はじめに
人はなぜ、何かに夢中になるのでしょうか。
誰かを応援すること。何かを信じること。仕事に打ち込むこと。愛する人を選ぶこと。あるいは、何の役にも立たない時間を誰かと過ごすこと。
私たちは毎日、自分でも気づかないうちに、限られた人生の時間を何かに差し出しています。
朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』が投げかける大きな問いは、単なる「推し活」の善悪ではありません。その奥にある、**「人を動かす原動力とは何なのか」**という問いです。
Part 1では、その問いを「推す」という行為から考えました。
なぜ「好き」が「応援したい」に変わるのか。なぜ誰かの成功を、自分のことのように願えるのか。情熱と献身と依存は、どこで分かれるのか。そして人間はなぜ、ときに「自分を余らせたくない」「何かに自分を使い切りたい」と感じるのか。
Part 2では、そこからさらに一歩進み、**「物語はなぜ人を動かすのか」**を現代の小説家たちと考えました。
私たちは事実だけによって動いているわけではありません。
「あなたの応援が必要です」
「今しかありません」
「一緒に夢を叶えましょう」
同じ事実でも、そこに物語が生まれた瞬間、人は動き始めることがあります。
しかし、それは必ずしも「騙されている」ということなのでしょうか。
誰かが作った物語をきっかけに友達ができた。知らない場所へ旅をした。明日まで頑張ろうと思えた。人生の一時期を、本気で何かに夢中になって過ごした。
もし入口が誰かによって作られていたとしても、そこで自分が生きた時間まで偽物になるのでしょうか。
そして、ここから始まるPart 3では、その問いを議論のテーブルから降ろし、5つの現代の人生へ移します。
今度は思想家も、小説家も答えてくれません。
登場するのは、私たちのすぐ近くにいそうな人たちです。
誰かに動かされたことを知り、自分の過去まで疑い始める人。
間違いたくないと考え続けるうちに、自分の人生を選べなくなった人。
誰かを長く愛することで、逆に自分自身の世界を取り戻していく人。
何十年も「何の役にも立たない」と思っていた場所が、知らない誰かの人生を支えていたことを知る人。
そして、一分も無駄にしたくないと生きてきた人が、初めて「何もしない一日」と向き合います。
そこに、完璧な答えを持っている人はいません。
誰かに影響されずに生きることが自由なのか。
できるだけ多くの可能性を見ることが賢さなのか。
何かに人生を捧げることは依存なのか。
役に立たない時間は、本当に無駄なのか。
そして、人生を「使い切る」とは、いったいどういうことなのか。
5つの物語を進むにつれて、『イン・ザ・メガチャーチ』から始まった問いは、少しずつ形を変えていきます。
「何が人を動かすのか?」
から、
「何に動かされるのかを、自分で選べるのか?」
へ。
そして最後には、もっと個人的な問いとして、私たち自身のところへ戻ってきます。
人生には限りがあります。
だからこそ、すべての時間を有効に使わなければならないのでしょうか。
それとも、
夢中になった時間も。
間違った時間も。
誰かを愛した時間も。
立ち止まった時間も。
何も生み出さなかった午後も。
いつか振り返って、
「あの時間があってよかった」
と言えるなら、それもまた十分に生きた時間なのでしょうか。
Part 3では、答えを決めません。
5つの人生を通して、最後に一つだけ問いを残します。
私は、この限られた時間を、何に使いたいのだろう。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Story 1: あと一人で、夢が叶う

水野美咲がその歌を初めて聴いたのは、残業を終えた金曜日の夜だった。
二十九歳。
東京のIT企業で経理をしている。
仕事が嫌いだったわけではない。
朝九時に会社へ行き、数字を確認し、メールを返し、月末になれば忙しくなり、給料日になれば少し安心する。
不幸ではなかった。
ただ最近、美咲には一つだけ気になることがあった。
来週を楽しみにした記憶がない。
月曜日から金曜日まで働いて、土曜日に洗濯をして、日曜日の夜になると翌日のことを考える。
そしてまた月曜日が来る。
その繰り返しだった。
その夜、美咲は同僚に誘われて、渋谷の小さなライブハウスへ行った。
地下にある会場だった。
客は百人もいなかったと思う。
そこで五人組の女性アイドルが歌っていた。
美咲はアイドルに興味がなかった。
少なくとも、その夜までは。
歌が特別に上手いとも思わなかった。
ダンスも完璧ではなかった。
でも一人だけ、なぜか目で追ってしまう女の子がいた。
名前は、ひより。
曲の途中で振り付けを少し間違えた。
隣のメンバーと目が合った。
ひよりは一瞬困った顔をして、それから笑った。
美咲も笑った。
理由は、それだけだった。
一か月後、美咲はもう一度ライブへ行った。
今度は一人だった。
自分でも少し恥ずかしかった。
入口で迷っていると、同年代くらいの女性が声をかけてきた。
「ひよりちゃん?」
美咲は驚いた。
「え?」
「その色。ひよりちゃん推しですよね?」
美咲が持っていたペンライトは、たまたまひよりの担当カラーだった。
「あ、いや、まだよく分からなくて」
女性は笑った。
「じゃあ今日からです。」
その人の名前は奈緒だった。
ライブが終わるころには、美咲は奈緒とLINEを交換していた。
それから、美咲のカレンダーに色が増えた。
「ライブ」
「リリイベ」
「大阪」
「名古屋」
「奈緒たちとご飯」
金曜日の夜が変わった。
月曜日も少し変わった。
嫌な会議があっても、
「あと四日」
と思えた。
上司に注意された日も、
「土曜日、ひよりに会える」
と思うと少しだけ軽くなった。
初めて一人で大阪へ行った。
初めて夜行バスにも乗った。
名古屋では奈緒たちと、ライブのあと深夜までファミレスで話した。
三十歳の誕生日には、ファン仲間が小さなケーキを買ってくれた。
会社では誰も知らなかった誕生日だった。
美咲はその夜、家に帰ってから少し泣いた。
寂しかったからではない。
嬉しかったからだった。
ひよりたちは、少しずつ大きな会場で歌うようになった。
そして三年目の春、運営から大きな発表があった。
次のシングルで一定の売上を達成できれば、グループ初のホール公演が決まるという。
公式アカウントに動画が投稿された。
ひよりが泣きながら話していた。
「ずっと立ちたかった場所です」
「みんなと一緒に行きたいです」
最後に画面へ文字が出た。
あと500枚。
ファンのグループチャットが一気に動き始めた。
「絶対行かせよう」
「ここまで来たんだから」
「俺たちならできる」
奈緒からも届いた。
「美咲、やろうよ」
美咲は迷わなかった。
最初は五枚買った。
次の週、三枚。
給料日のあと、十枚。
部屋の隅に同じCDが積み上がっていった。
でも不思議と無駄遣いには感じなかった。
自分がお金を使っているというより、
みんなで何かを作っている
ように感じた。
数字が更新される。
あと312枚。
あと186枚。
あと73枚。
ファンたちの熱は上がった。
そして最後の日。
公式アカウントに投稿された。
あと一人で、夢が叶います。
美咲はスマートフォンを見つめた。
買った。
もう一枚。
購入完了の画面を見た瞬間、心臓が速くなった。
もちろん、本当に自分の一枚が最後だったわけではない。
それでも美咲は思った。
私も、この夢の中にいる。
数時間後、達成が発表された。
奈緒から電話が来た。
二人とも泣いた。
その二週間後だった。
大学時代の友人、理沙と久しぶりに会った。
理沙は広告会社を経て、今はエンターテインメント業界専門のマーケティング会社で働いていた。
美咲がひよりの話をすると、理沙の表情が一瞬だけ変わった。
「そのグループ、知ってるよ」
「本当?」
「うん」
「最近すごいんだよ。ホール公演決まったの」
「知ってる」
「え?」
理沙は少し迷った。
「うち、少し関わってたから」
美咲は嬉しくなった。
「じゃあ、あの企画も?」
理沙は答えなかった。
その沈黙で、美咲には分かった。
「何?」
「いや……」
「何?」
理沙はしばらく黙ってから言った。
「美咲が楽しかったなら、それでいいと思う」
その言葉が、一番嫌だった。
「何それ」
「ごめん」
「何を知ってるの?」
理沙は困った顔をした。
そして、美咲が何度も聞くので、少しだけ話した。
ファンに「参加している」と感じてもらうこと。
数字を小刻みに発表すること。
達成までの距離を見せること。
期限を作ること。
ファン自身を成功物語の登場人物にすること。
美咲は黙って聞いていた。
「500枚って、本当に500枚だったの?」
理沙は答えなかった。
「ねえ」
「数字の見せ方はいろいろあるから」
「じゃあ、『あと一人』は?」
理沙は目を伏せた。
その瞬間だった。
三年間の記憶が、音を立てて崩れた気がした。
美咲はライブへ行かなくなった。
奈緒から何度も連絡が来た。
「どうしたの?」
「体調悪い?」
「何かあった?」
返信しなかった。
ひよりのSNSもミュートした。
部屋に積んであったCDを段ボール箱に入れた。
ペンライトも入れた。
タオルも入れた。
写真も。
全部捨てようと思った。
スマートフォンの写真も消そうとした。
三年間で、何千枚もあった。
ライブ。
ステージ。
ひより。
でも、スクロールしているうちに、違う写真が出てきた。
大阪のラーメン屋で、奈緒が笑っている。
名古屋駅で四人が変なポーズをしている。
夜行バスを降りた朝、初めて見た街。
海。
ファミレス。
三十歳の誕生日。
小さなケーキ。
「MISAKI 30」
チョコレートでそう書いてある。
美咲の指が止まった。
次の写真。
会社で大きなミスをした日の夜だった。
奈緒から届いたメッセージのスクリーンショット。
「今日は最悪だったね。でも土曜日あるじゃん。」
美咲はスマートフォンを置いた。
そして、床に座った。
しばらく何も考えられなかった。
やがて泣き始めた。
今度は嬉しくてではなかった。
「返してよ」
誰もいない部屋で言った。
「私の三年間、返してよ」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
運営なのか。
マーケティング会社なのか。
ひよりなのか。
自分自身なのか。
「私、本当に好きだったのに」
声にすると、もっと涙が出た。
数日後、奈緒が家に来た。
連絡を無視していたのに。
コンビニの袋を持っていた。
「プリン買ってきた」
美咲は何も言わなかった。
奈緒は部屋の段ボール箱を見た。
「ああ」
それだけ言った。
美咲は全部話した。
500枚。
あと一人。
マーケティング。
設計。
当事者意識。
奈緒は黙って聞いていた。
「私たち、馬鹿だったんだよ」
美咲が言った。
奈緒はプリンを食べながら答えた。
「そうかもね」
美咲は顔を上げた。
「何それ」
「だって、私は普通に馬鹿なこといっぱいしてるし」
「そういう話じゃない」
「分かってる」
奈緒はスプーンを置いた。
「でもさ」
少し間を置いた。
「大阪、楽しくなかった?」
美咲は黙った。
「名古屋も」
黙ったままだった。
「美咲の誕生日も」
「それは……」
「私、あのケーキ本当に選んだよ」
美咲が奈緒を見る。
「マーケティング会社に言われてないよ」
「当たり前じゃん」
「ラーメンも」
「何が言いたいの」
「だからさ」
奈緒は少し怒ったような顔になった。
「あいつらに、そこまで持っていかれなくてよくない?」
美咲は何も言えなかった。
「CD買わせるところまでは、あいつらが考えたのかもしれないよ」
奈緒は言った。
「でも大阪で私たちが笑ったのは、あいつらが作ったの?」
美咲は黙っている。
「美咲が仕事辞めたいって泣いた夜、私が電話したのも?」
「……違う」
「三十歳のケーキも?」
「違う」
「じゃあ全部持っていかれなくていいじゃん」
その言葉で、美咲はまた泣いた。
奈緒も少し泣いていた。
「悔しいけどね」
奈緒は言った。
「めちゃくちゃ悔しいけど」
美咲は笑いながら泣いた。
「何枚買った?」
「聞かないで」
「私より多い?」
「聞かないでって」
二人とも笑った。
ホール公演の日。
美咲は会場の前まで来ていた。
三か月ぶりだった。
ペンライトは持っていない。
グッズも買わなかった。
入口の前で立ち止まった。
大きなポスターの中で、ひよりが笑っていた。
以前なら、
「私たちがここまで連れてきた」
と思ったかもしれない。
今日は違った。
彼女たちは努力した。
運営は売った。
マーケターは物語を作った。
ファンはそれを信じた。
たぶん全部、本当だった。
奈緒が隣から聞いた。
「入る?」
美咲はしばらくポスターを見ていた。
「うん」
「大丈夫?」
美咲は笑った。
「分かんない」
そして二人で中へ入った。
照明が落ちた。
歓声が上がった。
音楽が始まった。
何千本もの光が揺れた。
美咲は最初、少し冷静だった。
照明。
演出。
スクリーン。
歓声。
全部、誰かが設計している。
ここで感動させる。
ここで期待させる。
ここで泣かせる。
分かっている。
それでも。
ステージにひよりが出てきた瞬間、美咲は泣いた。
自分でも驚いた。
ひよりも泣いていた。
「やっとここまで来られました」
会場が揺れるほどの歓声が起きた。
美咲は一瞬、
「それも台本なのかな」
と思った。
でも、すぐにどうでもよくなった。
隣を見ると奈緒も泣いている。
美咲は笑った。
奈緒も笑った。
その瞬間、美咲には少し分かった気がした。
物語は、誰かが作ることができる。
感情を動かすこともできる。
人を集めることもできる。
商品を買わせることもできる。
だから疑うことは必要だ。
離れる自由も必要だ。
「NO」と言えることも必要だ。
でも。
誰かが入口を作ったからといって、
その先で自分が生きた時間まで、その人の所有物になるわけではない。
美咲はステージを見た。
三年前、小さなライブハウスで振り付けを間違えて笑った女の子が、何千人もの前で歌っていた。
美咲はもう、
「私があなたをここまで連れてきた」
とは思わなかった。
代わりに、心の中で言った。
あなたを追いかけていたら、私もここまで来たよ。
東京。
大阪。
名古屋。
知らない駅。
知らない人。
三十歳。
失敗した仕事。
夜中の電話。
小さなケーキ。
笑った夜。
泣いた夜。
そして今。
ひよりの夢の中に自分がいたと思っていた。
でも本当は、
ひよりを追いかけながら、
美咲自身の人生が動いていた。
曲が終わった。
大きな拍手が起きた。
美咲も拍手した。
以前より少し静かに。
でも以前より、自分の手で。
その夜、家に帰ってから、美咲は段ボール箱を開けた。
CDを全部棚に戻したわけではない。
ペンライトも戻さなかった。
ただ、一枚だけ取り出した。
三十歳の誕生日に奈緒たちと撮った写真。
机の上に置いた。
写真の中で、美咲は口を大きく開けて笑っている。
その顔をしばらく見てから、電気を消した。
三年間の物語には、誰かが書いた部分があった。
でも。
その三年間を生きたのは、私だった。
Footnote|『イン・ザ・メガチャーチ』とのつながり
『イン・ザ・メガチャーチ』が問いかける「人を動かす原動力」と、Part 1・2で考えた「物語の力」を、ファン自身の人生から拡大した物語です。人の感情がマーケティングによって増幅されることはあります。しかし、そこで生まれた友情、旅、喜び、そして生きた時間まで偽物になるのでしょうか。本作の中心にあるのは、「作られていること」と「偽物であること」は同じではないという問いです。
Story 2: 全部わかってから決めます

高橋直人は、レビューを読むのが好きだった。
正確に言えば、レビューを読まずに何かを決めることが苦手だった。
レストランなら、Googleの評価だけでは足りない。
食べログを見る。
Instagramを見る。
最近の口コミを読む。
低評価から先に読む。
「接客が悪かった」という口コミが一件あれば、その投稿者のほかのレビューまで確認する。
ホテルならもっと大変だった。
立地。
清潔さ。
防音。
朝食。
ベッド。
チェックアウト時間。
キャンセル条件。
駅から徒歩七分と書いてあれば、本当に七分なのかGoogleマップで確認する。
だから旅行へ行くころには、
直人は目的地について、すでに少し疲れていた。
三十二歳。
京都のデータ分析会社で働いている。
頭がいい。
仕事もできる。
人の話をよく聞く。
大学時代から付き合っている彩は、直人のそういうところが好きだった。
少なくとも、最初は。
ある日曜日。
二人で昼ごはんを食べていると、隣の席に赤ちゃんを連れた夫婦が座った。
赤ちゃんがスプーンを床へ落とした。
父親が拾う。
また落とす。
また拾う。
彩が笑った。
「かわいいね」
「うん」
「私たちも、いつかあんな感じになるのかな」
直人の箸が止まった。
「どうだろうね」
彩は笑った。
「何、その返事」
「いや、子どもを持つかどうかもちゃんと考えないと」
「まだそこまで聞いてないよ」
「でも結婚したら関係してくるじゃん」
「まあね」
「住宅もそうだし。共働きを続けるなら保育園もあるし」
彩が直人を見る。
「直人」
「何?」
「今、赤ちゃん見て『かわいいね』って話してただけ」
「ああ」
直人は少し笑った。
「ごめん」
その夜、直人は調べた。
結婚幸福度。
共働き夫婦 家事分担。
京都 子育て 支援。
住宅ローン 金利。
賃貸 持ち家 どちら。
子ども 教育費 平均。
出生率。
離婚率。
子どもを持たない夫婦 幸福度。
検索履歴を見て、自分でも笑った。
でも直人にとって、調べることは誠実さだった。
大切なことだからこそ、軽く決めたくない。
半年後。
彩が言った。
「私、そろそろ結婚したいと思ってる」
直人は驚かなかった。
もう十年近く付き合っている。
「俺も考えてるよ」
「いつ?」
「もう少しちゃんと整理してから」
「何を?」
直人は少し困った。
「いろいろ」
「いろいろって?」
「お金とか、仕事とか、住む場所とか」
彩はしばらく黙っていた。
「じゃあ、それが全部分かったら結婚するの?」
「全部っていうか、ある程度」
「ある程度ってどのくらい?」
「それは……」
答えられなかった。
直人は決断ができない人ではなかった。
会社ではむしろ決断が速かった。
データがあるからだ。
数字を見る。
比較する。
確率を出す。
最も合理的な選択肢を提案する。
問題は、
人生には比較対象が足りないことだった。
彩と結婚した人生。
彩と別れた人生。
独身の人生。
別の誰かと結婚した人生。
子どもがいる人生。
いない人生。
京都に残る人生。
東京へ行く人生。
どれか一つしか生きられない。
だから比較できない。
それが直人には怖かった。
そんなとき、東京の企業から誘いが来た。
年収は今より二百万円高い。
仕事も面白そうだった。
彩は言った。
「行きたいなら行けば?」
「でも東京は生活費高いし」
「うん」
「会社の成長性もまだ分からない」
「うん」
「今の会社に残った場合の昇進可能性もあるし」
「うん」
「彩の仕事もあるし」
「私はリモートできるよ」
「でも五年後は分からない」
彩が笑った。
「五年後なんて誰も分からないよ」
直人は笑えなかった。
結局、返事を保留しているうちに、東京の会社は別の人を採用した。
直人は少し安心した。
自分で断らなくて済んだから。
翌年、彩がマンションの広告を持ってきた。
「ここ、見に行かない?」
直人は調べた。
地盤。
修繕積立金。
管理会社。
周辺の人口予測。
中古マンションの資産価値。
金利上昇リスク。
三週間後、彩が言った。
「もう売れたよ」
「そうなんだ」
「残念?」
直人は考えた。
「まあ、縁がなかったんじゃない?」
彩は何も言わなかった。
それから少しずつ、彩は直人に相談しなくなった。
休日の予定も。
旅行も。
家具も。
直人は最初、それに気づかなかった。
気づいたときには、二人の会話から未来形が減っていた。
「今度行こう」
「いつか住みたい」
「将来は」
そういう言葉がなくなっていた。
三十三歳になる少し前、父親が入院した。
胆石だった。
手術をすれば大丈夫だと医師に言われた。
それでも病院という場所にいる父親は、直人が知っている父親より小さく見えた。
病室で二人になった。
父親が言った。
「彩ちゃん元気か」
「元気だよ」
「まだ結婚せんのか」
直人は苦笑した。
「そういう時代じゃないから」
「どういう時代だ」
「結婚するのが当たり前って時代じゃないってこと」
「知っとるわ」
「父さんが言うと説得力ないけど」
「なんでだ」
「母さんと結婚したじゃん」
父親は笑った。
「お前な、俺が結婚を勧めとると思っとるだろ」
「違うの?」
「別に」
「じゃあ何」
父親は窓の外を見た。
「お前は昔から頭がよかったからな」
直人は嫌な予感がした。
父親がこういう言い方をするときは、大抵そのあと褒めない。
「何」
「石橋を叩いて渡るって言うだろ」
「うん」
「お前の場合、叩きすぎて橋なくなるんだよ」
直人は笑った。
「何それ」
父親も笑った。
しばらくして言った。
「人生って、答え見てから問題解けんぞ」
帰りの電車で、直人はその言葉について考えた。
最初に思った。
父親世代の価値観だ。
成功した選択だけを振り返っている。
典型的な生存者バイアスかもしれない。
そもそも「考えすぎるな」という助言には問題がある。
慎重さによって回避できる失敗も多い。
衝動的な決断を美化すべきではない。
直人はスマートフォンを取り出した。
検索窓を開いた。
「意思決定 考えすぎ」
と入力した。
検索ボタンを押そうとして、
止まった。
病室の父親の顔が浮かんだ。
お前の場合、叩きすぎて橋なくなるんだよ。
直人はスマートフォンを見た。
そして突然、笑い出した。
向かいの席の女性がちらりとこちらを見た。
直人は口元を押さえた。
でも笑いが止まらなかった。
父親の一言にまで反論するため、
自分は論文を探そうとしている。
おかしくて仕方がなかった。
笑っているうちに、なぜか涙が出た。
家に帰ると、彩はいなかった。
最近、週末は実家へ帰ることが増えていた。
テーブルの上にマグカップが二つあった。
昔、金沢へ旅行したときに買ったものだった。
直人はその旅行を思い出した。
あのときもホテルを決めるのに二週間かかった。
最終的に彩が勝手に予約した。
旅館は少し古かった。
部屋からの景色も、サイトの写真ほどきれいではなかった。
二日目には雨が降った。
予定していた庭園へ行けなかった。
代わりに二人で小さな喫茶店に入った。
客は誰もいなかった。
彩がクリームソーダを頼んだ。
直人は、
「金沢まで来てクリームソーダ?」
と言った。
彩は、
「金沢だからって毎分金沢らしいことしなくていいじゃん」
と笑った。
あの旅行で一番覚えているのは、
その喫茶店だった。
直人はマグカップを手に取った。
旅行としては、最適解ではなかった。
でも。
楽しかった。
翌日、彩に電話した。
「今日会える?」
少し沈黙してから、
「うん」
と返ってきた。
二人は鴨川沿いを歩いた。
しばらく天気の話しかできなかった。
直人は何度も頭の中で文章を作った。
結婚について。
将来について。
仕事について。
自分の問題について。
ちゃんと説明したかった。
でも、説明しようとすると、また分析になった。
だからやめた。
「彩」
「うん」
「俺さ」
「うん」
「怖かったんだと思う」
彩は黙っている。
「結婚が?」
「違う」
直人は首を振った。
「間違うのが」
彩が直人を見る。
「彩と結婚して後悔するかもしれない」
直人は言った。
「結婚しなくて後悔するかもしれない。東京に行って失敗するかもしれない。京都に残って後悔するかもしれない。子どもを持って後悔する人もいるし、持たなくて後悔する人もいる」
「うん」
「だから、ちゃんと考えれば間違わないと思ってた」
彩は何も言わない。
「でも」
直人は川を見た。
「考えてる間にも時間が進むんだな」
彩の目が少し赤くなった。
「今さら?」
直人は笑った。
「今さら」
「遅いよ」
「うん」
「私、ずっと待ってたんだけど」
「うん」
「直人が決めるの」
「ごめん」
彩は立ち止まった。
「私ね」
声が少し震えていた。
「結婚してって言ってたんじゃないの」
直人は彼女を見る。
「私を選んでって言ってたの」
直人は何も言えなかった。
「正解だからじゃなくて」
彩は続けた。
「私が正解かどうかなんて、私にも分からないよ」
涙を拭いた。
「でも、一緒にやってみたいって言ってほしかった」
直人の胸の奥で、何かが崩れた。
ずっと探していた言葉だった。
正しい。
安全。
合理的。
後悔しない。
そのどれでもなかった。
一緒にやってみたい。
人生とは、そういう言葉で始まることがあるのかもしれない。
直人はポケットに手を入れた。
指輪はなかった。
もちろんない。
プロポーズする予定ではなかった。
店も予約していない。
花もない。
人生で最も大切かもしれない場面なのに、
準備が足りない。
以前の直人なら、それだけで延期しただろう。
でも今日は、
準備が足りないまま話すことにした。
「彩」
「何」
「来月」
「うん」
「一緒に住まない?」
彩が直人を見る。
「それだけ?」
「うん」
彩は泣きながら笑った。
「プロポーズじゃないんだ」
「まだそこまで……」
言いかけて、直人も笑った。
「いや。今のなし」
「何?」
「また全部順番に正しくやろうとしてた」
彩が笑う。
直人は少し考えた。
それから言った。
「俺、君と一緒にいたい」
彩は黙っている。
「結婚するかもしれない」
「かもしれない?」
「ごめん」
二人とも笑った。
「結婚したい」
今度は言えた。
「でも、うまくいくかは分からない」
彩が涙を拭いた。
「それ、プロポーズとして最低じゃない?」
「そうだと思う」
「離婚するかもしれないよ」
直人は一瞬黙った。
以前なら、その言葉から離婚率の統計が頭に浮かんだ。
今日は浮かばなかった。
「そうだね」
「子どもできないかもしれない」
「うん」
「仕事なくなるかもしれない」
「うん」
「私、性格悪くなるかもしれない」
「それはもう知ってる」
彩が直人の腕を叩いた。
二人で笑った。
しばらくして彩が聞いた。
「大丈夫?」
直人は川を見た。
春の水が流れている。
向こう岸を自転車が走っている。
犬が水を飲もうとして、飼い主に引っ張られている。
世界にはまだ、直人の知らないことが無数にある。
明日のことさえ分からない。
まして十年後なんて、何も分からない。
だから直人は言った。
「分からない。」
そして少し笑った。
「分からないけど、君とやってみたい。」
彩はしばらく直人を見ていた。
「それならいい」
そう言って、また歩き始めた。
一か月後。
二人は小さなマンションへ引っ越した。
直人は物件を七件比較した。
彩から、
「また始まった」
と言われた。
八件目を見に行ったとき、ベランダから小さな桜の木が見えた。
彩が言った。
「ここ好き」
直人は管理費を確認した。
築年数を確認した。
駅までの距離も確認した。
それからスマートフォンを出しかけた。
口コミを調べようと思った。
でもやめた。
「俺も好き」
と言った。
契約した。
完璧な部屋ではなかった。
引っ越して三日後、上の階の足音が思ったより響くことが分かった。
彩は笑った。
「レビューに書いてなかったね」
直人も笑った。
「書いとく?」
「やめて」
数か月後。
直人のスマートフォンには相変わらず大量の検索履歴があった。
人間はそんなに簡単には変わらない。
レストランも調べる。
ホテルも調べる。
家電を買うときは比較表も作る。
ただ、一つだけ変わった。
何かを選ぶとき、
直人は最後に自分へ聞くようになった。
全部分かったか?
ではない。
これ以上調べたら、答えが分かるのか?
答えが「いいえ」なら、
スマートフォンを置く。
そしてもう一つ聞く。
じゃあ、自分はどうしたい?
その問いには、データが答えてくれない。
だから怖い。
今でも怖い。
でも直人は少しずつ知り始めていた。
人生には、
正しいから選べることもある。
しかし、ときには、
選んだからこそ始まるものがある。
世界の広さを知ることと、
一つの場所に立つことは、
矛盾しない。
ほかの道があることを知りながら、
それでも一つの道へ足を置く。
その日、直人と彩は新しい部屋で夕飯を食べた。
スーパーで買った餃子だった。
彩が言った。
「これ、あんまりおいしくないね」
直人も一つ食べた。
確かにおいしくなかった。
「評価、何点?」
彩が聞いた。
直人は少し考えるふりをした。
「2.8」
「低っ」
「次は別の買おう」
「うん」
それだけだった。
間違った餃子を買った夜。
二人は最後まで全部食べた。
そしてその夜のことを、
直人はずっと覚えていた。
Footnote|『イン・ザ・メガチャーチ』とのつながり
Story 1では、誰かに「動かされること」への恐れを描きました。この物語ではその反対側を描いています。『イン・ザ・メガチャーチ』にある「視野」の問いを拡大すると、あらゆる立場や可能性を理解しようとすることが、かえって人を動けなくさせることがあります。成熟とは世界を知らないまま一つを信じることではなく、世界には無数の可能性があると知ったうえで、それでも「今はここに立つ」と選ぶことなのかもしれません。
Story 3: あなたがいなくても、私は生きていく

佐伯恵が夫を亡くしたのは、四十三歳の冬だった。
癌だった。
見つかってから一年と二か月。
最後の半年は、病院と家の往復だった。
夫が亡くなったあと、恵にはやらなければならないことがたくさんあった。
葬儀。
役所。
銀行。
保険。
夫の会社への連絡。
クローゼットの服。
靴。
本。
ゴルフクラブ。
人が一人いなくなるというのは、こんなにも事務的なことなのかと驚いた。
泣いている時間より、書類を書いている時間のほうが長かった。
全部終わると、家が静かになった。
高校生だった娘の美緒がいたから、完全に一人ではなかった。
朝ごはんを作った。
弁当を作った。
洗濯した。
「行ってらっしゃい」
と言った。
「ただいま」
を聞いた。
それで一日が終わった。
三年後、美緒が大学へ進学して家を出た。
引っ越しの日。
最後の段ボール箱を車に積んで、美緒が言った。
「お母さん、大丈夫?」
恵は笑った。
「何が?」
「一人になるじゃん」
「四十六歳の大人に何言ってるの」
「そうだけど」
「早く行きなさい」
美緒は少し心配そうな顔をした。
それから車に乗った。
恵は手を振った。
車が角を曲がるまで振った。
家に戻った。
玄関に美緒の靴がなかった。
二階へ上がった。
部屋が空だった。
ベッドだけ残っていた。
恵はしばらく立っていた。
そのとき初めて気づいた。
夫が亡くなってから三年間、
自分は美緒の母親として生きていた。
では、美緒がいなくなったら。
私は誰なんだろう。
それからの日曜日が嫌いになった。
平日は仕事があった。
スーパーのパートだった。
同僚と話した。
お客さんに頭を下げた。
値札を貼った。
夕方になれば疲れた。
でも日曜日は朝から何もなかった。
掃除をする。
テレビをつける。
昼になる。
昼ごはんを食べる。
テレビをつける。
夕方になる。
夕飯を作る必要もない。
冷蔵庫にあるもので済ませる。
そして夜になる。
何もしていないのに、一日が終わる。
ある日曜日。
恵はテレビドラマを見ていた。
内容はほとんど覚えていない。
そこに、一人の若い俳優が出ていた。
脇役だった。
名前も知らなかった。
でも一つだけ覚えている場面がある。
主人公の母親が泣いている。
その俳優は何も言わず、テーブルの上に温かいお茶を置く。
それだけだった。
恵はなぜか泣いた。
翌週もドラマを見た。
エンドロールで名前を探した。
神谷悠人。
検索した。
二十八歳。
舞台にも出ているらしい。
一か月後、恵は一人でその舞台を見に行った。
最初は恥ずかしかった。
周りには若い女性が多かった。
自分だけ場違いな気がした。
開演前、隣の女性が話しかけてきた。
「神谷くんですか?」
恵は困った。
「え?」
「誰を見に来たんですか?」
「あ……神谷さん」
女性は笑った。
「私もです」
その人は恵より五歳くらい年下だった。
名前は由美子。
舞台が終わるころには、二人で感想を話していた。
帰りにお茶をした。
恵が夜十時を過ぎて家に帰ったのは、夫が亡くなってから初めてだった。
玄関を開けたとき、
誰も待っていなかった。
でもその夜は、
家がそれほど寂しく感じなかった。
それから十五年。
神谷悠人は有名になった。
ドラマの主演をするようになった。
映画にも出た。
大きな劇場にも立った。
そして恵の人生にも、いろいろなことが起きた。
由美子たちと大阪へ行った。
福岡へ行った。
仙台へ行った。
初めて一人で新幹線に乗った。
五十歳を過ぎてから、初めて北海道へ行った。
ファン仲間四人で温泉にも行った。
神谷が出ていない旅行まで、いつの間にかするようになった。
美緒が結婚した。
孫が生まれた。
スーパーを辞めた。
髪に白いものが増えた。
神谷も二十八歳から四十三歳になった。
昔は「若手俳優」と呼ばれていたのに、いつの間にか後輩から「神谷さん」と呼ばれる側になっていた。
恵はそれを見るのが好きだった。
一緒に歳を取っているような気がした。
もちろん、本当は一緒ではない。
神谷は恵の名前を知らない。
それでもよかった。
五十八歳になったころ、恵はライブや舞台へ行く回数が減っていた。
理由は自分でもよく分からなかった。
嫌いになったわけではない。
ドラマが始まれば見る。
新しい映画が公開されれば嬉しい。
ただ、
全部を追わなくなった。
ある日、由美子からLINEが来た。
「最近、恵ちゃん冷めちゃった?」
その言葉が少し刺さった。
冷めた。
十五年間も好きだったものに、その言葉を使いたくなかった。
でも、以前なら絶対に申し込んでいた舞台を、今回は申し込んでいなかった。
神谷の誕生日にもSNSを見なかった。
ファンクラブから届いたメールも、二日後に開いた。
恵は少し怖くなった。
私は、薄情になったんだろうか。
その年、神谷のデビュー二十周年イベントが開かれた。
長年のファンクラブ会員の中から抽選で百人だけが、小さなトークイベントへ招待された。
恵は当たった。
「やっぱり行きなよ」
由美子が言った。
恵は迷った。
でも行った。
会場は驚くほど小さかった。
昔、初めて神谷を見た劇場を思い出した。
イベントの最後に、一人ずつ短く本人と言葉を交わせる時間があった。
恵は急に緊張した。
十五年間。
何百時間も見てきた人。
でも直接話したことはほとんどない。
列が短くなる。
あと五人。
あと三人。
前の女性が泣いている。
スタッフが合図する。
「次の方、どうぞ」
恵は前へ出た。
神谷悠人は、テレビで見るより少し疲れて見えた。
目尻に小さなしわがあった。
それを見て、恵はなぜか安心した。
神谷が笑った。
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ」
「長く応援してくださってるんですか?」
「十五年です」
神谷の目が少し大きくなった。
「十五年?」
「はい」
「すごいですね」
恵は笑った。
「あなたも十五年続けたんですよ」
神谷が一瞬黙った。
そして笑った。
「確かに」
スタッフが少し離れたところで時間を見ている。
恵には伝えたいことがあった。
何度も頭の中で考えてきた。
でも本人を目の前にすると、全部飛んだ。
だから一番簡単な言葉を言った。
「神谷さん」
「はい」
「あなたのおかげで、生きてこられました。」
神谷の笑顔が少し消えた。
真剣な顔になった。
「……ありがとうございます」
恵の目に涙がたまった。
「夫が亡くなって」
神谷は黙って聞いている。
「娘も家を出て」
「はい」
「私、何にもなくなっちゃった時期があったんです」
声が震えた。
「日曜日が嫌いで」
神谷はうなずいた。
「でも、あなたの舞台を見に行って」
「はい」
「友達ができて」
「はい」
「大阪にも行って」
「はい」
「北海道まで行って」
恵は笑った。
「五十過ぎてからですよ。一人で飛行機乗ったの」
神谷も笑った。
でも目が少し赤かった。
「すごいじゃないですか」
「そうなんです」
恵は涙を拭いた。
「結構すごいんです、私」
二人とも笑った。
スタッフが小さく合図した。
そろそろ時間だった。
恵は最後に、どうしても言いたかった。
「それでね」
「はい」
「もう一つ、伝えたいことがあります」
「はい」
恵は神谷を見た。
そして言った。
「私、もうあなたがいなくても大丈夫です。」
神谷の表情が止まった。
スタッフまで一瞬こちらを見た。
恵は慌てた。
「違うんです」
「……はい」
「嫌いになったって意味じゃなくて」
「はい」
「今でも好きです」
「ありがとうございます」
「でも」
恵は少し考えた。
どう言えば伝わるだろう。
「あなたを追いかけてたら、友達ができたんです」
神谷は黙っている。
「一人で旅行できるようになった」
「はい」
「娘がいなくても、日曜日に出かけられるようになった」
「はい」
「由美子たちと、あなたが出てない旅行にも行くようになったんですよ」
神谷が笑った。
「それはちょっと寂しいですね」
恵も笑った。
「ごめんなさい」
「冗談です」
恵は神谷を見た。
「だからね」
今度は涙を拭かなかった。
「あなたを追いかけているうちに、私、自分の人生まで見つけちゃったんです。」
神谷は何も言わなかった。
恵は続けた。
「だから、あなたがいなくても大丈夫になったことが」
少し声が震えた。
「あなたが私にくれた、一番大きなものなんです。」
神谷は下を向いた。
ほんの数秒だった。
顔を上げると、目が濡れていた。
「それ」
神谷が言った。
「すごく嬉しいです」
恵は笑った。
「本当ですか?」
「はい」
そして少し考えてから、
「たぶん、僕が聞きたかった言葉かもしれません」
と言った。
スタッフがもう一度合図した。
恵は頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました」
神谷も頭を下げた。
「こちらこそ」
恵が歩き出すと、後ろから声がした。
「佐伯さん」
振り返った。
神谷が言った。
「これからも、たくさん出かけてください。」
恵は笑った。
「はい」
帰りの駅。
神谷の新しい舞台の大きなポスターが貼られていた。
以前なら、その場でスマートフォンを出して日程を確認していた。
恵は立ち止まった。
神谷はポスターの中で笑っていた。
「行く?」
隣にいた由美子が聞いた。
恵は少し考えた。
「今回はいいかな」
由美子が驚いた。
「本当に?」
「うん」
「冷めた?」
恵は笑った。
「違うよ」
「じゃあ何?」
「その週、温泉行くじゃん」
由美子が一瞬黙った。
「あ」
「あなたが予約したんでしょうが」
「ああ、そうだった」
二人で笑った。
改札へ向かう。
途中で恵は一度だけ振り返った。
ポスターはまだそこにあった。
昔なら、背を向けることに罪悪感があったかもしれない。
今日はなかった。
その夜。
家に帰ると、美緒から電話が来た。
「イベントどうだった?」
「よかったよ」
「本人と話した?」
「話した」
「何言ったの?」
恵は少し迷った。
「秘密」
「何それ」
「今度会ったとき話す」
「また神谷さんの話、二時間するんでしょう」
「しないよ」
「絶対する」
恵は笑った。
電話の向こうで孫の声がした。
「ばあばー!」
「はいはい」
恵はスマートフォンを耳から少し離した。
「ばあば、今度いつ来る?」
「来週行くよ」
「ほんと?」
「ほんと」
電話を切ったあと、部屋が静かになった。
十五年前なら、その静けさが怖かった。
今は違う。
テーブルには、由美子と行く温泉のパンフレットがある。
来月は美緒たちが来る。
読みかけの本がある。
ベランダの花にも水をやらなければならない。
そしてもちろん、神谷の新しいドラマも始まる。
恵はテレビの横に飾ってある古い写真を見た。
十五年前。
初めて舞台へ行った日の写真。
由美子と二人。
まだ少し若い。
二人とも緊張した顔で笑っている。
その隣には夫の写真がある。
その隣には、美緒の結婚式。
その隣には、孫。
昔の恵なら、それぞれを別々の人生だと思っていたかもしれない。
夫といた人生。
母親としての人生。
神谷を追いかけた人生。
一人になった人生。
でも今は、
全部同じ一本の人生だった。
何かが終わるたび、
自分も終わると思っていた。
夫を失ったとき。
娘が家を出たとき。
そしていつか、
神谷を追わなくなる日が来たときも。
でも実際には、
何かが終わるたびに、
そこから持っていけるものがあった。
愛した記憶。
教えてもらったこと。
出会った人。
行けるようになった場所。
少し勇敢になった自分。
それらは、相手がいなくなった瞬間に返さなければならないものではなかった。
恵は写真に向かって、小さく言った。
「ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
夫かもしれない。
娘かもしれない。
神谷かもしれない。
由美子かもしれない。
十五年前の日曜日に、
一人で舞台へ行くことを決めた自分かもしれない。
電気を消した。
明日は月曜日だった。
昔、嫌いだった日曜日が終わる。
恵はもう、
次の日曜日を怖いとは思わなかった。
Footnote|『イン・ザ・メガチャーチ』とのつながり
この物語は、『イン・ザ・メガチャーチ』とPart 1・2で考えた「献身と依存」の境界を、失う側ではなく成長して離れられるようになる側から拡大しています。何かを人生の支えにすることは、必ずしもその人の世界を狭くするとは限りません。大切なのは、その愛が世界を閉じるのか、それとも新しい人、場所、経験へと広げるのか。「あなたがいないと生きられない」から「あなたがいたから、自分で生きられる」へ。 それもまた、深い献身が残すものなのかもしれません。
Story 4: 何の役にも立たない店

田村修一が古本屋を閉めると決めたのは、七十歳になった翌日のことだった。
特別な出来事があったわけではない。
朝九時半に店を開けた。
シャッターを上げた。
外に百円均一のワゴンを出した。
床を掃いた。
レジの電源を入れた。
そして午後六時に閉めた。
その日の売上は、
千八百四十円だった。
電気代にもならない。
修一はレジの数字を見て、
「まあ、そうだよな」
と言った。
誰も聞いていなかった。
店の名前は「田村書房」。
書房といっても、立派なものではない。
地方都市の駅から十五分ほど歩いた古い商店街にある。
四十五年前、修一が二十五歳のときに始めた。
昔はよく売れた。
文庫本。
漫画。
参考書。
週刊誌。
辞書。
写真集。
土曜日になると高校生が何人も立ち読みしていた。
近所の会社員が昼休みに来た。
学校帰りの子どもたちが漫画を読んだ。
妻の和子はレジを手伝った。
忙しい日は二人とも昼ごはんを食べる時間がなかった。
それが今では、
一日に五人来れば多い。
三人の日もある。
誰も来ない午後もある。
息子の健太は東京に住んでいた。
電話をすると、
「もういいんじゃない?」
と言った。
「何が」
「店」
修一は黙った。
「親父、七十だろ」
「七十だから何だ」
「別に悪いって言ってないよ」
健太は少し笑った。
「もう十分やったじゃん」
十分。
その言葉が妙に残った。
四十五年。
確かに十分長い。
「母さんもいないんだし」
健太が言った。
和子は五年前に亡くなった。
「店に座って一日終わるより、旅行でもしたら?」
「旅行なんか興味ない」
「じゃあ釣りとか」
「釣りも興味ない」
「何かあるだろ」
修一は考えた。
何も思いつかなかった。
電話を切ったあと、
店を見回した。
売れない本が何千冊も並んでいた。
四十五年間。
自分は何をしていたんだろう。
本を右から左へ動かしていただけではないか。
若いころは店を大きくしたいと思っていた。
二号店を出そうと考えたこともある。
結局、一店舗のままだった。
金持ちにもならなかった。
町を変えたわけでもない。
誰かを育てたわけでもない。
賞をもらったわけでもない。
七十歳。
売上千八百四十円。
修一は笑った。
「何の役にも立たん店だな」
翌週、入口に紙を貼った。
田村書房は今月末をもちまして閉店いたします。
四十五年間、ありがとうございました。
和子が生きていたら、
「字が汚い」
と言っただろう。
修一はそう思った。
最初の数日は何も変わらなかった。
いつもの老人が百円の時代小説を買った。
高校生が参考書を見て帰った。
近所の女性が料理本を買った。
それだけだった。
ところが日曜日。
四十代くらいの女性が入ってきた。
「田村さん?」
修一は顔を上げた。
知らない顔だった。
「はい」
女性は笑った。
「やっぱり」
「どちらさん?」
「覚えてないですよね」
「すみません」
「いえ、四半世紀前ですから」
女性は店の奥へ行った。
漫画の棚の前で立ち止まった。
「この辺でした」
「何が?」
「私の場所」
修一には分からなかった。
女性が笑った。
「高校生のころ、毎日ここで漫画読んでたんです」
「ああ」
もちろん覚えていない。
「買わないで」
「それは困った客だな」
女性が笑った。
「ですよね」
少しして、静かに言った。
「家に帰りたくなかったんです」
修一は女性を見る。
「両親、仲悪くて」
女性は本棚を見ながら話した。
「学校終わって、ここで一時間くらい漫画読んで、六時くらいになってから帰ってました」
「そうですか」
「田村さん、何にも言わなかった」
「買わない客に?」
「はい」
「覚えてないな」
「それがよかったんです」
女性は一冊の漫画を棚から抜いた。
古い少女漫画だった。
「これ、買います」
「百円」
「安すぎません?」
「だから潰れるんだ」
女性は笑った。
会計を済ませたあと、
入口で振り返った。
「ありがとうございました」
修一は頭を下げた。
「こちらこそ」
女性が出ていった。
修一は百円玉を見た。
妙な百円だった。
三日後。
五十代の男性が来た。
「閉めるんですね」
「はい」
「寂しいな」
「来てなかったじゃないですか」
修一が言うと、男性は笑った。
「ごもっとも」
その男も昔の客だった。
二十年ほど前、毎週土曜日に来ていたという。
「離婚したばっかりでね」
修一は覚えていなかった。
「ここでよく本見てました」
「何の本?」
「何でも」
「何でも?」
「本が読みたかったわけじゃないんです」
男は笑った。
「じゃあ何しに来てたの」
「家に帰りたくなかった」
またか。
修一は思った。
この店は、家に帰りたくない人ばかり来ていたのか。
男性は言った。
「田村さん、話しかけてこなかったでしょう」
「接客が苦手だからな」
「それがよかった」
修一は眉をひそめた。
「何もしなかったのが?」
「はい」
男は笑った。
「何もしないでいてくれたのが、ありがたかったんです」
修一にはよく分からなかった。
閉店の知らせがSNSに載ったらしい。
それから少しずつ人が来るようになった。
「子どものころ来てました」
「ここで初めて村上春樹買いました」
「受験のとき参考書買いました」
「昔、ジャンプ取り置きしてもらってました」
知らない顔ばかりだった。
いや、
昔は知っていたのかもしれない。
ただ、修一が忘れているだけだった。
ある女性は、小学生の息子を連れてきた。
「お母さん、ここ来てたの?」
「毎週来てたよ」
「何買ってたの?」
「買ってない」
修一が横から言った。
「そういう客ばっかりだ」
店の中に笑い声が起きた。
閉店まであと四日。
夕方、若い男性が一人で入ってきた。
三十歳くらい。
スーツ姿だった。
店内をゆっくり歩いている。
何も買う様子がない。
しばらくしてレジへ来た。
「田村さん」
「はい」
「僕、覚えてます?」
修一は顔をよく見た。
分からない。
「すみません」
男性は笑った。
「ですよね」
少し安心したようにも見えた。
「僕、中学生のころ、毎週火曜日に来てました」
「火曜日?」
「学校に行ってなかったんです」
修一は男性を見る。
「不登校で」
「ああ」
修一の記憶の奥で、何かが動いた。
毎週昼ごろに来る少年。
制服ではなかった。
いつも同じパーカーを着ていた。
本を読むでもなく、
店の奥に座っていた。
「もしかして」
「はい」
「眼鏡かけてた?」
男性が笑った。
「かけてました」
「細かったな」
「今は太りました」
「確かに」
二人とも笑った。
修一は少し嬉しくなった。
「何してるの、今」
「市役所です」
「立派じゃないか」
男性は首を振った。
「普通です」
「普通が一番だ」
しばらく沈黙した。
男性は店内を見回した。
「あのころ」
ゆっくり話し始めた。
「学校に行けなくて」
「うん」
「でも家にいると、母親が心配するんです」
「うん」
「何で行けないのって」
修一は黙って聞いた。
「先生からも電話が来るし」
「うん」
「友達からもLINEが来るし」
「うん」
「みんな心配してくれてたんです」
男性は笑った。
「だから余計しんどくて」
修一には、その感じが少し分かった。
「ここに来ると」
男性は店の奥を見た。
「田村さん、何も聞かなかったでしょう」
修一は苦笑した。
「またそれか」
「え?」
「最近、何もしなかったことばっかり褒められる」
男性は笑った。
修一も笑った。
「でも、本当にそうなんです」
男性の顔が少し真剣になった。
「ここでは学校へ行かなくていい理由を説明しなくてよかった」
修一は黙った。
「元気になる必要もなかった」
「……うん」
「将来どうするのって聞かれなかった」
「そんなこと聞いても俺に分からんからな」
男性が笑った。
そして、
しばらくして言った。
「ここだけ、何者にもならなくてよかったんです。」
修一は返事ができなかった。
店の時計の音だけが聞こえた。
男性は続けた。
「何かしてもらったわけじゃないんです」
「うん」
「でも、ここがあったから」
少し声が震えた。
「行く場所が一つありました。」
修一はレジの下を見た。
急に顔を上げられなくなった。
「そうか」
それだけ言った。
男性も、
「はい」
とだけ答えた。
その夜。
店を閉めたあと、修一は一人で椅子に座った。
電気を消さなかった。
四十五年。
この椅子に何時間座っただろう。
売れない日。
雨の日。
暑い日。
和子と喧嘩した日。
健太が生まれた日。
母親が死んだ日。
和子が病院へ行った日。
そして和子がいなくなってからの五年間。
修一はずっと、
店を開けた。
大したことではないと思っていた。
朝、シャッターを上げる。
夜、シャッターを下げる。
ただそれだけ。
でも、
誰かにとっては、
シャッターが上がっていること自体に意味があったらしい。
修一は店内を見回した。
「和子」
小さく呼んだ。
もちろん返事はない。
「俺たち、何やってたんだろうな」
しばらくして、
自分で答えた。
「本、売ってたんだよな」
それがおかしくて、
少し笑った。
閉店前日。
健太が東京から帰ってきた。
「手伝うよ」
「別にいい」
「本どうするの?」
「業者が持ってく」
「全部?」
「ほとんど」
健太は店内を見た。
「もったいないな」
修一は笑った。
「お前が店継ぐか?」
「それは嫌だ」
「じゃあ言うな」
二人で段ボール箱を作った。
作業をしながら健太が言った。
「親父」
「何」
「店、続ける気になってない?」
修一は手を止めた。
「何で」
「最近、人いっぱい来るから」
「来月になったらまた誰も来なくなる」
「でも、みんな感謝してるじゃん」
修一は段ボール箱に本を入れた。
「だから?」
「いや……」
「続けたほうがいいと思う?」
健太は考えた。
「親父がやりたいなら」
修一は首を振った。
「やらん」
「即答だな」
「疲れた」
健太が笑った。
「じゃあ閉めればいい」
「うん」
それで話は終わった。
最後の日。
朝から人が来た。
昔の客。
近所の人。
知らない人。
あの女性も来た。
離婚した男性も来た。
市役所の青年も来た。
夕方六時。
修一は言った。
「そろそろ閉めます」
誰かが拍手を始めた。
「やめろ、そういうの」
修一が言った。
でも拍手は大きくなった。
「やめろって」
修一は笑った。
泣きそうだったので、
下を向いた。
最後の客が外へ出た。
健太がシャッターの横に立った。
「親父」
「何」
「閉める?」
修一は店内を振り返った。
四十五年間。
和子がレジに座っている姿が、一瞬見えた気がした。
若い健太が床で漫画を読んでいる。
高校生が立ち読みしている。
火曜日の少年が奥に座っている。
何も買わない。
何も話さない。
ただそこにいる。
修一は電気を消した。
外へ出た。
シャッターに手をかける。
ゆっくり下ろした。
半分。
三分の二。
あと少し。
そこで手を止めた。
「結局」
修一が言った。
「何の役にも立たん店だったな」
健太が、
「またそれ?」
と笑った。
すると後ろから声がした。
「そうですね」
修一が振り返った。
市役所の青年だった。
修一は眉をひそめた。
「お前、そこは否定するところだろ」
青年は笑った。
「でも、本当にそうだったと思います」
「失礼なやつだな」
「だって、僕を学校に戻してくれたわけでもないし」
「うん」
「勉強教えてくれたわけでもない」
「うん」
「相談に乗ってくれたわけでもない」
「そうだな」
「人生変えてくれたわけでもないです」
修一は笑った。
「じゃあ本当に何もしてないな」
「はい」
青年も笑った。
そして言った。
「でも、あってよかったです。」
修一は青年を見た。
何か言おうと思った。
でも、
何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
シャッターを最後まで下ろした。
金属の音が商店街に響いた。
鍵をかけた。
四十五年間続いた田村書房は、
それで終わった。
翌朝。
修一は六時に目が覚めた。
いつもの癖だった。
布団の中で、
「ああ、店開けなくていいのか」
と思った。
少し寂しかった。
でも、
少し嬉しかった。
台所へ行った。
コーヒーを淹れた。
テレビをつけた。
ニュースを見た。
八時。
九時。
いつもなら家を出る時間になった。
修一は時計を見た。
何をしていいか分からない。
健太が言っていた。
旅行。
興味はない。
釣り。
もっと興味がない。
修一はコーヒーを飲んだ。
そして、
何もしなかった。
十時になった。
窓から光が入っていた。
修一はふと思った。
これも悪くないな。
四十五年間、
毎朝シャッターを上げた。
それだけで誰かの居場所になっていた日があった。
本人が知らないところで。
本人が何の意味もないと思っていた時間が、
誰かの人生の片隅に残っていた。
だとしたら、
人生の価値というものは、
本人にも全部は分からないのかもしれない。
役に立ったかどうか。
成功したかどうか。
何人に影響したか。
どれだけ残したか。
そんなことを全部数えなくても、
いいのかもしれない。
修一は二杯目のコーヒーを淹れた。
今日は予定がない。
何の役にも立たない一日になりそうだった。
修一は窓際の椅子に座った。
そして、
ゆっくり飲んだ。
Footnote|『イン・ザ・メガチャーチ』とのつながり
『イン・ザ・メガチャーチ』が問いかける「人は何に自分を使うのか」をさらに広げると、逆の問いが生まれます。人生は、何かの役に立たなければ価値がないのでしょうか。 推し活、読書、友情、店で過ごす時間。社会的な成果としては測れなくても、それが誰かの居場所になることがあります。修一が四十五年間の意味を知らなかったように、私たちも自分の「何でもなかった時間」が誰かに何を残したのか、最後まで知らないのかもしれません。
Story 5: 日曜日を返してください

黒田玲奈の一日は、朝五時三十分に始まる。
目覚ましが鳴る前に目が覚めることも多い。
水を飲む。
ストレッチ。
三十分走る。
シャワー。
朝食を食べながら英語のポッドキャスト。
六時五十分。
メール確認。
七時十五分。
今日の予定を確認。
玲奈のスマートフォンには、空白がほとんどなかった。
予定は色分けされている。
仕事。
家族。
健康。
学習。
投資。
人脈。
休息。
休息まで予定に入っていた。
22:00〜22:30 読書・リラックス
夫の直樹は、それを見るたびに笑った。
「リラックスする時間まで予約する人、初めて見た」
玲奈は言った。
「入れないと、しないから」
「リラックスを?」
「そう」
直樹は首を振った。
「大変だね」
玲奈は笑った。
「あなたが適当すぎるの」
四十五歳。
小さな会社を立ち上げて十二年。
社員は三十人を超えた。
業績もいい。
雑誌に紹介されたこともある。
経営者向けのイベントで講演もする。
テーマはよく、
「限られた時間を最大化する方法」
だった。
玲奈は本気でそう思っていた。
時間だけは取り戻せない。
お金は失っても稼ぎ直せる。
仕事もやり直せる。
でも一時間前には戻れない。
だから一分も無駄にしたくない。
娘の遥が生まれてからも、その考えは変わらなかった。
むしろ強くなった。
仕事をしながら、
母親としても後悔したくない。
だから家族旅行を計画した。
美術館へ連れて行った。
キャンプへ行った。
英語教室。
ピアノ。
水泳。
読書。
夏休みには海外旅行。
月に一度は「母娘の日」を入れた。
仕事だけの母親にはなりたくなかった。
玲奈は、
ちゃんとやってきたつもりだった。
遥が十八歳になった春。
東京の大学へ進学することが決まった。
家から通えない距離ではない。
でも本人が一人暮らしを希望した。
玲奈は反対しなかった。
「いい経験になると思う」
と言った。
すぐに物件を調べた。
大学までの距離。
治安。
オートロック。
家賃。
スーパー。
病院。
災害リスク。
家具リストも作った。
引っ越しのチェックリストは三十二項目になった。
遥が笑った。
「お母さん、私が海外移住するみたい」
「最初が大事なの」
「はいはい」
引っ越しまであと二週間の日曜日。
家族三人で夕食を食べていた。
玲奈はスマートフォンの写真を見ていた。
遥の小さいころの写真だった。
ハワイ。
京都。
北海道。
キャンプ。
ディズニーランド。
美術館。
ピアノの発表会。
玲奈は少し寂しくなった。
「もっといろいろ連れて行ってあげればよかったな」
遥が顔を上げた。
「十分行ったよ」
「でも仕事忙しかったから」
「旅行はめちゃくちゃ行ったじゃん」
「そうかな」
「私、小学生でニューヨーク行ってるからね」
直樹が笑った。
「贅沢な子だ」
「お父さんほとんど寝てたけどね」
「時差だよ」
三人で笑った。
少しして、遥が言った。
「でも」
玲奈は写真を見ながら聞いた。
「何?」
「私、お母さんと何もしなかった思い出って、あんまりないかも」
玲奈は顔を上げた。
「何もしなかった思い出?」
「うん」
「それ、思い出になるの?」
遥が笑った。
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
遥は箸を置いた。
「何て言えばいいんだろう」
少し考えた。
「お母さんとの思い出って、全部予定表に入ってる感じ」
玲奈は笑った。
「当たり前でしょう。予定入れないと時間取れないんだから」
「うん」
「旅行も行ったし、美術館も行ったし」
「うん。楽しかったよ」
「じゃあ何?」
遥は困った顔をした。
「だから、文句じゃないの」
「だったら?」
遥は少し黙った。
そして言った。
「私、お母さんと無駄な日曜日を過ごしてみたかった。」
玲奈には意味が分からなかった。
「無駄な日曜日?」
「うん」
「何するの?」
遥が笑った。
「だから、何もしないの」
「それの何がいいの?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「うん」
玲奈は直樹を見た。
直樹は黙って食べていた。
「あなた分かる?」
「ちょっと分かる」
「何で?」
直樹は少し考えた。
「俺、子どものころ親父と日曜日に何したかって、あんまり覚えてないんだよ」
「ほら」
「でも、一緒に昼寝したのは覚えてる」
玲奈はますます分からなかった。
「昼寝?」
「うん」
「それが思い出?」
「なぜかね」
遥が笑った。
玲奈だけ笑えなかった。
その夜、ベッドに入ってからも、
無駄な日曜日
という言葉が頭に残った。
玲奈はスマートフォンを開いた。
カレンダーを見る。
遥が三歳のころまで遡った。
動物園。
英語教室。
親子体操。
水族館。
誕生日会。
旅行。
写真館。
イベント。
確かに、たくさんあった。
玲奈は安心した。
私はちゃんと母親をしてきた。
スマートフォンを置いた。
でも眠れなかった。
翌週。
仕事中、秘書が言った。
「日曜日の経営者交流会、先方から最終確認が来ています」
玲奈は、
「参加します」
と言いかけた。
カレンダーを見る。
午前十時から午後一時。
そのあと午後三時からオンラインセミナー。
夜は翌週の準備。
遥が家にいる最後の日曜日だった。
玲奈は少し考えた。
「全部キャンセルしてください」
秘書が驚いた。
「日曜日、全部ですか?」
「はい」
「何かご予定ですか?」
玲奈は答えようとして、
止まった。
「ありません」
「では別の日に振り替えますか?」
「いえ」
「何か入れておきましょうか?」
「入れないでください」
自分で言っていて、変な気分だった。
カレンダーに、
真っ白な日曜日ができた。
日曜日。
玲奈は五時四十分に目が覚めた。
予定がない。
とりあえず走ろうと思った。
ランニングウェアに着替えかけて、
やめた。
六時。
誰も起きていない。
コーヒーを淹れた。
メールを開いた。
三通返信したところで、
遥がパジャマ姿で下りてきた。
「何してるの?」
「メール」
「今日休みじゃないの?」
「メールくらいは」
遥が玲奈のスマートフォンを取った。
「ちょっと」
「没収」
「仕事なんだけど」
「今日何するの?」
玲奈は答えた。
「何もしない」
遥が笑った。
「本当に?」
「あなたが言ったんでしょう」
「じゃあメールしちゃダメじゃん」
「何もしないって、本当に何もしないわけじゃないでしょう」
「もう始まってる」
「何が?」
「お母さんの効率化」
玲奈はため息をついた。
「じゃあ何すればいいの」
遥は冷蔵庫を開けた。
「知らない」
「知らない?」
「うん」
「朝ごはんは?」
「何でもいい」
「出かける?」
「どっちでもいい」
「映画?」
「別に」
「買い物?」
「行ってもいい」
玲奈は少し苛立った。
「何か決めてよ」
遥が笑った。
「それじゃ無駄な日曜日じゃないじゃん」
午前十時。
二人はまだ家にいた。
玲奈には耐えられなかった。
洗濯をした。
キッチンを片づけた。
本棚を整理しようとした。
遥に止められた。
「お母さん、掃除の日じゃないから」
「何もしないって汚い部屋で暮らすことじゃないでしょう」
「はいはい」
十一時。
遥が言った。
「お腹すいた」
「何食べる?」
「何でも」
「何でもが一番困る」
結局、二人でスーパーへ行った。
玲奈は買い物リストを作ろうとした。
遥が止めた。
「今日はなし」
「必要なもの忘れるでしょう」
「忘れたらまた来ればいいじゃん」
玲奈は、その発想に少し驚いた。
スーパーは家から車で七分だった。
忘れたらまた来ればいい。
確かにそうだった。
二人は必要のないものをたくさん買った。
新発売のポテトチップス。
高いプリン。
外国のお菓子。
遥が子どものころ好きだったアイス。
玲奈が言った。
「こんなの食べたら今日走ってないのに」
遥が玲奈を見る。
「お母さん」
「何」
「今日だけ、カロリーも休ませてあげて」
玲奈は笑った。
「カロリーは休まないでしょう」
「細かいなあ」
帰り道。
遥が突然言った。
「右行って」
「家は左だけど」
「いいから」
右へ曲がった。
「どこ行くの?」
「知らない」
「知らないの?」
「うん」
「何で右って言ったの?」
「なんとなく」
玲奈は呆れた。
でも、そのまま走った。
知らない住宅街へ入った。
道を間違えた。
行き止まりになった。
遥が大笑いした。
「ほら」
玲奈が言った。
「無駄じゃない」
「最高じゃん」
「何が最高なの」
「行き止まり」
二人で笑った。
公園があった。
小さな公園だった。
二人は車を停めた。
買ったアイスを食べた。
近くで犬が走っていた。
白い小さな犬だった。
ボールを追いかけて転んだ。
遥が笑った。
玲奈も笑った。
しばらく見ていた。
五分。
十分。
玲奈はふとスマートフォンを取り出した。
写真を撮ろうとした。
遥が言った。
「撮らなくていいじゃん」
玲奈は手を止めた。
「何で?」
「覚えてれば」
「忘れるかもしれないでしょう」
「忘れてもいいじゃん」
玲奈は娘を見る。
「思い出なのに?」
遥は肩をすくめた。
「全部残さなくてもいいよ」
その言葉が、
玲奈には少し寂しく、
でも不思議に優しく聞こえた。
スマートフォンをバッグに戻した。
二人はベンチに座った。
話した。
大学のこと。
遥の友達。
玲奈の会社。
昔のこと。
どうでもいいこと。
遥が小学生のころ、玲奈の化粧品を勝手に使って怒られた話。
中学の運動会で直樹が転んだ話。
ハワイ旅行で玲奈が全員を朝六時に起こして、日の出を見に行かせた話。
「お母さん、あの旅行すごかったよね」
「楽しかったでしょう?」
「楽しかったけど、修学旅行みたいだった」
「ちゃんと計画しないともったいないでしょう」
「朝六時、日の出。七時、朝食。八時十五分、出発」
遥が母親の真似をする。
玲奈は笑った。
「そんなだった?」
「分刻み」
「嘘」
「本当」
二人で笑った。
少しして、遥が言った。
「でも楽しかったよ」
「本当?」
「うん」
玲奈はほっとした。
すると遥が続けた。
「今日も楽しい」
玲奈は周りを見た。
何もない。
普通の公園。
溶けかけたアイス。
知らない犬。
予定になかったベンチ。
「これが?」
「うん」
玲奈は少し笑った。
「安上がりだったね」
「そういう計算するからダメなんだよ」
また笑った。
夕方になった。
家へ帰った。
夕飯はスーパーで買った惣菜にした。
玲奈は一瞬、
「最後の日曜日なんだから、ちゃんとしたものを作ればよかった」
と思った。
でも言わなかった。
三人でテレビを見ながら食べた。
途中で直樹が寝た。
遥が父親の寝顔を撮った。
玲奈が言った。
「写真撮らないんじゃなかったの?」
「これは必要」
「何で」
「ひどい顔だから」
二人で声を殺して笑った。
夜。
遥が部屋へ戻ったあと、
玲奈は一人でダイニングテーブルに座った。
手帳を開いた。
月曜日。
予定がびっしり書いてある。
火曜日も。
水曜日も。
木曜日も。
金曜日も。
そして今日。
日曜日。
真っ白だった。
玲奈はその空白を見た。
以前なら、
一日を無駄にしたように感じただろう。
本を一冊読めた。
資料を作れた。
走れた。
オンライン講座を受けられた。
人に会えた。
来週の仕事を前倒しできた。
八時間。
十時間。
使おうと思えば、いくらでも使えた。
今日、何をした?
スーパーへ行った。
道を間違えた。
アイスを食べた。
犬を見た。
ベンチに座った。
どうでもいい話をした。
夫の寝顔を見て笑った。
それだけだった。
何も生み出していない。
何も成長していない。
何も達成していない。
玲奈はペンを取った。
日曜日の欄に書いた。
今日は、何の役にも立たなかった。
書いてから、
少し笑った。
Story 4の修一のように、その言葉を悪い意味だけでは感じなかった。
しばらく空白を見ていた。
そして、その下にもう一行書いた。
でも、今日があってよかった。
手帳を閉じようとして、
やめた。
もう一度開いた。
来週の日曜日を見る。
午前十時。
「マーケティング戦略研究会」。
午後二時。
「ジム」。
午後四時。
「翌週準備」。
玲奈はしばらく見ていた。
全部消す必要はない。
仕事は好きだ。
学ぶことも好きだ。
走ることも好きだ。
忙しい人生を間違いだったことにする必要もない。
遥と行った旅行も、
美術館も、
キャンプも、
全部楽しかった。
それも自分の人生だった。
玲奈はマーケティング戦略研究会だけ消した。
空白が三時間できた。
そこに、
何も書かなかった。
翌週、遥は家を出た。
玄関には段ボール箱が並んでいた。
玲奈は最後まで、
「忘れ物ない?」
と聞いた。
「ない」
「保険証は?」
「ある」
「充電器」
「ある」
「薬」
「ある」
「銀行の」
「お母さん」
「何」
遥が笑った。
「大丈夫」
玲奈も笑った。
「分かってる」
玄関を出る前、
遥が振り返った。
「この前の日曜日、楽しかった」
「うん」
「またやろうね」
玲奈は言った。
「何もしないのを?」
「うん」
「予定入れる?」
遥が大笑いした。
「入れたら意味ないじゃん」
「じゃあどうやって決めるの?」
「そのうち」
「そのうちっていつ?」
「分かんない」
玲奈は何か言おうとした。
でも、
やめた。
「分かった」
と言った。
遥は少し驚いた顔をした。
「お母さん、成長したね」
「そういう評価もいらない」
二人で笑った。
車が見えなくなるまで、
玲奈は玄関の前に立っていた。
家に戻る。
静かだった。
遥の部屋へ行った。
机が空になっている。
ベッドだけが残っていた。
玲奈はベッドに座った。
寂しかった。
当然だった。
十八年間、
毎日そこにいた人がいなくなったのだから。
その寂しさを、
何かで埋めようとは思わなかった。
スマートフォンを取り出さなかった。
仕事もしなかった。
本も読まなかった。
ただ、
しばらくそこに座っていた。
窓から午後の光が入っていた。
何分経ったか分からない。
十分かもしれない。
三十分かもしれない。
玲奈は時計を見なかった。
彼女はこれからも忙しく生きるだろう。
仕事をする。
目標も立てる。
旅行も計画する。
本も読む。
運動もする。
人にも会う。
人生をできるだけ大切に使いたいという気持ちは、
たぶん変わらない。
ただ、
以前とは少しだけ意味が違っていた。
人生を使い切るということは、
すべての時間を有効活用することではないのかもしれない。
誰かを愛する時間。
何かに夢中になる時間。
間違った道を選ぶ時間。
途中でやめる時間。
友達と笑う時間。
何も決めない時間。
誰にも見せない時間。
何にもならない時間。
それらも全部、
人生を使っている時間なのかもしれない。
その夜。
玲奈は手帳をもう一度開いた。
昨日書いた二行があった。
今日は、何の役にも立たなかった。
でも、今日があってよかった。
玲奈はしばらく眺めた。
そして初めて、
その二行の間に、
何も書き足さなかった。
説明もしなかった。
教訓にも変えなかった。
SNSにも投稿しなかった。
写真もなかった。
成果もなかった。
ただ、
一日があった。
娘がいた。
自分がいた。
それで十分だった。
玲奈は手帳を閉じた。
明日の朝も、
たぶん五時三十分に起きる。
予定はたくさんある。
人生は続く。
でも次の日曜日には、
三時間だけ、
何も書かれていない。
その空白を見て、
玲奈は少し笑った。
そして、
そのままにしておいた。
Footnote|『イン・ザ・メガチャーチ』とのつながり
『イン・ザ・メガチャーチ』から始まった「人は何によって動くのか」という問いを、この最終話では「では、自分の時間を何に使いたいのか」へ返しています。物語、推し、仕事、家族、成長、成功。どれも人を動かす力になります。しかし「人生を使い切ること」は、すべての時間を成果へ変えることではないのかもしれません。誰かと何もしなかった午後さえ、「あの時間があってよかった」と思えるなら、それもまた十分に生きた時間なのではないでしょうか。
最後に

「あの時間があってよかった」と言える人生
最初の物語で、美咲は自分が誰かの作った物語に動かされていたことを知りました。
けれど彼女は最後に、自分の三年間まで誰かに奪わせる必要はないと気づきます。
直人は、その反対でした。
間違った物語を信じたくない。間違った人生を選びたくない。だからあらゆる可能性を見ようとした。
しかし、世界をすべて理解してから人生を始めることはできません。
「分からないけど、君とやってみたい。」
その言葉で、彼の人生はようやく動き始めました。
恵は十五年間、一人の俳優を追いかけました。
一見すれば、誰かに人生の大きな部分を差し出した十五年間です。
でも、その人を追いかけているうちに、友達ができた。知らない街へ行けるようになった。一人でも生きられるようになった。
だから彼女は最後に、
「もうあなたがいなくても大丈夫です。」
と言えました。
それは愛が終わった言葉ではありません。
愛によって世界が広がった人の言葉でした。
そして修一は、四十五年間続けた古本屋について「何の役にも立たなかった」と言いました。
確かに彼は誰かを救おうとはしなかった。
人生相談もしなかった。
学校へ戻したわけでもない。
ただ毎朝、シャッターを上げていただけでした。
それでも誰かにとって、そこは「何者にもならなくていい場所」だった。
人生の価値とは、本人にさえ全部見えるものではないのかもしれません。
最後に玲奈は、一分も無駄にしない人生から、たった一日の空白を経験します。
スーパーへ行く。
道を間違える。
アイスを食べる。
犬を見る。
娘とどうでもいい話をする。
何も達成しない。
そして手帳に書きます。
「今日は、何の役にも立たなかった。」
その下に、
「でも、今日があってよかった。」
と。
もしかすると、人生を使い切るとは、すべての時間を有効活用することではないのでしょう。
夢中になった時間も。
間違った時間も。
誰かを愛した時間も。
立ち止まった時間も。
何も生み出さなかった午後も。
いつか振り返ったとき、
「あの時間があってよかった」
と言えるなら。
その時間もまた、
十分に生きた時間なのだと思います。
Short Bios:
朝井リョウ
日本の小説家。現代社会の価値観や人間関係、若者の意識を鋭く描いてきました。『イン・ザ・メガチャーチ』では、「推し活」という現代的な現象だけにとどまらず、人は何によって動き、何に時間や感情を差し出すのかという大きな問いを描いています。
水野美咲
Story 1「あと一人で、夢が叶う」の主人公。何気なく始めた推し活によって人生が広がる一方、その背後にあるマーケティングの仕組みを知り、自分が経験した幸福まで偽物だったのかと苦しみます。
高橋直人
Story 2「全部わかってから決めます」の主人公。多くの視点を理解できるからこそ、間違った選択を恐れて動けなくなった男性。すべてを理解してから選ぶのではなく、不確実なまま一つの場所に立つことを学んでいきます。
佐伯恵
Story 3「あなたがいなくても、私は生きていく」の主人公。夫を亡くし、娘も家を出たあと、一人の俳優を十五年間応援します。その時間を通じて友人や新しい世界と出会い、やがて「推し」がいなくても生きられる自分へと変わっていきます。
田村修一
Story 4「何の役にも立たない店」の主人公。四十五年間、小さな古本屋を営んできた七十歳の男性。閉店を前に、何も成し遂げなかったと思っていた店が、知らないところで誰かの居場所になっていたことを知ります。
黒田玲奈
Story 5「日曜日を返してください」の主人公。一分も無駄にせず、仕事も家族も自己成長も大切にしてきた45歳の経営者。娘の一言をきっかけに、「何もしない時間」もまた人生の一部なのだと気づき始めます。
Disclaimer
本記事は、朝井リョウ著『イン・ザ・メガチャーチ』から着想を得て制作したオリジナルのフィクションです。5つの短編に登場する人物、会話、出来事は架空のものであり、原作の物語や登場人物を再現したものではありません。原作およびPart 1・Part 2で考えてきたテーマをもとに、「人を動かすもの」「物語」「献身」「選択」「人生の時間」という問いを、異なる現代の人生を通してさらに考えることを目的としています。

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