ:
「物語で作る。」
稗田阿礼はその言葉を静かに受け止めた。
稗田阿礼:
「そして、その物語を誰が書くのか。」
その瞬間、誰も口を開かなかった。
Topic 5で待っている問いが、まだ遠くからこちらを見ているようだった。
アマテラスが言った。
アマテラス:
「もしそうなら、私も聞きたいことがあります。」
稗田阿礼:
「何でしょう。」
アマテラス:
「後の世の人々は、私をどのように使ったのですか。」
阿礼はすぐには答えられなかった。
稗田阿礼:
「それは最後に、避けずに向き合いましょう。」
アマテラスは頷いた。
スサノオが姉を見る。
スサノオ:
「姉ちゃんも大変だったんだな。」
アマテラス:
「今さらですか。」
スサノオ:
「俺は追放された側だから、自分だけ被害者みたいに思ってた。」
アマテラスは少し驚いた表情を見せた。
スサノオ:
「でも姉ちゃんも、自分が作ってない物語まで背負わされたのかもしれない。」
アマテラスはしばらく答えなかった。
アマテラス:
「そういう見方をしたことはありませんでした。」
スサノオは笑った。
スサノオ:
「今日、ちょっとだけ姉弟らしくなったな。」
アマテラス:
「調子に乗らないでください。」
クロージング
稗田阿礼は、二人をしばらく見ていた。
古事記の中では、アマテラスとスサノオは大きく分かれる。
姉は高天原に残る。
弟は追放される。
その後、姉の系統は天孫降臨へ進み、弟の系統は出雲へとつながっていく。
しかし今日の対話では、それほど単純ではなかった。
スサノオは、自分の過ちを認めた。
アマテラスも、弟の乱暴さと自分の血統の統治権が同じ問題ではないことを認めた。
イザナギは、高天原を任せたことと、永遠の統治権を与えたことが同じではないと振り返った。
オオクニヌシは、正統性そのものが一つの理由では説明できないと語った。
稗田阿礼は静かに言った。
稗田阿礼:
「今日、私たちは『誰が正しかったのか』を決めるつもりでした。
しかし、最後に残ったのは違う問いでした。」
皆が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「正統とは、誰かが最初から持っているものなのか。
それとも、人々が物語を通して認めていくものなのか。」
スサノオが小さく呟く。
スサノオ:
「物語か。」
稗田阿礼:
「もし正統性が物語によって支えられるなら、その物語には大きな力があります。」
アマテラスが聞く。
アマテラス:
「そして危険もある。」
稗田阿礼:
「はい。」
オオクニヌシが言った。
オオクニヌシ:
「では次は、その力が実際に使われた場面を話しましょう。」
スサノオがオオクニヌシを見る。
スサノオ:
「いよいよお前の話か。」
オオクニヌシ:
「私一人の話ではありません。」
スサノオ:
「国譲り。」
オオクニヌシは頷いた。
その顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
オオクニヌシ:
「そうです。」
アマテラスも姿勢を正した。
稗田阿礼は二人を見る。
次の対話では、もう抽象的な正統性だけを語ることはできない。
高天原から使者が来る。
地上を治めていた側に、
「この国を譲れ」
という要求が届く。
受け入れた者。
拒んだ者。
戦った者。
そして最後に国を譲った者。
稗田阿礼は静かに告げた。
稗田阿礼:
「次の問いは、おそらくここまでで最も難しいものになります。」
一呼吸置く。
稗田阿礼:
「オオクニヌシ様。
あなたは、本当に自分の意思で国を譲ったのでしょうか。」
オオクニヌシは答えなかった。
その沈黙のまま、次の対話へ続いていく。
トピック3: 国譲り本当に「譲った」のか?

登場人物
稗田阿礼
今回の司会。記録された物語と、登場人物たち自身の言葉の間にある違いを見つめる。
オオクニヌシ
地上で国作りを進めた神。最終的に高天原側へ国を譲る。
アマテラス
高天原を治める太陽神。地上を自らの系統が治めるべきだと考える側に立つ。
建御雷神
高天原から派遣された使者。国譲り交渉の中心人物。
事代主神
オオクニヌシの子。国譲りを受け入れる。
建御名方神
オオクニヌシの子。国譲りに抵抗し、建御雷神と力を争う。
オープニング
前の対話が終わった後も、オオクニヌシはしばらくその場に残っていた。
スサノオは去った。
イザナギも姿を消した。
アマテラスだけが、少し離れた場所からオオクニヌシを見ていた。
稗田阿礼は、その二人の間に流れる沈黙を崩さなかった。
やがて、遠くから一人の神が歩いてきた。
鋭い目。
無駄のない動き。
建御雷神だった。
さらに少し遅れて、事代主神。
そして建御名方神が現れた。
建御名方神は建御雷神を見た瞬間、わずかに表情を硬くした。
建御雷神もそれに気づいた。
しかし何も言わなかった。
稗田阿礼が全員を見渡した。
稗田阿礼:
「今日は、古事記の中でも最も大きな転換点の一つについて話します。」
オオクニヌシが静かに頷く。
稗田阿礼:
「オオクニヌシ様が国を作った。
その後、高天原から使者が送られてきた。
一度ではない。
何度もです。」
アマテラスが阿礼を見る。
稗田阿礼:
「そして最後に、建御雷神様が派遣された。」
建御雷神は黙ったまま頷いた。
稗田阿礼:
「事代主神様は受け入れた。
建御名方神様は抵抗した。
そして最後に、オオクニヌシ様は国を譲った。」
稗田阿礼は少し間を置いた。
そして、オオクニヌシに向き直った。
稗田阿礼:
「古事記は、この出来事を『国譲り』として伝えています。」
オオクニヌシは何も言わない。
稗田阿礼:
「ですが今日、最初に聞きたいのは、その言葉そのものです。」
阿礼はまっすぐに問う。
稗田阿礼:
「オオクニヌシ様。
あなたは、本当に自分の意思で国を譲ったのでしょうか。」
長い沈黙。
オオクニヌシはアマテラスを見た。
次に建御雷神を見る。
そして最後に、自分の二人の子を見る。
オオクニヌシ:
「その問いに、一言では答えられません。」
稗田阿礼:
「なぜですか。」
オオクニヌシ:
「この場にいる全員が、同じ出来事を経験しています。
でも、同じものを見てはいないからです。」
第一の問い
国譲りは「交渉」だったのか、それとも「圧力」だったのか?
稗田阿礼は建御雷神を見る。
稗田阿礼:
「建御雷神様。
あなたは何をしに来たのでしょう。」
建御雷神:
「命を伝えに来ました。」
稗田阿礼:
「お願いではなく?」
建御雷神:
「命です。」
建御名方神が鼻で笑った。
建御名方神:
「ほらな。」
建御雷神が見る。
建御名方神:
「今、自分で言っただろ。
命だと。」
建御雷神:
「私は隠すつもりはない。」
建御名方神:
「なら最初から交渉じゃない。」
アマテラスが口を開く。
アマテラス:
「交渉の余地はありました。」
建御名方神がすぐに返す。
建御名方神:
「断ったらどうなりましたか。」
アマテラスは答えない。
建御名方神が続ける。
建御名方神:
「私は断った。
それで戦った。」
建御雷神が静かに言う。
建御雷神:
「あなたから力比べを求めた。」
建御名方神:
「来る者が『この国を渡せ』と言ってるんだ。
力を示さずにどうする。」
建御雷神:
「あなたは敗れた。」
建御名方神:
「分かってる。」
空気が張り詰める。
オオクニヌシが二人を見る。
オオクニヌシ:
「その話はもういい。」
建御名方神が父を見る。
建御名方神:
「父上。
でも、ここは言わないと駄目だ。」
オオクニヌシ:
「何を。」
建御名方神:
「後の世で『国を譲った』と言われる。
まるで皆で話し合って、納得して渡したみたいに。」
事代主神が初めて口を開く。
事代主神:
「私は受け入れた。」
建御名方神が振り向く。
建御名方神:
「兄上はな。」
事代主神:
「そうだ。」
建御名方神:
「なぜだ。」
事代主神:
「勝てないと思ったからだ。」
建御名方神の表情が変わる。
事代主神:
「私は戦わずに済む道を選んだ。」
建御名方神:
「それを譲るっていうのか。」
事代主神:
「では、全員が死ぬまで戦えばよかったのか。」
建御名方神は黙る。
事代主神は続けた。
事代主神:
「国を守ることと、戦うことは同じではない。」
建御名方神:
「戦わなければ、国は取られる。」
事代主神:
「戦っても取られるなら?」
沈黙。
稗田阿礼がオオクニヌシを見る。
稗田阿礼:
「お二人の子は、違う選択をしました。」
オオクニヌシ:
「そうです。」
稗田阿礼:
「それを見て、あなたはどう思っていたのでしょう。」
オオクニヌシは少し考えた。
オオクニヌシ:
「二人とも間違っていないと思っていました。」
建御名方神が父を見る。
オオクニヌシ:
「一人は国を守ろうと戦った。
一人は国に住む者を守ろうと戦わなかった。」
事代主神が目を伏せる。
オオクニヌシ:
「どちらも守ろうとした。
守り方が違った。」
稗田阿礼が建御雷神を見る。
稗田阿礼:
「建御雷神様。
あなたから見ればどうでしょう。」
建御雷神:
「私には命があった。」
稗田阿礼:
「命令だから行った。」
建御雷神:
「そうです。」
稗田阿礼:
「オオクニヌシ様が断れば?」
建御雷神はしばらく黙った。
建御雷神:
「次の手段が取られたでしょう。」
建御名方神が小さく笑った。
建御名方神:
「それが答えじゃないか。」
アマテラスが口を開く。
アマテラス:
「待ってください。」
皆がアマテラスを見る。
アマテラス:
「私は争いを望んでいたわけではありません。」
オオクニヌシ:
「ですが、断れば争いが起きる状況だった。」
アマテラスが黙る。
オオクニヌシ:
「そこが問題なのです。」
アマテラス:
「私たちは国を一つにする必要があると考えていました。」
オオクニヌシ:
「あなたたちが、ですよね。」
アマテラス:
「はい。」
オオクニヌシ:
「私たちではない。」
長い沈黙。
稗田阿礼は静かに言った。
稗田阿礼:
「すると、『自発的に譲った』とも、『完全に力で奪われた』とも、一言では言えない。」
オオクニヌシが頷く。
オオクニヌシ:
「だから最初に言ったのです。
一言では答えられない、と。」
第二の問い
なぜオオクニヌシは最後に大きな宮殿を求めたのでしょうか?
稗田阿礼は場の緊張が少し落ち着くまで待った。
そしてオオクニヌシに尋ねた。
稗田阿礼:
「あなたは最終的に国を譲ることを受け入れます。」
オオクニヌシ:
「はい。」
稗田阿礼:
「その時、自分を祀るための大きな宮殿を求めた。」
オオクニヌシ:
「そうです。」
稗田阿礼:
「なぜでしょう。」
オオクニヌシはすぐには答えなかった。
アマテラスも彼を見る。
オオクニヌシ:
「皆さんは、国を失うということを、どう考えますか。」
誰も答えない。
オオクニヌシ:
「土地を失うことだと思うかもしれない。
権力を失うことだと思うかもしれない。
宮殿を失うこと。
軍を失うこと。
命令する権利を失うこと。」
オオクニヌシは少し間を置いた。
オオクニヌシ:
「でも、もっと怖いものがあります。」
稗田阿礼:
「何でしょう。」
オオクニヌシ:
「忘れられることです。」
事代主神が父を見る。
建御名方神も黙って聞く。
オオクニヌシ:
「私たちがここにいたこと。
国を作ったこと。
人々と暮らしたこと。
苦労したこと。
間違ったこと。
助けたこと。
争ったこと。」
オオクニヌシはアマテラスを見る。
オオクニヌシ:
「支配者が変われば、物語も変わる。」
アマテラスの表情がわずかに揺れる。
オオクニヌシ:
「新しい時代が来ることは止められない。
でも、そのために以前の時代まで消される必要はない。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「だから宮殿を求めた。」
オオクニヌシ:
「私は国を失っても、記憶まで失いたくなかった。」
建御名方神が低い声で言う。
建御名方神:
「父上、それなら、もっと戦えばよかったじゃないか。」
オオクニヌシが息子を見る。
オオクニヌシ:
「戦って勝てたか。」
建御名方神は答えない。
オオクニヌシ:
「お前は戦った。
それを私は責めない。
でも私は、お前が敗れた後まで同じ道を選ぶ必要はない。」
建御名方神は悔しそうに視線を落とす。
オオクニヌシ:
「国を守る方法は、最後まで王でいることだけではない。」
事代主神が父を見る。
事代主神:
「記憶を残す。」
オオクニヌシ:
「そうだ。」
稗田阿礼が静かに言う。
稗田阿礼:
「支配を失っても、祭られることで存在を残す。」
オオクニヌシ:
「人々が私を思い出す場所が残る。
それで十分とは言いません。
でも、何も残らないよりはいい。」
アマテラスがここで初めて、少し柔らかい声を出した。
アマテラス:
「私は、あなたがそれほどまでに『記憶』を恐れていたとは知りませんでした。」
オオクニヌシ:
「勝つ側は、忘れられる恐怖をあまり感じません。」
その言葉に、アマテラスは返事をしなかった。
建御雷神も黙っていた。
第三の問い
勝者と敗者は、一つの国の物語を共有できるのでしょうか?
稗田阿礼は、これまでの話を静かにまとめるように問いを置いた。
稗田阿礼:
「最後の問いです。」
全員が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「国譲りの後、高天原側の系統が地上の統治へ進んでいきます。」
アマテラスが頷く。
稗田阿礼:
「しかし、オオクニヌシ様の記憶も残る。
出雲も消えない。
では、勝った側と退いた側は、一つの国の物語を共有できるのでしょうか。」
アマテラスが最初に答えた。
アマテラス:
「共有すべきだと思います。」
オオクニヌシがすぐに尋ねる。
オオクニヌシ:
「どちらの物語として?」
アマテラス:
「日本の物語としてです。」
オオクニヌシ:
「その日本とは、誰が定義するのですか。」
アマテラスが少し困った表情を見せる。
アマテラス:
「またその問いですか。」
オオクニヌシ:
「ここでは避けられません。」
アマテラスは少し考える。
アマテラス:
「一つの国として続くためには、共通する何かが必要です。」
オオクニヌシ:
「それには同意します。」
アマテラスが少し驚く。
オオクニヌシ:
「私は一つになることに反対しているのではありません。」
稗田阿礼:
「では、何に反対しているのでしょう。」
オオクニヌシはゆっくり答えた。
オオクニヌシ:
「一つになることと、一つの物語しか許されなくなることを、同じにすることです。」
場が静かになる。
事代主神が父を見る。
建御名方神も顔を上げる。
オオクニヌシ:
「一つの国に、複数の記憶があってもいい。
高天原から見た国譲り。
出雲から見た国譲り。
戦わなかった者の記憶。
戦った者の記憶。
命令を伝えた者の記憶。
それぞれ違ってもいい。」
建御雷神が初めて、少し考えるような表情を見せた。
建御雷神:
「私の記憶も含まれるのか。」
オオクニヌシ:
「もちろんです。」
建御雷神:
「私は侵略者として語られるかもしれない。」
オオクニヌシ:
「あなた自身は、そう思っていますか。」
建御雷神は少し黙る。
建御雷神:
「私は命を果たした。」
建御名方神:
「俺から見れば、敵だった。」
事代主神:
「私から見れば、戦争を避けるために向き合わなければならない相手だった。」
アマテラス:
「私から見れば、使命を任せた者です。」
稗田阿礼が静かに言う。
稗田阿礼:
「同じ一人の神に、四つの姿がある。」
オオクニヌシ:
「それでいいのではありませんか。」
アマテラスがオオクニヌシを見る。
アマテラス:
「では、一つの国の歴史はどう書けばいいのですか。」
オオクニヌシは少し笑った。
オオクニヌシ:
「そこまで私に聞きますか。」
アマテラス:
「あなたが問題を出したのでしょう。」
オオクニヌシはしばらく考えた。
オオクニヌシ:
「私は、全部残せばいいと思います。」
稗田阿礼:
「全部。」
オオクニヌシ:
「勝った側の話も。
負けた側の話も。
受け入れた者の話も。
抵抗した者の話も。
そして後の人たちが、自分で考えればいい。」
稗田阿礼の表情がわずかに変わった。
稗田阿礼:
「それは、記録する者には重い注文ですね。」
オオクニヌシが阿礼を見る。
オオクニヌシ:
「だから記録する者には責任がある。」
阿礼は黙った。
その言葉は、やがてTopic 5で自分自身へ返ってくる。
アマテラスが静かに言った。
アマテラス:
「もし私の側の物語だけが残れば、それは国を一つにしたことにはならない。」
オオクニヌシが見る。
アマテラス:
「あなたの言う通りかもしれません。」
建御名方神が少し驚いた。
建御名方神:
「認めるんですか。」
アマテラス:
「すべてではありません。」
建御名方神が苦笑する。
アマテラス:
「ですが、国が一つになるということは、過去まで一つにすることではないのかもしれません。」
オオクニヌシは静かに頷いた。
クロージング
稗田阿礼は全員の顔を順に見た。
建御雷神。
事代主神。
建御名方神。
アマテラス。
そしてオオクニヌシ。
同じ出来事を語っている。
しかし、誰の言葉も同じではなかった。
稗田阿礼:
「今日、私は『国譲りは本当に譲ったのか』と尋ねました。」
少し間を置く。
稗田阿礼:
「答えは、一つではありませんでした。」
建御雷神に向く。
「命を伝えた者にとっては、使命だった。」
事代主神に向く。
「戦わないことを選んだ者にとっては、民を守る決断だった。」
建御名方神に向く。
「抵抗した者にとっては、奪われる国を守る戦いだった。」
アマテラスを見る。
「高天原にとっては、国を一つの秩序へまとめるための行動だった。」
そしてオオクニヌシを見る。
「国を作った者にとっては、失うものを選びながら、残せるものを残す決断だった。」
オオクニヌシが静かに言った。
オオクニヌシ:
「それが一番近いかもしれません。」
稗田阿礼は問いかける。
稗田阿礼:
「それでも、後の世では一つの言葉で呼ばれる。
『国譲り』。」
オオクニヌシは微笑んだ。
オオクニヌシ:
「物語とは、そういうものなのでしょう。」
稗田阿礼:
「怖いですね。」
オオクニヌシ:
「ええ。
だから大切なのです。」
アマテラスがオオクニヌシを見る。
アマテラス:
「一つ聞いてもいいですか。」
オオクニヌシ:
「どうぞ。」
アマテラス:
「今、同じ選択を求められたら、あなたは国を譲りますか。」
誰も動かなかった。
オオクニヌシは長い時間をかけて考えた。
そして答えた。
オオクニヌシ:
「同じ条件なら、たぶん譲ります。」
建御名方神が驚く。
建御名方神:
「父上。」
オオクニヌシは息子を見る。
オオクニヌシ:
「お前が生き残るなら。」
建御名方神の表情が止まる。
オオクニヌシ:
「事代主も生きる。
人々も生きる。
私たちがいた記憶も残る。」
少し間を置く。
オオクニヌシ:
「王であり続けることより、大事なものがある。」
建御名方神は何も言えなかった。
アマテラスも静かに目を伏せた。
稗田阿礼は、その言葉を心の中に刻んだ。
しかし、一つ大きな問題が残っている。
国を譲った。
高天原側が地上へ進出する。
そして次に起きるのは、
天から新しい統治者が降りてくること。
稗田阿礼はアマテラスを見る。
稗田阿礼:
「国譲りが終わっても、物語は終わりません。」
アマテラスが頷く。
稗田阿礼:
「次に、あなたの孫が地上へ降ります。」
オオクニヌシが静かに顔を上げた。
稗田阿礼:
「ニニギ様です。」
アマテラスは何も言わない。
稗田阿礼:
「ですが、ここでまた新しい問いが生まれます。」
ゆっくりと言葉を置く。
稗田阿礼:
「地上にはすでに国があった。
神々もいた。
人々も暮らしていた。
それなのに、なぜ天から来た者が治める必要があったのでしょうか。」
オオクニヌシが小さく言った。
オオクニヌシ:
「そこまで聞くのですね。」
稗田阿礼:
「ここまで来た以上、聞かなければなりません。」
アマテラスが静かに答えた。
アマテラス:
「では、ニニギを呼びましょう。」
トピック4: 天孫降臨 なぜ天から来た者が治めるのか?

登場人物
稗田阿礼
今回の司会。国譲りの後に続く天孫降臨の意味を問い直す。
ニニギ
アマテラスの孫。高天原から地上へ降り、統治の系譜を受け継ぐ。
アマテラス
ニニギを地上へ送り出す側に立つ太陽神。
オオクニヌシ
国作りを行い、その国を高天原側へ譲った神。
スサノオ
高天原から追放され、地上へ降りた経験を持つ神。天津神と国津神の境界に立つ存在。
オープニング
国譲りについての対話が終わった後も、誰もすぐには席を立たなかった。
オオクニヌシは静かに座っている。
アマテラスも、何かを考えているようだった。
稗田阿礼は二人の間に残った言葉を思い返していた。
国を譲る。
国を一つにする。
記憶を残す。
そのすべてが終わったかのように見えた。
けれども、物語はそこでは終わらない。
今度は、高天原から一人の神が地上へ降りてくる。
やがて、その人物が姿を現した。
若い。
まだ地上で何かを成し遂げたわけではない。
しかし、背負っているものだけは重い。
ニニギだった。
ニニギ:
「お呼びでしょうか。」
稗田阿礼が頷く。
稗田阿礼:
「はい。
あなたが地上へ降りる前に、一度ここで話しておきたいことがあります。」
ニニギはアマテラスを見る。
ニニギ:
「祖母上も。」
アマテラス:
「ええ。」
その時、後ろから声がした。
スサノオ:
「俺もいるぞ。」
ニニギが振り向く。
ニニギ:
「スサノオ様。」
スサノオ:
「そんな固くなるな。
俺も一応、お前の一族の話に関係ある。」
オオクニヌシがスサノオを見る。
オオクニヌシ:
「かなり関係あります。」
スサノオ:
「そうだったな。」
稗田阿礼が場を整える。
稗田阿礼:
「前の対話では、オオクニヌシ様が国を譲りました。
高天原側は、その国を受け取ることになります。
そして、その後にニニギ様が地上へ降る。」
ニニギが頷く。
稗田阿礼:
「ですが、一つ不思議なのです。」
ニニギが見る。
稗田阿礼:
「あなたが降りる場所は、空白ではありません。」
沈黙。
稗田阿礼:
「そこにはすでに神々がいる。
人々がいる。
暮らしがある。
国作りも行われている。
その場所へ、あなたは『治める者』として降りてくる。」
オオクニヌシが静かにニニギを見る。
稗田阿礼:
「今日はその意味を考えたいのです。
なぜ、天から来た者が地上を治めるのでしょうか。」
第一の問い
ニニギは、何を受け継いだのでしょうか?
稗田阿礼:
「ニニギ様。
最初にお尋ねします。
あなたは地上へ降りる時、何を受け取ったと思っていますか。」
ニニギは少し考えた。
ニニギ:
「使命です。」
稗田阿礼:
「土地ではない?」
ニニギ:
「土地も含まれているのだと思っていました。」
オオクニヌシの表情が少し変わる。
ニニギはそれに気づいた。
ニニギ:
「言い方が良くなかったかもしれません。」
オオクニヌシ:
「続けてください。」
ニニギ:
「私は、高天原から地上へ降り、その地を治めるよう命じられました。
ですから、そこには私が受け継ぐべき国があるのだと思っていました。」
オオクニヌシが尋ねる。
オオクニヌシ:
「誰から受け継ぐのですか。」
ニニギは少し止まる。
ニニギ:
「祖母上から。」
オオクニヌシがアマテラスを見る。
オオクニヌシ:
「その国は、アマテラス様のものだったのでしょうか。」
空気が静かになる。
アマテラスが答える。
アマテラス:
「国譲りによって、高天原側が統治を受け継ぐことになりました。」
オオクニヌシ:
「統治を。」
アマテラス:
「ええ。」
オオクニヌシ:
「土地そのものを所有したわけではない。」
アマテラスは少し間を置く。
アマテラス:
「そう言われれば、その通りです。」
稗田阿礼がニニギを見る。
稗田阿礼:
「ではニニギ様。
あなたが受け継いだのは、国そのものではなく、統治する役割だったのではありませんか。」
ニニギは考える。
ニニギ:
「役割。」
稗田阿礼:
「責任、と言い換えてもいいかもしれません。」
スサノオが笑う。
スサノオ:
「それなら重たいぞ。」
ニニギが見る。
スサノオ:
「土地をもらう話だと思って降りるのと、責任を引き受ける話だと思って降りるのじゃ、全然違う。」
ニニギ:
「スサノオ様は地上へ降りた経験がありますね。」
スサノオ:
「俺の場合は追放だけどな。」
ニニギが少し笑う。
スサノオ:
「でも地上に降りて分かったことはある。」
ニニギ:
「何でしょう。」
スサノオ:
「上から見てる時と、下に降りた時じゃ、国の見え方が違う。」
オオクニヌシが静かに頷く。
スサノオ:
「高天原から見れば『地上』だ。
でも地上にいるやつにとっては、そこが全部なんだよ。」
ニニギは黙る。
スサノオ:
「山がある。
川がある。
家族がいる。
墓がある。
思い出がある。
そこで生まれて、そこで死ぬ。
そいつらにとって、そこは『高天原から与えられた土地』じゃない。」
稗田阿礼がニニギを見る。
稗田阿礼:
「それを知った上で、あなたは降りることになります。」
ニニギは少し緊張した表情になる。
ニニギ:
「それなら、私は国を受け取るのではなく、国に迎え入れてもらう側なのかもしれません。」
オオクニヌシが初めて少し笑った。
オオクニヌシ:
「その言葉なら、私は聞けます。」
アマテラスもニニギを見る。
アマテラス:
「それは大切な違いですね。」
第二の問い
天津神と国津神の違いは、何を意味するのでしょうか?
稗田阿礼はスサノオへ視線を向けた。
稗田阿礼:
「次の問いでは、スサノオ様に大きく関わっていただきたいと思います。」
スサノオ:
「嫌な予感するな。」
稗田阿礼:
「天津神と国津神についてです。」
スサノオは少し笑う。
スサノオ:
「やっぱりな。」
稗田阿礼:
「天にいる神々。
地上にいる神々。
古事記には、この違いがあります。」
オオクニヌシが口を開く。
オオクニヌシ:
「そして、国譲りでは天側が地上側へ来る。」
稗田阿礼:
「はい。」
スサノオが腕を組む。
スサノオ:
「でも俺を見れば、その分け方がそんなに綺麗じゃないのが分かるだろ。」
ニニギが尋ねる。
ニニギ:
「どういう意味ですか。」
スサノオ:
「俺は元々どこにいた。」
ニニギ:
「高天原。」
スサノオ:
「それで追い出された。」
ニニギ:
「地上へ。」
スサノオ:
「そこでクシナダヒメと結ばれた。
その先にオオクニヌシがいる。」
オオクニヌシが頷く。
スサノオ:
「じゃあ俺は何だ。
天津神か。
国津神か。」
ニニギは答えられない。
スサノオ:
「境目なんて、思ってるより曖昧なんだよ。」
アマテラスが言う。
アマテラス:
「それでも、高天原と地上には役割の違いがありました。」
スサノオ:
「役割の違いなら分かる。」
アマテラスを見る。
スサノオ:
「でも、いつからそれが上下になった。」
アマテラスの表情が止まる。
スサノオ:
「天にいるから上。
地上にいるから下。
それ、本当に最初からそうだったのか。」
稗田阿礼が静かに続ける。
稗田阿礼:
「場所の違いが、価値の違いに変わったのではないか。
そういう問いですね。」
スサノオ:
「そう。」
オオクニヌシが言う。
オオクニヌシ:
「地上には地上の知恵があります。」
ニニギがオオクニヌシを見る。
オオクニヌシ:
「山をどう越えるか。
川がいつ増水するか。
どの土地で何が育つか。
どの神を恐れるべきか。
どの季節に何を祭るか。」
少し間を置く。
オオクニヌシ:
「高天原から降りてきた者が、それを最初から知っているわけではない。」
ニニギが頷く。
ニニギ:
「確かに。」
オオクニヌシ:
「だから、もしあなたが地上を治めるなら、地上から学ばなければならない。」
ニニギ:
「教えていただけますか。」
オオクニヌシはすぐには答えなかった。
オオクニヌシ:
「それはあなた次第です。」
ニニギ:
「どういう意味でしょう。」
オオクニヌシ:
「『私は天から来た。だから従え』と言う者に、誰が心から教えるでしょう。」
ニニギは黙る。
オオクニヌシ:
「『私は知らない。だから教えてほしい』と言えるなら、話は違う。」
ニニギは深く頷いた。
ニニギ:
「覚えておきます。」
スサノオが笑う。
スサノオ:
「お前、思ってたより素直だな。」
ニニギ:
「まだ何も知らないので。」
スサノオ:
「それを自覚してるなら、俺よりだいぶマシだ。」
アマテラスが小さく笑った。
アマテラス:
「そこは否定しません。」
スサノオ:
「姉ちゃん、最近遠慮なくなってきたな。」
場に少し笑いが生まれた。
第三の問い
統治する権利は、どこから来るのでしょうか?
笑いが収まった後、稗田阿礼は最後の問いを置いた。
稗田阿礼:
「ここまで話してきて、避けられない問いがあります。」
ニニギが阿礼を見る。
稗田阿礼:
「ニニギ様。
あなたが地上を治める権利は、どこから来るのでしょうか。」
ニニギは少し戸惑う。
ニニギ:
「祖母上から命を受けました。」
稗田阿礼:
「それは高天原から見た答えです。」
ニニギが黙る。
稗田阿礼:
「地上に住む者から見た答えは?」
オオクニヌシが静かにニニギを見る。
ニニギは考える。
ニニギ:
「受け入れてもらわなければ、本当の意味では治められない。」
オオクニヌシ:
「それはかなり大事な答えです。」
アマテラスが尋ねる。
アマテラス:
「では神意だけでは足りないと?」
オオクニヌシが答える。
オオクニヌシ:
「神意を否定しているわけではありません。」
アマテラス:
「では。」
オオクニヌシ:
「統治する者と、統治される者の関係がなければ、権威はあっても国は成り立たないと思うのです。」
稗田阿礼が尋ねる。
稗田阿礼:
「では、正統性は何から生まれるのでしょう。」
誰もすぐには答えない。
スサノオが先に口を開いた。
スサノオ:
「強さ。」
アマテラスが見る。
スサノオ:
「いや、強さだけじゃ足りないのは分かってる。
でも強さが全くないやつに国は守れないだろ。」
オオクニヌシが頷く。
オオクニヌシ:
「一つの要素ではあるでしょう。」
アマテラス:
「血統もある。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「でも血だけなら俺も入る。」
アマテラス:
「あなたはすぐそれを言いますね。」
スサノオ:
「便利だからな。」
ニニギが考えながら言う。
ニニギ:
「能力も必要ではないでしょうか。」
オオクニヌシ:
「必要でしょう。」
ニニギ:
「人々の信頼も。」
オオクニヌシ:
「それも。」
稗田阿礼:
「では、どれか一つではない。」
オオクニヌシ:
「私はそう思います。」
アマテラス:
「神意。
血統。
能力。
力。
信頼。
伝統。」
稗田阿礼が続ける。
稗田阿礼:
「そして物語。」
全員が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「人々が、その者を『治めるにふさわしい』と思う理由を説明する物語。」
アマテラスが静かに頷く。
アマテラス:
「前の対話でも出ましたね。」
稗田阿礼:
「はい。」
ニニギが少し不安そうに尋ねる。
ニニギ:
「では、私は自分の物語によって治めることになるのでしょうか。」
稗田阿礼は答えず、オオクニヌシを見る。
オオクニヌシがニニギに言う。
オオクニヌシ:
「最初はそうかもしれません。」
ニニギ:
「最初は?」
オオクニヌシ:
「祖母が誰か。
どこから来たか。
何を受け継いだか。
そういう物語が、あなたを地上へ連れてくる。」
ニニギは聞いている。
オオクニヌシ:
「でも、それだけでは長く続かない。」
ニニギ:
「では何が必要でしょう。」
オオクニヌシ:
「あなたが、地上で何をするかです。」
ニニギの表情が変わる。
オオクニヌシ:
「生まれは選べない。
与えられた肩書きもある。
でも、その後の行いは自分で選ぶ。」
スサノオが笑う。
スサノオ:
「それは俺にも刺さるな。」
アマテラス:
「私にも。」
オオクニヌシが二人を見る。
オオクニヌシ:
「神であっても、物語の中では行いを見られるのでしょう。」
稗田阿礼が言う。
稗田阿礼:
「それなら正統性は、受け継ぐだけでは完成しない。」
ニニギ:
「自分で作っていくものでもある。」
オオクニヌシ:
「そう思います。」
ニニギは静かに頷いた。
もう一つの問い
ニニギは「征服者」なのでしょうか?
稗田阿礼は、本来予定していた三つの問いを終えた後も、まだ一つ残っているように感じた。
稗田阿礼:
「ここで、予定にはなかった質問を一つしてもよろしいでしょうか。」
ニニギが頷く。
ニニギ:
「どうぞ。」
稗田阿礼:
「もし後の世の人が、あなたを見てこう言ったらどうしますか。」
少し間を置く。
稗田阿礼:
「『ニニギは天から来た征服者だった』と。」
空気が変わった。
アマテラスが阿礼を見る。
オオクニヌシは何も言わない。
ニニギは長く考えた。
ニニギ:
「私は、そう呼ばれたいとは思いません。」
稗田阿礼:
「では違うと?」
ニニギ:
「分かりません。」
アマテラスが少し驚く。
アマテラス:
「分からない?」
ニニギ:
「私はまだ地上へ降りる前です。」
ニニギはオオクニヌシを見る。
ニニギ:
「もし私が、そこにいる者たちの話を聞かず、天から来たことだけを理由に従わせるなら、そう呼ばれても仕方がないかもしれません。」
オオクニヌシは黙って聞く。
ニニギ:
「けれども、もし地上の者たちと共に新しい秩序を作ることができたなら、それは違う意味になるかもしれない。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「結局、降りた後のお前次第ってことだな。」
ニニギ:
「はい。」
アマテラスは孫を見つめた。
アマテラス:
「私はあなたに使命を与えます。
でも、その使命をどう果たすかまで、すべて私が決めるべきではないのかもしれません。」
ニニギが祖母を見る。
ニニギ:
「祖母上。」
アマテラス:
「地上へ降りたら、地上を見なさい。」
オオクニヌシが静かに言う。
オオクニヌシ:
「その言葉なら、私も送り出せます。」
クロージング
稗田阿礼は、これまでの対話を静かに振り返った。
国譲りが終わった。
高天原側が統治を引き受ける。
そしてニニギが降りる。
古事記では、それは壮大な天孫降臨として語られる。
けれども今日、この場で見えてきたのは別の姿だった。
天から来る者にも、不安がある。
受け継いだものが何なのか、自分でも完全には分からない。
土地を与えられたと思っていた。
しかし実際には、責任を引き受けるのかもしれない。
統治権を受け継いだと思っていた。
しかし、その正統性は地上での行いによって初めて形になるのかもしれない。
稗田阿礼が言った。
稗田阿礼:
「今日、私は『なぜ天から来た者が治めるのか』と尋ねました。」
ニニギが阿礼を見る。
稗田阿礼:
「でも最後に分かったのは、天から来たことだけでは、答えにならないということでした。」
オオクニヌシが頷く。
稗田阿礼:
「神意がある。
血統がある。
使命がある。
それでも、地上に降りた後の行いが問われる。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「神だろうが同じだ。」
アマテラスが静かに言葉を重ねる。
アマテラス:
「受け継ぐことと、ふさわしくあることは同じではない。」
ニニギは、その言葉をしばらく聞いていた。
そして言った。
ニニギ:
「では私は、天から何かを持っていくのではなく、地上で何かを学ぶためにも降りるのだと思っておきます。」
オオクニヌシが微笑む。
オオクニヌシ:
「その方が、長く続くでしょう。」
稗田阿礼は、そこでもう一つのことに気づいた。
ここまでの対話で何度も出てきた言葉。
正統。
血統。
使命。
国譲り。
天孫降臨。
そのすべては、今ここにいる神々自身が書き残したものではない。
誰かが語った。
誰かが覚えた。
誰かがまとめた。
そして、誰かが一冊の物語にした。
稗田阿礼の表情が変わった。
稗田阿礼:
「ここまで来た以上、最後に私たち自身が向き合わなければならないことがあります。」
アマテラスが尋ねる。
アマテラス:
「何でしょう。」
阿礼は少し迷った。
なぜなら、次の問いは自分自身にも向けられるからだった。
稗田阿礼:
「私たちはここまで、『古事記の中で何が起きたのか』を話してきました。」
オオクニヌシが見る。
稗田阿礼:
「でも、まだ聞いていません。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「何を。」
阿礼はゆっくり答えた。
稗田阿礼:
「なぜ、この物語はこの形で残されたのか。」
誰も口を開かなかった。
稗田阿礼:
「アマテラス様が中心になる。
スサノオ様が追放される。
オオクニヌシ様が国を譲る。
ニニギ様が天から降りる。」
一つずつ名前を挙げる。
稗田阿礼:
「誰が、この順序で語ることを決めたのでしょう。」
アマテラスが静かに阿礼を見る。
アマテラス:
「それは、あなたではないのですか。」
阿礼は首を振った。
稗田阿礼:
「私一人ではありません。」
オオクニヌシが尋ねる。
オオクニヌシ:
「では誰です。」
稗田阿礼は答えた。
稗田阿礼:
「次は、その人物たちをここへ呼びましょう。」
遠くから、人間の足音が聞こえてくる。
神ではない。
天から降りてくる者でもない。
この物語を残そうとした人間たち。
天武天皇。
そして太安万侶。
神々が初めて、
自分たちを書いた人間
と向き合う。
トピック5: 神話を書いたのは誰か?

登場人物
稗田阿礼
今回の司会であり、同時に問いを受ける側でもある。伝承を記憶し、古事記成立の重要な位置にいた人物。
天武天皇
古事記編纂につながる事業を始めた人物。国の系譜と伝承を整理しようとした。
太安万侶
元明天皇の命を受け、稗田阿礼の誦習した内容をまとめ、古事記を書き記した人物。
アマテラス
古事記の中心に位置づけられ、その系統が皇統へつながる神。
スサノオ
高天原から追放され、地上で別の系譜を形成した神。
オオクニヌシ
国作りを行い、最終的に国を譲った神。
イザナミ
国生みの母であり、後には黄泉の国と死に結びつく存在。
オープニング
場の空気が変わっていた。
これまでここで語っていたのは神々だった。
国を生んだ者。
国を作った者。
国を譲った者。
天から降りた者。
けれども今日は違う。
神々の向かい側に、人間が座っている。
天武天皇。
太安万侶。
そして、その二人の間に稗田阿礼がいる。
スサノオは珍しく冗談を言わなかった。
オオクニヌシも黙っていた。
アマテラスは天武天皇をじっと見ている。
最初に口を開いたのは稗田阿礼だった。
稗田阿礼:
「今日が最後の対話です。」
少し間を置く。
稗田阿礼:
「ここまで私たちは、古事記の中で何が起きたのかを語ってきました。
国生み。
黄泉。
天岩戸。
国作り。
国譲り。
天孫降臨。」
阿礼は天武天皇を見る。
稗田阿礼:
「しかし、今日は物語の中ではなく、その外側を見ます。」
天武天皇は静かに聞いている。
稗田阿礼:
「なぜ、この物語は一つにまとめられたのか。」
次に太安万侶を見る。
稗田阿礼:
「なぜ、この形で書かれたのか。」
そして神々を見る。
稗田阿礼:
「そして、物語の中にいる皆様自身が、それについてどう考えるのか。」
スサノオがようやく口を開く。
スサノオ:
「今日は俺たちが質問する側ってことか。」
稗田阿礼:
「そうなります。」
スサノオ:
「それは面白い。」
アマテラスが天武天皇に尋ねた。
アマテラス:
「では最初に、私から聞いてもよろしいでしょうか。」
天武天皇が頷く。
天武天皇:
「どうぞ。」
アマテラスは静かに問う。
アマテラス:
「なぜ私を、この国の物語の中心に置いたのですか。」
一瞬、場が完全に静かになった。
第一の問い
天武天皇は、なぜ日本の物語を一つにまとめようとしたのでしょうか?
天武天皇は、すぐには答えなかった。
神々の顔を一人ずつ見る。
そしてアマテラスに向き直る。
天武天皇:
「私があなたを生み出したわけではありません。」
アマテラス:
「それは分かっています。」
天武天皇:
「あなたについての伝承は、私よりはるか以前からありました。
スサノオについても。
オオクニヌシについても。
地方には地方の神々がいました。」
オオクニヌシが尋ねる。
オオクニヌシ:
「ならば、なぜ一つにまとめる必要があったのですか。」
天武天皇は少し考えた。
天武天皇:
「国が一つではなかったからです。」
スサノオが眉を上げる。
スサノオ:
「どういうことだ。」
天武天皇:
「人々は同じ言葉だけを話していたわけではない。
同じ神だけを信じていたわけでもない。
同じ伝承だけを持っていたわけでもない。
豪族には豪族の系譜がある。
土地には土地の神がいる。
それぞれに『自分たちはどこから来たのか』という物語がある。」
稗田阿礼が静かに聞いている。
天武天皇:
「その状態で国をまとめるには、武力だけでは足りません。」
オオクニヌシが反応する。
オオクニヌシ:
「物語が必要だった。」
天武天皇:
「そうです。」
スサノオが笑わずに尋ねる。
スサノオ:
「誰の物語だ。」
天武天皇は答える。
天武天皇:
「国全体の物語です。」
スサノオ:
「でも、その中心は姉ちゃんだ。」
天武天皇は黙る。
スサノオ:
「俺じゃない。
オオクニヌシでもない。
姉ちゃんの系統が最後に国を治める話だ。」
アマテラスはスサノオを見たが、止めなかった。
天武天皇:
「皇統の正統性を示す必要もありました。」
スサノオが小さく息を吐く。
スサノオ:
「やっぱりそこか。」
オオクニヌシが天武天皇に尋ねる。
オオクニヌシ:
「つまり、古事記は純粋に昔話を保存するためだけに作られたのではない。」
天武天皇:
「そうです。」
稗田阿礼が天武天皇を見る。
稗田阿礼:
「あなたはそれを認めるのですね。」
天武天皇:
「隠す理由はありません。」
場の空気が少し変わる。
天武天皇:
「国には、中心となる系譜が必要でした。
どの系譜がどこへつながるのか。
誰がどの祖先を持つのか。
誰が国を治めるのか。
それを整理する必要があった。」
アマテラスが尋ねる。
アマテラス:
「それで、私の系統が選ばれた。」
天武天皇:
「皇統につながる神として、あなたは中心に置かれました。」
アマテラスは少し目を伏せた。
アマテラス:
「私は、それを自分で選んだわけではありません。」
天武天皇:
「分かっています。」
アマテラス:
「では、後の人々が私を『国家の中心』として見る時、それは私自身と同じなのでしょうか。」
天武天皇は答えに迷った。
太安万侶が初めて口を開く。
太安万侶:
「同じではないと思います。」
全員が太安万侶を見る。
太安万侶:
「物語に書かれた神と、その後の時代が利用する神は、同じ姿のままではありません。」
アマテラスはその言葉を静かに聞いた。
第二の問い
一つの国には、一つの物語が必要なのでしょうか?
稗田阿礼が次の問いを置いた。
稗田阿礼:
「国を一つにするために、共通の物語が必要だった。
ここまでは分かりました。」
天武天皇が頷く。
稗田阿礼:
「でも、ここで問題があります。」
天武天皇:
「何でしょう。」
稗田阿礼:
「一つの国には、本当に一つの物語しか必要ないのでしょうか。」
オオクニヌシが阿礼を見る。
この問いは、前の対話から何度も現れていた。
スサノオが最初に話す。
スサノオ:
「俺は一つじゃなくていいと思う。」
アマテラスが見る。
スサノオ:
「姉ちゃん側から見た俺。
俺から見た姉ちゃん。
同じじゃないだろ。」
アマテラス:
「確かに。」
スサノオ:
「俺は高天原で迷惑をかけた。
それは姉ちゃんから見れば恐ろしい弟だっただろう。」
アマテラスは頷く。
スサノオ:
「でも俺から見れば、母に会いたくてどうしようもなかった時期でもある。」
イザナミの表情が変わる。
スサノオは母を見る。
スサノオ:
「まあ、そのせいで他人を傷つけていいわけじゃないけどな。」
イザナミが静かに答える。
イザナミ:
「ええ。」
オオクニヌシが続ける。
オオクニヌシ:
「国譲りも同じです。」
天武天皇が見る。
オオクニヌシ:
「高天原から見れば、統治の継承。
私から見れば、大きな決断。
建御名方から見れば抵抗。
事代主から見れば、戦争を避ける選択。」
少し間を置く。
オオクニヌシ:
「一つの出来事に、一つの物語しかない方が不自然です。」
天武天皇は黙っている。
稗田阿礼:
「それでも、あなたの時代には一本の物語へまとめる必要があった。」
天武天皇:
「そう考えていました。」
オオクニヌシ:
「今もそう考えますか。」
天武天皇はしばらく答えない。
天武天皇:
「難しい問いです。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「それは答えじゃないぞ。」
天武天皇は少し笑った。
天武天皇:
「神相手でも厳しいですね。」
スサノオ:
「今日だけはな。」
天武天皇は真剣な表情に戻る。
天武天皇:
「当時の私は、一つの中心が必要だと考えていました。
国が割れれば争いになる。
系譜が争えば皇位が揺れる。
地方の勢力がそれぞれ自分の正統性を主張すれば、国は安定しない。」
オオクニヌシが尋ねる。
オオクニヌシ:
「だから、一つにした。」
天武天皇:
「はい。」
オオクニヌシ:
「その時、消えた物語はありませんでしたか。」
天武天皇は答えない。
今度は太安万侶が口を開く。
太安万侶:
「あったでしょう。」
稗田阿礼が見る。
太安万侶:
「書くということは、選ぶということです。」
その言葉で場が静かになる。
太安万侶:
「何を残すか。
何を短くするか。
どの順番で置くか。
誰を中心にするか。
すべてを同じ重さで書くことはできません。」
オオクニヌシが尋ねる。
オオクニヌシ:
「では、書かれなかった者はどうなるのですか。」
太安万侶は少し苦しそうな表情をする。
太安万侶:
「後の世に残りにくくなります。」
オオクニヌシは静かに頷いた。
オオクニヌシ:
「それが、私が国譲りの時に恐れていたことです。」
アマテラスがオオクニヌシを見る。
前の対話で聞いた言葉を思い出していた。
忘れられること。
アマテラス:
「一つにすることには、代償があるのですね。」
稗田阿礼:
「あると思います。」
スサノオ:
「じゃあどうする。」
誰もすぐには答えない。
スサノオ:
「一つの国にする。
でも一つの物語にしすぎない。
そんなことできるのか。」
オオクニヌシが答える。
オオクニヌシ:
「後の人たちが、複数の声をもう一度探せばいい。」
天武天皇が見る。
オオクニヌシ:
「私たちの時代にはできなかったことを、後の時代ができるかもしれない。」
稗田阿礼が静かに頷いた。
第三の問い
神話は「事実」でなければ価値がないのでしょうか?
稗田阿礼は、最後の問いを口にする前に長く黙った。
これまでの全ての対話が、この問いへつながっていた。
稗田阿礼:
「最後に、一番難しいことを聞きます。」
アマテラスが見る。
稗田阿礼:
「神話は、歴史的事実でなければ価値がないのでしょうか。」
誰もすぐには答えなかった。
イザナミが最初に話す。
イザナミ:
「もし私が、本当に島を一つずつ身体から生んでいなかったとしたら、私の物語には意味がなくなるのでしょうか。」
稗田阿礼は首を振らない。
答えを誘導しない。
イザナミが続ける。
イザナミ:
「私は国を生んだ母として語られます。
その物語を通して、大地を生命のように見る人がいるかもしれない。」
アマテラスが言う。
アマテラス:
「私が本当に岩戸に隠れたかどうかだけが重要なのでしょうか。」
スサノオが見る。
アマテラス:
「光が失われる。
人々が協力する。
笑いが生まれる。
そして光が戻る。」
アマテラスは少し微笑む。
アマテラス:
「それを何かの象徴として受け取る人もいるでしょう。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「俺のヤマタノオロチだってそうだな。」
稗田阿礼:
「どう思いますか。」
スサノオ:
「本当に八つの頭がある大蛇がいたかどうか。
それだけ調べるのも面白い。
でも、怪物を倒して誰かを助ける話として残っている意味もある。」
オオクニヌシが続ける。
オオクニヌシ:
「国譲りもそうでしょう。」
稗田阿礼が見る。
オオクニヌシ:
「実際にどんな政治的出来事があったのか。
それは研究すべきです。」
少し間を置く。
オオクニヌシ:
「でも、国を譲る物語が何百年も残ったという事実自体にも意味がある。」
太安万侶が頷く。
太安万侶:
「神話には、事実とは別の真実があるのかもしれません。」
スサノオが眉を上げる。
スサノオ:
「事実と真実は違うのか。」
太安万侶:
「違うことがあります。」
スサノオ:
「例えば。」
太安万侶は考える。
太安万侶:
「ある家族が、何十年も前の出来事を語るとします。
細かい日付は間違っているかもしれない。
誰が最初に何を言ったかも違っているかもしれない。」
稗田阿礼が聞く。
太安万侶:
「でも、その家族が何を大切にしてきたか。
何を恐れてきたか。
何を誇りにしてきたか。
そこには、その家族についての真実が残っていることがある。」
オオクニヌシがゆっくり頷く。
オオクニヌシ:
「国も同じか。」
太安万侶:
「私はそう思います。」
天武天皇がここで口を開く。
天武天皇:
「しかし、それは神話を歴史的事実として扱ってよいという意味ではありません。」
稗田阿礼が天武天皇を見る。
天武天皇:
「そこは分けるべきでしょう。」
アマテラスが言う。
アマテラス:
「私を信仰することと、私について書かれたすべてを歴史上の出来事として証明することは別。」
稗田阿礼:
「はい。」
スサノオが笑う。
スサノオ:
「やっとすっきりしたな。」
稗田阿礼:
「何がですか。」
スサノオ:
「神話を大切にするために、全部事実だと言い張る必要はないってことだろ。」
イザナミが頷く。
イザナミ:
「私もそう思います。」
神々から人間への問い
稗田阿礼は、これで終わりにしようとした。
しかしアマテラスが手を上げた。
アマテラス:
「もう一つだけ。」
稗田阿礼が頷く。
アマテラス:
「今度は、私たちから質問してもいいでしょうか。」
稗田阿礼:
「もちろんです。」
アマテラスは天武天皇を見る。
アマテラス:
「あなたは、私を国の中心に置いた。」
天武天皇:
「はい。」
アマテラス:
「もし後の時代に、私の名前を使って、人々が自由に考えることを止めようとする者が現れたら?」
天武天皇は黙る。
スサノオも表情を変えた。
アマテラス:
「『アマテラスがこう言ったから疑ってはいけない』
『神の国だから従わなければならない』
そう言われたら、あなたはどう思いますか。」
天武天皇は長く考えた。
天武天皇:
「私が作ろうとした秩序と、思考を止めることは同じではありません。」
アマテラス:
「でも物語には、そのように使われる可能性がある。」
天武天皇:
「あります。」
アマテラスは頷いた。
アマテラス:
「では、物語を作る人間には、その後の使われ方まで考える責任があるのではありませんか。」
天武天皇は答えた。
天武天皇:
「あると思います。」
今度はスサノオが太安万侶を見る。
スサノオ:
「俺からも一つ。」
太安万侶:
「はい。」
スサノオ:
「お前、俺の悪いところいっぱい書いたな。」
太安万侶が少し困った顔をする。
太安万侶:
「伝承にありましたので。」
スサノオ:
「まあいい。」
場に少し笑いが生まれる。
スサノオ:
「でも俺がその後変わったところも残した。」
太安万侶:
「はい。」
スサノオ:
「ありがとう。」
太安万侶が驚く。
スサノオ:
「人間もそうしてやれよ。」
太安万侶:
「どういう意味でしょう。」
スサノオ:
「一番悪かった瞬間だけで、そいつ全部を決めるな。」
場が静かになる。
アマテラスが弟を見る。
スサノオは照れたように視線を外した。
次にオオクニヌシが稗田阿礼を見る。
オオクニヌシ:
「阿礼。」
稗田阿礼:
「はい。」
オオクニヌシ:
「あなたは私の物語を覚えた。」
稗田阿礼:
「はい。」
オオクニヌシ:
「私が国を譲ったことも。」
稗田阿礼:
「はい。」
オオクニヌシ:
「それなら、後の人に一つだけ伝えてください。」
稗田阿礼が待つ。
オオクニヌシ:
「『譲った』という一言の前に、長い物語があったことを忘れないでほしい。」
稗田阿礼は深く頷いた。
最後の問い
この物語は、誰のものなのでしょうか?
稗田阿礼は、もう終わる時間だと分かっていた。
しかし最後に一つだけ残っている。
Part 1が始まった時から、ずっと奥にあった問い。
稗田阿礼:
「最後に、皆様に同じ質問をします。」
全員が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「古事記は誰のものなのでしょうか。」
最初に天武天皇が答える。
天武天皇:
「私のものではありません。」
太安万侶が続ける。
太安万侶:
「私のものでもありません。」
稗田阿礼が自分で言う。
稗田阿礼:
「私のものでもない。」
アマテラスが静かに答える。
アマテラス:
「私だけの物語でもありません。」
スサノオが言う。
スサノオ:
「俺たち神だけのものでもないだろ。」
オオクニヌシが皆を見る。
オオクニヌシ:
「読む人のものでもあるのではありませんか。」
稗田阿礼が尋ねる。
オオクニヌシ:
「物語は書かれた時に終わらない。
読む者が問い直す。
別の角度から見る。
忘れられていた声を探す。
そうして続いていく。」
イザナミが微笑む。
イザナミ:
「子供と同じですね。」
稗田阿礼が見る。
イザナミ:
「生んだからといって、永遠に自分のものではない。」
その言葉に、Topic 1の最初の問いが戻ってきた。
国を生む。
国を作る。
国を治める。
国の物語を書く。
そして最後には、その物語さえ手放される。
クロージング
稗田阿礼は立ち上がった。
目の前には神々と人間がいる。
この組み合わせは、現実には存在しない。
けれども、問いだけは現実に残る。
稗田阿礼:
「私たちは最初、日本がどう生まれたのかを話しました。」
イザナミを見る。
「国は生まれた。」
オオクニヌシを見る。
「その国は作られた。」
アマテラスを見る。
「誰が治めるのかが問われた。」
ニニギは今日ここにはいない。
しかし、その姿を思い浮かべる。
「天から新しい統治者が降りた。」
そして天武天皇と太安万侶を見る。
「最後に、そのすべてが一つの物語として書かれた。」
稗田阿礼は一呼吸置いた。
稗田阿礼:
「しかし今日、私たちが見つけたのは、一つの答えではありませんでした。」
スサノオが腕を組む。
稗田阿礼:
「アマテラス様だけが正しいわけでもない。
スサノオ様だけが間違っているわけでもない。
オオクニヌシ様がただ敗れたわけでもない。
天武天皇がただ物語を捏造したわけでもない。」
天武天皇が静かに阿礼を見る。
稗田阿礼:
「それぞれに立場がありました。
恐れがありました。
目的がありました。
失いたくないものがありました。」
アマテラスが静かに言う。
アマテラス:
「それでも、物語は一つの形で残った。」
稗田阿礼:
「はい。」
オオクニヌシが続ける。
オオクニヌシ:
「だから後の人が、もう一度開けばいい。」
稗田阿礼:
「そう思います。」
阿礼は、まだ見ぬ後の時代へ向かって語るように言った。
稗田阿礼:
「神話を信じる人もいるでしょう。
文学として読む人もいるでしょう。
歴史の手がかりとして研究する人もいるでしょう。
政治的な物語として疑う人もいるでしょう。」
少し間を置く。
稗田阿礼:
「どの読み方をしてもいい。
ただ一つだけ、忘れないでほしいことがあります。」
皆が阿礼を見る。
稗田阿礼:
「物語には力があります。」
天武天皇が静かに頷く。
稗田阿礼:
「人を結びつける力。
土地を故郷に変える力。
祖先と子孫をつなぐ力。」
オオクニヌシを見る。
「忘れられた者を残す力。」
スサノオを見る。
「誰かを悪者にする力。」
アマテラスを見る。
「誰かを神聖な存在にする力。」
そして天武天皇を見る。
「国を一つにする力。」
さらに続ける。
稗田阿礼:
「だからこそ、物語には問い続ける責任もあるのだと思います。」
長い沈黙。
最後に、稗田阿礼は一つの問いを残した。
稗田阿礼:
「日本という国の物語は、誰のものなのでしょうか。」
誰も答えなかった。
今度は、その沈黙が正しかった。
答えるのは、この場にいる神でも人間でもない。
その物語をこれから読む人たちだからだ。
Part 1 完
『古事記』を神々自身に問い直す
日本は誰の物語なのか?
最後に

最後に考えたいこと
古事記について語る時、私たちはどうしてもアマテラス、スサノオ、ヤマタノオロチ、因幡の白兎、国譲り、天孫降臨といった有名な場面に目を奪われます。
しかし今回、神々に問い返してもらうことで、別の古事記が見えてきました。
国の始まりは「所有」ではなかった
イザナギとイザナミは、日本列島を征服したのではありません。
物語の中では、島々を生みます。
この表現は大きいと思います。
子供を生んだからといって、その子供を永遠に所有できるわけではありません。
もし土地も同じだと考えるなら、
「誰の国なのか」
という問いそのものが変わってきます。
土地は王より長く存在します。
政権より長い。
家系より長い。
人間は土地を永遠に所有する存在ではなく、ある期間だけ預かっている存在なのかもしれません。
古事記は「死」についても語っている
古事記は国家の誕生だけを説明する物語ではありません。
イザナミは火の神を生んで命を失い、黄泉の国へ行きます。
イザナギは妻を取り戻そうとして黄泉へ向かう。
しかし二人は最後には別れます。
そしてイザナミは、
一日に千人を死なせる。
イザナギは、
それなら一日に千五百人を生ませる。
そう応じる。
ここには非常に強い生命観があります。
死を消すことはできない。
しかし、生が死を上回れば世界は続いていく。
古事記の世界では、生と死は完全な敵ではありません。
死が存在する世界の中で、それでも生命が続いていく。
国の物語が、同時に生命そのものの物語になっています。
古事記の中心には強い女性神がいる
イザナミ。
アマテラス。
この二柱を抜きにして古事記の中心部分は成立しません。
イザナミは国を生みます。
生命を生みます。
しかし死の世界にもつながります。
アマテラスは太陽神です。
高天原の中心に立ちます。
しかし天岩戸では、自ら世界から姿を消す。
古事記の女性神は、単純な「優しい母」でも「美しい女神」でもありません。
生み出す。
怒る。
拒絶する。
悲しむ。
世界に光を与える。
その光を消すことさえある。
古事記の女性像を見るだけでも、この神話が単純な英雄物語ではないことが分かります。
スサノオは、一度の失敗で終わらない
今回の対話で最も人間的だった存在の一人が、スサノオでした。
高天原では大きな問題を起こします。
アマテラスを傷つける。
周囲にも被害を与える。
その事実は消えません。
けれども地上へ降りた後、彼はヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを救います。
破壊者だった存在が、救う者にもなる。
この変化には大きな意味があります。
人は、一番悪かった瞬間だけで一生を決められるべきなのでしょうか。
反対に、一度英雄になったから、その後ずっと正しいとも限りません。
古事記の神々は、驚くほど不完全です。
だからこそ、人間に近い。
そして、不完全だからこそ変わることができます。
国譲りは、一つの言葉では収まらない
「国譲り」
この四文字だけを見ると、平和的に国を渡したようにも聞こえます。
しかし物語の中には複数の立場があります。
事代主は受け入れる。
建御名方は抵抗する。
建御雷神は命を受けてやって来る。
アマテラス側には、国を一つの秩序へつなげたい理由がある。
オオクニヌシには、自分が作ってきた国と、その記憶を守りたい思いがある。
同じ出来事でも、立つ場所によって意味が変わる。
それは神話だけの問題ではありません。
家族でも、会社でも、国家でも起こります。
ある人にとって「統合」だった出来事が、別の人には「失った出来事」かもしれない。
ある人にとって「譲った」ことが、別の人には「譲らざるを得なかった」ことかもしれない。
歴史を見る時、一つの言葉だけで終わらせないことが大切なのだと思います。
天孫降臨で一番大切なのは「降りた後」
ニニギは天から地上へ降ります。
アマテラスの孫。
高い血統。
大きな使命。
しかし今回の対話では、そこを逆から見ました。
ニニギが降りる時、地上は空白ではありません。
人々がいる。
神々がいる。
暮らしがある。
記憶がある。
そこへ新しい統治者が来る。
ならば、本当に問われるのは、
「どこから来たか」
だけではありません。
降りた後に何をするか。
受け継いだ血統が、そのまま立派な統治を保証するわけではない。
正統性は、受け継ぐものでもあり、自分の行いによって作っていくものでもある。
ここには現代にも通じる強い問いがあります。
古事記の世界では、自然と神が離れていない
現代人は山を「山」と考えます。
川は「川」。
太陽は「太陽」。
火は「火」。
けれども古事記の世界では、それらが単なる物質ではありません。
太陽にはアマテラスがいる。
火には神がいる。
海にも神がいる。
山にも神がいる。
死の世界にも意味がある。
人間、自然、神々の境界が、現代よりずっと曖昧です。
これは古事記を理解する時に忘れたくないところです。
国を生む話も、自然を人間が所有する話ではない。
人間もまた、自然の中に生きる存在として描かれています。
そして最大の問いは「誰が物語を書くのか」
最後に、神々は天武天皇、稗田阿礼、太安万侶と向き合いました。
ここで古事記そのものが問いの対象になります。
物語を書くということは、選ぶことです。
誰を中心に置くのか。
何を詳しく書くのか。
何を短くするのか。
何を残すのか。
何を書かないのか。
完全に中立な物語は、おそらく存在しません。
しかし、だからといって物語に価値がないわけでもありません。
物語には、人を結びつける力があります。
故郷を作る力があります。
過去と未来をつなぐ力があります。
同時に、
誰かを英雄にする力。
誰かを悪者にする力。
誰かを忘れさせる力。
国家そのものを形作る力もあります。
だからこそ、物語は大切にすると同時に、問い直す必要があります。
最後の問い
古事記は、日本の始まりについて一つの大きな物語を残しました。
それをそのまま信じなければならないわけではありません。
すべてを否定する必要もありません。
神話として読む。
文学として読む。
宗教として読む。
古代史の手がかりとして読む。
政治的な物語として読む。
家族の物語として読む。
どこから読んでも、新しいものが見えてきます。
けれども今回、最後まで残った問いは一つでした。
日本という国の物語は、誰のものなのでしょうか。
天皇だけのものではない。
神々だけのものでもない。
昔の人だけのものでもない。
もしかすると、古事記を受け取り、問い直し、次の世代へ渡していく私たち自身も、その物語の続きを作っているのかもしれません。
そしてPart 2では、ここで神々が語ったことを、今度は歴史学、考古学、神話学、宗教学などの研究者たちに問い返します。
古事記のどこまでが神話なのか。
その背後に、どこまで歴史の記憶があるのか。
そして、私たちは今、この物語をどう読むべきなのか。
神々の対話が終わったところから、研究者たちの対話が始まります。
Short Bios:
イザナギ
イザナミとともに国生みを行った神。妻を失った後、黄泉の国まで追いかけるが、最後には別れる。禊からアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれる。
イザナミ
イザナギとともに日本の島々や多くの神を生んだ女神。火の神を生んだことで命を失い、黄泉の国へ向かう。生命と死の両方に深く関わる存在。
アマテラス
太陽を象徴する女神。高天原を治め、後にその系統が天孫降臨へつながる。伊勢神宮に祀られる中心的な神として知られる。
スサノオ
アマテラスの弟。高天原では激しい行動を起こして追放されるが、地上ではヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを救う。破壊と再生の両方を持つ神。
オオクニヌシ
地上で国作りを進める中心的な神。因幡の白兎など多くの物語に登場し、最終的には高天原側へ国を譲る。出雲と深く結びつく。
事代主神
オオクニヌシの子。国譲りの場面で、高天原側の要求を受け入れる立場を取る。
建御名方神
オオクニヌシの子。国譲りに抵抗し、建御雷神との力比べに敗れる。後に諏訪信仰とも深く結びつく神。
建御雷神
高天原から国譲りのために派遣された神。武神として知られ、国譲りの決定的な場面に関わる。
ニニギ
アマテラスの孫。天孫降臨によって高天原から地上へ降りる。後の皇統へ続く重要な位置に置かれる神。
稗田阿礼
『古事記』序文に登場する人物。優れた記憶力を持ち、帝紀や旧辞を誦習したと伝えられる。その内容が後の古事記編纂へつながった。
太安万侶
元明天皇の命を受け、稗田阿礼が伝えた内容を整理して『古事記』を撰録した人物。712年に古事記を献上したとされる。
天武天皇
7世紀後半の天皇。帝紀や旧辞を整理し、皇統や国家の伝承をまとめる事業を進めたと『古事記』序文に記されている。後の古事記編纂につながる出発点となった人物。

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