
はじめに
愛しているのに、一緒に生きられない。それでも、その愛は本物だったのでしょうか。
愛する人と一緒にいられたら、幸せになれる。
若い頃、私たちはそう信じています。
好きな人と出会い、心を通わせ、いつか同じ家で暮らす。困難があっても、二人で乗り越えていく。愛し合っているのだから、最後にはきっと分かり合える。
けれど、現実の人生は、そんなに単純ではありません。
愛しているのに、離れなければならないことがある。
一緒にいたいのに、家族を置いていけないことがある。
相手の幸せを願っているのに、その願いが相手を苦しめてしまうこともある。
そして、ときには、愛する人と結ばれなかった人生にも、思いがけない幸せが待っていることがあります。
凪良ゆうの小説『汝、星のごとく』は、そんな人生の矛盾を、静かに、そして容赦なく描いた物語です。
瀬戸内海の島で出会った井上暁海と青埜櫂。
それぞれ複雑な家庭環境を抱えた二人は、互いの孤独を知り、惹かれ合います。
櫂は漫画の世界で夢を追い、暁海は島に残って自分の生活を守ろうとする。
二人は愛し合っていました。
それでも、同じ未来を選ぶことができませんでした。
私たちは、そんな二人を見ると、つい考えてしまいます。
「もっと素直に話し合っていれば」
「どちらかが少し我慢していれば」
「本当に愛していたなら、別の選択ができたのではないか」
しかし、その問いには、一つの危険が潜んでいます。
私たちはいつの間にか、愛が本物だったかどうかを、二人が結ばれたかどうかで判断してしまうのです。
では、結ばれなかった愛は失敗なのでしょうか。
夢を追いかけた人は、愛する人を裏切ったのでしょうか。
親を置いて自分の人生を選ぶことは、冷たいことでしょうか。
恋愛感情とは違う形で結ばれた夫婦は、本当の家族ではないのでしょうか。
そして、愛する人を失った後に再び幸せになることは、その人を忘れることなのでしょうか。
この架空対話では、物語の登場人物たちを、瀬戸内海を見渡す古い家に招きました。
暁海と櫂。
二人の人生を見守ってきた北原先生。
自分らしく生きることの難しさを知る植木瞳子。
そして、親として、子どもとして、友人として、それぞれの愛と後悔を抱えてきた人々。
物語の時間を越え、生と死の境界さえ越えて、彼らがもう一度語り合えるとしたら。
あのとき言えなかった言葉を、今なら伝えられるでしょうか。
相手の選択を、今なら少し違った目で見られるでしょうか。
そして、自分自身を、もう少し許せるでしょうか。
今回の対話では、五つの問いを中心に、登場人物たちの心の奥へ近づいていきます。
愛しているのに、なぜ一緒に生きられなかったのか?
親を愛することと、親から自由になることは両立できるのか?
世間から見て正しくない愛は、本当に間違っているのか?
自分の人生を生きるとは、誰かを傷つける覚悟を持つことなのか?
人は死んでも、誰かの人生を照らし続けられるのか?
ここで目指すのは、誰が正しく、誰が間違っていたのかを裁くことではありません。
暁海の選択にも、櫂の選択にも、それぞれの理由がありました。
親たちにも、北原にも、瞳子にも、自分なりの願いと弱さがありました。
もちろん、理由があれば誰かを傷つけてもいいわけではありません。
けれど、人の人生を、たった一つの正解で測ることもできないのではないでしょうか。
この対話を読み終えたとき、読者の皆さんにも、ご自身の人生を振り返っていただけたらと思います。
あのとき選べなかった道。
離れてしまった人。
今も心に残っている言葉。
そして、間違いだったと思い続けている選択。
もしかすると、その中には、まだ別の見方ができる出来事があるかもしれません。
愛することは、誰かの人生を自分のものにすることではない。
そして、自分の人生を生きることは、誰かを愛することを諦めることでもない。
瀬戸内海に星が輝き始める頃、彼らの対話が静かに始まります。
(本稿に記されている対話はすべて仮想のものであり、実在の人物・発言とは関係ありません。)
Topic 1:愛しているのに、なぜ一緒に生きられなかったのか?

暁海と櫂、十五年越しに交わす本音
凪良ゆう『汝、星のごとく』に着想を得た架空対話
瀬戸内海に夕日が沈みかけていた。
海を見下ろす古い家の縁側には、六つの座布団が並べられている。開け放たれた窓から潮風が入り、テーブルの上の紙をかすかに揺らしていた。
その紙の下には、一冊の本が置かれている。
『汝、星のごとく』。
井上暁海は、その表紙を見ないようにしていた。
向かい側では、青埜櫂が麦茶の入ったグラスを両手で包んでいる。
亡くなったはずの彼が、今、目の前にいる。
けれど、この不思議な場所では、誰もそのことを説明しようとしなかった。
北原先生が、窓の外を眺めながら口を開いた。
北原: 「こうして三人で座っていると、なんだか昔の補習授業みたいですね」
櫂: 「先生、俺、補習なんか受けてましたっけ」
北原: 「君は授業を聞いていないようで、案外聞いていましたからね」
暁海: 「聞いてないふりが上手だったんです」
櫂: 「おい。最初からそういう話?」
暁海: 「事実でしょ」
櫂が笑った。
暁海はその笑顔を見て、思わず目を伏せた。
十五年という時間を、あんなにも苦しみながら生きてきたのに。
笑い方だけは、十七歳の頃と少しも変わっていなかった。
北原: 「一つ、聞いてもいいですか。二人は最初、互いのどこに惹かれたのでしょう」
櫂: 「いきなりですか」
北原: 「昔の教師というのは、質問する癖が抜けないんです」
暁海: 「私は……」
彼女は少し考えた。
暁海: 「櫂が、私のことをかわいそうだと思わなかったところかな」
櫂: 「思ってたよ」
暁海: 「え?」
櫂: 「そりゃ思うだろ。あんな状況だったんだから」
暁海: 「じゃあ、なんで言わなかったの」
櫂: 「言われたくなさそうだったから」
暁海は黙った。
櫂: 「お前、誰かに同情されると、すぐ顔が変わっただろ。急に大丈夫ですって顔になる。全然大丈夫じゃないくせに」
暁海: 「……そんなに分かりやすかった?」
櫂: 「俺にはね」
北原: 「櫂君は?」
櫂: 「何がですか」
北原: 「暁海さんのどこが好きだったのか」
櫂は麦茶を一口飲んだ。
櫂: 「俺を、面倒な母親の息子として見なかったところかな」
暁海が顔を上げた。
櫂: 「どこに引っ越しても、俺の説明って母親から始まるんですよ。母親が誰と付き合ってて、なんでここに来て、いつまでいるのか。俺自身のことなんか、その後だった」
暁海: 「……うん」
櫂: 「でも暁海は、俺が漫画の話をすると、ちゃんと聞いてくれた」
暁海: 「だって面白かったもの」
櫂: 「まだ何も描いてなかったのに?」
暁海: 「だからよ。何もないところから、あんなにたくさんの世界が出てくるのが不思議だった」
櫂は笑いかけたが、途中でやめた。
櫂: 「俺、あの頃は本当に何にでもなれると思ってた」
暁海: 「なれたじゃない」
櫂: 「そうかな」
暁海: 「漫画の仕事をして、東京で暮らして、自分の名前で作品を出して。十七歳の櫂が聞いたら、大喜びすると思う」
櫂: 「でも、十七歳の俺は、たぶんその後に聞くよ」
暁海: 「何を?」
櫂: 「暁海は一緒にいるのかって」
風が吹いた。
縁側に吊るされた風鈴が、小さく鳴った。
北原: 「二人とも、相手に救われたと感じていたんですね」
暁海: 「救われた、という言い方は少し違う気がします」
北原: 「どう違いますか」
暁海: 「櫂と出会ったからって、家の問題がなくなったわけじゃないし、お母さんが変わったわけでもない。ただ……」
彼女は自分の指先を見つめた。
暁海: 「自分の人生が、あの家の外にもあるって思えたんです」
櫂: 「俺も似たようなものかな。母親が誰と付き合ってようが、どこに引っ越そうが、俺には俺の未来があるって」
北原: 「それなら、二人は互いに自由を与え合ったのかもしれませんね」
暁海: 「最初は、そうだったと思います」
櫂がその言葉を聞き逃さなかった。
櫂: 「最初は?」
暁海: 「うん」
櫂: 「途中から違った?」
暁海: 「……櫂にとって自由になるって、島を出ることだったでしょう」
櫂: 「そうだね」
暁海: 「私にとっては、そう簡単じゃなかった」
櫂: 「分かってたつもりだった」
暁海: 「うん。つもりだったんだと思う」
櫂はグラスを置いた。
櫂: 「それ、結構きついな」
暁海: 「ごめん。でも、今日はちゃんと話すんでしょう?」
櫂: 「そうだね。ちゃんと話そう」
北原は何も言わなかった。
暁海は少し姿勢を正した。
暁海: 「櫂、覚えてる? 東京に来ればいいって、何度も言ってくれたこと」
櫂: 「覚えてる」
暁海: 「私、本当は行きたかった」
櫂: 「知ってる」
暁海: 「知らなかったよ」
櫂が顔を上げた。
暁海: 「櫂は、私が東京に行きたくないんだと思ってたでしょう。島が好きだからとか、お母さんから離れたくないからとか」
櫂: 「違ったの?」
暁海: 「東京に行きたかった。櫂と暮らしたかった。刺繍の仕事だって、もっといろいろ挑戦してみたかった」
櫂: 「だったら……」
暁海: 「でも、私がいなくなったら、お母さんはどうなるの?」
櫂は口を閉じた。
暁海: 「櫂はよく言ったよね。お母さんの人生はお母さんのものだって」
櫂: 「今でもそう思ってる」
暁海: 「私も、今ならそう思う。でも、十七歳の私には、それを言われるたびに、自分が冷たい人間みたいに感じた」
櫂: 「そんなつもりじゃなかった」
暁海: 「分かってる」
櫂: 「俺はただ、一緒にいたかったんだよ」
暁海: 「私だって一緒にいたかった!」
声が思いのほか大きくなった。
暁海自身が驚いたように息を止めた。
櫂は黙って彼女を見ていた。
暁海: 「……ごめん」
櫂: 「謝らなくていい」
暁海: 「ずっと、言いたかったのかもしれない」
櫂: 「何を?」
暁海: 「私だって行きたかったって。私だって、普通に恋人と暮らしたかったって。朝起きたら櫂がいて、仕事から帰ったら一緒にご飯を食べて、休みの日にはくだらないことで喧嘩して……そういう生活が欲しかったって」
櫂は窓の外へ目を向けた。
櫂: 「俺は、それが手に入ると思ってた」
暁海: 「うん」
櫂: 「東京で成功すれば、全部解決すると思ってた。金があれば、住む場所も選べるし、困ってることも何とかできる。そう思ってたんだ」
暁海: 「でも、お金じゃ解決しないこともあった」
櫂: 「そうだね」
北原: 「櫂君は、暁海さんを助けたかったんでしょうか。それとも、暁海さんに自分のところへ来てほしかったんでしょうか」
櫂: 「……両方です」
北原: 「その二つは、いつも同じ方向を向くとは限りませんね」
櫂: 「先生、俺が自分勝手だったって言いたいんですか」
北原: 「そう決めつけるつもりはありません。ただ、彼女が何を望んでいたのかと、君が彼女に望んでいたことは、同じだったのかなと思いまして」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「お前、俺にどうしてほしかった?」
暁海は答えようとして、止まった。
しばらくして、ぽつりと言った。
暁海: 「分かんない」
櫂: 「分かんない?」
暁海: 「うん。あの頃の私は、自分がどうしてほしいのかも分からなかった」
櫂: 「……そっか」
暁海: 「でも、一つだけ分かる」
櫂: 「何?」
暁海: 「東京に来いって言う前に、一度でいいから、島に残る私がどんな毎日を送ってるのか、ちゃんと見てほしかった」
櫂は目を伏せた。
暁海: 「お母さんの機嫌を気にして、家のお金を心配して、誰にも相談できなくて。櫂から電話が来ると嬉しかった。でも、電話を切った後、もっと寂しくなることもあった」
櫂: 「俺、電話で自分の話ばっかりしてたな」
暁海: 「楽しそうだったから。私も聞きたかったの」
櫂: 「でも、お前の話を聞かなかった」
暁海: 「聞いてくれたよ。ただ、私が本当のことを言わなかった」
櫂: 「なんで?」
暁海: 「櫂の夢の邪魔をしたくなかったから」
櫂は苦しそうに笑った。
櫂: 「俺は、お前のために成功しなきゃって思ってた」
暁海: 「私は、櫂の邪魔をしちゃいけないって思ってた」
櫂: 「……何やってたんだろうな、俺たち」
暁海: 「本当にね」
二人は少しだけ笑った。
しかし、その笑いはすぐに消えた。
北原: 「互いのためを思っていたのに、互いの本音を隠していたんですね」
櫂: 「先生、恋愛って、もっと簡単なものだと思ってました」
北原: 「私も若い頃はそう思っていましたよ」
暁海: 「先生も?」
北原: 「ええ。相手を大切に思っていれば、自然とうまくいくものだと」
櫂: 「違いました?」
北原: 「大切に思うことと、相手の人生を知ることは、別の努力が必要なのかもしれません」
櫂はしばらく考えていた。
櫂: 「俺、暁海のことを知ってるつもりだった」
暁海: 「私も、櫂のことを知ってるつもりだった」
櫂: 「でも、知らなかったんだな」
暁海: 「ううん。知ってたこともたくさんあったよ」
櫂: 「例えば?」
暁海: 「櫂は、考えごとをしてるとき、飲み物を持ったまま飲まない」
櫂は自分の手元を見た。
グラスは、さっきからずっと持たれたままだった。
櫂: 「……ほんとだ」
暁海: 「あと、嬉しいことがあると、隠そうとして逆にすごく喋る」
櫂: 「それは知らなかった」
暁海: 「それから、本当に傷ついたときは、怒らない。黙る」
櫂は何も言わなかった。
暁海は静かに続けた。
暁海: 「そういう櫂は、知ってた。でも、櫂が何を怖がっていたのかは、知らなかった」
櫂: 「怖がってたこと?」
暁海: 「うん。櫂は何が怖かったの?」
櫂は長い間、答えなかった。
外では、夕日が海面に細い光の道を作っていた。
櫂: 「……置いていかれることかな」
暁海は顔を上げた。
櫂: 「母親の都合で引っ越して、知らない場所に行って、また別の場所に行って。いつも、自分の意思とは関係なく生活が変わった」
暁海: 「うん」
櫂: 「だから東京に出て、仕事をして、自分で生活を作れば、もう誰にも振り回されないと思った」
暁海: 「そうだったんだ」
櫂: 「でも、暁海が来ないってなると、なんか……また自分だけ置いていかれた気がしたんだよ」
暁海: 「私はずっと島にいたのに?」
櫂: 「変だろ」
暁海: 「ううん」
櫂: 「俺が出ていったのに、俺が置いていかれた気になってた」
暁海は櫂を見つめた。
暁海: 「私たち、二人とも置いていかれるのが怖かったんだね」
櫂: 「そうかもしれない」
暁海: 「櫂は、私が来ないと、自分を選んでくれなかったと思った」
櫂: 「うん」
暁海: 「私は、櫂が東京で幸せそうにしてると、自分がいなくても平気なんだと思った」
櫂は顔を上げた。
櫂: 「平気なわけないだろ」
暁海: 「でも、そう見えた」
櫂: 「俺は、お前に心配かけたくなくて……」
暁海: 「私も同じだった」
二人は見つめ合った。
そして、ほとんど同時に苦笑した。
櫂: 「最悪だな」
暁海: 「うん。すごく不器用だった」
北原: 「もし、今の二人が十七歳の自分たちに会えるとしたら、何を伝えますか」
櫂: 「……難しいですね」
北原: 「何でもいいんですよ」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「俺は、もっと話せって言うかな」
暁海: 「何を?」
櫂: 「かっこ悪いことを。怖いことを。腹が立ったことを。相手に嫌われそうで言えなかったことを」
暁海: 「私は……」
彼女は少し考えた。
暁海: 「自分の人生を、ちゃんと欲しがっていいんだよって言いたい」
櫂は黙って聞いていた。
暁海: 「お母さんを愛してても、櫂を愛してても、自分の人生を欲しがっていいんだよって」
櫂: 「そうだね」
暁海: 「でも、十七歳の私は、たぶん信じないと思う」
櫂: 「俺も。十七歳の俺は、絶対に自分が正しいと思ってるから」
暁海: 「今も少しそうじゃない?」
櫂: 「おい」
暁海が笑った。
今度は櫂も笑った。
北原は、二人のやり取りを静かに見守っていた。
しばらくして、櫂が真剣な顔になった。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「一つ、聞いていい?」
暁海: 「うん」
櫂: 「俺と出会わなかったら、もっと幸せだったと思う?」
暁海はすぐには答えなかった。
遠くで、船の汽笛が聞こえた。
暁海: 「……分からない」
櫂は小さくうなずいた。
暁海: 「でも、櫂と出会わなかった人生を、私は知らないから」
櫂: 「うん」
暁海: 「もし出会わなかったら、もっと楽だったかもしれない。お母さんとの関係も、仕事も、違う選択ができたかもしれない」
櫂は黙っていた。
暁海: 「でもね、櫂」
櫂: 「うん」
暁海: 「楽な人生が、必ずしも幸せな人生だとは思わない」
櫂はゆっくり顔を上げた。
暁海: 「私は櫂と出会って、たくさん泣いた。寂しい思いもしたし、腹が立ったこともあった。自分が嫌いになったこともある」
櫂: 「……うん」
暁海: 「でも、初めて誰かと未来を考えたのも、櫂と出会ってからだった」
櫂の目が潤んだ。
暁海: 「初めて、ここじゃない場所で生きてみたいって思った。初めて、自分の作ったものを誰かに見せたいって思った。初めて、明日が楽しみだって思った日もあった」
櫂: 「暁海……」
暁海: 「だから、櫂と出会ったことを、間違いだったとは思わない」
櫂は唇を噛んだ。
櫂: 「俺も」
彼は言葉を探した。
櫂: 「俺も、お前と出会わなかった人生なんて、考えられない」
暁海は小さくうなずいた。
櫂: 「でもさ」
暁海: 「うん」
櫂: 「それでも、もっと幸せにできたんじゃないかって思うんだ」
暁海は静かに首を振った。
暁海: 「櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私を幸せにするのは、櫂だけの仕事じゃなかったんだよ」
櫂は何も言えなかった。
暁海: 「私も、自分で幸せになる方法を知らなかった。櫂が何とかしてくれるって思ってたところもあったし、櫂が何とかしようとしてくれると、今度はそれが苦しくなった」
櫂: 「……うん」
暁海: 「二人とも、自分の人生を生きることが、まだ下手だったんだと思う」
北原が静かに口を開いた。
北原: 「今の言葉は、とても大切ですね」
櫂: 「先生、俺たちって、結局、愛し合ってたんですかね」
北原は少し驚いたように櫂を見た。
北原: 「それを私に聞くんですか」
櫂: 「だって、一緒に生きられなかったから」
北原: 「一緒に生きられなかったことが、愛していなかった証拠になるのでしょうか」
櫂は答えなかった。
北原: 「私は、愛していたかどうかを、最後に一緒にいたかどうかだけで判断したくはありません」
櫂: 「じゃあ、何で判断するんですか」
北原: 「それは、私にも分かりません。ただ……」
北原は暁海を見た。
北原: 「二人がこうして、互いの人生を真剣に振り返っていることには、何か意味があるように思います」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「俺たち、愛してたよな」
暁海は少し笑った。
暁海: 「うん」
櫂: 「なのに、なんであんなに下手だったんだろう」
暁海: 「初めてだったからじゃない?」
櫂: 「何が?」
暁海: 「誰かを本当に大切にすることが」
櫂はしばらく考えた。
櫂: 「……そうかもな」
二人の間に、静かな時間が流れた。
夕日はほとんど沈み、海は深い青に変わっていた。
暁海は、テーブルの上に置かれた刺繍に手を伸ばした。
細い糸が、布の上でいくつもの星を形作っている。
櫂: 「それ、いつ作ったの?」
暁海: 「ずっと前」
櫂: 「俺、見たことあったっけ」
暁海: 「ないと思う」
櫂: 「きれいだね」
暁海: 「ありがとう」
櫂は刺繍をしばらく眺めていた。
櫂: 「一つ一つ、違う色なんだな」
暁海: 「うん。同じ色に見えても、少しずつ違う糸を使ってる」
櫂: 「なんで?」
暁海: 「同じ星なんて、ないから」
櫂は微笑んだ。
櫂: 「暁海らしいな」
暁海: 「そう?」
櫂: 「うん。昔から、そういう細かいところにこだわる」
暁海: 「櫂は昔から、大事なところを見落とす」
櫂: 「まだ言う?」
暁海: 「だって本当だもの」
二人は笑った。
そして櫂が、少し真面目な顔で言った。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「今だったら、もう少し上手に愛せたかな」
暁海は刺繍から目を上げた。
暁海: 「どうだろうね」
櫂: 「そこは、できたって言ってくれよ」
暁海: 「だって、分からないもの」
櫂: 「厳しいなあ」
暁海: 「でも……」
暁海は櫂を見つめた。
暁海: 「今なら、もっとちゃんと話せると思う」
櫂: 「うん」
暁海: 「怖いことも、嫌なことも、寂しいことも。相手が傷つくかもしれないと思っても、ちゃんと伝えられると思う」
櫂: 「俺も」
暁海: 「それだけでも、少しは違ったかもしれないね」
櫂はゆっくりとうなずいた。
櫂: 「そうだな」
北原は空になったグラスに麦茶を注いだ。
北原: 「二人とも、もう一杯いかがですか」
櫂: 「いただきます」
暁海: 「私も」
北原は二人のグラスを満たした。
誰も急いで次の言葉を探そうとはしなかった。
窓の外では、最初の星が一つ、夕暮れの名残の中に輝いていた。
櫂がそれを見つけた。
櫂: 「あ、星」
暁海も顔を上げた。
暁海: 「本当だ」
櫂: 「一番星って、昔から好きだったんだよね」
暁海: 「知ってる」
櫂: 「え、言ったことあった?」
暁海: 「覚えてないの?」
櫂: 「……ない」
暁海: 「ほら。また大事なところを見落としてる」
櫂は笑った。
暁海も笑った。
二人が一緒に生きられなかった十五年間は、もう取り戻せない。
言えなかった言葉も、すれ違った日々も、なかったことにはできない。
それでも今、二人は同じ星を見ていた。
そして暁海は、昔なら決して口にできなかったことを、何のためらいもなく言った。
暁海: 「櫂」
櫂: 「ん?」
暁海: 「私、あなたと出会えてよかった」
櫂は空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で答えた。
櫂: 「俺もだよ」
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
海の向こうで、星がもう一つ輝き始めていた。
Topic 2:親を愛することと、親から自由になることは両立できるのか?

「お母さん、私の人生は誰のものだったの?」
凪良ゆう『汝、星のごとく』に着想を得た架空対話
瀬戸内海の向こうに、最後の夕焼けが残っていた。
縁側の風鈴が鳴り、開け放たれた窓から、少し冷たくなった風が入ってくる。
櫂が麦茶のグラスを置いたとき、廊下の奥から足音が聞こえた。
「まだ話してたの?」
井上志穂だった。
暁海の母親は、部屋に入るなり、テーブルの上のグラスを見渡した。
志穂: 「こんなに飲んで。お腹、冷やすわよ」
暁海: 「お母さん、私たちもう高校生じゃないんだから」
志穂: 「いくつになったって、お腹は冷えるでしょう」
櫂: 「そこは確かにそうですね」
暁海: 「櫂、味方しないで」
櫂は笑った。
志穂も少し笑ったが、暁海はその笑顔を見ながら、何かを考えていた。
北原が新しい座布団を勧めた。
北原: 「志穂さん、よかったらこちらへ。ちょうど、ご家族のことを話していたんです」
志穂: 「家族のこと?」
暁海: 「うん」
志穂が腰を下ろす。
暁海は母親の顔を見た。
長い間、何度も聞こうとして、結局聞けなかったことがあった。
けれど、その質問を口にすると、二人の関係が元に戻らなくなるような気がしていた。
暁海: 「お母さん」
志穂: 「何?」
暁海: 「私が高校を卒業したとき、東京に行ってたら、どうしてた?」
志穂は眉を寄せた。
志穂: 「どうしてたって?」
暁海: 「私が島を出て、櫂のところへ行ってたら」
志穂: 「今さらそんなこと聞いて、どうするの」
暁海: 「今さらだから、聞けるんだよ」
志穂は暁海を見つめた。
志穂: 「困ったでしょうね」
暁海: 「うん」
志穂: 「お父さんはいないし、家のことだってあるし。あなたまでいなくなったら、私は一人だったもの」
暁海: 「そうだよね」
志穂: 「分かってるなら、どうしてそんなこと聞くの?」
暁海は膝の上で手を重ねた。
暁海: 「私がいなくなったら困るってことは、ずっと分かってた。でもね、お母さん」
志穂: 「何よ」
暁海: 「私が残ったら、私が困るってことは、考えたことあった?」
志穂の表情が変わった。
志穂: 「……どういう意味?」
暁海: 「そのままの意味だよ」
志穂: 「私は、あなたに島に残れなんて命令した覚えはないわ」
暁海: 「うん。命令はされなかった」
志穂: 「だったら」
暁海: 「でも、私が東京へ行く話をすると、お母さん、何日も口をきいてくれなくなったよね」
志穂は黙った。
暁海: 「ご飯も食べなくなった。夜中に泣いてた。私が声をかけても、大丈夫って言いながら、全然大丈夫じゃなかった」
志穂: 「……あの頃は、本当につらかったのよ」
暁海: 「知ってる」
志穂: 「お父さんがいなくなって、私はどうしていいか分からなかった」
暁海: 「知ってるよ。だから残ったんだよ」
志穂は口を開きかけたが、何も言わなかった。
暁海: 「お母さん、私は東京に行きたかった。でも、私が行くって言うたびに、お母さんが壊れていくように見えた」
志穂: 「そんな……」
暁海: 「だから、行けなかった」
風鈴が鳴った。
櫂は二人を見つめていた。
志穂: 「でも、暁海。家族なんだから、助け合うのは当たり前でしょう」
暁海: 「うん。当たり前だと思う」
志穂: 「だったら、何がいけなかったの?」
暁海: 「助け合うのと、私が全部引き受けるのは違うよ」
志穂の目が揺れた。
暁海: 「お母さんは、私がつらいとき、助けてくれた?」
志穂: 「もちろん助けたでしょう。小さい頃から、どれだけあなたの世話をしてきたと思ってるの」
暁海: 「そうじゃなくて」
志穂: 「何が違うの」
暁海: 「私が高校生だった頃。私が泣きたいとき。私が怖かったとき。私が、自分の人生をどうしたらいいか分からなかったとき」
志穂は答えなかった。
暁海: 「お母さんに、相談できた?」
沈黙が落ちた。
北原が静かに口を開いた。
北原: 「志穂さん、暁海さんは、お母さんにしてもらったことを否定しているわけではないと思います」
志穂: 「でも、責められているように聞こえます」
暁海: 「責めたい気持ちもあるよ」
志穂が顔を上げた。
暁海自身も、その言葉を口にしたことに少し驚いた。
暁海: 「ずっと、責めちゃいけないと思ってた。お母さんだって苦しかったんだから、私が怒るのは間違ってるって」
志穂: 「……」
暁海: 「でも、私も苦しかった」
志穂は膝の上で手を握った。
暁海: 「お母さんが苦しかったことと、私が苦しかったことは、どっちも本当なんだよ」
北原は静かにうなずいた。
そのとき、廊下から別の声が聞こえた。
ほのか: 「ずいぶん難しい話してるのね」
櫂の母親、ほのかだった。
明るい色のブラウスを着て、いつものように少し華やかな雰囲気をまとっている。
櫂: 「母さんまで来たの?」
ほのか: 「何よ。来ちゃいけないの?」
櫂: 「そういう意味じゃないけど」
ほのか: 「あら、暁海ちゃん。久しぶり」
暁海: 「こんにちは」
ほのか: 「櫂、ちゃんとお茶くらい出してる?」
櫂: 「ここ、俺の家じゃないんだけど」
ほのか: 「そういうところは昔から変わらないわね」
櫂は苦笑した。
北原が座布団を一枚持ってきた。
北原: 「ほのかさんも、よかったらご一緒に」
ほのか: 「いいんですか?」
北原: 「ええ。ちょうど、親と子どもの人生について話していました」
ほのか: 「あら、嫌な予感」
櫂: 「母さん、予感は当たってると思う」
ほのかは笑った。
しかし、櫂は笑わなかった。
櫂: 「母さん、俺、聞きたいことがある」
ほのか: 「何?」
櫂: 「俺が子どもの頃、引っ越すたびに、どう思ってた?」
ほのか: 「どうって?」
櫂: 「俺のこと」
ほのか: 「もちろん心配してたわよ」
櫂: 「本当に?」
ほのか: 「何よ、その言い方」
櫂: 「だって、俺、何度も学校変わっただろ。友達ができたと思ったら、また引っ越して」
ほのか: 「仕方なかったのよ」
櫂: 「母さんは、いつもそう言った」
ほのか: 「実際、仕方なかったでしょう」
櫂: 「でも、俺には仕方なくなかった」
ほのかは櫂を見た。
櫂: 「母さんが誰かを好きになるたびに、俺の生活が変わった。母さんが別れるたびに、また変わった」
ほのか: 「私だって、幸せになりたかったのよ」
櫂: 「知ってる」
ほのか: 「女が一人で子どもを育てるのが、どれだけ大変か」
櫂: 「それも知ってる」
ほのか: 「だったら……」
櫂: 「でも、俺も幸せになりたかったんだよ」
ほのかは言葉を失った。
櫂は目を伏せた。
櫂: 「母さんが幸せになるのを邪魔したかったわけじゃない。ただ、俺の幸せも、少しは考えてほしかった」
ほのか: 「……考えてたわよ」
櫂: 「じゃあ、なんで一度も聞いてくれなかったの」
ほのか: 「何を?」
櫂: 「櫂はどうしたいって」
ほのかは黙った。
櫂は続けた。
櫂: 「新しい男の人と暮らすことも、知らない町へ行くことも、いつも決まってから知らされた」
ほのか: 「子どもに相談したって、どうしようもないこともあるでしょう」
櫂: 「うん。そうかもしれない」
彼は少し間を置いた。
櫂: 「でも、聞いてほしかったんだよ」
ほのかの目に涙が浮かんだ。
ほのか: 「櫂……」
櫂: 「俺の意見で何も変わらなくてもいいから。俺が嫌だって言ったら、嫌なんだねって、一回くらい聞いてほしかった」
暁海は櫂を見つめていた。
昨日まで知らなかったわけではない。
櫂の母親のことも、引っ越しのことも、何度も聞いていた。
けれど、櫂が本当に欲しかったものが何だったのか、今、初めて分かった気がした。
北原: 「親は、子どもの生活を決めなければならない場面があります。しかし、決めることと、子どもの気持ちを聞かないことは、同じではありませんね」
ほのか: 「……私は、櫂を守っているつもりでした」
櫂: 「分かってる」
ほのか: 「一人で育てるより、誰かと一緒にいた方がいいと思ったの。私にも、あなたにも」
櫂: 「うん」
ほのか: 「でも、いつもうまくいかなかった」
彼女は笑おうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
ほのか: 「今度こそ幸せになれると思うたびに、また駄目になって。そうすると、自分がどうしようもない人間みたいに思えて……」
櫂: 「母さん」
ほのか: 「一人になるのが怖かったのよ」
その言葉は、小さかった。
ほのか: 「誰にも必要とされなくなるのが、怖かった」
志穂がゆっくり顔を上げた。
志穂: 「……分かります」
ほのかは彼女を見た。
志穂: 「私も、夫がいなくなったとき、同じことを思いました」
ほのか: 「そう……」
志穂: 「誰にも必要とされなくなるんじゃないかって」
暁海は母親を見た。
志穂: 「それまで、妻でいることが私の人生だったから。夫がいなくなったら、自分が何者なのか分からなくなって」
暁海: 「お母さん……」
志穂: 「あなたがいてくれて、助かったの」
暁海は静かにうなずいた。
志穂: 「本当に、助かったのよ」
暁海: 「うん」
志穂: 「だから、あなたまでいなくなったら、私はどうなってしまうんだろうって……」
暁海: 「怖かったんだね」
志穂はうなずいた。
暁海は母親の手を見つめた。
昔からよく知っている手だった。
料理を作り、洗濯物を干し、幼い自分の髪を結んでくれた手。
その手が、今は小さく震えていた。
暁海: 「お母さん」
志穂: 「何?」
暁海: 「私がいてくれて助かったって言ってくれるのは、嬉しいよ」
志穂: 「……」
暁海: 「でもね、私がいなかったら生きていけないって思われるのは、苦しかった」
志穂は目を閉じた。
暁海: 「私、ずっと怖かったんだよ。私が幸せになろうとしたら、お母さんが不幸になるんじゃないかって」
志穂: 「そんなこと……」
暁海: 「思ってたでしょう?」
志穂は答えなかった。
暁海は続けた。
暁海: 「櫂と東京に行くことを考えるたびに、お母さんが一人で泣いてる姿が浮かんだ。だから、嬉しいことを考えるのが怖くなった」
志穂: 「……ごめんね」
暁海は顔を上げた。
志穂自身も、自分の口から出た言葉に驚いたようだった。
志穂: 「私、そんなふうに思わせてたのね」
暁海はすぐには答えなかった。
志穂: 「あなたがいてくれるのが当たり前になってた。あなたにも、行きたい場所があったのに」
暁海: 「うん」
志穂: 「……ごめんね」
暁海の目に涙が浮かんだ。
しかし、彼女は泣かなかった。
暁海: 「ありがとう」
志穂は手を伸ばしかけた。
けれど、暁海に触れる前に止めた。
暁海はその手を見た。
そして、自分からそっと握った。
二人はしばらく何も言わなかった。
やがて、ほのかが小さく口を開いた。
ほのか: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
ほのか: 「あなた、私のこと、嫌いだった?」
櫂は驚いたように母親を見た。
櫂: 「なんで?」
ほのか: 「だって、こんなに迷惑かけてたんだもの」
櫂: 「……嫌いになったことはあるよ」
ほのかの顔がこわばった。
櫂: 「何度もある」
ほのか: 「そう……」
櫂: 「でも、嫌いになったからって、母さんじゃなくなるわけじゃない」
ほのかは顔を上げた。
櫂: 「好きなときもあったし、嫌いなときもあった。心配したし、腹も立った。それだけだよ」
ほのか: 「それだけ?」
櫂: 「うん」
ほのか: 「……私は、あなたに嫌われるのが怖かった」
櫂: 「知ってる」
ほのか: 「だから、あなたが怒ると、私も怒ってしまった」
櫂: 「それも知ってる」
ほのか: 「どうして分かってたの?」
櫂は苦笑した。
櫂: 「ずっと見てたからだよ」
ほのかは泣き始めた。
櫂は少し困った顔をした。
櫂: 「母さん、泣くなよ」
ほのか: 「泣いてないわよ」
櫂: 「いや、泣いてるだろ」
ほのか: 「うるさいわね」
櫂は笑った。
そして、少しだけ母親の方へ体を寄せた。
櫂: 「俺、母さんが幸せになるのは嫌じゃなかったよ」
ほのか: 「……うん」
櫂: 「ただ、母さんの幸せのために、俺がいなくなってもいいみたいに感じるのが嫌だった」
ほのかは涙を拭った。
ほのか: 「そんなつもりじゃなかった」
櫂: 「分かってる。でも、そう感じたんだ」
ほのか: 「……そうね」
そのとき、廊下から落ち着いた声が聞こえた。
瞳子: 「親って、子どもに嫌われるのが怖いものなのね」
植木瞳子が、湯気の立つ急須を持って立っていた。
北原: 「瞳子さん、ありがとうございます」
瞳子: 「冷たいものばかり飲んでると、お腹が冷えるって言われそうだから」
志穂が思わず笑った。
志穂: 「私のこと?」
瞳子: 「さあ、どうでしょう」
瞳子は湯飲みを並べ、席についた。
瞳子: 「でも、話を聞いていて思ったの。親は子どもに嫌われたくない。子どもは親を悲しませたくない。それで、お互いに本当のことを言えなくなるのね」
暁海: 「そうかもしれません」
瞳子: 「でも、それって不思議よね」
櫂: 「何がですか」
瞳子: 「一番近いはずの家族に、一番言いたいことが言えないなんて」
誰もすぐには答えなかった。
瞳子: 「私はね、自分の人生は自分で引き受けるしかないと思ってる」
志穂: 「そんなに簡単に言えるものですか」
瞳子: 「簡単じゃないわよ」
瞳子は即座に答えた。
瞳子: 「簡単だったら、誰もこんなに苦しまないでしょう」
志穂は黙った。
瞳子: 「でも、自分の人生を誰かに引き受けてもらおうとすると、その人まで苦しくなる」
ほのか: 「じゃあ、誰にも頼っちゃいけないってこと?」
瞳子: 「違うわ。頼ることと、相手の人生を自分のものにすることは違うでしょう」
暁海: 「……その違いって、何なんでしょう」
瞳子は少し考えた。
瞳子: 「例えば、誰かに『寂しいから、そばにいてほしい』と言うのは、いいと思うの」
暁海: 「はい」
瞳子: 「でも、『私が寂しいんだから、あなたはどこにも行っちゃいけない』となったら、話が変わる」
志穂は視線を落とした。
瞳子: 「前者はお願い。後者は相手の人生を決めている」
北原: 「分かりやすいですね」
瞳子: 「でも、実際にはその境目が曖昧なのよ。泣いたり、黙ったり、病気になったり。言葉にしなくても、相手を縛ってしまうことがある」
暁海は母親の手を見た。
志穂は、握られていた手をそっと離した。
志穂: 「……私、そうしてたのね」
瞳子: 「志穂さんを責めているわけじゃないわ」
志穂: 「でも、本当のことでしょう」
瞳子は答えなかった。
志穂は暁海を見た。
志穂: 「暁海、あなたが東京へ行くって言ったとき、私は本当に怖かった」
暁海: 「うん」
志穂: 「でも、その怖さを自分で何とかしようとしなかった。あなたが残ってくれれば、怖くなくなると思った」
暁海: 「……うん」
志穂: 「あなたが残ってくれたとき、ほっとしたの」
暁海は黙って聞いていた。
志穂: 「でも、あなたが何を諦めたのか、考えなかった」
その言葉を聞いた瞬間、暁海の目から涙がこぼれた。
暁海: 「お母さん……」
志穂: 「私、あなたがいてくれて幸せだった。でも、あなたが幸せだったかどうか、聞かなかった」
暁海は顔を覆った。
志穂: 「ごめんね」
暁海: 「……うん」
志穂: 「本当に、ごめんね」
暁海はしばらく泣いていた。
櫂は何も言わず、彼女のそばにティッシュの箱を置いた。
暁海はそれを一枚取って、涙を拭いた。
暁海: 「お母さん、私ね」
志穂: 「うん」
暁海: 「お母さんに、東京へ行ってもいいよって言ってほしかった」
志穂はうなずいた。
暁海: 「私がいなくなっても大丈夫だよって。寂しいけど、あなたはあなたの人生を生きなさいって」
志穂: 「……うん」
暁海: 「それだけで、よかったのかもしれない」
志穂は泣きながら笑った。
志穂: 「そんな簡単なことが、言えなかったのね」
暁海: 「うん」
志穂: 「今なら言えるわ」
暁海は顔を上げた。
志穂: 「暁海。あなたは、あなたの人生を生きなさい」
暁海の唇が震えた。
志穂: 「私が寂しくても、怖くても、それは私が何とかすることだから」
暁海: 「お母さん……」
志穂: 「あなたが幸せになることを、私の不幸にしちゃいけなかった」
暁海は声を上げて泣いた。
志穂も泣いていた。
二人は、今まで何度も抱き合ったことがあった。
しかし、その多くは、母親が泣き、娘が慰めるための抱擁だった。
今、志穂は暁海を抱きしめながら、娘に慰めてもらおうとはしなかった。
ただ、娘が泣き終わるまで、そばにいた。
しばらくして、櫂が小さく息を吐いた。
櫂: 「……ずるいな」
暁海が涙の残る顔で振り向いた。
暁海: 「何が?」
櫂: 「そんなこと言われたら、俺まで泣きそうになるだろ」
暁海: 「もう泣いてるじゃない」
櫂: 「泣いてない」
ほのか: 「櫂、あなたも昔からそういうところがあるのよ」
櫂: 「母さんまで言う?」
ほのかは笑った。
そして、櫂の方へ向き直った。
ほのか: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
ほのか: 「私も、言っていい?」
櫂: 「何を?」
ほのかは少し息を吸った。
ほのか: 「あなたは、私のために生きなくていいのよ」
櫂は母親を見つめた。
ほのか: 「私はあなたのお母さんだけど、あなたの人生の主人公じゃないもの」
櫂は苦笑した。
櫂: 「母さん、そういう言い方、昔は絶対しなかったよな」
ほのか: 「そうね」
櫂: 「昔の母さんなら、『私がどれだけ苦労したと思ってるの』って言ってた」
ほのか: 「言ってたわね」
櫂: 「何百回も」
ほのか: 「そんなに?」
櫂: 「もっとかも」
ほのかは笑った。
櫂も笑った。
ほのか: 「ごめんね、櫂」
櫂はしばらく黙っていた。
櫂: 「……うん」
ほのか: 「あなたに、私の寂しさまで背負わせちゃった」
櫂: 「うん」
ほのか: 「でも、あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しかったのよ」
櫂は顔を上げた。
ほのか: 「それだけは、信じてほしい」
櫂は少し笑った。
櫂: 「それは知ってる」
ほのか: 「本当に?」
櫂: 「うん。母さん、俺の誕生日だけは、どんなときでも忘れなかったから」
ほのかは涙を拭った。
櫂: 「ケーキが買えない年もあったけど、必ず何か作ってくれた」
ほのか: 「覚えてたのね」
櫂: 「覚えてるよ」
櫂は少し間を置いた。
櫂: 「嫌だったことも覚えてる。でも、嬉しかったことも覚えてる」
ほのかはうなずいた。
櫂: 「どっちも本当なんだよ」
その言葉に、志穂が静かに顔を上げた。
志穂: 「……そうね」
暁海は母親を見た。
志穂: 「私たち、子どもに嫌われるのが怖くて、嫌だったことを言われると、全部否定されたように感じてたのかもしれない」
ほのか: 「そうね」
志穂: 「でも、違うのね」
暁海: 「うん」
志穂: 「嫌だったことを言っても、愛していないわけじゃない」
暁海はうなずいた。
暁海: 「そうだよ」
北原は、静かにお茶を飲んでいた。
瞳子が彼を見た。
瞳子: 「先生、ずいぶん静かですね」
北原: 「今日は、私が何か言う必要はあまりないようです」
瞳子: 「珍しい」
北原: 「教師にも、黙っていた方がいい授業がありますから」
みんなが笑った。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
海の向こうに、漁船の明かりがいくつか浮かんでいる。
暁海は立ち上がり、縁側へ出た。
櫂が後を追った。
櫂: 「大丈夫?」
暁海: 「うん」
櫂: 「泣きすぎて、目が真っ赤だよ」
暁海: 「櫂だって」
櫂: 「俺は泣いてないって」
暁海: 「はいはい」
二人は縁側に腰を下ろした。
しばらく、海を眺めていた。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「俺たち、親のことばっかり考えてたんだな」
暁海: 「うん」
櫂: 「俺は、母さんみたいな人生を送りたくないって思ってた」
暁海: 「私は、お母さんを一人にしちゃいけないって思ってた」
櫂: 「正反対なのに、似てるな」
暁海: 「そうだね」
櫂は海を見た。
櫂: 「俺たち、自分の人生を生きようとしてたのに、結局、親の人生に引っ張られてた」
暁海: 「うん」
櫂: 「でも、今なら少し分かる気がする」
暁海: 「何が?」
櫂: 「親を嫌いにならなくても、自分の人生を選んでよかったんだって」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「私も、そう思う」
櫂は少し笑った。
櫂: 「十七歳の俺たちに教えてやりたいな」
暁海: 「信じるかな」
櫂: 「信じないだろうな」
暁海: 「特に櫂は」
櫂: 「またそれ?」
暁海は笑った。
櫂も笑った。
そのとき、部屋の中から志穂の声が聞こえた。
志穂: 「暁海、寒くない?」
暁海は振り向いた。
暁海: 「大丈夫だよ、お母さん」
志穂: 「上着、持ってこようか?」
暁海は少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
暁海: 「ありがとう。でも、今は大丈夫」
志穂: 「そう。寒くなったら言ってね」
暁海: 「うん」
志穂は、それ以上何も言わなかった。
暁海は再び海へ目を向けた。
櫂が小さく笑った。
櫂: 「今の、なんかいいな」
暁海: 「何が?」
櫂: 「お母さんが心配して、お前が大丈夫って言って、それで終わった」
暁海は少し驚いたように櫂を見た。
そして、ゆっくり微笑んだ。
暁海: 「……本当だね」
昔なら、母親が心配するたびに、暁海はその心配を取り除こうとしていた。
母親が不安にならないように、自分の行動を変えていた。
けれど今、母親は心配し、娘は自分の気持ちを伝えた。
それだけだった。
誰も傷つかなかった。
誰も相手を責めなかった。
櫂は夜の海を見つめながら、ぽつりと言った。
櫂: 「自由になるって、遠くへ行くことだけじゃないんだな」
暁海はうなずいた。
暁海: 「うん」
少し離れた部屋では、志穂とほのかが温かいお茶を飲みながら話していた。
二人とも、子どもたちがいなくなったら自分はどうなるのかと、長い間恐れていた。
しかし今、子どもたちは縁側にいる。
親から少し離れた場所で、笑っている。
志穂はその背中を見て、ほのかに小さく言った。
志穂: 「あの子たち、楽しそうね」
ほのか: 「そうね」
志穂: 「……寂しいわね」
ほのかは少し笑った。
ほのか: 「うん。寂しい」
志穂は湯飲みを両手で包んだ。
志穂: 「でも、いいのよね」
ほのか: 「何が?」
志穂: 「寂しいままでも、あの子たちを自由にしてあげて」
ほのかは、縁側にいる櫂を見つめた。
ほのか: 「そうね」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、ほのかが笑った。
ほのか: 「ねえ、明日、二人でどこか行かない?」
志穂は驚いた。
志穂: 「私たちが?」
ほのか: 「そう。子ども抜きで」
志穂: 「どこへ?」
ほのか: 「さあ。どこがいいかしら」
志穂は少し考えた。
そして、久しぶりに、誰かの都合ではなく、自分の行きたい場所を探し始めた。
縁側では、暁海が夜空を見上げていた。
星が一つ、また一つと増えていた。
櫂が隣で言った。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「お前、これから何したい?」
暁海は笑った。
暁海: 「いろいろあるよ」
櫂: 「例えば?」
暁海: 「まず、明日の朝、誰にも起こされずに寝坊したい」
櫂は吹き出した。
櫂: 「そんなこと?」
暁海: 「そんなことが、ずっとしたかったんだよ」
櫂は笑いながらうなずいた。
櫂: 「そっか」
暁海は夜空を見上げたまま、静かに続けた。
暁海: 「それから、行きたい場所に行って、会いたい人に会って、作りたいものを作りたい」
櫂: 「いいね」
暁海: 「うん」
櫂: 「全部やればいいよ」
暁海は櫂を見た。
暁海: 「櫂」
櫂: 「ん?」
暁海: 「ありがとう。でも、もう誰かに許してもらわなくてもいいんだよね」
櫂は一瞬、驚いた顔をした。
そして、ゆっくり笑った。
櫂: 「……そうだな」
暁海も笑った。
遠くで、船の汽笛が鳴った。
彼女はその音を聞きながら、初めて、自分の人生がどこまでも続いているような気がした。
母親を愛している。
櫂を愛している。
それでも、自分自身の人生を愛していい。
その三つは、もう矛盾していなかった。
Topic 3:世間から見て正しくない愛は、本当に間違っているのか?

「家族って、誰が決めるんでしょうね」
凪良ゆう『汝、星のごとく』に着想を得た架空対話
夜の瀬戸内海は、静かだった。
遠くを行く船の明かりが、黒い海の上をゆっくり移動している。
古い家の居間では、志穂とほのかが食器を片づけていた。
二人はさっきまで、自分たちの子どもをどれほど心配していたかを語り合っていた。ところが今は、明日どこへ出かけるかという話で盛り上がっている。
ほのか: 「温泉はどう?」
志穂: 「この島に来てまで温泉?」
ほのか: 「だって、せっかく自由になったんでしょう」
志穂: 「まだ自由になったばかりだから、何をしたらいいか分からないのよ」
ほのか: 「じゃあ、まずおいしいものでも食べに行きましょうよ」
志穂: 「それなら賛成」
二人の笑い声が聞こえた。
暁海は縁側からその様子を眺めていた。
暁海: 「なんだか不思議」
櫂: 「何が?」
暁海: 「お母さんたち、私たちがいなくても楽しそう」
櫂: 「あの二人、意外と気が合うのかもな」
暁海: 「もっと早く友達になってくれたらよかったのに」
櫂: 「そうしたら、俺たちの苦労も少し減ったかも」
暁海は笑った。
暁海: 「それはどうかな」
北原が、二人のそばへやって来た。
北原: 「少し冷えてきましたね。中に入りませんか」
櫂: 「先生、昔からそうやって人の世話ばっかりしてましたよね」
北原: 「教師の職業病でしょうか」
暁海: 「でも先生、自分のことはあまり話さないですよね」
北原は少し驚いたように暁海を見た。
北原: 「そうでしょうか」
暁海: 「そうですよ。さっきから私たちのことばかり聞いて」
櫂: 「確かに。そろそろ先生が質問される番じゃないですか」
北原: 「これは困りましたね」
三人が居間に戻ると、植木瞳子が急須にお湯を注いでいた。
瞳子: 「ちょうどいいところに戻ってきたわね」
北原: 「何がですか」
瞳子: 「先生の話を聞こうと思っていたの」
櫂: 「ほら。みんな同じこと考えてる」
北原は苦笑しながら座った。
北原: 「それで、何を聞きたいんですか」
瞳子は湯飲みを彼の前に置いた。
瞳子: 「先生は、自分の結婚をどう説明するんですか」
北原の手が止まった。
暁海も顔を上げた。
北原: 「……難しい質問ですね」
瞳子: 「でしょうね。でも、説明しようとすると難しくなる関係って、案外たくさんあると思うの」
櫂: 「俺も聞きたいです」
北原は櫂を見た。
櫂: 「先生は、暁海を愛してたんですか」
部屋が静かになった。
北原はすぐには答えなかった。
北原: 「愛していましたよ」
櫂の表情がわずかに変わった。
櫂: 「俺が言ってるのは、そういう……」
北原: 「恋愛感情として、という意味ですね」
櫂: 「はい」
北原: 「それなら、君が想像しているような愛情とは違ったと思います」
櫂: 「じゃあ、なんで結婚したんですか」
暁海: 「櫂」
櫂: 「ごめん。でも、聞きたいんだ」
北原は穏やかにうなずいた。
北原: 「構いません。私自身も、ずっと考えてきたことですから」
彼は湯飲みを手に取った。
北原: 「櫂君。君は結婚する二人には、何が必要だと思いますか」
櫂: 「好きだって気持ちでしょう」
北原: 「それだけですか」
櫂: 「それだけじゃないだろうけど、まずそれがないと」
北原: 「好きという気持ちは、どのようなものでしょう」
櫂: 「先生、質問で返さないでくださいよ」
瞳子が笑った。
瞳子: 「本当に先生らしいわね」
北原: 「失礼しました」
櫂: 「俺が聞きたいのは、もっと簡単なことです。暁海と一緒にいたいと思ったんですか。朝起きたとき、隣にいてほしいと思ったんですか。離れていたら会いたくなったんですか」
北原は考えた。
北原: 「一緒にいることは、心地よかったですよ」
櫂: 「でも、恋人としてじゃない」
北原: 「そうですね」
櫂: 「それで結婚できるんですか」
暁海: 「できたよ」
櫂が振り向いた。
暁海は彼をまっすぐ見た。
暁海: 「私たちは結婚した。それが答えじゃない?」
櫂: 「いや、そういう意味じゃなくて」
暁海: 「分かってる。櫂は、恋愛感情がない結婚なんて寂しいんじゃないかって思ってるんでしょう」
櫂: 「……うん」
暁海: 「でもね、櫂。恋愛感情があれば寂しくないの?」
櫂は口を閉じた。
暁海: 「私たち、あんなに好きだったのに、ずっと寂しかったよね」
櫂は視線を落とした。
櫂: 「それは……そうだけど」
暁海: 「北原先生といるときは、安心できたの」
櫂: 「安心?」
暁海: 「うん。何かを証明しなくてもよかった。役に立たなきゃいけないとも思わなかった。自分の気持ちを全部説明できなくても、待ってくれた」
北原は黙って聞いていた。
暁海: 「もちろん、何もかも分かり合えていたわけじゃないよ。でも、私が私でいられる場所があった」
櫂: 「……俺といるときは、違った?」
暁海は少し困った顔をした。
暁海: 「櫂といるときは、もっといろんな気持ちがあった」
櫂: 「例えば?」
暁海: 「嬉しかった。楽しかった。会いたかった。触れたかった。ずっと一緒にいたかった」
櫂は彼女を見つめた。
暁海: 「でも同じくらい、怖かった。嫌われたくなかった。置いていかれたくなかった」
櫂: 「……うん」
暁海: 「北原先生との関係には、櫂との間にあったような激しさはなかった。でも、それを不幸だとは思わなかった」
櫂: 「俺は、まだ少し分からない」
暁海: 「うん。分からなくてもいいと思う」
櫂は顔を上げた。
暁海: 「私も、櫂が思い描く結婚の形を否定したいわけじゃないから」
北原が静かに言った。
北原: 「結婚という制度の中に、何を求めるかは人によって違います。恋愛、生活の安定、信頼、家族を育てること。すべてを一人の相手との関係に求める人もいれば、そうでない人もいます」
櫂: 「でも、それって都合のいい話にも聞こえませんか」
北原: 「どういう意味でしょう」
櫂: 「恋愛じゃなくてもいい、普通じゃなくてもいいって言えば、何でも許されるみたいで」
北原はうなずいた。
北原: 「その疑問はもっともです」
櫂: 「先生は、世間の常識なんか関係ないって思ってるんですか」
北原: 「いいえ。社会の制度には、人を守る役割があります。結婚もその一つでしょう。ただ、制度があるからといって、そこに生きるすべての人の気持ちまで同じになるわけではありません」
瞳子: 「それに、世間が正しいと言うことと、実際に誰かが幸せかどうかは、別の問題よね」
櫂は瞳子を見た。
櫂: 「でも、誰かが幸せなら、他の誰かが傷ついてもいいんですか」
瞳子は静かに湯飲みを置いた。
瞳子: 「いいえ」
即座の返事だった。
瞳子: 「自分の幸せを望むことと、人を傷つけた責任を取らなくていいことは、まったく違うわ」
櫂: 「だったら……」
瞳子: 「ただし、誰かが傷ついたという事実だけで、すべての選択が間違いだったとも言えないと思う」
櫂: 「難しいですね」
瞳子: 「そうよ。難しいの」
瞳子は少し笑った。
瞳子: 「だから、簡単に人を裁きたくないの」
そのとき、廊下から小さな声が聞こえた。
結: 「ねえ、普通の家族って、何?」
全員が振り向いた。
北原の娘、結が立っていた。
その後ろには菜々がいる。
菜々: 「ごめんなさい。話の途中だった?」
北原: 「いや、大丈夫だよ」
結: 「さっきから、普通じゃないとか、普通の結婚とか言ってるから」
結は北原の隣に座った。
結: 「普通の家族って、どんな家族?」
北原は少し考えた。
北原: 「結はどう思う?」
結: 「また質問?」
櫂が吹き出した。
櫂: 「先生、娘さんにも同じことしてるんですね」
結: 「いつもそうなの」
北原は困ったように笑った。
北原: 「じゃあ、今日は先に答えようかな」
結: 「うん」
北原: 「お父さんにも、普通の家族が何なのか、はっきりとは分からない」
結: 「大人なのに?」
北原: 「大人でも、分からないことはたくさんあるんだよ」
結: 「ふうん」
結は少し考えた。
結: 「じゃあ、私の家族は普通じゃないの?」
菜々の表情が変わった。
北原は結の方へ体を向けた。
北原: 「結は、自分の家族が嫌?」
結: 「嫌じゃない」
北原: 「そうか」
結: 「でも、学校で家族の絵を描くとき、誰を描けばいいか分からなくなることがある」
菜々は結を見つめた。
菜々: 「そんなこと、あったの?」
結: 「うん」
菜々: 「どうして言わなかったの」
結: 「だって、言ったら困るかなと思って」
菜々は言葉を失った。
暁海は、その言葉に胸を突かれた。
子どもが、大人を困らせないように本音を隠す。
ついさっきまで、自分自身がその話をしていた。
暁海: 「結ちゃん」
結: 「何?」
暁海: 「誰を描きたかったの?」
結: 「みんな」
暁海: 「みんな?」
結: 「うん。お父さんも、お母さんも、暁海さんも」
北原は目を伏せた。
結: 「でも、そんなに描いたら変かなって」
櫂: 「なんで変なの?」
結: 「だって、みんなのお家と違うから」
櫂は少し考えた。
櫂: 「俺、子どもの頃、何度も引っ越したんだ」
結: 「知ってる」
櫂: 「そのたびに家族の形も変わった。母さんと二人のときもあったし、知らない大人と一緒に暮らしたこともあった」
結: 「うん」
櫂: 「でも、変わった家族だからって、俺が変な子どもだったわけじゃないだろ?」
結: 「うん」
櫂: 「だったら、結ちゃんも変じゃないよ」
結は少し笑った。
結: 「じゃあ、みんな描いていい?」
菜々: 「もちろんよ」
菜々の声が少し震えていた。
菜々: 「描きたい人を描いていいの」
結はうなずいた。
しかし、すぐに別のことを思い出したようだった。
結: 「でもね、お母さん」
菜々: 「何?」
結: 「この前、先生に家族のことを聞かれて、うまく説明できなかった」
菜々: 「そうだったの」
結: 「私、説明しないといけないの?」
菜々は答えられなかった。
北原が口を開こうとしたとき、瞳子が静かに言った。
瞳子: 「説明したくなかったら、しなくてもいいと思うわ」
結は瞳子を見た。
瞳子: 「でも、説明したいときに、恥ずかしいと思わなくていいように、大人たちが考えなきゃいけないこともあるわね」
結: 「どういうこと?」
瞳子: 「結ちゃんが自分の家族のことを話したとき、周りの人がちゃんと聞いてくれるようにするってこと」
結: 「へえ」
瞳子: 「家族の形が違うことと、誰かが悪いことをしているかどうかは、別の話だから」
櫂が瞳子を見た。
櫂: 「でも、家族の形が変わることで、子どもが傷つくこともありますよね」
瞳子: 「ええ。もちろん」
櫂: 「俺は、それを経験してるから」
瞳子: 「そうね」
櫂: 「だから、家族の形は自由だって簡単に言われると、少し引っかかるんです」
瞳子: 「それは大切な指摘だと思う」
瞳子は櫂をまっすぐ見た。
瞳子: 「大人が自由に生きることと、子どもが安心して暮らせること。その両方を考えなければならないわね」
櫂: 「はい」
瞳子: 「でも、櫂君。あなたが苦しかったのは、お母さんの恋愛が普通じゃなかったから?」
櫂は黙った。
瞳子: 「それとも、自分の気持ちを聞いてもらえなかったから?」
櫂はしばらく考えた。
櫂: 「……後者です」
瞳子: 「そうでしょうね」
櫂: 「母さんが誰と付き合うかより、俺が何も決められないことの方が嫌だった」
瞳子: 「なら、問題を正確に見なければいけないわね。家族の形が一般的ではないことと、その中で誰かが大切にされていないことは、同じではない」
北原は静かにうなずいた。
北原: 「その通りだと思います」
菜々: 「でも、私たちも結に負担をかけているのかもしれません」
結が顔を上げた。
結: 「負担って?」
菜々: 「家族のことを説明しなきゃいけなかったり、周りの人にいろいろ聞かれたりするでしょう」
結: 「うん」
菜々: 「それが嫌だったら、ちゃんと言ってね」
結は少し考えた。
結: 「じゃあ、一つ言っていい?」
菜々: 「もちろん」
結: 「大人たち、私の前で難しい顔するの、やめてほしい」
菜々は目を丸くした。
北原: 「難しい顔?」
結: 「うん。家族の話になると、みんな急に難しい顔になる」
櫂が笑った。
櫂: 「それは確かに」
結: 「私、別に毎日困ってるわけじゃないよ。学校も楽しいし、ご飯もおいしいし」
暁海: 「それはよかった」
結: 「でも、みんなが心配そうにすると、私も心配になっちゃう」
菜々は結を抱き寄せた。
菜々: 「ごめんね」
結: 「だから、もっと普通にしてて」
北原は笑った。
北原: 「普通に、か」
結: 「うん」
櫂: 「結ちゃん、それが一番難しい注文かもしれないよ」
結は不思議そうな顔をした。
結: 「なんで?」
櫂: 「大人って、簡単なことを難しくするのが得意だから」
みんなが笑った。
菜々は結の髪をなでながら、静かに言った。
菜々: 「でもね、結。お母さんにも、まだ考えなきゃいけないことがあるの」
結: 「何?」
菜々: 「自分の気持ちだけで決めてしまったことがなかったかって」
結は母親を見た。
菜々: 「あなたが大丈夫だと言ってくれても、それで全部よかったことになるわけじゃないから」
北原も顔を上げた。
北原: 「私も同じです」
暁海は二人を見た。
北原: 「私たち大人の選択には、それぞれ事情がありました。しかし、事情があったからといって、誰かに与えた負担が消えるわけではありません」
櫂: 「先生……」
北原: 「だからこそ、これからどう向き合うかを考え続けなければいけないのでしょうね」
瞳子は少し微笑んだ。
瞳子: 「そういう話なら、私も賛成よ」
櫂は湯飲みを置いた。
櫂: 「俺、さっきからずっと、先生に聞きたいことがあったんです」
北原: 「何でしょう」
櫂: 「先生は、暁海と結婚して、後悔したことありますか」
暁海が櫂を見た。
北原は少し考えた。
北原: 「後悔したことは、あります」
櫂は驚いた。
櫂: 「あるんですか」
北原: 「ええ」
暁海: 「先生、初めて聞きました」
北原: 「そうでしたか」
暁海: 「何を後悔したんですか」
北原は暁海を見た。
北原: 「君が私に遠慮していたことに、もっと早く気づくべきだったと思っています」
暁海は目を見開いた。
北原: 「君は、私に迷惑をかけまいとして、何でも一人で決めようとすることがありましたね」
暁海: 「……はい」
北原: 「私は、それを君の強さだと思っていた」
暁海: 「違いましたか」
北原: 「強さでもあったでしょう。でも、誰かに頼ることが怖かったのかもしれない」
暁海は黙った。
北原: 「私は君に自由でいてほしかった。しかし、自由にしていいと言うだけでは、十分ではなかったのかもしれません」
櫂: 「どういうことですか」
北原: 「人は、自由にしていいと言われても、すぐに自由になれるとは限らないということです」
暁海はゆっくりうなずいた。
北原: 「ずっと誰かの期待に応えて生きてきた人は、自分が何を望んでいるのかさえ、分からなくなることがありますから」
暁海: 「……先生」
北原: 「はい」
暁海: 「私、先生と結婚してよかったと思っています」
北原は微笑んだ。
北原: 「ありがとうございます」
暁海: 「でも、先生に甘えていたところもあったと思う」
北原: 「そうですか」
暁海: 「先生は何でも受け止めてくれるから、私、自分の気持ちを説明しなくても分かってもらえると思っていたのかもしれません」
北原: 「私も、分かっているつもりになっていたのでしょうね」
二人は顔を見合わせた。
櫂はその様子を見ていた。
櫂: 「……なんか、悔しいな」
暁海が振り向いた。
暁海: 「何が?」
櫂: 「先生と暁海、ちゃんと夫婦みたいじゃん」
暁海は笑った。
暁海: 「夫婦だもの」
櫂: 「いや、そうなんだけど」
北原: 「櫂君。君が想像していた夫婦とは、違いますか」
櫂: 「違いますね」
北原: 「それは、悪いことでしょうか」
櫂はしばらく黙った。
櫂: 「……悪いとは思いません」
北原: 「そうですか」
櫂: 「でも、俺はやっぱり、好きな人と結婚したかった」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「うん。それでいいと思う」
櫂: 「いいの?」
暁海: 「櫂はそういう人生を望んでたんでしょう」
櫂: 「うん」
暁海: 「だったら、それを大切にすればいいよ」
櫂は少し笑った。
櫂: 「お前は、先生との人生を大切にしてた?」
暁海は北原を見た。
それから櫂に向き直った。
暁海: 「してたよ」
櫂はうなずいた。
櫂: 「そっか」
その言葉には、寂しさがあった。
けれど、怒りはなかった。
瞳子が二人を見ながら言った。
瞳子: 「面白いわね」
櫂: 「何がですか」
瞳子: 「二人とも、自分の望む愛の形を大切にしている。でも、相手の選んだ形も、少しずつ認められるようになってきた」
櫂: 「……そうですね」
瞳子: 「私は、それが大人になるということの一つなのかもしれないと思うの」
暁海: 「自分と違う生き方を、否定しなくなることですか」
瞳子: 「ええ。ただし、何でも認めればいいという話ではないわ」
瞳子は結を見た。
瞳子: 「大切なのは、その関係の中で、誰かが自分を犠牲にし続けていないかということ」
結は首をかしげた。
結: 「犠牲って?」
瞳子: 「誰かが幸せになるために、別の誰かがずっと我慢していないかってことよ」
結は少し考えた。
結: 「じゃあ、みんなが我慢してなかったら、いい家族?」
瞳子: 「我慢が一つもない家族は、たぶんないわね」
結: 「ええ?」
みんなが笑った。
瞳子: 「でも、誰か一人だけが、いつも我慢している家族は、少し考え直した方がいいかもしれない」
結: 「じゃあ、順番に我慢するの?」
櫂が吹き出した。
櫂: 「結ちゃん、それも大変そう」
北原: 「我慢を順番にするというより、困ったことがあったら、みんなで話せることが大切なのかもしれないね」
結: 「あ、それなら分かる」
菜々: 「どうして?」
結: 「だって、私がピーマン嫌いって言ったら、お母さん、ちゃんと聞いてくれるもん」
菜々: 「聞くけど、食べなくていいとは言ってないわよ」
結: 「ええ!」
笑い声が部屋に広がった。
北原は久しぶりに声を出して笑っていた。
櫂も笑っていた。
暁海は、その光景を静かに眺めていた。
普通の家族とは何なのだろう。
血のつながった親子がいて、結婚した夫婦がいて、同じ家に暮らしていることだろうか。
けれど、彼女が知っている家族には、いつも何かが欠けていた。
父親がいない家。
母親の恋愛によって居場所が変わる家。
恋愛とは違う理由で結ばれた夫婦。
離れて暮らしながら、子どもを大切に思う親たち。
どの家族にも、説明しきれない事情があった。
そして、どの家族にも、そこに生きる人間がいた。
暁海は北原に尋ねた。
暁海: 「先生」
北原: 「はい」
暁海: 「もし、もう一度人生をやり直せるとしても、私と結婚しますか」
北原は少し驚いた。
櫂も顔を上げた。
北原: 「難しい質問ですね」
暁海: 「今日は先生が答える番です」
北原は笑った。
そして、しばらく考えた。
北原: 「同じ人生を繰り返したいかと聞かれたら、迷うでしょうね」
暁海は静かに聞いていた。
北原: 「君にも、私にも、もっと違う選択ができた場面があったと思います」
暁海: 「はい」
北原: 「でも、君と出会ったことを後悔しているかと聞かれたら、答えは違います」
暁海: 「……」
北原: 「後悔していません」
暁海は微笑んだ。
北原: 「君と過ごした時間は、私にとって大切な人生の一部です」
暁海の目が潤んだ。
暁海: 「ありがとうございます」
北原は少し照れたように湯飲みを持ち上げた。
櫂: 「先生」
北原: 「はい」
櫂: 「俺、先生のこと、ずるい人だと思ってたことがあります」
北原は櫂を見た。
北原: 「そうですか」
櫂: 「俺が一緒にいたかった人と、先生は一緒に暮らしてたから」
北原: 「……はい」
櫂: 「でも、今は少し違う気がします」
北原: 「どう違いますか」
櫂: 「先生も、先生なりに暁海を大切にしてたんだなって」
北原は静かにうなずいた。
北原: 「君も、そうだったのでしょう」
櫂: 「はい」
北原: 「大切にする方法が違っただけなのかもしれませんね」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「お前、幸せだった?」
暁海は少し考えた。
暁海: 「幸せだった時間も、苦しかった時間もあったよ」
櫂: 「そっか」
暁海: 「でも、それはどんな人生でも同じじゃないかな」
櫂はうなずいた。
暁海: 「私、昔は幸せって、一つの形しかないと思ってた」
櫂: 「どんな形?」
暁海: 「好きな人と結婚して、一緒に暮らして、ずっと離れないこと」
櫂: 「俺もそう思ってた」
暁海: 「でも、そうならなかったからって、人生が全部間違いになるわけじゃないんだね」
櫂は静かに笑った。
櫂: 「……そうだな」
そのとき、結が立ち上がった。
結: 「ねえ、みんな」
菜々: 「どうしたの?」
結: 「家族の絵、今描いてもいい?」
北原: 「もちろん」
結: 「紙ある?」
暁海は棚から白い紙を取り出した。
櫂が色鉛筆を見つけてきた。
櫂: 「はい、画伯」
結: 「ありがとう」
結はテーブルの端に座り、夢中になって絵を描き始めた。
北原、菜々、暁海。
その横には、自分自身。
そして、少し離れたところに、ほかの人たちも描き始めた。
櫂: 「あれ、俺もいる?」
結: 「うん」
櫂: 「なんで?」
結: 「今日、一緒にいるから」
櫂は一瞬、言葉を失った。
結: 「だめ?」
櫂: 「いや。嬉しいよ」
結: 「じゃあ、先生も二人描こうかな」
北原: 「私は一人で十分だよ」
結: 「だって、さっきから質問ばっかりしてる先生と、今笑ってる先生、違う人みたいだから」
部屋が笑いに包まれた。
北原は降参したように両手を上げた。
北原: 「では、二人描いてください」
結は楽しそうに色鉛筆を走らせた。
暁海は、その小さな手を見つめていた。
暁海: 「結ちゃん」
結: 「何?」
暁海: 「その絵、何ていう題名にするの?」
結は少し考えた。
結: 「うーん……」
そして、笑顔で答えた。
結: 「大好きな人たち」
誰も何も言わなかった。
その言葉が、あまりにも自然だったからだ。
やがて櫂が、小さく笑った。
櫂: 「いい題名だね」
結: 「でしょう?」
菜々は結の肩にそっと手を置いた。
北原は絵を眺めていた。
瞳子は湯飲みを持ちながら、静かに微笑んだ。
暁海は、結が描いた自分の姿を見た。
そこには、誰かの妻でも、誰かの恋人でも、誰かの娘でもない、一人の人間としての暁海がいた。
彼女は櫂を見た。
暁海: 「櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私たち、いろんな形で人を愛してきたんだね」
櫂: 「そうだな」
暁海: 「うまくいかなかったことも、たくさんあったけど」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、全部が間違いだったわけじゃないんだね」
櫂は少し考えた。
そして、ゆっくりうなずいた。
櫂: 「そうだと思う」
結の色鉛筆が、紙の上を走る音がした。
外では、海の上に星が増えていた。
誰かが正しい家族の形を決めなくても、人は誰かを大切にできる。
ただし、愛しているという言葉だけで、すべてが許されるわけではない。
大切なのは、その関係の中で、一人ひとりが尊重されているかどうか。
そして、自分とは違う愛の形を見たとき、すぐに間違いだと決めつけず、その中に生きる人々の声を聞くこと。
結は最後の一人を描き終え、満足そうに絵を持ち上げた。
結: 「できた!」
みんなが絵をのぞき込んだ。
そこには、いろいろな色の服を着た人々が、同じ空の下に立っていた。
手をつないでいる人もいれば、少し離れて立っている人もいる。
けれど、誰も一人ぼっちではなかった。
菜々: 「素敵ね」
結: 「うん!」
北原: 「結、これは家族の絵なのかな」
結は不思議そうに父親を見た。
結: 「うん。そうだよ」
北原: 「そうか」
結: 「だって、みんな大切な人でしょう?」
北原は静かにうなずいた。
北原: 「そうだね」
結は笑った。
結: 「じゃあ、家族でいいじゃない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
北原は娘の絵をもう一度眺めた。
そして、今夜初めて、何の質問もせずに微笑んだ。
Topic 4:自分の人生を生きるとは、誰かを傷つける覚悟を持つことなのか?

「誰も傷つけない人生なんて、あるのかな」
凪良ゆう『汝、星のごとく』に着想を得た架空対話
結が描いた絵は、居間の壁に飾られていた。
「大好きな人たち」
色鉛筆で書かれたその題名の下には、いろいろな人が並んでいる。手をつないでいる人もいれば、少し離れて立っている人もいる。みんな違う方向を向いているのに、不思議と一枚の絵に収まっていた。
櫂はその絵を眺めながら、ぽつりと言った。
櫂: 「子どもの絵って、いいよな」
暁海: 「どうして?」
櫂: 「迷いがないから。描きたいものを、そのまま描ける」
瞳子: 「大人になると、描く前に考えてしまうものね」
櫂: 「そうなんですよ。これを描いたら誰かが怒るかなとか、売れるかなとか、変だと思われないかなとか」
北原: 「櫂君は、漫画を描くときもそうだったんですか」
櫂: 「最初は違いました。描きたいものがあって、それを描くだけで楽しかった」
暁海: 「覚えてる。高校生の頃、櫂、授業中も漫画のことばっかり考えてた」
櫂: 「授業も聞いてたよ」
北原: 「それについては、少し異議がありますね」
みんなが笑った。
櫂: 「先生まで。ひどいなあ」
暁海: 「でも、本当に楽しそうだったよね。櫂が漫画の話をするとき」
櫂: 「あの頃は、漫画家になれば全部うまくいくと思ってたから」
瞳子: 「全部?」
櫂: 「仕事も、生活も、暁海とのことも」
暁海は櫂を見た。
櫂: 「でも、そうじゃなかった」
彼は壁の絵から目を離した。
櫂: 「夢がかなっても、失うものはあるんだな」
そのとき、廊下から声が聞こえた。
尚人: 「ずいぶん湿っぽい話してるな」
櫂が振り向いた。
入口に、久住尚人が立っていた。
片手には紙袋を持ち、もう片方の手には何冊かの漫画雑誌を抱えている。
櫂: 「尚人!」
尚人: 「おう」
櫂: 「お前、どこ行ってたんだよ」
尚人: 「ちょっと仕事してた」
櫂: 「こんなところまで来て?」
尚人: 「締め切りは場所を選ばないんだよ」
櫂は笑いながら立ち上がった。
尚人も笑った。
二人は一瞬、握手をするのか、肩を抱くのか迷った。
結局、櫂が尚人の肩を軽く叩いた。
櫂: 「相変わらずだな」
尚人: 「お前もな」
暁海はその様子を見て微笑んだ。
北原が席を勧める。
北原: 「ちょうど櫂君の仕事について話していたところです」
尚人: 「それは危険ですね。こいつ、都合の悪いことは話してないでしょう」
櫂: 「おい」
尚人: 「締め切り前になると、まともに飯も食わなかったこととか」
櫂: 「それはお前もだろ」
尚人: 「俺は食ってたよ」
櫂: 「カップ麺を食事って呼ぶならな」
二人は笑った。
しかし、尚人はすぐに真顔になった。
尚人: 「で、何の話だった?」
暁海: 「夢を追うことと、失うものの話」
尚人: 「ああ」
尚人は櫂を見た。
尚人: 「それなら、俺にも言いたいことがあるな」
櫂は少し警戒した顔をした。
櫂: 「何だよ」
尚人: 「お前、仕事をしてるとき、よく言ってただろ。これさえ成功すればって」
櫂: 「……言ってたな」
尚人: 「あれ、何が成功すればよかったんだ?」
櫂は眉を寄せた。
櫂: 「漫画が売れれば、だろ」
尚人: 「売れたら?」
櫂: 「生活が安定する」
尚人: 「安定したら?」
櫂: 「暁海と……」
櫂は言葉を止めた。
尚人は黙って待った。
櫂: 「一緒に暮らせると思ってた」
尚人: 「そうだよな」
櫂: 「何が言いたいんだよ」
尚人: 「お前、漫画を描くのが好きだったのか。それとも、漫画で成功すれば幸せになれると思ってたのか」
櫂は笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
櫂: 「両方だよ」
尚人: 「そうだな。最初は両方だった」
櫂: 「最初は?」
尚人: 「途中から、成功しないと自分には価値がないみたいになってた」
部屋が静かになった。
櫂: 「……そう見えた?」
尚人: 「見えたよ」
櫂: 「なんで言わなかったんだ」
尚人: 「言ったよ」
櫂: 「いつ?」
尚人: 「何度も。少し休めとか、仕事を減らせとか、たまには暁海さんに会いに行けとか」
櫂は黙った。
尚人: 「お前、全部『今は無理』って言ってた」
櫂: 「……覚えてる」
尚人: 「で、いつなら無理じゃなかったんだ?」
櫂は答えられなかった。
暁海が静かに口を開いた。
暁海: 「櫂は、私のために頑張ってくれてたんだよね」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、私が本当に欲しかったのは、櫂の成功だけじゃなかった」
櫂: 「……分かってる」
暁海: 「一緒にご飯を食べたり、くだらない話をしたり、何でもない日に会えたり。そういうことだった」
櫂はうなずいた。
櫂: 「今なら分かる」
尚人: 「でも、櫂だけの問題でもないだろ」
暁海が顔を上げた。
尚人: 「暁海さんだって、自分の人生を選ぶのが難しかったんでしょう」
暁海: 「……はい」
尚人: 「櫂は東京で仕事をして、暁海さんは島に残った。二人とも、それぞれ理由があった」
櫂: 「そうだな」
尚人: 「だったら、どっちか一人が悪かったって話じゃないんじゃないか」
北原が静かにうなずいた。
北原: 「ただ、理由があったということと、相手を傷つけなかったということも、別ですね」
尚人は北原を見た。
尚人: 「そうですね」
北原: 「自分の人生を選ぶことは大切です。しかし、その選択によって誰かが傷ついたなら、その痛みに向き合う必要もあるのでしょう」
櫂は少し考えた。
櫂: 「先生」
北原: 「はい」
櫂: 「じゃあ、どうすればよかったんですか」
北原: 「何についてでしょう」
櫂: 「俺が東京へ行くことです」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「俺が夢を追えば、暁海が寂しい思いをする。東京へ行かなければ、俺は自分の夢を諦めることになる」
北原: 「はい」
櫂: 「どっちを選んでも、誰かが傷つくじゃないですか」
北原はすぐには答えなかった。
櫂: 「誰も傷つけない選択なんて、あったんですか」
静かな沈黙が落ちた。
瞳子が湯飲みを置いた。
瞳子: 「なかったかもしれないわね」
櫂は彼女を見た。
瞳子: 「少なくとも、誰も悲しまない選択はなかったかもしれない」
櫂: 「だったら、自分の人生を選ぶしかないでしょう」
瞳子: 「そうね。でも、その言い方には少し気をつけた方がいいと思う」
櫂: 「どうしてですか」
瞳子: 「『自分の人生だから』という言葉は、とても大切よ。でも、便利すぎることもあるの」
櫂: 「便利?」
瞳子: 「誰かを傷つけたとき、その言葉だけで話を終わらせることもできるでしょう」
櫂は黙った。
瞳子: 「私は、自分の人生を生きることを否定したくない。でも、自分の人生を選んだ人が、他人の痛みに無関心でいていいとも思わない」
暁海: 「……それ、難しいですね」
瞳子: 「難しいわね」
暁海: 「私、昔は、誰も傷つけないように生きればいいと思ってた」
櫂: 「お前らしいな」
暁海: 「でも、結局、櫂を傷つけた。お母さんも傷つけた。自分も傷ついた」
瞳子: 「そうね」
暁海: 「じゃあ、何のために我慢してたんだろうって思うことがある」
櫂は暁海を見つめた。
暁海: 「誰も傷つけたくなくて、自分の気持ちを隠して、相手の望むことを優先して。それでも、誰かが傷つくなら……」
暁海は言葉を止めた。
北原: 「それなら、自分の気持ちも大切にしてよかったのではないか、と」
暁海: 「はい」
北原は静かにうなずいた。
北原: 「そうかもしれませんね」
櫂: 「でも先生、それって結局、誰かを傷つける覚悟を持てってことですか」
北原: 「私は、少し違うと思います」
櫂: 「どう違うんですか」
北原: 「誰かを傷つける覚悟というより、誰かが傷つく可能性から目をそらさない覚悟でしょうか」
櫂は考え込んだ。
北原: 「自分が望む道を選ぶ。その結果、誰かが悲しむこともあるでしょう。でも、その悲しみを見ないふりをしたり、相手が悪いと決めつけたりしない」
瞳子: 「そうね。自分の選択を引き受けるというのは、そういうことかもしれない」
尚人: 「なるほどな」
櫂: 「……でも、相手が許してくれなかったら?」
北原は櫂を見た。
北原: 「許してもらえないこともあるでしょう」
櫂: 「それでも?」
北原: 「それでも、自分の選択に責任を持つしかないのではありませんか」
櫂は視線を落とした。
櫂: 「厳しいですね」
北原: 「そうですね」
櫂: 「先生って、優しいこと言うのかと思ったら、結構厳しいですよね」
北原: 「教師ですから」
尚人: 「またそれですか」
みんなが少し笑った。
そのとき、瞳子が櫂に尋ねた。
瞳子: 「櫂君。もし東京へ行かなかったら、どうなっていたと思う?」
櫂は少し考えた。
櫂: 「……分かりません」
瞳子: 「想像してみて」
櫂: 「島に残って、何か仕事をして、暁海と一緒に暮らしてたかもしれない」
暁海: 「うん」
櫂: 「でも、漫画を諦めたことを、ずっと後悔してたかもしれない」
瞳子: 「その後悔を、誰に向けたと思う?」
櫂は黙った。
暁海も顔を上げた。
櫂: 「……暁海に、かもしれない」
瞳子: 「そうね」
櫂: 「お前のために夢を諦めたんだって、言ってしまったかもしれない」
暁海は小さく息を吸った。
櫂: 「それ、最悪だな」
暁海: 「うん。言われたら、つらかったと思う」
櫂: 「俺も、言いたくない」
瞳子: 「だから、誰かのために自分を犠牲にすることが、必ずしも相手を幸せにするわけではないのよ」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「私も、お母さんに対してそうだったのかもしれません」
北原: 「どういうことですか」
暁海: 「島に残ったのは、自分で決めたことなのに、心のどこかで、お母さんのせいにしてた」
櫂: 「……うん」
暁海: 「本当は自分で選ぶのが怖かったのに、選べなかった理由を全部お母さんに預けていたのかもしれない」
北原: 「それも一つの見方でしょうね。ただ、当時の暁海さんには、自由に選べるだけの余裕がなかったことも忘れてはいけません」
暁海は北原を見た。
北原: 「人は、置かれた状況によって、選べる道が違います。選択したという事実だけで、すべてを本人の責任にすることはできません」
瞳子: 「そうね。自由を語るときには、その人がどれだけ自由に選べたのかも考えなければならないわ」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「俺、お前が東京へ来なかったことを、ずっと自分を選ばなかったからだと思ってた」
暁海: 「うん」
櫂: 「でも、そうじゃなかったんだな」
暁海: 「櫂を選びたかった。でも、ほかにも守りたいものがあった」
櫂: 「……そっか」
暁海: 「それに、怖かった。東京へ行って、もし櫂とうまくいかなかったら、私には何が残るんだろうって」
櫂は顔を上げた。
櫂: 「俺のこと、信じてなかった?」
暁海: 「信じてたよ」
櫂: 「じゃあ……」
暁海: 「でも、櫂を信じることと、自分の人生を全部櫂に預けることは違うでしょう」
櫂は黙った。
やがて、ゆっくりうなずいた。
櫂: 「……そうだな」
尚人が二人を見ながら言った。
尚人: 「お前ら、もっと早くこの話をしてればよかったのにな」
櫂: 「本当にそう思う」
暁海: 「でも、あの頃は言えなかったと思う」
尚人: 「なんで?」
暁海: 「相手を失うのが怖かったから」
櫂は暁海を見た。
暁海: 「本音を言って、もし櫂が離れていったらと思うと、言えなかった」
櫂: 「俺もだよ」
尚人: 「それで、結局離れたんだろ」
櫂は苦笑した。
櫂: 「お前、容赦ないな」
尚人: 「だって、そうじゃん」
櫂: 「……そうだな」
尚人は少し声を落とした。
尚人: 「俺、仕事でも似たようなことがあると思うんだ」
北原: 「どういうことでしょう」
尚人: 「編集者に本当のことを言えないとか、読者に嫌われたくなくて描きたいものを変えるとか」
櫂: 「あるな」
尚人: 「でも、全員に好かれる漫画なんて描けないんですよ」
瞳子: 「そうでしょうね」
尚人: 「誰かには刺さるけど、誰かには嫌われる。そういうものなんです」
櫂: 「うん」
尚人: 「それでも、自分が描きたいものを描くしかない。ただし、読者が何を感じるかは、ちゃんと考えなきゃいけない」
北原: 「人生の選択にも似ていますね」
尚人: 「そうかもしれません」
櫂は少し笑った。
櫂: 「お前、いつの間にそんな立派なこと言うようになったんだよ」
尚人: 「昔からだよ。お前が聞いてなかっただけ」
櫂: 「それ、今日何回言われるんだ」
みんなが笑った。
しかし、櫂の笑顔はすぐに消えた。
櫂: 「尚人」
尚人: 「ん?」
櫂: 「お前、後悔してることある?」
尚人は少し驚いた。
尚人: 「急だな」
櫂: 「聞きたいんだ」
尚人は考えた。
尚人: 「あるよ」
櫂: 「例えば?」
尚人: 「もっと遊べばよかったとか、もっと寝ればよかったとか」
櫂: 「それはそうだな」
尚人: 「でも、一番は……」
尚人は櫂を見た。
尚人: 「仕事がうまくいってるときほど、これがずっと続くと思ってたことかな」
櫂は黙った。
尚人: 「成功したら安心できると思ってた。でも、成功すると、今度はそれを失うのが怖くなる」
櫂: 「……分かる」
尚人: 「次の作品が売れなかったらどうしようとか、もう必要とされなくなったらどうしようとか」
櫂: 「うん」
尚人: 「結局、どこまで行っても不安は消えなかった」
暁海は二人を見つめていた。
尚人: 「だからさ、櫂。お前に言いたいことがある」
櫂: 「何?」
尚人: 「成功することを、人生の目的にしすぎるなよ」
櫂は苦笑した。
櫂: 「今さら言うなよ」
尚人: 「今さらだから言えるんだろ」
櫂は笑った。
しかし、その目には涙が浮かんでいた。
櫂: 「……そうだな」
尚人は続けた。
尚人: 「漫画を描くのが好きだったんだろ」
櫂: 「うん」
尚人: 「だったら、それでよかったんじゃないか」
櫂: 「でも、俺は……」
尚人: 「暁海さんを幸せにしたかった?」
櫂はうなずいた。
尚人: 「それも本当だろう。でも、漫画を描きたかったのも本当だろ」
櫂: 「うん」
尚人: 「だったら、どっちかを嘘にする必要ないじゃん」
櫂は顔を上げた。
尚人: 「自分の夢を追ったことまで、全部間違いだったみたいに言うなよ」
櫂は何も言わなかった。
尚人は少し笑った。
尚人: 「俺たち、あんなに一生懸命描いてたんだから」
櫂の目から涙がこぼれた。
櫂: 「……うん」
尚人: 「楽しかっただろ」
櫂: 「楽しかった」
尚人: 「だったら、その時間まで後悔するなよ」
櫂は顔を覆った。
暁海は静かに彼の背中を見つめていた。
やがて櫂が顔を上げた。
櫂: 「でも、暁海を傷つけたことは、後悔してる」
尚人: 「それは後悔すればいい」
櫂は驚いた。
尚人: 「後悔して、謝って、次に同じことをしないように考えればいい。でも、人生全部を否定する必要はないだろ」
北原が静かにうなずいた。
北原: 「後悔は、過去を消すためのものではなく、これからの生き方を考えるためのものなのかもしれませんね」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「暁海」
暁海: 「うん」
櫂: 「俺、お前を傷つけたこと、後悔してる」
暁海は静かにうなずいた。
櫂: 「でも、東京へ行ったことも、漫画を描いたことも、全部間違いだったとは思いたくない」
暁海: 「うん」
櫂: 「それって、勝手かな」
暁海は少し考えた。
暁海: 「勝手じゃないと思う」
櫂は顔を上げた。
暁海: 「私も、島に残ったことを全部間違いだったとは思いたくないから」
櫂: 「……うん」
暁海: 「後悔してることはある。でも、あの時間に意味がなかったとは思わない」
櫂はゆっくりうなずいた。
暁海: 「それに、櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私を傷つけたことを後悔してくれるのは嬉しい。でも、私の人生を櫂の失敗として覚えてほしくない」
櫂は目を見開いた。
暁海: 「私の人生は、私のものだから」
その言葉に、櫂は長い間、何も言えなかった。
櫂: 「……そうだな」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「私、櫂と出会って、幸せだった時間もたくさんあったよ」
櫂: 「うん」
暁海: 「苦しかった時間もあった。でも、それを全部、櫂の責任にしたくない」
櫂: 「ありがとう」
暁海: 「ただし、櫂が悪かったことは、ちゃんと櫂が悪かったからね」
櫂は吹き出した。
櫂: 「そこは譲らないんだ」
暁海: 「当たり前でしょう」
尚人: 「暁海さん、いいこと言うなあ」
櫂: 「お前まで」
みんなが笑った。
しばらくして、瞳子が静かに口を開いた。
瞳子: 「ねえ、みんな」
北原: 「はい」
瞳子: 「私は、自分の人生を生きるって、誰かを傷つける覚悟を持つことだと思っていた時期があるの」
暁海は瞳子を見た。
瞳子: 「自分が幸せになるためには、誰かを悲しませることもある。だから、それを引き受けるしかないって」
櫂: 「今は違うんですか」
瞳子は少し考えた。
瞳子: 「少し違うわね」
暁海: 「どう違うんですか」
瞳子: 「傷つける覚悟という言葉は、少し強すぎるのかもしれない」
瞳子は窓の外を見た。
瞳子: 「本当は、傷つけずに済むなら、傷つけたくないでしょう」
暁海: 「はい」
瞳子: 「でも、誰かを傷つけないことだけを人生の目的にすると、自分の気持ちを全部押し殺してしまう」
北原: 「そうですね」
瞳子: 「だから私は、こう考えるようになったの」
みんなが彼女を見た。
瞳子: 「自分の人生を生きるとは、誰かを傷つける覚悟ではなく、自分の選択から逃げない覚悟を持つことなんじゃないかって」
櫂は静かにうなずいた。
瞳子: 「誰かが傷ついたら、その痛みに向き合う。間違えたら認める。謝る必要があれば謝る。でも、自分の人生そのものを、他人に明け渡さない」
暁海は目を伏せた。
暁海: 「……それ、私がずっとできなかったことかもしれません」
瞳子: 「今はどう?」
暁海は少し考えた。
暁海: 「まだ、上手じゃないです」
瞳子は微笑んだ。
瞳子: 「私もよ」
暁海は驚いた。
暁海: 「瞳子さんも?」
瞳子: 「当たり前でしょう。そんなに簡単にできるなら、人生でこんなに悩まないわ」
みんなが笑った。
北原は静かに言った。
北原: 「もしかすると、後悔のない人生を目指すこと自体が、無理なのかもしれませんね」
櫂: 「じゃあ、何を目指せばいいんですか」
北原は少し考えた。
北原: 「後悔しても、自分の人生を引き受けられること、でしょうか」
櫂はその言葉を繰り返した。
櫂: 「後悔しても、自分の人生を引き受ける……」
北原: 「ええ」
櫂: 「難しいですね」
北原: 「難しいでしょうね」
尚人: 「でも、櫂。お前、漫画描くときもそうだったじゃん」
櫂: 「何が?」
尚人: 「描き終わった原稿を見て、ここを直せばよかったとか、あそこが駄目だったとか、いつも言ってた」
櫂: 「言ってたな」
尚人: 「でも、だからって描かなきゃよかったとは言わなかっただろ」
櫂は少し笑った。
櫂: 「……確かに」
尚人: 「人生も、そういうものなのかもしれないな」
櫂は壁の絵を見た。
結が描いた人々は、相変わらず違う方向を向いている。
それでも、同じ紙の上に立っていた。
櫂: 「尚人」
尚人: 「ん?」
櫂: 「俺、もう一回人生をやり直せるなら、また漫画描くと思う」
尚人は笑った。
尚人: 「知ってるよ」
櫂: 「でも、今度は少し休む」
尚人: 「それも知ってる」
櫂: 「それから、暁海の話をもっと聞く」
暁海が顔を上げた。
櫂: 「東京へ来いって言う前に、どうしたいって聞く」
暁海は微笑んだ。
櫂: 「もし来られないって言われたら、どうすれば二人でやっていけるか、一緒に考える」
暁海: 「うん」
櫂: 「それでも駄目だったら……」
櫂は少し言葉を止めた。
暁海: 「うん」
櫂: 「そのときは、ちゃんと悲しむ」
暁海の目に涙が浮かんだ。
櫂: 「相手を責めるんじゃなくて、自分を責めるんでもなくて。悲しいものは悲しいって、ちゃんと認める」
暁海はゆっくりうなずいた。
暁海: 「それ、いいね」
櫂は少し笑った。
櫂: 「だろ?」
暁海も笑った。
暁海: 「私も、もう一度人生をやり直せるなら、刺繍を続けたい」
櫂: 「うん」
暁海: 「お母さんのことも大切にしたい。でも、自分の行きたい場所にも行きたい」
櫂: 「いいじゃん」
暁海: 「それから、櫂にもっと怒る」
櫂は目を丸くした。
櫂: 「え?」
暁海: 「我慢しないで、ちゃんと怒る」
櫂: 「それはちょっと怖いな」
暁海: 「怖がってください」
みんなが笑った。
北原は二人を見ながら、静かに言った。
北原: 「怒ることも、相手を大切にする方法の一つなのかもしれませんね」
暁海: 「そうですね」
櫂: 「先生、今のは俺を助けるところでしょう」
北原: 「残念ながら、今回は暁海さんの味方です」
櫂: 「ひどいなあ」
笑い声が部屋に広がった。
その後、しばらく誰も話さなかった。
窓の外では、夜の海が静かに広がっていた。
尚人は持ってきた漫画雑誌を一冊取り出し、櫂の前に置いた。
尚人: 「ほら」
櫂: 「何?」
尚人: 「昔のやつ」
櫂は表紙を見た。
そこには、二人が必死に描いた作品が載っていた。
櫂: 「懐かしいな」
尚人: 「だろ」
櫂はページをめくった。
線が荒いところもあった。
構図がうまく決まっていないところもあった。
今なら描き直したいと思う場面が、いくつもあった。
けれど、その一つ一つに、当時の自分たちの情熱が残っていた。
櫂: 「下手だなあ」
尚人: 「おい」
櫂: 「いや、今見るとさ」
尚人: 「でも、いいだろ」
櫂はページを見つめた。
そして、静かに笑った。
櫂: 「……うん。いいな」
暁海が隣からのぞき込んだ。
暁海: 「私、この場面好きだった」
櫂: 「どこ?」
暁海は一つのコマを指さした。
主人公が、失敗した後に立ち上がる場面だった。
暁海: 「ここ」
櫂はそのコマを見た。
櫂: 「ああ、そこか」
暁海: 「この主人公、何度も間違えるんだよね」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、最後まで諦めない」
櫂: 「そういう話にしたかったから」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「櫂らしいね」
櫂は少し照れたように笑った。
櫂: 「そうかな」
暁海: 「うん」
彼女はページを見つめながら続けた。
暁海: 「私たちも、こういうふうに生きたかったのかもしれないね」
櫂: 「どういうふうに?」
暁海: 「間違えても、もう一度立ち上がれるって信じて」
櫂は静かにうなずいた。
櫂: 「そうだな」
暁海は漫画を閉じた。
暁海: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私たちの人生、間違いばっかりだったと思う?」
櫂は少し考えた。
櫂: 「……いや」
暁海は彼を見た。
櫂: 「間違えたことは、たくさんあった。でも、間違いばっかりじゃなかった」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「うん」
櫂は雑誌の表紙をなでた。
櫂: 「俺、漫画描いてよかった」
暁海: 「うん」
櫂: 「暁海と出会えてよかった」
暁海: 「うん」
櫂: 「尚人と仕事できてよかった」
尚人: 「そこはもっと大きい声で言えよ」
櫂は笑った。
櫂: 「尚人と仕事できて、本当によかった!」
尚人: 「よし」
みんなが笑った。
櫂は暁海を見た。
櫂: 「でも、後悔もある」
暁海: 「うん」
櫂: 「それでいいんだよな」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「いいと思う」
櫂は少し笑った。
櫂: 「そっか」
窓の外では、星が静かに輝いていた。
人生は、描き直せない原稿に似ているのかもしれない。
消したい線がある。
違う言葉を選びたかった場面がある。
もっと丁寧に描きたかった人の顔がある。
けれど、描き終えたページをすべて破り捨てる必要はない。
その中には、確かに美しかった瞬間もあるのだから。
暁海は、櫂の前に置かれた雑誌をもう一度見た。
暁海: 「櫂」
櫂: 「ん?」
暁海: 「この漫画、私にくれる?」
櫂は驚いた。
櫂: 「いいけど、なんで?」
暁海: 「持っていたいから」
櫂は少し笑った。
櫂: 「もっときれいなやつ、探そうか」
暁海は首を振った。
暁海: 「これがいい」
櫂: 「古いし、端も折れてるよ」
暁海: 「うん」
櫂: 「新品じゃなくていいの?」
暁海は表紙にそっと手を置いた。
暁海: 「これが、櫂たちが一生懸命生きてた証拠だから」
櫂は何も言わなかった。
やがて、静かにうなずいた。
櫂: 「……じゃあ、持ってて」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「ありがとう」
尚人は二人を見て、小さく笑った。
北原は湯飲みに残ったお茶を飲み干した。
瞳子は、壁に飾られた結の絵を眺めていた。
そこには、誰一人として完璧な人間は描かれていなかった。
それでも、全員が笑っていた。
そして暁海は、ふと思った。
自分の人生を生きるということは、誰かを傷つけても構わないと開き直ることではない。
誰も傷つけないために、自分自身を消してしまうことでもない。
自分が何を望み、何を選び、その結果、誰にどんな痛みを与えたのか。
そのすべてから目をそらさず、それでも自分の人生を生きていくこと。
櫂が雑誌を手渡した。
暁海はそれを両手で受け取った。
表紙には、少しだけ折れ目がついていた。
けれど、彼女にはその折れ目さえ、愛おしく思えた。
暁海: 「櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私、もう自分の人生を誰かのせいにしたくない」
櫂は彼女を見た。
暁海: 「でも、自分のせいだって責め続けるのも、もうやめたい」
櫂はゆっくりうなずいた。
櫂: 「うん」
暁海: 「これからは、ちゃんと自分で選びたい」
櫂は微笑んだ。
櫂: 「いいと思う」
暁海は少し笑った。
暁海: 「ありがとう。でも、櫂に許してもらわなくても、そうするよ」
櫂は声を出して笑った。
櫂: 「分かってるよ」
二人は笑い合った。
その笑い声は、夜の海から吹く風に乗って、静かな家の中へ広がっていった。
Topic 5:人は死んでも、誰かの人生を照らし続けられるのか?

「櫂、あなたがいなくなった後も、私は幸せになっていいの?」
凪良ゆう『汝、星のごとく』に着想を得た架空対話
夜の瀬戸内海は、深い藍色に染まっていた。
遠くの港に、いくつかの明かりが見える。
昼間は島と島の間を行き交っていた船も、今はほとんど姿を消していた。
古い家の居間には、まだ人々の笑い声が残っている。
志穂とほのかは、明日の朝食を何にするか相談していた。結は自分の描いた絵に、さらに小さな星を描き足している。尚人は櫂が持っていた古い漫画雑誌をめくりながら、昔の原稿について文句を言っていた。
尚人: 「ここ、絶対に描き直した方がよかったよな」
櫂: 「今さら言うなよ」
尚人: 「いや、今見ても気になるんだよ」
櫂: 「お前、昔から細かいんだよ」
尚人: 「細かくなかったら漫画なんか描けないだろ」
二人は笑った。
暁海はその様子を眺めながら、静かに立ち上がった。
誰にも声をかけず、縁側へ出る。
夜風が頬に触れた。
空には、数えきれないほどの星が輝いていた。
暁海は空を見上げた。
昔、櫂と一緒に見た星空。
島に残っていた頃、一人で見上げた星空。
そして、櫂を失った後、どうしても見上げることができなかった星空。
同じ空なのに、見上げるたびに違って見えた。
「寒くない?」
後ろから声がした。
振り向かなくても、誰だか分かった。
暁海: 「櫂」
櫂: 「ん?」
暁海: 「また寒くないかって聞くの?」
櫂: 「だって寒そうだから」
暁海: 「お母さんみたい」
櫂: 「それはちょっと嫌だな」
暁海は笑った。
櫂は隣に腰を下ろした。
しばらく二人は、何も話さずに星を眺めていた。
やがて暁海が口を開いた。
暁海: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私、ずっと聞きたかったことがある」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、聞くのが怖かった」
櫂は彼女を見た。
櫂: 「何を?」
暁海は空を見上げたまま、静かに言った。
暁海: 「あなたがいなくなった後も、私はあなたを愛していていいの?」
櫂は何も言わなかった。
暁海は続けた。
暁海: 「変な質問だよね」
櫂: 「いや」
暁海: 「だって、愛してるって気持ちは、誰かに許してもらうものじゃないのに」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、あなたがいなくなった後、私、何度も考えたの」
櫂: 「何を?」
暁海: 「いつまで悲しんでいればいいんだろうって」
櫂は静かに聞いていた。
暁海: 「朝起きて、普通にご飯を食べて、仕事をして、誰かと笑って。そういう日が少しずつ戻ってきたとき、怖くなった」
櫂: 「どうして?」
暁海: 「櫂がいなくても、私は生きていけるんだって思ったから」
櫂は目を伏せた。
暁海: 「それが、裏切りみたいに感じたの」
風鈴が小さく鳴った。
櫂: 「暁海」
暁海: 「うん」
櫂: 「俺がいなくても、お前が生きていけることの、何が悪いんだよ」
暁海は少し笑った。
暁海: 「櫂なら、そう言うと思った」
櫂: 「じゃあ、なんで聞くんだよ」
暁海: 「頭では分かってるから」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、心が追いつかなかった」
櫂は黙った。
暁海は膝を抱えた。
暁海: 「櫂が亡くなった後、何でもない日に突然泣くことがあった」
櫂: 「……うん」
暁海: 「スーパーで、櫂が好きだったものを見つけたときとか。テレビで、昔一緒に見た場所が映ったときとか」
櫂: 「うん」
暁海: 「それから、すごくおいしいものを食べたとき」
櫂は少し驚いた。
櫂: 「おいしいもの?」
暁海: 「うん。櫂にも食べさせたかったなって思うと、急に涙が出てきた」
櫂は空を見上げた。
櫂: 「……そっか」
暁海: 「でもね、もっとつらかったのは、泣かなかった日なの」
櫂: 「泣かなかった日?」
暁海: 「うん。一日中忙しくして、夜になって、あれ、今日一度も櫂のことを考えなかったって気づいたとき」
櫂は彼女を見た。
暁海: 「私、薄情なのかなって思った」
櫂: 「そんなわけないだろ」
暁海: 「でも、忘れていくみたいで怖かった」
櫂はしばらく考えていた。
そして、静かに言った。
櫂: 「暁海。俺のことを一日中考えてなかった日があっても、俺たちが一緒にいた時間は消えないよ」
暁海は彼を見た。
櫂: 「十七歳のときに出会ったことも、喧嘩したことも、離れたことも、最後に一緒にいたことも」
暁海: 「うん」
櫂: 「お前が今日、俺のことを思い出したかどうかで、あの時間の価値が変わるわけじゃないだろ」
暁海の目に涙が浮かんだ。
暁海: 「……うん」
櫂: 「だったら、忘れることをそんなに怖がらなくてもいいんじゃないかな」
暁海: 「でも、声を忘れたら?」
櫂は黙った。
暁海: 「顔は写真で見られる。でも、声って、少しずつ分からなくなるでしょう」
櫂: 「……そうかもな」
暁海: 「笑い方も、歩き方も、何気ない癖も。いつか思い出せなくなったら、どうしようって」
櫂は少し考えた。
櫂: 「俺さ、昔、お前の笑い方を漫画に描こうとしたことがあるんだ」
暁海は驚いた。
暁海: 「本当?」
櫂: 「うん。でも、うまく描けなかった」
暁海: 「どうして?」
櫂: 「お前、笑うとき、目だけ先に笑うんだよ」
暁海は思わず笑った。
櫂: 「ほら、今も」
暁海: 「そんなことないよ」
櫂: 「あるんだって。それを描こうとしても、どうしても違う顔になる」
暁海: 「漫画家なのに?」
櫂: 「漫画家だからって、何でも描けるわけじゃないんだよ」
二人は笑った。
櫂: 「でも、描けなかったからって、お前の笑顔がなかったことになるわけじゃないだろ」
暁海は笑うのをやめた。
櫂: 「記憶も、少し似てるんじゃないかな」
暁海: 「……うん」
櫂: 「全部を正確に覚えていなくても、確かにあったものは、あったんだよ」
暁海は空を見上げた。
一つの星が、雲の向こうに隠れた。
そのとき、後ろから北原の声が聞こえた。
北原: 「少し、ご一緒してもいいですか」
暁海: 「先生」
櫂: 「どうぞ」
北原は二人の少し後ろに腰を下ろした。
手には、温かいお茶が入った湯飲みを三つ持っていた。
北原: 「寒くなってきましたから」
櫂: 「先生も、寒くないかって聞くんですね」
北原: 「いけませんか」
暁海: 「今日、三回目です」
北原は笑った。
北原: 「それは失礼しました」
三人は温かいお茶を飲んだ。
しばらくして、北原が静かに言った。
北原: 「暁海さん。亡くなった人を思い出さない日があることを、気にしているんですね」
暁海はうなずいた。
暁海: 「はい」
北原: 「私は、それは自然なことだと思います」
暁海: 「先生は、誰かを忘れるのが怖くなったことはありますか」
北原は少し考えた。
北原: 「ありますよ」
暁海: 「誰を?」
北原: 「昔、亡くなった友人です」
北原は夜空を見上げた。
北原: 「学生の頃は、毎日のように会っていました。くだらないことで笑ったり、将来のことを話したり」
櫂: 「はい」
北原: 「亡くなった直後は、何を見ても彼を思い出しました。でも、何年か経つと、思い出さない日が増えました」
暁海: 「……はい」
北原: 「ある日、その友人の誕生日を忘れていたことに気づいたんです」
暁海は北原を見た。
北原: 「とても申し訳なく思いました」
暁海: 「分かります」
北原: 「でも、しばらくして気づいたことがあります」
櫂: 「何ですか」
北原: 「その友人から教わったことは、今も私の中に残っているんです」
暁海: 「教わったこと?」
北原: 「ええ。人との接し方や、物事の考え方。彼と出会わなければ、今の私は少し違う人間になっていたでしょう」
暁海は黙って聞いていた。
北原: 「彼の誕生日を忘れたからといって、彼が私の人生に与えたものまで消えたわけではありませんでした」
櫂は静かにうなずいた。
櫂: 「それ、いいですね」
北原: 「そうですか」
櫂: 「俺、暁海の中に何か残せたのかな」
暁海は櫂を見た。
暁海: 「たくさんあるよ」
櫂: 「例えば?」
暁海は少し考えた。
暁海: 「自分の作ったものを、誰かに見せてもいいんだって思えたこと」
櫂: 「……うん」
暁海: 「島の外に、私の知らない世界があるって教えてくれたこと」
櫂: 「うん」
暁海: 「それから、誰かを好きになると、世界が少し違って見えるってこと」
櫂は微笑んだ。
暁海: 「でも、櫂が残したのは、いいことばかりじゃないよ」
櫂: 「そうだろうな」
暁海: 「寂しさも、怒りも、後悔もある」
櫂: 「うん」
暁海: 「それでも、全部ひっくるめて、今の私を作ってるんだと思う」
櫂は何も言わなかった。
暁海は続けた。
暁海: 「櫂がいなくなってから、私、自分の人生をもっと大切にしようと思うようになった」
櫂: 「……そうなんだ」
暁海: 「明日が必ず来るわけじゃないって、知ったから」
櫂はゆっくりうなずいた。
暁海: 「でも、最初はそれが嫌だった」
櫂: 「どうして?」
暁海: 「櫂が亡くなったことから、何かいい教訓を得たみたいに思いたくなかった」
北原が顔を上げた。
暁海: 「誰かが死んだから人生の大切さを学びました、なんて、きれいにまとめたくなかったんです」
北原は静かにうなずいた。
北原: 「その気持ちは、大切にしていいと思います」
暁海: 「櫂が生きていてくれた方が、ずっとよかった」
櫂は目を伏せた。
暁海: 「どんな教訓よりも、どんな成長よりも、櫂が生きていてくれた方がよかった」
涙が頬を伝った。
暁海: 「それは、今でも変わらない」
櫂は静かに言った。
櫂: 「……ありがとう」
暁海: 「でもね」
暁海は涙を拭った。
暁海: 「櫂が亡くなった後も、私の人生は続いた」
櫂: 「うん」
暁海: 「続いてしまった、って思った時期もあった」
櫂: 「……うん」
暁海: 「でも、今は少し違う」
櫂は彼女を見た。
暁海: 「続いてくれてよかったって、思える日がある」
櫂の目に涙が浮かんだ。
櫂: 「それを聞けて、よかった」
暁海は小さく笑った。
暁海: 「櫂、泣いてる?」
櫂: 「泣いてない」
暁海: 「今日、何回目?」
櫂: 「数えるなよ」
二人は涙を浮かべたまま笑った。
そのとき、居間から尚人が出てきた。
尚人: 「お前ら、また二人で泣いてんの?」
櫂: 「泣いてないって」
尚人: 「その顔で?」
櫂: 「うるさいな」
尚人は笑いながら縁側に座った。
尚人: 「何の話?」
北原: 「亡くなった人が、残された人の人生に何を残すのか、という話です」
尚人は少し考えた。
尚人: 「ああ。それなら、俺も聞きたいことがある」
櫂は彼を見た。
櫂: 「何?」
尚人: 「お前、俺がいなくなった後、漫画描くの、嫌になったことあった?」
櫂は黙った。
尚人: 「あっただろ」
櫂: 「……あった」
尚人: 「そうか」
櫂: 「お前がいないと、何を描いても違う気がした」
尚人はうなずいた。
櫂: 「原稿を見ても、ここなら尚人は何て言うかなって考える。面白い場面を思いついても、最初にお前に見せたくなる」
尚人: 「うん」
櫂: 「でも、もう見せられない」
尚人は静かに聞いていた。
櫂: 「それが、つらかった」
尚人: 「……そっか」
櫂: 「お前がいなくなってから、漫画が前と同じものじゃなくなった」
尚人は少し笑った。
尚人: 「それは、そうだろうな」
櫂: 「怒らないの?」
尚人: 「何で?」
櫂: 「俺が漫画を嫌になったこと」
尚人: 「別に。俺がいなくなった後、お前が何を感じるかなんて、俺には決められないだろ」
櫂は顔を上げた。
尚人: 「それに、俺たちが一緒に描いた時間は、ちゃんとあったんだから」
櫂: 「うん」
尚人: 「お前がその後、漫画を描いても描かなくても、あの時間がなくなるわけじゃない」
櫂は静かにうなずいた。
尚人: 「でも、俺が一つだけ嫌なのはさ」
櫂: 「何?」
尚人: 「俺がいなくなったことを、お前が自分の人生を諦める理由にすることかな」
櫂は何も言わなかった。
尚人: 「俺、お前と漫画描くの、楽しかったんだよ」
櫂: 「……うん」
尚人: 「だからって、お前が一生漫画を描き続けなきゃいけないとも思わない」
櫂: 「うん」
尚人: 「ただ、俺がいなくなったからって、お前まで自分の人生を止めなくていいだろ」
櫂は目を伏せた。
櫂: 「……そうだな」
尚人は暁海を見た。
尚人: 「暁海さんも、同じじゃないですか」
暁海は顔を上げた。
尚人: 「櫂のことを忘れなくてもいい。でも、櫂がいなくなった後の人生を、櫂のために止めなくてもいい」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「はい」
尚人は少し笑った。
尚人: 「まあ、俺たちがこんなこと言っても、簡単にはできないでしょうけど」
暁海: 「そうですね」
尚人: 「だから、時間かければいいんじゃないですか」
北原が静かに言った。
北原: 「悲しみには、人それぞれの時間がありますからね」
尚人: 「そうですね」
櫂: 「先生、俺、ずっと思ってたことがあるんです」
北原: 「何でしょう」
櫂: 「俺が病気になったとき、暁海にそばにいてほしかった」
暁海は櫂を見た。
櫂: 「でも、来てくれたら来てくれたで、申し訳なかった」
暁海: 「……うん」
櫂: 「俺の残り時間に、暁海の時間を使わせていいのかなって」
北原は静かに聞いていた。
櫂: 「先生は、どうして暁海を送り出せたんですか」
北原は少し考えた。
北原: 「送り出した、という言い方が正しいかどうか分かりません」
櫂: 「どういうことですか」
北原: 「暁海さんが自分で決めたことですから」
暁海は北原を見た。
北原: 「もちろん、私にも気持ちはありました。心配もしましたし、寂しさもありました」
櫂: 「……はい」
北原: 「でも、彼女の人生を私が決めることはできません」
櫂は黙った。
北原: 「彼女が君のそばにいたいと思った。その気持ちを、私は大切にしたかったんです」
櫂: 「先生……」
北原: 「ただ、それを私の寛大さとして受け取ってほしくはありません」
櫂: 「え?」
北原: 「私も、彼女との関係の中で多くのものを受け取っていました。私だけが何かを与えたわけではないんです」
暁海の目が潤んだ。
北原: 「それに、暁海さんは誰かの所有物ではありませんから」
櫂は少し笑った。
櫂: 「……そうですね」
北原: 「君のものでも、私のものでもない」
櫂はうなずいた。
北原: 「彼女は、彼女自身の人生を生きる人です」
暁海は静かに涙を拭った。
暁海: 「先生」
北原: 「はい」
暁海: 「ありがとうございます」
北原は微笑んだ。
北原: 「こちらこそ」
そのとき、居間から結の声が聞こえた。
結: 「ねえ、みんな! 星がすごいよ!」
結が縁側へ走ってきた。
後ろから菜々、瞳子、志穂、ほのかも出てきた。
菜々: 「結、走ると危ないわよ」
結: 「だって、見て!」
結は空を指さした。
夜空には、無数の星が広がっていた。
結: 「こんなにたくさんあるんだね」
北原: 「そうだね」
結: 「全部、名前があるの?」
北原: 「名前がついている星もあるし、そうでない星もあるよ」
結: 「じゃあ、名前がない星は、誰にも見つけてもらえないの?」
北原は少し考えた。
北原: 「そうとは限らないよ」
結: 「どうして?」
北原: 「名前を知らなくても、きれいだなと思って見上げる人がいるからね」
結は空を見上げた。
結: 「じゃあ、あの星も、誰かが見てるかな」
暁海: 「きっとね」
結: 「遠くの国の人も?」
櫂: 「うん。同じ星を見てる人がいるかもしれないね」
結は嬉しそうに笑った。
結: 「すごいね」
瞳子が静かに言った。
瞳子: 「星って、不思議ね」
ほのか: 「何が?」
瞳子: 「あんなに遠くにあるのに、私たちの目には光が届く」
志穂: 「そうね」
瞳子: 「もう姿を変えてしまった星の光が、長い時間をかけて届くこともあるんでしょう」
北原: 「ええ。星によっては、私たちが見ているのは、ずっと昔に放たれた光です」
結は目を丸くした。
結: 「昔の光?」
北原: 「そうだよ」
結: 「じゃあ、今見えてる星は、昔の星なの?」
北原: 「そういうことになるね」
結はしばらく考えた。
そして、ぽつりと言った。
結: 「じゃあ、昔の光が、今の私たちを照らしてるんだね」
誰もすぐには答えなかった。
暁海は空を見上げた。
櫂も同じ空を見ていた。
櫂: 「……そうだな」
結は嬉しそうに笑った。
結: 「なんか、すてき」
菜々は娘の肩を抱いた。
志穂とほのかも空を見上げていた。
尚人は櫂の肩を軽く叩いた。
尚人: 「お前、いい題名つけたよな」
櫂は少し笑った。
櫂: 「そうかな」
尚人: 「うん」
櫂は暁海を見た。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「俺、最後に一つ聞いていい?」
暁海はうなずいた。
櫂: 「俺と一緒にいた最後の時間、後悔してない?」
暁海は彼を見つめた。
暁海: 「後悔してないよ」
櫂: 「本当に?」
暁海: 「うん」
櫂: 「つらかっただろ」
暁海: 「つらかった」
櫂: 「怖かっただろ」
暁海: 「怖かったよ」
櫂: 「それでも?」
暁海は静かにうなずいた。
暁海: 「それでも、あの時間を櫂と過ごせてよかった」
櫂の目から涙がこぼれた。
櫂: 「……ありがとう」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「櫂こそ、後悔してない?」
櫂は少し考えた。
櫂: 「後悔は、あるよ」
暁海: 「うん」
櫂: 「もっと早く素直になればよかったとか、もっと話せばよかったとか」
暁海: 「うん」
櫂: 「でも、最後にお前と一緒にいられたことは、後悔してない」
暁海はうなずいた。
櫂: 「あの時間があって、よかった」
二人は静かに見つめ合った。
やがて暁海が、小さな声で言った。
暁海: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「私、これからも幸せになっていいのかな」
櫂は驚いたように彼女を見た。
櫂: 「……何言ってるんだよ」
暁海: 「分かってる。そんなこと聞かなくてもいいって」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、聞きたかった」
櫂は少し考えた。
そして、ゆっくり言った。
櫂: 「暁海。俺、お前に幸せになってほしい」
暁海の目に涙が浮かんだ。
櫂: 「でも、それは俺のためじゃない」
暁海: 「……うん」
櫂: 「俺が安心するためでも、俺との約束を守るためでもない」
暁海: 「うん」
櫂: 「お前が、お前の人生を生きてほしいから」
暁海は涙を拭った。
櫂: 「だから、俺に許可を求めるなよ」
暁海は泣きながら笑った。
暁海: 「……うん」
櫂: 「俺がいなくても、楽しいことがあったら笑ってほしい」
暁海: 「うん」
櫂: 「おいしいもの食べて、行きたいところに行って、好きなもの作って」
暁海: 「うん」
櫂: 「誰かを好きになったら、好きになればいい」
暁海は顔を上げた。
暁海: 「……いいの?」
櫂は少し笑った。
櫂: 「だから、俺に聞くなって」
暁海は声を出して笑った。
櫂も笑った。
櫂: 「俺のこと、忘れてもいいよ」
暁海は首を振った。
暁海: 「それは嫌」
櫂: 「そっか」
暁海: 「忘れたくない」
櫂: 「うん」
暁海: 「でも、櫂のことを覚えているために、悲しみ続けるのはやめたい」
櫂は静かにうなずいた。
櫂: 「それでいいと思う」
暁海は空を見上げた。
暁海: 「櫂」
櫂: 「ん?」
暁海: 「私、あなたを愛してた」
櫂は微笑んだ。
櫂: 「知ってる」
暁海: 「今も、愛してる」
櫂の目に涙が浮かんだ。
櫂: 「……うん」
暁海は続けた。
暁海: 「でも、これからの人生も、ちゃんと愛したい」
櫂はゆっくりうなずいた。
櫂: 「うん」
暁海: 「櫂がいない明日も、楽しみにしていいって思いたい」
櫂は笑った。
櫂: 「思えばいいよ」
暁海は首を振った。
暁海: 「ううん」
櫂は少し驚いた。
櫂: 「え?」
暁海は涙を拭い、まっすぐ前を見た。
暁海: 「楽しみにする」
櫂はしばらく彼女を見つめていた。
そして、静かに笑った。
櫂: 「……そっか」
暁海も笑った。
暁海: 「うん」
そのとき、結が暁海の手を引いた。
結: 「暁海さん」
暁海: 「何?」
結: 「あの星、見て」
結が指さした先に、一つの明るい星があった。
結: 「すごくきれいでしょう」
暁海: 「うん。きれいだね」
結: 「私、あの星に名前つけたい」
北原: 「どんな名前?」
結は少し考えた。
結: 「……明日」
暁海は結を見た。
結: 「だって、明日も見られるかもしれないでしょう」
北原は微笑んだ。
北原: 「いい名前だね」
結は嬉しそうに笑った。
結: 「じゃあ、あれは明日の星!」
みんなが空を見上げた。
暁海も、櫂も、北原も、瞳子も、尚人も。
志穂とほのか、菜々と結も。
それぞれが違う人生を歩み、違う痛みを抱え、違う愛を知ってきた人々だった。
誰一人として、完璧な人生を生きたわけではない。
誰一人として、誰も傷つけずに生きてきたわけでもない。
それでも、ここにいる。
同じ空を見上げている。
暁海は、櫂の隣に座り直した。
暁海: 「ねえ、櫂」
櫂: 「何?」
暁海: 「もし、もう一度人生を生きられるなら、また私と出会いたい?」
櫂は少し考えた。
櫂: 「……うん」
暁海: 「本当に?」
櫂: 「うん。でも、今度はもう少し上手にやりたい」
暁海は笑った。
暁海: 「私も」
櫂: 「もっと話して、もっと聞いて、もっと一緒に笑って」
暁海: 「うん」
櫂: 「それでも、きっと間違えるんだろうな」
暁海: 「そうだね」
櫂: 「でも、またお前と出会いたい」
暁海の目から涙がこぼれた。
暁海: 「私もだよ」
櫂は微笑んだ。
櫂: 「じゃあ、よかった」
暁海は彼の肩に、そっと頭を寄せた。
櫂は何も言わなかった。
二人はしばらく、星を見ていた。
やがて、夜風が少し強くなった。
居間の方から、志穂の声が聞こえた。
志穂: 「暁海、そろそろ中に入らない? お茶、入れ直したわよ」
暁海は顔を上げた。
暁海: 「うん。今行く」
櫂が少し笑った。
櫂: 「お母さん、変わったな」
暁海: 「そうだね」
櫂: 「昔なら、寒いから早く入りなさいって言ってた」
暁海: 「うん」
櫂: 「今は、来ないって言っても怒らなさそう」
暁海は微笑んだ。
暁海: 「私も、少し変わったのかもしれない」
櫂: 「どう変わった?」
暁海は少し考えた。
暁海: 「誰かを愛していても、自分の人生を選んでいいって、思えるようになった」
櫂はうなずいた。
櫂: 「いいことじゃん」
暁海は笑った。
暁海: 「うん」
彼女は立ち上がった。
櫂も立ち上がった。
二人は、もう一度だけ星空を見上げた。
櫂: 「暁海」
暁海: 「何?」
櫂: 「明日、何する?」
暁海は少し驚いた。
そして、笑った。
暁海: 「まだ決めてない」
櫂: 「そっか」
暁海: 「でも、楽しみ」
櫂は微笑んだ。
櫂: 「それがいい」
暁海は居間へ向かって歩き出した。
振り返ると、櫂はまだ縁側に立っていた。
夜空を見上げ、静かに笑っている。
暁海は一瞬、彼を呼び止めようとした。
けれど、やめた。
櫂は櫂のままで、そこにいた。
そして、暁海には暁海の明日があった。
彼女はゆっくりと前を向いた。
居間からは、温かいお茶の香りと、人々の笑い声が流れてくる。
結が何かを言い、ほのかが大きな声で笑っている。
志穂が暁海のために湯飲みを一つ用意していた。
北原が彼女に気づき、微笑んだ。
北原: 「お帰りなさい」
暁海は少し驚いた。
その言葉が、胸の奥に静かに届いた。
帰る場所がある。
そして、これから行く場所もある。
暁海は微笑んだ。
暁海: 「ただいま」
彼女は自分の席に座った。
窓の向こうには、満天の星が広がっていた。
遠い星から届く光のように、誰かと過ごした時間は、その人がいなくなった後も、心の中に残ることがある。
しかし、その光だけを見つめ続ける必要はない。
空には、まだ知らない星がある。
人生には、まだ出会っていない人がいる。
まだ見ていない景色がある。
まだ作っていないものがある。
まだ笑っていない明日がある。
暁海は温かいお茶を一口飲んだ。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく言った。
暁海: 「私、これからも生きていくね」
窓の外で、星が静かに輝いていた。
それは何かを許す光でも、誰かの人生を導く光でもなかった。
ただ、そこにある光だった。
暁海はその光を見つめ、微笑んだ。
そして、明日を楽しみに思った。
完
最後に

愛した人と違う未来を生きることは、その人を裏切ることではない
最後に、暁海は櫂に言いました。
「私、これからも生きていくね」
この言葉こそ、今回の架空対話で最も大切にしたかったものです。
なぜなら、暁海がようやく手にしたのは、櫂からの許しではなかったからです。
自分自身の人生を生きていいという、彼女自身の決意でした。
私たちは、愛することと、自分の人生を生きることを、対立するものとして考えてしまうことがあります。
親を愛しているなら、親のそばにいるべきだ。
恋人を愛しているなら、夢より恋人を選ぶべきだ。
結婚したなら、世間が認める夫婦の形を守るべきだ。
大切な人を亡くしたなら、いつまでもその人を思い続けるべきだ。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
今回の対話を通して、五つの大切な発見がありました。
第一に、愛が本物であることと、二人が一緒に生きられることは、同じではありません。
暁海と櫂は、確かに愛し合っていました。
けれど、愛だけでは埋められない距離がありました。家庭の事情、仕事への情熱、経済的な不安、そして自分でもうまく言葉にできない恐れ。
二人が別々の道を歩んだからといって、共に過ごした時間まで失敗になるわけではありません。
愛には、結婚や永遠の約束という形にならなくても、人生に深く残るものがあります。
第二に、親を大切にすることと、親の人生を背負うことは違います。
暁海も櫂も、親の弱さに翻弄されながら育ちました。
子どもは親を愛しているからこそ、親を置いていくことに罪悪感を抱きます。
しかし、親の孤独を埋めることが、子どもの人生の目的になってしまったら。
その愛は、いつか双方を苦しめるかもしれません。
親を見捨てる必要はありません。
ただ、親を愛するために、自分自身を失う必要もないのです。
第三に、家族の価値は、その形だけでは決まりません。
北原と暁海の関係を通して、私たちは「普通の結婚」とは何かを考えました。
恋愛感情の強さだけが、夫婦の絆を測る基準なのでしょうか。
血のつながりや婚姻制度だけが、家族を定義するのでしょうか。
結が描いた「大好きな人たち」という絵には、簡単な答えがありました。
家族の形が違うこと自体を、恥じる必要はありません。
その一方で、どのような関係であっても、そこにいる人々の尊厳、安心、意思が大切にされなければなりません。
自由な関係とは、責任のない関係ではないのです。
第四に、自分の人生を選ぶことは、誰かの痛みに無関心になることではありません。
櫂は漫画を描きたかった。
暁海は自分の生活を守りたかった。
どちらの願いにも意味がありました。
けれど、二人は互いを傷つけました。
だからといって、夢を追ったことや島に残ったことのすべてが、間違いだったとは言えません。
大切なのは、自分の選択によって生まれた痛みから目をそらさないこと。
そして、後悔があるからといって、自分の人生そのものを否定しないことです。
人生は、何度も描き直せる漫画の原稿ではありません。
それでも、描き終えたページの中に、美しかった瞬間を見つけることはできます。
第五に、大切な人を失っても、自分の人生を愛し続けていいのです。
今回、最も胸に残ったのは、櫂を失った後の暁海の葛藤でした。
悲しみが薄れていくことへの罪悪感。
笑えるようになった自分への戸惑い。
大切な人の声や表情を忘れてしまうことへの恐れ。
愛する人を亡くした経験がある方なら、どこかに心当たりがあるかもしれません。
けれど、誰かを覚えていることと、悲しみ続けることは同じではありません。
亡くなった人との時間は、その人を毎日思い出さなければ消えてしまうような、弱いものではないはずです。
その人から教わったこと。
一緒に笑った記憶。
あの人と出会ったからこそ選んだ道。
それらは、私たちの生き方の中に残っていきます。
ただし、死や別れを美しい教訓に変える必要はありません。
暁海が言ったように、どんな成長よりも、櫂が生きていてくれた方がよかった。
その気持ちも、また本物なのです。
悲しみを無理に意味づけなくてもいい。
前向きになれない日があってもいい。
そして、いつか笑える日が戻ってきたなら、その笑顔を責める必要もありません。
この物語を振り返ると、私は一つのことを考えます。
私たちは、過去の自分に対して、あまりにも厳しくなってしまうことがあるのではないでしょうか。
あのとき、もっと勇気があれば。
もっと優しくできていれば。
もっと早く本当の気持ちを伝えていれば。
そんな思いは、誰の人生にもあるでしょう。
しかし、今の自分が知っていることを、当時の自分はまだ知りませんでした。
あの頃の私たちは、あの頃の知識と経験と恐れの中で、必死に選んでいたのです。
もちろん、間違いを認めることは必要です。
傷つけた相手に謝ることも、償えることがあるなら償うことも、大切でしょう。
それでも、過去の選択を悔やむことと、過去の自分を一生罰し続けることは違います。
暁海も櫂も、完璧な人生を生きたわけではありませんでした。
けれど、二人が出会ったことには意味がありました。
一緒に過ごした時間には、喜びがありました。
そして、別々の道を歩むことになっても、その時間は二人の人生の一部であり続けました。
愛した人の人生を、自分のものにすることはできません。
それでも、その人と過ごした時間は、自分の人生の一部として生き続けます。
『汝、星のごとく』という題名を思うとき、私は、夜空に輝く無数の星を想像します。
星は、それぞれ違う場所にあります。
同じ速さで動くわけでも、同じ明るさで輝くわけでもありません。
それでも、遠く離れた星の光が、私たちのもとへ届くことがあります。
人と人との出会いも、少し似ているのかもしれません。
愛する人と同じ場所にいなくても。
もう二度と会えなくても。
その人と過ごした時間が、今の自分を支えてくれることがあります。
そして、ここで忘れたくないことがあります。
あなた自身も、一つの星だということです。
誰かを照らすためだけに生まれたのではありません。
誰かの期待に応えるためだけに、生きているのでもありません。
あなたには、あなた自身の人生があります。
行ってみたい場所があるなら、行ってもいい。
始めたいことがあるなら、始めてもいい。
もう一度誰かを愛したくなったなら、愛してもいい。
そして、まだ悲しみの中にいるなら、急いで立ち直らなくてもいい。
大切な人を愛したまま、自分の人生を生きていく。
それは矛盾ではないのです。
最後に、読者の皆さんへ、一つだけ問いかけたいと思います。
もし、あなたがもう一度自分の人生を選べるとしたら、誰の許しを待つことなく、何を始めたいですか。
答えは、今日すぐに見つからなくても構いません。
けれど、いつかその答えが見つかったときには、どうか自分自身の気持ちを大切にしてください。
夜空には、まだ知らない星があります。
そして、あなたの人生には、まだ出会っていない明日があります。
Short Bios:
井上暁海(いのうえ・あきみ)
瀬戸内海の島で育った女性。複雑な家庭環境の中で、母親への責任と自分自身の人生との間で揺れ動く。櫂との出会いによって愛する喜びを知り、刺繍を通して自分の世界を築いていく。物語の中心にあるのは、彼女が誰かのためだけではなく、自分自身の人生を選べるようになるまでの歩みである。
青埜櫂(あおの・かい)
暁海と同じく、家庭の問題を抱えて育った青年。漫画の世界に情熱を注ぎ、東京で夢を追いかける。暁海を深く愛しながらも、仕事や生活の変化の中で、二人の関係を守る難しさに直面する。才能、情熱、弱さ、後悔を併せ持つ人物。
北原先生(きたはらせんせい)
暁海の人生に深く関わる教師。世間一般の恋愛観や結婚観だけでは説明できない、人と人との信頼や家族のあり方を考えさせる存在。今回の架空対話では司会を務めるが、自身の選択についても登場人物たちから問いかけられる。
植木瞳子(うえき・とうこ)
暁海にとって、自分らしく生きる可能性を示す大切な人物。既成の価値観にとらわれず、女性が自分の力で人生を切り開くことの意味を伝える。今回の対話では、自由と責任、愛と依存の違いを考えるうえで重要な役割を担う。
志穂(しほ)
暁海の母親。自身の孤独や恋愛、生活上の不安によって、娘の人生に大きな影響を与える。単純な善悪では捉えられない親子関係を象徴する人物。今回の対話では、母親自身の弱さと、子どもを愛することの難しさにも目を向ける。
ほのか
櫂の母親。恋愛や生活の変化によって息子を不安定な状況に置くことがあり、櫂の人生観にも影響を与える。今回の対話では、親もまた孤独や不安を抱える一人の人間であることを描く。
久住尚人(くずみ・なおと)
櫂の漫画制作に関わる大切な仲間。創作の喜びと苦しみを分かち合う存在であり、櫂にとって仕事上のパートナーであると同時に、かけがえのない友人でもある。今回の対話では、成功することと、自分の好きなものを大切にすることの違いを問いかける。
菜々(なな)
北原の家族に関わる人物。今回の架空対話では、一般的な家族像に収まらない関係の中で、親としての責任や子どもの安心について考える役割を担う。
北原結(きたはら・ゆい)
北原の娘。今回の架空対話では、大人たちが複雑に考えすぎてしまう「家族」の意味を、子どもらしい率直な言葉で問い直す。彼女が描いた「大好きな人たち」という絵は、第三の対話を象徴する場面となった。

Leave a Reply