はじめに
強くなるとは、どういうことなのでしょうか
私たちは「強さ」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。
身体が強いこと。
精神的に動じないこと。
困難に負けないこと。
人より優れていること。
あるいは、どんな状況でも自分を保てること。
藤平光一もまた、若いころから「強さ」を求め続けた一人でした。
病弱だった少年時代。柔道による鍛錬。病気。禅やみそぎ。そして合気道の開祖、植芝盛平との出会い。
そこで藤平が目にしたのは、自分がそれまで考えていた「強さ」とはまったく違うものでした。
植芝盛平は、身体を固めて相手と力比べをするのではありません。
むしろ力が抜けている。
それなのに強い。
藤平にとって、それは大きな謎でした。
その後、戦場で生死と向き合う中、藤平は心の状態が身体や行動を大きく左右することを身をもって経験していきます。
そして中村天風との出会い。
そこで耳にした、
「心が身体を動かす」
という考えが、藤平の中で、それまで別々だった経験をつないでいきます。
植芝盛平の身体から学んだこと。
戦場で経験したこと。
中村天風から学んだ心の原理。
しかし藤平光一は、二人の偉大な師の教えをそのまま受け継ぐだけではありませんでした。
本当に正しいのか。
自分にもできるのか。
身体の大きな外国人にも通用するのか。
そして何より、特別な達人ではない普通の人にもできるのか。
藤平は自分自身で試し続けました。
その先に生まれたのが、心と身体を一つとして捉える「心身統一」であり、彼自身の「氣」の教えでした。
今回の架空の対話では、藤平光一、中村天風、植芝盛平の三人に、たった一つの問いを追いかけてもらいます。
本当の強さとは、どこから生まれるのでしょうか。
対話は三つのMovementを通して進みます。
第一の問いは、
「なぜ、力を抜くと強くなるのでしょうか?」
第二の問いは、
「心が身体を動かすとは、どういうことでしょうか?」
そして最後は、
「氣は、誰にでも使えるのでしょうか?」
武道に興味がない方にも、この対話を読んでいただきたいと思います。
なぜなら三人が語る「力」は、腕力だけの話ではないからです。
仕事で追い詰められたとき。
家族との関係がうまくいかないとき。
将来が不安になったとき。
年齢を重ね、以前できたことができなくなったとき。
人はしばしば、もっと頑張ろう、もっと強くなろうとして、さらに身体と心に力を入れてしまいます。
けれど藤平光一が長い人生を通して発見したものが、その反対だったとしたらどうでしょう。
強くなるために必要なのは、もっと力を入れることではなく、必要のない力を抜くことなのかもしれない。
三人の対話は、そこから始まります。
免責事項
本記事は、書籍『中村天風と植芝盛平 氣の確立』および、中村天風、植芝盛平、藤平光一に関する公開資料や思想・教えを参考に制作した架空の対話です。
記事内の会話は、実際に三人の間で交わされたものではありません。それぞれの人物の思想、著作、発言、人生経験などをもとに、テーマをより深く考えることを目的として創作・再構成しています。
実在の人物による発言として引用されている箇所以外のセリフは、本人の実際の言葉を示すものではありません。
本記事は、中村天風、植芝盛平、藤平光一、ならびに関連する団体・組織の公式見解を示すものではありません。
中村天風と植芝盛平 「氣の確立」 本当の強さは、どこから生まれるのか
夕暮れだった。
古い日本家屋の縁側から、庭の松が見えている。
風が葉を揺らす音がする。
畳の上には三人の男が座っていた。
中村天風。
植芝盛平。
そして藤平光一。
三人の前には湯呑みが置かれている。
しばらく誰も話さなかった。
藤平が庭を眺めながら、ふっと笑った。
藤平光一:
「先生方。考えてみれば、私はずっと強くなりたかったんですね。」
天風はすぐに藤平を見た。
中村天風:
「違うな。」
藤平が振り向く。
藤平:
「違いますか。」
天風:
「強くなりたかったんじゃない。自分は弱いと思っていたんだよ。」
藤平は一瞬黙った。
植芝が笑った。
植芝盛平:
「だから私のところへ来たのか。」
藤平:
「ええ。」
少し考えてから続けた。
藤平:
「でも先生、最初は疑っていました。」
植芝の目が細くなる。
植芝:
「知っていたよ。」
藤平:
「本当ですか。」
植芝:
「顔に書いてあった。」
天風が声を立てて笑った。
藤平も笑った。
しかし、その笑いが消えると、藤平は自分の手を見た。
藤平:
「私は身体が弱かった。だから柔道をやりました。身体を鍛えれば強くなれると思っていたんです。」
天風:
「それで?」
藤平:
「強くなりました。少なくとも、そう思っていました。」
藤平は少し間を置いた。
藤平:
「そして病気になった。」

天風は何も言わない。
藤平:
「あれはショックでした。身体を強くするために鍛えてきたのに、その身体が自分を裏切ったように感じた。」
天風:
「身体がお前を裏切ったのか?」
藤平が天風を見る。
天風:
「それとも、お前が身体というものを知らなかっただけなのか?」
藤平は苦笑した。
藤平:
「先生は昔からそうですね。」
天風:
「何がだ。」
藤平:
「こちらが答えを欲しがっているときに、質問を増やす。」
植芝が笑う。
植芝:
「いいじゃないか。質問がなくなったら、人間は止まる。」
藤平は植芝を見た。
藤平:
「そして私は、植芝先生に会いました。」
なぜ、力を抜くと強くなるのでしょうか?
藤平:
「先生に初めて会ったとき、私は不思議で仕方がなかったんです。」
植芝:
「何が?」
藤平:
「力を入れているように見えなかった。」
植芝は黙って聞いている。
藤平:
「それなのに強い。つかんでも、押しても、こちらの力が消えてしまうようだった。」

植芝:
「消えたんじゃない。」
藤平:
「では?」
植芝は湯呑みに手を伸ばした。
軽く持ち上げる。
植芝:
「お前が自分で使えなくしていたんだ。」
藤平が少し前に身を乗り出す。
藤平:
「力を入れることで?」
植芝は湯呑みを置いた。
植芝:
「この湯呑みを持つのに、全身を固くする必要があるか?」
藤平:
「ありません。」
植芝:
「では、人に触れた途端、なぜ固くなる?」
藤平は答えなかった。
天風が口を開いた。
天風:
「怖いからだよ。」
藤平が天風を見る。
天風:
「負けたくない。傷つきたくない。恥をかきたくない。自分を守りたい。」
天風は自分の肩を指した。
天風:
「その思いが、ここを固くする。」
次に胸を指す。
天風:
「ここも固くする。」
そして頭を指した。
天風:
「そして一番先に、ここが固くなっている。」
藤平は静かになった。
藤平:
「戦場でもそうでした。」
庭の空気が少し変わった。
植芝の表情から笑みが消える。
藤平:
「道場なら失敗しても、もう一度できます。」
誰も言葉を挟まない。
藤平:
「戦場では、できない。」
長い沈黙。
藤平:
「怖かったですよ。」
藤平は淡々と言った。
藤平:
「死にたくありませんから。」
天風がゆっくりうなずいた。
藤平:
「でも恐怖に支配されるほど、周囲が見えなくなる。身体も動かなくなる。判断も遅くなる。」
天風:
「恐怖をなくそうとしたのか?」
藤平:
「最初は。」
天風:
「なくなったか?」
藤平は首を振った。
藤平:
「なくなりません。」
天風が微笑んだ。
天風:
「それでいい。」
藤平:
「いいんですか?」
天風:
「恐怖を感じない人間になる必要なんかない。」
藤平はじっと天風を見る。
天風:
「恐怖に心を全部渡さなければいいんだ。」
植芝が静かに言った。
植芝:
「敵に勝とうとすると、敵しか見えなくなる。」
藤平:
「では、何を見るんです?」
植芝は庭を見た。
植芝:
「全部だ。」
藤平は笑った。
藤平:
「先生、その説明が昔から分かりにくかったんですよ。」
天風が吹き出した。
植芝も笑う。
植芝:
「そうか?」
藤平:
「そうです。」
三人の笑いが少し続いた。
やがて藤平が言った。
藤平:
「でも、今なら少し分かります。」
植芝が藤平を見る。
藤平:
「相手だけを見ていると、自分の心まで相手に取られてしまう。」
植芝は何も言わなかった。
ただ、わずかにうなずいた。
藤平:
「先生の身体には、余計な力がなかった。」
藤平は自分の肩を軽く動かした。
藤平:
「私は最初、脱力というのは弱くなることだと思っていました。」
植芝:
「死んだ人間は完全に力が抜けている。」
藤平が植芝を見る。
植芝:
「だが、それを脱力とは言わない。」
藤平:
「では、違いは?」
植芝が答える前に天風が言った。
天風:
「心だ。」
藤平の目が天風に向く。
天風は静かに続けた。
天風:
「身体から力を抜いても、心まで死なせる必要はない。」
藤平の表情が変わった。
天風はそれを見逃さなかった。
天風:
「藤平君。今、何を思った?」
藤平:
「昔、先生から聞いた言葉を思い出しました。」
天風:
「何だ?」
藤平はゆっくりと言った。
藤平:
「心が身体を動かす。」
天風は微笑んだ。
植芝は黙って藤平を見ていた。
「心が身体を動かす」とは、どういうことでしょうか?
藤平:
「あの言葉を聞いたとき、本当に驚いたんです。」
天風:
「そんな当たり前のことに?」
藤平:
「先生には当たり前だったかもしれません。」
藤平は植芝を見る。
藤平:
「でも私は、その瞬間に植芝先生を思い出した。」

植芝が眉を上げた。
藤平:
「先生の技が初めて少し分かった気がしたんです。」
植芝:
「私にも分からないものをか?」
天風が笑った。
藤平も笑う。
藤平:
「先生はできるんです。でも説明してくれない。」
植芝:
「説明していたぞ。」
藤平:
「もっと分からなくなる説明を。」
三人が笑った。
しかし藤平はすぐ真顔に戻った。
藤平:
「私は考えました。植芝先生は相手の身体を動かそうとしているのではないんじゃないか。」
植芝は黙っている。
藤平:
「身体より先に、相手の心を導いている。」
天風:
「それで?」
藤平:
「心が動けば、身体はついてくる。」
天風はうなずいた。
藤平:
「だから力で身体を動かそうとする必要がない。」
植芝がようやく口を開いた。
植芝:
「藤平君。」
藤平:
「はい。」
植芝:
「それを人にやろうとする前に、自分にできるか?」
藤平が止まった。
植芝:
「自分の心は、どこへでも勝手に飛んでいくぞ。」
天風が笑った。
天風:
「そこなんだよ。」
天風は藤平を指した。
天風:
「人間は他人を変えたがる。」
藤平:
「そうですね。」
天風:
「子供を変えたい。女房を変えたい。亭主を変えたい。部下を変えたい。」
植芝:
「敵も変えたい。」
天風:
「そうだ。」
天風は笑った。
天風:
「ところが、自分の心ひとつ思い通りにならない。」
藤平も笑った。
藤平:
「耳が痛いですね。」
天風:
「痛いくらいでちょうどいい。」
少し沈黙があった。
藤平は庭を見た。
藤平:
「では、人の心を導くことと、人を支配することは何が違うのでしょう。」
今度は誰もすぐに答えなかった。
やがて植芝が言った。
植芝:
「支配しようとした瞬間、もう争っている。」
藤平:
「でも、相手をこちらへ導くのでしょう?」
植芝:
「こちらへ、ではない。」
藤平:
「では?」
植芝は少し考えた。
植芝:
「一緒に行くんだ。」
藤平は黙った。
天風が続ける。
天風:
「人間関係でも同じだよ。相手を動かそう、変えよう、言うことを聞かせようと思えば、自分の心がまず相手に縛られる。」
藤平:
「相手を支配しようとした自分が、先に相手に支配される。」
天風:
「そういうことだ。」
藤平はしばらく考えていた。
藤平:
「では氣とは、相手を動かす力ではない。」
天風:
「お前はどう思う?」
藤平は自分の腹に手を置いた。
藤平:
「まず自分の心を静める。」
天風は聞いている。
藤平:
「身体から余計な力を抜く。」
植芝がうなずく。
藤平:
「そして自分の心と身体が争わない状態にする。」
少し間を置いた。
藤平:
「そこから外へ向かうものが、氣なのかもしれません。」
植芝が微笑んだ。
植芝:
「ずいぶん説明が上手になったな。」
藤平も笑った。
藤平:
「先生のおかげです。」
植芝:
「私の説明は分からなかったんじゃなかったのか。」
天風が大笑いした。
藤平も笑った。
しばらくして藤平が二人を見た。
藤平:
「でも先生方。」
笑いが静まった。
藤平:
「一つ問題があります。」
天風:
「何だ。」
藤平:
「先生方にできることを聞いているだけなら、普通の人には何の役にも立ちません。」
天風の顔に笑みが浮かんだ。
天風:
「やっとそこまで来たか。」
氣は、誰にでも使えるのでしょうか?
藤平:
「私はそれを確かめたかったんです。」
植芝:
「それでハワイへ行った。」
藤平:
「ええ。」
藤平は少し懐かしそうに笑った。
藤平:
「大きいんですよ、みんな。」
天風が笑う。
藤平:
「日本では、技ができれば先生と言ってもらえる。でも外国へ行けば、そんなものは関係ない。」
天風:
「いいところへ行ったな。」
藤平:
「本当にそう思います。」
藤平は両腕を広げた。
藤平:
「こちらより身体の大きな男が本気でつかんでくる。力で対抗したら駄目でした。」
植芝:
「それで?」
藤平:
「力を抜いた。」
植芝が笑った。
藤平:
「すると動ける。」
天風:
「不思議か?」
藤平:
「その頃には、不思議ではなくなっていました。」
天風の目が少し細くなる。
藤平:
「原理があると思ったんです。」
天風:
「ほう。」
藤平:
「植芝先生だからできるのではない。中村先生だからできるのでもない。」
藤平は二人を見る。
藤平:
「原理が正しければ、普通の人にもできるはずだ。」

植芝が静かに聞いている。
藤平:
「だから私は先生方の真似をするのをやめたんです。」
沈黙。
藤平は植芝を見る。
藤平:
「失礼な弟子だったかもしれません。」
植芝は首を振った。
植芝:
「真似だけする弟子の方が困る。」
藤平は少し驚いたように笑った。
植芝:
「先生を超えようとしない弟子を育てて、何になる。」
天風がうなずいた。
天風:
「教えというものは、保存するためにあるんじゃない。」
藤平:
「では何のためです?」
天風:
「使うためだよ。」
藤平はゆっくりうなずいた。
藤平:
「だから私は整理しました。」
藤平は指を一本立てる。
藤平:
「臍下の一点に心をしずめ統一する。」
二本目。
藤平:
「全身の力を完全に抜く。」
三本目。
藤平:
「身体のすべての部分の重みを、その最下部におく。」
四本目。
藤平:
「氣を出す。」
天風が藤平を見た。
天風:
「最後が一番分かりにくいな。」
藤平が笑った。
藤平:
「先生に言われたくありません。」
植芝が声を立てて笑った。
天風も笑う。
天風:
「じゃあ説明してみろ。普通の人が明日の朝起きて、『よし、氣を出そう』と言ったら何をする?」
藤平はすぐには答えなかった。
藤平:
「たとえば、その人が明日、大切な仕事に失敗したとします。」
天風は黙って聞く。
藤平:
「あるいは、病気になった。」
植芝の表情が静かになる。
藤平:
「家族とうまくいかない。」
藤平は庭の暗闇を見た。
藤平:
「年を取って、昔できたことができなくなった。」
しばらく沈黙した。
藤平:
「そういうとき、人間の心は内側へ縮みます。」
天風がうなずく。
藤平:
「『もう駄目だ』『どうして自分だけ』『これからどうなる』と。」
天風:
「そうだな。」
藤平:
「その心が身体を動かす。」
天風がわずかに微笑んだ。
藤平は続ける。
藤平:
「肩が落ちる。呼吸が浅くなる。視野が狭くなる。人に会いたくなくなる。」
植芝が静かに言った。
植芝:
「そこでまた力む。」
藤平:
「そうです。」
藤平は二人を見る。
藤平:
「氣を出すというのは、問題が消えたふりをすることではないと思うんです。」
天風の表情が変わった。
藤平:
「怖いときは怖い。」
天風:
「うん。」
藤平:
「悲しいときは悲しい。」
植芝がうなずく。
藤平:
「でも、そこで生命まで縮ませない。」
沈黙。
藤平:
「心を前へ向ける。」
庭から風が入ってきた。
藤平:
「自分の生命を、まだ終わっていない方へ向ける。」
誰もすぐには話さなかった。
やがて天風が笑った。
天風:
「藤平君。」
藤平:
「はい。」
天風:
「もう私に聞くことはないんじゃないか。」
藤平も笑った。
藤平:
「ありますよ。」
天風:
「まだあるのか。」
藤平:
「最後に一つ。」
藤平は二人を見た。
藤平:
「今の若い人がここへ来て、『氣なんて信じません』と言ったら、先生方は何と言いますか?」
天風は即答した。
天風:
「信じなくていい。」
藤平が笑う。
天風:
「自分の心が身体に何をしているか、一日観察してみろ。それから来い。」
藤平は植芝を見る。
植芝は右腕を差し出した。
植芝:
「つかんでみなさい。」
藤平が吹き出した。
藤平:
「やっぱり先生はそれですか。」
植芝:
「話すより早い。」
三人が笑った。
天風が今度は藤平を見る。
天風:
「お前なら何と言う?」
藤平は少し考えた。
そして静かに答えた。
藤平:
「私も、信じなくていいと言います。」
天風がうなずく。
藤平:
「試してください、と。」
強さの意味
外はすっかり暗くなっていた。
庭の輪郭もほとんど見えない。
藤平は空になった湯呑みを見ながら言った。
藤平:
「最初に私は、強くなりたかったと言いましたね。」
天風が笑った。
天風:
「まだ強くなりたいか?」
藤平も笑った。
長い沈黙のあと、藤平は首を少し振った。
藤平:
「昔とは、強いという言葉の意味が違います。」
植芝が尋ねた。
植芝:
「今は?」
藤平は考えた。
藤平:
「昔は、倒れない人間が強いと思っていました。」
天風は黙っている。
藤平:
「今は、倒れても自分の生命をもう一度前へ向けられる人が強いと思います。」
植芝が静かにうなずいた。
藤平:
「怖くならないことではない。」
天風を見る。
藤平:
「怖くても、恐怖に心のすべてを渡さない。」
植芝を見る。
藤平:
「力を使わないことでもない。」
藤平は自分の手を開いた。
藤平:
「必要のない力を手放す。」
そして少し笑った。
藤平:
「先生方からずいぶん時間をかけて教えていただいたことは、案外それだけだったのかもしれません。」
天風が笑う。
天風:
「それだけ分かるのに、一生かかったか。」
藤平:
「一生かかりました。」
植芝が静かに言った。
植芝:
「それでいい。」
また風が吹いた。
三人とも庭を見ていた。
もう誰も「氣とは何か」と説明しようとはしなかった。
藤平が最後に口を開いた。
藤平:
「もし今、何かがうまくいかなくて、もっと頑張らなければ、もっと強くならなければと思っている人がいるなら、一度だけ自分に聞いてみてほしい。」
少し間を置いた。
藤平:
「私は今、何に力を入れすぎているのだろう、と。」
藤平は肩から静かに力を抜いた。
藤平:
「そして、その力をほんの少し抜いたら、何が変わるだろう、と。」
天風も植芝も、もう何も言わなかった。
庭の暗闇の中を、風だけが静かに通り抜けていった。
このLCFでは、最初の「強くなりたい」が最後には「必要のない力を手放す」へ反転するようにしました。次にFAを作るなら、今回の3-Movement形式に合わせて、Main Introduction、Final Thoughts、三人のShort Biosを一続きで仕上げるのが自然です。
最後に

「氣の確立」とは、自分の生命を前へ向けること
三人の対話を終えて残るのは、「氣とは何か」という明確な定義ではないかもしれません。
むしろ、それでいいのではないでしょうか。
植芝盛平は、藤平光一に一つの答えを身体で見せました。
力んでいない。
相手とぶつからない。
それでも強い。
藤平はそこに、自分がそれまで知らなかった強さを見ました。
戦場では、さらに厳しい現実に直面します。
恐怖を感じれば身体が固くなる。
心が乱れれば判断も乱れる。
そこで藤平は、心と身体が別々のものではないことを体験していきました。
そして中村天風から「心が身体を動かす」という考えを学びます。
それまでの経験が一本につながっていく。
しかし、ここで藤平の探求は終わりません。
むしろ始まります。
師にできるからといって、自分にもできるとは限らない。
自分にできるからといって、誰にでもできるとは限らない。
だから試す。
確かめる。
整理する。
そして伝えられる形にする。
ここに、この本のタイトルにある**「確立」**という言葉の意味が見えてくるように思います。
藤平は中村天風になろうとはしませんでした。
植芝盛平にもなろうとはしませんでした。
二人から受け取ったものを、自分自身の人生で検証し、自分のものにしていった。
そして最後には、それを次の人が自分自身で確かめられる形へ変えていきました。
だから「氣の確立」は、特別な能力を手に入れる物語として読むより、人間が自分自身の心と身体の使い方を取り戻していく物語として読むと、ずっと身近になります。
私たちは人生の中で、何度も力みます。
失敗したくない。
嫌われたくない。
負けたくない。
家族を守りたい。
将来を失いたくない。
健康を失いたくない。
自分の人生を思い通りにしたい。
その思いが強くなるほど、知らないうちに心も身体も固くなってしまうことがあります。
そこで藤平の教えが問いかけてきます。
もっと力を入れることが、本当に答えなのだろうか。
力を抜くことは、諦めることではありません。
怖くないふりをすることでもありません。
悲しみを否定することでもありません。
LCFの中で藤平が語ったように、
「怖いときは怖い。悲しいときは悲しい。でも、そこで生命まで縮ませない。」
この言葉に、今回の対話の核心があります。
本当の強さとは、一度も倒れないことではないのかもしれません。
倒れたあと、自分の心をもう一度前へ向けられること。
恐怖を感じても、恐怖に自分の心すべてを渡さないこと。
自分では変えられないものと戦い続けるのではなく、今の自分にできることへ心を向け直すこと。
そう考えると、「氣」は武道家だけのものではなくなります。
明日の朝、私たちにも試すことができます。
何かに焦って力が入っていることに気づいたら、自分自身に聞いてみる。
私は今、何に力を入れすぎているのだろう。
そしてもう一つ。
その力をほんの少し抜いたら、何が変わるだろう。
答えはすぐには出ないかもしれません。
けれど、その問いを持つこと自体が、藤平光一のいう「氣の確立」へ向かう、小さな第一歩なのかもしれません。
Short Bios:
藤平光一(1920-2011)は、日本の武道家であり、心身統一合氣道を創始した人物です。若いころから身体の弱さに悩み、柔道、禅、みそぎなどを経験した後、植芝盛平のもとで合気道を学びました。戦争中の体験、中村天風から学んだ心身統一の思想、海外での指導経験などを通して、自らの「氣」の原理を体系化しました。1971年に氣の研究会を創設し、武道だけではなく、日常生活にも応用できる心身統一の普及に力を注ぎました。
中村天風(1876-1968)は、日本における心身統一法の創始者として知られる思想家です。病気や海外での経験を経て、人間が持つ生命力と心のあり方を追究しました。帰国後は心身統一法を説き、積極的な心の持ち方と生命力を十分に発揮する生き方を多くの人々に伝えました。藤平光一にとって、「心が身体を動かす」という考えは、自らの戦場体験と植芝盛平から学んだ武道を結びつける大きな鍵となりました。
植芝盛平(1883-1969)は、合気道の開祖です。さまざまな武術を修めた後、独自の武道観を形成し、相手を単に倒すことを目的としない合気道へ発展させました。藤平光一は若くして植芝の門下に入り、その技の中に「力を抜いているのに強い」という身体のあり方を見いだしました。植芝の実践は、藤平が後に心身統一と氣の原理を構築していく大きな出発点となりました。

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